辛亥革命、孫文の時代考

 ウィキペディア辛亥革命」、「武昌起義」、「革命の拠点となった東京」その他参照。

辛亥革命・後編

清朝滅亡、宋教仁暗殺、そして袁世凱帝政-

辛亥革命・前編~10月10日、武昌~はこちら→
                 この後の流れは「Vol.13 国共合作・国共内戦」で確認してください。




 今年は辛亥革命(しんがいかくめい)100周年とのことである。1911(宣統3)年から1912年にかけて中国で発生した革命で満洲族の政権である清朝滅亡、漢民族系の中華民国成立を見た。辛亥革命の辛亥とは1911年の十二支十干の干支である辛亥に因む。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」「ダブル・テン(Double Ten)」とも云われる。また民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、1913年、袁世凱の諸政策に反対した広東・安徽・福建などで起った反袁独立運動、袁に鎮圧された第二革命、さらには1616年、袁の帝制復活阻止のための護国軍蜂起を第三革命とする。

 辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。狭義では、1911.1010.10夜に発生した武昌起義から、1912.2.12日の宣統帝(溥儀)の退位までの期間を指す。広義では、清朝末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの比較的長期間の政治的運動を示す。この辛亥革命の歴史的地位と意義を確認しておく。

 革命理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回され、地権平等も実現しなかった。しかしながら、古代より続いて来た君主政治を終焉させ、アジアで初の共和制国家を樹立したところに意義が求められている。20世紀には、世界各地で君主制国家が打倒されて共和制国家が樹立された革命が相次いだが、辛亥革命はその共和制革命の先駆けにもなった。特筆すべき点として、元号を廃止した革命でもある。日本やベトナムなど漢字圏国家では各王朝で元号が使用されていたが、元号を先駆けて廃止するきっかけとなった出来事も辛亥革命である。

 ここまでは通説評である。これから、れんだいこの辛亥革命論を記す。辛亥革命は孫文を中心に評される傾向がある。しかしながら、北一輝の「支那革命外史」を読んだ今、その種の俗説に従う訳にはいかない。孫文を持ち上げ好評価する形での辛亥革命論は詰まらない。

 この辛亥革命には日本の志士がかなりの支援をしている。玄洋社の頭山満、平岡浩太郎、政治家としては犬養毅、外交官として山座円次郎、軍人としては秋山真之などだが志士としては熊本の宮崎兄弟、特に宮崎滔天、弘前の山田兄弟、北一輝、財界人としては梅屋庄吉など。

 辛亥革命(しんがいかくめい)は、1911(宣統3)年から1912(民国元)年にかけて中国で発生した革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」「ダブル・テン(Double Ten)」とも称される。また民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、1913年袁世凱に鎮圧された第二革命、さらには護国戦争が第三革命として続く。辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。

 狭義では、1911年10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の宣統帝(溥儀)の退位までの期間を指す。広義では、清朝末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示す。

 辛亥革命の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回され、地権平等も実現しなかった。しかし、古代より続いて来た君主政治を終わらせ、アジアでも初の共和制国家を樹立し、現在の台湾に繋がる政治潮流を造出した歴史的な革命である。

 20世紀には、世界各地で君主制国家が打倒されて共和制国家が樹立された革命が相次いだが、辛亥革命は20世紀に起こった共和制革命の先駆けにもなった。この辛亥革命を皮切りにして、1910年代には君主制国家が相次いで崩壊した。第二の共和制の波は1945年の日本の降伏(枢軸国の全滅)、第三の共和制の波は1989年の東欧革命(一党独裁国家の崩壊)である。

 又、特筆すべき点として、元号を廃止した革命でもある。日本やベトナムなど漢字圏国家では各王朝で元号が使用されていたが、元号を先駆けて廃止するきっかけとなった出来事も辛亥革命である。


 辛亥革命は興中会(華南地区)、華興会(湖南地区)、光復会(蘇浙滬地区)及び後に成立した中国同盟会により実行された。この他共進会(長江流域)、文学社、同盟会中の丈夫団なども革命に関与している。中国同盟会は全国革命組織が緩やかに団結した連合体であり、同盟会会員は各地に様々な外郭組織を構築していた。革命の代表的指導者には孫文黄興宋教仁蔡元培趙声章炳麟陶成章などが挙げられる。

 革命における主要な政治主張には清朝打倒と共和制政体の確立がある。1894年11月24日に成立した興中会は「満族駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。また1904年2月15日に成立した華興会でも「満族駆逐、中華回復」を政治主張とし、1905年8月20日に成立した中国同盟会でも「満族駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を綱領に定め、民族主義、民権主義、民生主義が唱えられた。革命団体が一線で活動を行う際には清朝打倒と中華回復を強調し、民衆の中に反満感情を扇動して、清朝打倒に主眼を置いた。清朝崩壊後にどのような政治制度が採用され、どのような社会改革が行われるかについては、当時の活動家は清朝崩壊後に改めて考慮するという立場を採用していた。


【辛亥革命に直接参加した日本人】

 辛亥革命に直接参加した日本人は、張之洞の新軍を教官として育てた元陸軍中佐大原武慶、それに大連から駆け付け黄興と共に第一線で戦った末永節らがおり、萱野長知は梅屋庄吉から七万円の資金を貰い、上海租界駐在の本庄繁と漢口の寺西駐在武官の協力を得て、最前線に急行した。最前線で金子新太郎歩兵大尉や石間徳次郎は戦死し、甲斐靖歩兵中尉や岩田愛之助も負傷した。

 梅屋庄吉は、この年の十月末までに十一万六千円を支援し、撮影技師を送って革命記録映画をつくった。一方、北一輝は孫文よりも宋教仁を評価していた。孫文の革命思想は西洋の革命をただ表面的に真似ただけであり、しかもその方法がほとんど他力本願で、列強諸国や華僑から支援を求めるだけで、自らは海外の安全地帯に逃れ同志に犠牲ばかり強いていると見ていた。しかし宋教仁については、ほとんど他人を頼らずに革命の為に自力で奔走し、真に国を愛する革命者としてその情熱を高く評価していた。

