五重塔その2、十一から二十

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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五重塔その2、十一から二十
 其十一
 格子開くる響き爽かなること常の如く、お吉、今帰った、と元気よげに上り来る夫の声を聞くより、心配を輪に吹き/\吸て居し煙草管(きせる)を邪見至極に抛り出して忙わしく立迎え、大層遅かったではないか、と云いつゝ背面(うしろ)へ廻って羽織を脱せ、立ちながら腮(あご)に手伝わせての袖畳み小早く室隅の方にその儘さしおき、火鉢の傍へ直また戻って火急(たちまち)鉄瓶に松虫の音を発(おこ)させ、むづと大胡坐(あぐら)かき込み居る男の顔を一寸見しなに、日は暖かでも風が冷く途中は随分寒(ひえ)ましたろ、一瓶(ひとつ)煖酒(つけ)ましよか、と痒いところへ能く届かす手は口をきくその間(ひま)に、がたぴしさせず膳ごしらへ、三輪漬は柚(ゆ)の香ゆかしく、大根卸(おろし)で食はする※(「魚+生」、第3水準1-94-39)卵(はらご)は無造作にして気が利たり。

 源太胸には苦慮(おもい)あれども幾干(いくら)か此に慰められて、猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫(ゆる)く飲んで、汝(きさま)も飲(や)れと与うれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔畳み折って、追付三子(さんこ)の来そうなもの、と魚屋の名を独語しつ。猪口を返して酌せし後、上々吉と腹に思えば動かす舌も滑かに、それはそうと今日の首尾は、大丈夫此方(こっち)のものとは極めて居ても、知らせて下さらぬ中は無益(むだ)な苦労を妾はします。お上人様は何と仰せか、またのっそり奴は如何なったか、そう真面目顔でむっつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云われて源太は高笑い。

 案じて貰う事はない、御慈悲の深い上人様は何(ど)の道我(おれ)を好漢(いいおとこ)にして下さるのよ、ハヽヽ。なあお吉、弟を可愛がれば好い兄(あにき)ではないか。腹の饑(へ)ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他(ひと)の怖いことは一厘ないが強いばかりが男児(をとこ)ではないなあ、ハヽヽ。じっと堪忍(がまん)して無理に弱くなるのも男児だ、嗚呼立派な男児だ。五重塔は名誉の工事(しごと)、たゞ我一人で物の見事に千年壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も智慧も寸分交(ま)せず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、ゑゝ、男児だ、男児だ、成る程好い男児だ。上人様に虚言はない、折角望みをかけた工事を半分他にくれるのはつくづく忌々しけれど、嗚呼、辛いが、ゑゝ兄(あにき)だ、ハヽヽ。お吉、我はのっそりに半口与って二人で塔を建てようとおもうは、立派な弱い男児か、賞めてくれ賞めてくれ。

 汝(きさま)にでも賞めて貰わなくては余り張合いのない話しだ、ハヽヽと嬉しさうな顔もせで意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気を量りかね、上人様が何と仰やったか知らぬが妾にはさっぱり分らず些(ちっと)も面白くない話し。唐偏朴の彼(あの)のっそりめに半口与るとは何いう訳、日頃の気性にも似合わない、与(や)るものならば未練気なしに悉皆(すっかり)与って仕舞うが好いし、固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切る様な卑劣(けち)なことをするにも当らないではありませぬか。冷水で洗ったような清潔(きれい)な腹を有つて居ると他にも云われ自分でも常々云うて居た汝(おまえ)が、今日に限って何という煮え切れない分別、女の妾から見ても意地の足らない愚図※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)思案、賞めませぬ賞めませぬ、何(どう)して中々賞められませぬ。高が相手は此方(こち)の恩を受けて居るのっそり奴、一体ならば此方の仕事を先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬようにすれば成るのっそり奴を、そう甘やかして胸の焼ける連名工事(れんみょうしごと)を何で為るに当る筈のあろうぞ。甘いばかりが立派の事か、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、何なら妾が一ト走りのっそり奴のところに行って、重々恐れ入りましたと思い切らせて謝罪(あやま)らせて両手を突かせて来ませうか、と女賢(さか)しき夫思い。源太は聞いて冷笑(あざわら)い、何が汝に解るものか、我のすることを好いとおもうて居てさえくれるればそれでよいのよ。
 其十二
 色も香もなく一言に黙っていよと遣り込められて、聴かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云い出したげなりしが、自己よりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押返して何程云うとも機嫌を損ずる事こそはあれ、口答えの甲斐は露なきを経験(おぼえ)あって知りおれば、連添うものに心の奥を語り明して相談かけざる夫を恨めしくはおもいながら、其所は怜悧(りこう)の女の分別早く、何も妾が遮って女の癖に要らざる嘴(くち)を出すではなけれど、つい気にかゝる仕事の話し故思わず様子の聞きたくて、余計な事も胸の狭いだけに饒舌(しゃべ)った訳、と自分が真実籠めし言葉を態と極々軽う為て仕舞うて、何所までも夫の分別に従うよう表面(うわべ)を粧うも、幾許か夫の腹の底に在る煩悶(もしやくしや)を殺(そ)いで遣りたさよりの真実(まこと)。

