清朝末期考 |
(最新見直し2011.7.01日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「中国近代史Ⅰ」、「(れんだいこ仮称)横山歴史講義」、「3 アジア諸国の変革と民族運動」、「ウィキペディア(Wikipedia)のアヘン戦争」、「1900年 北清事変(列強が清へ出兵~1901) 」その他を参照する。 |
【阿片戦争】 |
1840年、清国と英国との間に1840年から二年間行われた戦争で、南京条約をもって終戦とした。名前の通り、アヘンの密輸入が原因となっておきた戦争であった。当時、産業革命によって力を付けていたイギリスは、その資本力によって中国・インド・イギリスの間で三角貿易を行っていた。 イギリスは中国から中国茶・生糸・陶磁器等を輸入していた。イギリスは中国へ毛織物、軽工業品等を輸出していた。 イギリスでの中国茶の人気はすさまじく、中国の民間人の自由貿易が禁じられていたりしていた事から、輸入超過になり、イギリスから中国への輸出は伸び悩んでいた。 そこでイギリスは、金になるインド産のアヘン(ケシの未熟な実を傷つけて出てくる乳色の液を乾燥させた麻薬)を中国に大量に輸出した。中国はそれを大量の銀を支払って輸入していた。そのため、中国国内でアヘンによる中毒者が増え、銀の不足により銀価が高騰して、社会全体が混乱をきたしていた。 発端は、英国が、植民地のインドで栽培させたアヘンを清国に持ち込むことにより莫大な利益を上げ始めたことにあった。1796(嘉慶元)年、清国がアヘンの輸入を禁止する。しかし、密輸入はやまず、国内にアヘン吸引の悪弊が広まりる等社会風紀も退廃していき由々しき事態となった。官僚の許乃済から「弛禁論」が出たものの一蹴され、1838(道光18)年、道光帝は林則徐を全権大臣(欽差大臣)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。1839(道光19)年、林則徐はアヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、英国商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて処分した。しかし、その間隙を縫うように米国商人が登場し始め、英国商人との更なる摩擦が生じた。 1839.11.3日、英国が戦火を開き、清国船団を壊滅させた。麻薬の密輸が原因などという開戦理由にはイギリス本国の議会でも反対の声が強かったが,結局,清に対する出兵は僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。艦隊は直接広州へ行かず天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。 1840.11月、英国艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌1841.1.7日、艦隊は攻撃を開始した。同年夏、イギリスは48隻の艦隊を擁して大沽、天津を威嚇した。 制海権を握り、火力にも優っていた英国側の一方的な勝利で決着した。 1842.8.29日、江寧(南京)条約に調印した。清国は、この条約で多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。英国と清国との不平等条約は他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。 |
【太平天国の乱】 |
アヘン戦争後の中国では、ますます銀価が高騰し、農民の生活を圧迫していた。(当時の納税は銀であった為、納税負担が増大していた) 広東地方の農民出身の洪秀全は、この状況を打破するために、キリスト教の教理にのっとった地上に平等の太平天国建設を目指す「上帝会(じょうていかい)」という秘密結社を作った。1851年、「上帝会」は、儒教の打倒・アヘンやバクチの廃止・男女の平等・土地均分を掲げ、清朝に立ち向かった。 1853年、快進撃をした太平天国軍は、南京を占領し、「天京(てんきょう)」と改称して首都とした。 これが中国革命の先駆となった。 |
【アロー戦争】 |