 北一輝は辛亥革命が起こると、宋教仁の電報を受けてすぐ黒龍会の内田良平から資金を貰って、上海に向かい、宋教仁の支援に駆け付けた。そして宋教仁の軍師として、革命の嵐の中で武漢、南京、上海と駆け回った。北一輝は宋教仁や黄興、譚人鳳に「中部同盟会の会長として黎元洪の上に立ち、革命の総統になるべし」「まず武昌に臨時軍政府を樹立すべし」などと頻りに助言し、革命後のプランを練った。

 平山周、小幡虎太郎、谷村隆三らは天津から南京に駆け付け、葛生能久ら黒龍会の志士達も南京攻略に参戦した。宮崎滔天と山田純三郎は陳其美の上海占領に加わった。


1911年

【武昌起義】詳細は「武昌起義」を参照

 1911.10.10日20時(この時間は正確な考証を経たものではない)、四川省で民間資本鉄道の国有化反対運動に乗る形で湖北省の武昌で程定国による武昌起義が発動され、決起兵士が軍の武器庫を襲撃、深夜になると文学社及び共進会の影響を受けた大部分の兵士が呼応した。呉兆麟、熊秉坤は決起部隊を指揮して総督府を攻撃、南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門を占拠、湖広総督・瑞澂は逃亡した。武昌蜂起をきっかけに各地で革命派が蜂起した。旅団長黎元洪を都督にすえて湖北軍政府を組織した。これより辛亥革命と云う。

 10.11日未明、決起軍は湖北省咨議局大楼会議室に集結し、新軍八鎮十五協二十九標二営司務長・蔡済民により会議が招集され、軍政府の組織と都督人選が議論された。革命党の呉醒漢徐達明等10数名以外、咨議局議長・湯化龍、副議長張囯溶及び議員、旧軍官吳兆麟が参加した。会議は湯化龍が議長となり進行し、呉兆麟により第21混成協統領黎元洪を都督とすることが提案され、立憲派により承認された。この時革命党勢力は黄興宋教仁は武昌におらず、彭楚藩劉復基楊宏勝は被害を受け、孫武は爆発事故で負傷、蒋翊武は逃亡中であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪を都督、湯化龍を民政総長(一説には総参謀とも)に選出することが決定した。

 10.11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、咨議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に発信している。

 10.12日、革命党メンバーである第二十一混成協第四十二標士兵胡玉珍邱文彬趙承武等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置くと、趙承武は漢口を攻略、ここに武漢三鎮は革命勢力下に置かれることとなった。

 10月、武昌蜂起が発生すると宋教仁も武昌に入った。11月、北一輝と上海に滞在、また各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席する。 

 武昌蜂起の後、中国に権益を有す列強諸国は静観の立場を採り、清朝政府または革命政府の中での自己の権益に有利な政権を観察していた。


【清朝の最後の反撃、抵抗】

 武昌起義の成功後、清朝は北洋軍を派遣し武漢三鎮江北漢口及び漢陽を攻撃、袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、罷免されていた北洋軍の袁世凱が再び召還され北洋軍内部の人心動揺を抑えた。

 10.14日、袁を湖広総督に任命し、反乱軍の鎮圧と交渉による妥協の途をさぐるよう命じた。袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。10.22日の湖南独立、10.23日の江西独立を受け、10.27日、袁世凱を欽差大臣に任命し北洋軍を率いて武漢進攻に着手した。10.29日、山西独立、同日に新軍第二十鎮による滦州兵諫が発生する。


【武昌起義後の各地の武装蜂起の様子】

 10月22日、湖南共進会の焦達峰陳作新は会党及び新軍で組織した部隊を率いて長沙で武装蜂起を決行、湖南巡撫余格誠を敗走させ、巡防営統領黄忠浩を斬首している。決起軍は中華民国湖南軍政府の成立を宣言、焦達峰を都督、陳作新を副都督とし『討満清檄文』を発表している。

 10月22日、陝西同盟会の井勿幕銭鼎景定成は陝西袍哥会と連絡して会党と新軍の革命メンバーが協力し、同時に武装蜂起、2日間の戦闘の後に西安を制圧、護理巡撫銭能訓は逃亡、西安将軍文瑞は自殺し、決起軍により秦隴復漢軍政府の成立が宣言され、日知会の旧会員であり新軍隊官の張鳳翽が都督に選出された。

 10月23日、江西同盟会の林森蒋群蔡蕙等は九江の新軍での武装蜂起を実行、独立宣言を行った。翌日には九江軍政分府が成立し、第二十七混成協第五十三標標統の馬毓宝が九江軍政分府都督に選出された。

 10月29日、山西同盟会会員、新軍標統の閻錫山姚以階黄国梁温寿泉趙戴文南桂馨喬熙等の人と協力し、新軍により太原起義を発動、山西巡撫陸鍾琦を殺害して山西軍政府の成立を宣言、閻錫山を都督に選出した。しかし12月12日に曹錕による反撃により太原から撤退している。

 10月29日同日、直隶では滦州兵諌が発生した。新軍第二十鎮統制・張紹曽と第三十九協協統・伍祥禎、四十協協統・潘矩楹、第二混成協協統・藍天蔚、第三鎮第五協協統・盧永祥等が協力し、直隶滦州より清朝政府に対し最後通牒要求12条を提出し、年内の国会開設と憲法草案の起草、責任内閣制の採用と皇族の国務大臣就任の制限を求めている。

 10月30日、雲南同盟会の李根源は新軍標統蔡鍔羅佩金及び唐継尭等と協力し新軍による重九起義を発動、翌日には昆明を占拠して雲南軍政府が成立、雲貴総督李経羲を送還し、蔡鍔を都督に選出した。

 10月31日、南昌同盟会の蔡公時は新軍による武装蜂起を実行、江西軍政府が成立し李烈鈞を都督に選出した。

 11月3日、上海同盟会、光復会、上海商団の陳其美張承槱李平書李英石李燮和等は上海で武装蜂起を決行、張承槱、劉福表等が組織した青帮洪幇による決死隊、李平書と李英石による上海商団の武装集団、李燮と連絡を取った呉淞地区で蜂起した軍・警察蜂起部隊の朱家驊徐霽生等により組織された中国敬死団がその中心となった。4日には江南制造局を占拠、上海光復が実現している。8日に中華民国軍政府滬軍都督府が成立、陳其美を都督に選出した。