 源太もこれに角張りかゝった顔をやわらげ、何事も皆な天運(まわりあわせ)ぢゃ。此方の了見さえ温順(すなお)に和(やさ)しく有って居たなら又好い事の廻って来ようと、此様おもって見ればのっそりに半口与るも却って好い心持、世間は気次第で忌々しくも面白くもなるもの故、できるだけは卑劣(けち)な※(「金+肅」、第3水準1-93-39)(さび)を根性に着けず瀟洒(あっさり)と世を奇麗に渡りさえすればそれで好いは、と云いさしてぐいと仰飲(あお)ぎ、後は芝居の噂やら弟子共が行状(みもち)の噂、真に罪なき雑話を下物(さかな)に酒も過ぎぬほど心よく飲んで、下卑(げび)た体裁(さま)ではあれどとり膳睦まじく飯を喫了(おわ)り、多方もう十兵衞が来そうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく経過(たっ)て障子の日※(「日/咎」、第3水準1-85-32)(ひかげ)一尺動けど尚見えず、二尺も移れど尚見えず。

 是非先方(むこう)より頭を低し身を縮(すぼ)めて此方へ相談に来り、何卒半分なりと仕事を割与(わけ)て下されと、今日の上人様の御慈愛(おなさけ)深き御言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何として如是は遅きや。思い断(あきら)めて望みを捨て、既早相談にも及ばずとて独り我家に燻り居るか、それともまた此方より行くを待って居る歟(か)。もしも此方の行くを待って居るということならば余り増長した了見なれど、まさかにそんな高慢気も出すまじ。例ののっそりで悠長に構えて居るだけの事ならむが、扨(さて)も気の長い男め迂濶にも程のあれと、煙草ばかり徒らに喫(ふ)かし居て、待つには短き日も随分長かりしに、それさえ暮れて群烏塒(ねぐら)に帰る頃となれば、流石に心おもしろからず漸く癇癪の起り/\て耐えきれずなりし潮先、据られし晩食(わふめし)の膳に対うとその儘云い訳ばかりに箸をつけて茶さえ緩(ゆる)りとは飲まず、お吉、十兵衞めがところに一寸行て来る、行違いになって不在へ来ば待たしておけ、と云う言葉さえとげ/\しく怒りを含んで立出かゝれば、気にはかゝれど何とせん方もなく、女房は送って出したる後にて、たゞ溜息をするのみなり。
 其十三
 渋って聞きかぬる雨戸に一トしお源太は癇癪の火の手を亢(たかぶ)らせつゝ、力まかせにがち/\引き退け、十兵衞家にか、と云いさまに突と這入(はい)れば、声色知ったるお浪早くもそれと悟って、恩あるその人の敵(むこう)に今は立ち居る十兵衞に連添える身の面を対(あわ)すこと辛く、女気の纎弱(かよわ)くも胸を動悸(どき)つかせながら、まあ親方様、と唯一言我知らず云い出したる限(ぎ)り挨拶さえどぎまぎして急には二の句の出ざる中、煤けし紙に針の孔、油染みなんど多き行燈(あんどん)の小蔭に悄然(しょんぼり)と坐り込める十兵衞を見かけて源太にずっと通られ、周章(あわて)て火鉢の前に請ずる機転の遅鈍(まづき)も、正直ばかりで世態(よ)を知悉(のみこま)ぬ姿なるべし。

 十兵衞は不束に一礼して重げに口を開き、明日の朝参上(あが)ろうとおもうて居りました、といえばぢろりとその顔下眼に睨み、態と泰然(おちつき)たる源太。応、左様いうその方の心算(つもり)であったか。此方は例の気短故今しがたまで待って居たが、何時になって汝(そなた)の来るか知れたことではないとして出掛けて来ただけ馬鹿であったか、ハヽヽ。しかし十兵衞、汝は今日の上人様の彼(あの)お言葉を何と聞いたか。両人(ふたり)で熟く/\相談して来よと云われた揚句に長者の二人の児の御話し、それで態々相談に来たが汝も大抵分別は既定めて居るであろう。我も随分虫持ちだが悟って見れば彼(あの)譬諭(たとえ)の通り、尖りあうのは互いに詰らぬこと。まんざら敵同士でもないに身勝手ばかりは我も云わぬ、つまりは和熟()した決定(けつじょう)のところが欲い故に、我慾は充分折って摧(くだ)いて思案を凝らして来たものゝ、尚汝の了見も腹蔵のないところを聞きたく、その上にまた何様ともしようと、我も男児(をとこ)なりや汚い謀計(たくみ)を腹には持たぬ、真実(ほんと)に如是(こう)おもうて来たは、と言葉を少時とゞめて十兵衞が顔を見るに、俯伏(うつぶせ)たまゝたゞ唯(はい)、唯と答うるのみにて、乱鬢の中に五六本の白髪が瞬く燈火(あかり)の光を受けてちらり/\と見ゆるばかり。お浪は既(はや)寝し猪の助が枕の方につい坐って、呼吸さえせぬよう此もまた静まりかえり居る淋しさ。却って遠くに売りあるく鍋焼饂飩(うどん)の呼び声の、幽(かすか)に外方(そと)より家(や)の中に浸みこみ来るほどなりけり。

