中国共産党史その3、第二次国共合作考

 1932年初頭の上海事変によって蒋介石の第三次討伐が中止されたのを契機として、中共軍は2月下旬頃より全戦線にわたって攻勢に出た。第一次方面軍朱徳、*徳懐軍約5万が東進し、2.28日、*南ソビエト政府を樹立し、毛沢東を主席としている。蒋介石は6月初旬より第四次討伐軍を起し、相争うが一進一退。



江西省を知っている日本人は少ないと思います。日本と何かしら縁があったかというと、余り記憶にありません。この地は現中国を取り仕切る中国共産党と深い関わりのある土地です。東アジアの近代史を知る上で鍵になる場所でもあります。共産党政権の基盤・人民解放軍。この中国の軍隊は1927年8月1日、南昌で武装蜂起した共産党の軍隊が始まりです。この軍は毛沢東の起こした江西省・瑞金の中華ソビエト臨時政府を支え、紅軍と称されました。その後、日本の侵入で敵対勢力・国民党の蒋介石との間に1937年、第二次国共合作が成立、紅軍は蒋介石の指揮下に入り八路軍と称されます。1945年、終戦を迎えると中国本土は国共内戦の舞台となり1949年蒋介石の台湾への脱出により共産党が中国本土を制圧し中華人民共和国が成立、文化大革命などの混乱を経て、今日に至ることになります。帝国主義の陰謀により瀋陽で殺害された軍閥・張作霖の息子・張学良が抗日を叫び、西安事変で蒋介石を巻き込み国共合作を成立させ八路軍を組成、侵攻した日本軍を押し戻していく。そうした背景を知っていると清朝末期の混乱で中国に介入した列強を跳ね返していく強い中国人魂の原点が、ここ江西省の地にはある。そんな風に思えるのではないでしょうか。北部には名山・廬山が聳えています。



◎ 南昌という町は現代中国にとり記念すべき町だ。中華人民共和国建国を志した数々の英雄たちがこの町を通り過ぎていった。日中戦争前夜、清朝末期に混乱した中国では数々の軍閥が各地に勢力を誇っていた。孫文の辛亥革命で清朝のラストエンペラー・溥儀は退位し清朝は滅亡するが孫文の中華民国は北伐で中国統一を試みるも1921年には上海で共産党が成立、中国は混乱の時代を迎える。既に清朝末期、欧米列強と日本は中国各地を租界地として半ば植民地化、遼東半島などは日本の手中にあった。こうした国土割譲、外国による侵食に加え各地に軍閥が陣取る混乱の中で、孫文は"革命なお未だ成功せず"と語り1925年、息を引き取る。歴史はその後、蒋介石による上海クーデター・南京国民党政府樹立、日本の山東出兵・済南事変、1931年の毛沢東による瑞金での中華ソヴィエト共和国成立、蒋介石による江西省解放区包囲戦、共産党の長征による瑞金から延安への大移動、盧溝橋事件による日中開戦、そして西安事変による国共合作へと流れていく。孫文の辛亥革命に端を発した近代中国史は複雑な権力構図の中で大分裂し、日本という標的の下で再度統一されていく。そして戦後、再度分裂し、内戦を経て現在の形に収拾していった。そうした中国近代史を動かす原動力が今、人民解放軍という器に収斂された軍隊だった。南昌の古い記念館を上り数々の資料・絵に目を通していると日本人の今の世代に余り知られることのない中国の激動の近代史を目の当たりにすることができる。


◎ 南昌の北にハン陽湖という東京都と神奈川県を合わせた程の巨大な湖がある。私が列車に乗って北に向かった時、この湖は増水で氾濫寸前だった。列車のすぐ脇まで湖面がせり出してた。そして湖が途切れる頃、九江という町に着く。ここから上るとすぐ名山・盧山がある。盧山の頂上付近は霧が立ち込めていた。宿屋の女の子は商売熱心だ。何かと商売を持ちかけては"いいでしょう"と繰り返す。折角江西の名山に来たのに商売を持ちかけられては山の景色もいまひとつになってしまう。それでも霧に霞んだ岩峰の続く様は趣がある。


◎ 南昌郊外に江南三大名楼の一つと言われる騰王閣がある。武漢の黄鶴楼、岳陽の岳陽楼と並ぶ名楼で、南昌のシンボルともいえる楼閣だ。脇には大きな河が流れている。中国製プロペラ機・運―7号で上海からフラフラしながら飛んできた。レトロな感覚の楽しめる旅だ。プロペラ音で何も聞こえない。昔は日本でも皆こうだったんだろう。今更ながらに祖父の世代に世界に渡った人々の逞しさを思い知る。大した人たちだ。それに比べれば我々若い世代はまるで籠の中のひよこのようだ。ここでは中国を築いた人たちの逞しさにも驚かされた。旅をすればするほど自分が井の中の蛙であったことに気が付く。そう言えば日本で明治維新にまつわる場所を見たことがない。日本に忘れてきたものが、沢山あることに気付いた。

1934.11.7日の革命記念日祝賀会を最後に11.10日、中共軍は瑞金を放棄し、ここに世界史に類例の無い5千キロにわたる劇的移動を開始した。



 1936.12.12日、突如として西安事件が発生した。督励に出向いてきた蒋介石夫妻が中国西北の古都、西安で、張学良の配下の楊虎城軍に捕われ2週間にわたって監禁されるという事件であった。父張作霖を日帝に殺された張学良にとって、日本は不倶戴天の敵であった。当時蒋介石は抗日よりも共産軍討伐に精力を注いでいた。張学良と楊虎城は、蒋介石に対し、八大要求を突きつけた。1、国民政府を改組し、各党各派を交えて救国に当たるべし。2、一切の内戦を停止すべし。3、上海で逮捕した愛国領袖を釈放すべし。4、全国政治犯の釈放。5、人民の集会、結社その他一切の自由の保障。6、民衆愛国運動の解散。7、孫総理遺嘱の確なる履行。7、救国会議の即時召集。

 蒋介石はこの全要求を受け入れ、監禁を解かれた。国民政府は容共政策に転じることになった。1927年以来敵と味方に分かれていた共産軍と国府軍はこれより再び一体となり、抗日戦争に向かうことになった。


 12.24日、蒋ー周会談。12.25日、周が再来訪。「共産党は蒋先生に何も要求しない。ただ、共産党に対する掃討作戦は以後行わないと直接、言ってもらえればそれだけでよい」。蒋「私が普段から求めているのは、国家の統一と全国の軍隊の指揮だけだ。***(四字欠損)私の革命の障害なのだ。もし、君たちが今後は統一を破壊せず、中央の命令に従って私の統一的な指揮を完全に受け入れるのなら、更なる掃討を控えて(共産党軍を)他の部隊と同等に扱うことは出来る」。周「紅軍(共産党軍)は必ず蒋先生の指揮を受け、中央の統一を擁護して決して破壊しません」。蒋「その他のことは漢卿(張学良)と詳しく話して欲しい」。(2007.5.23日付け産経新聞「蒋介石日記第2部1」)






(私論.私見)