中国共産党考その1

 (最新見直し2005.12.3日)

 ここで中国共産党考を為すのは、中国共産党自身を解説しようというのではない。ほぼ同じ頃に創立された日本共産党との歩みの違いを解析し、建国革命に成功した中国共産党とお話にもならなかった日本共産党との差違を際立たせたい為である。今日その後の中国共産党の歩みのジグザグぶりから偉大な中国建国革命史の意義を顧みず逆に過小評価する傾向にあるが、左派的観点からはナンセンスであろう。

 中国建国革命は、ロシア10月革命に続く世界史的激動史であり、その価値が損なわれることがあってはならない。その後の歩みの失敗はそれはそれであり、混同させてはなるまい。というような観点から、以下考察に入る。

 2003.4.23日 れんだいこ拝


 1919.5月、5.4運動勃発。中国共産党の創立者・陳独秀が指導した。二段階革命論に基づくブルジョワ革命として位置づけていた。

 1921年、中国語で完訳された「共産党宣言」が出版された。

 2002.7.11日付け毎日新聞文化欄『中国で進む陳独秀復権 民主主義の永久革命者』(佐々木力)より

 五四新文化運動の「総司令」、中国共産党の創建者、中国トロツキズム運動の指導者=陳独秀(1879―1942)。近代民主主義の唱導者。北京大学分科学長(今日の副学長に相当する行政職)の職にありつつ、1918年の五四新文化運動の領袖として活躍。1920年春マルクス主義を受容。同年11月中国共産党創建に参加。後にその総書記となった。27.4月の上海での蒋介石クーデターにより国共合作路線の誤りを認識し、総書記を辞任。暫くして、共産党の国民党への従属がスターリンらの命令であったことを悟り、29年に国際左翼反対派を組織していたトロツキーに合流。31年にトロツキー派の中国共産主義同盟の総書記に就任。32年蒋介石により逮捕され、中日戦争が勃発する37年まで南京の獄中にあった。監獄を釈放されてからは、トロツキーと連絡をとりつつ、共産党、国民党との一致抗日の為に奮闘するかたわら、スターリンの大テロルを非難し、「プロレタリア民主主義(無産階級民主)」の守護を訴えながら、42年に病没した。「中国のトロツキー」と呼ばれる。「陳の全生涯を特徴づければ、『根源的民主主義の永久革命者』が最も的確であろう」(佐々木力・東大大学院教授・科学史・日本陳独秀研究会会長)
 1952年暮、毛沢東の政治警察によってトロツキー派が一斉逮捕された。


日中戦争について

トロツキー/訳 初瀬侃・西島栄

【解説】本稿は、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに勃発した全面的な日中戦争をめぐって、マルクス主義者のとるべき基本的な態度について明らかにしたものである。日本帝国主義と中国との戦争において、マルクス主義者は中立的態度をとるべきではなく、中国の現在の指導者がいかなるものであろうとも、日本帝国主義に反対して中国の民族解放戦争を全面的に支援するべきであるとしている。(右の写真は蒋介石)

 この手紙の形式をとった論文の中で、トロツキーは、労働者組織の政治的独立性を保持しつつ、この戦争に全面的に参加するべきであるとしている。だが、この手紙では「軍事的独立性」については考慮されていない。当時の中国の状況からして、「軍事的独立性」なしに「政治的独立性」はありえなかった。トロツキーは、革命的労働者が蒋介石の軍隊に参加しつつ、蒋介石を政治的に転覆する準備をするべきであると考えていたが、それは蒋介石の軍隊の組織構造からして無理な注文であった。毛沢東がやったように、独自の陣地、独自の軍隊を組織することで、軍事的独立性をまずもって確保することが必要であった。毛沢東の指導する中国共産党はしばしば政治的独立性を曖昧にしつつも、この軍事的独立性のおかげで、1926〜27年のときと違って蒋介石軍に粉砕されることなく、逆に、日本軍に勝利したのちの内戦で蒋介石軍を敗北させることができたのである。

 ところで、この手紙の中では、中国にいる陳独秀をはじめとする同志たちの安全確保に大きな注意が払われていることは注目に値する。中国の左翼反対派の中では、この日中戦争をめぐって、抗日戦争を優先させ国民党軍と統一戦線を組むべきだとする陳独秀派の立場と、革命的祖国敗北主義をとるべきだとする極左派とが対立していた。この時点では、陳独秀はトロツキーの見解を知らず、トロツキーは陳独秀の見解を知らなかったが、両者の見解は根本的な点で一致していた。のちにトロツキーは陳独秀の見解を知り、そのことを大いに喜んだ(参照、『トロツキー研究』第39号)。

 本稿の最初の翻訳は『トロツキー著作集 1937-38』下(柘植書房)だが、『トロツキーの中国論』(パスファインダー社)所収の英語底本にしたがって全面的に訳しなおされ、散見されたいくつかの誤訳が修正されている。

 L.Trotsky, On the Sino-Japanese War, Leon Trotsky on Chaina, Pathfinder Press, 1976.

 李立三路線

 李立三は、87年会議以後急速に勢力を得、陳独秀が右翼日和見主義の批判を受けて1929.11.15日除名されるや、その後を継いで党の実権を握り、1930.5月、上海郊外で第一次中国ソビエト区域代表大会を開いた。更に6.11日には党中央政治局会議で「一省あるいは数省における首先的勝利の必要」を力説して党現下の政治的任務に関する歴史的な決議を採択している。今日、一揆主義と総括されているが、「一省あるいは数省における首先的勝利」を基点として全国的革命を企図して闘争を開始したことになる。

 この時の李立三の情勢分析は次のようなものであった。「全世界に普遍化した激烈な経済恐慌と政治的危機により、空前の世界的大事変と世界的規模の革命と戦争が我々の目前にさし迫っている。中国は帝国主義の一切の根本矛盾が最も集中し最も先鋭化した地点である。それ故に、現在世界革命の危機が先鋭化するにあたって、中国革命がまず爆発し、それによってまた世界革命を惹起し、世界最後の階級的決戦を可能ならしめるものである。であるから、世界資本主義の一般的危機は、世界資本主義の即時滅亡を意味するにひとしい。そしてこの一般的危機の発展は、不均衡性が無く、一箇所で革命が爆発すれば即時全世界を直接革命の情勢に転化するものである」。

 時あたかも1929年以来の閻*軍対蒋介石軍との戦いの最中であり、その間隙に乗じ、長沙と武漢との占領を狙った。6月末第5軍*徳懐及び第8軍の黄公略らに命じて約3万の兵を率いて長沙への進撃を開始した。7.27日これを占領し、翌7.28日李立三を主席とする長沙ソビエト政府を樹立した。ところが、逃れた軍閥何健が帝国主義国の駆逐艦の助けを借りて8.5日反撃に転じた。李立三軍は撤退し、こうして長沙暴動は10日天下で終わった。

 1930年秋、李立三路線が清算される。中共の指導方針が一変することになった。党の大衆との結びつきが肝要と教訓化された。



1 ゲリラとしての毛沢東

一九一七年のロシア革命は都市の労働者が決起して権力を奪取した。中国共産党は設立当初はロシア革命のやり方をそのまま模倣して、都市の労働者を組織して革命運動をすすめようとした。しかし、当時の中国では近代的産業労働者階級は約二〇〇万にすぎず、これらの人々に依拠して革命運動をおこなうことには大きな限界があった。

モスクワ帰りの革命家たちはソ連の経験を絶対化していたが、毛沢東は割合はやく、中国革命においては農民の役割が重要なことに気づいた。そこで彼は地主に搾取され、貧窮のなかにある農民を説得して反抗に立ちあがらせた。一方、地主の側、権力の側は武装してこれを鎮圧しようとする。反乱をおこした農民は敵の部隊を山間部に誘いこんで各個撃破する。こうして地主側の権力の支配がおよばなくなったところを「解放区」あるいは「根拠地」という。人民が搾取から「解放」された地域、人民が革命のための「根拠とする地域」の意である。

毛沢東は一方で地主の土地を奪って農民に分配する土地革命の計画者、組織者として、他方ではこのようにして成立させた解放区、根拠地を防衛し、拡大するためのゲリラ戦争の指揮者として、たぐい稀な能力を発揮した。日本には勝てば官軍という諺があるが、中国では成功すれば王となり、失敗すれば賊となる(成則王敗則賊)という。毛沢東は勝利して官軍となり、王となった。

毛沢東は湖南省の農民の子として生まれた。農民の子がなぜゲリラ戦の達人となりえたのか。近年、毛沢東の家系についての資料があらわれ、その秘密をとくカギがえられた。毛沢東の遺伝子のなかには軍人の素質が含まれていたようである。


農民のなかへ

前章では毛沢東、周恩来の入党までの話をした。初期の中国共産党はロシア革命を模倣して、都市の労働者を組織し、権力を奪取しようと試みた。このとき、弱体な共産党は国民党と国共合作をおこなうことによって革命をすすめようとしたが、二七年に蒋介石は上海クーデタをおこし、この都市革命路線は挫折した。都市での革命運動に限界を感じた毛沢東は、農民の大海原のなかに活路を見出し、「農村で都市を包囲する」戦略を模索しはじめ、まず江西省井岡山に最初の根拠地をつくった。

しかし、共産党内の主流派、あるいはモスクワ帰りの指導者たちは、いぜんロシア革命モデルに固執していたので、主流派と毛沢東との軋轢は深まった。主流派は毛沢東を指導部から排除したものの、敵の攻撃を撃退することに失敗し、根拠地を放棄し逃亡することを余儀なくされた。これが長征である。

敗走の途中で毛沢東が指導権を再び確保し、延安にたどりついた。そこで抗日戦争を戦うが、抗戦勝利後、延安放棄を余儀なくされる。彼らは陝北を転戦しつつ、優勢な国民党軍と戦いつつ、最後の勝利を獲得した。これが解放戦争である。

毛沢東はこの過程で名実ともに中国共産党のナンバーワンになった。周恩来は当初は毛沢東の上級でありながら、毛沢東の奪権闘争を助け、みずからはそれを補佐する役割に徹するようになった。どのような過程をへてそうなったのか。それをこの章であつかう。

南昌蜂起と秋収蜂起

一九二三年、孫文の了解にもとづいて、国共合作がおこなわれ、共産党は国民党の中に身を隠して勢力拡大につとめていた。国民党の内部で成長をつづける共産党の勢力に脅威を感じた蒋介石は、二七年四月上海でクーデタをおこない、共産党組織に壊滅的な打撃をあたえた。

この危機に直面して革命を救うため、二つの武装蜂起が計画された。一つは南昌蜂起、もう一つは秋収蜂起である。

南昌蜂起は二七年八月一日、周恩来、賀竜、葉挺、朱徳、劉伯承らが北伐軍三万余をひきいて決起した。南昌を占領したが、国民党部隊に包囲され、数日後に潮州、汕頭方面に敗走した。南昌蜂起は失敗したが、国民党部隊にむけた最初の銃声であり、象徴的な意味をもつ。そこで八月一日を建軍節すなわち解放軍の創立記念日としている。

秋収蜂起は九月九日、毛沢東らが農民を指導して湖南、江西省境で蜂起したものだが、蜂起軍は大きな敗北を喫した。そこで毛沢東は上級から指示された、湖南省省都長沙を攻略する計画を断念し、井岡山地区にたてこもり、中国最初の農村革命根拠地をきりひらいた。「農村で都市を包囲する」戦略は、ここにスタートした。これは都市の労働者に依拠するロシア革命モデルと対照的な戦略である。

