新版/フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」

 (最新見直し2013.07.05日)

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 2013.07.05日 れんだいこ拝


【フィヒテの履歴】
 「ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ」。
 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb  Fichte, 1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツの哲学者である。息子のイマヌエル・フィヒテ(通称:小フィヒテ)も哲学者。

 
ドイツ東部・ドレスデン近郊の寒村ランメナウの農家の息子として生まれた。貧困のため修学できず、近くの教会で行われた説教や親族に聞かされたゲルマン神話などを糧に少年時代をすごす。教会で聞いた説教は、すべてほぼ完璧に覚えていたため、たまたま教会で説教を聴きそこなった、貴族ミリティツ侯にそれを聞かしたところ、侯から学資の援助をしてもらえることになった。

 後にドイツの名門校プフォルタ学院に進学、(ここは後にニーチェランケも通う)そしてイェナ大学へと進学することができた。しかし、ミリティツ侯が死亡し学資がストップしたため、26歳のとき大学での研究は潰える。自殺を決心するほど、貧困に苦しんだが、友人の紹介でスイスにおいて家庭教師の職を得る。そこで、カント哲学を教材として扱い、カントの哲学に興味を覚え、1793年に70歳近くになったカントのいるケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)を訪ねる。そこで、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作『あらゆる啓示批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung) をカントの仲介で出版。一躍、著名になる。


 翌年、イェーナ大学教授に就任。この頃の大学での講義における「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」という言葉が有名。『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre) などを著す。1799年には、神概念のあり方をめぐり、無神論論争 (Atheismusstreit) を引き起こした。結局無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。後に、主としてベルリンに滞在した。このころに、『人間の使命』(Die Bestimmung des Menschen) などを著す。


 一般に1801年以降を後期思想とよぶ。後期思想では自我概念が後退し、絶対者あるいは神が中心的な主題として現れてくる。この神はキリスト教の神そのままではなく、自由な道徳的主体の総体である我々(das Wir)を可能にする根拠であり、そのような神的な性格をもつものとしての絶対者をいう。ベルリン大学が開講されると、その初代の哲学教授に就任した。ナポレオン1世のベルリンの占領下で一般大衆向けに行われた講演『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)、『浄福なる生への指教』(Die Anweisung zum seligen Leben) などを行う他、知識学の講義も行っている。


 晩年はスイスの教育者ペスタロッチにも傾倒。自らも『学者の使命・学者の本質』(Einige Vorlesungen Über die Bestimmung des Gelehrten) を著した。晩年はリューマチ熱に苦しんだ。ナポレオンがプロイセンから敗退した後、混乱する国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加したが、その間にチフスに感染した。夫人を看護し続けたフィヒテもチフスに感染、間もなく急逝。52歳であった。遺体はベルリンのドローデン墓地へ埋葬された。フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘された。後年、ヘーゲルの強い希望により、ヘーゲルの遺体はフィヒテの墓のとなりに埋葬されることになった。現在は、フィヒテ夫婦とヘーゲル夫婦の墓が隣り合わせに並んでいる。

 著作
  • 全知識学の基礎(Grundlage der gesammten Wissenschaftslehre、1794/1795年)
  • 人間の使命(Die Bestimmung des Menschen、1800年)
ドイツ国民に告ぐ (岩波文庫)

 一人の哲人が国民のすべてに何かを訴えることは、歴史上においてもそうそうないことである。政治家や革命家なのではない。フィヒテは哲人であり、一介の大学教授である。しかも著述ではない。声を嗄らしての肉声の演説だった。マイクロフォンもなかった。では、なぜフィヒテはドイツの国民すべてに向かって熱烈な演説を連打しつづけようとしたのか。その肉声で何を訴えたかったのか。

 ぼくがこの本の標題を知ったときの名状しがたい戦慄感のようなものは、何といったらいいか、ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」とか「この人を見よ」と言ったということを知ったときとよく似た驚異に近いものだった。ドイツ国民に告ぐ? そのころのドイツとはどういう国だったのか。大群衆を前にして語ったのだろうか。それならレーニンやヒトラーのようなものなのか。いやいや、大学の先生がそんなことをするはずがない。では、いったいこのフィヒテという男は何者だったのだ?
 フィヒテは1762年にイエナの職工の家に生まれ、イエナ大学で神学を、ついでライプチヒ大学で哲学と法学を修めた。30歳、カントの推奨で『あらゆる啓示の批判私論』を公刊して評判をとると、イエナ大学教授に迎えられた。すぐに『全知識学の基礎』を問い、知識人を唸らせた。 これは編集的世界観の近代的な芽生えのひとつであって、また現象学の萌芽でもあった。 1798年、フィヒテは哲学雑誌を編集していたのだが、そこに載せた文章が無神論だとの非難をうけ、論争に発展した。いわゆる無神論論争である。翌年、イエナ大学を追われるようにして辞めたフィヒテは、シュレーゲル兄弟、シュライエルマッハー、ティークらのロマン派の文人たちと交流、新たなドイツ人としての深い自覚に入っていった。

 そこに立ち塞がったのがナポレオンである。その時代背景については略するが、フランス軍がプロイセンを支配するなか、フィヒテは何度も軍靴高まるベルリンのアカデミーで講演に立ち、祖国の再生を訴えた。ウンターデン・リンデン通りにある真冬のベルリン・アカデミーの講堂だ。講演は14回にわたった。それがぼくを驚かせた『ドイツ国民に告ぐ』である。熱烈な教育論だった。
 フィヒテは次のように演説を始めた。「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています。もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら、この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって牛耳られることになるでしょう」。そして、次のような趣旨を激烈に語っていく。
 私がこれから始める講演は、3年前の冬に行った『現代の特質』の続きだ。私は先の講演において我々の時代は世界史の第3期にあたり、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということに向かって突き進んだことを述べた。しかし同時にこれがために、利己心は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだと語った。これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。なぜドイツ人のためなのか。それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。そのためには我々は「拡大された自己」を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。
 フィヒテの講演は、このあとしだいに新たな教育の提案に移っていく。それはドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学である。ここでその内容をあっさり要約してしまうのは、フィヒテの演説の熱情と口調を失わさせるのでしのびないのだが、やむをえずかいつまむと、提案はおおむね6項目にわたっていた。

 (1)学校を、生徒が生み出す最初の社会秩序にするための「共同社会」にするべきだということ。
 (2)教育は男女ともに同じ方法でおこなわれなければならないということ。
 (3)学習と労働と身体が統一されるような教育こそが、とくに幼年期から必要であること。
 (4)学校は「経済教育」をおこなう小さな「経済国家」のモデルであろうとするべきであること。
 (5)真剣な宗教教育こそが「感性界」を可能世界にしていくはずだということ。
 (6)すべての教育は国民教育でなければならず、したがってすべての教育はドイツ人に共通のドイツ語でなければならないということ。

 この6項目だ。いまではそれほど画期的なことを主張しているわけではないと見えようが、当時の教育論がペスタロッチに代表されている時期、しかもその計画をドイツ人の民族観念や言語感覚と根本的に結びつけ、それを熱情あふるる口調で主張しつづけたということは、やはり尋常ではなかった。しかし、この内容はぼくには意外だった。最初に本書を買ったのは高校時代で、パラパラと中を見て、どうも予想した様子とはちがうと思った。ついで大学になって、ある必要から全部を読んだ。ある必要というのは創作演劇の一部にこれをつかおうかという単純な上級生の発案で、ぼくがその脚本化を任されたからだった。これは難産して、結局おシャカになった。しかし、そのとき本書を読んでみて、実はかなり心を揺さぶられた。内容が教育論だけだとは思わなかった。このように一国の民族を語る方法があるということに、心を揺さぶられたのだった。

 当時のぼくは半端なマルクス主義者だった。またアナキズムにも惹かれていた。だからフォイエルバッハやヘーゲルまでならともかくも、フィヒテがおもしろいはずはない。なんだってカント、シェリング、フィヒテなんぞはドイツ観念論で片付けるのが、当時の学生マルクス主義の常套手段の切り口なのである。

