続編3

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「」を確認する。

 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


関連サイト 原書研究 衝撃の誤訳指摘
【サイトアップ協力者求む】 文意の歪曲改竄考

【続編3第七章】
 家の内をくま)なく尋ぬれどもあらず、さては今にも何処いづこよりか帰来かへりこんと待てど暮せど、姿をくらませし貫一は、我家ながらも身をるる所なき苦紛くるしまぎれに、裏庭の木戸よりかさ※(「敬/手」、第3水準1-84-92)さで忍び出でけるなり。されど唯一目散にのがれんとのみにて、にはかに志すかたもあらぬに、生憎あやにく降頻ふりしきる雨をば、からくも人の軒などにしのぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節をりふし通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、そこ躍入をどりいりけり。

 客は三組ばかり、おのおの静に窓前の竹の清韻せいいんを聴きて相対あひたいせる座敷の一間ひとま奥に、あるじ乾魚ひものの如き親仁おやぢの黄なるひげを長くはやしたるが、兀然こつぜんとしてり盤をきゐる傍に通りて、彼はれたるきぬあぶらんと火鉢に寄りたり。あやしみ問はるるにはくも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波なごりは今もとどろく胸の内にしたた思回おもひめぐらして、又しんいたみ、こんは驚くといへども、我やいかるべき、事やあはれむべき、るひは悲むべきか、恨むべきか、そもそも喜ぶべきか、慰むべきか、彼は全く自ら弁ぜず。五内ごないすべて燃え、四肢ししただちに氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶はんもんとは新にきたりて彼を襲へるなり。

 
あるじは貫一が全濡づぶぬれの姿よりも、更に可訝いぶかしきその気色けしきに目留めて、問はでも椿事ちんじのありしを疑はざりき。ここまで身はのがれ来にけれど、なかなか心安からで、両人ふたり置去おきざりし跡は如何、又我がんやうは如何など、彼は打惑へり。沸くが如きその心のさわがしさには似で、小暗をぐらき空に満てる雨声うせいを破りて、三面の盤の鳴る石は断続してはなはだ幽なり。あるじはこの時窓際まどぎは手合観てあはせみに呼れたれば、貫一は独り残りて、未だたもとかざしつつ、いよいよ限りなく惑ひゐたり。にはかに人の騒立つるにおどろきて顔をあぐれば、座中ことごとくびを延べておのかたを眺め、声々に臭しとよばはるに、見れば、吾が羽織のはしは火中に落ちて黒煙くろけふりを起つるなり。ぢき揉消もみけせば人はしづまるとともに、彼もまたさきの如し。
 少頃しばし)ありて、かど入来いりきし女のおとなふ声して、「宅の旦那だんな様はもしや這裡こちらへいらつしやりは致しませんでたらうか」。主はたちまひげおとがひめぐらして、「ああ、奥においでで御座いますよ」。豊かと差覗さしのぞきたる貫一は、「おお、傘を持つて来たのか」。「はい。こちらにおいでなので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」。「さうか。客は帰つたか」。「はい、とうにおになりまして御座います」。「四谷のも帰つたか」。「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰おつしやいまして」。「居る?」。「はい」。「それぢや見付からんと言つてけ」。「ではお帰りに成りませんので?」。「も少しつたら帰る」。「ぢきにもうお中食ひるで御座いますが」。「いから早く行けよ」。「だ旦那様は朝御飯も」。「よいと言ふに!」。老婢は傘と足駄あしだとを置きて悄々すごすご還りぬ。程なく貫一も焦げたるたもとを垂れて出行いでゆけり。

 彼はこの情緒のはげしく紛乱せるに際して、可煩わづらはしき満枝に※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつはらるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去かへりさらん後まではして還らじと心を定めて、既に所在ありかを知られたる碁会所を立出たちいでしが、いよいよ指して行くべきかたはあらず。はや正午と云ふにいまだ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何んとするにかあらん、猶降りに降る雨の中を茫々然ぼうぼうぜんとしてさまよへり。初夏の日は長かりけれど、わづかに幾局の勝負を決せし盤の上には、ほとんど惜き夢の間にれて、折から雨もれたれば、好者すきものどももつひ碁子きしをさめて、惣立そうだちに帰るをあたかも送らんとする主の忙々いそがはしともすころなり、貫一の姿は始めて我家のかどあらはれぬ。

 彼は内にるより、「飯を、飯を!」とをんなしつして、と奥の間の紙門ふすまひらけば、何ぞ図らん燈火ともしびの前に人の影あり。彼は立てるままに目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりつ。されど、その影は後向うしろむきに居て動かんともず。満枝はいまだ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女はなほ殊更ことさらに見向かぬを、此方こなたもわざとことばを掛けずして子亭はなれに入り、豊を呼びて衣をへ、ぜんをもそこに取寄せしが、何とか為けん、必ず入来いりくべき満枝の食事ををはるまでも来ざるなりき。かへりて仕合好しあはせよしと、貫一は打労うちつかれたる身をのびやかに、障子の月影に肱枕ひぢまくらして、しばら喫烟きつえんふけりたり。