翌二八年四月、朱徳、陳毅ら南昌蜂起組の部隊が井岡山にはいり、毛沢東の部隊と合体し、ゲリラ根拠地は一段と強化された。中国革命の実質は農村革命である、といわれるが、井岡山にともった小さな火が中国大陸をなめつくす燎原の火となった。とはいえ、その勝利までには、二二年間にわたる血で血を洗うゲリラ戦争が必要であった。

毛沢東はゲリラ戦を最初は『水滸伝』や太平天国軍の教訓などからまなんだといわれるが、のちにはクラウゼビッツの戦争論も研究している。井岡山時代にまとめたゲリラ戦のエッセンスは「敵が進めば、我は退く。敵が駐(とま)れば、我は擾(かくらん)する。敵が疲れれば、我は打つ。敵が退けば、我は追う」(原文=敵進我退、敵駐我擾、敵疲我打、敵退我追)もので、中国語一六文字からなる。日本のいろはカルタのように、毛沢東はこの一六文字で文字の読めない農民たちに戦術の極意をおしえたわけだ。

井岡山時代に毛沢東は農民軍の紀律をさだめている。行動は指揮にしたがう。労働者農民のものを奪わない。敵から奪ったものは一人占めせず、みんなのものにする。この三カ条であり、たいへん具体的でわかりやすい。これに六つの注意事項がつき、のちに「女性の前で体を洗わない」「捕虜の財布から奪わない」の二カ条がくわわり、四七年一〇月に「三大紀律八項注意」として集大成された。これがゲリラたちの倫理であり、この紀律のゆえに紅軍は民衆の支持をえることができた。

ゲリラ戦の要諦やきびしい軍紀律はたしかに戦争を勝利にみちびく原動力となった。だが、ここで得られた体験に戦争の終了後もこだわりすぎたことが、のちに毛沢東の悲劇につながることを思えば、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、である。

最初の接触

一九二七年、秋収蜂起が失敗し、毛沢東が部隊をひきいて井岡山にのぼったとき、井岡山を根城にしていた緑林部隊(緑林とは山賊夜盗のこと)の袁文才と王佐に話をつけて、井岡山にはいることができた経緯がある。当時井岡山に住んでいたのは、二〇〇〇人足らずの客家であり、袁文才と王佐も客家であった。毛沢東はここで彼らと親しくつきあうようになり、二人はまもなく共産党に入党した。しかし、ここで江西省党内部における江西人(本籍)と客家(客藉)の対立が激しくなり、これはのちに富田事件の一因になる。

周恩来は南昌蜂起が失敗したあと、ひとまず広東経由で香港にのがれるが、ひそかに上海に潜入し、国民党の厳しい監視のもとで上海に事務所をおいていた党中央の仕事を処理する。上海と井岡山、離れた土地にいる二人の接触は、二九年二月、中央の周恩来からの書簡によってはじまる。このとき、周恩来三〇歳、五人の政治局常務委員の一人であり、党内序列はナンバー・ツーである。コミンテルン中央執行委員会の候補委員にも選ばれている。これに対して毛沢東は三五歳、ヒラの中央委員であるから、党内序列では二階級の差がついていた。

「中央二月来信」(一九二九年二月七日)を上海の周恩来が起草したのは、ゲリラ闘争を過小評価するコミンテルン流の認識をふまえて、朱徳、毛沢東に対して紅軍を離れ、上海の中共中央本部に移動するよう命ずるためであった。

そのころ毛沢東、朱徳、陳毅のひきいる紅四軍主力は、二九年一月一四日に国民党によって井岡山を追われ、江西・広東の省境を転戦していた。二月来信の書かれた二日後に、紅四軍主力は江西省瑞金北方で追撃部隊に大勝し、また吉安県東固地区で紅軍独立第二、第四団と会合し、自信を深めていた。転戦中のため、四月三日になってようやく、毛沢東らは周恩来が二カ月前に書いた指示をうけとった。

毛沢東は中央(周恩来)に宛てた報告のなかで、上海への移動反対の意をこう表明した。「中央来信は客観的情勢および主観的力量に対して余りにも悲観的な評価」である。朱徳、毛沢東が隊列を離れることは適当ではない。

ゲリラ優勢という情勢の変化を踏まえて、周恩来ら上海中央の認識も変化し、四月八日に周恩来は先の二月指示をとり消す手紙を書いて、この問題は沙汰止みになった。ただし、この時点で周恩来はまだ毛沢東の返信をうけとっていなかった。機敏な周恩来はみずから方針を転換したのであった。要するに、ゲリラ闘争の現場を知らない周恩来がコミンテルンの方針を根拠に、現場の指導者毛沢東らに誤った「指示」をあたえるという形でのやりとりが、二人の最初の接触となったのである。

李立三路線との対立

二九年五月、ソ連から帰国した劉安恭が紅四軍の臨時軍委書記兼政治部主任になるや、ゲリラの意義づけの面で考え方のことなる毛沢東は紅四軍の指導部を外され、福建省西部で病を養うことになった。ゲリラ闘争の行方は危機に陥った。

この危機を打開するため、六月一二日の政治局会議で周恩来は軍事会議の開催を提案した。これにもとづいて、八月下旬陳毅が井岡山を下りて、上海に到着し、周恩来、李立三、陳毅が紅四軍工作に対する指示文件をつくった。キメ細かな周恩来の指示をふまえて陳毅が起草したのが「中共中央の紅四軍前委に宛てた指示信」(九月二八日)である。この指示信を陳毅が根拠地にもちかえり、一一月二六日、毛沢東はようやく紅四軍指導部に復帰することができた。

コミンテルンはいぜん根拠地の事情を理解するにいたっていない。そこで三〇年三月、周恩来はコミンテルンとの意見調整のためにモスクワに赴いた(八月末帰国)。周恩来の留守に一つのあやまちがおこった。留守を預かった李立三が中共中央の意思決定を行うことになり、長沙攻撃という冒険主義路線が採択された。すなわち六月一一日政治局は李立三の報告「新たな革命の高潮と一省あるいは数省の首先勝利」を採択し、ここから暴走がはじまった。

李立三路線、あるいは中央の指示に忠実な王懐を指導者とする本籍人(江西人)の党員たちと、毛沢東らに忠実な元山賊袁文才、王佐らの抗争の中で、矛盾が爆発した。毛沢東、朱徳などが紅四軍をひきいてカン南、ビン西に遠征した間隙に乗じて、王懐らは留守をあずかっていた彭徳懐軍の力を借りて、袁文才と王佐を殺害してしまった。三〇年初めのことである。彼らが再び山賊に戻ったからというのがその理由とされたが、むろん口実にすぎなかった。

富田事件の大粛清

王懐ら江西人グループと客家および毛沢東との反目は、つぎのラウンドにもちこされた。強力な毛沢東派に対抗するため、王懐らは李文林を指導者とする東固、興国地区の党と手を結んだ。こうして江西根拠地の指導権をめぐる毛沢東と王懐、李文林らの対立が激化した。

ついに三〇年一二月七日、毛沢東は総前敵委員会(書記毛沢東)の名で李韶九(中国労農革命委員会特派員)を派遣し、江西省の党機関、ソビエト機関を包囲し、七〇余名をAB団(アンチ・ボリシェビキ団)反革命分子の嫌疑で逮捕するという先制攻撃に出た。

これに対して第二〇軍の一コ大隊が反乱を起こし、逆に易爾士(中央特派員)、劉鉄超(二〇軍軍長)、李韶九らを逮捕した。反乱はほぼ二〇日間つづいた。この反乱を毛沢東指導下の総前敵委員会と第一方面軍が鎮圧し、逮捕者四〇〇〇人以上、処刑者二〇〇〇人以上という大粛清事件に発展した。

富田事件の底流は、毛沢東路線と、李立三路線を推進する江西省土着幹部との対立である。四中全会で李立三に代わって中央の実権を掌握した王明などコミンテルン派は、富田事件を反革命暴動と断定した毛沢東派の行動を是認しつつ、粛清をさらに進め、ついには江西省土着の幹部のほとんどを処刑あるいは降格処分にしてしまった。王明らは江西地方党部=AB団(国民党の別働隊、特務組織)=李立三路線==陳独秀・トロツキー派、という壮大な粛清の公式を発明し、江西根拠地のみならず、すべての革命根拠地における粛清運動に適用した。王明らモスクワ帰りの若手指導者にとって、現地の紛糾はみずからの勢力拡大の絶好のチャンスであった。スターリンの茶坊主はこうして、中国革命の現場を掌握しようとしていた。まもなくビン西、海南島、湘鄂コウ、洪湖、川北などの根拠地において、トロツキー派あるいは陳独秀トロツキー派として多くの革命家が粛清されていった。

周恩来、革命根拠地へ

周恩来は三一年一二月上旬に上海を離れ、一二月末に中央革命根拠地(中央ソビエト区)の中心瑞金に着いた。二七年以来四年間にわたる「白区」とよばれた国民党統治下における地下闘争の生活(この間、二回のソ連訪問を含む)はこれで終わった。時に周恩来三三歳であった。早速、現場の毛沢東、朱徳ら、そして一足先に着いていた任弼時、項英、王稼祥らと会い、中共ソビエト区中央局書記に就任した。

一方、周恩来をむかえた中央ソビエト区では三一年春から夏にかけて、毛沢東、朱徳らが、敵を深く引きずりこむ方針で蒋介石の第二、第三次包囲討伐を撃退することに成功していた。

これについて上海の臨時中央は、九月一日付指示書簡をソビエト区中央局と紅軍総前委へ宛てて「偉大な成功」と讃えたものの、土地問題などについては否定的態度をとり、紅軍にはゲリラ主義を放棄するよう求めていた。また土地革命においては「地主には土地を分けるな、富農には悪い土地を分けよ」という階級路線を指示していた。

一一月一〜五日、中央の指示信を貫徹するため、江西省瑞金でソビエト区党第一次代表大会(コウ南会議)がひらかれた。毛沢東の主張は「狭い経験論」「富農路線」「右傾日和見主義」だとしりぞけられ、王明の極左進攻路線が採択された。ここで第一方面軍総司令、総政治委員のポストを廃止したため、毛沢東は中央ソビエト区紅軍における指導的地位を失った。

上海の臨時中央は三二年五月二〇日、ソビエト区中央局に宛てた指示電報のなかで、再び毛沢東戦略を批判しただけでなく、解放区に来たばかりの周恩来をも批判した。いわく、「周恩来同志はソビエト区に来ていらい一部の誤りは是正したが、一切の工作を徹底的に変える工作はまだ成果をあげていない」。このように臨時中央は再三再四、ソビエト区中央局が進攻路線、極左路線を推進するよう圧力をかけていた。

王明と毛沢東の対立は、いまや戦略レベルの論争から、紅軍の行動方針にまで発展していた。ソビエト区中央局は毛沢東の建議を容れて、コウ江東岸から北上して、楽安・永豊・宜黄の敵を一掃することを決め、毛沢東を紅一方面軍総政治委員に決定した。前方では周恩来を主席とし、毛沢東、朱徳、王稼祥を加えた「最高軍事会議」をつくり、前方の一切の軍事行動を指導することにした。

周恩来、毛沢東、朱徳、王稼祥らは八月一七日から二二日に楽安・宜黄・南豊の三都市を占領し、五千余の部隊を殲滅し、撫州・南昌・樟樹の国民党軍をふるいあがらせた。国民党軍は直ちに南城に一七コ連隊を集中し、砦を固めた。ここで南城攻略の是非問題をめぐって前方と後方との摩擦が表面化した。