 11月4日、貴州革命党の張百麟を中心として新軍及び陸軍学堂学生により武装蜂起が実行され貴陽を占拠、大漢貴州軍政府が成立し、貴州新軍第一標教官兼講武堂堂長、陸軍小学堂総弁の楊藎誠を都督、趙徳全を副都督に選出した。

 同日、浙江光復会会員であり杭州に駐在する新軍八十一標標統朱瑞、同盟会会員の新軍八十二標周承菼部軍官呉思豫呂公望蒋百里蒋百器楊廷棟呉肇基、光復会の王文慶は上海より決死隊を率いて武装蜂起を決行、杭州を攻撃した。朱瑞、呉思豫、呂公望等は八十一標及び光復会王金発により決死隊により軍機局を、周承菼統八十二標と同盟会蒋介石、光復会尹鋭志(女性)等は撫台衙門を占拠、楊廷棟率が兵を率いて巡撫府を包囲、巡撫増韞を捕虜とした。5日に革命勢力は杭州を支配、立憲派であった咨議局議長の湯寿潜を都督に選出した。

 11月5日、江蘇省の立憲派及び紳商は江蘇巡撫程徳全に対し蘇州の独立宣言を要求、江蘇革命軍政府が成立し程德全が都督に就任した。

 同日、安徽同盟会の呉暘谷等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃した。立憲派勢力は安徽巡撫朱家宝に対し独立を勧告、11月8日に咨議局は独立を宣言、朱家宝を都督に、王天培を副都督に選出した。

 11月6日、广西咨議局在は省城の桂林で清朝からの離脱独立を決定、広西の独立を宣言した。当初は清朝巡撫沈秉が都督とされたが、数日後に清軍提督陸栄廷がクーデターにより都督に就任している。

 11月9日、福建同盟会の鄭祖蔭彭寿松許崇智、陸軍第十鎮統制の孫道仁等により福州で武装蜂起した。清朝総督松寿は自殺し、11月11日に福建での光復が宣言されて福建軍政府が成立、孫道仁を都督に選出した。

 10月末、広東同盟会会員の陳炯明鄭铿及び彭瑞海等は広東化州、南海、順徳、三水などで民間軍による武装蜂起を決行。

 11月8日には胡漢民の勧告の下、広東水師提督李准及び陸軍第二十五鎮統制龍済光らにより両広総督張鳴岐に各方面の代表を召集させ広東の独立問題を協議、翌日広東独立が決定された。11月9日、陳炯明は徽州を占拠、同日広東の独立が宣言されて軍政府が成立、胡漢民を都督に、陳炯明を副都督に選出した。

 11月12日、山東煙台同盟会の欒鍾尭宮錫徳等の「十八豪傑」と称される同盟会会員により武装蜂起が決行され、煙台海防営を占拠した。煙台道台徐世光は武装蜂起を知ると家族を連れ海関税務司のイギリス人公館に保護を求め逃亡、煙台の独立が宣言されて山東軍政府が成立、陳其美が都督に選出された。

 11月13日、山東革命党の丁惟汾の勧告と陸軍第五鎮統制賈賓卿等中下級軍官らの強い圧力の下、山東巡撫孫宝琦は山東の独立を承認、孫宝琦を都督に選出しているが、11月24日に孫宝琦は独立を取り消すなどの混乱が続いた。

 11月17日、寧夏同盟会支会は寧夏会党による武装蜂起を決行、23日に銀川で支那寧夏革命軍政府が成立した。

 11月22日、重慶では大漢蜀北軍政府が成立、27日は四川鄂軍により督弁鉄道大臣の端方を殺害している。

 11月22日、成都四川官紳代表大会は四川独立を宣言、大漢四川軍政府が成立、立憲党の蒲殿俊を都督に選出した。26日、四川総督趙爾豊は独立文書を発表、政治権力を軍政府に移管した。

 11月8日、同盟会会員の指導により陸軍第九鎮統制徐紹禎は南京城外60里の秣陵関で武装蜂起を宣言した。徐紹禎と上海都督・陳其美及び蘇浙革命軍の協議により連合軍を組織して南京を攻略することを決定、徐紹禎を総司令に任命、11月11日に連合軍司令部が鎮江に成立した。

 11月24日から12月1日、徐紹禎の指揮の下、後に黄興も指揮に参加し連合軍は烏龍山、幕府山、雨花台、天保城等の拠点を占拠した。

 革命軍は陽夏防衛戦を展開したが北洋軍に敗北、11.27日、江南武昌に撤退している。47日間の作戦の中で1万人強の死傷者を出したが、武昌防衛を堅持していた。その間に中国15省が次々と清朝からの独立を宣言し、内地18省中で清朝の統治が及ぶのは華北・東北の甘粛、河南、直隷のみとなり、独立した各省では一部が革命党の主導を受けたほか、大部分は諮議局メンバーによって政治運営が行われた。


【日本の支援派が救援班を派遣】

 11月、頭山満、平山周、内田良平、宮崎らが「有隣会」を結成。中国に救援班を派遣する。


【宋教仁が指揮する革命軍が南京攻略】

 12.2日、武昌蜂起後、武昌の新軍蜂起軍は一時、武漢三鎮を占領したものの、清軍に撃退され失敗した。しかし宋教仁が指揮を執った革命軍は、陳其美率いる水軍に支援されながら南京を攻略し占領に成功した。これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。これにより十四の省が次々に清朝からの独立を宣言した。

 12.2日、イギリス駐漢口領事館の斡旋により的武漢革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。


【中華民国建国の動き】
 11月、黎元洪を首班とする武昌グループと上海都督・陳其美、江蘇都督・程徳全が代表する上海グループが同時に中央政府準備活動を展開した。11.9日、黎元洪は湖北軍政府都督の名義により独立した各省に代表を武昌に派遣し中央政府組織のための会議開催を呼びかける電報を、11月11日には上海都督陳其美、江蘇都督程徳全等の三省軍政府都督は各省代表に上海での同様の会議開催を呼びかける電報を発信している。

