尾崎紅葉の生涯履歴 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.10.29日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「尾崎紅葉/金色夜叉」を確認する。「金色夜叉/尾崎紅葉」を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。
1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)の芝中門前町(現在の芝大門)に生れる。「紅葉」はペンネームで、本名は徳太郎。父は幇間(ほうかん、いわゆるお座敷遊びをサポートして、客を楽しませる職業)で根付師(ねつけし、小物を帯から吊るすときに使う留め具)を作る職人)の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。紅葉は父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していた。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。 1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎、狩野亨吉らがいたが、中退。 愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門(現在の東大)入学を目指した。 |
紅葉の学費を援助したのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。紅葉が1899年(明治32年)に佐渡に旅した際に新潟で立ち寄ったのが、大蔵官僚で当時は新潟の税務署長をしていた横尾の伯父(母庸の姉婿)であり、紅葉の三女三千代は、荒木家(母庸の弟)に養女に出された後に、横尾の伯父の養子・石夫(海軍軍人)に嫁いでいる。石夫の実父(養父の兄)は内務官僚であったが、安濃郡長(島根県)の時に若くして亡くなった。石夫の弟に東京帝国大学教授の安夫がいる。
1883年(明治16年)9月、東京大学予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。 「縁山」、「半可通人」、「十千万堂」、「花紅治史」などの号も持つ。 |
1885(明治18)年2月、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らとともに硯友社を結成、5月、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが好評で、出版社・吉岡書店の目に留まり、 「君たち、ウチが今度出す小説の叢書(そうしょ・シリーズ本のこと)で書いてみないか?」とお声がかかり、第一弾として『二人比丘尼 色懺悔』という作品が活版で出版された。 これは、偶然同じ武士に恋をしていた女性二人の物語で、その武士は戦で命を落としてしまい、女性たちは髪を下ろして菩提を弔うことに。そしてあるとき、一方の女性が他方の家に宿を借りたい、と頼んできたところから始まる。紅葉のアピールポイントとしては「時代を定めない」こと、そして「この小説は涙を主眼とする」ということでした。この小説にはもう一つ特徴がある。会話は口語体、地の文は文語体になっている。当時は仮名遣いの時代で、実はこれが画期的なことだった。物語の内容と文体で注目を浴びるようになった紅葉は、流行作家として歩んでいくことになる。 |
1886年(明治19年)、大学予備門の学制改革により第一高等中学校英語政治科に編入される。 1889年(明治22年)、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになった。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、4月、紅葉の「二人比丘尼
色懺悔」(ににんびくにいろざんげ)が刊行された。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。この頃、井原西鶴に熱中してその作品に傾倒。写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。『初時雨』昌盛堂 1889。『風流京人形』好吟会 1889。 1895年(明治28年)、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書いた。『やまと昭君』1895年。『不言不語』(いわずかたらず)(1895年)岩波文庫、1952。 |
1896(明治29)年2月、「多情多恨」を読売新聞に連載。3.10日、次女弥生が生れる。『青葡萄』。 |
1897(明治30)年1月、「金色夜叉」の連載が読売新聞で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い、大人気作となった。以後断続的に書かれることになり長期連載となる。 |
1899(明治32)年、健康を害した。6月、療養のために塩原や修善寺に赴むく。金色夜叉を書いた宿は、作中の名前である「清琴楼」となり、紅葉の泊まった部屋を今に残している。7月から8月にかけて新潟へ赴く。 |
1900(明治33)年3.26日、三女三千代が生れる。 |
1901(明治34)年5月、療養のために修善寺へ赴く。同20日、次男夏彦が生れる。 |
1902(明治35)年、読売新聞社を退社し、二六新報に入社。 |
1903(明治36)年、に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断されて中断。 |
20歳代で多くの弟子を抱えた。特に泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。他に田山花袋。江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もあり、よく小言を言っていた。だがその叱り方は口の悪さと諧謔さが混ざり合った独自のもので、泉鏡花ら弟子たちは叱られる度に、師の小言のうまさに感心した。大正を待たずに35歳でこの世を去った尾崎紅葉。これほど短い人生でありながら天才弟子の泉鏡花ですら紅葉を越えることはできなかった。一門を率いた尾崎紅葉は偉大なる明治の文豪でした。俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 |
【作家評】 |
紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。しかし一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もあった。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べた。山田美妙の言文一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともあったが、それは彼の作品の中では主流にはならなかった。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功している。
紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出した時に、最初に売れた3部のうちの一つは紅葉が買ったものだったという(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、内田魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子として取り入れた作品も多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘された。 |
【金色夜叉あらすじ】 | ||||||||
本作は連載当時から人気を博し、現代でも多くのファンに読まれています。何度も映画化やテレビドラマ化されたことでも有名。熱海のサンビーチにある、貫一がお宮を蹴るシーンの像は、有名な観光名所の1つです。
『金色夜叉』の舞台の一つである静岡県熱海市は「尾崎紅葉祭」を開いており、2019年には記念碑を建立した。
登場人物は次の通り。
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金色夜叉の唄__演歌師が歌う__オジンのカラオケ番外編 |
金色夜叉 ♪東海林太郎・松島詩子 |
(私論.私見)