鴨長明の「方丈記」

 (最新見直し2008.2.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「青空文庫/方丈記」、「方丈記 ― 全文全訳(対照併記)」、「鴨長明 『方丈記』、その原文と朗読」、「方丈記原文・現代語訳・解説・朗読」その他参照。

 2008.2.2日 れんだいこ拝


【鴨長明「方丈記」】
ゆく川の流れは絶えずして… 冒頭
 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。

 玉しきの都の中に棟(むね)を並べ甍(いらか)を争(あらそ)へる、高き卑(いや)しき人のすまひは、代々を經(へ)て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋(たづ)ぬれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或ひは去年(こぞ)破れて今年造れり。或ひは大家(おほいへ)滅びて小家(こいへ)となる。

 住む人もこれに同(おな)じ。所も変はらず、人も多(おほ)かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死し、夕(ゆふ)べに生るゝならひ、たゞ水の泡(あは)にぞ似たりける。

 
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、仮りの宿り、誰(た)が爲に心を惱まし、何によりてか目を喜(よろこば)しむる。その主(あるじ)とすみかと、無常(むじやう)を争ひ去るさま、いはゞ朝顏の露(つゆ)に異(こと)ならず。或ひは露おちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或ひは花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
予、ものの心を知れりしより… 安元の大火
 予(およそ)、われ、物の心を知れりしよりこのかた、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゆんしう)を送(おく)れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々(たびたび)になりぬ。去(い)ぬる安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜、戌(いぬ)の時許(ばか)り、都の巽(たつみ、東南)より火出で來りて乾(いぬゐ、西北)に至る。果(は)てには朱雀門(しゆしやくもん)、大極殿(だいこくでん)、大學寮(だいがくれう)、民部の省(みんぶしやう)まで移りて、一夜(ひとよ)がほどに、塵灰(ぢんくわい)となりにき。火元(ほもと)は樋口富の小路(ひぐちとみのこうぢ)とかや、病(舞?)人を宿せる仮屋(かりや)より出で來けるとなむ(言ひける )。

 吹き迷ふ風にとかく移り行くほどに、扇を拡げたるが如く末広(すゑひろ)になりぬ。遠き家は煙(けぶり)にむせび、近きあたりはひたすら焔(ほのほ)を地(ぢ)に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねく紅(くれなゐ)なる中に、風に堪(た)へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。

 その中の人現(うつゝし)心ならむや。或ひは煙にむせびて倒(たふ)れ臥(ふ)し、或ひは炎にまぐれてたちまちに死ぬ。或ひは又わづかに身一つ辛うじて遁(のが)れたれども、資財(しざい)を取り出づるに及ばず。七珍萬寳(しつちんまんぽう)、さながら灰燼(くわいじん)となりにき。その費(つひえ)いくそばくぞ。

 このたび公卿(くぎやう)の家十六燒けたり。ましてその外は数へ知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女(なんによ)死ぬる者數千人(すせんにん)、馬牛(うまうし)のたぐひ邊際(へんざい/へんさい)を知らず。人の営み皆な愚かなる中に、さしも危(あやふ)き京中(きやうぢゆう)の家を作るとて寶を費(つひ)やし心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
また、治承四年卯月のころ… 治承の辻風(竜巻)
 また治承四年(じしようよねん)卯月(うづき)廿九日のころ、中の御門(なかのみかど)京極(きやうごく)のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町(さんしちやう)をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるも小(ちひ)さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒れたるもあり。桁(けた)、柱ばかり殘れるもあり。

 又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に吹き落とし置き、又垣(かき)を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内の資材(たから)、數をつくして空にあがり、檜皮(ひはだ)葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に亂(みだ)るゝがごとし。塵(ちり)を煙(けぶり)のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしく鳴りどよむ音に、物いふ聲も聞えず。