阿片戦争により、上海ほか五港の開港を約束させ、阿片の輸出も事実上公認としたイギリスであったが、内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、イギリスが期待した程の商業利益は上がらなかった。この理由を清の貿易機構に求めたイギリスの政界では再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなってきた。その絶好の口実とされたのがアロー号事件である。1855年、広西でフランス人カトリック宣教師が殺された。 実際には事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕はまったくの合法であった。 パークスの行動を見た清国駐在全権使節兼香港総督バウリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。 イギリス首相ヘンリー・パーマストンは現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ総督エルギンと兵士5000を派遣した。同時にフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。アメリカ・ロシアは戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。 1857.12月、英仏連合軍は広州を占領して葉名?を捕らえた。翌1858.2月、英露仏米の全権大使連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の回答に不満を持った英仏連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在、キリスト教布教の承認、内地河川の商船の航行の承認、南京を含む10港の開港・揚子江の航海権の承認、英仏に対する賠償金などである。中国にとっては先の南京条約よりもさらに不利な不平等条約であった。 またこの条約による関税率改定により、阿片の輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。この条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始された。これらにより清国の半植民地化が決定的なものとなった。第二次アヘン戦争とも云われる。 しかし連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。1859.6.17日、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを清の条約に対する批准の意思が無いと決め付けた英仏艦隊は強引に白河へ侵入した。この艦隊はモンゴル人将軍サンゴリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。軍を再編した英仏2万の軍隊が再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかしここでパークスらがサンゴリンチンに囚われると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫った。狼狽した咸豊帝は熱河に避難した。この時に英仏連合軍は円明園を略奪し、最後には円明園離宮に放火して証拠を隠滅すると言う蛮行を行った。 1860年、連合軍は北京を占領し、ロシア公使の調停の下に北京条約が締結された。この条約により天津の開港、イギリスに対し九竜の割譲、中国人の海外への渡航許可、沿海州のロシアへの割譲などを認めさせられた。最後の渡航許可と言うのは実際には奴隷貿易のためのものである。また調停に入ったロシアに対して沿海州を渡す事になったのである。 |
【同治帝即位】 |
1861年、清朝の咸豊帝(1831-1861,在位1859-1861,文宗)が病死する。満州旗人(八旗に所属し、各種の特権と土地を与えられた満州人貴族)の出身で、18歳で咸豊帝の側室となっていた懿貴妃(西太后1835―1908)が咸豊帝との間にもうけていた載淳を後継ぎに押し出し、咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らと激しく争った末、皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れに成功した。咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変)し権力を掌握した。 北京帰還後、咸豊帝と西太后)の子である載淳が同治帝(1856-1874、在位1861-74、穆宗)として5歳で即位する。この時代、咸豊帝の正室の皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、側室の懿貴妃は慈禧皇太后となり、共に摂政として相協力して幼帝を支え安定した政治が行なわれた。慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。 |
【洋務運動の発生と限界】 |
