日本在地型社会主義その1、幕末維新以後百年の歩み

 (最新見直し2006.5.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本左派運動のねじれを質す為には、少なくとも幕末維新から説き起こさねばならない。れんだいこは、山陰基央氏の著書「世界最終戦争」(マネジメント社、1999.2.25日初版)より多くの着想を得た。但し、れんだいこは山陰氏の見解と等値ではないので、れんだいこ風に咀嚼し直して新たに言葉を紡ぎたい。

 (今はまだまだ。糠釘にならぬようご意見頼む)


 2006.5.4日 れんだいこ拝


【幕末維新考】
 れんだいこは、「従来の日本左派運動のどこが間違いなのか考各論」で、幕末維新観について次のように述べた。
 「幕末維新は通常、明治維新と云われるが、どちらでも良いようなものの、れんだいこは、明治維新前の幕末志士らの活動を別途に捉え、幕末維新ないしは幕末回天運動と呼びたい。なぜなら、明治維新は幕末維新にあった「下からの回天運動」の豊穣さを汲み損なっている面があるからである。その幕末維新をどう評するべきか。れんだいこは、近代世界史上日本民族の能力を世界史に刻んだ、稀有にして見事な回天運動だったとみなす視座を据えている」という史観を提供したい。

 こう評さない史観が多過ぎる。この辺りから歴史観の歪みが生じていると思っている。特に「変調マルクス主義メガネ」を掛けて、その意義を極力低評価する講座派の史観は喰えない。「講座派は、幕末維新と明治維新の質の違いを混同させ、幕末維新の偉業さえ評価を落としこめている。

 そのような講座派の観点こそ、一見左派的に見えてその実は幕末回天運動の成果を継承しようとしない反革命的な反動理論であることが知られねばならない。故に講座派的マルクス主義を学べば学ぶほど、当人の主観的意志は別にして、左派運動に有害無益なものとなる。この種の史観を、日共党中央が唱え、今尚誇りにしている愚劣さが指弾されねばなるまい」という史観を提供したい。

 これを更に掘り下げる。

 幕末維新は、「幕末志士の社会主義革命」と「百姓派の社会主義革命」という二ベクトルが重なり合って引き起こされた回天運動であった。幕末志士は、西欧の帝国主義的植民地政策の実態を的確にして逸早く掴み、これに抗するべき新体制創出に向って回天運動に生死を賭けた。結局のところ、西欧イズムイデオロギー「自由、平等、博愛」、「公正、平等、福祉」を踏まえつつ、東洋風「富の均等配分と弱者を援ける」という思想を並立的に仲立ちさせ、「民族、国家、企業は天下の公器とする意識」を培養しつつ体制変革運動に乗り出した。これが幕末回天運動の正の面である。これに関する限り、幕末維新とは、日本に於ける在地型プレ社会主義運動であった、と云うことができよう。

 2006.5.4日 れんだいこ拝

【幕末政変考】
 幕末時、奇異な政変が起こっていることをそれとして注視しておかなくてはならない。「幕末政変王朝交代論考」で記したが、理解し難い政変が立て続けに起こっているので確認しておく。

 まず、1866(慶応2)・7.20日、幕府の第二次長州征伐の最中、江戸から大阪城に入り戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突如死亡している。同年12.5日、孝明天皇が崩御している。翌1867(慶応3).1.9日、睦仁(むつひと)親王が践祚し、即位して明治天皇になる(16歳)。しかし、この幼帝も、同年7.8日、急逝したとされている。史実は未だ明らかにされていないが、7.19日、暗殺された睦仁親王(京都明治天皇)に代わり、大室寅之祐が天皇にすり代わった、とする説がある。これを全て史実とすると、僅か1年の間に将軍と天皇と後継天皇が暗殺されたことになる。あまり問われていないが、こういう奇妙な動きを踏まえねばならない。


 同年11.15日、薩長同盟締結、大政奉還に功のあった土佐藩脱藩武士坂本龍馬と中岡慎太郎が共に暗殺されている。この事件の首謀者を廻って諸説が入り乱れているが今も真相が定かでない。

【明治維新考】
 れんだいこは、「従来の日本左派運動のどこが間違いなのか考各論」で、明治維新観について次のように述べた。
 「明治以降の思想戦線での格闘に於いて、西南の役を最後の決戦とした幕末志士の回天運動が自由民権運動に矮小化され、体制内議会主義へと穏和化され、これに反発した部分が様々な社会主義運動へと向いマルクス主義に到達したことは必然であったにせよ、この間に於いて日本人民大衆がそれまでに獲得していた一揆闘争の実績と経験の質の高みを放擲し、マルクス主義の諸潮流の中で最悪の俗流マルクス主義へと辿り着き、そのようなものを信奉していった経緯を批判的に学び返したい」という史観を提供したい。