 かの地獄(ぢごく)の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそは吹かずとぞ覺ゆる。家の損亡(そんばう)せるのみならず、これをとり繕ふ間に、身を損(そこ)なひて、片輪(かたは)づける者數(かず)を知らず。この風未(ひつじさる)の方に移り行きて、多くの人の歎(なげ)きなせり。辻風は常に吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。
また、治承四年水無月のころ… 福原遷都(都移り)
 又同じ年の治承四年水無(みな)月の頃、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、既に四百余歳(しひやくよさい)を経(へ)たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、た安(やす)からず憂(うれ)へあへるさま、実(げ)にことわりにも過ぎたり。

 されどとかく言ふ甲斐(かひ)なくて、帝(みかど、御門)よりはじめ奉りて、大臣(だいじん)公卿(くぎやう)ことごとく攝津國難波の京に移り給ひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官(つかさ)、位(くらゐ)を得ることに思ひをかけ、主君(しゆくん)のかげを頼むほどの人は、一日(ひとひ)なりとも、疾(と)く移(うつ)らむと励みあへり。出世の機会としての良き時を失ひ世に(あま)されて、期(ご)する所なき者は、憂(うれ)へながら京のみやこにとまり居れり。かつては軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝ荒れ行く。家はこぼたれて淀川(よどがは)に浮び、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心皆改(あらた)まりて、たゞ馬鞍(うまくら)をのみ重くす。牛車(うしくるま)を用とする人なし。西南海(さいなんかい)の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。
その時、おのづからことの便りありて… 平安還都
 その時、おのづから事のたよりありて、津の國の今の京すなはち福原に到れり。所のありさまを見るに、その地ほど狭(せば)くて、條里(でうり)を割るに足らず。北は山に沿(そ)ひて高く、南は海に近くて下(くだ)れり。波の音つねにかまびすしくて、潮風(しほかぜ)殊に激し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様(やう)かはりて、優(いう)なるかたも侍りき。

 日々にこぼち、川も狭(せ)きあへず、運び下す家はいづくに作れるにかあらむ。なほ空(むな)しき地は多く、作れる屋は少なし。古京(ふるさと)は既に荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、皆な浮雲(うきぐも)の思ひをなせり。元より此處に居(を)れるものは、地を失ひて憂ふ。今移(うつ)り住む人は、土木(とぼく)のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乘るべきは方々馬に乘り、衣冠(いくわん)布衣(ほい)なるべきは直垂(ひたゝれ)を着たり。都の手振りたちまちに改(あらた)まりて、唯(ただ)ひなびたる武士(ものゝふ)にことならず。

 これは世の亂るゝ瑞相(ずいさう)とか聞きおけるもしるく、日を經(へ)つゝ世の中浮き立ちて、人の心も治らず。民(たみ)の憂へつひに空(むな)しからざりければ、同じ年の冬、猶(なほ)福原よりこの京に歸り給ひにき。されど既にこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元の様(やう)にも作らず。

 ほのかに傳へ聞くに、古(いにしへ)の賢(かしこ)き御代には、あはれみをもて國を治め給ふ。則ち御殿に茅(かや)をふきても軒をだに整へず。かまどの煙の乏しきを見給ふ時は、限りある貢物(みつぎもの)をさへ許されき。これ民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
また、養和のころとか… 養和の飢饉
 又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず。二年(ふたとせ)が間、世の中飢渇(けかつ)して、あさましきこと侍りき。或ひは春、夏日でり、或ひは秋、冬大風(おほかぜ)、大水(おほみづ)などよからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとく実らず。空しく春耕し、夏植うる営みありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或ひは地を捨てゝ堺(さかひ、境)を出で、或ひは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)はじまりて、なべてならぬ法(のり)ども行はるれども、さらにその験(しるし)なし。

 京の習(なら)ひ、なに事につけても、みなもとは田舍(ゐなか)をこそ頼めるに、絶えて上(のぼ)る者なければ、さのみやは操(みさを)も作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの(財物)、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見(めみ)たつる人もなし。たまたま易(か)ふるものは、金(こがね)を軽(かろ)くし、粟(あわ、ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、道(路)の邊に多く、憂(うれ)へ悲しむ聲耳に満(み)てり。
前の年、かくの如く… 疫病の流行
 前(さき)の年かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は立ち直(なほ)るべきかと思ふに、あまりさへ(あまつさえ)疫癘(えきれい、えやみ)うちそひて、まさるやうに(まさざまに)跡形(あとかた)なし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水(しょうすい)の魚(うお、いお)の喩(たと)へに叶へり。果てには、笠(かさ)うち着(き)、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひ歩(あり)く。