清朝はアヘン戦争の敗北により欧米列強と外交で対峙する必要に迫られた。中華思想の清では、清以外はみな文明の遅れた野蛮人であり、蛮夷から学ぶものは何も無いと考えてきたが、それは阿片戦争を期に大きく意識変化を迫られる事になった。一部官僚と知識人により1860年代から1890年代にかけて清には無い先進技術だけを取り入れる洋務運動が発生、欧米の知識を導入して殖産興業・富国強兵を目指す政治活動が提唱された。なかでも西夷で最も優れている大鑑巨砲主義の軍事技術を学ぶ為、多くの西洋人が雇われた。北洋艦隊で雇われた技術者などには、清の将校の二十倍以上の給与が出されるなど、地位も高く破格の扱いを受けた。しかし、清朝内部の自発的なこの運動では北宋より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の改革は限定的なものに留まった。 |
【太平天国の乱の終結】 |
1864年、欧米列強は、快進撃を続ける太平天国軍には危険視していた。太平天国軍がアヘンを禁止し、欧米列強との対等な国交を求めていたからである。欧米列強軍は清朝を援護し、太平天国軍を追いつめた。同年、天京が陥落し、指導者の洪秀全は自殺して、太平天国の乱は終結した。 こうして、欧米の圧力も加わって太平天国の乱は鎮圧された。 |
【光緒帝即位】 |
1874年、清朝の同治帝が若くして亡くなる。 同治帝の死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。 同治帝は子供を残さずに死去したため後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝(1871-1908,在位1874-1908,徳宗)として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。 光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。 |
【イリ条約】 |
1881年、ロシアがイリ地方に進出したため、清朝はイギリスとフランスの仲介でロシアとイリ条約を締結し、イリ地方の大部分を返還してもらう。清朝はその代償として、イリ地方の一部とザイサン・ノール地方をロシアに割譲し、賠償金をロシアに支払った。現在の中ソのイリ国境線の基本はこの時に決定した。中国は現在でもロシアの侵略だとして、この時のイリ条約を非難している。 |
1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。 |
【東学の乱(甲午農民戦争)】 |
南朝鮮の東学(新興宗教団体)を中心とした農民は、清朝の植民地的支配・日本商人の進出・朝鮮の李王朝の圧政に反攻し、「東学党の乱」を起こした。東学党達は、5月には全州を占拠し、李王朝は危機に瀕した。 そのため、清朝の属国であった李王朝は、清朝に対してこの反乱を鎮圧するよう要請した。清朝軍が進軍すると、朝鮮の利権と支配をねらう日本軍も、居留邦人の保護を理由に出兵した。 「東学党の乱」は両軍が到達する前に自主的に収まったが、日本軍はこれを機に、8月に清朝に宣戦布告した。9月の平壌陸戦、黄海海戦で優勢に立った日本軍は、10月清朝領土に進軍し、旅順虐殺事件が起こった。続いて奉天省南部を制圧し、北洋艦隊を撃破、澎湖島を攻めた。 |
1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。 |
【光緒帝の親政始まる】 |
1887年、光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年、西太后の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。西太后は、光緒帝が親政すると離宮の頤和園に退いた。が、依然として政治の実権を握り続けていた。 |
【日清戦争】 |
1894.8月、日清戦争。れんだいこサイト「日清戦争」に記す。 |
【保皇会設立】 |
1894年.穏健な改良主義を主張する康有為・梁啓超らの保皇会が設立された。 |
【興中会設立】 |
1894.11.24日、興中会が米国サンフランシスコ(ハワイともある)で設立され、「満族駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。革命に必要な軍資金の調達を開始した。結成時の宣言文は、列強による中国分割の危機を訴え、清朝による漢民族支配反対を主張。入会時には〈韃虜(満洲人=清朝)を駆除し、中華を回復し、合衆政府を創立する〉という誓いのことばを唱えた。のち、香港に総本部を置き広東省広州や日本の横浜など海外に支部を設けた。華僑や秘密結社の会員をおもな構成員とした。保皇会と競合した。1878年兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受ける。一時帰郷し,1883年以降香港で医学などを学ぶ。1895年、香港でも興中会を組織し,広州蜂起を計画するが不発に終わる。 |
