続編2 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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【続編第四章】 |
主夫婦を併せて焼亡せし鰐淵が居宅は、さるほど貫一の手に頼りてその跡に改築せられぬ、有形よりは小体に、質素を旨としたれど専ら旧の構造を摸して差はざらんと勉めしに似たり。間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主になれるなり。家督たるべき直道は如何にせし。彼は始めよりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀しを、貫一は今この家の主となれるに、なほ先代の志を飜さずして、益す盛に例の貪を営むなりき。れば彼と貫一との今日の関繋は如何なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡そ人生箇々の裏面には必ずかくの如き内情くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸に他の穿鑿を免れて、瞹眛の裏に葬られ畢んぬる例尠からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩れざるを得たり。 かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛むれども、内には事足る老婢を役ひて、僅に自炊ならざる男世帯を張りて、なほも奢らず、楽まず、心は昔日の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物の名を失はでゐたり。出でてはさすがに労れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家ながら人気なき居間の内を、旅の木蔭にも休へる想しつつ、稍興冷めて坐りも遣らず、物の悲き夕を特に独の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来りて、「今日三時頃でございました、お客様が見えまして、明日又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰つてお帰りになりました」。「学校の友達?」。 臆測にも知る能はざるはこの藪から棒の主なり。「どんな風の人かね」。「さやうでございますよ、年紀四十ばかりの蒙茸と髭髯の生えた、身材の高い、剛い顔の、全で壮士みたやうな風体をしてお在でした」。「…………」。些の憶起す節もありや、と貫一は打案じつつも半は怪むに過ぎざりき。「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」。「明日三時頃に又来ると?」。「さやうでございますよ」。「誰か知らんな」。「何だか誠に風の悪さうな人体で御座いましたが、明日参りましたら通しませうで御座いますか」。「ぢや用向は言つては行かんのだね」。「さやうでございますよ」。「宜い、会つて見やう」。「さやうでございますか」。起ち行かんとせし老婢は又居直りて、「それから何でございました、間もなく赤樫さんがいらつしやいまして」。貫一は懌ばざる色を作してこれに応へたり。「神戸の蒲鉾を三枚、見事なのでございます。それに藤村の蒸羊羹を下さいまして、私まで毎度又頂戴物を致しましたので御座います」。彼は益す不快を禁じ得ざる面色して、応答もで聴きゐたり。「さうして明日、五時頃些とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰つてで御座いました」。しとも彼は口には出さで、ろ止めよとやうに忙く頷けり。 |
【第四章の二】 |
学校友達と名宣りし客はその言の如く重ねて訪ひ来ぬ。不思議の対面に駭き惑へる貫一は、迅雷の耳を掩ふに遑あらざらんやうに劇く吾を失ひて、頓にはその惘然たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温る間の手弄に放ちも遣らぬ下髯の、長く忘れたりし友の今を如何にと観るに忙かり。「殆ど一昔と謂うてもい程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」。答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是か否かの一つじや」。「そりや昔は親友であつた」。彼は覚束無げに言出せり。「さう」。「今はさうぢやあるまい」。「何為にな」。「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことはできまい」。「なに五六年前も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」。貫一は目を側めて彼を訝りつ。「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何らの相談も為んのみか、それなり失踪して了うたのは何処が親友なのか」。 その常に慙ぢかつ悔る一事を責められては、癒えざる痍をも割るる心地して、彼は苦しげに容を歛め、声をも出さでゐたり。「君の情人は君に負いたぢやらうが、君の友は決して君に負かん筈ぢや。その友を何為に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」。学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾 ![]() 貫一は頭を低れて敢て言はず。「しかし、今日まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別になるのぢやから、その餞行として一言云はんけりやならん。間、君は何の為に貨を殖ゆるのぢや。かの大いなる楽とする者を奪れた為に、それに易へる者として金銭といふ考を起したのか。それもよからう、よいとして措く。けれどもじや、それを獲る為に不義不正の事を働く必要があるか。君も現在他から苦められてゐる躯ではないのか。さうなれば己が又他を苦むるのは尤も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他を苦むると謂うても、難儀に附入つて、さうしてその血を搾るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖えつつ、君はそれで今日慰められてをるのか。如何に金銭が総ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然として楽んでをるか。長閑な日に花の盛を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押をしたりしてをるか。どうかい、間」。 彼は愈よ口を閉ぢたり。「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でもありはせんのぢやらう。君の顔色を見い! 全で罪人じやぞ。獄中に居る者の面じや」。別人と見るまでに彼の浅ましく瘁れたる面を矚りて、譲介は涙の落つるを覚えず。「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多貨を殖へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病があるからと謂うて毒を飲んで、その病が痊るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友であつた間はそんな痴漢ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居る奴は尤むるに足らんけれど、一婦人の為に発狂したその根性を、彼の友として僕が慙ぢざるを得んのじや。間、君は盗人と言れたぞ。罪人と言れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴るとも為て見い!」。彼は自ら言ひ、自ら憤り、尚自ら打ちも蹴も為んずる色を作して速々答を貫一に逼れり。 |