 11月15日、各省都督府代表聯合会が上海で開催され上海、江蘇、浙江、福建の省代表が参加、武昌グループは会議は武昌での開催を主張した。武昌で最初に発生した革命であったため多くの省代表は武漢に到着し、同盟会の主要指導者である黄興、宋教仁等も武漢に入っていた。結局上海グループの譲歩により、各省代表が武漢に終結することになり、30日に漢口で臨時中央政府組織及び『中華民国臨時政府組織大綱』制定のための会議開催が決定し、それと同時に上海にも各省1名の代表を駐在させ連絡機関を設置することが決定した。

【清朝が「憲法重大信条十九条」を発表】

 11.1日、清朝は、慶親王内閣(けいしんおう。1836-1916)が瓦解しており北洋軍閥(ほくようぐんばつ)を支配していた袁世凱を内閣総理大臣に任命した。

 11.2日、漢口攻撃。その後は清軍の軍事行動を停止し、水面下で革命政府との講和協議が行われた。

 11.3日、清朝により『憲法重大信条十九条』が発表された。


【袁世凱の中華民国大総統への動き】

 11.1日、清朝は、慶親王内閣(けいしんおう。1836-1916)が瓦解しており北洋軍閥(ほくようぐんばつ)を支配していた袁世凱を内閣総理大臣に任命した。

 11.2日、漢口攻撃。その後は清軍の軍事行動を停止し、水面下で革命政府との講和協議が行われた。

 11.3日、清朝により『憲法重大信条十九条』が発表された。

 11.9日、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統の気運が高まり、黄興が袁世凱に書簡を送りナポレオンやワシントンの資格を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総統となることを求めた。

 11.13日、袁世凱が北京に到着して2代目内閣総理大臣に就任、16日には責任内閣を組閣し、清朝の行政権が移譲されるとともに、各国の政府承認を受けている。

 11.16日、パリ滞在中の孫文も国民軍政府に対し袁世凱の総統就任に同意の意向を示す電報を送信している。

 11.26日、袁世凱はイギリス駐漢口総領事ハーバード・ゴッフ(Herbert Goffe)を通して、民国軍政府及び各省代表に停戦、宣統帝の退位、袁世凱の総統就任の講和三条件を提示した。

 12.1日、清朝と革命軍の双方は「武漢地区停戦協定」を締結、武漢地区は12.3日午前8時から12.6日午前8時までの3日間の停戦が実現し、停戦後は休戦交渉が行われた。「中国に権益をもつイギリスなど列強の思惑や干渉もあり,革命派内部にも事態の早期収束を求める考えが台頭したことなどもあって,皇帝宣統帝の退位とひきかえに袁を臨時大統領とすることで妥協が成立した」。

 12.8日、袁世凱は唐紹儀を内閣総理大臣の全権代表として派遣、12.9日、唐紹儀は武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を行い、同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代表に選出した。

 列強諸国の介入もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海イギリス租界で交渉を開始、その結果、袁世凱は宣統帝の退位を支持することを条件に、各省代表は袁世凱の中華民国大総統への就任を支持した。成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊の介入を未然に防止する観点からも、孫文もまた中国の統一と袁世凱を首班とする共和政府の樹立に同意している。


【革命派が中華民国臨時政府組織大綱を採択】

 11.21日、各省代表は次々に武昌に到着した。このときの漢陽は清軍の攻撃を受け陥落の危機にあったが、各省代表は11.30日、イギリス租界の順昌洋行で第1回会議を開催、14省の代表24名が参加し、譚人鳳が議長に選出された。会議では臨時政府成立以前は湖北軍政府が中央軍政府の職権を代行し、湖北軍都督が中央軍政府大都督を代行することが決定された。

 12.2日、臨時政府組織大綱の制定が決定、雷奮馬君武王正廷が組織大綱起草メンバーに選出されると同時に、袁世凱の意向によっては臨時大総統に推挙することが確認された。

 12.3日、会議は3章21条で構成される「中華民国臨時政府組織大綱」を採択、即日全省代表の署名の下に公布され、南京を臨時政府の所在地とする、総統制による共和体制の方針が確認された。各省代表は7日以内に南京に集結、10省以上の代表が集結した場合は臨時大総統選挙を実施することも定められた。

 12.4日、宋教仁、陳其美等は上海における各省代表の沈恩孚兪寰澄朱葆康林長民馬良王照欧陽振声居正陶鳳集呉景濂劉興甲趙学臣朱福詵、さらに章炳麟趙鳳昌章駕時蔡元培王一亭黄中央顧忠琛彭錫范などを召集し、上海江蘇省教育総会にて会議を開催、投票方式により孫文への帰国要請と政治参加を求める公電発信を決定した。黄興を暫定大元帥、黎元洪を副元帥とし、大元帥による中華民国臨時政府の方針を求めた。議論が国旗問題に及んだ際には湖北代表は鉄星十八星旗を、福建代表は青天白日旗、江浙代表は五色旗を国旗と主張を行い対立したが、最終的には五族共和を代表する五色旗を国旗とし、鉄星十八星旗を陸軍旗、青天白日旗を海軍旗とする折衷案が採用された。

 12.11日、上海と漢口両地方の17省代表が南京に入り、中央政府設置に向けた会議が続けられた。12.14日、南京での各省の代表会議で、北一輝ははじめ黄興に「総理」になることを薦めたが、実現せず、あらためて「大元帥」を提案した。しかし、東京から南京に帰ってきた章炳麟に反対され、12.17日、結果的に黎元洪が大元帥に、黄興は副元帥止まりとなった。各省代表は「臨時政府組織大綱」に基づき総統選挙を行う事を決定、黎元洪及び黄興の両派に別れていた。