【輔仁文社が興中会と合併】 |
1890年代、多くの知識人が武力革命によって清朝を打倒し、フランスやアメリカのような共和制を確立していこうと唱えた。初期の革命思想の大部分は海外に居住する留学生や華僑青年によるものが多かった。また最初の革命団体もまた海外で組織され、1890年には楊衢雲を中心とする輔仁文社が香港で成立している。 1895.1月、興中会と輔仁文社が香港で合併し、興中会の名称で活動を継続し始めた。1895年春、香港を中心とする興中会は第一次広州起義を計画、陸皓東により革命旗である青天白日旗がデザインされた。この頃、孫文が香港で梅屋庄吉と出会い、梅屋が革命支援を約束している。 |
【興中会の広州蜂起計画失敗】 |
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【孫文派の日本、アメリカ、ロンドン等への海外亡命生活】 |
香港への入国が禁止された孫文は、陳少白、鄭士良らと共に日本に亡命し横浜に来日した。以後、孫文は約三十年間、日本と大陸、欧米を往来し、この間12回来日し、延べ十年近く日本に滞在し、革命の拠点とした。孫文の日本、アメリカ、ロンドン等への海外亡命生活が始まり、各地で革命の宣伝と活動資金の募金が行われることとなった。孫文はロンドンに活動拠点を移した。翌年には清朝による孫文誘拐事件が発生、国際的に報道されたことにより孫文の名が広く知れ渡ることになった。、 孫文は、日本滞在中、陳から宮崎滔天を通じて犬養毅、大隈重信、尾崎行雄、頭山満ら我が国朝野の要人を紹介され、支援工作を行った。生活費は玄洋社社長で九州炭坑王の平岡浩太郎衆議院議員から、一年分面倒を見てもらっていた。孫文思想の三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)の一つ、民生主義の平均地権という土地均等分配の思想は、宮崎滔天の兄、民蔵の運動からその思想的影響を受けたと云われる。 孫文を犬養毅に紹介したのは宮崎滔天と平山周であり、頭山満に紹介したのは犬養毅だった。当時、孫文の亡命受け入れに外務省次官の小村寿太郎は反対していた。犬養毅は大隈重信を説得し、平山周の語学教師という名義で、外務省参事官の尾崎行雄が保証人となり東京府の居住許可を受け、敷地二千平方メートル余りを有する広大な屋敷を借りることが出来た。みな頭山満の援助である。 |
【中国民衆による排外運動激化】 |
この頃、中国では民衆による排外運動が激化していた。既に、「1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始されると、各地で仇教運動と呼ばれるキリスト教排斥運動が起こった。まず地方の役人や郷紳が教会を敵視し、彼らの指導する軍隊や民衆による教会の襲撃や宣教師の殺害・信者への迫害事件が各地で起こった。仇教運動は外国の中国侵略に対する抵抗運動であったので排外運動と結びついた」。 1897年、山東(シャントン)省におけるドイツ人宣教師殺害事件が発生。それを口実にドイツが山東半島に進出する。 |
【孫文来日】 |
1897.9月、孫文がカナダから再来日。横浜で宮崎滔天と会う。宮崎は、後に首相となる犬養毅を通じて外務省から委託された調査を終えて帰国した直後であった。宮崎が革命の趣旨を問うと、孫文は「革命で中国を救うことは、アジアを西欧列強の支配から解放することになる」と答え、宮崎は深い感銘を受け、「東亜の珍宝」と評し、支援を決意する。宮崎は、孫文を犬養毅と引き合わせ、以降深い関係をもつ。 |
【康有為の変法運動】 |
日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えた。1895(光緒21).4月、下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出した(公車上書)。 康有為(1858~1927)は、広東省の名門に生まれ、初め儒学や仏教学を学ぶ一方で欧米思想にも接して西洋に関する書物を広く読み、のち公羊学(くようがく、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊ぶ学説)に転じて変法自強運動を提唱した。変法運動(変法自強)は、李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていた洋務運動が西洋の軍事技術の導入による軍制改革に留まっており、軍備の増強・近代化だけでは清朝の立て直しはできない、直面している民族的危機を打開し,民族の独立と富強化をはかる為には政治制度と政策の全面的な改革が急務であるとして体制的な改革を訴え、欧米の文化や制度を導入して富国強兵を図る政治改革(変法)を主張した。