紅一方面軍は八月二四日南城へ向けて出発したが、南城側が守りを固めたことを知るや、攻略中止の判断をくだし、周恩来がその旨、後方のソビエト区中央局宛書簡をかいた。しかし、中央局は前方の中止方針に同意しなかった。そこで前方はやむなく九月二六日朱徳総司令、毛沢東総政委の名で「訓令」を出し、毛沢東の戦略にしたがって行動を展開しようとした。後方中央局はこれに反対し、行動の一時停止を求め、前方と後方が真向から対立したため、調整が不可避となった。


2 遵義会議での逆転

ナゾの寧都会議

三二年一〇月三〜八日寧都会議、すなわちソビエト区中央局全体会議がひらかれた。出席者は後方から来た任弼時、項英、顧作霖、トウ発と、前方の周恩来、毛沢東、朱徳、王稼祥の計八人のソビエト区中央局メンバーであり、周恩来が主宰した。

この会議については「ソビエト区中央局寧都会議経過簡報」が残されているのみで、ナゾが多かった。そのため、この間の周恩来と毛沢東の関係についてさまざまの憶測がおこなわれてきた。もっとも流布されたのは、この会議で周恩来が毛沢東を排斥したという解釈である。毛沢東と周恩来の関係を主題とする本書は、その真相を追求しないわけにはいくまい。

新資料によると寧都会議の争点はつぎのようなものである。

?州攻撃問題。

寧都会議前の八カ月、すなわち三二年二月にソビエト区中央局は、中央の提起した進攻路線を執行し、紅一方面軍主力にコウ州を攻略させたが、毛沢東はこの作戦に当初から反対していた。その後前線紅軍が敗北したのを知るや病をおして前線に赴き、紅五軍団の起用を建議し、紅軍主力を安全に撤退させた。寧都会議でこの問題を討論したさい、毛沢東は?州攻撃を行うべきではなかったとくりかえした。後方の中央局側は?州攻撃は必要であり、攻撃失敗の責任は毛沢東らが進攻路線を執行しなかったことにあると断じた。

?州攻撃問題の評価。

?州の役が終わってまもなく、毛沢東は紅軍東路軍を指揮して?州を攻撃し、蒋介石の侵攻配置を攪乱し、大量の資金や物資を奪うことに成功した。しかし中央は、大衆工作を十分行わず、一切の注意を資金奪取に向けた、と毛沢東を批判したため、寧都会議ではこの戦術の当否も議論になった。

発展戦略問題。

毛沢東は三月中旬にソビエト区中央局会議で、敵強く、我弱しという認識のもとで、準備を中心とすべしと主張したが、これは、敵の侵攻を待つ後向きの作戦と非難された。周恩来は毛沢東の、準備を中心とする考え方については、穏やかに批判しつつも、後方(中央)の同志たちと違って毛沢東に対する過度の批判にもくみしなかった。

周恩来は、毛沢東の積年の経験は作戦にむいており、彼の興味も戦争にあるとの理由から、毛沢東を前方にとどまらせよと主張した。そして1)周恩来が戦争指揮に全責任をおい、毛沢東が補佐として前方にとどまるか、2)毛沢東が戦争指揮に全責任をおい、周恩来が行動方針の監督に全責任をおう、という二案を出した。

会議は結局、周恩来の1)案を採択したものの、毛沢東は病気を理由に後方にもどった。寧都会議の数日後、ソビエト区中央局は王明ら臨時中央の指示にもとづいて会議の決定を変更し、毛沢東に後方で中央臨時政府の工作をさせると決定し、周恩来の紅一方面軍政治委員兼任を命じ、毛沢東はこのポストを奪われた。

一一月の「軍事路線についてのソビエト区中央局への指示」は、毛沢東の戦略を純粋防御路線と批判し、その追随者たちを排斥し打撃をあたえたが、そのなかには若き日のケ小平や弟毛沢覃などが含まれている。毛沢東は福音医院に幽閉される形となった。

調和主義者への批判

三二年一一月一二日、任弼時ら後方中央局側は、上海の臨時中央に宛てて電報を打ったが、この電報の中で、1)周恩来は「前方同志の待機主義」すなわち毛沢東の誤りと同じく、中央(王明)の積極進攻路線に賛成していない。2)周恩来は毛沢東を掩護している。3)周恩来報告は調和主義だ、と批判されている。「これは周恩来の最大の弱点である。弱点を理解し克服しなければならない」。

周恩来はかつて、李立三に対して調和主義の誤りを犯した、と批判された。今回は毛沢東処分において同じ誤りを犯したと王明らから批判された。調和主義の用語が適当かどうかは別として、これは周恩来の行動パターンのある側面をよくしめしている。のちに「まるめこみ屋」と罵倒されたのもほぼ同じ意味だ。

周恩来は臨時中央にあてて抗弁した。1)毛沢東に対して温和な態度をとったが、これは調和主義ではない。2)後方の同志が毛沢東に対して過度の批判をおこなったのは事実に反する。3)毛沢東を前方にとどめるのは、毛沢東の経験が作戦に適しており、戦争に有利であるからだ。

王明らの臨時中央は三三年初め、国民党によって上海を追われ、中央ソビエト区に移ったが、それによって王明極左路線(進攻路線)はますますひどくなった。三三年六月上旬、博古は寧都で中共中央局会議(第二次寧都会議)をひらいた。毛沢東はこれに出席し、第一次寧都会議の処分の誤りを主張したが、博古らはしりぞけて、毛沢東への批判をいっそうつよめた。毛沢東はふたたび病にたおれた。

遵義会議での復活

ゲリラの根拠地はもともと毛沢東たちがきり開いたものである。あとから根拠地にやってきたモスクワ帰りの指導者たちが、コミンテルンの権威を傘にきて現場の実情にあわない命令をくだすなかで、戦闘は敗北をくりかえした。ついに国民党の包囲討伐を撃退できなくなった。

いまや江西ソビエトを捨てて、他の根拠地へ逃亡することを余儀なくされた。西をめざしたので当時は西征とよばれたが、のちに長征の名に統一された。毛沢東は反撃の機会をうかがいながら、長征の隊列に加わった。

長征の過程で毛沢東が党内の指導権を握ったのが、遵義会議であることはよく知られている。遵義会議以後、毛沢東はその死去まで中共中央の権力をにぎりつづけたのであるから、この会議の重要性は明らかである。

この貴州省遵義への道を『周恩来伝』はこう描いている。

「貴州の天気はよく“天に三日晴れなし”といわれる。遵義へ進軍する途中、いつも小雨が降り続き、道はぬかるみ、非常に歩きにくかった。周恩来は皆と同様、手に杖をもち、びしょ濡れの衣服を着て、雨を冒して行軍した。ここの地勢は起伏が激しく、坂を越えるとまた坂がつづいていた。下り坂の時に、ちょっと不注意だと滑って転び、人々はみな泥まみれになった」。

こうした難行苦行の挙句、三五年一月七日、紅軍は貴州省第二の都市・遵義を占領した。遵義会議は三五年一月一五〜一七日に行われた。なぜ敵の攻撃を撃退できなかったのか、その指揮の誤りを総括することが会議の目的であった。まずモスクワ帰りの博古(秦邦憲)が基調報告し、包囲討伐を粉砕できなかった客観的原因を強調することによって、みずからの指揮の誤りを隠そうとした。周恩来は副報告を行い、反包囲討伐が失敗した主な原因は軍事指導における戦略戦術の誤りにあると自己批判しつつ、博古、ブラウン(コミンテルンから派遣されたドイツ人軍事顧問)を批判した。

両報告のあと張聞天が、毛沢東、王稼祥と共同で起草した極左軍事路線に反対する報告を行った。つづいて毛沢東が長い発言で軍事路線の誤りの核心を剔抉し、革命戦争の戦略問題を論じ、今後の方向を提起した。王稼祥、朱徳、周恩来、李富春、聶栄臻らも相ついで発言し、毛沢東の主張を支持した。

陳雲が遵義会議の伝達のために当時かいたメモによれば、この会議において「周恩来とその他の同志は張聞天、毛沢東、王稼祥の提綱と意見に完全に同意したが、博古は自己の誤りを完全には認めなかった。ブラウンは自らへの批判について断固として反対した」。

会議の結論はこうであった。

1)毛沢東を政治局常務委員に選ぶ(毛沢東は三〇年の六期三中全会で候補になり、三四年の六期五中全会で政治局委員になっていた。遵義会議当時の常務委員は、博古、張聞天、周恩来、項英の四人である)

2)張聞天が決議を起草し、常務委員の審査を経て、討論のために支部に発出する。

3)常務委員の職掌分担をあらためる。

4)博古、ブラウン、周恩来の三人組による指揮体制をやめる。最高軍事首長朱徳、周恩来を軍事指揮者とし、周恩来は軍事指揮の最終的意思決定責任者とする。

会議のあと、常務委員会議をひらき、毛沢東を周恩来の軍事指揮上の「幇助者」に決定した。

毛と周の立場逆転

遵義会議の関連資料をよむと以上のようなことがわかるが、周恩来はどのように誤りを認識し、自己批判し、毛沢東の側に転じたのか。

周恩来が長征の過程で軍事指揮の誤りを痛感するようになったのは、湘江戦役(三四年一一月下旬)で部隊の半分をうしない、隊列が三万余に急減したときである。このあと、一二月一一日に湖南省通道で、一八日貴州省黎平で、つづいて三五年一月一日貴州省烏江南岸の猴場で紅軍の進撃というよりも逃亡の方向をきめるための現場会議をそのつどひらいている。これらの会議における毛沢東の主張の妥当性を張聞天、王稼祥らとともに周恩来もみとめるようになったようである。

当時、周恩来の党および紅軍における地位は、顧問ブラウンをのぞけば、博古、張聞天につぐナンバースリーであり、声望からいえば両者に並んでいた。こうした地位からして、周恩来が事実上、会議の進行をつとめることになった。周恩来はみずから切りもりした会議で博古の戦術の誤りを批判し、みずからがこれに追随したことを自己批判し、毛沢東を指導部の一員に引きあげたのであった。

しかしこの時点では、博古の総責任者としての地位を解任するには至らず、軍事指導権と指揮権についてのみ周恩来が博古に代替するにとどめた。毛沢東はここで周恩来を補佐する役割をあたえられたにとどまる。

そして会議後、三省の交界(四川、貴州、雲南)で、総責任者の地位から博古がおりたので張聞天がこれに代わり、さらに張聞天の提案にもとづいて毛沢東、周恩来、王稼祥からなる三人組が軍事指揮の全権をもつようにきめた。ここで初めて毛沢東と周恩来の間で、主役と補佐の関係が名実ともに逆転した。

このようにみてくると周恩来の決定的役割が浮かびあがってくる。もし周恩来が博古、ブラウンとの三人組に固執し、コミンテルンの権威を利用して、毛沢東の挑戦に対抗したとすれば、毛沢東の奪権闘争はきわめて困難になり、紅軍は誤った指揮にもとづいて全滅していた可能性がある。

この決定的な舞台回しについて周恩来はのちにこう述べている。「毛主席の指導的地位は水到りて渠成る、である。千軍万馬のなかで毛主席の指導が正確であることは事実が証明している」。また「毛主席が航路を変えたので、中国革命は嵐のなかで危険からのがれ、敗北を勝利に転ずることができた」とも述べている。