 12.15日、代表は袁世凱の共和制賛成の方針を獲得したため総統選挙は延期され、袁世凱への政治的期待が高まった。


【孫文帰国】
 12.25日、フランスのマルセイユより(アメリカで辛亥革命のニュースを聞いて、ともある)孫文が上海に帰国した。宮崎、山田純三郎が出迎える。国際的な知名度が高く、かつての同盟会幹部と宮崎滔天をはじめ、多くの日本人志士と日本軍部の支持を得ていた孫文の名声は高く、大総統就任が期待される人物であったため、立憲派及び旧勢力より孫文は袁世凱から大総統の座を奪い取るものであると認識されていた。

 上海での大総統をめぐる指名会議の「宋教仁にするか、孫文にするか」という討議では、同盟会の出資者である骨董商の張静江が孫文を指名し、それで大勢が決まった。

【孫文が中華民国初代臨時大総統に選出される】

 革命派は,清朝から独立した各省の代表者によって臨時参議院を組織した。

 12.28日、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施された。臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票と規定されていた。選挙に参加したのは直隸、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福建、廣東、廣西、雲南、四川の17省45名の代表であり、一省一票による投票の結果、孫文が17票中16票を獲得し中華民国初代臨時大総統に選出された。閣僚に黄興などの革命派幹部や立憲派のチョウケンなどをあてた。


1912年

【孫文が、南京で中華民国臨時政府の成立を宣言】
 1912.1.1日、孫文が、南京で中華民国臨時政府の成立を宣言、孫文が初代臨時大総統就任のための宣誓を行い臨時大総統に就任した。『臨時大総統職宣誓書』の中で国民主権の国家であり、漢満蒙回蔵諸族による国家体制を強調している。共和政国家を建設した。これが第一革命である。


 1.2日、孫文は各省に陰暦の廃止と太陽暦の採用及び中華民国暦の採用を通達し、1912年を中華民国元年とした。

 1.2日、孫文の大総統就任を知ると、袁世凱は唐紹儀の交渉代表資格を停止している。

 1.3日、各省代表は黎元洪(れいげんこう。1864-1928)を臨時副総統に選出し、同時に孫文が提出した臨時政府各部総長、次長名簿を承認、ここに正式に中華民国臨時政府が成立した。

 臨時政府は下部に10部を設け、陸軍部総長黄興(参謀本部総長兼任)、海軍部総長黄鐘瑛、外交部総長王寵恵、司法部総長伍廷芳、財政部総長陳錦濤、内務部総長程徳全、教育部総長蔡元培、実業部総長張謇、交通部総長湯寿潜が就任している。この他の人事としては総統府秘書長に胡漢民、法制局長に宋教仁、印鋳局長に黄復生が任命された。

 1月11日、各省代表会議は南京を臨時首都とし、五色旗を中華民国国旗と定め五族共和の象徴とした。1月28日、各省代表会議により臨時参議院が設置され、各省代表は参議院議員となり、林森陳陶遺がそれぞれ正副議長に就任した。章炳麟(しょうへいりん、1869-1936)は1910年に同盟会から離れて、再び光復会(こうふくかい)を立ち上げていた。

 梅屋らが支那共和国公認期成同盟を結成し、日本政府に中華民国承認を働きかける。

【孫文の親日政策】
  臨時大総統孫文は、犬養毅を政治顧問に、寺尾亨と副島義一を法律顧問、阪谷芳郎と原口要を財政顧問として招聘した。また孫文の秘書には池亨吉を、黄興の秘書には萱野長知を、宋教仁の秘書には北一輝を参画させ、日本軍人を南京などの陸軍学堂の教官に招聘した。黒龍会の内田良平は、「辛亥革命は日本人がやったことだ。日本人が中華民国を作ったのだ」と壮語している。

【袁世凱暗殺未遂】

 1.16日、袁世凱は朝廷からの帰路、東華門丁字街で同盟会京津分会組織の爆弾による暗殺計画に遭遇している。この暗殺は失敗したが、17日に袁世凱は革命勢力に対し暗殺活動の停止を要求している。


【清朝崩壊】

 1.20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示。辛亥革命において、清朝は袁世凱を討伐にむかわせたが、清朝不利を確信した袁世凱は部下の段祺瑞や馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、かつての変法自強運動弾圧と同じ背信を起こし、変法運動では革命派(変法派)を裏切ったが、今回は革命派を支持して王朝を裏切る行為に出た。北京を拠点に置く袁世凱内閣と、南京を拠点に置く中華民国臨時政府との間で南北和議が始まり、北側は袁世凱、南側は宋教仁や黄興らがそれぞれ中心となって取引が行われた。袁は自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、宣統帝溥儀退位に動き始める。

 1.22日、孫文は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕劻那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかないが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。

 1.29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定する。2.3日、隆裕太后は袁世凱に全権を委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。2.6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を承認した。承認された優待条件は下記の通りである。

  1. 大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受ける。
  2. 民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。
  3. 皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。
  4. 清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。
  5. 光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。
  6. 宮廷内の雇人は継続して雇用される。
  7. 皇室の私有財産は民国国軍により保護される。
  8. 禁軍は民国陸軍に編入する。

 皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定められた。

 2.12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清皇室への優待条件を受け入れ、『退位詔書』を発布、清朝最後の皇帝、宣統帝の退位と袁世凱が組織する共和政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、1912年を元年とする無期限の民国紀元(中華民国暦)が施行された。

 『退位詔書』は張謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は死滅し、秦の始皇帝(しこうてい。位B.C.221-B.C.210)から始まった中国皇帝における帝政は終に1912.2.12日をもって廃止された。武昌起義から清朝が滅ぶまでの一連の過程を第一革命と呼ぶ。


【袁世凱が第2代臨時大総統就任】
 2.13日、宣統帝退位の翌日、孫文は就任後2ヶ月で打ち合わせ通りに臨時大総統の辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統就任を推薦した。2.15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都とすることを承認した。孫文は北京にいる袁世凱を南京に迎えるため、宋教仁、蔡元培らを北京へ遣わした。袁は南京に向かわず北京動かなかった。

 3.8日、主権在民・国民平等などを内容とする「中華民国臨時約法」を制定した。これにより国会開設が定められた。南京臨時政府は、賤民身分の廃止、纏足の禁止、太陽暦の採用など一連の社会風俗の改良政策に着手した。

