辛亥革命前の清朝打倒運動考 |
「ウィキペディア辛亥革命」その他参照。 |
孫文は、1899年第一回世界漫遊を終え、日本に立ち寄る。宮崎寅蔵兄弟、曽根俊虎、平山周、福本日南、清藤幸七郎、伊藤知也、内田良平らと親交を深める。
【中国近代革命思想の諸潮流】 |
清朝末期には、八旗及び漢人緑営を主体とする清朝中央軍は実質的な戦力を喪失していた。太平天国の乱鎮圧に際しては各地方の兵力に依拠し、日清戦争では旧式軍隊の落伍が顕在化した。清朝は軍事維持を目的に1901年(光緒27年)に陸軍の全面改革を実施、全国に新式陸軍36鎮を設置し、その内6鎮を朝廷直属とし他は各地方巡撫・総督の管轄とした。新式軍隊の幹部を養成するために各地に軍学堂が設置され、一部地域では留学生を軍官に積極的に採用するようになった。 清朝を構成する満族への反発は清朝成立当初は存在していたが、清代中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢族の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満族排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満族排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などは民族革命より政治革命を目指していたが、辛亥革命には満族排除も一定の影響を与えたことは事実である。しかし、辛亥革命以降は満族排除の思想は退潮し、革命スローガンも「打倒韃虜」から「五族共和」へと平和的になっていく。 1900年代、清朝では日本留学熱が高まり、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していた。日本で学ぶ留学生の周辺には革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で成立した際には90%以上の会員が日本で学ぶ留学生であった。また日本で軍事教育を受けていた同盟会会員による丈夫団も結成されている。日本留学した学生達は辛亥革命の中で大きな役割を果たし、指導者の孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲愷、朱執信、汪精衛等の革命指導者の殆どが日本留学の経験者であった。 |
【秘密結社の諸潮流】 |
清朝末期、各地で洪門会、哥老会、致公堂、三合会、洪江会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼者によっても構成され、地主士紳所層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。
哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては洪門致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清朝打倒に重要な役割を果たした。 |
【日本への留学生急増】 |
1900年の義和団の乱で清朝の威信は失墜し、翌1901年に締結された北京議定書により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。当時日本に留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。日露戦争で日本が勝利すると、清から日本に来る留学生は急増した。戊戌維新に失敗して追われる身となった者や、地方の革命派も武装蜂起に失敗すると、亡命先として東京へと押し寄せた。 |
【日露戦争】 |
1904.2.10日、 対露宣戦布告 (日露戦争勃発)。 |
【清朝が日露戦争中立宣言】 |
1904年に日露戦争が勃発すると清朝は厳正中立を宣言した。袁世凱は、諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣した。これは、1903.11月中旬、袁は青木宣純と天津で会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう」と返答したことによる。袁は選りぬきの将校らを満州・蒙古の奥深く、ロシア国境付近まで潜入させた。 |
【華興会設立】 |