 かくわびしれたるものどもの、歩(あり)くかと見れば則ち斃れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、路頭に飢ゑ死ぬる者のたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、臭(くさ)き香(か)世界に満ち満ちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原(かはら)などには、馬車(むまくるま)の行き交(かふ、ちがふ)道だにもなし。

 あやしき賤(しづ)、山がつも力つきて、薪(たきゞ)にさへ乏(とも)しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出(い)でたる価(あたひ)、猶一日(ひとひ)が命を支ふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、赤き丹(に)つき、しろがねこがねの箔(はく)など所々につきて見ゆる木の相交じれり。これを尋(たづ)ぬれば、すべき方なき者、古寺(ふるでら)に至りて佛(ほとけ)を盗(ぬす)み、堂の物の具を破り取りて、割り砕(くだ)けるなりけり。濁惡(じよくあくせ)の世にしも生れあひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。

 又、いとあはれなること侍りき。さりがたき女(め)、男(をこと)など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深き者は必ず先立ちて死ぬ。その故(ゆゑ)は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、人をいたはしく思ふあひだに、たまたま乞ひ得たる食物(くひもの)を、まづ譲(ゆづ)るによりてなり。されば父子(おやこ)である者は定まれる事にて、親ぞ先立ちて死にける。又母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、臥せるなどもありけり。
仁和寺に隆暁法印といふ人… 仁和寺の隆暁法印
 仁和寺(にんなじ)に、慈尊院の大藏卿隆曉法印(りゆうげうほふいん)といふ人、かくしつゝ、数しらず死ぬることを悲しみて、ひじりをあまた語らひつゝ、その死首(かうべ)の見ゆるごとに、額に梵語(ぼんご)の阿字(あじ)を書きて、御仏への縁を結ばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四、五兩月がほど数へたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極(きやうごく)より西、朱雀(しゆしやか)より東、道のほとりにある頭(かしら)、すべて四萬二千三百余りなむありける。いはむやその前後に死ぬる者多く、また、みやこ東の賀茂川の河原、みやこ東北の郊外にある白河(しらかは)、西の京、もろもろの邊地(へんぢ)などを加えていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道(しよこくしちだう、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)をや。近くは崇徳院(すとくゐん)の御位(おほんくらゐ、みくらい)の時、長承(ちやうしよう)の頃かとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。眼(ま)のあたりにすればいとめづらかに、かなしかりしことなり。
また、同じころかとよ… 元暦の地震
 また元暦二年の頃(同じ頃かとよ)、おびただしく大地震(おおなゐ)振ること侍りき。そのさま世の常ならず。山は崩れて川を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地(くがち)をひたせり。土裂(さ)けて水湧(わ)きあがり、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。渚(なぎさ)漕ぐ船は浪にたゞよひ、道ゆく駒(馬)は足の立ち処(ど)を惑(まど)はせり。

 いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔一つとして全(まつた/また)からず。或ひは崩れ、或ひは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)立ちのぼりて、盛りなる煙(けぶり)のごとし。地のふるひ、家のやぶるゝ音、雷(いかづち)に異(こと)ならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。走り出づればまた地割れ裂(さ)く。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。恐れの中に恐るべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りしか。

 その中に、ある武者(むしや/ものゝふ)のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地(ついひぢ)のおほひの下に小家をつくり、はかなげなる跡(あど)なしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれ埋(う)められて、跡形(あとかた)なく、平(ひら)にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜(を)しまず、悲(かな)しみあひて侍りしこそあはれに悲(かな)しく見はべりしか。子のかなしみにはたけき者のも耻(はぢ、恥)を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。