 3.10日、孫文の大総統辞任、袁の臨時大総統の就任宣言が行われ、翌3.11日、臨時約法(中華民国臨時約法)が公布された。4月、袁世凱が北京で中華民国第2代臨時大総統に就任した。この直後より諸外国からの政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。

 袁世凱の就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命メンバーによる各省の分離独立の動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対する主権承認交渉を行っている。これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北洋政府」と称される。


【袁世凱の親日政策】
 北京の袁世凱は、陸軍大学教授で早稲田大学教授でもあった有賀長雄を、法律顧問として招聘し、孫文の臨時約法に代える新約法をつくった。それは、大日本帝国憲法の天皇の権限を大総統の権限に置き換える等したものだった。袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、鉄道大臣となり鉄道協会をつくり、我が国から専門家を招聘して鉄道事業調査を依頼したりと、鉄道建設に夢中になった。孫文は、自ら三百五十万里の夢の様な鉄道建設計画を作り上げ、世界最強の大国に作り上げることを夢見ていた。当時の有吉明上海総領事は、孫文の鉄道計画を見て、「漠然たる空想に出でたるものに過ぎざる」としている。実際、孫文の計画には、資金はどうするのか、人材はいるのかと云った現実問題には一切考えを及ぼしてはいなかった。

【国民党の結成】
 「中華民国臨時約法」により国会開設が約束されたことに合わせて100以上もの各種政党が乱立した。1912.8.25日、北京で統一共和党(蔡鍔ら)、国民共進会、国民公党、共和実進会、全国聯合進行会を糾合して「国民党」が結成された。理事9名を置き、理事長は孫文、理事長代理は宋教仁で、宋が実権を握った。なお、残りの7名の理事は、黄興、王寵恵(以上2名、中国同盟会より)、王人文(国民公党より)、王芝祥呉景濂張鳳翽(以上3名、統一共和党より)、貢桑諾爾布粛親王善耆の義弟)。中国同盟会が主導権を握っており、議会政党へと転換し国民党と改称したことになる。宋教仁が、その活動において中心的な役割を果たした。この頃、三民主義の一つにして民生主義の核心であった「平均地権」を綱領から削除するなどした。1919年に結成され、現在も台湾に存在する中国国民党とは別の政党である。

1913年

中国史上初めての国会選挙
 袁世凱の政治方針は、中央に強大な権限を持たせ、総統が強権を行使することで広大な国土を統治すると云う、強権型の開明専制主義であった。しかしこれに対して当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉えた。

 1912.12月から1913.1月にかけて、『臨時約法』の規定に従い中国史上初めての国会選挙が実施された。1913.2月、選挙の結果、国会の両院である衆議院、参議院のいずれにおいても中国国民党が第一党の地位を占め圧勝した。この時点での他の政党としては、章炳麟張謇湯寿潜らの統一党、黎元洪(民社から)、孫武譚延闓らの共和党(民社、国民協進会、民国公会らが統合。一時、統一党も統合されていた)、梁啓超らの民主党などが存在した。

 宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた。国会を率い影響力を拡大させつつあった宋教仁に対し、袁世凱や孫文は警戒感を抱いた。袁世凱は、共和党、民主党、統一党を合併することにより進歩党を結成し(メンバーは、黎元洪、梁啓超熊希齢、張謇、湯化竜ら)、自己の与党として、国民党に対抗した。

 実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。「また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた」とある。

【宋教仁が上海で暗殺される】

 3.20日、宋教仁が上海駅頭で狙撃され、3.22日、死亡した(宋教仁暗殺事件)。享年31歳。この暗殺の背景には袁世凱の指示があったとされている。宋教仁の死を知った北一輝は失望し、革命を諦め日本へ帰国した。北一輝はその後、辛亥革命についての「支那革命外史」を著している。北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。これにより、宮崎らと来日中の孫文が帰国する。


 4月、国会を無視して経済建設のためと称するイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本の5国借款国と2500万ポンドの借款契約を結んだ。実際は国民党を弾圧するための軍事費や議員の買収資金に用いられた。袁は、これを元手として軍力強化、西欧化、近代化政策を行うかたわら、南方にいる有力な軍人・李烈鈞(りれつきん。1882-1946)らをはじめとする国民党員の免職や左遷を行うなど、反動政治を意のままに操った。

【袁世凱の政権下の抗争】
 袁世凱は大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。また多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声が上がった。

 7月、袁が国民党系都督を罷免したことに呼応して、孫文や黄興、李烈鈞らは第二革命を唱えて北京政府と対立し、第二次革命を計画した。

 9月、反乱を起こした。第二革命軍は、袁世凱打倒の武装蜂起をしたが、その資金繰りに手を焼いた。孫文は、日本から二個師団分の武器と現金二千万円を得る引き替えに、我が国へ満州を売却しようとした。孫文は、かっての陸軍参謀総長の長谷川好道大将に、宮崎滔天を介して二個師団を派兵して孫文を支援すれば「成功の上は、全満州を天皇に献上する」と持ち掛けてもいる。袁世凱は第二革命軍の蜂起を武力で撃退し、第二革命に失敗した孫文や黄興、李烈鈞らは日本へ亡命した。他のグループは中国国内の南方へ逃亡した。章炳麟は軟禁・失脚処分にされた。これを第二革命と云う。

【袁世凱が初代大総統に就任】
 10月、袁世凱が議会を強引に操って大総統選挙を行わせ、正式に初代大総統に就任した。

 11.4日、袁世凱が、国民党の解散命令を出した。1914.1.10日、国会内の国民党議員を全員解職し国会を事実上廃止した。

 孫文は、革命派への支援を我が国から取り付ける為に、様々な条件を我が国に提案した。日本政府はこれを多少修正して受け入れる方針を示したが、孫文革命の成功見込みは薄かった。そこで日本は、北京の袁世凱政権を承認する条件として孫文の出した条件を提示した。これは二十一カ条の要求と呼ばれる。二十一カ条の要求の内、要求をしている項目は実際は七ヶ条だけであり、残りの十四ヶ条は今迄結んだ約束事(条約等)の確認をしているだけであった。袁政権との二十五回に渡る正式交渉を経て数度更改し、袁政権の要望に応じて大部分は修正し、更に一部撤回して、しかも袁世凱総統の早期決着という形の要望で「最後通牒」と言う事にして、十六ヶ条を受諾させた。