 源太はいよ/\気を静め、語気なだらかに説き出すは、まあ遠慮もなく外見(みえ)もつくらず我の方から打明けようが、何と十兵衞こうしてはくれぬか。折角汝も望をかけ天晴れ名誉の仕事をして持ったる腕の光をあらわし、慾徳ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衞という男が意匠(おもいつき)ぶり細工ぶり此視て知れと残そうつもりであろうが、察しもつこう我とてもそれは同じこと。さらに有るべき普請ではなし、取り外(はぐ)っては一生にまた出逢うことは覚束ないなれば、源太は源太で我(おれ)が意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理屈を自分のためにつけて云えば我はまあ感応寺の出入り、汝は何の縁(ゆかり)もないなり。我は先口、汝は後なり。我は頼まれて設計(つもり)まで為(し)たに汝は頼まれはせず、他の口から云うたらばまた我は受負うても相応、汝が身柄(がら)では不相応と誰しも難をするであろう。

 だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕のありながら不幸(ふしあわせ)で居るというも知って居る。汝が平素(ふだん)薄命(ふしあわせ)を口えこそ出さね、腹の底では何(ど)の位泣て居るというも知って居る。我を汝の身にしては堪忍(がまん)のできぬほど悲い一生というも知って居る。それ故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり。しかし恩に被(き)せるとおもうてくれるな、上人様だとて汝の清潔(きれい)な腹の中を御洞察(おみとうし)になったればこそ、汝の薄命(ふしあわせ)を気の毒とおもわれたればこそ今日のような御諭し、我も汝が慾かなんぞで対岸(むこう)にまわる奴ならば、我(ひと)の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節(しにぶし)野郎と一釿(ひとちょうな)に脳天打欠(ぶっか)かずにはおかぬが、つくづく汝の身を察すれば寧(いっそ)仕事もくれたいような気のするほど、というて我も慾は捨て断れぬ、仕事は真実何あってもしたいは。

 そこで十兵衞、聞ても貰いにくゝ云うても退けにくい相談ぢゃが、まあ如是(かくのごとく)ぢゃ。堪忍(がまん)して承知してくれ。五重塔は二人で建てよう。我を主にして汝不足でもあろうが副(そえ)になって力を仮してはくれまいか。不足ではあろうが、まあ厭でもあろうが源太が頼む、聴てはくれまいか、頼む/\、頼むのぢゃ。黙って居るのは聴てくれぬか、お浪さんも我(わし)の云うことの了ったなら何卒口を副て聴て貰っては下さらぬか、と脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ゑゝありがたうござりまする、何所にこの様な御親切の相談かけて下さる方のまたあろうか、何故御礼をば云われぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動しつ掻き口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衞何とも猶言わず、再度三度かきくどけど黙々(むっくり)として猶言わざりしが、やがて垂れたる首(こうべ)を擡げ、何(どう)も十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸(とむね)をついて驚く女房。なんと、と一声(ひとこえ)烈しく鋭く、頸首(くびぼね)反(そ)らす一二寸、眼に角たてゝのっそりを驀向(まっこう)よりして瞰下(みおろ)す源太。
 其十四
 人情の花も失(なく)さず義理の幹も確然(しっかり)立てゝ、普通(なみ)のものにはできざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意(じつ)のあればこそ源太の懸けてくれしに、如何に伐って抛げ出したような性質(もちまえ)が為する返答なればとて、十兵衞厭でござりまするとは余りなる挨拶。他(ひと)の情愛(なさけ)の全(まる)で了らぬ土人形でもこうは云うまじきを、さりとては恨めしいほど没義道な、口惜しいほど無分別な、如何すれば其様に無茶なる夫の了見と、お浪は呆れもし驚きもし我身の急に絞木にかけて絞(しめ)らるゝ如き心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあ何ということ、親方様が彼程に彼方此方のためを計って、見るかげもない此方連(このほうづれ)、云わゞ一ト足に蹴落して御仕舞いなさるゝことも為さらば成(でき)るこの方連に、大抵ではない御情をかけて下され、御自分一人で為さりたい仕事をも分与(わけ)て遣らう半口乗せてくれようと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかも御招喚(およびつけ)にでもなってでのことか、坐蒲団さえあげることの成らぬか様なところへ態々御来臨(おいで)になっての御話し。

 それを無にして勿体ない、十兵衞厭でござりまするとは冥利の尽きた我儘勝手、親方様の御親切の分らぬ筈はなかろうに胴慾なも無遠慮なも大方程度(ほどあい)のあったもの。これ此妾の今着て居るのも去年の冬の取り付きに袷(あわせ)姿の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直(なお)して着よと下されたのとは汝の眼には暎(うつ)らぬか。一方ならぬ御恩を受けて居ながら親方様の対岸(むこう)へ廻るさえあるに、それを小癪なとも恩知らずなとも仰やらず、何処までも弱い者を愛護(かぼ)うて下さる御仁慈(おなさけ)深い御分別にも頼(よ)縋(すが)らいで一概に厭ぢゃとは。仮令ば真底から厭にせよ記臆(ものおぼえ)のある人間(ひと)の口から出せた言葉でござりまするか。親方様の手前お吉様の所思(おもわく)をも能く篤(とっく)りと考えて見て下され。妾はもはや是から先何の顔さげて厚ヶましくお吉様の御眼にかゝることのなるものぞ。親方様は御胸の広うて、あゝ十兵衞夫婦は訳の分らぬ愚者なりや是も非もないと、その儘何とも思しめされず唯打捨て下さるか知らねど、世間は汝(おまえ)を何と云おう。恩知らずめ義理知らずめ、人情解せぬ畜生め、彼奴は犬ぢゃ烏ぢゃと万人の指甲(つめ)に弾かれものとなるは必定。犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の功名(てがら)、慾をかわくな齷齪(あくせく)するなと常々
妾に諭された自分の言葉に対しても恥かしうはおもわれぬか。