 あへて恋しとにはあらねど、苦しげにやつれたる宮が面影おもかげの幻は、かしらめぐれる一蚊ひとつかの声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出おもひいでらるれば、なほ往きかねて那辺そこらに忍ばずやと、風の音にも幾度いくたびかしらを挙げし貫一は、婆娑ばさとして障子にるる竹の影を疑へり。宮は何時いつまでここにあらん、我は例のひとりなり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死をゆるさざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又あやしきまでに貫一はわびしくて、そのき難きうらみに加ふるに、或る種のあはれに似たる者あるを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺うちながめて、ひとの憎しとよりはうたみづからを悲しと思続けぬ。彼はつひに堪へかねたる気色けしきにて障子を推啓おしあくれば、すずしき空に懸れる片割月かたわれづき真向まむきに彼のおもてに照りて、彼の愁ふるまなこは又したたかにその光を望めり。
 「間さん」。居たるを忘れし人の可疎うとましき声に見返れば、はや背後うしろに坐れる満枝の、常は人を見るに必ずゑみを帯びざるなき目の秋波しほかわき、顔色などはことれて、などかくは浅ましきと、心陰こころひそかに怪む貫一。「ああ、まだ御在おいででしたか」。「はい、居りました。お午前ひるまへからお待ち申してをりました」。「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」。「急な用がなければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」。語気のにはか※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげしきをおどろける貫一は、く女の顔を見遣みやるのみ。「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。とん御娯おたのしみのお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」。その眼色まなざしうらみきつさきあらはして、男の面上を貫かんとやうにきびしく見据ゑたり。

 貫一は苦笑して、「貴方あなたは何を※(「言+荒」の「亡」に代えて「氓のへん」、第4水準2-88-68)ばかな事を言つてゐるのですか」。「今更お※(「广+諛のつくり」、第3水準1-84-13)かくしなさるには及びませんさ。若い男と女が一間ひとまに入つて、取付とつつ引付ひつつきして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳ななつ八歳やつの子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつてぢきに解りませうでは御座いませんか。爾後それから貴方がお出掛になりますと私ぢきにここのお座敷へ推掛おしかけて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」。くどしと聞流せし貫一も、ここに到りて耳をそばだてぬ。「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰おつしやらなくてもよささうな事までお話をなさいますので、それは随分聞難ききにくい事まで私伺ひました」。為失しなしたりと貫一はひそか術無じゆつなこぶしを握れり。

 満枝は
なほも言足らで、「しかし、間さん、さすがに貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯おたのしみにお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者いつこくものだ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠ひしかくしに隠し通してゐらしつたお手際てぎはには私実に驚入つて一言いちごんも御座いません。能くすごいとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」。「もうつまらん事を……、貴方何ですか」。「お口ぢやさう有仰おつしやつても、実はおうれしいので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにもこひしくてゐらつしやるのですかね」。されば我が出行いでゆきしあとをこそ案ぜしに、果してかかる※(「薛/子」、第3水準1-47-55)わざはひは出で来にけり。由無よしなき者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼こころくぐまりつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方こなたより熟々つくづく見透みすかして目も放たず。

 「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでもよろしいでは御座いませんか。ああ云ふおうつくしいのを御覧に成つた後では、私如き者には口をおきに成るのもお可厭いやなのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決してくどい事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、どうかそれだけいはして下さいまし」。貫一はひややかに目をうつして、「何なりと有仰おつしやい」。「私もう貴方を殺して了ひたい!」。「何です※(疑問符感嘆符、1-8-77)」。「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」。「それもよいでせう。よいけれど何でが貴方に殺されるのですか」。「間さん、貴方はその訳を御存無ごぞんじないと有仰おつしやるのですか、どの口で有仰るのですか」。「これはけしからん! 何ですと」。「怪からんとは、貴方もあんまりな事を有仰るでは御座いませんか」。既に恨み、既にいかりし満枝のまなこは、ここに到りて始て泣きぬ。いとあるまじく思掛けざりし貫一はむし可恐おそろしとおもへり。「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければきません」。「貴方を何日いつ私が憎みました。そんな事はありません」。「では、何で怪からんなどと有仰おつしやいます」。「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳があるとは。私はして貴方に殺されるおぼえはない」。満枝は口惜くちをしげにかしらりて、「あります! 立派にあると私信じてをります」。「貴方がで信じても……」。「いいえ、独りであらうが何であらうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」。「私を殺すと云ふのですか」。「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」。「はあ、承知しました」。
 いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情ふぜいそはりけれど、軒端のきばなる芭蕉葉ばしようば露夥つゆおびただしく夜気の侵すにへで、やをら内に入りたる貫一は、障子をててあかうし、ことさらに床の間の置時計を見遣りて、「貴方、もうお帰りに成つたがよいでせう、余りおそくなるですから。ええ?」。「はばかり様で御座います」。「いや、御注意を申すのです」。「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」。「ああ、さうですか」。「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何ですか」。憎さげに言い放ちて、彼は吾矢の立つをんとやうに、しばらく男の顔色をうかがひしが、「一体あれは何者なので御座います!」。犬にも非ず、猫にも非ず、なんぢに似たる者よと思ひけれど、言争いひあらそはんは愚なりと勘弁して、彼はわづかに不快の色をせしのみ。満枝は益す独りれて、「ふるいお馴染なじみださうで御座いますが、あの恰好かつこうは、商売人ではなし、万更の素人しろうとでもないやうな、貴方も余程よつぽど不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。しかし、間さん、あれは主有ぬしある花で御座いませう」。みだりに言へるならんとおもへど、如何にせん貫一が胸はひそかとどろけるを。「どうですか、なあ」。「さう云ふ者を対手あひてに遊ばすと、べつしておしみが深いとか申しますが、そのかはりに罪も深いので御座いますよ。貴方が今日こんにちまでたくみに隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余りおほやけに御自慢はできん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤ごもつともで御座います。その大事の秘密を、人もあらうに、貴方のきらひの嫌ひの大御嫌だいおきらひの私に知られたのは、どんなにかお心苦こころくるしくゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。しかし私に取りましては、これ程さいはひな事はないので御座います。貴方が余り片意地にひとを苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召おぼしめしてゐらつしやい!」。