長征、苦難の道

三五年一〇月一九日、紅軍は呉起鎮に着いて陝甘解放区の人々の熱い歓迎をうけ、二・五万キロの長征が終わった。この長征のきびしさについては、様々のエピソードが残っている。

長征が始まると、妻ケ穎超は肺結核で吐血したため、休養中隊に編入され、周恩来と別の行軍になった。毛沢東、周恩来が休養中隊とすれ違うとき、人々は「毛さんとヒゲさんがやってくる」と叫ぶのが常だった。周恩来は当時アゴヒゲを伸ばしていたため、ヒゲさん(胡公)とよばれていた。周恩来はトウ穎超のもとに近づき、二言、三言話すだけで立ちさった。あるとき国民党飛行機の爆撃によって休養中隊から十数人の死傷者が出た。周恩来は真夜中にかけつけたが、数分間話しただけでたちさった。

三五年八月、周恩来の病気が重くなり、ようやくケ穎超がむかえに来た。周恩来は意識不明で木板のベッドに寝かされていた。ケ穎超は地面に稲藁を敷いて寝た。彼女が周恩来の脱いだ羊毛のチョッキを見てみると、いるわいるわ、なんと一七〇匹のシラミがいた。ケ穎超の指の爪は、マニキュアでもつけたように真っ赤になったという。

毛沢東は長征のとき、便秘に悩まされた。不規則なかつ乏しい食事のため、一週間も大便のないことさえあった。そこで毛沢東が大便に成功したニュースに三軍が歓呼し、水を酒の代わりにして乾杯したことさえあった。

衛士李銀橋は、陝北転戦期に毛沢東の用便のために、よく穴掘りを命じられた。「主席、どうして便所に行かないのですか」「くさいのが嫌いだ。脳味噌によくない」と毛沢東の答え。「でも、農民と世間話をするとき、糞を砕いて、その手をポンとたたいて、煙草をすってるじゃありませんか」と李銀橋がいぶかる。「あれはあれ、これはこれだ」と毛沢東。「ところで、君はいつモノを考えるかね」と毛沢東が問う。「ベッドの上で」と答えると、「教えてやろう。用便のときこそ、いい考えが浮かぶのだ。便所があんなにくさくて、いい考えが浮かぶかね」。

北京への進駐後、野糞ができなくなり、李銀橋は穴掘りの仕事がなくなった。その代わりに毛沢東に浣腸を施すことが李銀橋の大事な仕事の一つになり、五九年まで続いた。その頃になると、毛沢東の食事が改善され、便秘が治り、浣腸の仕事がなくなったからである。

長征をモーゼの出エジプトにたとえた論者がある。その当否は別として、この旅が想像を絶する苦難の旅であったことは容易に想像できる。たとえば、食べるものがなくなり、ついに荒れ寺の破れ太鼓の皮を煮こんで食べた話などは、その一例であろう。廖承志はのちに、あれはほんとうに美味しくなかったと述懐した。四つ足のものならテーブル以外はすべて、空を飛ぶものは飛行機以外はすべて食べるのが中国人流の食生活といわれるが、長征の猛者も太鼓の皮だけは、敬遠したらしい。


3、毛主席の登場

国共内戦の開始

一九四五年、日中戦争がおわった。まもなく抗日統一戦線はやぶれ、共産党軍と国民党軍との間に内戦が再開された。四六年六月、国民党軍が解放区に対する攻撃をはじめ、国共内戦がはじまった。約一年ちかくかけておこなわれた周恩来・マーシャル会談も四六年末には物別れにおわった。

四七年三月、国民党軍は延安にせまった。三月八日延安の一万余の軍民が宝塔山下の商会大会場で解放区防衛の動員大会にあつまった。その時、周恩来は政治、軍事、経済の各方面から蒋介石政府の現状を分析したあと、こうむすんだ。「われわれには毛主席の直接指導があり、かならず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ!」ここには毛沢東神話の成立において周恩来のはたした役割の一端が浮き彫りにされている。

三月一二日、延安上空に国民党軍に雇われたアメリカ製爆撃機があらわれ、解放軍総部ちかくに大型爆弾を落としたが、そのとき毛沢東、周恩来、彭徳懐は軍用地図をひらいて、迎撃作戦を検討していた。この日、朱徳、任弼時、葉剣英は一部の機関要員とともに瓦窰堡に移転した。毛沢東、周恩来は延安にとどまったが、棗園後溝から王家坪におかれていた解放軍総部に移動した。

三月一三日払暁、国民党軍胡宗南の一四旅団は宜川、洛川から延安にむかって猛攻撃をはじめた。彭徳懐が毛沢東に延安を撤退するようすすめたところ、彼はこう答えた。「私は最後に延安を撤退しよう。胡宗南の兵隊どもがどんな具合なのか、この目で見たいからね」。

三月一八日夕刻、毛沢東と周恩来が第二縦隊司令員王震と話しているときに、東南方向じ大きな銃声がきこえ、国民党軍の先頭部隊が呉家棗園まで進撃したことがわかった。機関も、群衆もすべて撤退したことを確認するや、毛沢東はわざとゆっくり食事をして、それからジープに乗った。「同志諸君、さあ乗ろう! われわれはかならずもどってくる!」。マッカーサー流にいえば、アイ・シャル・リターンといったところか。マッカーサーはあえて一人称を主語にしたが、毛沢東のばあいは「われわれ」である。

延安を撤退して五日目に毛沢東らは瓦窰堡につき、一休みした。三月二五日昼すぎ、青化ヘンで国民党軍四〇〇〇人殲滅の勝報に接した。つづいて四月一四日羊馬河戦役、五月二〜四日蟠竜戦役でいずれも勝利した。

綏徳城南の棗林溝で党中央は重要会議をひらき、毛沢東、周恩来、朱徳、劉少奇、任弼時ら書記五人の責任分担をきめた。毛沢東が全国の軍事指揮に責任をおい、周恩来がこれを補佐することになった。朱徳は党の監察工作、劉少奇は党務と白区工作、任弼時が土地改革に、それぞれ責任をおうことになった。

毛沢東はここで胡宗南の軍隊二五万を翻弄させていただけではない。遼瀋戦役(四八年九〜一一月)のために、電報を少なくとも七七通かいて、戦術を指示していた。毛沢東は周恩来の協力を得て、全国の解放戦争を指揮したのであり、両者の緊密な協力は四七〜四九年の解放戦争の全過程を通じて貫徹された。

中国に毛沢東があらわれた

一九四七年八月一八日のこと、かさねての敗北に激怒した劉戡は、七個旅団をひきいて毛沢東ら中央機関の数百人を追撃し、綏徳、米脂を経て、葭県(佳県)でついに黄河河岸まで追いつめた。大雨が続き、黄河は増水していた。前方には濁流渦巻く黄河、後方からは国民党軍の追撃、毛沢東、周恩来らは進退きわまった。兵力は警衛中隊約一〇〇余人、敵軍は数万人。黄河を渡河すべきか否か。

毛沢東は沈鬱な顔で二本指を突出し、煙草を吸う手つきをして、「煙草をくれ」と重い口をひらいた。衛士たちには準備がない。あちこち物色したあげく、ようやく馬丁の侯が油紙に包んで大切にしまっておいたものを分けてもらった。毛沢東はその一服を深々とすう。中央縦隊数百人の命運は、その紫煙の行方のごとくである。

銃声はますます激しくなる。毛沢東は吸殻をすてると、きっぱり断じた。「黄河は渡らない!」 そして敵軍数万の銃口の前をゆっくり歩きだした。毛沢東は黄河を渡るのは北京入城のとき、と腹にきめたのであろう。東北の戦局が流動的な状況のもとで、司令部が敗走をはじめたのでは総くずれになる。ここは大バクチを打って、強気のパフォーマンスが必要であったとおもわれる。なによりも味方を勇気づけるために。

奇蹟が起こったのは、そのときだ。数万の敵軍は突然射撃を停止し,追撃を止めた。国民党軍が毛沢東、周恩来らをここまで追いつめながら、なぜ殲滅の機会を逸したのか、よくわからない。毛沢東は丘を上り、白竜廟で一休みし、一息つくと突然京劇「空城計」をうなった。丘をのぼる毛沢東の後姿を見つめながら、任弼時が感慨深げにつぶやいた。「中国に毛沢東があらわれた」。毛沢東讃歌「東方紅」の歌詞はこうである。

「東は赤い。太陽が昇る。中国に毛沢東があらわれた。彼は人民のために幸福を謀る。彼は人民の救いの星だ」。革命歌「インタナショナル」の中国語訳には「この世に救世主はいない」という一句がある。この歌を歌いながら革命をすすめてきた隊列のなかから、「毛沢東は救いの星」という歌がこだまするようになったのは、このときである。

毛沢東は下戸だった

四七年八月一八〜二〇日、西北戦局に決定的な転換をもたらす沙河店戦役が戦われた。毛沢東は周恩来の協力のもとに作戦を練り、西北野戦軍司令彭徳懐に届けた。この三日二夜、毛沢東は部屋を出ず、便所に行かず、ベッドに寝なかった。茶はよく飲んだ。茶葉には三回湯を注ぎ、最後には茶葉を食べた。この習慣は若いときからのもので、終生変わらなかった。小便は便器を用いておこない、李銀橋がそれをすてた。

毛沢東は下戸であり、葡萄酒を一杯飲んだだけで、顔が真っ赤になった。そこでほとんど飲む機会がなかったが、例外があった。それは睡眠薬がきれたとき、戦闘指揮や執筆のために数晩徹夜するときであった。沙河店戦役のさいに睡眠薬がきれたので、衛士は酒を用意した。

酒を求める毛沢東に李銀橋が答える。「どんな酒がよいですか。白酒(ルビ・バイチウ)はどうですか」。「白酒はいやだ。敵の鍾松将軍は、それほど辛くない」。「では葡萄酒は?」。毛沢東はかぶりをふり、「今回は敵は十数万、葡萄酒みたいに弱くはない。容易ないくさじゃない。……ウム、ブランデーはあるかね」。「あります。外国ものです」と李銀橋。

結局、毛沢東は煙草を五箱すい、茶を数十杯のみ、彭徳懐に命じて鍾松の三六個師団を殲滅させ、六〇〇〇人を捕虜にとる戦闘を指揮した。戦闘が勝利におわるや、毛沢東は彭徳懐のために「誰敢横刀立馬、唯我彭大将軍」(誰か敢えて刀を横たえ馬を立てん、ただわが彭大将軍あるのみ)の一二字をかいて、武功をたたえた。

この詩の前半は「山高路遠坑深、大軍縦横馳奔」(山高く路遠く坑深く、大軍は縦横に馳せ奔る」であり、元来は一九三五年九月、彭徳懐が岷山蝋子口の敵軍一個旅団を撃破し、紅軍長征の最後の壁を突破したとき、彭徳懐をたたえてつくったものである。

彭徳懐は長征と、延安防衛戦でかさねて大活躍し、毛沢東はこれを激賞したのであった。このような経緯があったからこそ、彭徳懐は建国後も毛沢東を対等に同志としてつきあう態度を保ち、「主席」とよびかけることをしなかった。遠慮なしに毛沢東に直言し、後に五九年の廬山会議で激突することになる。