 何卒柔順(すなお)に親方様の御異見について下さりませ。天に聳ゆる生雲塔は誰々
二人で作ったと、親方様と諸共に肩を並べて世に称(うた)わるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様の有難い御芳志(おこころざし)も知るゝ道理。妾も何の様に嬉しかろか喜ばしかろか。もし左様なれば不足というは薬にしたくもない筈なるに、汝は天魔に魅られてそれをまだ/\不足ぢゃとおもわるゝのか。嗚呼情ない。妾が云わずと知れてゐる汝(おまえ)自身の身の程を、身の分際を忘れてか、と泣声になり掻口説く女房の頭は低く垂れて、髷にさゝれし縫針の孔(めど)が啣(くわ)えし一条(ひとすじ)の糸ゆら/\と振うにも、千々に砕くる心の態の知られていとゞ可憫(いぢら)しきに、眼を瞑(つむ)ぎ居し十兵衞は、その時例の濁声(だみごえ)出し、喧しいはお浪、黙って居よ、我の話しの邪魔になる。親方様聞て下され。
 其十五
 思いの中に激すればや、じた/\と慄(ふる)出す膝の頭を緊乎(しっか)と寄せ合せて、その上に両手(もろて)突張り、身を固くして十兵衞は、情ない親方様、二人で為(しよ)うとは情ない、十兵衞に半分仕事を譲って下されようとは御慈悲のようで情ない、厭でござります、厭でござります。塔の建てたいは山々でも既(もう)十兵衞は断念(あきらめ)て居りまする。御上人様の御諭(おさとし)を聞いてからの帰り道すっぱり思いあきらめました。身の程にもない考えを持ったが間違い、嗚呼私が馬鹿でござりました。のっそりは何処迄ものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよい訳、溝板でもたゝいて一生を終りませう。親方様堪忍(かに)して下され我(わたし)が悪い、塔を建てようとは既(もう)申しませぬ。見ず知らずの他の人ではなし御恩になった親方様の、一人で立派に建てらるゝを余所(よそ)ながら視て喜びませう、と元気なげに云い出づるを走り気の源太悠々(ゆるり)とは聴て居ず、ずいと身を進めて、馬鹿を云え十兵衞、余り道理が分らな過ぎる。上人様の御諭しは汝(きさま)一人に聴けというて為(なさ)れたではない。我が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞たらば我の胸で受取った、汝一人に重石(おもし)を背負ってそう沈まれて仕舞うては源太が男になれるかやい。

 詰らぬ思案に身を退て馬鹿にさえなって居ればよいとは、分別が摯実(くすみ)過ぎて至当(もっとも)とは云われまいぞ。応左様ならば我が為(す)ると得たり賢(かしこ)で引受けては、上人様にも恥かしく第一源太が折角磨いた侠気(をとこ)も其所で廃って仕舞うし、汝は固(もとよ)り虻蜂取らず、智慧のないにも程のあるもの。そしては二人が何可からう。さあ其故に美しく二人で仕事をしようというに、少しは気まづいところがあってもそれはお互い、汝が不足な程に此方にも面白くないのあるは知れきった事なれば、双方忍耐(がまん)仕交(しあう)として忍耐のできぬ訳はない筈。何もわざわざ骨を折って汝が馬鹿になって仕舞い、幾日の心配を煙と消(きや)し天晴な手腕(うで)を寝せ殺しにするにも当らない。


 のう十兵衞、我の云うのが腑に落ちたら思案を飜然(がらり)と仕変えてくれ。源太は無理は云わぬつもりだ。これさ何故黙って居る、不足か不承知か、承知してはくれないか。ゑゝ我の了見をまだ呑み込んではくれないか。十兵衞、あんまり情ないではないか、何とか云うてくれ、不承知か不承知か、ゑゝ情ない、黙って居られては解らない、我の云うのが不道理か、それとも不足で腹立てゝか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまで徹す江戸ッ子腹の、源太は柔和(やさし)く問いかくれば、聞居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様あゝ有り難うござりますると口には出さねど、舌よりも真実を語る涙をば溢らす眼に、返辞せぬ夫の方を気遣いて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の頭重く低(た)れ、ぽろり/\と膝の上に散らす涙珠(なみだ)の零(お)ちて声あり。