 聞訖ききをはりたる貫一は吃々きつきつとして窃笑せつしようせり。「貴方は気でも違ひはんですか」。「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違きちがひにはすつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅にあがつて気が違つたのですから、元の正気になほしてお還し下さいまし」。彼は擦寄すりより、擦寄りて貫一の身近にせまれり。浅ましく心苦かりけれどぐべくもあらねば、臭き物に鼻をおほへる心地しつつ、貫一は身をそばめ側め居たり。満枝はなほも寄添はまほしき風情ふぜいにて、「就きましては、私一言いちごん貴方に伺ひたい事があるので御座いますが、これはどうぞ御遠慮なく貴方の思召す通りをちやん有仰おつしやつてお聞せ下さいまし、よろしう御座いますか」。「何ですか」。「なんですかでは可厭いやです、よろしいと截然きつぱり有仰おつしやつて下さい。さあ、さあ、貴方」。「けれども……」。「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方はいつも気のない返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それでよろしいのですから」。「勿論もちろん答へます。それは当然あたりまへの事ぢやないですか」。「それが当然あたりまへでなく、極打明けて少しもつつまずに言つて戴きたいのですから」。

 善
よし
と貫一はうなづきつ。「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方あなたは私を※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさい奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏つきまとつてゐるのは、自分の口から箇様かような事を申すのも、はなは可笑をかしいので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何に思つてをりましたところが、元来もともと私と云ふ者をきらひ抜いて御在おいでなのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画かずかくよりもはかなきは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなふ事は到底ないので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりはあきらめられんので御座います。こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存ごぞんじでゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解わかりに成つてゐるで御座いませう」。「さうですな……そりやあるひはさうかも知れませんけれど……」。「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、るひはもさうかもないでは御座いませんか! さもなければ、私何も貴方に※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさがられる訳は御座いませんさ、貴方も私を※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさいと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠しつこくて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしておいでのでは御座いませんか」。「それはさう謂へばそんなものです」。「貴方から嫌はれ抜いてゐるにもかかはらず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」。「さう」。「で、私従来これまでに色々申上げた事が御座いましたけれど、ちよつとでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟りくつから申せば、無理なお願いかも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところがあつて、して貴方の有仰おつしやるやうな道にはづれた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、そこに理窟も何もあるのでは御座いません。究竟つまり貴方がそれを口実にしてげてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。しかし、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成る程儀剛ぎごはな片意地なところもおあんなすつて、色恋の事なんぞには貪着とんちやくを遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固がんこなのを私歯痒はがゆいやうに存じてをつたので御座います……ところが!」。
 と言ひもへず煙管きせるを取りて、彼は貫一の横膝よこひざをば或る念力ねんりき強くしたたか推したり。「何をなさるのです!」。払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るをさいはひに満枝は又打ちかかる。こは何事とおどろける貫一は、身をさくいとまもあらず三つ四つ撃れしが、つひに取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯うつぷしに引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼のももあたり咬付かみついたり。けしからぬ女かな、といかりの余に手暴てあら捩放ねぢはなせば、なほからくもすがれるままにおもて擦付すりつけて咽泣むせびなきに泣くなりき。

 貫一は唯不思議の為体ていたらくあきれ惑ひてことばでず、やうやく泣ゐる彼を推斥おしのけんとしたれど、にかはの附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿うるほひ単衣ひとへとほして、この難面つれなき人のはだへみぬ。捨て置かば如何に募らんも知らずと、貫一は用捨なく※放もぎはな[#「(夕+匕)/手」、376-12]して、起たんと為るを、彼はすかさず※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつはりて、又泣顔を擦付すりつくれば、こらへかねたる声を励す貫一、「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」。「…………」。「さうして早くお帰りなさい」。「帰りません!」。「帰らん? 帰らんけりやよろしい。もう明日あすからは貴方のここへ足蹈あしぶみのできんやうにしてしまふから、さうお思ひなさい」。「私死んでも参ります!」。「今まで我慢をしてゐたですけれど、もうはふつて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」。満枝は始めて涙にうるほへる目を挙げたり。「はあ、お話し下さい」。「…………」。「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」。貫一は歯を鳴して急上せきあげたり。「貴方は……実に……驚入おどろきいつた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」。「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」。「けしからん!」。