「腹は立たん!」。「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人とも、罪人とも……」。「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目ないけれど、既に発狂して了つたのだから、どうも今更為やうがない。折角ぢやあるけれど、このまま棄て置いてくれ給へ」。貫一は纔にかく言ひて已みぬ。「さうか。それぢや君は不正な金銭で慰められてをるのか」。「まだ慰められてはをらん」。「何日慰めらるるのか」。「解らん」。「さうして君は妻君を娶うたか」。「娶はん」。「何故娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」。「さうでもないさ」。「君は今では彼の事をどう思うてをるな」。「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」。「しかし、君も今日では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心がなけりや畜生じや」。「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」。「僕も畜生かな」。「…………」。「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷めにやならんじやな」。「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始めから高利と名宣つて貸すのだから、否な者は借りんがよいので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得るものか」。「何為成り得んのか」。「何為成り得るのか」。「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」。「望むも望まんも、あんな者に用はない!」。 ろその面に唾せんとも思へる貫一の気色なり。「そりや彼には用はないぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」。貫一は吾を忘れて嗤笑ひぬ。彼はその如何に賤むべきか、謂はんやうもあらぬを念ひて、更に嗤笑ひ猶嗤笑ひ、遏めんとして又嗤笑ひぬ。「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するがよからう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」。「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与る事はない。畜生も少しは思い知つたと見える、それもよからう」。「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑をしてくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところがあるから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容して遣れと勧めは為ん、それは別問題じや。但僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独り苦んでをる。即ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨を釈いてよからうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復るべきぢやらうと考へるのじや。君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭、それは幾多か知らんけれど、その寡からん金銭よりは、彼が終に悔悟したと聞いた一言の方が、遙に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」。「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日はそれに因つて少も慰められるところはないのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐を復す価はないさ。今日になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固よりさうあるべき事なのだ。始めにあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事はなかつたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」。 彼は黯然として空く懐へるなり。「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それでいのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたらよいのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨を殖へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要はあるまいが。君が失うた者がある事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭の力に頼つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議もあるけれど、それは君の考えに委する。貨を殖ゆるもよい、よいとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪つて聚むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用んでも、富む道は幾多もあるぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止だ手段を改めよじや。路は違へても同じ高嶺の月を見るのじやが」。「辱ないけれど、僕の迷はまだ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切かまひ付けずに措いてくれ給へ」。「さうか。どうあつても僕の言は用られんのじやな」。「容してくれ給へ」。「何を容すのじや!貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんもあるものか」。 