 源太も今は無言となり少時(しばらく)ひとり考えしが、十兵衞汝はまだ解らぬか、それとも不足とおもうのか。成る程折角望んだことを二人でするは口惜かろ、しかも源太を心(しん)にして副になるのは口惜かろ、ゑゝ負けてやれこうして遣ろう、源太は副になってもよい、汝を心に立てるほどに、さあさぁ清く承知して二人で為うと合点せい、と己が望みは無理に折り、思いきってぞ云い放つ。とッとんでもない親方様、仮令十兵衞気が狂えばとて何して其様はできますものぞ、勿体ない、と周章て云うに、左様なら我の異見につくか、と唯一言に返されて、それは、と窮(つま)るをまた追っ掛け、汝(きさま)を心に立てようか乃至それでも不足か、と烈しく突かれて度を失う傍にて女房が気もわくせき、親方様の御異見に何故まあ早く付かれぬ、と責むるが如く恨みわび、言葉そゞろに勧むれば十兵衞ついに絶体絶命、下げたる頭を徐(しづか)に上げ円(つぶら)の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衞心になっても副になっても、厭なりや何してもできませぬ、親方一人で御建なされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云わせず源太は怒って、これほど事を分けて云う我の親切(なさけ)を無にしてもか。唯(はい)、ありがたうはござりまするが、虚言(うそ)は申せず、厭なりやできませぬ。汝(おのれ)よく云った、源太の言葉にどうでもつかぬか。是非ないことでござります。やあ覚えて居よ、こののっそりめ。他(ひと)の情の分らぬ奴、其様の事云えた義理か、よしよし汝(おのれ)に口は利かぬ、一生溝(どぶ)でもいぢって暮せ。五重塔は気の毒ながら汝に指もさゝせまい、源太一人で立派に建てる、成らば手柄に批点(てん)でも打て。
 其十六
 ゑい、ありがたうござります、滅法界に酔いました、もう飲(いけ)やせぬ、と空辞誼(そらじぎ)は五月蠅ほど仕ながら、猪口もつ手を後へは退かぬが可笑き上戸の常態(つね)。清吉もぅ走酒に十分酔たれど遠慮に三分(ぶ)の真面目をとゞめて殊勝らしく坐り込み、親方の不在(るす)に斯様爛酔(へべ)ては済みませぬ、姉御と対酌(さし)では夕暮を躍るようになってもなりませんからな、アハヽ。無暗に嬉しくなって来ました、もう行きませう、はめを外すと親方の御眼玉だ。だがしかし姉御、内の親方には眼玉を貰っても私(わっち)は嬉しいとおもって居ます。なにも姉御の前だからとて軽薄を云うではありませぬが、真実(ほんと)に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもって居ます。

 日外(いつぞや)の凌雲院の仕事の時も鐵や慶を対(むこう)にして詰らぬことから喧嘩を初め、鐵が肩先へ大怪我をさしたその後で鐵が親から泣き込まれ、嗚呼悪かった気の毒なことをしたと後悔しても此方も貧的、何様(どう)してやるにも遣り様なく、困りきって逃亡(かけおち)とまで思ったところを、黙って親方から療治手当も為てやって下された上、かけら半分叱言らしいことを私(わっち)に云われず、たゞ物和しく、清や汝(てめぇ)喧嘩は時のはづみで仕方はないが気の毒とおもったら謝罪(あやま)ておけ。鐵が親の気持も好かろし汝(てめぇ)の寝覚も好というものだと心付けて下すったその時は、嗚呼何様して此様(こんな)に仁慈(なさけ)深かろと有難くて有難くて私は泣きました。鐵に謝罪る訳はないが親方の一言に堪忍(がまん)して私も謝罪に行きましたが、それから異(おつ)なもので何時となく鐵とは仲好になり、今では何方にでも万一(ひょっと)したことのあれば骨を拾って遣らうか貰おうかという位の交際(つきあい)になったも皆な親方の御蔭、それに引変へ茶袋なんぞは無暗に叱言を云うばかりで、やれ喧嘩をするな遊興(あそび)をするなと下らぬ事を小五月蠅く耳の傍(はた)で口説きます。


 ハヽヽいやはや話になったものではありませぬ。ゑ、茶袋とは母親(おふくろ)の事です。なに酷くはありませぬ茶袋で沢山です、然も渋をひいた番茶の方です。あッハヽヽ、ありがとうござります、もう行きませう。ゑ、また一本燗(つけ)たから飲んで行けと仰るのですか、あゝありがたい、茶袋だと此方で一本というところを反対(あべこべ)にもう廃せと云いますは、あゝ好い心持になりました、歌ひたくなりましたな、歌へるかとは情ない、松づくしなぞは彼奴に賞められたほどで、と罪のないことを云えばお吉も笑いを含むで、そろ/\惚気は恐ろしい、などと調戯(からか)ひ居るところへ帰って来たりし源太、おゝ丁度よい清吉居たか、お吉飲まうぞ、支度させい、清吉今夜は酔い潰れろ、胴魔声の松づくしでも聞てやろ。や、親方立聞して居られたな。
 其十七
 清吉酔うては※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)束(しまり)なくなり、砕けた源太が談話(はなし)ぶり捌(さば)けたお吉が接待(とりなし)ぶりに何時しか遠慮も打忘れ、擬(さ)されて辞(いな)まず受けては突と干し酒盞(さかづき)の数重ぬるまゝに、平常(つね)から可愛らしき紅ら顔を一層沢々(みづみづ)と、実の熟(い)った丹波王母珠(たんばほおづき)ほど紅うして、罪もなき高笑いやら相手もなしの空示威(からりきみ)、朋輩の誰の噂彼の噂、自己(おのれ)が仮声(こわいろ)の何所其所で喝采(やんや)を獲たる自慢、奪(あげ)られぬ奪られるの云い争いの末何楼(なにや)の獅顔(しかみ)火鉢を盗り出さんとして朋友(ともだち)の仙の野郎が大失策(おおしくじり)をした話し、五十間で地廻りを擲った事など、縁に引かれ図に乗って其から其へと饒舌り散らす中、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張って、ぐにやりとして居し肩を聳(そば)だて、冷たうなった飲みかけの酒を異(をか)しく唇まげながら吸い干し、一体あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるというが私(わっち)には頭(てん)から解りませぬ。