 それなのに、『ドイツ国民に告ぐ』はそうした思想の系譜を越えるものをどこかにもっていた。フィヒテはナショナリズムにさえ見えなかった。いま、ぼくにはフィヒテの思想の全貌を述べる用意がない。またいまは、そのつもりもない。しかし、フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』で、ここまで教育の必要性を徹底的に追求したことと、そこに当時のドイツ民族の命運を解くすべての推理をぶちこんでみせたことについては、脱帽しておきたいと思っている。なぜなら、いまのぼくのまわりには日本の教育の実情を嘆き、その改革を説く連中がごまんといるのだが、あるとき「フィヒテはドイツ国民に何を告げたか御存知か」と訊いたとき、誰もその内容を知らなかったばかりか、その連中の改革案には日本人に対する洞察がひとつもなかったように見えたからである。おそらく今日における教育は、その半分か3分の2くらいはグローバリズムの中にあっていいだろう。けれども、残りの時間やカリキュラムには、やはり日本語による日本人のための教育が静かに沸騰していてよいように思われる。いつかまたフィヒテを読まないではいられなくなることを、いまは惧れたい。
 参考¶フィヒテの知識学について何も述べられなかったが、その概観は中央公論社の「世界の名著」のフィヒテ・シェリングの巻で瞥見できる。またフィヒテがヘーゲルとはかなり異なる精神現象学に到達していることは、フィヒテ『浄福なる生への導き』(平凡社ライブラリー)を、フィヒテの思索を辿るものとしてはディーター・ヘンリッヒの『フィヒテの根源的洞察』(法政大学出版局)を読むことを薦めておきたい。

 2012.07.29
 あの有名なナポレオン一世が、フランス革命の混乱を収拾すると、今度はヨーロッパ各国の征服に乗りだしました。1806年、ドイツはナポレオン軍に敗れ、国内の重要拠点を占領されました。そのうえ巨額の賠償金を背負わされ、陸軍の兵力四万二千人に削減されました。しかし当時のナポレオン軍は、ドイツの指導者を戦犯裁判にかけたり、フランス製の憲法を押しつけたり、教育内容をすっかり変えるような徹底した洗脳工作は行いませんでした。それでも当時のドイツは「占領軍の支配を受けはじめると、まるでその時を待ち兼ねていたかのように、誰も彼もが、われ遅れじと外国人の機嫌を取ろうとした。かつてはドイツの政府や政治家たちに対して媚びへつらい、ぶざまに這いつくばっていた人たちが、今度は国を極めて誹謗し、ドイツのものといえば何でもかんでも悪しざまにののしるようになった」。この引用部分は、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の一節です。当時ベルリン大学の教授をしていた彼は、ドイツの亡国症状を座視することができず、ベルリン学士院を砦にして憂国の講演を続けました。進駐軍を窓外にながめ、時に軍鼓に妨げられながら。その講演内容である『ドイツ国民に告ぐ』を読めば、戦後の日本とそっくりではないかと思われる部分が、あまりにも多いのに驚かされます。この本は戦前の日本ではよく読まれましたが、戦後の今こそ必読書ではないかと思うのです。ここではとても全体を紹介することはできませんが、フィヒテは当時のドイツを「全体に対する個人の関心」がまるでなくなり、「名誉を重んずる心や国家の対面などを、人を欺く虚幻と考えるようになった」と指摘しています。このようになった遠因は教育にあるとして、「教師の訓戒に従うかどうかは、生徒の自由意志であって、いかなる教育でもこの意志を奪うことができない」などという「低級な自由」を認める当時の教育界の荒廃ぶりも追及しています。
 『世界に生きる日本の心』(名越二荒之助)より

 下記は、そのフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の一節ですが、「ドイツ」を「日本」に変更して掲載したいと思います。
 「我々は即座に日本人になればよいのだ。本来あるべきものになればよいのだ。我々は精神を他人の支配にまかせてはならない。これが為には、まず堅確な精神を養わなければならない」。

 「自ら日本国民たるを信じ、日本国民の偉大にして高尚な国民たることを疑わず、日本国民に望みを託し、日本国民の為に生命を賭し、艱難(かんなん)に耐え、苦痛を忍び、今日限り動揺を止め、信念を強固にしなければならぬ」。

 これは日本の国学者たちの思想にも共通するものですが、今の日本に最も必要なことのように思われます。

 <関連>
 戦後、日本人に植えつけられた二元論的思考
 http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry-
1780.html


 信念をもって謙虚な心を貫き通した国学者たち
http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry
-890.html

 「苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)」の「フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』」。
 はじめに

 カント哲学を継承したフィヒテは、ヘーゲル、シェリングと並ぶドイツ観念論哲学の大物だ。しかしむしろ現代では、カントからヘーゲルをつないだ役割が評価されているに過ぎず、哲学的にはもう過去のものといえるかも知れない。その理由は、本作からもうかがい知ることができるのではないかと思う。しかし彼の哲学はともあれ、この著作がドイツ国民にもたらした影響は甚大だった。

 時はナポレオンによるプロイセン(ドイツ)占領時代。彼はドイツ民族の優秀さを謳い上げ、「国民教育」の重要性について熱弁を振るった。「国家」がいまだ十分に存在しなかった当時のドイツにおいて、フィヒテのような過剰な民族主義の称揚者が現れることは、いわば歴史の必然―比喩的な意味での―であったということができるかも知れない。
 「新教育は人間そのものを作らなければならない」。これが、『ドイツ国民に告ぐ』の最初のテーゼである。これまでの教育(旧教育)は、人間を作ってこなかった、とフィヒテは批判する。

 なぜドイツ人がすぐれているか。それは、他のゲルマン民族と違って、ドイツ人は一つの言語を変わらず使い続けてきたからだ。言語が長い歴史を通して磨かれれば磨かれるほど、人間は「超感覚的部分」について思考できるようになる。また真の人間たるドイツ人は、民族が永遠であることを知っている。自らを生かしているものが、民族であることを知っている。「彼はこの特性の永遠の存続を欲せざるを得ない。何となれば彼にとってひとりこの特性のみが、彼のこの世の短き生命を既にこの世ながらに永遠の生命に伸べ得る解放の手段であるからである。〔中略〕そは彼の民族に対する彼の愛であって、まず第一に敬し信頼し、民族を喜び、その民族の中より生まれたることを矜りとするの心である。〔中略〕第二には、民族のために活動し、民族のために自己を犠牲にせんとするの個々とである」。「真の人間、すなわち、絶対的法則(神の法則)を、それが真理であるがゆえにのみ愛することのできる人間を作る。そしてそれができるのはドイツ国民だけである」。
①自主的活動を通して、学ぶことそれ自体を楽しみにせよ。「生徒は好んで楽しんで学ぶものである。そして彼は力の緊張の続く限りは、学ぶこと以外には何物をも為そうとは欲せぬのである。何となれば生徒は学ぶことに於て自主的活動をなす、しかもそれに彼は直接に最高の楽しみを感ずるからである。〔中略〕吾人はこの純潔なる学問の愛を燃え立たしむべき手段を発見した。それは生徒の直接なる自主的活動を刺激して、これをすべての認識の基礎たらしめ、学ぶことはすべて自主的活動に依って学ばしめるということである」 「従来の教育法では、その知識の獲得が将来有用なることや、その獲得に依らなければ衣食と名誉とを能わざることなどを説き、且つ直接その場の賞罰をも用いなければならなかったのである。——かくの如く認識は始めより既に官能的愉悦の従者として取り扱われていた。而してかかる教育は、その内容をもっては上に述べたる如く道義的なる考え方を発達せしむるの力なく、ただ生徒の心の外面に触るるに過ぎぬからして、時としては道徳的堕落をさえも植えつけ且つ助長し、そして教育の関心をこの堕落の関心と結びつけざるを得なくなったのである。」。②子どもは他者を鏡として育つ。「自己以外の尺度に信頼して自己の価値を決定せんとするのがまた少年及び未丁年の特徴であって、この特徴あればこそ、人間的完成に向って生い育つ後進の少年に対するすべての訓戒及び教育は可能となるのである。〔中略〕すべての道義的教育の基礎は、まず児童にかかる衝動のあることを知り、これを確実に前提とするにある」