 「分かりやすく云えば、俗流マルクス主義に被れるぐらいなら、伝統的一揆闘争をもっと継承すべきであった、ということになる。俗流マルクス主義は西洋被れ事大主義のもたらした罪であるように思われる。れんだいこは、俗流マルクス主義被れよりも、幸徳、大杉らのアナーキズム運動の方が目線も能力も高かったと考えている。当時の和製ボリシェヴィキは、アナーキズムと共同する道を択ばず排撃に向った。彼らの依拠した俗流マルクス主義は悪質であったと考えている。今尚、この観点が無い日本左派運動は愚劣過ぎる」という史観を提供したい」。

 これを更に掘り下げる。

 明治新政府は、西郷派を中心とする幕末維新の正の面を吸収したグループとネオ・シオニズムに被れたシオニスタン・グループとの釣り合いで運営された。政権発足当初に於いては幕末維新の正の流れを汲み、1・武士の廃業、2・有能な武士の官吏登用、3・「一道、一都、二府、47県」制、4・国家有為の人材の育成と活用等々図り、日本の近代化に向けて大きく貢献している。

 このことを、山陰氏は、著書「世界最終戦争」の「社会主義の時代は終わった」の中で次のように述べている。
 概要「明治維新とは、天皇制社会主義の体制を創造した革命であった。まさに、日本独自の社会主義革命であった。日本はヨーロッパの社会主義とは異なる社会主義へと突っ走っていたのである」。

 山陰氏は、「ヨーロッパの社会主義とは異なる社会主義」として、「天皇制社会主義」という概念を打ち出している。これは非常に斬新なものの見方ではなかろうか。

 だがしかし、明治新政府内の権力ヘゲモニーを廻って、いわば在地社会主義派とシオニスタンが相争い、西南の役を最後の決戦として在地派が失脚する。この時点より台頭してきたのが長州藩出自の伊藤ー井上派シオニスタンであった。この伊藤ー井上派により明治の官僚機構及び法制が整備されていくことになる。それは同時に日本の帝国主義化でもあった。この方向に誘導されたと読むべきであろう。

 ならば、幕末志士の回天運動はどこへ潜ったか。一つは、在地型の百姓一揆であり、もう一つは自由民権運動ではなかったか。しかし、百姓一揆は徹底的に鎮圧され、自由民権運動は懐柔される。憲法制定運動は、それ自身としては意義があるものの、大きく見れば政府に懐柔される動きではなかったか。やがて、自由民権運動はこの動きではなかったか。自由民権運動派その後体制内議会主義へと穏和化され生命力を失う。

【大正天皇押し込め考】
 案外見過ごされているが、「大正天皇押し込め」は重大政変であったように思われる。一般には、大正天皇は元々病弱で精神的に変調をきたした為、押し込められたとされている。しかし、これが大嘘であったとしたらどうなるか。大正天皇は、何のために押し込められたのであろうか。

 天皇制一般を親の敵的思想で育成されているサヨ運動には、「大正天皇押し込め」は関心の無いところであろうが、それは違う。実は、大正天皇は稀に見る英才天皇で、日本の帝国主義化による外地侵略を好まずことごとくこれに反対したため、時のシオニスタン派が理屈をつけて無理矢理引退せしめた可能性が強い。

 ならば、「大正天皇押し込め」は、時のシオニスタン派の大いなる不敬罪であり、天皇制護持派は本来なら烈火のごとく怒るべきであろう。ところがそうはならなかった。それはともかく、「大正天皇押し込め」に関わった者達こそれつきとしたシオニスタンである。その勢力と行状を晒しておかねばなるまい。

【アナボル抗争考】
 「由民権運動が矮小化され穏和化されたことにより、これに反発した部分が様々な社会主義運動へと向い、マルクス主義に到達した。これは必然であったにせよ、当時のマルキストは、この間に於いて日本人民大衆がそれまでに獲得していた一揆闘争の実績と経験の質の高みを放擲し、マルクス主義の諸潮流の中で最悪のネオ・シオニズム配下マルクス主義、通称「俗流マルクス主義」へと辿り着き、そのようなものを信奉していくことになった。日本左派運動の貧困は早くもここに宿されている、と云うべきではなかろうか。この経緯を批判的に学び返すべしという史観を提供したい。

 日本左派運動が俗流マルクス主義に被れるぐらいなら、在地型の伝統的一揆闘争の経験をもっと継承すべきであったということになる。在地型の伝統的一揆闘争とは、革命理論には欠けるものの、同志的紐帯、相互生活保障、共同戦線思想及び運動に於いて相当高度な闘争形態であり、その経験こそ継承すべきであったであろう。