 彼は憎き女の
頬桁ほほげたをば撃つて撃つて打割うちわあたはざるをうらみなるべし。「さだめてあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、してさやうでは御座いませんです」。「そんならなんですか」。「往日いつぞやもお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私のかたきも同然なので。成る程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いたかたれて騒ぐ分は、一向差支さしつかへのない独身ひとりみも同じので御座います。間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方がないから、内の御膳炊ごぜんたきに貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰おつしやつて下さいまし。私とよの手伝いでも致して、こなたに一生奉公を致します。貴方は大方赤樫に言ふと有仰おつしやつたら、震へ上つて私がこはがりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、むしろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方にれるで御座いませう」。
 貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝もしかこそはあきれつらんと思へば、「それは実際で御座いますの。もし話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私をとほざけやう為に、お話をなさるのなら、徒爾むだな事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私ちよつともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召おぼしめすものなら、物はためしで御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふぬし)ある婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引あひびきしてゐらつしやる事を触散ふれちらしますから、それで何方どちらが余計迷惑するか、比較事くらべつこを致しませう。如何で御座います」。「男勝をとこまさりの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」。「何で御座います?」。「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それがただちに逢引あひびきですか。又妙齢としごろの女でさへあれば、必ず主あるにきまつてゐるのですか。浅膚あさはかな邪推とは言ひながら、人をふるも太甚はなはだしい! 失敬千万な、気を着けて口をおきなさい」。「間さん、貴方、ちよつ此方こちらをお向きなさい」。手を取りて引けば、振釈ふりほどき、「ええ、もう貴方は」。「お※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさいでせう」。「勿論もちろん」。「私向後これからもつと、もつともつと※(「勞/心」、第4水準2-12-74)くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰おつしやつたので御座います、浅膚あさはかな邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をおき遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為なぜ立派に、その通だ。情婦をんながあるのがどうしたと、かう打付ぶつつけて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利はない女なので御座いますよ。幾多いくらさう云ふ権利を有ちたくても、有つ事ができずにゐるので御座います。それに、何も私の前をはばかつて、さうむきに成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。私実を申しませうか、箇様かようなので御座います。貴方が余所外よそほかにまだ何百人愛してゐらつしやるかたがありませうとも、それで愛相あいそつかして、貴方の事を思い切るやうな、私そんな浮気な了簡りようけんではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密をもらしましたところで、※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはない願いが※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯ひきような女ではないつもりで御座います。世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれはほんのその場の憎まれ口で、私してそんな心は微塵みじんもないので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通りおわびを致します」。

 満枝は惜まず身をくだして、彼の前にかしらぐる可憐しをらしさよ。貫一は如何にともる能はずして、ひそかかうべいたり。「きましては、私今から改めて折入つた御願があるので御座いますが貴方も従来これまでの貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのおことば次第で、私もう断然何方どちらに致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方もどうか歯にきぬを着せずに、お心にある通りをそのまま有仰つて下さいまし。よろしう御座いますか。今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存ごぞんじでゐらつしやるのです。従来これまでも随分くどく申上げましたけれど、貴方は一図に私をおひ遊ばして、ちよつとでも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなにはれてゐるのですから、私もさう何時まで好いはぢを掻かずとも、早く立派に断念して了へばいのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子をんなにしては極未練のない方で、手短に一かばちか決して了ふがはなので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為なぜかう意気地がなからうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふはない積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。ですから、唯その胸のうちだけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟つまり貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方いたしかたもありませんが、そんなにれてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何にも不敏ふびんな者だと、たとひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。御自分がく思召すのも、人が恋いのも、恋いにかはりはないで御座いませう。して、貴方、片思に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束ふつつかな者でも、同じに生れた人間一人いちにんが、貴方の為にはまる奴隷のやうに成つて、しかも今貴方のおことば一言ひとこと聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。そこをお考へ遊ばしたら、如何に好かん奴であらうとも、しづくぐらゐのなさけは懸けてらう、と御不承ができさうな者では御座いませんか。私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのおことばを、唯一言ひとことで宜いのですから、今までのお馴染効なじみがひにどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」。
 終に近く益すふるへる声は、つひ平生へいぜい調ちようをさへ失ひて聞えぬ。彼はまさしくその一言いちごんの為には幾千円の公正証書を挙げて反古ほぐに為んも、なかなかをしからぬ気色を帯びてせまれり。息はり、おもて打蒼うちあをみて、そのそでよりはつるぎいださんか、その心よりはいださんか、と胸跳むねをどらせて片時へんじも苦く待つなりき。切なりと謂はばきはめて切なる、可憐しをらしと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、おのれを愛するのただちに蛇蝎だかつに親まんや、とかへりてその執念をば難堪たへがたく浅ましと思へるなり。されど又情として※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげしく言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩うちなやめるしひひらかせつつ、「さうして貴方が満足するやうな一言いちごん?……どう云ふ事を言つたらよいのですか」。「貴方もまあ何を有仰おつしやつてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事をひとにお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」。「それはさうですけれど、私にも解らんから」。「解るも解らんもないでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上にげこうじよう有仰おつしやらうとなさるから、急に御考もないので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外にはありは致しませんわ」。「いや、それなら解つてゐます……」。「解つてゐらつしやるならちよつ有仰おつしやつて下さいましな」。「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話のあつたやうな訳であるから、とにかくその心情は察してもよからう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶あいさつをしてくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程むづかしい、別にどうも外に言ひ様もないですわ」。「まあ何でもよろしう御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」。「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」。「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」。「貴方の思召おぼしめしは実に難有ありがたいと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」。「間さん、きつとで御座いますか、貴方」。「勿論です」。「きつとで御座いますね」。「相違ありません!」。「きつと?」。「ええ!」。「その証拠をお見せ下さいまし」。「証拠を?」。 「はあ。口頭くちさきばかりでは私可厭いやで御座います。貴方もあれ程有仰おつしやつたのですから、万更心にない事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠がある訳です。その証拠を見せて下さいますか」。「みせられる者なら見せますけれど」。「見せて下さいますか」。「見せられる者なら。しかし……」。「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」。驚破すはや、障子を推開おしひらきて、貫一は露けき庭にをどり下りぬ。つとそのあとあらはれたる満枝のおもては、ななめ葉越はごしの月のつめたき影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。