「今日限互いに棄てて別れるについては、僕も一箇聞きたい事がある。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」。「見たら解るぢやらう」。「見たばかりで解るものか」。「貧乏してをるのよ」。「それは解つてゐるぢやないか」。「それだけじや」。「それだけの事があるものか。何で官途を罷めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子がありさうぢやないか」。「話したところで狂人には解らんのよ」。荒尾は空嘯きて起たんと為なり。「解つても解らんでもよいから、まあ話すだけは話してくれ給へ」。「それを聞いてどうする。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。Nothankじや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然として楽んでをるのじや」。「それだから猶、どうしてさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情があるのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」。荒尾は故らに哈々として笑へり。「貴様如き無血虫がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」。「さうまで辱められても辞を返すことのできん程、僕の躯は腐つて了つたのだ」。「固よりじや」。「かう腐つて了つた僕の躯は今更為方がない。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰にそれを祷つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日まで君の外には一人の友もないのだ。一昨年であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振りで君に逢つて慶賀も言ひたいと念つたけれど、どうも逢れん僕の躯だから、切て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」。 さてはと荒尾も心陰に頷きぬ。「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己を棄ててゐるのだ。一婦女子の詐如きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正することのできんと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりはないので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮なる働を作して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人として己の為に身を愛みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」。 |
貫一の面は病などの忽ち癒えけんやうに輝きつつ、かくの如く潔くも麗き辞を語れるなり。「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄してをるのを見て気毒と思ふのか」。「君が謂ふほどの畜生でもない!」。「じや、間。世間に貴様のやうな高利貸がある為に、あつぱれ用らるべき人才の多くがじや、名を傷け、身を誤られて、社会の外に放逐されて空く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日の人才を滅す者は、曰く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱されてをる人才の多くを一層不敏と思うて遣れ。君が愛に失敗して苦むのもじや、或る人が金銭の為に苦むのも、苦しむと云ふ点に於ては差異はないぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友があつたらばと思はん事はない。その友が僕の身を念うてくれて、社会へ打つて出て壮に働け、一臂の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友、最も悪むべき者は高利貸ぢや。如何に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益す友を懐ふのじや。その昔の友が今日の高利貸――その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」。彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。「段々の君の忠告、僕は難有い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸はないのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。に今居るかね」。「まあ、高利貸などは来て貰はん方がよい」。「その日は友として訪ねるのだ」。「高利貸に友は持たんものな」。 |
雍かに紙門を押啓きて出来れるを、誰かと見れば満枝なり。彼如何なれば不躾にもこの席には顕れけん、と打駭ける主よりも、荒尾が心の中こそ更に匹ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘みてその長き髯をば痛に拈りつ。されど狼狽へたりと見られんは口惜しとやうに、遽にその手を胸高に拱きて、動かざること山の如しと打控へたる様も、自らわざとらしくて、また見好げにはあらざりき。満枝はづ主に挨拶して、さて荒尾に向ひては一際礼を重く、しかも躬は手の動き、目の視るまで、専ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑むともあらず面を和げて姑く辞を出さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪へずして、「これは不思議な所で!成る程間とは御懇意かな」。「君はどうして此方を識つてゐるのだ」。左瞻右視して貫一は呆るるのみなり。「そりや少し識つてをる。しかし、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」。「荒尾さん」。満枝は![]() ![]() 満枝は荒尾の立てる脚下に褥を推付けて、実に還さじと主にも劣らず最惜む様なり。「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」。「そのお意で、どうぞお席にゐらしつて」。固より留らざるべき荒尾は終に行かんとしつつ、「間、貴様は……」。「…………」。「…………」。彼は唇の寒かるべきを思ひて、空く鬱抑して帰り去れり。その言はざりし語は直に貫一が胸に響きて、彼は人の去にける迹も、なほ聴くに苦き面を得挙げざりけり。 |
【第四章の三】 |