 かくおびたゞしく振ることはしばしにて止(や)みにしかども、その余震の名残(なごり)しばしば絶えず。世の常におどろくほどの地震、二、三十度振らぬ日はなし。十日(とをか)廿日(はつか)過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、或ひは四五度、二三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二三日(にさんにち)に一度など、大かたその名残り、三月(みつき)ばかりや侍りけむ。

 仏教で言うところ、万物を生じさせる「池水火風」の四つの種すなわち四大種(しだいしゆ)の中に、水火風(すい・くわ・ふう)はつねに害をなせど、大地(だいぢ/だいち)に至りては殊なる變をなさずとあるも、空しきことわりなり。昔、齊衡(さいかう)のころかとよ。大地震(おほなゐ)ふりて、東大寺の佛(ほとけ)の御首(みぐし)落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶この(たび)にはしかずとぞ。すなはち人皆なあぢきなきことを述べて、いさゝか心の濁(にご)りも薄(うす)らぐと見えしほどに、月日かさなり年越(としへ)にしかば、後は言の葉にかけて言ひ出づる人だになし。
すべて世の中のありにくく… 鎌倉時代の格差
 すべて世のありにくきこと、わが身と栖(すみか)との、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所(ところ)により、身のほどに(したが)ひて、心を悩ますこと、あげて数ふべからず。もしおのづから身数ならずして、權門(けんもん)のかたはらに居(を)る者は深く悦ぶことあれども、大(おほ)きに楽(たの)しぶに能(あた)はず。嘆(なげ)き切(せち)なる時も、対面を気にして聲をあげて泣くことなし。進退(しんだい)やすからず。立ち居(ゐ)につけて、権力者の顔色をうかがい恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹(たか)の巣に近づけるがごとし。

 もし貧しくして富める家の隣に居(を)る者は、朝夕(あさゆふ)すぼき(みすぼらしい)姿を耻ぢ(恥)てへつらひつゝ出で入る。妻子(さいし)、我が家に雇っている僮僕(とうぼく)の羨(うらや)めるさまを見るにも、福家(富める家)の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々(ねん/\)に動(うご)きて、時として安からず。もし狭(せば)き地に居れば、近くの家に炎上(えんしやう)ある時、その害をのがるゝことなし。もし家がみやこの邊地(へんぢ)にあれば、用を足すにも往反(わうばん)わづらひ多く、盗賊(たうぞく)の難(なん)はなはだし。

 また勢(いきほ)ひあるものは貪欲(とんよく)深く、独(ひと)り身なるものは人に軽(かろ)しめらる。寶(ざい/たから)あれば恐れ多く、貧しければ恨み切(せち)なり。人を頼めば、その身他の奴(やつこ)となり、人を育(はぐく)めば心恩愛(おんない)につかはる。世にしたがへば身苦(くる)し。したがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなる業(わざ)をしてか、しばしもこの身を宿し玉ゆらも心を慰むべき。
十一 わが身、父方の祖母の家を伝へて… 隠棲の理由
 我が身、父方(ちゝかた)の祖母(おほゞ)の家をつたへて、久しく彼(か)所に住む。そののち縁(ゑん)欠けて、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひに祖母の家に屋(や)とどむることを得(え)ずして、三十餘(みそぢ)あまりにして、更に我が心と一の庵(いほり)を結ぶ。

 これをありし住まひに並(なら)ぶる(なずらふる)に、十分が一なり。たゞ辛うじて寝起きするだけの居屋(ゐや)ばかりを構へて、はかばかしくは屋敷を造るに及ばず。わづかに築地(ついひぢ)を築(つ)けりといへども、門を建つるたづき(方法、手段)なし。竹を柱として、とりあえずそこに牛車(くるま)を宿(やど)せり。雪降り風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原(かはら)近ければ、水の難も深く、白波の恐れも騒がし。