 特に、内政干渉になりかねない五号条項については、我が国側はあくまで希望的要項として提出したが、袁政権側は強制的要求として受け取り、秘密条項という約束を破って暴露した為、国際的な批判を浴びた我が国は五号条項を撤回した。我が国国内でも、この要求に対しては様々な批判が挙がり、この二十一ヶ条の要求は帝国議会に置いて否決されている。袁世凱は、共和制の脆弱性を人民に見せつける為に、この二十一ヶ条の要求を利用した。また孫文も、反袁世凱の宣伝としてこれを利用し、その内容を更に改竄し、我が国政府が二十一ヶ条要求という如何にも理不尽な圧力を袁世凱にかけ、袁世凱も力及ばず我が国に屈したかの様な宣伝を行った。この為、大陸では急激に反日感情が高まり、各地で排日暴動が多発する様になった。

1914(大正3)年

【「新約法」公布】
 5月、袁は、臨時約法を破棄し,大総統に権力を集中させた別の臨時約法を制定、「新約法」を公布した。袁は、新約法でもって大総統権限を拡大させ、また軍事でも大元帥制度を発足して自ら大元帥を兼任、政治・軍事の最高指揮官として全てを手中に収め、独裁体制を敷いた。

【孫文が秘密結社中華革命党を結成】
 7月、孫文が、東京で新たに秘密結社中華革命党を結成し、反袁闘争を指揮し始める。

【第一次世界大戦勃発】

 7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間、袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。

 さらに日本から対華21ヶ条要求を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915.5月、ついにこれを認めた(但し、「対華21ヶ条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。



1915年

【袁世凱が中華帝政の復活宣言】

 1915(大正4)年、袁世凱は中華帝政の復活を宣言した。翌1916(大正5)年から年号を洪憲と改め、国号を「中華帝国」と改める事を宣言した。

 アメリカ人顧問グッドノーに,中国における共和制の実施を不可とし、君主制復活を行うべきことを内容とする論文を発表させ、また楊度に籌安会を組織させて世論形成を演出し、自らが皇帝になる準備を着々と進めた。


【対華21ヶ条要求抗議闘争】

 1月、日本が袁世凱政権に対し、対華二十一ヵ条の要求を突きつける。要求には、山東省におけるドイツ権益の獲得などをはじめとする諸権益の譲渡や租借期限の延長、中国の民間大製鉄会社である漢冶萍公司(かんやひょうコンス)の支配(文面は共同経営)、中国政府の介入などといった、中国の主権を無視する高圧的なメッセージが含まれていた。

 5.7日、最後通牒が出され、5.9日、袁世凱大総統は、強烈に迫る日本からの最後通牒に遂に屈服、大半を承諾した。これにより袁に対する国民の不信感がいっきに高まり、政情不安定となった。 

 こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想・社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。


【袁世凱帝政】

 8月、自ら皇帝に即位した。国号を「中華帝国」に改めた。袁世凱は、広大な支那を束ねる為には強力な立憲君主制が必要である、と考えていた。しかし、北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。袁世凱の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁世凱を批判した。


【孫文が宋慶齢と結婚】

 10月、孫文が宋慶齢と結婚。梅屋夫妻の世話による。


【袁世凱即位式の打ち合わせ】

 12月初め、民意をくみとることをよそおうため国民代表大会を結成し、そこでの投票による推戴を応諾するというかたちで、翌1916.1月に即位式を行い、翌年より年号を洪憲とすることを決定した。これを袁世凱帝政と云う。


【第三革命】
 12月、第三革命が起きる。雲南都督唐継・らは袁の帝制復活に反対して、麾下の軍事勢力を護国軍と改称して雲南の独立を宣言した。孫文が、護国軍の第三革命に呼応する。

1916年

【袁世凱が中華帝政の復活の取り消しを宣言】
 1916年に入って貴州・広西・広東などがこの動きに呼応し、北方の袁を中心とする北京政府と、これに反対する南方の諸勢力の対抗関係が形成された。

 1916(大正5).3月、内外の批判を受けて、袁世凱は帝政復活の取り消しを宣言し事態の鎮静化をはかった。

【孫文が、日本亡命中、飛行学校設立】
 4.25日、日本亡命中の孫文が、飛行隊導入を計画し、長崎出身の実業家・梅屋庄吉の支援を受けて日本国内の民間飛行場(滋賀県東近江市の国道沿い「飛行第三連隊」地)を借り受け、中国人飛行士を養成する学校を設立した。孫文側(秘密結社「中華革命党」の周応時軍務部副部長)と梅屋が紹介した民間飛行家の坂本寿一教官との間で結ばれた契約書「飛行教授に関する契約」が台湾の国民党党史館に所蔵されている。

 孫文は、1914年に始まった第一次世界大戦で飛行機が本格投入されたことを重視し、近代中国の将来の布石として飛行学校設置に着手した。書面には、日本語で学校運営の諸条件と共に「生徒の数は10人以上」、「生徒一人につき金1000円」、「教授開始する時に金5000円」、「生徒が相当の成績を挙げられたる時に金2500円」など報酬金額が列挙されている。梅屋が書いた「永代日記」には4.2日、梅屋が飛行学校の開校資金として5万700円工面したことが記されている。梅屋は、資金援助から教官探しまで全面的に支援している。5月初旬、「中華革命党近江八日市飛行学校」として開校し、47名が採用された。教官・坂本寿一は訓練生と共に山東省青島から前線基地に進出、戦場で威嚇飛行を繰り返した。但し、その後、孫文側と袁側が和平条約を結んだ為、僅か1ヶ月で幕を閉じている。

 1916.5月、南方派は勢力の結集をはかって臨時政府としての性格をもつ軍務院を梁の構想にもとづき組織する。

【袁世凱病死する】

 1916(大正5).6.6日、袁世凱が失意のうちに病死した(中華帝国)。死因は尿毒症と伝えられる。 字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。