1904.2.15日、宋教仁、黄興、譚人鳳、陳天華らで組織された湖南人の華興会が長沙で設立され、黄興を会長とし,宋教仁・劉揆一らが副会長となる。会員は陳天華ら約500名であっだ。主として留日留学生ら知識人により構成された。「満族駆逐、中華回復」を政治主張とし、各省起義方式の革命をめざした。 西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立て、西太后以下を暗殺する,いわゆる甲辰長沙の役を計画し,劉揆一は会党首領馬福益を加えて同仇会を結成,哥老会10万を五路軍隊に編成した。11.16日、(西太后70歳の誕生日)を期して蜂起し長沙を占領する予定であったが、事前に計画がもれ官憲が検挙を始めたため黄興らは上海にのがれ挽回をはかったが成功せず日本に亡命する。宋教仁らも同年末日本に亡命する。 黄興 こうこう 1874~1916 辛亥革命の指導者。湖南省善化県の人。原名は軫(ちん)。のち名を興,字を克強と改めた。武昌の両湖書院・東京の弘文学院速成師範科に学び,1903年(光緒29)帰国し革命活動を始める。拒俄義勇隊(のち軍国民教育会)を結成。 1904年(光緒30)長沙で華興会を組織し会長となる。長沙蜂起に失敗し,翌年東京で孫文とともに中国同盟会を結成した。以後広州・雲南各地で武装蜂起を指導,1911年(宣統3)趙声らと広州総督府を襲撃するが失敗(黄花岡の役)。 同年10月武昌蜂起が勃発するや戦時総司令に就任。1912(民国元)年、南京臨時政府の成立とともに陸軍総長となり、政府北遷後は南京留守府をあずかる。第二革命では江蘇討袁軍総司令となるが失敗,日本に逃れた。亡命後、孫文と意見が合わず、孫文の中華革命党に加入せず新しい革命勢力の培養につとめ、資金調達と宣伝のため渡米。第三革命では孫文に呼応。袁世凱の死後上海に帰るが10月、病死した。 |
【光復会設立】 | ||||||||||
1904(光緒30)年頃、『蘇報』事件後、浙江省紹興県出身(浙江人)の留日学生や亡命客または会党などを中心に組織した光復会が上海で正式に設立された。光復会とは、文字通り失われた漢族の中国を満州族から奪回し再興することを大目的としたものであり排満種族革命の思想を濃厚に備える秘密結社である。会長は蔡元培。会員には章炳麟、陶成章、徐錫麟、秋瑾などがいた。会結成の源流は,1902(明治35、光緒28)年に東京で章炳麟の主催で開かれた「支那亡国242年紀念会」にもとめられる。ついでこれが東京では拒俄(ロシア)義勇運動などともあいまって青年会・軍国国民教育会に発展する。一方、上海にあっても中国青年会・愛国学社が組織され、機関誌的なものとして「蘇報」が光復といういわゆる排満を標榜する革命論を宣伝する。 章炳麟(しょうへいりん、1869-1936)。孫文・黄興とともに辛亥革命の三尊の一人とされる。初め康有為などの変法派に接近し,戊戌政変後ともに日本に亡命している。しかし,今文派・公羊学者とは根本的に相容れず,伝統的な郷紳知識層の民族主義の見地から,夷狄(満州族)を駆逐し中華を再興するという,いわゆる滅満興漢の種族革命思想を堤唱した。数度にわたる日本亡命では,孫文と提携するとともに,ようやく増加しはじめた中国人留日学生に古典学を講義しながら,民族主義をも鼓吹するなどして,多大の影響力を与えた。中国同盟会の結成にも積極的に参加し,機関誌「民報」の編集長として健筆をふるった。しかしながら,光復という伝統的な種族革命論にあくまで固執する章炳麟は,西欧的な民権の確立を第一とする孫文とは,根本的に相容れない思想の持ち主でもあった。ために孫文ともしだいに疎遠となった。辛亥革命後は,南京臨時政府の枢密顧問・大総統府高等顧問などに就任した。しかるに第二革命後は,志を得ないまま政界から引退し,上海にあって学問に没頭し,『文始』『新方言』などで「小学」の概念を樹立した。 これにより、孫文が中心となった広東人の興中会、宋教仁、黄興、譚人鳳らで組織された湖南人の華興会、章炳麟、陶成章、徐錫麟、秋瑾ら浙江人が組織した光復会の三大結社が揃い踏みした。 この他の革命団体は下記の通り。
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【清朝の憲政視察団派遣】 |
1905年、西太后の指揮する清朝は、5名の大臣からなる憲政視察団を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させた。李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を保留、1906年に官制の変更(冗官の廃止統合と地方官制の追認)と9年後の立憲制への移行を宣言する「預備立憲」上諭を発布した。 |
1905年、アメリカでの中国人移民禁止を定めた移民法に反対してアメリカ商品に対するボイコット運動が起る。 |
【革命派による中国革命同盟会が東京で結成される】 |