「日本変政考」、「日本書目志」を著わし、日本の明治維新から学ぶことの必要性、日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主政を樹立するよう訴えた。1888年、光緒帝に上書した。 変法運動が広まっていく中で、革新的な若い知識人たちは各地に結社(学会)をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行った。特に梁啓超(1873~1929)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論をひろめ(1896)、また翻訳を通じてヨーロッパの学芸の紹介に努めた。 康有為、梁啓超のたびたびの上書は若い徳宗光緒帝(位1874~1908)の心をつかみ、光緒帝を動かした。光緒帝は次第に西太后と距離を置き始め、大胆な改革断行に舵を取った。 |
【「戊戌(ぼじゅつ)の政変」】 |
1898.6.11日、光緒帝は変法自強策(日本の明治維新にならって政治・法律を改正し、富国を目指す)の詔書を発布し、康有為、梁啓超、譚嗣同(たんしどう、1865~98)ら変法派を登用し、「克子戊戌(ぼじゅつ)の変法」(1898.6~98.9)を開始した。科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設、官庁の整理などの詔勅が次々に発布された。しかし,当時はなお保守派が圧倒的に根強い勢力をもっていて改革は容易ではなかった。中央・地方の守旧派官僚の非協力などのために改革はほとんど実現されなかった。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動)という。 西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、袁世凱の指揮下の新建陸軍などの最精鋭軍を統率させるなどの措置をとって公然たる改革妨害対策をうち出した。 1898.9.21日、西太后は光緒帝を中南海の一室に幽閉し、西太后自らが「訓政」にあたることが宣され、改革派への決定的な弾圧が行われ始めた。変法派主要メンバーを逮捕・処刑した。これにより戊戌維新が終わった。康有為や梁啓超は事前に察知して前日に北京を離れ日本に亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6名が「大逆不道」の罪名で逮捕されて,9.28日、処刑された(彼らを「戊戌六君子」という。新政はわずか3ヶ月で終わった(百日維新)。光緒帝は以後、中南海の瀛台(エイダイ)紫禁城内に幽閉された。 |
【康有為、梁啓超のその後】 |
康有為は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後大陸浪人の宮崎滔天や宇佐穏来彦らの手引きで香港を経由して日本に亡命している。その日本で同じく亡命してきた愛弟子梁啓超と邂逅を果たすのである。ちなみに康有為はこれ以後日本に都合三度ほど滞在し、犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。日本とは因縁浅からぬ人物となった。その後、アメリカやインドを含む世界各地を清朝からの刺客を避けつつ周遊し、また保皇会を立ち上げて中国に立憲君主制を樹立すべく活動を行った。亡命中は各地の支持者からの援助や自らの書を売ることで生計をたてていた。1911年に辛亥革命が起こると帰国し、それ以後拠点を中国国内に移した。但し、皇帝を戴いた立憲君主制を主張し続けた為、既に時流に添えず急速に支持を失っていった。康有為が歴史の表舞台に最後に登場するのは1917年に起きた張勲による宣統帝溥儀の復辟事件の時である。この時康有為は復辟のイデオローグとして登場した。しかしこの復辟事件はごく短期間で鎮圧され、以後康有為は完全に表舞台から姿を消すことになる。1927年、70歳で青島にて死去する。 |
【戊戌の政変の新説】 | |
(「西太后」転載)
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【その後の西太后の苦悩】 |
西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。 |
【日本の明治維新手本運動】 |
洋務運動と変法運動の破綻を横目に見ながら、次第に日本の明治維新に学ぶ運動が始まり、各地方の実力者である総督や巡撫などが日本人を雇い入れ、政治、軍事、産業などの分野の顧問とした。最盛期には約六百人の日本人が雇われていた。また、清の知識階級の若者達は日本に留学するようになつた。 |
【欧米列強8ヵ国が義和団事件鎮圧】 | ||