程もあらずラムプは点されて、止だありけるままに竦みゐたる彼の傍に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧をも加へけんやうに怪しからず妖艶に、宛然色香を擅にせる牡丹の枝を咲撓めたる風情にて、彼は親しげに座を進めつ。「間さん、どうあそばして、非常にお鬱ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」。貫一は怠くも纔に目を移して、「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」。「私よりは、貴方があの方の御朋友でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」。「貴方はどうして御存じなのです」。「まあ債務者のやうな者なので御座います」。「債務者? 荒尾が? 貴方の?」。「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」。「はあ、さうして額は若干なのですか」。「三千円ばかりでございますの」。「三千円? それでその直接の貸主と謂ふのは何処の誰ですか」。満枝は彼の遽に捩向きて膝の前むをさへ覚えざらんとするを見て、歪むる口角に笑を忍びつ、「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生私がお話でも致すと、全で取合つても下さいませんのですもの」。「まあよいです」。「些ともよい事はございません」。「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのがあるのですね」。「存じません」。「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」。「私貴方からは戴きません」。「上げるのではない、弁償するのです」。「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」。「それは何為ですか」。「何為でも宜う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召すなら、私に債権を棄てて了へと有仰つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」。「どう云ふ訳ですか」。「どう云ふ訳で御座いますか」。「甚だ解らんぢやありませんか」。「勿論解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。しかし貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」。「いいや、僕は解つてゐます」。「ええ、解つてゐらつしやりながら些ともお解りにならないのですから、私も益す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」。 満枝は金煙管に手炉の縁を丁と拍ちて、男の顔に流眄の怨を注ぐなり。「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」。「御勝手ねえ、貴方は」。「さあ、お話し下さいな」。「唯今お話致しますよ」。満枝は遽に煙管を索めて、さて傍に人なき若く緩に煙を吹きぬ。「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」。「…………」。「どうも事実として信ずる事はできんくらゐだ」。「…………」。「三千円! 荒尾が三千円の負債を何でしたのか、殆ど有得べき事でないのだけれど、……」。…………」。唯見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。「さあ、お話し下さいな」。「こんなに遅々してをりましたら、さぞ貴方憤つたくてゐらつしやいませう」。「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」。「憤つたいと云ふものは、決して好い心持ぢやございませんのね」。「貴方は何を言つてお在なのです!」。「はいはい恐れ入りました。それぢや早速お話を致しませう」。「どうぞ」。「蓋か御承知でゐらつしやいましたらう。前に宅に居りました向坂と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些と盛に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟あの方もその件から諭旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方がないので、彼方を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然此方へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。しかし、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止と遊んでお在も同様で、飜訳か何か少ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうがないので御座いますわ」。「はあ成る程。しかし、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」。「それはあの方は連帯者なので御座います」。「はあ! さうして借主は何者ですか」。「大館朔郎と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚だとか云ふ話でございました」。「うむ、如何にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」。「御承知でゐらつしやいますか」。「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」。はやその言の中に彼の心は急に傷みぬ。己の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲ち、恩の為に富貴を顧ざりし故にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優れり。君子なる吾友よ。さしも潔き志を抱ける者にして、その酬らるる薄倖の彼の如く甚く酷なるを念ひて、貫一は漫ろ涙の沸く目を閉ぢたり。 |
【第五章】 |
遽に千葉に行く事ありて、貫一は午後五時の本所発を期して車を飛せしに、咄嗟、一歩の時を遅れて、二時間後の次回を待つべき倒懸の難に遭へるなり。彼は悄々停車場前の休憇処に入りて奥の一間なる縞毛布の上に温茶を啜りたりしが、門を出づる折受取りし三通の郵書の鞄に打込みしままなるを、この時取り出せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。「ええ、又寄来した!」。彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読![]() ![]() いで、この文こそは宮が送りし再度の愬にて、その始めて貫一を驚かせし一札は、約そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩に荒尾に答へしと同様の意を以てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言なるべきを、何の未練ありて、徒に目を汚し、懐を傷けんやと、気強くも右より左に掻遣りけるなり。