第八章
 家の内にはおのれ老婢ろうひとのほかに、今客もあらざるに、女の泣く声、ののしる声の聞ゆるははなは謂無いはれなし、我、或るひは夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一はせるかしらもたげて耳を澄せり。その声は急にさわがしく、相争あひあらそ気勢けはひさへして、はたはたと紙門ふすまひしめかすは、いよいあやしと夜着よぎ排却はねのけて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るるとひとしく、二人の女の姿は貫一が目前めさきまろでぬ。さいなまれしと見ゆるかたの髪は浮藻うきもの如く乱れて、着たるコートはしづくするばかり雨にれたり。その人は起上りさまに男の顔を見て、うれしや、可懐なつかしやと心もそらなる気色けしき。「貫一かんいつさん」とひ寄らんとするを、薄色魚子うすいろななこの羽織着て、夜会結やかいむすびたる後ろ姿の女はをどかかつて引据ひきすうれば、「あれ、貫、貫一さん!」。すくひを求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生しちしようまでその願いは聴かじとしりぞけたる満枝の、我のつらさを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊なほあきたらで我が前に責むるかと、貫一はこらへかねてふるひゐたり。

 満枝は
ほしいままに宮をとらへてちとも動かせず、しづかに貫一を見返りて、「はざまさん、あなたのお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」。頸髪取えりがみとつて宮がおもてを引立てて、「この女で御座いませう」。「貫一さん、くやしう御座んす。この人は貴方の奥さんですか」。「奥さんならどうしたのですか」。「貫一さん!」。彼は足擦あしずりして叫びぬ。満枝はただちに推伏おしふせて、「ええ、やかましい! 貫一かんいちさんはそこに一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事があるのですから、少し静にして聴いておいでなさい。間さん、私想ふのですね、究竟つまりかう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私のことは取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がおあり遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所よそへ嫁に入つてしまつたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方もあんまり男らしくなくておいでなさる。それは如何にお可愛かはいいのか存じませんけれど、一旦愛相あいそつかしてげて行つた女を、いつまでも思込んで遅々ぐづぐづしてゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺さしころしてしまふのです」。
 宮は跂返はねかへさんとしが、又おさへられて声も立てず。「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰おつしやいましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為なぜこんな淫乱人非人にんぴにん阿容おめおめけてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分いちぶんが立たんで御座いませう。何為なぜ成敗は遊ばしません。さあ、私してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。いざと云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損しそんじのないやうに、私刃物きれものをお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」。彼のふところを出でたるは蝋塗ろぬりきらめ一口いつこうの短刀なり。貫一はその殺気にうたれて一指をも得動かさず、まなこかがやかして満枝のおもてにらみたり。

 宮ははや気死せるか、
推伏おしふせられたるままに声もなし。「さあ、私かうして抑へてをりますから、のどなり胸なり、ぐつと一突ひとつきつておしまひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々ぐづぐづしてゐらつしやるのです。刀の持様もちやうさへ御存じないのですか、かうして抜いて!」と片手ながらに一揮ひとふりれば、さや発矢はつしと飛散つて、電光たもとめぐ白刃しらはの影は、たちまひるがへつて貫一が面上三寸の処に落来おちきたれり。「これで突けばいのです」。「…………」。「さては貴方はこんな女にだ未練があつて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事ができんのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作もない事。ちよつと御覧あそばせな」。
 言下ごんか勿焉こつえんと消えしやいばの光は、早くも宮が乱鬢らんびんかすめてあらはれぬ。※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと貫一のさけぶ時、いしくも彼は跂起はねおきざまに突来るきつさきあやふはづして、「あれ、貫一さん!」と満枝の手首にすがれるまま、一心不乱の力をきはめて捩伏ねぢふ捩伏ねぢふせ、仰様のけざま推重おしかさなりてたふしたり。「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思ひとおもひに殺して下さい!」。