列強は、これを機に在留外国人の安全が脅かされたとしてその保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵にふみきった。日本では「北清事変」と呼ばれる。1900.7月、当時、イギリスは南ア戦争、アメリカはフィリピンのアギナルド軍と戦争中で兵力に余裕がなかったので、地理的に近い日本(最大の約1万2000人)と極東進出をねらうロシア(約6000人)を主力とする8カ国連合軍2万が組織された。7.6日、日本の陸軍1個師団の清国派兵を閣議決定した。その後、さらにドイツ兵が加わり4万5千の兵で、直隷、山西、山東に四散した義和団を討伐、満州に義和団の乱が及ぶとロシアがこれを討伐した。 |
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【義和団事件その後の動き】 |
7月、義和団事変の戦闘が未だ継続中の時、アメリカは国務長官ヘイの名で、門戸開放宣言 (Open Door Doctrine)を発した。1899年の宣言を再度繰り返したもので、終戦後の列強諸国による利権争いの牽制を目的としているが、とりわけ東三省(満州)へ派兵したロシアへの警戒がその最たる理由であった。ロシアは既に清国より遼東半島を租借して港湾都市大連・旅順を建設し、さらに東清鉄道の敷設やハルピンなどの植民都市を整備するなど、着々と東三省への勢力扶植を行っていた。一方で大豆粕など肥料を中心として、日本・アメリカ・イギリスなどは年々東三省との貿易額を増しており、当地のロシアの植民地化は望むところではなかったのである。また、南下するロシアに対する防波堤を朝鮮に設定していた日本からすれば、東三省がロシアの勢力下に落ちてしまうことは大きな恐怖であった。 7月、ロシアは居留民の救出と東清鉄道の保護を理由として同年7月に東三省に侵攻、八旗兵を中心とした清朝の軍隊を撃破し、8月、ほぼ全域を占領下に置いた。官庁・軍隊なども完全に自らの支配下に置いた。 |
義和団の乱が発生すると華北地方は無政府状態となったため、この機会に乗じて武装蜂起が計画された。 1900(明治33).6月、孫文と鄭士良、陳少白、楊衢雲及び宮崎滔天、平山周、内田良平などが横浜から香港に到着したが、イギリス当局により入国を拒否されている。9月25日、孫文は黒龍会の支援の下、馬関を経て台湾に移動、台湾総督府民政長官と会談し、台湾総督府の広州武装蜂起の支持を獲得した。孫文は台北市に武装蜂起司令部を設置した。 10.8日、孫文は再び挙兵して広東省恵州で蜂起を起こした(恵州起義)。その計画は、日本人志士らを交えて孫文が香港の港に浮かべた船中で練られ、革命軍外務長には日本人志士の平山周を充てたほか、福本日南が指揮官となり、内田良平が参謀長となる義勇軍を計画している。また福岡の島田経一は自分の豪邸を売って、恵州蜂起を支援した。孫文と当時の台湾総督児玉源太郎との間では、三個師団分の武器援助という約束もなされていたが、その情報が伊藤博文の耳に入り、イギリスの干渉を恐れて止められ、日本からの武器購入は失敗に終わった。 孫文は、鄭士良等らを中心とする興中会に命じ広東省恵州三洲田(現在の深圳三洲田)で武装蜂起を指示した(恵州起義、庚子革命、庚子首義、三洲田首義等)。600余名を率いて蜂起し、決起軍の規模は2万人に拡大した。この蜂起には後に大陸浪人とよばれることとなる日本人も多く参加し戦死者も出している。また、台湾総督・兒玉源太郎は武器援助と軍事顧問の派遣を極秘に約束したが、10.19日、児玉と親しい山県有朋の内閣が倒れ、その後日本政府からは援助禁止の指示が出たために、実行に移せなかった。一時は清国軍相手に善戦し、軍勢も1万以上になるが、補給と軍人の参加の約定が覆されると、革命軍は物資補給に困窮し始め11月、壊滅した。間もなく清朝により失敗宣言が出された。この武装蜂起では史堅如、山田良政などが命を落としている。中国革命運動で最初の日本人犠牲者となった。これを恵州事件という。孫文は決起失敗後に日本当局により日本に移送されている。横浜到着。 |
【清朝の危機感極限化する】 |
この頃から、侵略から国を守ることができない清朝打倒の動きが強まり始めた。特に留学生として日本に渡った者は、ナショナリズムという概念を取り入れ、国家存亡の危機感とともに、「漢民族による国家の樹立」「滅満興漢」といった考え方を持つようになっていった。多くの留学生がそれに賛同して革命組織が生まれるようになり、清末には彼らによる蜂起・テロがたびたび発生した。一方で漢民族の清朝の高官らも大きな危機感を抱き、光緒新政の名の下改革に取り組むようになった。自ら西洋の知見を取り入れようとも考え、1905年、岩倉使節団と類似した形で出使考察を行った。しかし、改革は満州貴族の反対や、議定書の賠償金に苦しみ、軍事面を除きなかなか進行しなかった。そして1911年の辛亥革命を招くことになる。 |
【ロシアの清朝浸食】 |