黄河を越える

一九四八年三月二三日、毛沢東ら中央機関はついに黄河を渡った。岸辺には十数艘の木槽船が並んだが、毛沢東は最初の船に乗り、周恩来、任弼時が第二の船、陸定一と胡喬木らが第三の船に乗りこんだ。上機嫌の毛沢東は上流を眺めながら一人口ずさんだ。「君見ずや黄河の水、天から来るを。奔流海に到りて復た帰らず……源はいずこなりや?」(李白「将進酒」)。毛沢東は博覧強記であり、名詩名詞をたくさんおぼえていた。また機嫌のよいときは、その状況に応じた京劇の一節を口ずさむクセがあった。

四八年五月、毛沢東ら中央機関は晋察冀軍区司令部の所在地へ阜平県城南荘につき、そこで中央工作会議をひらいた。周恩来、朱徳、任弼時、陳毅、粟裕、李先念、張際春、李濤らが出席し、一〇日間ひらかれた。会議後の毛沢東は上機嫌で、大別山の劉伯承、ケ小平に長い電報をかいたり、全国政治協商会議開催の通知を起草したりした。

一九四八年九月八〜一三日、西柏坡の機関小食堂で政治局拡大会議がひらかれた。七名の政治局委員(毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳、任弼時、彭真、董必武)のほか、ケ小平を含む一九名の中央委員、候補、さらに華北、華東、中原、西北の党と軍隊の主な責任者が出席した。

ここで解放軍が最後の勝利を獲得するうえで、決定的な戦いとなった三大戦役(遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役)と揚子江渡河作戦(解放軍は東北、華北を解放したあと、揚子江をこえて、華南、西南、西北に進撃したが、この戦略のなかで、揚子江渡河作戦は大きなカベであった)への動員令をきめた。

党中央は前述のように五大書記の分担をきめており、全国の軍事指揮は毛沢東が周恩来の補佐を得て行うことになっていた。しかし、このときは毛沢東はこう決意を語った。「いまや最後の決戦の段階になった。戦いはいよいよ大きくなり、全国全局にかかわる大戦争になってきた。私一人で決定するわけにはいかない。重大な意思決定は集団で研究して決定しなければならない」。こうして書記処は毎日会議をひらくことになった。ここでの毛沢東は集団指導の長としてたいへん民主的であり、晩年の独裁と対照的である。

徹夜で仕事を行い、昼に眠ることは毛沢東の長年の習慣であらためにくい。そこで他の書記たちが毛沢東の習慣に合わせて、夜型にすることになった。陝北を転戦したさいは周恩来、任弼時も毛沢東に合わせて夜型になっていたが、今回は朱徳と劉少奇もそれにしたがった。

朱徳総司令は長年来、早寝早起きの習慣を守っており、夜一〇時には就寝し、早朝に起床し、散歩や太極拳をやる習慣であったが、すでに還暦をすぎていたこの老司令も夜型にあらためた。毛沢東が気づかっていわく「総司令よ、あなたは高齢だから、早く休んでほしい」。朱徳が答えていわく「大事な時だ。もどっても寝つけんよ」。とはいえ、会議が半分あたりまで進んだころ、朱徳はこっくりこっくりやることが多かった。

任弼時は高血圧なので、過度に緊張すると頭がくらむ。椅子によりかかって目を閉じていた。毛沢東、劉少奇、周恩来は元気にあふれ、とりわけ周恩来は軍事委員会総参謀長として、毛沢東を補佐し作戦を指揮した。夜中毛沢東のそばを離れず、昼は外交、華僑対策、統一戦線、新聞宣伝などの仕事を大量に処理した。周恩来の精力的な仕事ぶり、事務能率の高さにはみなが驚かされた。

白髪一本で三大戦役の勝利

東北地方を解放する遼瀋戦役が始まると、いっそう緊張した。毛沢東はここで非凡な気魄を示した。一つは錦州攻撃である。錦州攻撃は少数の兵力で一挙に四〇万の大軍と戦う形であり、容易に決断しにくかった。

毛沢東は国民党の大軍を相手にするだけでなく、林彪の異論をも説得しなければならなかった。林彪は軍事に有能で、毛沢東に面とむかって異論を唱えることが少なくなかった。こうした態度を示す点で、彭徳懐と林彪は突出していた。だからこそ毛沢東は林彪を信頼していたのだと李銀橋は証言する。

錦州攻撃の場合、林彪は錦西と瀋陽の敵に挟撃されるのを恐れた。もっぱら東北戦場における戦略的観点から、北から南へ追撃する方が容易だと判断していた。しかし毛沢東は全国的戦略から問題を考え、関外の敵を関内にいれてはならぬと決意していた。毛沢東は単なる勝ち戦さではなく、前代未聞の大殲滅戦を考えていた。毛沢東は十数通の電報を打って林彪を説得し、長春を撤退して北寧線を南下し、錦州を攻撃し、東北の敵を全滅するよう指示した。

ある日、毛沢東が腫れぼったい顔に笑みを浮かべていう。蒋介石が瀋陽に飛んできた、こうなるとわれわれの勝利に展望が見えてきた。周恩来が解説していう。蒋介石が到るところ、戦いやすくなる。いつもデタラメ指揮をやるからね。まもなく錦州解放のニュースがとどいた。

遼瀋戦役を始めたとき、もう一つの大事は国民党華北地区の責任者・傅作義の十数万の大軍であった。蒋介石は瀋陽へ飛んで督促する途中、傅作義に緊急にあって、東北支援を命令した。傅作義は関外へ出ることを望まず、「魏を囲んで趙を救う」故事を考え、石家荘や西柏坡を囲んで、瀋陽を救おうとした。中共軍は北平以南から石家荘まで主力部隊がいないのに対して、傅作義の騎兵部隊は行動の迅速なことで響いていた。周恩来は汪東興と中央警衛団幹部のひきいる歩兵中隊二コ中隊を派遣して警戒させ、毛沢東と党中央の安全を図るとともに、中央各機関の疎開を計画した。

毛沢東はここで新華社のために評論を書いてユーモア混じりに傅作義に警告した。「われわれはすでに十分な準備が出来ているから、あなたが(石家荘に)やってきても得るところはない。やはりもう少し真面目に考えた方がよい」。この放送を聞いた傅作義は北平を空けるのが心配になり、保定駐屯の部隊まで北平に移した。

こうして一篇の評論で傅作義の大軍を撃退した毛沢東は、ことのほか上機嫌で京劇『空城計』を湖南訛りでうなった。「我まさに城楼から山景を観るに、たちまち城外の乱れるを聞く。旌旗はためき、営は空なり。元来は司馬の発する兵なり……」。うなりおわると、今度は『三顧茅廬』の諸葛亮の段である。「我はもと臥竜崗におりしが……」

遼瀋戦役が勝利におわり、瀋陽が解放された夜、首長たちは祝杯をあげたが、毛沢東は大いくさの後は脂身の「紅焼肉」をたべて脳味噌に栄養を補うのが常であった。その夜はほかにビーフン肉と酸菜炒肉糸、コ沱河の魚、警衛兵士の捉えた斑鳩があった。

遼瀋戦役、淮海戦役から平津戦役まで四カ月余り、首長たちは毛沢東の二〇平米足らずの事務室で過ごし、三大戦役を指揮したのであった。

当時毛沢東は五五歳、身体は壮健で髪は黒々としていた。毛沢東は髪をとかすのは按摩の一種で血液循環をよくし、疲労をとるということで李銀橋がとかそうとすると、一本の白髪に気づいた。李銀橋が小声でぬきますかと聞いたあと、小心翼々と、しかし力をこめてぬく。これを眼鏡越しに眺めた毛沢東の一言。「白髪一本で、三大戦役の勝利とは! もうけたな」。



1. 毛沢東の湖南共和国運動

『毛沢東集」および同『補巻』(蒼蒼社、 1983〜86年。以下『毛補巻』 と略称)の別巻「毛沢東著作年表」をひもどくと, 1919年から20年にかけて,毛沢東が皖系軍閥の湖南省督軍,省長張敬尭の追放運動に熱中した経緯がよく分かる。毛沢東と新民学会,湖南学生聯合会などの運動が効を奏して,20年6月,張敬尭は湖南を去り,「駆張運動」は成功した(『辞海』歴史分冊,中国現代史2頁)。

この運動のなかで,毛沢東は「湖南改造」を提起し,「湖南自治」「湖南モンロ一主義」,そして「湖南共和国の建設」を唱え,積極的に運動を組織した。たとえば毛沢東は「湖南改造促成会」の名で「湖南改造促成会発起宣言」を起草して,上海の『申報』(1920年6月14日付)や上海『民国日報』(同6月15日付)に発表している (『毛補巻』 9巻,97〜99頁)。

ついで同年7月長沙「大公報』(6日および7日付)には,「湖南改造促成会」の名で書いた「湖南改造の主張」を掲げたが,その一節にこう述べている。「中国四千年来の政治はすべて空架子の,大規模な,大方法であった。その結果,外は強いが中は干からび,上は実だが,下は虚,外面は堂々とし立派だが,中は無柳腐敗だ。民国以来,名士偉人が憲法,国会,大統領制,内閣制と大騒ぎしてきたが,その結果はますますデタラメになるのみ。砂上の楼閣に似て,建物の完成を待たずしてすでに倒れている」(『毛補巻』1巻,199頁)。

毛沢東はここで湖南省の人口3000万は明治維新当時の日本の人口と同じであり,「充実の邦」日本に学び,湖南改造に取り組むよう呼びかけ,改造の第一義は「自決主義」,第二義は民治主義だとしていた。

長沙『大公報』(同年9月3日付)では「湖南共和国」の建設を呼びかけている。

「私は大中華民国に反対し,湖南共和国を主張する。なぜか。以前は,今後の世界で生存していけるのは大国家だとする謬論があった。その流毒によって帝国主義を拡大し,自国の弱小民族を抑え,海外に植民地を争い,未開民族を奴隷化してきた。顕著な例は,英・米・独・仏・露・オーストリアである。彼らは幸いにも成功したが,実は成果なき成功であった。ほかに中国もその例に含まれるが,こちらは成果なき成功にも成功していない。中国が得たのは,満洲人を消滅させ,モンゴル人,回人,チベット人を気息奄奄たらしめ,18省をメチャメチャにし,3つの政府を作り,3つの国会を作り,20個以上の督軍王,巡按使王,総司令王を作り,老百姓は日々殺され,財産を奪われ,外債は山の如くである。共和民国を称しているものの,共和とは何かが分かっている国民はいくらもいない。4億人,少なくとも3億9000万人は手紙を書けず,新聞を読めず,全国に1本たりとも自前の鉄道がない」「9年間の二七共和の大戦乱の経験を通じて,全国の総建設は当面は完全に希望のないことが分かった。最良の方法は総建設をきっぱり断念することである。思い切って分裂させ,各省の分建設を図ることである。22省,3特区,2つの藩地,合計27地方が各省人民の自決主義を実行することだ。最良は27国に分けることである」「湖南はどうか。3000万人一人ひとりが覚醒しなければならない。湖南人にも別の道はない。唯一の方法は湖南人の自決自治である。湖南人は湖南地域で湖南共和国を建設することである」(『毛補巻』1巻,217〜218頁)。

長沙『大公報』(同年9月6日付)では「湖南モンロ一主義」を呼びかけている。

龍兼公の提起した「湖南モンロー主義」について, みずからの事柄をやることに意を用いること,他人の事柄には絶対に干渉しないこと,他人がわれわれの事柄に干渉することを絶対に許さないこと,の三条件だと解説し,これに「絶対賛成」の意を表明している(『毛補巻』1巻,223〜224頁)。