 精力絶倫で、一妻九妾との間に17男14女をもうけた。長男の袁克定は、吉野作造が家庭教師を務めた。父・袁世凱を補佐し、辛亥革命や、袁の皇帝即位などにおいて数々の策謀を巡らせたとされる。さらに次男の袁克文も崑曲家として著名な人物である。また、大叔父の袁甲三は道光帝時代の進士で、その子が戸部侍郎・刑部侍郎を勤めた袁保恒(袁の従父)である。


【袁世凱死後の軍閥割拠】

 袁が死去し南北の妥協が進展し始めると、梁は軍務院の解消を画策して,南方派勢力の結集を継続していこうとした国民党系の勢力と対立した。 

 袁世凱の部下であった張勲、馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権の座に就き民国政権(北京政府。北洋軍閥政府)を指揮したが(軍閥政権)、各地の離反や孫文らの革命政権が各地で乱立し、各地方を根拠とする軍閥が割拠する一国多政府の大動乱時代に突入した。以後、中華民国の内乱は終息する事なく続き、やがて我が国もこの大動乱に巻き込まれていったのである。 袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入した。

 この後,北方では黎元洪が大総統となり段祺瑞が内閣を組織し、旧約法の回復などが南方とのあいだで合意され、南北の統一がはかられた。これで共和国の理想が再び輝きをとりもどすかにみえたが、北方派の内部分裂などをへて軍閥が無原則な連合と、なりふりかまわぬ抗争を繰り返す暗黒の時期へと突入する。


1917年

 1917年、ロシア革命。同9月、革命軍は孫文を大元帥とし、広州において広東軍政府を樹立し、"孫文の広東政府"として北京政府と対抗した(護法運動)。1917年以後、広州に中華民国軍政府を樹立し、軍閥打倒(護法の役)を試みるが失敗。1919年、五四運動。1919年、孫文が中国国民党結成。国民党一全大会でのソ連と提唱し共産(党)主義を受け入れ労働者・農民を援助するという方針は従来路線の転換の総決算であり、土地問題に関しても「耕者有其田」(土地を耕す者=農民がその土地をもつ)に発展し、三民主義は本質的変化をみせた。また革命の実践経験に基づき、本質的革命理解の必要性を訴える(「知難行易」説)とともに,国家建説のプランとして「建国大綱」・「五権憲法」を発表した。陳烱明等軍閥と戦う一方コミンテルン・ソヴィエトと接近し、中国共産党員を国民党に入党させ、また革命を主体としての労働者・農民に注目し始めた。

 1920年、安徽派と直隷派による政権争奪がおこり(安直戦争。安徽派は日本、直隷派は英米の支援を受けた。1917年における段祺瑞の西原借款は有名)。

 1922年、張作霖(ちょうさくりん。1875-1928)率いる東北・満州の奉天派(ほうてん)が直隷派と戦った(奉直戦争。1922,24)。こうして各地の軍閥政権は、帝国主義列強の支援を受けながら、中華民国統一の気運をみせることなく、泥沼化していった。

1923年、国民党改組により国共合作を進め(第一次国共合作)。

 1924年、中国国民党第1回全国代表大会を開催し,いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。

 1925.3.12日、馮玉祥の招きで北上し、北京で病没。享年59歳。「革命尚未成功(革命いまだ成らず)」と言い残したという。中国の革命的統一は、一進一退を繰り返し、なおも強い勢力を誇る軍閥政権が一掃されるには、1949年10月1日の中華人民共和国の誕生を待たなければならなかった。

1918年

 1917年、ロシア革命。同9月、革命軍は孫文を大元帥とし、広州において広東軍政府を樹立し、"孫文の広東政府"として北京政府と対抗した(護法運動)。1917年以後、広州に中華民国軍政府を樹立し、軍閥打倒(護法の役)を試みるが失敗。


1919年

 1919.1月、第一次世界大戦終結。

 近衛文麿が上海で孫文と会談。

 5月、対華21条などに反対する五四運動。

 1919年、孫文が中国国民党結成。国民党一全大会でのソ連と提唱し共産(党)主義を受け入れ労働者・農民を援助するという方針は従来路線の転換の総決算であり、土地問題に関しても「耕者有其田」(土地を耕す者=農民がその土地をもつ)に発展し、三民主義は本質的変化をみせた。また革命の実践経験に基づき、本質的革命理解の必要性を訴える(「知難行易」説)とともに,国家建説のプランとして「建国大綱」・「五権憲法」を発表した。陳烱明等軍閥と戦う一方コミンテルン・ソヴィエトと接近し、中国共産党員を国民党に入党させ、また革命を主体としての労働者・農民に注目し始めた。

1920年

 1920年、安徽派と直隷派による政権争奪がおこり(安直戦争。安徽派は日本、直隷派は英米の支援を受けた。1917年における段祺瑞の西原借款は有名)。

1921年

 7月、毛沢東らが上海で中国共産党を創設する。

1922年

 2月、孫文が樹立した第二次広東軍政府が北伐開始。張作霖(ちょうさくりん。1875-1928)率いる東北・満州の奉天派(ほうてん)が直隷派と戦った(奉直戦争。1922,24)。こうして各地の軍閥政権は、帝国主義列強の支援を受けながら、中華民国統一の気運をみせることなく、泥沼化していった。

 6月、広東軍の内部内乱で、孫文が追放される。

 12月、宮崎**が病死する。

1923年

 2月、孫文が広東で大元帥に就任する。第三次広東軍政府を樹立する。

 国民党改組により国共合作を進め(第一次国共合作)。

1924年

 1月、中国国民党第1回全国代表大会を開催し、孫文が主席に就任する。いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。第一次国共合作。

 11月、孫文が上海から来日。神戸で大アジア主義講演。

1925年

 1925.3.12日、馮玉祥の招きで北上し、北京で病没。享年59歳。山田純三郎が立ち会う。「革命尚未成功(革命いまだ成らず)」と言い残したという。中国の革命的統一は、一進一退を繰り返し、なおも強い勢力を誇る軍閥政権が一掃されるには、1949年10月1日の中華人民共和国の誕生を待たなければならなかった。




(私論.私見)