 すべてあらぬ世を念(ねん)じ過(す)ぐしつゝ、心を悩ませることは、三十餘年(さんじふよねん)なり。その間折々のたがひめ(意に反すること、不本意なこと/失敗)に、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で世を背(そむ)けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿(くわんろく)あらず、何につけてか執(しふ)着をとゞめむ。むなしく大原山(おほはらやま)の雲に伏(ふ)して、またいくそばくの春秋(しんしう)をなん経(へ)にける。
 こゝに六十(むそぢ)のいのちの露(つゆ)消えがたに及びて、さらに末葉(すゑば)の宿りを結べることあり。いはゞ旅人(たびゞと)の一夜(ひとよ)の宿をつくり、老いたる蚕(かひこ)の繭(まゆ)を営むがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば(ならぶれば)、また百分が一にだも及ばず。

 とかくいふ程に、齢(よはひ)は年々にかたぶき、栖(すみか)は折々に狭(せば)し。その家のありさまよの常(つね)にも似ず、廣さはわづかに方丈(ほうぢやう、一丈四方=十尺四方)、高さは七尺が内なり。所を思ひ定(さだ)めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを茅などで葺(ふ)きて、継目(つぎめ)ごとに掛け金(がね)をかけたり。もし心にかなはぬことあらば、易(やす)く外へ移さむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくの煩(わづら)ひかある。積むところわづかに二輌(にりやう)なり。車の力を報(むく)ゆるほかは、更に他の用途(ようどう、金銭、費用のこと)いらず。
十二 今、日野山の奧に跡を隠してのち… 庵の様子
  今、日野山(ひのやま)の奧に跡を隠して後、東(ひんがし)に三尺ばかりの庇(ひさし)をさして、炊事のために柴(しば)折(を)りくべるよすがとす。南に竹の簀の子(すのこ)を敷き、その西に仏前に花や水を供え、仏具を置くための閼伽棚(あかだな)を作り、うちには西の垣に添へて(北によせて障子(しやうじ)をへだてゝ)、阿彌陀(あみだ)如来(によらい)の畫像(えざう)を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢(ふげん)を画(か)き、前(まへ)に法花経(法華経、ほけきやう)を置(お)けり。並びに不動の像をかけたり。

 北の障子の上に(西南(せいなん、ひつじさる)に)、小(ちひ)さき竹の棚を構へて、黒き皮籠(かはご)三四合を置く。すなはち和歌、管絃(くわんげん)、往生要集(わうじやうえうしふ)ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。傍(かたはら)に琴(こと)、琵琶(びは)、各々(おのおの)一張(いつちやう)を立つように置く。いはゆる折りたたみのできる折り琴(をりごと)、柄を継ぎ合わせて組み立てられる継ぎ琵琶(つぎびは)、これなり。

 東のきはに、蕨(わらび)のほどろを敷きて(つかなみを敷きて)、夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。仮の庵のありさまかくのごとし。
 その所のありさまを言はゞ、南に筧(かけひ、懸樋)あり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏(とも)しからず。名を音羽山(おとはやま、外山)といふ。まさきのかづら跡をうづめり。谷は草木のしげゝれど、西は晴れたり。西方の開けたれば、観念(くわんねん)のたよりなきにしもあらず。
十三 春は、藤波を見る… 庵での生活
 春は藤波(ふぢなみ)を見る、紫雲(しうん)のごとくして西の方(かた)に匂ふ。夏は郭公(ほとゝぎす)をきく、語(かた)らふごとに死出(しで)の山路(やまぢ)を契(ちぎ)る。秋は日ぐらしの聲耳に充(み)てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。積(つ)もり消ゆるさま、罪障(ざいしやう)にたとへつべし。

 もし念仏(ねんぶつ)もの憂く、読経(どきやう)まめならざる時は、みづから休み、みづから怠(おこた)るに妨(さまた)ぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとりだけで居れば口業(くごふう)を修めつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界(きやうがい)なければ何につけてか破らむ。