 この恐るべき危機にひんして、貫一は謂知いひしらず自らあやしくも、あへすくひの手をさんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、もだえに悶えゐたり。必死と争へる両箇ふたりが手中のやいばは、るひは高く、或るいは低く、右に左に閃々せんせんとして、あたかも一鉤いつこうの新月白く風の柳をふに似たり。「貫一さん、貴方は私を見殺になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのはい! 悔い※(感嘆符二つ、1-8-75) 私は悔い※(感嘆符二つ、1-8-75)」。彼は乱せる髪を夜叉やしやの如く打振り打振り、五体ごたいみて、の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これもきずつけじと、貫一が胸は車輪のめぐるがごとくなれど、如何にせん、その身は内より不思議の力に緊縛きんばくせられたるやうにて、はやれど、あせれど、寸分の微揺ゆるぎを得ず、せめては声を立てんと為れば、のんどは又ふさがりて、銕丸てつがんふくめるおもひ。力も今は絶々に、はやあやふしと宮は血声を揚げて、「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」。

 又激しく捩合ねぢあ郤含はずみに、短刀は戞然からりと落ちて、貫一が前なる畳に突立つつたつたり。宮はすかさずをどかかりて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔おしへだつるわきの下より後突うしろづきに、※(「木+覊」の「馬」に代えて「月」、第4水準2-15-85)つかとほれと刺したる急所、一声さけびて仰反のけぞる満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目もれ、心も消ゆるばかりなり。宮はひしと寄添ひて、「もうこの上はどうで私はない命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方にゆるされた積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍かんにんして、今までの恨ははらして下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替いきかはり死替しにかはりして七生しちしようまで貫一さんをうらみますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏をとなへて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」。

 あけに染みたる白刃しらはをば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐なつかしこぶし頻回あまたたび頬擦ほほずりしたり。「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることはないのですから、せめて一遍の回向えこうをして下さると思つて、今はのきは唯一言ただひとこと赦して遣ると有仰おつしやつて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑おわびが為たいばかりなのですから、貫一さん、既往これまでの事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん! 今思へばあの時の不心得が実にくやしくて悔くて、私は何とも謂ひやうがない! 貴方が涙をこぼして言つて下すつた事も覚えてゐます。後来のちのちきつと思中おもひあたるから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為なぜあの時に些少すこしでも気が着かなかつたか。な自分を責めるより外はないけれど、死んでもこんな回復とりかへしの付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方のばちあたつたわ! 私は生きてゐるそらがない程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。さうしてとてもこの罰の中つたからだでは、今更どうかうと思つても、願なんぞの※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなふと云ふのは愚な事、だまだ憂目うきめを見た上に思死おもひじにに死にでもしなければ、私のごうめつしないのでせうから、この世に未練は沢山あるけれど、私は早く死んで、この苦艱くげんめて了つて、さうして早く元のきよからだに生れかはつて来たいのです。さうしたら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦かんなんしんくをしても、きつと貴方に添遂そひとげて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いていただき、又この世で為遺しのこした事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にもよろこばれ、自分もうれしい思をして、この上もない楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。人は最期さいごの一念でしようを引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮おもひつめて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」。
 声震はせてすがると見れば、宮は男のひざの上なるきつさき目掛けて岸破がばと伏したり。「や、つたな!」。貫一が胸はつんざけて始めてこの声をいだせるなり。「貫一さん!」。無残やな、振仰ぐ宮がのんどは血にまみれて、やいばを貫けるなり。彼はその手を放たで苦きまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらきつつ、男の顔をんとするを、貫一は気もそぞろ引抱ひつかかへて、「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」。大事の刃を抜取らんとすれど、一念りてちとゆるめぬ女の力。「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為なぜ放さんのだ」。「貫、貫一さん」。「おお、何だ」。「私は嬉い。もう……もう思遺おもひのこす事はない。堪忍して下すつたのですね」。「まあ、この手を放せ」。「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、ゆるすと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」。血は滾々こんこんと益す流れて、末期まつごの影は次第にくらせまれる気色。貫一は見るにもへず心乱れて、「これ、宮、確乎しつかりしろよ」。「あい」。「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」。「貫一さん!」。「宮!」。「嬉い! 私は嬉い!」。

 貫一は唯胸も張裂けぬべく覚えて、
ことばでず、いだめたる宮が顔をばはふり下つる熱湯の涙に浸して、その冷たきむさぼひぬ。宮は男のつばき口移くちうつしからくものどうるほして、「それなら貫一さん、私は、ああいから、もうこれで一思ひに……」と力をいだしてえぐらんとするを、しかと抑へて貫一は、「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」。「いいえ、止めずに」。「待てと言ふに」。「早く死にたい!」。やうやく刀を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もぎはなせば、宮はたちまち身をかへして、けつころびつ座敷の外にのがれ出づるを、「宮、どこへ行く!」。

 らじとべしかひなおよばず、いらつて起ちし貫一は唯一掴ひとつかみと躍りかかれば、生憎あやにく満枝が死骸しがいつまづき、一間ばかり投げられたる其処そこの敷居に膝頭ひざがしらを砕けんばかり強く打れて、※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめりしままに起きも得ず、身をすくめてうめきながらも、「宮、待て! 言ふことがあるから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」。呼べどさけべど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅の如くいかりて起ちしが、又たふれぬ。仆れしを漸く起回おきかへりて、忙々いそがはし四下あたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはせど、はや宮の影はあらず。その歩々ほほおとせし血は苧環をだまきの糸を曳きたるやうに長くつらなりて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処いづこまで、彼は重傷いたでを負ひて行くならん。