 俗流マルクス主義は西洋被れ事大主義のもたらした罪であるように思われる。れんだいこは、俗流マルクス主義被れよりも、幸徳、大杉らのアナーキズム運動の方が目線も能力も高かったと考えている。最悪なことに、当時の和製ボリシェヴィキは、アナーキズムと共同する道を択ばず排撃に向った。彼らの依拠した俗流マルクス主義はこの意味でも悪質であったと考えている。今尚、この観点が無い日本左派運動は愚劣過ぎる」という史観を提供したい。

【明治、大正、昭和に於ける最低限社会保障制度考】
 山陰氏は、明治、大正、昭和の過程で注目されることとして、最低限社会保障制度を称讃している。灘尾末吉の歩みを高く評価し次のように述べている。
 「昭和7年、内務省に入った灘尾末吉(東大卒、後の厚相、文相)は、国民健康保険法の立案を命ぜられ、昭和13年、灘尾立案に基づき、国鉄、海運、工場などの労働者に施行された。その数は日本労働総人口の40%に及んだ。更に、灘尾は、農村漁村の婦人の健康問題に取り組み、殊に妊産婦の衛生と健康管理に心を砕いた。戦後になってもこの取り組みは続き、昭和36年、国民健康保険法が全国民に施行された。これと併行して各種の医療保険が施行された。これはアメリカにも無い制度であった」。

 山陰氏は、著書「世界最終戦争」の「社会主義の時代は終わった」の中で次のように述べている。
 概要「これは資本主義の中から生まれる思想ではない。まさに、『日本型社会主義』の成果である。それだけではない。最高税率85%に至る累進課税や相続税も社会主義のものであり、不動産売買における過酷なキャピタルゲイン税もまた社会主義の手法である。とにかく、日本は社会主義の元祖ソビエトにすらない、自由主義市場経済の形を取りながら、あらゆる社会福祉を充実してきた。その時間は、明治維新以来100年の努力であった」。

【大東亜戦争考】
 れんだいこは、「従来の日本左派運動のどこが間違いなのか考総論」で、大東亜戦争観について次のように述べた。
 「第二次世界大戦は、単純には読み取れないが、真に争われていたのは、西欧から日本まで巻き込む形での非ユダヤとユダヤの歴史的戦争であった可能性が強い。日独伊枢軸とは、既にユダヤに召し取られた米英仏蘭の連合諸国とこれに毅然と立ち向かった日独伊枢軸及びこれを支持する連合諸国内隠然勢力との生死を賭けた世界戦争であった可能性が強い」。

 「従来の日本左派運動のどこが間違いなのか考各論」では
次のように述べた。
 「大東亜戦争をどう評するべきか、これを問い直さねばならない。戦後日本の思潮は、大東亜戦争を全否定し、これを道徳的に裁き、その声を高くすればするほど左派的とする観点に染まっている。しかし、日本左派運動がそういうブルジョアリベラリズムの地平で大東亜戦争批判に興じるのは如何なものであろうか。

 これは、今日的問題でのA級戦犯問題、靖国神社問題にもつながっており、早急に理論的解決をせねばならない。日本左派運動は、大東亜戦争を、西南の役以降のこの国の権力者の帝国主義的動きを世界史的に位置づけることで論を為すべきだと考えている。道徳的に裁く論は痴話でしかなかろう」という史観を提供したい。

 これを更に掘り下げる。現在流布されている第二次世界大戦論、大東亜戦争論は、戦勝した連合国側が、ネオ・シオニズムの歴史観に基づきプロパガンダしたものでしかないように思われる。この種のものをいくら精緻に学んでも、学べば学ぶほどバカになることが請け合いで歴史の実相には迫れない。

 第二次世界大戦論、大東亜戦争論を検証するためには、当時の実際の史実に基づかねばならない。今日流布されているほどにはヒトラーは狂人ではなく、東条も時代が読めなかった訳ではない。否応無く歴史の渦に誘い込まれ、一時の栄華はものにしても最終的には敗北せしめられたという構図の中で読み取らなければ真相に迫れない。時代のニューマも正しく嗅ぎ分けねばならない。

 今日、この努力が怠られ、かの時の戦争を道義的道徳的倫理的にのみ裁こうとしており、それを反戦平和のイデオロギーとする風潮がある。ならば、同じ物差しで、現在進行中の米英ユ同盟によるアフガン戦争、イラク戦争の不正義を問えばよいのだが、こちらの方になると途端に物分りが良くなる。何の事はない、シオニスタンに巻かれているだけでしかなかろう。(思いつくまま)

 2006.5.4日 れんだいこ拝

【戦前の官僚制考】





(私論.私見)