長沙『大公報』(同年9月6日付および7日付)では,湖南が中国の累を受けてきたと指摘している。

「中国が生まれてこのかた,湖南は存在した。古くは蛮地であり,周代には楚国であった。漢代には長沙国であり,唐代には節度使の地区であった。宋代は荊湖南道であり,元代は行省を建てられた。明清はこれを継承し,その後も変わっていない」「湖南の歴史はただ暗黒の歴史であり,湖南の文明は灰色の文明ではないのか。これは四千年来湖南が中国の累を受け,自然な発展を遂げられなかった結果ではないのか」「湖南人よ!われわれの使命は実に重大である。まず湖南共和国を目標とし,新理想を実現し,新生活を創造し,27の小中国の主唱者たらねばならない」(『毛補巻』1巻,225〜227頁)。

長沙『大公報』(同年9月26日付)では「湖南自治運動」を呼びかけている。

長沙『大公報』(同年9月30日付)では「湘人治湘」を呼びかけている。「湘人治湘」の表現は現在の「港人治港」を想起させるが,外省人ではなく「湘人自治」を主張するのは,「官治」に代えて「民治」を行なうためだとしている(『毛補巻』1巻,235〜236頁)。

長沙『大公報』(同年10月3日付)では「全自治」を呼びかけている。すなわち「湖南国」を主張するのは,単に湖南省の「省」を「国」に変えるものではなく,「全自治」を獲得するものである。「半自治」で満足することはできないのだと主張している(『毛補巻』1巻, 237頁)。

長沙『大公報』(同年10月5日付および6日付)では,「湖南憲法」の制定による 「新湖南」の建設を呼びかけている。

「湖南自治の根本法の起草について,1ヵ月来議論が行なわれてきた。ある者は省政府が起草するよう主張し,ある者は省議会が起草すべきだとし,ある者は省政府と省議会が合同して起草すべきだとし,ある者は省政府,省議会,省教育会,省農会,省工会,省商会,湖南弁護士公会,湖南学生聯合会,湖南報道会聯合会などが合同して起草すべきだという。これらの主張にわれわれは賛成できない」「われわれの主張は,湖南革命政府が湖南人民憲法会議を召集し,湖南憲法を制定し,新湖南を建設しよう,というものである。この主張こそが理論的に筋が通り,実際的にもうまくやれるものである」(『毛補巻』 1巻,239〜241頁)。

憲法制定の呼びかけは,何淑衡,彭(王黄),朱剣凡,龍兼公ら376人の連名による呼びかけであり,毛沢東はその1人にすぎないが,この考え方に基づき,「湖南人民憲法会議選挙法の要点」および「湖南人民憲法会議組織法の要点」を起草したのは,毛沢東,彭(王黄),龍兼公であったと,龍兼公自身が2年後に長沙『大公報』(22年10月9日付)で証言している(なお,「要点」は長沙『大公報』(10月8日付)に発表され,のち『毛補巻』9巻,103〜105頁に所収)。


2. 中華聯邦共和国構想

毛沢東は中国共産党の2回大会には「開催場所を忘れたために参加できなかった」とエドガー・スノウに語った有名なエピソードがあるが, この大会で採択された「中国共産党第2回大会宣言」には「聯邦」構想が提起されていた。近年の情報公開のなかで,中共党史の基本的資料がオリジナルあるいはそれに近い形で歴史資料として公表されるようになったが,その一つである『中共中央文件選集』(中央档案館編,中共中央党校出版社,1991年)から引用してみよう。

(1)中国本部各省では聯邦制をとらない〔中国〕本部各省は(東3省を含めて)経済上に根本的相違は絶えてないにもかかわらず,民国の歴史は10年来の武人政治によって演出された割拠現象をもって省を邦となすことを主張し,各自が一方に覇をとなえることをもって地方分権あるいは聯省自治の美名で飾ろうとしている。これはまったく理由のないものである。なぜなら10年来,すべての政権は完全に各省武人の手にあり,もしさらに分権を主張するならば,省を国と称し督軍を王と称するのみだからだ。それゆえ,聯邦の原則は中国本部各省では採用できない。

(2)蒙古,西蔵,新彊は自治邦を促進し,中華聯邦共和国をつくる。蒙古,西蔵,新彊などの地方はそうではない。これらの地方は雁虫上異種民族が久しく聚居してきた区域であるばかりでなく,経済上中国本部の各省と根本から異なる。というのは,中国本部の経済生活は小農業手工業からしだいに資本主義生産制に進む幼稚な時代にあるのに対して,蒙古,西蔵,新彊などの地方はまだ遊牧の原始状態にあり,強いて中国本部に統一するならば,軍閥の地盤を拡大する結果となり,蒙古などの民族自決,自治の進歩を阻害するからであり,本部人民にとっていささかの利益にもならないからである。一方では軍閥勢力の膨張から免れ,他方で辺鏡人民の自主を尊重し,蒙古,西蔵,回彊の3自治邦を促進し,それから聯合して中華聯邦共和国になってこそ真の民主主義的統一である(第1冊,111頁)。

こうして第2回党大会の7項目からなるスローガンの第3〜4項はこうであった。

(3)中国本部(東3省を含む)を統一し,真の民主共和国とする。

(4)蒙古,西蔵,回彊の3部で自治を実行し,民主自治邦とする。

5)自由聯邦制を用いて中国本部,蒙古,西蔵,回彊を統一し,中華聯邦共和国を樹立する(同上,115〜116頁)。

毛沢東の湖南共和国構想と合わせて考えると,当時の中国共産党の考え方は「聯邦案」であったことが分かる。ロシア革命で提起された民族問題の解決策は,理念的,理想的な形のままで中国共産党に引き継がれていたとみてよい。

3. 中華聯邦共和国からの離脱権

第2回党大会からおよそ10年後,毛沢東らは江西ソビエトでゲリラ闘争に従事していたが,1931年11月7日,中華ソビエト第1回全国代表大会で採択された中華ソビエト共和国憲法大綱(全17項からなる)の第四項は「ソビエト共和国の公民」の内容をこう定めていた。

「ソビエト政権領域内の労働者,農民,紅軍兵士およびすべての労働する民衆とその家族は男女,種族, 宗教にかかわりなく,ソビエト法律の前で一律に平等であり,等しくソビエト共和国公民である」。

ここで「種族」の括弧内に挙げられているのは「漢,満,蒙,回,蔵,苗,黎,および中国にいる台湾,高麗,安南人など」である。

14項では少数民族の自決権,聯邦への加入・離脱権をこう宣言した。

「中国ソビエト政権は中国境内の少数民族の自決権を承認し,各弱小民族が中国から離脱し,自己が独立の国家を成立する権利を一貫して承認してきた。蒙古,回,蔵,苗,黎,高麗人など,およそ中国地域内に居住する者は,完全な自決権,すなわち中国ソビエト聯邦に加入し,あるいは離脱するか,あるいは自己の自治区域を樹立する権利をもつ。中国ソビエト政権はいまこれらの弱小民族が帝国主義国民党軍閥,王公,ラマ,土司などの圧迫統治から完全な自主を得るよう努力しており,ソビエト政権はこれらの民族のなかで,彼らが自己の民族文化と民族言語を発展させなければならない」(『中共中央文件選集』第7冊,773頁,775〜776頁)。

ここでは,聯邦への加入,離脱権をも含めて,少数民族の自決権を完全に認める立場に立っていたことが分かる。

4.自己の事務を自己が管理する権限

毛沢東は延安で1943年に開かれた中共中央六期六中全会(10月12〜14日) の報告「新段階を論ず」の第4章「全民族の当面する緊急任務」の第13項「中華民族を団結し,一致対日せよ」のなかで,こう述べている。

敵がすでに進めているわが国内の「各少数民族を分裂させようとする詭計」に対して,当面の第一の任務は各民族を団結させ一体となし,共同で日寇に対処することである。この目的のために,以下の各点に注意しなければならない。

第一,蒙,回,蔵,苗,(ケモノへんに謡のツクリ)〔のちに瑶と表記〕,夷,番各民族と漢族が平等の権利をもち,共同で日本に対する原則のもとで,自己の事務を自己が管理する権利をもち,同時に漢族と聯合して統一した国家を樹立することを許す。

第二に,各少数民族と漢族が雑居する地方では,当地の政府は当地の少数民族の人員からなる委員会を設置し,省県政府の一部門として,彼らと関わりのある事務を管理し,各族間の関係を調節し,省県政府委員のなかに彼らの位置をもたせるべきである。

第三に,各少数民族の文化,宗教,習慣を尊重し,彼らに漢語や漢文を学ぶよう強制しないだけでなく,彼らが各族みずからの言語文字を用いた文化教育を発展させるよう賛助すべきである。

第四に,存在している大漢族主義を是正し,漢人が平等な態度を用いて各族と接触し,日増しに親善を密接にし,同時に彼らに対して侮辱的,軽蔑的な言語,文字,行動を禁止するよう提唱する(『毛沢東集』6巻,蒼蒼社,1983年,219〜220頁) 。

5. 陜甘寧辺区時代

1941年,陜甘寧辺区施政綱領では,民族平等の原則に依拠して「蒙回民族の自治区」を樹立する方針へ,後退したかに見えたが,毛沢東は四五年には次のように,孫中山の民族「自決権」を再確認している。

毛沢東は第7回党大会で「聯合政府を論ず」と題した報告を行なったが(1945年4月12日),その四章「中国共産党の政策」の「われわれの具体的綱領」第9項少数民族問題でこう述べている。

国民党反人民集団は中国に多民族が存在することを否認し,蒙,回,蔵,彝(夷),苗,瑶〔ケモノ偏から王偏に変化〕,各少数民族を「宗族」と称している。彼らは各少数民族に対して満清政府および北洋軍閥の反動政策を完全に継承し,圧迫搾取し,至らざるところなしである。1943年の伊克昭盟蒙族人民を屠殺した事件,1944年から現在に至るまで新彊少数民族を武力鎮圧した事件および近年の甘粛回民を屠殺した事件などはその明らかな証拠である。これはファッショ的大漢族主義的な誤った民族思想と誤った民族政策であり,孫中山先生にまったく背いている。1924年に孫中山先生が書いた中国国民党第1回大会宣言でこう述べている。「国民党の民族主義には2つの意義がある。1つは中国民族がみずから解放を求めることである。2つは中国蕊内の各民族が一律に平等であることだ。国民党は敢えて鄭重にこう宣言する。中国以内の各民族の自決権を承認する。帝国主義および軍閥に反対する戦争に勝利したあと,自由な統一した (各民族が自由に聯合した)中華民国を組織する,と」。中国共産党は孫先生のこの民族政策に完全に同意する。共産党員は各少数民族の広範な人民大衆がこの政策を実現するため に奮闘するのを積極的に援助すべきである。各少数民族の広範な人民大衆が(民衆に繋がりをもつすべての領袖を含めて),政治上,経済上,文化上の解放と発展をかちとり,民衆の利益を擁護する少数民族自身の軍隊を成立させるよう援助すべきである。彼らの言語,文字,風俗,習慣,宗教信仰は尊重されなければならない(『毛沢東集』9巻,蒼蒼社,1983年, 255〜256頁)。

そして7回大会党規約では,「独立,自由,民主,統一,富強の,各革命階級の同盟と各民族の自由な聯合からなる新民主主義聯邦共和国を樹立する」と規定した。

このように,革命期の中国共産党は,(1)民族自決権の承認,(2)聯邦制の実行, (3)民族区域自治の実行、という三つの主張を行なっていた。

民族自決権とは各民族が自己の運命を決定する権利をもつことであり,政治的角度からいえば独立権である。すなわち被抑圧民族が抑圧民族から自分で離れる権利である。当時の中国の条件のもとでは,民族自決権とは,中国境内の少数民族は大漢族主義の搾取者と抑圧者たる,封建軍閥と国民党反動派から自由に分立する権利を意味していた。