《ドイツ国民に告ぐ》

  • 【フィヒテ】
    …自我中心主義を純粋に守った点でフィヒテこそドイツ観念論の唯一の哲学者とみなす解釈者もいる。倫理思想への〈衝動〉概念の導入,個人の自由を中心とした法哲学の体系化,ドイツの国民意識の鼓吹(《ドイツ国民に告ぐ》1808)によって,同時代のロマン主義,共和主義,国民主義に大きな影響を与えた。貧困に終始苦しめられたフィヒテには独自の社会主義的構想(交易の国家管理)もあり,M.ヘスに影響がみられる。…
  • 【ベルリン】より
    …1806年,ナポレオンはこのブランデンブルク門からベルリンに入り,11月21日,有名な大陸封鎖令を宣言,ベルリンは以後2年間にわたりフランス軍の占領下におかれた。この占領期およびその直後のベルリンは,フィヒテの連続講演《ドイツ国民に告ぐ》(1806‐07)やF.L.ヤーンによる体操場の設置(1809年,市郊外のハーゼンハイデ)などを通じて,ドイツ国民意識高揚の中心地の一つとなり,1810年にはドイツ再建の精神的支柱とすべく,K.W.vonフンボルトの尽力によってベルリン大学が設立された。このベルリン大学では19世紀前半には,A.vonフンボルト,グリム兄弟,ヘーゲル,ランケが教えるなどドイツのアカデミズムの新しい中心となり,1836‐41年にはマルクスも学んでいる。…
  • ※「《ドイツ国民に告ぐ》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

 連載・エッセイの目次
第9回 ナポレオン戦争をめぐるフィヒテとヘーゲル その4(1/2) ―2009.08.25執筆者プロフィール
 フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」と題された連続講演を、ベルリンですでに1804/1805年の冬学期、1805年の夏学期、1806年の夏学期と3回にわたって行なっていたという(『フィヒテ全集第15巻』晢書房、2005年、訳者解説、470頁、参照)。書物としていま読むことのできるのは、それらに続いて行なわれた1807/08年の冬学期の、第4回目の連続講演である。それ以前の「ドイツ国民に告ぐ」と最後の『ドイツ国民に告ぐ』を比較することはできない。しかし、『ドイツ国民に告ぐ』が敗戦後ただちに構想されたものではなく、少なくともそれ以前の3、4年の期間にわたって練り上げられたものであること、そしてそのようにして練り上げられた内容に、第4回目の連続講演は、プロイセンの敗北とフランス軍の駐留という決定的な背景のもとでなされたということ、この2点を私たちは見落とすことができないだろう。数年にわたって練り上げてきた自らの思想を、フィヒテは文字どおり四面楚歌のベルリンで、聴衆にあらためて語りかけたのだ。
フィヒテは全体で14回からなるこの連続講演の冒頭3回で、新たな「国民教育」の必要を訴える。それは無知な民衆を教化するたんなる「民衆教育(Volkserziehung)」ではなくほんものの「ドイツ国民教育(deutsche Nationalerziehung)」でなければならない。なぜなら、民衆教育は特権的な教養層と民衆を分離してしまうものだからである(第1回講演)。そのための方法としてフィヒテは、子どもたちを一般社会から切り離された共同体で育成してゆくことを提案する。そこでは、精神的な教育だけでなく、身体的な訓練や農耕、手工業的な労働も行なわれるとされる(第2回講演)。ここにフィヒテの「社会主義的」な理想のこだまを見ることもできるだろう。そのうえで、第3回講演の末尾でフィヒテは旧約聖書エゼキエル書の、あの「枯れた骨の復活」の部分、第37章1節から10節を、まるごと引用している。つぎのような物語である。
 預言者エゼキエルは主の霊によってある谷に連れ出される。そこには骨がいっぱい散らばっている。それはしかもひどく枯れた骨で、もはや血も髄もなく干からびている。しかし、主の命じるままにエゼキエルがそれらの骨の復活を預言すると、骨はカタカタと音を立てながら近づき合い、骨のうえに筋と肉が生まれ、皮膚が覆った。さらに四方から霊(フィヒテの原文では「風(Wind)」)が吹きつけ、それが復活した骨のなかに入ってゆく。「彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。いささかグロテスクであるとともにきわめて印象的な物語であって、フィヒテはもちろん、このエゼキエルが目撃した谷の光景とフランス軍の支配下にあるドイツの現状を重ねている。そして、そこで「枯れた骨の復活」を祈願する者の位置に自分を置いている。同時に、第3回講演の最後にフィヒテが長々とこの一節を引用=朗読している姿は、最後の第14回講演でのフィヒテの語りと呼応してもいる。フィヒテはそこで遠い祖先の声や近い祖先の声、さらには未来世代の声までを引き出して、さながらそれらの声に憑依されるかのようにしてそれぞれの一人称で語るのである。このエゼキエル書の一節を受けて、フィヒテは第4回講演以降、ドイツ人とは誰か、ドイツ人の本質とはなにかという問いを、一見言語を軸に考察してゆく。第4回講演の最初のほうで、ドイツ人と「他のゲルマン系諸民族」との差異について、フィヒテは以下のように述べている。
 「ドイツ人の運命と、出自を同じくする他の〔ゲルマン系〕種族の運命のあいだの差異に関して、まずはじめにただちに考察されるべきことは、次のことです。すなわち、ドイツ人は基幹民族(Stammvolk)の元来の(ursprünglich)居住地にとどまっているのにたいして、他の種族は別の場所へ移ってしまったということ、またドイツ人は基幹民族の元来の言語を保持しそれをさらに発達させてきたのにたいして、他の種族は外国語を受け入れそれを自分たちのやり方で徐々に変形させていったということです。のちに生じるさまざまな差異はこの最初の違いから初めて説明されねばなりません。たとえば、始原的(ursprünglich)な祖国では、ゲルマン人の元来の風習に従って、限定された権力をもつ君主のもとに国家の連合が置かれてきたのにたいして、諸外国では従来のローマ的なやり方をいっそう強化して〔専制的な〕君主政体へ移行していった、等々の違いです。これは最初の差異から初めて説明されねばなりません。決して逆の順序であってはならないのです。(「ドイツ国民に告ぐ」上野成利・細見和之訳、『国民とは何か』インスクリプト、1997年、78頁)」。

 きのせみかの大和撫子な生活。古神道・古学(国学)研究者。日本の文化と大和の精神をもう一度復活させましょう!大和撫子な生活を紹介。

 日本にも当てはまるフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』

 2012/07/29 14:06

 あの有名なナポレオン一世が、フランス革命の混乱を収拾すると、今度はヨーロッパ各国の征服に乗りだしました。1806年、ドイツはナポレオン軍に敗れ、国内の重要拠点を占領されました。そのうえ巨額の賠償金を背負わされ、陸軍の兵力四万二千人に削減されました。しかし当時のナポレオン軍は、ドイツの指導者を戦犯裁判にかけたり、フランス製の憲法を押しつけたり、教育内容をすっかり変えるような徹底した洗脳工作は行いませんでした。それでも当時のドイツは「占領軍の支配を受けはじめると、まるでその時を待ち兼ねていたかのように、誰も彼もが、われ遅れじと外国人の機嫌を取ろうとした。かつてはドイツの政府や政治家たちに対して媚びへつらい、ぶざまに這いつくばっていた人たちが、今度は国を極めて誹謗し、ドイツのものといえば何でもかんでも悪しざまにののしるようになった」。この引用部分は、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の一節です。当時ベルリン大学の教授をしていた彼は、ドイツの亡国症状を座視することができず、ベルリン学士院を砦にして憂国の講演を続けました。進駐軍を窓外にながめ、時に軍鼓に妨げられながら。その講演内容である『ドイツ国民に告ぐ』を読めば、戦後の日本とそっくりではないかと思われる部分が、あまりにも多いのに驚かされます。この本は戦前の日本ではよく読まれましたが、戦後の今こそ必読書ではないかと思うのです。