 仕事といえば馬鹿丁寧で捗(はこ)びは一向つきわせず、柱一本鴫居一ツで嘘をいえば鉋を三度も礪(と)ぐような緩慢(のろま)な奴。何を一ツ頼んでも間に合った例(ためし)がなく、赤松の炉縁一ツに三日の手間を取るというのは、多方あゝいう手合だろうと仙が笑ったも無理はありませぬ。それを親方が贔屓(ひいき)にしたので一時は正直のところ、済みませんが私も金(きん)も仙も六も、あんまり親方の腹が大きすぎて其程でもないものを買ひ込み過ぎて居るではないか、念入りばかりで気に入るなら我等(おれたち)も是から羽目板にも仕上げ鉋、のろり/\と充分(したたか)清めて碁盤肌にでも削らうかと僻味(ひがみ)を云った事もありました。


 第一彼奴は交際(つきあい)知らずで女郎買(じょろうかい)一度一所にせず、好闘鶏(しゃも)鍋つゝき合った事もない唐偏朴。何時か大師へ一同(みんな)が行く時も、まあ親方の身辺(まわり)について居るものを一人ばかり仲間はづれにするでもないと私が親切に誘ってやったに、我(おれ)は貧乏で行かれないと云った切りの挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか。銭がなければ女房(かか)の一枚着を曲げ込んでも交際(つきあい)は交際で立てるが朋友(ともだち)づく。それも解らない白痴(たわけ)の癖に段々親方の恩を被て、私や金と同じことに今では如何か一人立ち、然も憚りながら青涕(あおっぱな)垂らして弁当箱の持運び、木片(こっぱ)を担いでひょろ/\帰る餓鬼の頃から親方の手について居た私や仙とは違って奴は渡り者。次第を云えば私らより一倍深く親方を有難い忝ないと思って居なけりやならぬ筈。

 親方、姉御、私は悲しくなって来ました。私はもしもの事があれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽りを食っても飛び込むぐらゐの了見は持って居るに、畜生ッ、あゝ人情(なさけ)ない野郎め、のっそりめ。彼奴は火の中へは恩を脊負っても入りきるまい、碌な根性は有って居まい、あゝ人情ない畜生めだ、と酔が図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそ/\めそ/\泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、例(いつも)の癖が出て来たかと困った風情は仕ながらも自己(おのれ)の胸にものっそりの憎さがあれば、幾分(いくら)かは清が言葉を道理(もっとも)と聞く傾きもあるなるべし。


 源太は腹に戸締のなきほど愚魯(おろか)ならざれば、猪口を擬(さ)しつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝惚るな我の前だは、三の切を出しても初まらぬぞ。その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、汝が惚けた小蝶さまの御部屋ではない、アッハヽヽと戯言(おどけ)を云えば尚真面目に、木※(「木+患」、第3水準1-86-5)珠(ずずだま)ほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿の中につっこみ、しやくり上げ歔欷(しゃくりあげ)して泣き出し、あゝ情ない親方、私を酔漢(よっぱらい)あしらいは情ない。酔っては居ませぬ、小蝶なんぞは飲べませぬ、そういえば彼奴の面が何所かのっそりに似て居るやうで口惜くて情ない。のっそりは憎い奴、親方の対(むこう)を張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が和(やさ)し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智のようなは道理(もっとも)だと伯龍が講釈しましたが彼奴のようなは大悪無道、親方は何日のっそりの頭を鉄扇で打ちました。何日(いつ)蘭丸にのっそりの領地を与(や)ると云いました。私は今に若も彼奴が親方の言葉に甘えて名を列べて塔を建てれば打捨(うっちゃ)てはおけませぬ、擲き殺して狗(いぬ)にくれます。此様いうように擲き殺して、と明徳利の横面突然(いきなり)打き飛ばせば、砕片(かけら)は散って皿小鉢跳り出すやちん鏘然(からり)。馬鹿野郎め、と親方に大喝されてその儘にぐづりと坐り沈静(おとなし)く居るかと思えば、散かりし還原海苔(もどしのり)の上に額おしつけ既鼾声(いびき)なり。源太はこれに打笑い、愛嬌のある阿呆めに掻巻かけて遣れ、と云いつゝ手酌にぐいと引かけて酒気を吹くこと良久しく、怒って帰って来はしたものゝ彼様(あぁ)では高が清吉同然、さて分別がまだ要るは。
 其十八
 源太が怒って帰りし後、腕拱(こまぬ)きて茫然たる夫の顔をさし覗きて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事は畢竟(つまり)手に入らず、夜の眼も合さず雛形まで製造(こしら)えた幾日の骨折も苦労も無益(むだ)にした揚句の果に他(ひと)の気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかゝるのは余りといえば情ない、女の差出た事をいうと唯一口に云わるゝか知らねど、正直律義も程のあるもの。親方様が彼程(あれほど)に云うて下さる異見について一緒にしたとて恥辱(はぢ)にはなるまいに、偏僻(かたいじ)張って何の詰らぬ意気地立て、それを誰が感心なと褒ませう。親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方の御心持もよい訳、またお前の名も上り苦労骨折の甲斐も立つ訳、三方四方みな好いに何故その気にはなられぬか。少しもお前の料簡が妾の腹には合点(のみこめ)ぬ。能くまあ思案仕直して親方様の御異見につい従うては下されぬか。お前が分別さえ更(かえ)れば妾が直にも親方様のところへ行き、何にか彼にか謝罪(あやまり)云うて一生懸命精一杯、打たれても擲かれても動くまい程覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪り貫(ぬ)いたら御情深い親方様が、まさかに何日まで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは堪忍(かに)して下さることもあろう。