宮は如何に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事もし誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲るに余りあるものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直に貫一の心を解かんとは思設けざりき。故に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験あらずば、彼は弥増す悲の中に定めて三度の筆を援るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度、五度、七度重ね重ねて十百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意を決せるを。 静に臥したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出し、 ![]() ![]() 女は処々聞き得ぬまでの涙声になりぬ。「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許私の方で引取りたくつても引き取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰を怨む訳もない、全く自分が悪いからで、こんな躯に疵の付いた者に大事の娘をくれる親はない、くれないのが尤だと、それは私は自分ながら思つてゐる」。「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰つて下さればよいのぢやありませんか」。「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※[#「(箆-竹-比)/民」、338-17]に罹つたばかりで、自分の躯には生涯の疵を付け、隻の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚は破談にされ、……こんな情ない思を為る位なら、不如私は牢の中で死んで了つた……方がよかつた!」。「あれ、雅さん、そんな事を……」。両箇は一度に哭き出せり。「阿母さんがあん畜生の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽にして在すつた……のだし」。女はつと出でし泣音の後を怺へ怺へて啜上げぬ。「私も破談に為る気は少しもないけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」。「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」。「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退いて、これまでの縁と諦めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」。 |
女は唯愈よ咽びゐたり。音も立てず臥したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処より男を隙見せんと為たりけれど、竟に意の如くならで止みぬ。れども彼は正くその声音に聞覚あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之ならずと為んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独り頷きつつ貫一は又潜りて聴耳立てたり。「嘘にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭なので、それが為に縁を切る意なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断なんぞ為はしませんわ」。彼は自らその苦節を憶ひて泣きぬ。「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共に悔し……悔し……悔いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」。 この心を知らずや、と情極りて彼の悶え慨くが手に取る如き隣には、貫一が内俯に頭を擦付けて、巻莨の消えしを ![]() 貫一は身を回して臂枕に打仰ぎぬ。彼は己が与へし男の不幸よりも、添れぬ女の悲よりも、づその娘が意気の壮なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚る如き誠もあるよ、と頭は熱し胸は轟くなり。 さて男の声は聞ゆ。「それは、鈴さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭はなかつたら、今頃は家内三人で睦く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂れないほど情ない。かうして今では人に顔向もできないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事はないのだけれど、尊父さん、尊母さんの心にもなつて見たら、今の私には添されないのは、決して無理のないところで、子を念ふ親の情は、何処の親でも差違はない。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外はない、と私は覚悟してゐるのです」。 |
「それぢや、雅さんは内の阿父さんや阿母さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」。「そんな事があるものぢやない! 私だつて……」。「いいえ、ようございます。もういいの、雅さんの心は解りましたから」。「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全で私の心を酌んではおくれでないのだ」。「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適くと極つて、その為に御嫁入道具まで丁と調へて置きながら、今更外へ適れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余り酷いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他へは適きはしませんから、いいわ、いいわ、私はいいわ!」。 女は身を顫して泣き沈めるなるべし。「そんな事をお言ひだつて、それぢやどううと云ふのです」。「どうしてもよう御座います、私は自分の心で極めてゐますから」。亜いで男の声は為ざりしが、間有りて孰より語り出でしとも分かず、又一時密々と話声の洩れけれど、調子の低かりければ此方には聞知られざりき。彼らは久くこの細語を息めずして、その間一たびも高く言を出さざりしは、互にその意に逆ふところなかりしなるべし。「きつと? きつとですか」。始て又明かに聞えしは女の声なり。「さうすれば私もその気で居るから」。 かくて彼らの声は又低うなりぬ。されど益す絮々として飽かず語れるなり。貫一は心陰に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何に幸ならんかを想ひて、あたかも妙なる楽の音の計らず洩聞えけんやうに、憂かる己をも忘れんとしつ。今かの娘の宮ならば如何ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日の吾たるを択ぶきか、将かの雅之たるを希はんや。貫一は空うかく想へり。宮も嘗て己に対して、かの娘に遜るまじき誠を抱かざるにしもあらざりき。彼にしてしの光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全うしたらんや。唯継の金力を以て彼女を脅したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀けると汚れたる罪名とは、孰か愛を割くの力多かる。 |