 ここではとても全体を紹介することはできませんが、フィヒテは当時のドイツを「全体に対する個人の関心」がまるでなくなり、「名誉を重んずる心や国家の対面などを、人を欺く虚幻と考えるようになった」と指摘しています。このようになった遠因は教育にあるとして、「教師の訓戒に従うかどうかは、生徒の自由意志であって、いかなる教育でもこの意志を奪うことができない」などという「低級な自由」を認める当時の教育界の荒廃ぶりも追及しています。
 『世界に生きる日本の心』(名越二荒之助)より

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 下記は、そのフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の一節ですが、「ドイツ」を「日本」に変更して掲載したいと思います。

「我々は即座に日本人になればよいのだ。本来あるべきものになればよいのだ。我々は精神を他人の支配にまさせてはならない。これが為には、まず堅確な精神を養わなければならない」。

「自ら日本国民たるを信じ、日本国民の偉大にして高尚な国民たることを疑わず、日本国民に望みを託し、日本国民の為に生命を賭し、艱難(かんなん)に耐え、苦痛を忍び、今日限り動揺を止め、信念を強固にしなければならぬ」。

 これは日本の国学者たちの思想にも共通するものですが、今の日本に最も必要なことのように思われます。

 <関連>
 戦後、日本人に植えつけられた二元論的思考
 http://kaminoseki.iza.ne.jp/blog/entry/2764542/

 

 信念をもって謙虚な心を貫き通した国学者たち
 http://kaminoseki.iza.ne.jp/blog/entry/2336982/

 ナポレオン支配下のベルリンでフィヒテが1807年12月から1808年3月にかけて行った連続講演『ドイツ国民に告ぐ』は、高校の世界史の教科書などにもしばしば登場する。このため、ともすれば政治的な文章と思われがちだが、実際に読んでみるとそのほとんどが教育に関する内容であり、相前後して書かれた彼の大学論『学術アカデミーとの適切な連携をもったベルリンに創設予定の高等教育施設の演繹的計画』と表裏一体となって、フィヒテの教育論の重要な部分を形作っている。これはフィヒテがドイツの再生は「新しい教育」の導入なくしては不可能であると考えていたことによる。本稿では、時代背景はもとより、『全知識学の基礎』や『現代の根本特徴』といった彼の他の著作、さらにペスタロツチの教育論などとの関係に留意しつつ、主として国民教育論として『ドイツ国民に告ぐ』を読み解いた。

フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」を演説 ( 1807.09 年 )

フィヒテはドイツの哲学者。
1810年,ベルリン大学創立と共に哲学教授・初代公選総長となる。

【ドイツ国民に告ぐ】

 この有名な演説は、国内におこった「民族意識の欠落」と「道徳的退廃」とを憂い、祖国と民族とをどのように再生するか、その理念と方法を訴えたもので、ドイツ国民に希望を与えようとするものであった。だが、長い間300以上の領邦と50以上の帝国都市に分裂し、ゲーテシラーが「ドイツだって?それはどこにあるのかね?」と嘆いたドイツはどの地域・人々を指したのか。ニーチェが「『ドイツ的とは何か?』という問いが絶えないこと、これがドイツ人の特徴である」と言った、その曖昧な定義のまま統一された人々は、何をもって「統一」としたのか。フィヒテは、同一国民の定義として「同一言語を有すること」を述べているが、確かにフランスでビレル=コトレの王令以後、「標準フランス語」を定めて強制的に国民文化を発展させていったように、国民の差別化を言語に求めるのは自然であるのだろう。とにかくも、この「ドイツ国民」という意識は、プロイセン王国が屈辱的なティルジット条約を結ばされる中、一種のナショナリズムとして普及したのだった。

2003/12/31 masashi tanaka


吉田松陰は、最後の最後まで、天壌無窮の神勅を疑わず、日本を信じぬいてその生涯を閉じました。
わたしたちも、いま、わたしたちが日本人であることを疑わず、日本を信じぬくこと。
そこからはじめることが大事かと思います。
ナポレオンがイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧したのは、19世紀の始め頃のことです。
そのナポ レオンに支配されたベルリンで、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)が1807年12月から1808年3月にかけて行った演説が「ドイツ国民に告ぐ」で、その演説でフィヒテはドイツ国民の愛国心と独立を訴え、ドイツ国民をおおいに奮い立たせました。

このときの演説「ドイツ国民に告ぐ」は、14回にわたって行われた連続講演で、その中で彼は次のようなことも述べています。

「占領軍の支配を受けはじめると、まるでその時を待ち兼ねていたかのように、誰も彼もが、われ遅れじと外国人の機嫌を取ろうとした。かつてはドイツの政府や政治家たちに対して媚びへつらい、ぶざまに這いつくばっていた人たちが、今度は国を極めて誹謗し、ドイツのものといえば何でもかんでも悪しざまにののしるようになった」

なんだかまるで日本の戦後をみるかのようです。
フィヒテが面白いことを述べています。

「我々は即座にドイツ人になればよい。本来あるべき姿に戻れば良いのだ。我々は精神を他人の支配にまかせてはならない。そのためにはまず堅確な精神を養わなければならない。」

「自らドイツ国民たるを信じ、ドイツ国民が偉大かつ高尚な国民たることを疑わず、ドイツ国民に望みを託し、ドイツ国民のために生命を賭け、艱難(かんなん)に耐え、苦痛を忍び、今日限り動揺を止め、信念を強固にしなければならない。」
フィヒテのあと、ドイツにはナチスが起こり、そして一時は英国とスイス以外のヨーロッパ諸国はことごとくドイツの傘下になるまでの勢いを持ちました。
それから、ヒトラーが言ったことに、こんなのがあります。「20歳で共産主義に共鳴しないのは、馬鹿だ! 40歳で共産主義に共鳴しているのは、もっと馬鹿だ!」 ある意味で、名言だと思っています。

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK90 >」の明るい憂国の士氏の2010 年 7 月 14 日日付投稿「『日本国民に告ぐ』 一学究の救国論 藤原正彦」。
 『日本国民に告ぐ』 一学究の救国論 藤原正彦(お茶の水女子大学名誉教授) 「文藝春秋七月号 1/2
http://www.asyura2.com/10/senkyo90/msg/564.html

 閉塞感に包まれているこの国はいったいどこで道を誤ったのか──『国家の品格』の著者があえて提言する「自立」「誇り亡を取り戻すために、いま、日本人がなすべきこと 。一八〇七年、ナポレオン占領下のドイツで哲学者フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という講演の中で、打ちひしがれた国民に祖国再生の熱いメッセージを送った。熱き想いを共有する私は、フィヒテのひそみに倣い、その柄でもないことを顧ず以下を認(したた)めた。

 日本が危危機に立たされている。何もかもがうまくいかなくなっている。経済に目を向けると、バブル崩壊後二十年近くにもなり、その間ありとあらゆる改革がなされてきたがどれもうまくいかない。グローバル化に沿った構造改革も社会を荒廃させただけで、デフレ不況は一向になおらない。財政赤字は世界一となり、なお増え続けている。一人当りGDPもどんどん低下するばかりだ。失業率は増え続け、自殺者数はここ十二年間毎年三万人以上を記録し、世界トップクラスの自殺大国となっている。政治時日を向ければ相変らずの「政治とカネ」ばかりである。自国の防衛さえ自らしようとせず、アメリカへの屈従と引換えに防衛を請う有様である。とても独立国とは言い難いから、中国の首脳にいみじくも「アメリカの妾国」と呼ばれてしまう。そう呼ばれてもさほど恥ずかしいとも思わない。米国債を買わされ続け、すでに世界一、二を争う残高となりながら、売ることさえままならない。なぜかこれについては政府もマスコミも触れようともしない。「年次改革要望書」などという内政干渉に近い要求まで拒めなくなる。郵貯簡保の三百四十兆円をアメリカへ差し出すために行なわれた郵政民営化、世界で最も安定していた日本の雇用を壊した労働者派遣法改正、WHOに世界一と認められていた医療システムを崩壊させた医療改革、外資の日本企業買収を容易にするための三角合併解禁など、みな「年次改革要望書」で要求されたものだった。