 分別仕更て意地張らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の道理(もっとも)なれど、十兵衞はなお眼も動かさず。あゝもう云うてくれるな、あゝ、五重塔とも云うてくれるな、よしない事を思いたって成る程恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衞の分別が足らいで出来(でか)したこと、今更何共是非がない。しかし汝の云うように思案仕更るは何しても厭。十兵衞が仕事に手下は使おうが助言は頼むまい。人の仕事の手下になって使われはせうが助言はすまい。桝組も椽配(たるきわ)りも我がする日には我の勝手、何所から何所まで一寸たりとも人の指揮(さしづ)は決して受けぬ。善いも悪いも一人で脊負って立つ。他の仕事に使われゝば唯正直の手間取りとなって渡されただけの事するばかり。生意気な差出口は夢にもすまい、自分が主でもない癖に自己(おの)が葉色を際立てゝ異(かわ)った風を誇顔(ほこりが)の寄生木(やどりぎ)は十兵衞の虫が好かぬ。

 人の仕事に寄生木となるも厭なら我が仕事に寄生木を容るゝも虫が嫌えば是非がない。和(やさ)しい源太親方が義理人情を噛み砕いて態々慫慂(すすめ)て下さるは我にも解ってありがたいが、なまじい我の心を生して寄生木あしらいは情ない。十兵衞は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木(やどりぎ)になって栄えるは嫌いぢゃ。矮小(けち)な下草(したぐさ)になって枯れもせう大樹(おおき)を頼まば肥料(こやし)にもなろうが、たゞ寄生木になって高く止まる奴らを日頃いくらも見ては卑い奴めと心中で蔑視(みさ)げて居たに、今我が自然親方の情に甘えて其になるのは如何あっても小恥しうてなりきれぬは、いっその事に親方の指揮のとおり此を削れ彼(あれ)を挽き割れと使わるゝなら嬉しけれど、なまじ情が却って悲しい。汝も定めて解らぬ奴と恨みもせうが堪忍してくれ。ゑゝ是非がない、解らぬところが十兵衞だ、此所がのっそりだ、馬鹿だ、白痴漢(たわけ)だ、何と云われても仕方はないわ。あゝッ火も小くなって寒うなった、もう/\寝てでも仕舞おうよ、と聴けば一々道理の述懐。お浪もかえす言葉なく無言となれば、尚寒き一室(ひとま)を照せる行燈も灯花(ちょうじ)に暗うなりにけり。
 其十九
 その夜は源太床に入りても中々眠らず、一番鶏二番鶏を耳たしかに聞て朝も平日(つね)よりは夙(はよ)う起き、含嗽(うがい)手水(てうづ)に見ぬ夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むく/\と起き上ったる清吉寝惚眼(ねぼれめ)をこすり/\怪訝顔してまごつくに、お吉ともども噴飯(ふきだ)して笑い、清吉昨夜は如何したか、と嬲(なぶ)れば急に危坐(かしこま)て無茶苦茶に頭を下げ、つい御馳走になり過ぎて何時か知らず寝て仕舞いました。姉御、昨夜私(わっち)は何か悪いことでも為はしませぬか、と心配相に尋ぬるも可笑く、まあ何でも好いは、飯でも食って仕事に行きやれ、と和(やさ)しく云われてますます畏(おそ)れ、恍然(うっとり)として腕を組み頻りに考え込む風情、正直なるが可愛らし。

 清吉を出しやりたる後、源太は尚も考えにひとり沈みて日頃の快活(さっぱり)とした調子に似もやらず、碌々お吉に口さえきかで思案に思案を凝らせしが、あゝ解ったと独り言するかと思えば、愍然(ふびん)なと溜息つき、ゑゝ抛(なげ)ようかと云うかとおもえば、何してくれようと腹立つ様子を傍にてお吉の見る辛さ。問い慰めんと口を出せば黙って居よとやりこめられ、詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。源太は其等に関(かま)いもせず夕暮方まで考え考え、漸く思い定めやしけん衝(つ)と身を起して衣服をあらため、感応寺に行き上人に見(まみ)えて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私も余り解らぬ十兵衞の答に腹を立てしものゝ帰ってよくよく考えれば、仮令(たとえ)ば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それでは折角御諭しを受けた甲斐なく源太がまた我慾にばかり強いようで男児(をとこ)らしうもない話し、というて十兵衞は十兵衞の思わくを滅多に捨はすまじき様子、彼も全く自己(おのれ)を押えて譲れば源太も自己を押えて彼に仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろいろ愚昧(おろか)な考を使って漸く案じ出したことにも十兵衞が乗らねば仕方なく、それを怒っても恨むでも是非のない訳、既(はや)この上には変った分別も私には出ませぬ、唯願うはお上人様、仮令ば十兵衞一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思いますまいほどに、十兵衞になり私になり二人共々になり何様(どう)とも仰せつけられて下さりませ。