 
磐石ばんじやくを曳くより苦く貫一は膝の疼痛いたみこらへ怺へて、とにもかくにも塀外へいそと※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろぼひ出づれば、宮はいまだ遠くも行かず、有明ありあけ月冷つきひややかに夜は水のごとしらみて、ほのぼのと狭霧罩さぎりこめたる大路のせきとして物の影なきあたりを、唯覚束無おぼつかなげに走れるなり。「宮! 待て!」。呼べばこだまは返せども、雲はゆうにして彼はこたへず。歯咬はがみして貫一は後を追ひぬ。

 固もとよりあはひ幾許いくばくもあらざるに、急所の血をいだせる女の足取、引捉ひつとらふるに何程の事あらんと、あなどりしに相違して、彼は始の如く走るに引易ひきかへ、こなたは漸く息疲いきつかるるに及べども、距離はつひに依然としてちかづく能はず。こは口惜くちをし、と貫一は満身の力を励し、たふるるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱なほのがるるほどに、帯はたちまけてあしまとふを、右に左に※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)けはらひつつ、つまづきては進み、行きてはよろめき、彼もはや力はきたりと見えながら、如何ん、そこに伏してまた起きざる時、みづからつひに及ばずして此処ここ絶入ぜつにゆうせんと思へば、貫一は今に当りてわづかに声を揚ぐるのじゆつを余すのみ。

 「宮!」と
ふるつて呼びしかど、あはれむべし、その声は苦しきあへぎの如き者なりき。我と吾肉をくらはんと想ふばかりにあせれども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無かひなおのれいかりして、益す休まず狂呼きようこすれば、彼ののんどは終に破れて、汨然こつぜんとして一涌いちゆう鮮紅せんこう嘔出はきいだせり。こころくらみて覚えず倒れんとする耳元に、松風まつかぜ驀然どつと吹起りて、吾にかへれば、眼前の御壕端おほりばた。只る、宮は行き行きて生茂おひしげる柳の暗きに分入りたる、入水じゆすいの覚悟にきはまれりと、貫一は必死の声をしぼりてしきりに呼べば、咳入せきいり咳入り数口すうこう咯血かつけつ斑爛はんらんとして地にちたり。何思ひけん、宮は千条ちすぢの緑の陰より、その色よりはやや白きおもてあらはして、追い来る人をと見たりしが、つひに疲れて起きも得ざる貫一の、唯手をげてはるかむるを、ゆるし給へと伏拝ふしをがみて、つと茂のうちに隠れたり。

 彼はおのれの死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄かけよる岸の柳をくぐりて、水は深きか、宮は何処いづこに、とむぐらの露に踏滑ふみすべる身をあやふくもふちに臨めば、※(「革+堂」、第3水準1-93-80)どうとうそそぐ早瀬の水は、おどろなみたいつくし、乱るる流のぶんいて、眼下に幾個の怪き大石たいせき、かの鰲背ごうはいあつめて丘の如く、そのいきほひふせがんとすれど、触るれば払ひ、当ればひるがへり、長波のくところ滔々とうとうとして破らざる奮迅の力は、両岸も為に震ひ、坤軸こんじくも為にとどろき、蹈居ふみゐる土も今にやくづれなんと疑ふところ、衣袂いべい雨濃あめこまやかそそぎ、鬢髪びんぱつの風うたた急なり。

 あなすさまじ、と貫一は身毛みのけ弥竪よだちて、すがれる枝を放ちかねつつ、看れば、くさむらの底に秋蛇しゆうだの行くに似たるこみち)ありて、ほとほと逆落さかおとし懸崖けんがいくだるべし。あやふかな差覗さしのぞけば、茅葛かやかつらしきりに動きて、小笹棘をざさうばらに見えつ隠れつ段々とすべり行くは、求むる宮なり。その死をとどめんの一念よりあらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏むいとまもあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間たにまあらしの誘ふにまかせて、驀直ましぐらに身をおとせり。るひくだけて死ぬべかりしを、恙無つつがなきこそ天のたすけと、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流にひたれるいはほわたりて、既に渦巻く滝津瀬たきつせ生憎あやにく! 花は散りかかるを、「宮!」とうしろに呼ぶ声残りて、前には人の影もあらず。
 咄嗟とつさおくれを天に叫び、地にわめき、流にもだえ、巌に狂へる貫一は、血走るまなこに水を射て、ここかしこ水屑みくづもとむれば、まさし浮木芥うきぎあくたの類とも見えざる物の、十間じつけんばかり彼方あなたを揉みに揉んで、波間隠なみまがくれ推流おしながさるるは、人ならず、宮なるかとひとみを定むる折しもあれ、水勢そこに一段急なり、ありける影はつるを放れし箭飛やとびして、行方ゆくへも知らずと胸潰むねつぶるれば、たちまち遠く浮き出でたり。嬉しやと貫一は、道なき道の木をぢ、がけを伝ひ、るひは下りて水をえ、石をみ、巌をめぐり、心地死ぬべく踉蹌ろうそうとしてちかづき見れば、緑樹りよくじゆ蔭愁かげうれひ、潺湲せんかん声咽こゑむせびて、浅瀬にかかれる宮がむくろよ!