 誰もがモラルを失いつつある国

 よい政治家が必要となるが、選挙の半年前までは国政など考えたこともないような素人が登場し、質は低下するばかりである。政治家の大半は相も変らぬ世襲議員、トップに目を付けられた素人、そしてスポーツやテレビなどで顔の売れた人ということになる。これまでの政党に飽足らない議員がどんな新党を結成してみても、今後どんな政界再編があろうと、質の劣化した政治家連の区分けが変わるだけのことであり、質の向上にはつながらない。濁った水はどう分けても濁ったままである。深刻な少子化が進みつつある。若者が二十代で結婚したがらない。やっと結婚しても産みたがらない。晩婚となれば産んでもせいぜい一人か二人ということになる。ここ五年間の出生率は一・三四程度で、人口維持に必要なのは二・〇八だからある時から相当急激な減少が始まることになる。深刻なのはモラルの低下である。政治家や官僚のモラル不足だけではない。子殺し親殺し、それに「誰でもよかったが殺したかった」という無差別殺人など、かつてありえなかった犯罪が頻(しき)りに報道されるようになった。世界で図抜けていた治安のよさも、かろうじてトップレベルという所まで落ちてきた。子供達のモラルも一斉に崩れ、単級崩壊は日本中の小中学校で広く見られるようになりた。除湿ないじめによる子供の自殺が普通のこととなった。数世紀にわたって恐らく世界一だった子供達の学力は、十年ほど前に首位を滑り落ち、その後も落ち続けている。ケータイ病におかされた子供達は今や、世界でもっとも勉強しない予供達とさえ言われる。身近な幸せに安住し、ケータイやインターネットに興じている。視線が内向き下向きになっている。それに学校にはモンスターペアレンツ、病院にはモンスターぺイシャンツと、不満が少しでもあれば大げさに騒ぎ立て訴訟にまで持ちこむ人々が多くなった。人権をはじめとしてやたらと権利を振りかざす人間が多くなった。
 この国の当面するあらゆる困難は互いに関連し、絡み合った糸玉のようになっていて誰もほぐせないでいる。部分的にほぐしたように見えても大ていは‥時的なものに止まり全体の絡みには何の影響も及ぼさない。我が国の直面する危機症状は、足が痛い手が痛い頭が痛いという局所的なものではなく全身症状である。すなわち体質の劣化によるものなのである。漂流し沈下しつつある日本はどうなるのか。日本人は今、深淵に沈み行くことを運命と諦めるか、どうにかせねばと思いながら確たる展望もないままただ徒(いたず)らに焦りもがくばかりである。古くより偉大なる文学芸術を生み、明治以降に偉大なる経済発展をなしとげ、五大列強の一つともなった優秀で覇気に富んだ日本民族は一体どうなったのだろうか。祖国再生の濱はどこにあるのだろうか。
 一般に多くの困難を解決しようとする場合、一つ一つ着実に解決しようとするのは、誰でもまず考えることであるが、大ていの場合、労力がかかるばかりで成功しない。多くの困難が噴出しているというのは、それら全てを貫く何か一つの原理が時代や状況にそぐわなくなっているという ことを意味する。従ってこの原理を変えることで諸国難を一気に解決する、というのが最も効果的なばかりか容易でもあるのだ。それでは我が国は戦後、どのような原理で動いて来たのであろうか。それを考えるには日本人とはどういう民族であったかという所から始めなければならない。
 独立文明を築いた日本

 ハーバード大学の国際政治学者サミュエル・ハンチントン教授は、その一九九〇年代のベストセラー『文明の衝突』の中で世界の文明を七つに分けた。中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明(ロシアなど)、西欧文明、ラテンアメリカ文明である。この中で日本文明以外はすべて、多くの国にまたがるものだ。いかなる分野でも、学者が何かを分類しようとする時、なるべく簡明なものにしようとする。複雑な区分けはもはや分類と呼べないからだ?
 当然、日本という小国だけに存在する日本文明を、中華文明に組み入れようとする。ところが世界の文明を分類しようとする現代のどの学者も、日本文明を独立したものと見なすのである。一万年も前の縄文時代からあった土着の文明に、西暦二世紀頃から中華文明が混じり、十六世紀末からは西欧文明の影響を受けたものの、主に日本という孤島で独自の発達をとげた文明と見なさざるを得ないからである。明瞭に中華文明に含まれる朝鮮半島などと異なり、日本文明と中華文明は何から何まで余りにも隔っているからである。日本人は古来、新しい進んだ文明に触れると、繊細な民族性だけにすぐに劣等感を持ち、それを見習い取り入れてきた。漢字も仏教も西欧の技術もそうだった。ところが不思議なことに、その劣等感をバネに、それら新文明に必らず独創を加え、自分達独自のものに変えて行くのである。漢字が来れば間もなく万葉仮名、片仮名、平仮名を発明し、漢文の訓読を始める。仏教の方も伝米して間もない奈良時代には神仏習合という離れ技をなしとげ、遣唐使の終了した平安未期の頃から日本独自の仏教を創始した。禅や儒教は中国では庶民にまで広がらなかったが、日本では武士道にとり入れたのを皮切りについには国民精神にまで広めてしまう。鉄砲が種子島に伝えられれば、その三十年後には工夫に工夫を加え、て織田信長が世界最優秀の鉄砲を三千丁も量産していた。先進中国のものであっても君主専制や科挙や官官は取り入れないなど、国柄との適合を念頭に、取捨選択と換骨奪胎(かんこつだったい)を繰り返しながら自らのものとしていたのである。
 それでは日本文明とは一体どんな文明なのだろうか。これは難しい問題である。とりわけその中で暮らしている日本人には見えにくい。空気の中で暮らしている人間が空気の存在に気付いたのは、十七世紀になってトリチェリが真空の存在を発見したからであった。人類誕生から数百万年もかかっている。自らの文明は自らは認識しにくく、異質の文明との比較によってようやく見えるものと言ってよい。幸いにして、幕末から明治にかけて来日した欧米人を中心とする多くの論者が様々な考察をしてくれた。
 彼等は、長い航海の後、アジアの各地に寄りながら日本までやって来て、「日本人はなぜこうも他のアジア人と追うのか」ということに驚愕しつつ、日本とは何かについて自問自答を繰り返したのである。多くの欧米人が日本を訪れ、新鮮な日で日本を見つめ、断片的であろうと、個人的印象に過ぎないものであろうと、多くの書物に残してくれたことは実に幸運であった。日本文明が成熟を見た江戸時代の直後だった、ということはなおさら幸運であった。
 彼等の言葉をいくつか、『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社ライブラリー)を引用し参考にしつつ考えてみよう。日米修好通商条約締結のために訪れたタウンゼント・ハりスは、日本上陸のたった二週間後の日記にこう記している。「厳粛な反省──「変化の前兆──「疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」。彼は「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊」することを懸念したのである。ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。「この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなきを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないし。また日英修好通商条約を締結するため来日したエルギン卿の秘書オリファントはこう記す。「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」。
 多くの欧米人がいろいろの観察をしているが、ほぼすべてに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。だからこそアメリカ人のモースは「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。
欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、この国ではまったくそうでないことに驚いたのである。明治六年に来日し、日本に長く生活したイギリス人バジル・チェンバレンはこう記す。「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である。金持は高ぶらず、貧乏人は卑下しない。……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から健じる心が、社食の隅々まで浸透しているのである」。
 イギリスの詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治二十二年に東京で開かれたある講演で日本についてこうまで言っている。「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。……その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすベてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」。
無論ここには詩人らしい誇張も含まれているだろう。しかし実に多くの人々が表現や程度こそ異なれ類似の観察をしているのである。
 現代知識人の本能的自己防衛