11月、ロシア極東総督アレクセーエフ中将と清朝の奉天駐留の盛京将軍増祺との間で満州還付予備条約が締結された。これは奉天などの主要都市にロシアの駐兵権を認めるなどの一方的なものであった。しかしこの条約は清朝中央の認めるものではなく、李鴻章が対露交渉の全権となり、新たに交渉に当たらせたが、ロシア側の強気の姿勢は変わらず、交渉は難航した。 1901.2.16日、ロシアは清朝の楊儒駐露公使に対して、極秘に12カ条からなる満州返還条約案を提示した。この文案には、ロシアの東三省における軍事・行政権の掌握、鉄道・鉱山・土地に対する特権取得など、さらに強硬なものであった。3.1日、ロシアは清朝に対して、もし調印を拒否すれば、東三省を永遠に返還しないと脅迫し、李鴻章は清朝にこの条約を早く締結するよう求めた。2.27日、駐露公使楊儒が日本にこの情報をリークした。日本はアメリカ・イギリスとともにロシアに抗議し、さらに対露交渉全権の李鴻章と仲の悪い劉坤一・張之洞にこの情報を流し、彼らを通して清朝の内部へもこの条約を調印しないよう圧力をかけた。結局こうした圧力にロシアは屈し、東三省から無条件で全面的に撤兵する旨を列強諸国に約束した。しかし北京議定書調印後もその約束は履行されず、日英同盟、日露戦争へとつながっていく。 |
【清朝最後の政治改革】 |
義和団事件の後、清は崩壊の危機に直面した。結局、西太后は実力派官僚の李鴻章、張之洞、劉坤一の三度にわたる要求の末、自らの手で潰した戊戌維新と同じ内容の政治改革をせざるを得なくなり、幽閉中の光緒帝の名で詔諭を下した。 |
【義和団事件後始末】 |
講和は、中国側は慶親王と李鴻章が全権大使に指命され、講和相手国は8カ国のほかにスペイン・ベルギー・オランダを加えた11か国であった。約1年の歳月を交渉に費やした。全権大使は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないよう交渉に努めた。 1901.9.7日、列国と清朝の間で北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)が調印された。 事変の結果、清朝は、1・公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させる。2・日本とドイツに謝罪使を派遣する。3・端郡王以下の戦争責任者の処罰、4・外国人を殺害・虐待した城市の科挙を5年間停止する。5・武器・弾薬およびその材料の中国への輸入を2年間禁止する。6・賠償金4億5000万両を関税、塩税を担保として39カ年賦払いで支払う。7・北京周辺地域の防備の撤廃、大沽砲台、および北京と海岸にいたる間の砲台を撤去する。8・北京と海岸の間の重要地点は、外国軍隊が占領する。9・排外団体への加入や運動の厳禁、10・総理衙門を外務部とあらため、六部の上位におく等々屈辱的な取り決めを余儀なくされた。こうして、中国に対する外国の干渉はさらに強まり、中国の半植民地化が更に促進することとなった。これにより、首都北京とその周辺に外国軍が配置されるとともに莫大な賠償金が課せられ、中国は半植民地状態となった。ただし、中国が分割をまぬがれたことは、幸いであった。 10.8日、 義和団事件に関する北京列国公使会議が開催される。10.27日、各国の軍隊が紫禁城内に集結する。1901.4.19日、 北京列国公使団が清国に義和団事件賠償金4億5000万両を要求する。5.29日、 清国が北京列国公使団の賠償金要求を受諾する。7.31日、 連合軍が北京からの撤退を開始する。但し、ロシアは撤兵せず、逆に朝鮮への圧力を強めた。日本は朝鮮半島が大国ロシアの手に落ちることを憂慮し、危機感を強めた。これが日露戦争へとつながっていくことになる。9.7日、 義和団事件最終議定書調印。 |
【李鴻章が没し、袁世凱が後継する】 |
1901年、李鴻章(りこうしょう。1823-1901)が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。 |
【「光緒新政」】 |
1902年、西太后は北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握った。義和団の乱終結以後、民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。 |
【日露戦争の伏線】 |
1902.4.8日、 満州還付条約調印 (露・清)。1903.4.8日、 ロシア、満州撤兵?A不履行。1903.8.12日、 ロシア、旅順に極東総督府を設置する。1903.10.6日、日露交渉(小村・ローゼン交渉)開始。この間にロシアは満州を占領し、同地への侵略を狙う日本との緊張を高めていくことになる。これが日露戦争の伏線となる。 |
(私論.私見)