 もし、過ぎ行く人生という舟の跡の白波(しらなみ)に身を寄(よ)する朝(あした)には、、岡屋(をかのや、宇治市五ヶ庄岡屋のあたり)に行きかふ船をながめて、滿沙彌(まんしやみ)が風情(ふぜい)をぬすみ歌を詠みもしよう。もし桂の木を吹き抜ける風、葉をならす夕べには、白楽天が琵琶を聞きながら『琵琶行(びわこう)』を作ったという、あの中国の尋陽(じんやう)の江(え)を思(おも)ひやりて、源都督(經信)のながれを習(なら)ふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に琵琶の秘曲である流泉(りうせん)の曲をあやつる。藝はこれ拙(つたな)けれども、人の耳を悦ばしめむと思ふにはあらず。ひとり調(しら)べ、ひとり詠(えい)じて、みづからの心を養ふばかりなり。
十四 また、ふもとに一つの柴の庵あり… 友人との行楽、住まいより出ての生活
 また、麓(ふもと)に一つの柴の庵(いほり)あり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童(こわらは)あり。時々來りてあひ訪(とぶら)ふ。もしつれづれなる時は、これを友として遊行(ゆぎょう)す。かれは十六歳、われは六十歳(むそぢ)、その齡(よはひ)離れたる事ことの外なれど、心を慰むることはこれ同じ。

 或るひは食用にするために、春には茅花(つばな)をぬき、夏には梨に味の似たる岩梨(いはなし)をとる。また秋には山芋の葉の元に付いた零余子(ぬかご)をもり、冬の寒さの残るも初春となれば芹(せり)をつむ。或ひはすそわの田井(たい)に至りて、稲の落穂(おちほ)を拾ひて穂を渇かすために束ねて穂組(ほぐみ)をつくる。もし日うらゝかなれば、嶺(みね、峰)によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山(こはたやま)、伏見の里、鳥羽、羽束師(はつかし)を見る。勝地(しようち)は主(ぬし)なければ、心を慰むるにさしさはりなし。

 歩(あゆ)み煩(わづらひ)ひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき、炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎて、岩間に詣(まう)で、或ひは石山(いしやま)を拝(をが)む。もしはまた粟津(あはづ)の原を分けて、蝉歌(せみうた)の翁(をきな)が迹をとぶらひ、田上川(たなかみがは)を渡りて、猿丸大夫(さるまろまうちぎみ)が墓をたづぬ。歸(かへ)るさには、折(をり)につけつゝ櫻(さくら)を狩り、紅葉(もみぢ)をもとめ、わらびを折り、木の實(このみ)を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。

 もし、夜(よ)静かなれば、窓の月に故人(こじん)を忍び、猿の聲に袖(そで)をうるほす。くさむらの螢(ほたる)は、遠く眞木(まき)の島の篝火(かゞりび)にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐(あらし)に似たり。山鳥(やまどり)のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰のかせき(鹿の古名)の近く馴(な)れたるにつけても、世に遠(とほ)ざかる程を知る。或ひは埋火(うづみび)をかきおこして、老(おい)の寐覺(ねざめ)の友とす。おそろしき山ならねど、梟(ふくろふ)の聲をあはれむにつけても、山中の景氣(景色)、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしも限るべからず。
十五 おほかた、この所に住みはじめし時は… 静穏な独居生活
 大かた此所(このところ)に住みそめし時は、あからさまと思ひしかど、今既に五年(いつとせ)を經たり。假の庵(いほり)もやゝふる屋となりて、軒(のき)に朽葉(くちば)深く、土居(つちゐ)に苔(こけ)むせり。おのづから事のたよりに都の様子を聞けば、この山に籠(こ)もり居(ゐ)てのち、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數(かず)ならぬたぐひ、たとえ数え尽(つ)くしてもこれを知るべからず。

 たびたびの炎上(えんしやう)に滅びたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮(かり)の庵のみ、のどけくして恐れなし。ほど狭(せば)しといへども、夜臥(ふ)す床あり、昼居る座(ざ)あり。一身を宿すに不足なし。がうな(ヤドカリのこと)は小(ちひ)さき貝を好む、これよく身を知るによりてなり。みさご(タカ目タカ科の鳥)は荒磯に居る、則ち人を恐るゝが故なり。我またかくのごとし。身(事)を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞ静かなるを望みとし、憂(うれ)へなきを楽しみとす。