 現代知識人の多くはこのような観察を重要なものと思わない。軽視する。江戸時代とは「士農工商という厳しい身分制度に基づいた封建制度の下や庶民は苦しい生活を余儀なくされていた」、明治とは「猛烈な富国強兵策と不平等条約の戦と庶民は困窮していたLという考えに縛られているからである。彼等は「封建制度は悪」という明治以来の日本を支配した欧米歴史学、あるいは「富国強兵は侵略戦争につながった諸悪の根源」という東京裁判史観に縛られているからである。確かにヨーロッパをはじめ世界の封建制度とは、おしなべて専制君主が人民を圧制下におき農民を農奴のごとくこき使い、搾り取れるだけ搾り取るというものであった。国民のほとんどを占める農民はいかなる希望も持てず、どん底の闇を這いずり回るような生活をしていた。欧米流の歴史学を学んだ現代知識人にと?て、幕末から明治初期にかけて来日した外国人の観察は矛盾に満ちたものに映るのである。日本の封建制度が他国の封建制度とは似ても似つかないものであったとは考えずに、単なるオリエント趣味の発露に過ぎず珍らしい骨董品をほめる程度の他愛ないものと思うのだ。あるいは、当時の西欧で流行していたジャポニズム、という眼鏡を通して形成された美しき幻影にすぎず、日本や日本人の実像を示すものではないと考える。人によっては、そういった観察の底には、抜き差しがたい欧米優位思想があり、日本を称えるのは愛玩動物を愛撫ずるようなもので日本蔑視の一形態に過ぎない、とまで考えるのである。
 実は江戸末期に来日した欧米人も同じく、日本の封建制度を見て衝撃を受け、歴史学の常識との矛盾を感じ悩んだのだ。しかし彼らには目の前の現実という「動かね証拠」があったから、日本の封建制度の異質を信じざるを得なかった。現代知識人には「動かぬ証拠」がないからいつまでも疑惑の日を向けるのである。それに、知識人にとって、自己肯定は無知をさらすことであり、自己懐疑こそが知的態度なのだ。と同時に物事を「白」と断ずるのは危険、「灰色」と言うのは安全、ということを知る知識人の本能的自己防衛でもあるのだ。
実はこのような態度は現代知識人に固有のものでもない。英詩人エドウィン・アーノルドが先述の、いささか褒めすぎとも思える絶賛を述べた翌朝の日本の各紙における論説は、アーノルドが日本のやりとげた政治、経済、軍備の躍進に触れず、芸術、自然、人々のやさしさや礼節といったものばかりを賞讃したのは、日本に対する一種の蔑視ではないかと憤ったのである。
 また、明治に長年にわたり日本に暮らしたジャパノロジストのチェンバレンはこう書いている。「新しい教育を受けた日本人のいるところで、諸君に心から感嘆の念を起きせるような、古い奇妙な、美しい日本の事物について、詳しく説いてはいけない。……一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。
 同様のことは明治九年は東大医学部創設期のお雇い教師として来日し日本人と結婚、三十年近くにわたり日本に滞在したドイツ人医師ベルツもこう書いている。「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます」。彼が教養ある紳士達に日本の歴史について尋ねると、ある人は「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」と答え、ある人は「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言したのである。
 明治の頃にせよ終戦後にせよ、何か新らしい価値観に立って進もうとする時、日本人は過去を完全に捨て去り猛進しようとする性向があるようである。終戦後の大ヒット「青い山脈」に「古い上着よさようなら、さもしい夢よさようなら」とあるようにだ。無論それはある意味で仕方ないことだ。その時代の潮流にのり国民一丸となって突き進むことも時には大切だからだ。しかしかつては、そのようなバランスを欠きがちな国民性に歯止めをかける精神、古くは「和魂漢才」、明治には「和魂洋才」などがあった。
ところが戦後のアメリカ化の過程ではついぞ「和魂米才」は耳に入らなかった。あたかも米魂米才を理想として目指しているかの観があった。
 外国人を魅了した日本文化の美徳とは何か

 それはともかく、幕末から明治にかけて来日した外国人の言葉によると、日本は江戸時代に、今日に至るまで白本以外の世界のどこにも存在しなかった、貧しいながち平等で幸せで美しい国を建設していたのである。こういった見聞録に対する現代知識人の冷笑主義に私は与(くみ)しないが、百歩譲ってその言い分を認め、そのような印象が単なる幻影だったとしても、少くとも当時来日したほとんどの外国人に、そのような幻影を抱かせるような現実が、当時の日本にあったことは間違いはない。
 その現実とは何か。明治四年に来日したオーストリアの長老外交官ヒューブナーはこう断言する。「封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。
貪しいながら人々の顔に表れた幸せと滞足感が余りにも著しかったから、すべての来日外国人がこの想像しにくい状況に瞠目し書き記したのである。
 無論、幸せとか満足感に基準はない。当時の欧米は産業革命の真只中でありその歪みも出始めていたが、その頃の自国の人々の表情と比べての印象であることは否めない。
それにしても、表情に表われた幸せや満足感をすべての人々が見聞違うなどということがあり得ようか。人々が健康そうで礼儀正しく正直だったこと、鍵のない部屋や机から何も盗まれなかったこと、街頭や農村で見た人々が子供から人足、車夫に至るまでみな、冗談を言い合っては笑いころげていたこと、これらは現実ではないのか。苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)にあえいでいたはずの当時の農村で、人々が貧しいながら皆幸せそうにしていたいと多くの外国人が言う時、「苛斂誅求にあえいでいた」の真偽を疑うことが先決ではないのか。日本をよく見て歩き将軍家定に謁見までしたハリスが、「将軍の服装は質素で、殿中のどこにも金メッキの装飾はなく、柱は白木のままで、火鉢と私のために用意された椅子とテープルの他には、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった」と書いたのはハリスの幻だったのか。彼が「日本には富者も貧者もいない。正直と質素の黄金時代を他のどの国よりも多くここに見出す」と書いたのは錯覚だったのか。

 世界のどこの地域でもなしとけられなかった、かくも素晴らしい社会を作りた日本人の、卓越した特性をなぜ日本人は誇りに思わないのだろうか。日本以外の国であったら、世界が目をみはった日本文明に関し、歴史教科書で誇り高く詳述するであろう。世界の中で品格をもって生きて行くためにどの国民にとっても必要な、「祖国への誇り」を育くむために活用するだろう。
 現代日本の教科書では無論ほとんど一切触れられていない。前述のように歴史家がそれを嫌い、知識人がそれを忌むからである。自らを自慢することはしたくない、という日本人の謙遜もそこには働いている。祖国への誇りを子供に育くむのは軍国主義につながりかねない、愛国教育ではないのか。などと本気で心配したり、近隣諸国条項を考慮したりする。近隣諸国条項とは一九八二年に教科書検定基準として定められたもので、平らたく言うと、「中国、韓国、北朝鮮を刺赦しかねない叙述はいけない」という政治的なものである。歴史的あるいは国際的な客観性より外交を優先するという代物だ。無論、これら三国にそのような滑稽な規定はない。

 昨春、私はお茶の水女子大学を定年退官したが、定年前の十数年聞、専門の教学以外に、一年生対象の読者ゼミを年に一コマか二コマ担当していた。よく新入生にこう尋ねてみた。「日本はどういう国と思いますか」。彼女達の答えには、表現の差こそあれ、「恥ずかしい国」「胸を張って語れない歴史をもつ国」などと否定的なものが多かった。理由はほぼこういうものだった。「明治、大正、昭和戦前は、帝国主義、軍国主義や植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民重義もなく庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと」。そう習ってきたのである。そう理解することでやっと大学合格にまで漕ぎつけたのである。
 私は彼女達がかくもひどい国に生まれた不幸に同情した後、必ず聞くことにした。「それでは尋ねますが、西暦五〇〇年から西暦一五〇〇年までの十世紀間に、日本一国で生まれた文学作品がその間に全ヨーロッパで生まれた文学作品を、質および量で圧倒しているように私には思えますがいかがですか」。これで学生達は沈黙する。私はたたみかける。「それでは、その十世紀間に生まれた英文学、フランス文学、ロシア文学、をひっくるめて二つでいいから拳げて下さい」。学生は沈黙したままだ。私自身、『カン夕べリ寸物語』くらいしか思い浮かばない。
 私は学生にさらに問う。「この間に日本は、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、源氏物語、平家物語、方丈記、徒然草、太平記……と際限なく文学を生み続けましたね。
それほど恥ずかしい国の恥ずかしい国民が、よくぞ、それほど香り高い文学作品を大量に生んだものですね」。理系の学生がいればさらにたたみかける。「世界中の理系の大学一年生が習う行列式は、ドイツの大天才ライプニッツの発見ということになっていますが、実はその十年前、元禄年間に関孝和が鎖国の中で発見し、ジャンジャン使っていたものですよ」。学生は完全に沈黙する。毎春の授業風景であった。
 これは私の学生のみに見られる傾向ではない。世界数十カ国の大学や研究機関が参加する「世界価値観調査」によると、十八歳以上の男女をサンプルとした二〇〇〇年のデータだが、日本人が「自国を誇りに思う」の項で世界最低に近い。「もし戦争が起こったら国のために戦うか」は一五%と図抜けて世界最低、ちなみに韓国は七四%、中国は九〇%である。恥ずかしい国を救うために生命を投げ出すことなどありえないのである。