彼は更にかく思へり。 唯その人を命として、己もあらず、家もあらず、何処の野末にも相従はんと誓へるかの娘の、竟に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。彼は又かくも思へるなり。それ愛の最も篤からんには、利にも惑はず、他に又易ふる者もあらざる可きを、仮初もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明せるなり。凡そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或は己の信ずらんやうに、宮の愛の特に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾てこれを斥けぬ。されどもその一旦の憤は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々は、吾心を食尽し、終に吾身を斃すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊の如く執念く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶ま人の相悦ぶを見て、又躬も怡びつつ、楽の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむべきや。 彼はいよいよ思廻せり。宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何らの事を成さんも唯吾命のままならんとぞ言来したる。吾はその悔の為にはかの憤を忘るべきか、任他吾恋の旧に復りて再び完かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因りて始て償はるべきか、或はその富を獲んとする貪欲はこの恨を移すに足るか。彼は苦き息を嘘きぬ。吾恋を壊りし唯継! 彼らの恋を壊らんとしは誰そ、その吾の今千葉に赴くも、又或るいは壊り、或るいは壊らんと為るにあらざるなきか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割れし愛は落花の復るなくして畢らんのみ! いで、吾はかくて空く埋るべきか、風に因りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。貫一は船橋を過る燈暗き汽車の中にあり。 |
【第六章】 |
千葉より帰りて五日の後 M., Shigis ――の書信は又来りぬ。貫一は例に因りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽ち浮ぶその人の面影は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざるなきに、彼は殆ど当時に同き憤を発して、先の二度なるよりはこの三度に及べるを、径廷くも廻らぬ筆の力などを以て、旧に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来りて大海を填めんとするやと、却りて頑に自ら守らんとも為なり。さりとも知らぬ宮は蟻の思を運ぶに似たる片便も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何に見るらん、書綴れる吾誠の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋の緒ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採りて、その限りなき思を写してぞ止まざりし。 唯継は近頃彼の専ら手習すと聞きて、その善き行を感ずる余に、良き墨、良き筆、良き硯、良き手本まで自ら求め来ては、この難有き心掛の妻に遣りぬ。宮はそれらを汚はしとて一切用ることなく、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴られし文は、又六日を経て貫一の許に送られぬ。彼は四度の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経ると思ふ程もになく、五度の文は来にけり。よし送り送りて千束にも余れ、手に取るからの烟ぞと侮れる貫一も、曾て宮にはなかりし執着のかばかりなるを謂知らず異みつつ、今日のみは直にも焚かざりしその文を、一度は披き見んと為たり。「然し……」。彼は輙く手を下さざりき。「赦してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳はない。しあると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日の貫一と宮との間に如何なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操の疵が愈えて、又赦したから、富山の事がない昔に成るのか。その点に於ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚れた宮ではないか。ことの破れて了つた今日になつて悔悟も赦してくれも要つたものか、無益な事だ! 少も汚れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外に妻と思ふ者はない、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺のこの胸の中を可憐と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負いて……何の面目あつて今更悔悟……晩い!」。 彼はその文を再三柱に鞭ちて、終に繩の如く引捩りぬ。打続きて宮が音信の必ず一週に一通来ずと謂ふことなくて、披れざるに送り、送らるるに披かざりしも、はや算ふれば十通に上れり。さすがに今は貫一が見る度の憤も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁きに、自ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽に彼を可懐むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容れんと為るにあらずして、始に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己に存し、彼の新なる悔は切に ![]() 劇く物思ひて寝ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨に魘るる夢の苦く頻に呻きしを、老婢に喚れて、覚めたりと知りつつ現ならず又睡りけるを、再び彼に揺起れて驚けば、「お客様でございます」。