 御口づからの事なれば十兵衞も私も互に争う心は捨て居りまするほどに露さら故障はござりませぬ。我ら二人の相談には余って願いにまゐりました、と実意を面に現しつゝ願へば上人ほく/\笑われ、そうぢゃろそうぢゃろ、流石に汝(そなた)も見上げた男ぢゃ。好い/\、その心掛け一つで既う生雲塔見事に建てたより立派に汝はなって居る。十兵衞も先刻(さっき)に来て同じ事を云うて帰ったは、彼も可愛い男ではないか。のう源太、可愛がって遣れ可愛がって遣れ、と心あり気に云わるゝ言葉を源太早くも合点して、ゑゝ可愛がって遣りますとも、といと清(すず)しげに答れば、上人満面皺にして悦び玉いつ。好いは好いは、嗚呼気味のよい男児ぢゃな、と真から底から褒美(ほめ)られて、勿体なさはありながら源太おもわず頭をあげ、お蔭で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。既にこの時に十兵衞が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧きたるなるべし。
 其二十
 十兵衞感応寺にいたりて朗圓上人に見(まみ)え、涙ながらに辞退の旨云うて帰りしその日の味気なさ。煙草のむだけの気も動かすに力なく、茫然(ぼんやり)としてつくづく我が身の薄命(ふしあわせ)、浮世の渡りぐるしき事など思い廻(めぐら)せば思い廻すほど嬉しからず、時刻になりて食う飯の味が今更異(かわ)れるではなけれど、箸持つ手さえ躊躇(たゆた)い勝ちにて舌が美味(うま)うは受けとらぬに、平常は六碗七碗を快う喫(く)いしも僅に一碗二碗で終え、茶ばかり却って多く飲むも、心に不悦(まづさ)の有る人の免れ難き慣例(ならひ)なり。

 主人(あるじ)が浮かねば女房も、何の罪なき頑要(やんちゃ)ざかりの猪之まで自然(おのづ)と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望(のぞみ)もなければ快楽(たのしみ)も一点あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪暁天(あかつき)の鐘に眼覚めて猪之と一所に寐たる床より密(そっ)と出るも、朝風の寒いに火のない中から起すまじ、も少し睡(ね)させておこうとの慈(やさ)しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわいなく寐て居し平生(いつも)とは違い、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭ぢゃい厭ぢゃい、父様を打っちゃ厭ぢゃい、と蕨(わらび)のような手を眼にあてゝ何かは知らず泣き出せば、ゑゝこれ猪之は何したものぞ、と吃驚(びっくり)しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父様を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寐て居らるゝ、と顔を押向け知らすれば不思議そうに覗き込で、漸く安心しはしてもまだ疑惑(うたがい)の晴れぬ様子。

 猪之や何にも有りはしないは、夢を見たのぢゃ。さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床に這入って寐て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、掻巻かけて隙間なきよう上から押しつけ遣る母の顔を見ながら眼をぱっちり、あゝ怖かった、今他所(よそ)の怖い人が。おゝおゝ、如何かしましたか。大きな、大きな鉄槌(げんのう)で、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾度(いくつ)も打って、頭が半分砕(こわ)れたので坊は大変吃驚した。ゑゝ鶴亀※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)、厭なこと、延喜(えんぎ)でもないことを云う、と眉を皺むる折も折、戸外(おもて)を通る納豆売りの戦(ふる)え声に覚えある奴が、ちェッ忌々しい草鞋が切れた、と打ち独語きて行き過ぐるに女房ます/\気色を悪(あし)くし、台所に出て釜の下を焚きつくれば思う如く燃えざる薪(まき)も腹立しく、引窓の滑(すべり)よく明かぬも今更のように焦れったく、嗚呼何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、猶気になる事のみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分で呵(しか)て平日(いつも)よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、溌々(いきいき)として夫をあしらい子をあしらえど、根が態とせし偽飾(いつわり)なれば却って笑いの尻声が憂愁(うれい)の響きを遺して去る光景(ありさま)の悲しげなるところへ、十兵衞殿お宅か、と押柄(おうへい)に大人びた口きゝながら這入り来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつき直と来られべしと前後(あとさき)なしの棒口上。

 お浪も不審、十兵衞も分らぬことに思えども辞(いな)みもならねば、既(はや)感応寺の門くゞるさえ無益(むやく)しくは考えつゝも、何御用ぞと行って問えば、天地顛倒こりや何(どう)ぢゃ、夢か現か真実か、圓道右に爲右衞門左に朗圓上人中央(まんなか)に坐したもうて、圓道言葉おごそかに、この度建立(こんりゅう)なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべき筈のところ、方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衞其方に確(しか)と御任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受申せ、と云い渡さるゝそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衞よ、思う存分仕遂(しと)げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよ、と荷担(になう)に余る冥加の御言葉。のっそりハッと俯伏せしまゝ五体を濤(なみ)と動(ゆる)がして、十兵衞めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云いし限(ぎ)り喉(のど)塞(ふさ)がりて言語絶え、岑閑(しんかん)とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽(かすか)にしてまた人の耳に徹しぬ。





(私論.私見)