 貫一は唯その上に泣伏したり。
ああ、宮は生前においわづかに一刻のさきなる生前に於て、このなさけの熱き一滴を幾許いかばかりかはかたじけなみけん。今や千行垂せんこうたるといへども効無かひなき涙は、いたづらに無心の死顔にそそぎて宮のこんは知らざるなり。

 貫一の
しみきはまりぬ。「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺をするさへ可哀あはれなのに、この浅ましい姿はどうだ。やいばに貫き、水におぼれ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛かはいい奴め、思迫おもひつめたなあ! 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死ではあきたらずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏ふびんだ! どんな事があらうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状しにざまを見ては、罪もうらみも皆な消えた! 赦したぞ、宮! は心の底から赦したぞ! 今はのきはに赦したと、俺が一言ひとこと云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ※(感嘆符二つ、1-8-75) 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目めんもくない! これまでの精神とは知らずに見殺にしたのは残念だつた! 俺があやまりだ! 宮、赦してくれよ! いか、宮、いいか。

 
嗚呼ああ死んで了つたのだ!※(感嘆符二つ、1-8-75) 貫一は彼の死の余りにむごく、余りに潔きを見て、不貞の血は既にことごとそそがれ、旧悪のはだへは全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、おのれの為に捨てたる亡骸なきがらの、あはれみても憐むべく、悲しみてもなほ及ばざる思の、今は唯きはめて切なるあるのみ。

 かの
烈々れつれつたる怨念おんねんの跡なく消ゆるとともに、一旦れにし愛慕の情は又泉のくらんやうに起りて、その胸にみなぎりぬ。苦しからず、人き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何なる恨をもくるの忍びやすきを今ぞ知るなる。貫一は腸断ちようた涙連なみだつらなりて、我を我とも覚ゆる能はず。「宮、貴様に手向たむけるのは、俺のこの胸のうちだ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳ひやくまでもそひ、添、添遂そひとげるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
 氷の如き宮が手を取り、ひしと握りて、永く眠れるおもてのぞかんとすれば、涙急にして文色あいろも分かず、推重おしかさなりて、いとしやと身をもだえつつ少時しばし泣いたり。「しかし、宮、貴様は立派な者だ。ひとたび罪を犯しても、かうして悔悟して自殺をしたのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴あつぱれだぞ。それでこそ始て人間たるの面目めんもくが立つのだ。しかるに、この貫一はどうか! 一端いつぱし男と生れながら、高が一婦いつぷの愛を失つたが為に、志をくぢいて一生を誤り、餓鬼がきの如き振舞ふるまひをして恥とも思はず、非道を働いて暴利をむさぼるの外は何も知らん。そのかねは何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。

 
そ人とふ者には、人として必ず尽すべき道がある。おのれと云ふ者の外に人の道と云ふ者があるのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事ができん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、いやしくも男と生れた一生をなげうたうと云ふのだ。人たるのかひどこにふある、人たる道はどうしたのか。ああ、誤つた! 宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まんからだだ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入はぢいりもりや、可羨うらやましくもある。当初はじめ貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺もすみやかに心をあらためて、人たるの道に負ふところのこの罪をつぐなはなけりや成らん訳だ。嗟乎ああ、しかし、何にけてもい世の中だ! 人間の道は道、義務は義務、しみは又楽しみで、それもなけりや立たん。俺も鴫沢しぎさわに居て宮を対手あいてに勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。あれが浮世なのか、これが浮世なのか。爾来あれから今日こんにちまでの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でもなかつた。それで何がで俺は活きてゐたのか。死を決する勇気がないので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損しにぞくなつてゐたのだ※(感嘆符二つ、1-8-75) 鰐淵わにぶち焚死やけしに、宮は自殺した、俺はどうるのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来これから宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲しい思いをしなければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層しみを受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
 人たるの道を尽す? 人たるのおこなひをする? ああ、※(「勞/心」、第4水準2-12-74)うるさい、※(「勞/心」、第4水準2-12-74)い! 人としてをればこそそんな義務もある、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、いつの罪悪だとふ。るひは罪悪かも知れん。けれども、茫々然ぼうぼうぜんと呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等なにらの益するところもなく、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末みじまつだ。して、俺が今死ねば、たちまち何十人の人が助り、何百人の人がよろこぶか知れん。

 俺も
一箇ひとりの女ゆゑに身を誤つたそのあとが、盗人ぬすと家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初はじめ出損でそくなつたのが一生の不覚、あれがそもそも不運の貫一のからだは、もう一遍鍛直きたへなほして出て来るよりほか為方がない。この世の無念はその時はらす!」

 さしも遣る方なく
めりし貫一は、その悲をたちどころに抜くべきすべを今覚れり。看々みるみる涙のほほかわけるあたりに、あやしあがれるりて青く耀かがやきぬ。「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世らいせで二人が夫婦に成る、これが結納ゆひのうだと思つて、幾久いくひさしく受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しもないぞ」。

 さらば往きて
なんぢの陥りしふちに沈まん。沈まば諸共もろともと、彼は宮がかばねを引起してうしろに負へば、そのかろきこと一片ひとひらの紙にひとし。あやしと見返れば、更に怪し! 芳芬ほうふん鼻をちて、一朶いちだ白百合しろゆりおほい人面じんめんごときが、満開のはなびらを垂れて肩にかかれり。不思議におどろくと為れば目覚めさめぬ。覚むれば暁の夢なり。[#改ページ]





(私論.私見)