「お客? 誰だ」。「荒尾さんと有仰いました」。「何、荒尾? ああ、さうか」。主の急ぎ起きんとすれば、「お通し申しますで御座いますか」。「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫く失礼致しますとさう申して」。貫一はかの一別の後三度まで彼の隠家を訪ひしかど、毎に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何を満枝に糺せしに、変る事なくに住めりと言ふに、さては真に交を絶たんとすならんを、姑く強て追はじと、一月余も打絶えたりしに、彼方より好くこそ来つれ、吾がこの苦を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋の来れるも、実にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出して一日彼を還さじなど、心忙きまでに歓ばれぬ。絶交せるやうに疏音なりし荒尾の、何の意ありて卒に訪来れるならん。貫一はその何の意なりやを念はず、又その突然の来叩をも怪まずして、畢竟彼の疏音なりしはその飄然主義の拘らざる故、交を絶つとは言ひしかど、誼の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己を友として来れるを、あり得べからざる事とは信ぜざりき。 手水場を出来し貫一は腫 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 宮は嬉し悲しの心昧みて、身も世もあらず泣伏したり。「何用あつて来た!」。怒るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱むべきか、悲むべきか、号ぶべきか、詈るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫ひゐたり。「貫一さん! どうぞ堪忍して下さいまし」。宮は漸う顔を振挙げしも、凄く色を変へたる貫一の面に向ふべくもあらで萎れ俯しぬ。「早く帰れ!」。「…………」。「宮!」。幾年聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐しと見る目を覚えず其方に転せば、鋭く ![]() ![]() ![]() 唯見る間に出行く貫一、咄嗟、紙門は鉄壁よりも堅く閉てられたり。宮はその心に張充めし望を失ひてはたと領伏しぬ。「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇く縁続の子亭より聞ゆれば、直に走り行く足音の響きしが、やがて返し来れる老婢は客間に顕れぬ。宮は未だ頭を挙げずゐたり。可憐き束髪の頸元深く、黄蘖染の半衿に紋御召の二枚袷を重ねたる衣紋の綾先づ謂はんやうなく、肩状優う内俯したる脊に金茶地の東綴の帯高く、勝色裏の敷乱れつつ、白羽二重のハンカチイフに涙を掩へる指に赤く、白く指環の玉を耀したる、殆ど物語の画をも看るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐きやうにも覚ゆるぞかし。「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日はこれで御立帰を願ひますで御座います」。 面を抑へたるままに宮は涙を啜りて、「ああ、さやうで御座いますか」。「折角お出のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」。「唯今些と支度を致しますから、もう少々置いて戴きますよ」。「さあさあ、貴方御遠慮なく御寛と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日はいつそお寒過ぎますで御座います」。彼の起ちし迹に宮は身支度をするにもあらで、始めて甦りたる人の唯あるが如くに打沈みてぞゐたる。やや久かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来れり。宮はその時遽に身 ![]() 主の本意ならじとは念ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭に案内せり。昨夜の収めざる蓐の内に貫一は着のまま打仆れて、夜着も掻巻も裾の方に蹴放し、枕に辛うじてその端に幾度か置易られし頭を載せたり。思ひも懸けず宮の入来るを見て、起回らんとせし彼の膝下に、早くも女の転び来て、立たんと為れば袂を執り、猶も犇と寄り添ひて、物をも言はず泣伏したり。「ええ、何の真似だ!」。突返さんとする男の手を、宮は両手に抱き緊めて、「貫一さん!」。「何を為る、この恥不知!」。「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」。「ええ、聒い! ここを放さんか」。「貫一さん」。「放さんかと言ふに、ええ、もう!」。その身を楯に宮は放さじと争ひて益す放さず、両箇が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見じと誓へるその人の顔の、おのれ眺めたりし色は疾く失せて、誰ゆゑ今の別に ![]() 彼は人の頭より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把る手をば釈かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄て去りし人の誠は量無きものなりしが、嗟乎、今何処にありや。その嘗て誠を恵みし手は冷かに残れり。空くその手を抱きて泣かんが為に来れる宮が悔は、実に幾許大いなる者ならん。「さあ、早く帰れ!」。「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打つなり、殴くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小でも機嫌を直して、私のお詑に来た訳を聞いて下さい」。「ええ、煩い!」。「それぢや打つとも殴くともして……」。身悶して宮の縋るを、「そんな事で俺の胸が霽れると思つてゐるか、殺しても慊らんのだ」。「ええ、殺れてもよい! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方がよいのですから」。「自分で死ね!」。 彼は自ら手を下して、この身を殺すさへ屑からずとまでに己を鄙むなるか、余に辛しと宮は唇を咬みぬ。「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見ともない態を為ずに何為死ぬまで立派に棄て通さんのだ」。「私は始めから貴方を棄てる気などはありはしません。それだから篤りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」。「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」。「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」。宮は男の手をば益す弛めず、益す激する心の中には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易ふる者を失はじと一向に思入るなり。 折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何、宮は些も弛めざるのみか、その容をだに改めんと為ず。果して足音は紙門の外に逼れり。「これ、人が来る」。「…………」。宮は唯力を極めぬ。不意にこの体を見たる老婢は、半啓けたる紙門の陰に顔引入れつつ、「赤樫さんがお出になりまして御座います」。窮厄の色はつと貫一の面に上れり。「ああ、今へ行くから。――さあ、客があるのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客があると云ふのにどうするのか」。「ぢや私はここに待つてゐますから」。「知らん! もう放せと言つたら」。用捨もあらず宮は捻倒されて、落花の狼藉と起き敢へぬ間に貫一は出行く。 |