 アメリカによる巧妙な属国他戦略

 いかにして日本人は祖国への誇りをかくも失ったのだろうか。もちろん戦後のことである。
 終戦と同時に日本を占領したアメリカの唯一無二の目標は、「日本が二度と立上ってアメリカに歯向かうことのないようにする」であった。それは国務省、陸軍省、海軍省合同で作成した「日本降伏後における米国の初期の対日方針」に明らかである。そのために日本の非武装化、民主化などを行なったが、それに止まらなかった。第一次大戦後、二度と立上がれないほどドイツを非武装化弱体化したが、たった二十年でヨーロッパ最強の陸軍を作ってしまったのをよく知っていたからである。日本人の「原理」を壊さない限り、いつかこの民族が強力な敵国として復活することを知っていたからである。とくに昭和十九年秋に始まった神風特攻隊かも硫黄島、沖縄と続く理性を超越した鬼気迫る抵抗に震撼した直後だけに、なおさらだった。
 まず新憲法を作り上げ、前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いた。日本国の生存は他国に委ねられたのである。第九条の「陸海空軍その他の戦カは、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は、前文の具体的内容である。自分が守らない場合、どこかの国に安全保障を依頼する以外に国家が生き延びる術はない。アメリカ以外にないことは自明であった。すなわち日本はこの時、アメリカの属国となることが決定されたのである。戦争に倦む日本人に対し平和を高らかに謳い上げ、アメリカが平和愛好国であることを印象づけた上で属国化する、という実に巧妙なやり口であった。
 さらには念のため、第一条で国民の心の拠り所であった天皇を、元首からただの象徴にした。さらには皇室典範を新たに定め、十一宮家を皇籍離脱させ、万世一系を保つのがいつか極めて困難になるように仕掛けた。国民の求心力の解体を目論んだのである。それくらいで満足するようなアングロサクソンではない。漢字全廃への第一段階として当用漢字を導入したのは、日本の文化を潰し、愚民化するためであった。世界から絶讃されていた教育勅語を廃止した上で作った教育基本法とは、公への奉仕や献身を大事にするという日本人の特性、すなわち底力を壊し、個人主義を導入するためのものであった。これでもまだ足りなかった。


 魂を空洞化した言論統制

 実はアメリカが日本に与えた致命傷は、新憲法でも皇室典範でも教育基本法でもなかった。占領後間もなく実施した、新聞雑誌放送映画などに対する厳しい言論統制であった。終戦の何年も前から練りに練っていたウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(WGIP=戦争についての罪の意識を日本人に植えつける宣伝計画)に基づいたものである。自由の旗手を自認するアメリカが、日本人の言論の自由を封殺するという、悪逆無道を働いたのであった。これについては江藤淳氏の名著『閉された言語空間』(文春文庫)に余す所なく記されている。
 この根本的狙いは、日本の歴史を否定することで日本人の魂の空洞化を企図したものであった。そのためにまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義者と罪のない国民との対立にすり変えようとした。四百万近い国民が米軍により殺致され、日本中の都市を廃墟とされ、現在の窮乏生活がもたらされたのは、軍人や軍国主義者が悪かったのであり米軍の責任ではない。なかんずく、世界史に永遠に残る戦争犯罪、すなわち二発の原爆投下による三十万市民の無差別大量虐殺を、日本の軍国主義者の責任に転嫁し、自らは免罪符を得ようとしたのである。アングロサクソンが日本の立場にあったなら必らず復讐を誓うから、日本の復讐を恐れ軍部のせいにしたという側面もある。
 この作為的転嫁すなわち歴史歪曲を実行するため、早くも昭和二十年十二月には学校における歴史地理修身の授業を中止し、「太平洋戦争史」なる宣伝文書を製作し各日刊紙に連載した。「太平洋戦争史」は各学校で教科書としても使われ、NHKラジオでも「真相はかうだ」として十週間にわたり放送された。アメリカによる洗脳が始まったのである。これがうまく行けば、日本人の間に当然ながら渦巻いていた対米憎悪のエネルギーが、アメリカではなく、自分達国民を歎してきたということで徐々に軍部や軍国主義者に向かい、そしていつかは日本の残虐性と好戦性の源ということで伝統的秩序の破壊に向かうだろうとの深い読みであった。マインドコントロールであった。「太平洋戦争史」で教育された人々がこのパラダイムを次の世代に伝えたから、未だに歴史教科書に色濃く残っているのである。GHQは同時に「神道指令」を発令し、神道を弾圧することで皇室の伝統、すなわち日本人の心の拠り所を傷つけようとした。
 これらを着実に実行するため、私信までを開封した。私自身、セロテープで閉じられた父あての封筒を幾度となく見ている。さらには雑誌新聞などの事前検閲であった。占領軍や合衆国に対する批判、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する批判、アメリカが新憲法を起草したことへの言及、検閲制度への言及、天皇の神格性や愛国心の擁護、戦争における日本の立場や大東亜共栄圏や戦犯の擁護、原爆の残虐性についての言及、などが厳しく取締られ封印された。細かくは、米兵と日本人女性との交際への言及なども対象となった。日本人数千人の協力の下で、この極秘裏の検閲は数年間にわたりなされたのである。識字率が異常に高く、またお人好しの日本人には有効だった。歴史を否定し愛国心を否定するものであった。WGIPに協力的でない日本人は公職追放されたり圧力を加えられた。余りにも一方的な嘘の不当な押しつけに抵抗する人は多くいたが、そういった人々を含め二十万人もが公職追放されたのであった。
 WGIPに協力することは就職口を得ることであり、生き延びることであり、出世につながることとなった。このWGIPは七年近い占領のすんだ後でも日本人に定着したままとなった。ソ連のコミンテルン(ソ連共産党配下の国際組織)の影響下にあった日教組がGHQの方針をそのまま継承し教育の場で実行したからである。
 GHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能している。特に教育界、歴史学界、マスコミにおいてである。WGIPの禁止条項はなんとアメリカが引揚げて六十年近くたった今も生きているのである。東京裁判への批判、新憲法や教育基本法を押しつけ、検閲により言論の自由を奪い洗脳を進めたアメリカへの批判、愛国心の擁護、原爆や無差別爆撃による市民大量虐殺への批判、などは、すべて正当でありながら、公に語られることは稀である。無論、教科書に載ることはない。ある歴史学者は、「このようなことを口にする者が歴史学科で就職を得ることは今でも難しい」と語っている。
テレビで語られることもほとんどない。かくして日本人は魂を失い誇りを失って行ったのである。
「文藝春秋」六月号の梯久美子氏の記事によると、八十六歳になる建築家の池田武邦氏は、海軍兵学校を出て海軍士官となってからずっと軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗っていたが、昭和二十年四月の沖縄戦で戦艦「大和」とともに海上特攻に出撃し撃沈され九死に一生を得た。彼は昭和三十年代に小学生の息子さんに「お父さんはなんで戦争になんか行ったの」と詰問され、それ以降、戦争のことを一切話さなくなったそうだ。「どんな思いで戦ったのか。戦友はどんなふうに死んでいったのか。艦全体が家族のようだった矢矧のこと。言ってもわかってもらえるはずがないと心を閉ざしてしまった。戦争の話をするようになったのは八十歳を過ぎてからです」と今語る。
 四年ほど前に見たあるテレビ番組は、五十歳前後の俳優が八十九歳の父親とベトナム沖の島を訪れるものであった。陸軍大尉だったこの父親がB級戦犯として五年間収監されていた島である。ここで俳優が老いた父親を高圧的に非難するのだった。[戦争は人殺しだよね。悪いことだよね」と、父親の反論に耳を貸さず幼稚な言い分をがなり立てる様にいささか驚いた。軍人だった父親のいる多くの家庭で見られた風景に違いない。「日本がすべて悪かった。日本軍人は国民を欺いて戦争に導いた極悪人だ。自衛戦争も含めすべての戦争は悪だ」という洗脳教育から大多数の国民がまだ解き放たれていないのだ。だからこそ、戦場で涙ながらに老いた父母を思い、新妻や遺される赤子の幸せを祈り、日本に平和の訪れることを願いつつ、祖国防衛のため雄々しく戦った人々は、散華(さんげ)した者は犬死にと嘲られ、かろうじて生き残った者は難詰され罵倒されるという、理解を絶する国となってしまったのである。だからこそこの国から誇りが消えたのである。