 惣(すべ)て世の人の、栖(すみか)を作るならひ、必ずしも身のためにはせず。或ひは妻子(さいし)眷屬(けんぞく)のために作り、或ひは親昵(しんぢつ、親しい人)朋友(ぼういう)のために作る。或ひは主君(しゆくん)、師匠(しゝやう)および財寳、牛馬(ぎうば)のためにさへこれをつくる。我今、身のために結(むす)べり、人のために作らず。故(ゆゑ)いかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、頼むべき奴(やつこ)もなし。縦(たとひ)廣く作れりとも、その屋敷に誰をか宿し、誰をか据え(すゑ)む。
十六 それ、人の友とあるものは… 自助による生活
 それ、人の友たるものは富(と)めるを尊(たふと)み、ねんごろなるを先とす。必ずしも情(なさけ)あると、素直(すなほ、すぐ)なるとをば愛せず。たゞ絲竹(しちく)花月(くわげつ)を友とせむにはしかじ。人の奴(やつこ)たるものは賞罰(しやうばつ)のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす(先とす)。更に育(はごく)みあはれぶといへども、やすく閑(しづか)なるをば願はず。

 たゞ我が身を奴婢(ぬび)とするにはしかず。いかが奴婢とするならば、もしなすべきことあれば、すなはちおのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりはやすし。もし歩(あり)くべきことあれば、自ら歩む。苦しといへども、馬鞍(うまくら)、牛車(うしくるま)と心を悩ますにはしかず。

 今、一身(いつしん、ひとみ)を分かちて、二つの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乗物(のりもの)、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、苦しむ時は休(やす)めつ、まめなる時は使ふ。使ふとてもたびたび過(す)ぐさず、物憂(ものう)しとても心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、、常に働くは、これ養生(やうじやう)なるべし。なんぞいたづらに休み居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力を借(か)るべき。(反語/ いいや借りるべきではないよ)
十七 衣食のたぐひ… 閑居の気味
 衣食(いしよく)のたぐひ、また同じ。藤(ふぢ)の衣(ころも)、麻(あさ)の衾(ふすま)、得るに隨(したが)ひて肌(はだへ)を隠(かく)し、野邊(のべ)のつばな(嫁菜(よめな)の古称)、嶺の木の實、わづかに命を継(つ)ぐばかりなり。

 人に交(まじ)はらざれば、姿を耻(恥)づる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とも)しければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶる(比べる)ばかりなり。

 大かた世を逃(のが)れ、身を捨てしより、うらみもなく恐(おそ)れもなし。命は天運(てんうん)にまかせて、惜(お)しまず、いとはず。身をば浮雲(うきぐも)になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期の楽しみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯(しやうがい)の望みは、折々の美景(びけい)にのこれり。

 それ三界(さんがい)は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、象馬七珍(ぞうめしっちん)もよしなく、宮殿(くうでん)樓閣(ろうかく)も望みなし。今寂しき住ひ、一間(ひとま)の庵(いほり)、みづからこれを愛す。おのづから都(みやこ)に出でゝは、乞食(こつがい)となれることを恥(はづ)といへども、帰(かへ)りてこゝに居る時は、他の俗塵(ぞくぢん)に着することをあはれぶ。

 もし、人、この言へることを疑がはゞ、魚(いを)と鳥(とり)との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林を願ふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居(かんきよ)の氣味(きび)もまたかくの如し。住まずして誰か悟(さと)らむ。
十八 そもそも、一期の月影傾きて… 結末
 そもそも一期(いちご)の月影傾(かたぶ)きて餘算(よさん)の山の端(は)に近し。忽(たちまち)に三途(さんづ)の闇(やみ)に向かはむ時、何の業(わざ)をか託(かこ)たむとする。佛の人を教へ給ふ趣(おもむき)は、事に触(ふ)れて執心(しふしん)なかれとなり。今、草の庵を愛するも咎(とが)とす。閑寂(かんせき)に執着(ぢやく)するもさはりなるべし。いかゞ用なき楽しみを述べて、むなしくあたら時を過さむ。(反語/いいや、過ごすべきでないよ)