この点について,最近の論者(李瑞) は次のようにその意図を解釈している。

「わが党は一切の民族分立の要求を無条件に支持していたわけではない。わが党は外国帝国主義者が策動した偽満洲国,偽蒙彊自治政府,偽トルキスタンイスラム共和国,西蔵の反動的上層人物の独立活動には断固として反対してきた」(李瑞「党の民族区域自治政策の形成と発展初探」『民族問題理論論文集』青海人民出版社,1987年,77〜79頁)。

国共内戦期から抗日戦争期にかけて,民族自決,聯邦制,民族区域自治の3つの方針に基づいて,1936年陜甘寧省預海県に回民自治政府が樹立された。1941年には陜甘寧辺区に一群の区レベル,郷レベルの蒙古族,回族の自治政権が樹立された。

45年から46年にかけて,党中央は内蒙古で民族区域自治の方針を実行しただけでなく,「和平建国綱領」のなかで「少数民族地区では,各民族の平等な地位とその自治権を承認しなければならない」と提起した。47年5月1日に成立した内蒙古自治政府は省レベルとして中国初めての民族自治地方であった。


先ず、中国の政治社会の変化を歴史的に考察するために、毛沢東の新民主主義政治論を振り返ってみたい。抗日戦争の時期に「新民主主義論」や「連合政府論」を著して、新民主主義政治の青写真を示した。それはソ連の「プロレタリア独裁」ではなく、「人民民主独裁」だと述べた。それは人民による民主主義政治を行い、階級敵には「独裁」を行うというものであった。人民の中には民族資本家や開明地主も含まれ、階級敵は極めて限られた。そして当時の現実闘争においては、前衛党である共産党の指導の下に、大衆路線と統一戦線政策がうまく貫かれ、広範な大衆の支持を得ることに成功した。また共産党内部は、民主集中制の組織原則が遵守され、党内民主が確保されていた。






1、1927年、陳独秀が指導的地位を追放され、29年除名される。
2、1927.3月、第5回代表者会議で、毛沢東が陳独秀により指導部を排除される。
3、1927年、毛沢東が「湖南農民運動視察報告」を作って、陳独秀と意見対立。
4、1929年、毛沢東が、コミンテルンの指令に反し、敢えて各地にソビエト地区を創設。
5、1929年、陳独秀が除名され、李立三コースが始まる。
6、1931年、李立三コースに代わって、陳紹兎(王明)コースが始まる。
 1932.10月、寧都(ねいと)会議で、周恩来派が、毛沢東を徹底批判し、軍権剥奪する。
 しょう江で、中共軍が国民党軍に惨敗する。毛沢東の復帰が要請される。
7、1935.1月、*義会議で、毛沢東が指導権を確立。
8、劉少奇が中共地方局書記、中原局書記、華中局書記等を歴任し、党内問題の処理に当たり、党内活動及び党員について論じたのは、主として、1928年から37年に掛けての第二次国内革命戦争の時代であった。


             【第1回党大会】

  1921年7月23日から31日まで、中国共産党は上海で第1回党大会を開き、党が正式に成立したことを宣言した。出席した代表は毛沢東、何叔衡、董必武、陳潭秋、李達、李漢俊、劉仁静、張国?Z、王尽美、?ケ恩銘、陳公博、周仏海の12人。彼らは全国の50数名の党員を代表していた。

  大会は、当面の政治情勢を分析し、党の基本的任務はプロレタリア独裁のために闘うことであるが、当面はブルジョア民主主義革命への参加をプロレタリアートに呼びかけねばならないことが確認された。党の組織については、ロシアのボルシェビキ党を模範とすることが決定された。

  大会は、中国共産党の『第一綱領』と『第一決議』を採択し、中国共産党の成立を宣告した。

             【第2回党大会】

  1922年7月16日から23日まで、党は上海で第2回党大会を開いた。出席した代表は、12人で、党員195人を代表していた。陳独秀が会議を主宰した。

  大会は陳独秀、李大?サ、蔡和森、張国?Z、高君宇を中央委員に選出し、陳独秀が中央執行委員長となった。大会は閉会後、『第二回党大会宣言』を発表した。

  大会は、中国革命を二階段に分けて行うよう指示した。中国近代史上はじめて、帝国主義と封建主義に徹底的に反対する民主主義革命の綱領を提起した。それは中国革命に対し、大きな意義を持つものであった。

  しかしこの大会では、民主主義革命の中におけるプロレタリア階級の指導権の問題や、民主主義革命と社会主義革命との関係に対して認識がまだ十分でなかった。また、労農同盟や農民の土地問題を徹底的に解決すること、および労農政権を樹立するなどの問題に対しても、認識がなかった。

             【第3回党大会】


  1923年6月12日から20日まで、党は広州で第3回党大会を開いた。出席した代表は30数人、そのうち代表権を持つものは19人で、420人の党員を代表していた。陳独秀が大会を主宰した。

  大会の中心的議題は、全ての共産党員や労働者が国民党に参加するかどうかだった。討論の中で多数の代表は、国民党との合作に積極的でない張国?Zらの誤った意見を批判するとともに、 コミンテルンの中国駐在代表のマーリンや陳独秀が提起した『すべて活動を国民党に帰す』という右翼的な観点にも賛成しなかった。

  最終的に大会は、共産党員が個人の資格で国民党に加入し、それによって民主的な各階級の統一戦線を作り上げ、同時に共産党が組織的にも政治的にも独立性を保つことを決定した。

  大会は9名の正式委員、5人の候補委員からなる新しい中央執行委員会を選出した。中央執行委員会は、陳独秀、毛沢東、羅章竜、蔡和森、譚平山の5人からなる中央局を選出し、陳独秀が委員長、毛沢東が秘書に、羅章竜が会計に任じられた。

  大会は革命の統一戦線の方針と政策を確定して、国共合作の形成を促したが、プロレタリア階級の指導権の問題や農民問題、軍の問題について、十分重視してはいなかった。

             【第4回党大会】

  1925年1月11日から22日まで、中国共産党は第4回党大会を上海で開いた。出席した代表は20人で994人の党員を代表していた。

  大会の中心的議題は、日ごとに高まる革命運動に対し、党がどのように指導を強化するか、そして宣伝工作、組織工作、大衆工作の面において大革命の高まりを迎える準備をどのように行うか、であった。陳独秀が会議を主宰した。

  大会は、前年5月の中央拡大会議が行った党工作の中の、右の誤りに対する批判を肯定し、改めて中国共産党が国民党と合作すること、労働運動、農民運動などに関しいくつかの方針を定め、プロレタリア階級の指導権と労農同盟の重要性を指摘した。

  大会は陳独秀、李大?サら14人による新しい中央執行委員会を選出した。続いて開かれた中央執行委員会で、陳独秀が中央総書記に選出され、陳独秀、彭述之、張国?Z、蔡和森、瞿秋白の5人からなる中央局が組織された。

  この大会の主要な欠陥は、指導権の問題を提起したにもかかわらず、指導権をどのように獲得するかについて、具体的で明確な方針に欠け、大衆運動に対する指導権だけを論じて、政権と武装力に対する指導権を完全に無視したところにある。農民が革命の同盟軍であることを提起してものの、土地革命こそが農民問題を解決するという根本思想を提起できなかった。

             【第5回党大会】

  1927年4月27日から5月9日まで、党は第5回党大会を武漢で開いた。出席した代表は80余人、5万7900余人の党員を代表していた。

  大会の主な任務は、コミンテルン執行委員会第7回拡大会議における中国問題に関する決議案を受け入れ、陳独秀の日和見主義の誤りを是正して、党の重大な方針と政策を決定することであった。陳独秀が開幕式を主宰した。

  大会では、代表たちが陳独秀の右翼の投降主義に対して一定の批判を行った。蔡和森は「プロレタリア階級の政党こそが、革命を徹底的に指導し、勝利をかち得る事ができる」と発言し、毛沢東は、陳独秀の農民の問題に関する誤りを批判し、農民を組織し、武装させ、農民の闘争を迅速に強化することと主張した。

  大会は29人の新しい中央委員会を選出し、大会に続いて開かれた一中全会で、陳独秀ら7人の中央政治局委員、周恩来ら4人の政治局候補委員を選出、さらに陳独秀、張国?Z、蔡和森、瞿秋白の4人を政治局常務委員に、陳独秀を総書記に、周恩来を秘書長に選んだ。

  この大会は、陳独秀の右翼的な誤りを批判したものの、武漢の国民党と国民政府の改造、革命武装力に対する党の指導を組織し、拡大することなど、革命の指導権奪取のために解決しなければならない切迫した重大問題に対して、実際的に答えを出すことができなかった。陳独秀の右翼的な投降主義の本質と危害に対しても、深い認識に欠けていた。

             【第6回党大会】

  1928年6月18日から7月11日まで、第6回党大会がモスクワで開かれた。出席した代表は142人だった。

  会議は政治、軍事、組織、土地問題、農民問題と労働運動に関する14項目の決議を採択した。これらの決議は「中国社会の性質は依然として半植民地、半封建の社会であり、現段階における中国革命の性質は、ブルジョア民主主義革命である。現在の政治情勢は、革命の高潮期と高潮期の谷間にあり、党の全体的任務は進撃ではなく、大衆を獲得し、暴動を準備することである」と指摘した。

  会議はまた中国革命の現段階における十大政治綱領を制定した。その綱領では、党の建設、労働運動、農民の運動、紅軍、根拠地の建設についての各項の政策を制定し、"左"と右の日和見主義の誤り、とくに盲目主義の誤りを批判した。

  会議はまた、委員23人、候補委員13人からなる中央委員会を選出した。そして中央政治局常務委員会は向忠発、周恩来ら8人で構成され、主席に向忠発が選ばれた。

  この大会が制定した路線は基本的に正しく、後の中国革命の発展に対して積極的な役割を果たした。しかし欠陥もあった。即ち中産階級の役割や反動勢力内部の矛盾に対して正しい見方と政策に欠けていた。とくに中国革命の長期性と農村革命根拠地の重要な意義に対する認識が足りず、依然として都市工作を全党の活動の中心に据えた。これは、中国革命の発展に消極的な影響を及ぼした。


 ●陳独秀 ちんどくしゅう

 1879〜1942中国,民国の思想家。中国共産党初期の指導者。安徽省懐寧県の人。字は仲甫。号は実庵。抗州求是書院,東京高等師範学校に学び,口語新聞の発行,岳王会の組織など排満革命運動に従事。安徽都督府秘書長として辛亥革命に参加したが,第2革命後日本に逃れた。1915年(民国4)上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊。儒教批判・文学革命を説き新文化運動の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えた。1917年(民国6)からは北京大学文科学長として胡適など進歩的人材を結集するが,1919年(民国8)逮捕投獄され辞任。上海で共産党の組織に着手し,1921年(民国10)の創立大会では総書記に選ばれ,以後党の最高指導者となった。国共合作以後はコミンテルンの指導により,右傾化する国民党との提携維持につとめたため,1927年(民国16)右翼日和見主義者と批判され,1929年(民国18)トロツキストとして党を除名された。1932年(民国21)国民党に逮捕され,1937年(民国26)に釈放。1942年(民国31)四川省で病死した。