 法的な根拠を欠くアメリカの言い分

 WGIPの作ったマスコミ向け禁止条項を批判することはすべて正当、と書いたがなぜだろうか。まず事前検閲は、ポツダム覚書第七項や合衆国憲法修正第一条に違反し、アメリカ自らのでっち上げた日本国憲法にも違反するものであり、自由の中でもとびぬけて大切な言論の自由を奪うものだから当然許されざるものである。広島と長崎への原爆や日本中の都市に対する無差別爆撃が、人道上の罪であることは言を俟たないが、一九〇七年に結ばれたハーグ条約の第二十二条(無差別の害敵手段を使用してはならない)や第二十五条(防守されていない都市、集落、住宅、建物はいかな手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず)にも違反している。不法行為である。
 新憲法や教育基本法を押しつけ、日本のエリートを壊滅させるべく旧制中学、旧制高校を廃止したのも、「占領者は現地の制度や法令を変えてはならない」という趣旨のハーグ条約四十三条に反している。ハーグ条約に関して付け加えると、アメリカが真珠湾奇襲を「恥ずべき行為」と今だに口汚く糾弾する唯一の根拠は、開戦前の宣戦布告を義務づけたハーグ条約なのである。ハーグ条約以前は、当のアメリカを含めどの国も、戦争を奇襲から始めていた。ハーグ条約以降でさえ、アメリカは一九二ハ年の対ドミニカ戦争で、宣戦布告なしに奇襲占領している。第二次大戦でドイツがポーランドやソ連に侵攻した時も奇襲だった。ハーグ条約における宣戦布告条項は、単に開戦儀礼について言っているもので、誰も重要と思っていなかったのである。現に真珠湾攻撃より先に、日本軍はイギリス領マレー半島への上陸作戦を敢行したが、イギリスは宣戦布告のあるなしなど問題にもしなかった。ルーズベルト大統領だけが「恥辱」とか「破廉恥」などと激昂して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民を煽動し、ヨーロッパ戦線への参戦を決意させるためだった。
 国を愛する心の擁護と育成は世界中どこでも行っていることである。しなければいけないことでもある。家族愛、郷土愛、祖国愛、この三つの愛が健全に育ってはじめて最も崇高な人類愛を持つことができるからである。三つの愛なしの人類愛は砂上の楼閣にすぎない。

 WGIPの定めた禁止条項のうち、一つを除いてどれも不当であることを示した。残るのは、東京裁判への批判が不当であるかという問題だ。第二次大戦におけるドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判では、ドイツの法曹関係者も裁く側に参加していたが、この東京裁判では日本側は参加を許されなかった。「勝者の裁き」と言われる所以である。また、原爆をはじめとする連合国側の戦争犯罪を不問にしたり、「平和に対する罪」という終戦後に考え出された罪を遡って適用した。証人に偽証罪を問わなかったから、南京での二十万人虐殺などという主張が確たる証拠なしにとび出した。事件の一カ月後の国際連盟で、中国代表の顧維鈞(こいきん)が日本非難のため、日本軍による二万人の虐殺を主張して連盟から否定されたものが、八年余りを経て犠牲者が十倍となって再登場したのである。今ではさらに増え、三十万人以上と当時の南京の人口を超えてしまっている。確たる証拠は今もない。
「日本は挑発挑戦され自衛のために起った」というローガン弁護人のものをはじめ、弁護側の弁明の大部分が却下されたことも法の下の平等を欠く。この辺りは小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫)に群しい。まったく一方的で裁判とはとても呼べないものである。当時から現代に至るまで、ほとんどの国際法専門家がこの裁判を否定的に見ているのは当然である。即ち、この裁判はまったく不当なもので単なる復習劇と言って過言でない。
 裁判自体が噴飯物というのは明らかだが、それを証明しただけで物事が終るわけではない。罪状が、日本指導者二十八名について、文明の名によって世界征服の責任を裁く、というものだったからである。二十八名は、通常の戦争犯罪に加え、平和に対する罪で起訴された。すなわち日本が侵略戦争を起こしたという非難だったからだ。
 日本の犯した一方的侵略戦争、というのがもし真実であったら、東京裁判にとどまらず、終戦後のアメリカによるWGIPをはじめとするありとあらゆる傍若無人な振舞い、度重なるハーグ条約違反は、極悪国家日本を懲らしめその存在を全否定するという、正当な行為における勇み足ほどのものになってしまう。日本が戦争青任のすべてを背負うほどの非人道的行為に走ったのかどうかは避けて通れない大問題である。ここをきちんと抑えなければならない。


 戦後といえば、ベストセラーの「日本人の誇り」を書いたお茶の水大名誉教授の藤原正彦さんが、文芸春秋の2010年7月号に書いた記事があります。引用します。
 「文藝春秋」六月号の梯久美子氏の記事によると、八十六歳になる建築家の池田武邦氏は、海軍兵学校を出て海軍士官となってからずっと軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗っていたが、昭和二十年四月の沖縄戦で戦艦「大和」とともに海上特攻に出撃し撃沈され九死に一生を得た。彼は昭和三十年代に小学生の息子さんに「お父さんはなんで戦争になんか行ったの」と詰問され、それ以降、戦争のことを一切話さなくなったそうだ。「どんな思いで戦ったのか。戦友はどんなふうに死んでいったのか。艦全体が家族のようだった矢矧のこと。言ってもわかってもらえるはずがないと心を閉ざしてしまった。戦争の話をするようになったのは八十歳を過ぎてからです」と今語る。四年ほど前に見たあるテレビ番組は、五十歳前後の俳優が八十九歳の父親とベトナム沖の島を訪れるものであった。陸軍大尉だったこの父親がB級戦犯として五年間収監されていた島である。ここで俳優が老いた父親を高圧的に非難するのだった。「戦争は人殺しだよね。悪いことだよね」と、父親の反論に耳を貸さず幼稚な言い分をがなり立てる様にいささか驚いた。
軍人だった父親のいる多くの家庭で見られた風景に違いない。「日本がすべて悪かった。日本軍人は国民を欺いて戦争に導いた極悪人だ。自衛戦争も含めすべての戦争は悪だ」という洗脳教育から大多数の国民がまだ解き放たれていないのだ。
 2013.3.20日、愛国経済新聞ヒュヒテ・ドイツ国民に告ぐ!」。
 ナポレオンがイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧したのは、19世紀の始め頃のことです。そのナポ レオンに支配されたベルリンで、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)が1807年12月から1808年3月にかけて行った演説が「ドイツ国民に告ぐ」で、その演説でフィヒテはドイツ国民の愛国心と独立を訴え、ドイツ国民をおおいに奮い立たせました。このときの演説「ドイツ国民に告ぐ」は、14回にわたって行われた連続講演で、その中で彼は次のようなことも述べています。
 「占領軍の支配を受けはじめると、まるでその時を待ち兼ねていたかのように、誰も彼もが、われ遅れじと外国人の機嫌を取ろうとした。かつてはドイツの政府や政治家たちに対して媚びへつらい、ぶざまに這いつくばっていた人たちが、今度は国を極めて誹謗し、ドイツのものといえば何でもかんでも悪しざまにののしるようになった」。

 なんだかまるで日本の戦後をみるかのようです。




(私論.私見)