 静かなる曉(あかつき)、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世を遁(のが)れて山林(さんりん)にまじはるは、心を修(をさ)めて仏の道を行はむがためなり。然るを汝(なんぢ)が姿は聖(ひじり)に似て、心は濁(にご)りに染(し)めり。住(す)みかは則ち淨名居士(じやうみやうこじ)の跡をけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特(しゆりはんどく)が行にだも及ばず。もしこれ貧賤(ひんせん)の報(むくい)のみづから悩(なや)ますか、はた亦妄心(まうしん)のいたりて狂(くるは)せるか、その時、心(こゝろ)更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根(ぜつこん)をやとひて不請(ふしやう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)念佛、兩三返(りやうさんべん)を申して止(や)みぬ。時に建暦(けんりやく)の二年(ふたとせ)、彌生(やよひ)の晦日(つごもり)比(ごろ)、桑門(さうもん)の蓮胤(れんいん)、外山(とやま)の庵にしてこれを記(しる)す。
 「月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな」。
 鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。俗名は同じだが「読み」がかものながあきら。
時代: 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕: 久寿2年(1155年)
氏族: 鴨(賀茂)氏
別名: 南大夫、菊大夫
 鴨長明 『方丈記』、その原文と朗読」参照

 鴨長明 (かものながあきら・通称かものちょうめい)。 

 1155(久寿2)年(あるいは1153年)生まれ
 1216(建保4)年閏6.10日(7.26日)死去。

 京都市左京区にある賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ)(下賀茂神社・しもがもじんじゃ。葵祭りでも知られる)に、神職を司る鴨一族の息子として生まれる。父親の鴨長継(かものながつぐ)は正禰宜(しょうねぎ)であり、下賀茂神社においてはトップの地位にあたる。長男は鴨長守、長明は次男。母親は不明。

 7歳の時、二条天皇の中宮の推薦により従五位下を授かるという異例の昇進街道の一歩目を踏み出す。ついに二歩目は踏み出せず生涯従五位下のままであった。


 1172-73年頃、父親が亡くす。(母親も早期に亡くなっていた可能性がある) やがて父親の跡目争いや家の相続などの争いが一族内に起こり、それに敗れたと考えられる。すでに妻子があり、後にこれを捨てた可能性もあるが詳細は不明である。

 音楽と和歌に優れ、琵琶を中原有安(なかはらのありやす)に学び、和歌を俊恵(しゅんえ)(1113-1191)(百人一首「よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり」の作者)に学ぶ。

 1181年、自らの家集『鴨長明集』を自選し、『千載和歌集』にも一首選出されるなど、歌人としての名声を高めていき、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)にその才能を認められ、数々の歌合で活躍した。

 1201年、和歌所が設置されると、その寄人(よりうど)(選歌などを行う)として撰ばれる。彼も選定に加わったであろう勅撰和歌集が、1205年、新古今和歌集として完成し、彼の和歌も十首を収められている。但し、その前に都を逃れている。

 1204年、後鳥羽上皇の力もあり、賀茂御祖神社の摂社(せっしゃ)、つまり属する神社である河合神社の禰宜(ねぎ)に抜擢されそうになるも、親戚の鴨祐兼(かものすけかね)の反対により断念。なお禰宜職を与えようとする後鳥羽上皇の沙汰を振り切るように、謹慎して家に籠もり、後に遁世して世捨て人となった。

 出家して、蓮胤(れんいん)の法名(ほうみょう)をいただき大原に移る。

 1208年、日野に移り、いわゆる方丈の庵を結ぶ。
 1211年、関東に旅し、時の将軍である源実朝(みなもとのさねとも)(1192-1219)と会見。和歌の話などを行う。この頃、和歌の随筆的歌論書である『無名抄(むみょうしょう)』を執筆。
 1212年、『方丈記』を記す。

 晩年、出家した世捨て人の説話集である『発心集(ほっしんしゅう)』を執筆しつつ、1216年、生没(享年62歳)。





(私論.私見)