1905(明治38)年夏、孫文が日本で興中会(孫文ら)、華興会(黄興ら)、光復会(章炳麟ら)等の各団体を団結させることに成功し、革命派による中国革命同盟会が結成された。7.30日、宮崎滔天や末永節らの支援のもと内田良平宅の黒龍会本部で準備委員会が開かれ、**。 8.20日、中国同盟会が日本の東京で設立され、孫文を総理とし、孫文の提唱した三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を基調とする「満族駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」(「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」)を綱領に定めた。留学生、秘密結社員、華僑を会員とし、中国国内、東南アジア、アメリカなどに支部を置いた。宮崎滔天は同盟会の日本全権委員。 華興会機関紙の「二十世紀之支那」を同盟会成立後に「民報」と改称し機関誌とした。綱領は「民報」に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり胡漢民、汪兆銘が執筆。康有為や梁啓超が主編した改良系の保皇派機関紙であった「新民叢報」と論戦を繰り広げた。 11.20日、坂本金弥宅(現ホテルオークラ)で成立大会が開かれた。孫文ら広東派の興中会、宋教仁や黄興ら湖南派の華興会、章炳麟ら浙江派の光復会など三百人が入会した。日本人も宮崎滔天や平山周、北一輝など八名が参加している。同盟会の機関誌『民報』の編集長は章炳麟であったが、印刷人は末永節で、発行所は宮崎滔天宅であった。梅屋庄吉は、有楽町に同盟会後援会事務所を設け、『民報』発行の資金を提供した。宮崎滔天や萱野長知は我が国への宣伝誌として『革命評論』を刊行し、二大専政国家ロシアと清の革命断行と国体変革を呼びかけた。 辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。 12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教人は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。宋教人はその後、1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907.3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。 |
【日本留学生の結社化進む】(「革命の拠点となった東京」) |
1906(明治39)年、清の来日留学生は日露戦争の時期がピークに達し、この頃に於いても1万人前後もいた。当時の留学生の政治集会には千人規模の大集会もあった。飯田橋の富士見楼で開かれた孫逸仙(孫文)歓迎大会には千人以上が集まり、章炳麟が上海から東京に迎えられたとき、革命の英雄として東京で歓迎会が催された時は三千人以上が集まった。政治勢力の流派は、主に体制維持派の維新派と反体制派の革命派に別れたが、維新派でも康有為は開明専制、梁啓超は穏健的な立憲政治を目指し、革命派でも孫文は絶対的権力を持つ強権政治的な大統領制、宋教仁は議会民主制の内閣制と様々あった。 この頃の東京は、ジュネーブやパリ、ロンドンと同じく、各国の亡命者が行き交う革命の基地となっていた。清の維新や革命の志士たち以外にも、フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール、ポーランド独立の英雄ヨーゼフ・ピルスーツキー、ロシアのナロードニキのニコライ・ラッセル、無政府主義者のミハイル・バクーニンなども顔触れのなかにいた。 |
【孫文の資金問題、孫文がアメリカに渡る】 |
孫文の革命運動は、同志や華僑よりも日本の有力者に依存していた。ことに資金、武器調達、さらに身の安全の保護の面に於いて多くの日本有力者の協力を得ていた。その孫文は、資金問題や活動方針を廻って同盟会内部で対立した。 指導者の孫文は、引退の形を取って我が国を離れアメリカに渡った。その際、日本政府から革命活動資金として六万円が渡され、また鈴木久五郎も孫文に一万七千円を寄付している。が、孫文は、同盟会の機関誌『民報』にそのうちのたった二千円しか回さず、その他交際費として二千円残してアメリカに渡った為、同盟会内部で孫文批判が相次ぎ、同盟会は空中分解の様相を呈した。 その後の革命各派は、それぞれの地方へ帰り独自の革命運動を展開した。 |
【孫文派の萍瀏醴蜂起失敗】 |
1906(明治39)年、孫文派の革命運動として萍瀏醴蜂起。失敗する。 |
【孫文が日本に支那革命支援演説】 |
1907(明治40).1月、孫文は演説で「革命の目的は『滅満興漢』(満州民族王朝清からの漢民族の独立)である。日本がもし支那革命を支援してくれると云うのなら、成功の暁には満蒙(満州とモンゴル)を謝礼として日本に譲っても良い」と述べている。 |