【第六章の二】 |
座敷外に脱ぎたる紫裏の吾妻コオトに目留めし満枝は、嘗て知らざりしその内曲の客を問はで止む能はざりき。又常に厚く恵るる老婢は、彼の為に始終の様子を告るの労を吝まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚に燃えて、可憎き人の疾く出で来よかし、如何なる貌して我を見んとらん、と焦心に待つ間のいとどしう久かりしに、貫一はなかなか出で来ずして、しかも子亭のほとほと人気もあらざらんやうに打鎮れるは、我に忍ぶかと、弥よ満枝は怺へかねて、「お豊さん、もう一遍旦那様にさう申して来て下さいな、私今日は急ぎますから、些とお目に懸りたいと」。「でも、私は誠に参り難いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在のやうで御座いますから」。「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」。「ではさう申上げて参りますです」。「はあ」。老婢は行きて、紙門の外より、「旦那さま、旦那さま」。「にお在は御座いませんよ」。かく答へしは客の声なり。豊は紙門を開きて、「おや、さやうなので御座いますか」。実に主は在らずして、在るが如くその枕頭に坐れる客の、猶悲の残れる面に髪をば少し打乱し、左の![]() 老婢はここを倉皇起ちて、満枝が前に、「へもいらつしやいませんで御座いますか」。「何が」。「あの、那裡にもゐらつしやいませんので御座いますが」。「旦那様が? どうして」。「今し方這裡へ出てお在になつたのださうで御座います」。「嘘、嘘ですよ」。「いいえ、那裡にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」。「嘘ですよ」。「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」。「だつて、へお出なさりは為ないぢやありませんか」。「ですから、まあ、何方へいらつしやつたのかと思ひまして……」。「那裡にきつと隠れてでもお在なのですよ」。「貴方、そんな事が御座いますものですか」。「どうだか知れはしません」。「はてね、まあ。お手水ですかしらん」。 随処尋ねんとて彼は又倉皇起ちぬ。有効無きこの侵辱に遭へる吾が身は如何にせん、と満枝は無念の遣る方なさに色を変へながら、些も騒ぎ惑はずして、知りつつ食みし毒の験を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂れず窃に苦めり。宮はその人の遁れ去りしこそ頼の綱は切られしなれと、はや留るべき望もなく、まして立ち帰るべき力はあらで、罪の報は悲くも何時まで儚きこの身ならんと、打ち俯し、打ち仰ぎて、太息 ![]() 彼は又満枝の許に急ぎ行きて、事の由を告げぬ。「いいえ、貴方、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」。彼は遽に心着きて履物を検め来んとて起ちけるに、踵いで起てる満枝の庭前の縁に出づると見れば、 ![]() 宮は稍羞ひて、葉隠に咲遅れたる花の如く、夕月の涼う棟を離れたるやうに満枝は彼の前に進出でて、互に対面の礼せし後、「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」。憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。「はい親類筋の者で御座いまして」。「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来お見上げ申しませんで御座いました」。「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」。「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」。「はい……広島の方に居りまして御座います」。「はあ、さやうで。唯今は何方に」。「池端に居ります」。「へえ、池端、お宜い処で御座いますね。しかし、夙て間様のお話では、御自分は身寄りも何もないから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰るもので御座いますから、全くさうとばかり私信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がおあり遊ばすのに、どう云ふお意であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のおありあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作るので御座いますよ」。 疑の雲は始めて宮が胸に懸りぬ。父が甞て病院にて見し女の必ず訳あるべしと指せしはこれならん。さては客来と言ひしも詐にて、或は内縁の妻と定れる身の、吾を咎めて邪魔立せんとか、但は彼人のこれ見よとてここに引出せしかと、今更に差はざりし父が言を思ひて、宮は仇の為に病めるを笞たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処にか潜めゐる彼人の吾が還るを待ちて忽ち出で来て、この者と手を把り、面を並べて、可哀なる吾をば笑ひ罵りもやせんと想へば、得堪へず口惜くて、如何にせば可きと心苦く遅ひゐたり。「お久しぶりで折角お出のところを、生憎と余義ない用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些と遠方でございますから、お帰来の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛りとお出で遊ばしまして」。「大相長座を致しまして、貴方の御用のおあり遊ばしたところを、心ないお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」。「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」。「はい、誠に残念でございます」。「さやうで御座いませうとも」。「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日は一日遊んで参らうと楽に致してをりましたのを、実に残念で御座います」。「大きに」。「さやうなら私はお暇を致しませう」。「お帰来で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」。「いいえ、幾多降りましたところが俥で御座いますから」。互に憎し、口惜しと鎬を削る心の刃を控へて、彼らは又相見ざるべしと念じつつ別れにけり。 |
(私論.私見)