  







張作霖(1873〜1928)
遼寧省海城の人。馬賊より身を起こし、清に帰順。1916年には奉天督軍となり、東北奉天軍閥の首領となった。1920年には直隷派と組んで、安徽派の段祺瑞を逐った(安直戦争)。1922年、直隷派の曹?・呉佩孚らと第一次奉直戦争を争い、敗北して奉天に退き、東北三省の自治を宣言した。1924年、第二次奉直戦争を起こして勝利し、段祺瑞を臨時執政に就けた。日本の支援をえて、1927年には北京で大元帥となる。国民党の北伐軍に敗れ、奉天への帰路に、日本軍による列車爆破のため死んだ。



魯迅(1881〜1936)
本名は周樹人。字は豫才。浙江省紹興の人。幼少のころ、家は没落して貧しかった。1902年、官費で日本に留学して、仙台医学専門学校に入るが、中退。文学に転じて、東京で文学活動をはじめた。帰国して郷里で教員をしていたが、辛亥革命後に北京に移住。1918年に処女作「狂人日記」を発表して一躍有名となり、小説・詩・評論・翻訳などの著作活動で活躍した。『阿Q正伝』、『中国小説史略』など多数。
胡漢民(1886〜1936)
字は展堂。広東省番禺の人。1902年、日本に留学し、法政大学に入った。1905年、中国同盟会の結成に参加し、評議員・執行部書記となり、『民報』の編集にあたった。1907年、孫文に従って、黄岡・鎮南関の蜂起に参加した。失敗後、シンガポールに渡り、『中興日報』の主筆となり、同盟会の南方総支部長となった。雲南河口の役、広州新軍の蜂起、黄花崗の蜂起に参加した。1911年、辛亥革命が起こると、推されて広東省都督となった。翌年、南京臨時政府の総統府秘書長となった。孫文が退任すると、広東に帰り、広東都督・民政長。翌年、袁世凱により解任された。1914年、中華革命党に参加し、政治部長となる。雑誌『民国』の主編をつとめた。1917年、護法軍政府で交通部長。1924年、国民党改組で中央執行委員、広東省省長。孫文が北伐すると、大元帥の職務を代行した。孫文の死後に訪ソ。1927年、南京国民政府が成立すると、国民政府主席。翌年には国民政府立法院長に就いた。1931年、反蒋の中心人物として職を追われた。1933年、香港で『三民主義月刊』を創刊した。1936年、広州で病没した。『演講集』。
曹?(1862〜1938)
字は仲珊。直隷省天津の人。北洋武備学堂を卒業した。袁世凱の北洋新軍に入り、第三鎮統制・第三師師長に上った。袁の死後、直隷督軍となり、次いで直隷省長となって、直隷派軍閥の首領の地位を固めた。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、第一次奉直戦争を争い、奉天派の張作霖を逐った。翌年、アメリカの支持を受け、直隷派の覇権を確立し、議員買収選挙(賄選)を行い、北京政府の大総統の地位に就いた。憲法を公布した。1924年、第二次奉直戦争が起こり、そのとき馮玉祥に軟禁され、反直三角同盟に敗れて失脚。のち天津に隠退し、その地で没した。
唐紹儀(1860〜1938)
字は少川。広東省香山の人。1874年、官費で米に留学し、コロンビア大学に学んだ。帰国後、天津で税務衙門につとめ、また朝鮮に派遣された。袁世凱の知遇を得て、津海関道・外務部右侍郎・京漢鉄路督辧・郵傳部左侍郎・奉天巡撫などを歴任した。辛亥革命のとき、袁世凱内閣の全権代表として伍廷芳と上海で談判し、南北講和を結んだ。1912年、袁世凱大総統のもと内閣総理をつとめ、中国同盟会にも加入した。袁が総理の職権を侵したので、憤慨して辞任。袁と対立して孫文と結んだ。1917年、護法軍政府に参加し、財政部長。1919年、南方軍政府総代表として、北京政府と和議談判した。のち政界より引退。1931年国民党政府委員となり、上海に住んだ。西南派の要人として活躍したが、蒋介石と対立して国民党特務により暗殺された。
呉佩孚(1872〜1939)
字は子玉。山東省蓬莱の人。保定軍官学校に学ぶ。馮国璋の死後、北洋軍閥直隷派の巨頭。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、奉天派の張作霖と第一次奉直戦争を争い、勝利した。翌年、直隷派の覇権を確立して、曹?に大総統の地位に就かせた。そのもとで直魯豫巡閲使となる。1924年第二次奉直戦争に敗れて、国民革命軍に湖南・湖北を侵されて、失脚した。日中戦争では日本軍に協力し、1939年に臨時政府綏靖委員となったが、病死。
徐世昌(1855〜1939)
字は卜五、号は菊人。直隷省天津の人。1879年、袁世凱と知り合い、その援助を受けて上京した。1886年、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられ、国史館協修・武英殿協修などをつとめた。日清戦争のとき、袁世凱の幕下に入って軍務についた。袁世凱の北洋軍閥結成を助け、その謀士となった。1903年、内閣学士・練兵処提調となる。翌年、兵部左侍郎となり、軍機大臣・巡警部尚書に任ぜられ、まもなく民政部尚書にうつった。1907年、東三省総督となる。1911年、副総理・参謀総長に上った。民国成立後、1914年に北洋政府の国務総理となる。1918年に大総統に選ばれ、北洋軍閥の対立緩和を図ったが、失敗した。1922年、第一次奉直戦争で奉天軍が敗れたため、政界を退いた。天津に隠棲し、1939年に病死した。『清儒学案』、『大清畿輔先哲』。
銭玄同(1887〜1939)
字は仲季、または徳潜、号は疑古。浙江省呉興の人。1906年に来日して早稲田大学に学んだ。中国同盟会に参加した。『説文解字』を研究し、1914年には北京大学教授となった。中国語のローマ字化・注音字母の普及をはかった。また顧頡剛らの『古史弁』の編纂、『新青年』の編集を助け、文学革命の推進に功績を残した。
蔡元培(1868〜1940)
字は鶴卿、のちに孑民。浙江省紹興の人。1892年に進士に及第し、はじめ翰林院に入ったが、戊戌の新政の失敗を見て辞職。帰郷して新式教育に尽力した。中国教育会を組織して、その会長となる。1905年、中国革命同盟会に加入し、上海分会長となった。1907年、独に留学。辛亥革命後に帰国し、1912年には教育総長。袁世凱の独裁に反対して辞職した。1916年には北京大学学長となり、陳独秀・胡適らを迎えて自由研究の学風を樹立。白話運動にも力を入れた。国民政府が独裁を強めると、教育界から退き、中央研究院長となった。中国新文化の父とされる。『中国倫理学史』。
陳独秀(1879〜1942)
もとの名は乾生。字は仲甫、号は突庵。安徽省懐寧の人。科挙を嫌って新学に打ちこみ、日・仏に留学した。故郷の安徽省で辛亥革命に参加。1915年上海で『青年雑誌』を創刊して主宰し、翌年『新青年』と改題した。新文化運動の旗手となった。1917年から北京大学教授、同文科部長。胡適らと文学革命を提唱して、白話運動を主唱。五・四運動を指導した。1921年中国共産党の結成に参加。党中央委総書記となる。国共合作には批判的だったが、コミンテルンの指示でこれを推進。党勢は拡大した。1927年には、反共クーデターの責任を追及され、右翼日和見主義者と批判された。以後、スターリンを批判して、トロツキズムに傾斜した。1929年に共産党を除名された。1932年国民政府に逮捕され、のち釈放されたが孤独のうちに病没した。
馮玉祥(1880〜1948)
字は煥章。安徽省巣県の人。直隷省青県に生まれた。早くから淮軍に参加。下級の軍官をつとめた。辛亥革命では蜂起軍の参謀長をつとめた。のち、袁世凱に見出されて軍界を累進。袁の死後は、直隷派に属して転戦した。第十一師師長・陝西督軍・河南督軍・陸軍検閲使・直系第三路軍総司令などを歴任した。1924年、第二次奉直戦争のとき、胡景翼らとともに北京を占領して、直隷派を追放。国民軍総司令・第一軍軍長となった。1926年、直奉連合軍に敗れて下野。モスクワへ行き、帰国後に国民党に加入した。西北軍を率い、北伐に参加した。国民革命軍第二集団軍総司令となった。統一後、行政院副院長・軍政部部長となった。1929年、蒋介石と反目して救国軍総司令となり、反蒋戦争を起こして国民党を除籍された。翌年、閻錫山と連合して再び反蒋戦争を起こしたが、中原大戦に敗れて下野した。満洲事変後に南京に戻り、党籍を回復。抗日を主張したが蒋に容れられなかった。1933年、察綏民衆抗日同盟軍の総司令となるが、蒋の掣肘を受けたため泰山に隠居した。1937年に抗日戦争が開始されると、第三戦区司令長官・第六戦区司令長官を歴任した。抗日戦争後は、国共合作の維持を主張して内戦に反対した。1946年以降、米国ほかの諸国に外遊し、中国和平民主同盟や国民党革命委員会の結成にかかわった。1948年帰国途中に黒海で客船火災に遭遇して没した。孫文の革命思想の影響を受け、またキリスト教を信仰していたため、クリスチャン・ゼネラルと称された。
アンダーソン(1874〜1960)
名はヨハン・グンナル。漢名は安特生。スウェーデンの人。1914年、北京にいたり中国地質研究所の顧問となった。1921年、河南省?池県仰韶村で新石器時代の遺跡を発掘し、大量の彩文土器を発見した。また、北京市周口店の旧石器時代遺跡を発見し、ズダンスキーらに発掘を委ねて北京原人の発見のもとを築いた。二年あまりをかけて甘肅・青海・モンゴル・チベットを踏査し、先史時代の遺跡五十余を発見した。1925年、帰国した。ストックホルムの極東博物館館長をつとめた。
閻錫山(1883〜1960)
字は百川。山西省五台の人。1904年、日本に留学し、陸軍士官学校に学んだ。翌年、中国同盟会に参加。辛亥革命後、袁世凱の命をうけて山西都督に任ぜられた。以後、山西王として山西省を支配。兵農合一・防共自治を唱えて抗日運動を展開した。日本が降伏すると、旧日本兵を用いて、共産党軍と戦ったという挿話が残されている。1949年、共産党に敗れて台湾に渡った。国民政府の行政院長・国防部長などをつとめた。1952年に軍職を退いた。1960年、台北で病没した。
唐生智(1889〜1970)
字は孟瀟。湖南省東安の人。1912年、保定軍官学校に入学。1914年、卒業後に湖南湘軍に属し、反袁の護国戦争に参加した。1923年より衡陽に駐屯し、湘軍の最大実力者に成り上がった。内務司長・湖南省代理省長となる。1926年、国民革命軍の第八軍軍長となり、北伐軍の西路総指揮・第四集団軍総司令などをつとめた。1929年、反蒋戦争において蒋側につき、馮玉祥を討った。のちに汪兆銘と連合し、閻錫山と通じて反蒋側に立ち、護党救国軍総司令となったが、敗れて一時下野した。1932年から軍事参議院院長・軍事委員会執行部主任などをつとめた。抗日戦争のとき、南京衛戌司令長官となったが、南京戦に際して逃亡した。内戦時には隠棲していた。1949年、湖南人民自救委員会主任となり、新中国建国後、湖南省政府副主席・副省長などをつとめた。1970年、長沙で没した。