【黄岡起義、第2回恵州起義、安徽起義、欽州起義、鎮南関起義が悉く鎮圧される】 |
1907.5月、革命党及び三合会の許雪秋、陳芸生、陳涌波、余紀成により武装蜂起が決行され、黄岡城(現在の潮州饒平県)の占拠に成功した(黄岡起義)。許雪秋、陳芸生はシンガポール華僑であり、シンガポールで同盟会に参加していた。黄岡起義後、清朝は潮州総兵黄金福を派遣して武装蜂起を鎮圧にあたった。この結果、革命党員200名が殺害され、6日間で黄岡起義は失敗した。 黄岡起義が発生するとそれに呼応すべく孫文は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示した。6.2日、鄧子瑜と陳純等少数の三合会は恵州から20里ほど離れた七女湖で清軍の武器を強奪、5日に泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退すると楊村、三達、柏塘等で清軍を撃破した。これに対し帰善、博羅、龍門各地の会党も武装蜂起に呼応、革命軍は200余名の規模となった。清水師提督李准急は革命軍鎮圧に出動している。その後黄岡起義が失敗すると革命軍への支持が失われたため梁化墟にて革命軍は解散、一部香港に、大部分は羅浮へと逃れている。 7.6日、光復会の徐錫麟は安徽省安慶で武装蜂起を決行した。徐錫麟は安徽巡警処会弁兼巡警学堂監督を務めており、学校卒業式の当日で巡撫恩銘を視察した後に学生を率いて革命軍を組織し、戦闘が開始されたが、4時間の激戦の末に革命軍は崩壊、徐錫麟も捕えられた後に処刑されている。 8月、広東省欽州(現在は広西の那彭、那麗、那矺三郷で民衆反乱が発生した(欽州起義)。孫文は会党指導者王和順を「中華国民軍都督」として連絡役とし、9月には欽州の占拠を計画したが失敗、王和順はベトナムに帰還している。 12.2日、黄明堂は孫文の指導を受け入れ「鎮南関都督」の名目で中越国境の鎮南席砲台を攻撃した。孫文、黄興、胡漢民なども自ら砲台攻撃作成に参加している。広西提督調陸栄廷は4000の軍勢により革命軍を包囲、革命軍は山間部に退いた(鎮南関起義)。 1908.2月、黄興はベトナムを本拠地に200名の勢力により広東欽州及び廉州の計画、14日の作戦が行われた(欽州、廉州起義)。 4月、雲南省河口での武力蜂起が計画され、4月30日に黄明堂がベトナムより雲南河口に侵攻、黄興も指揮に加わっている。しかし5月26日に清軍により河口が陥落すると一部の参加者はベトナムに撤退している(河口起義)。 1910.2.12日、黄興、胡漢民及び新軍内の倪映典は広州警察と新軍との衝突に乗じ、広州新軍を組織し武装蜂起を行った。しかし、戦死者100余名、逮捕者100余名を出し、100名以上の参加者が香港に撤退し、武装蜂起は失敗した(庚戌新軍起義)。 11.13日、孫文はマレー半島のペナンに趙声、黄興、胡漢民、鄧沢如等を召集し、同盟会の行動方針を決定する会議を招集した。それまで会党が地方での武装蜂起を行ったが全て失敗した。革命の停滞期であったことから広州での武装蜂起を決定、清軍との全面対決方針を決定した。 12.10日、孫文、陳新政、荘銀安等によりペナンで『光華日報』が創刊され、マレーシアにおける革命党機関紙のみならず、新聞史上もっとも歴史の長い中国語新聞となっている。 1911.3月、武漢新軍内部に文学社が組織された。共進会は陸軍第八鎮第16協第32標に集中して会員を集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士が文学社及び共進会に加入し、新兵総数の3分の1に達した。文学社と共進会会は新興知識層による革命組織であり、新軍兵士は革命の潜在力となるため、両者は新軍兵士を主要な工作対象とした。 4月、趙声、黄興等は広州で武装蜂起を指揮、革命軍と清軍の間で激しい市街戦が展開され、軍事力に勝る清軍の前に革命軍は崩壊、武装蜂起は失敗した(黄花崗起義(第二次広州起義) )。 |
【士紳及び商紳】 |
1907.9月から10月、清朝は資政院及び咨議局を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。1909年、各省に諮議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙により咨議局に選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。 |
【宣統帝即位】 |
1908年、 幽閉されていた光緒帝が崩御した。翌日、西太后も没する。二人の相次ぐ死亡に不審説がある。2008.11月の報道によると、光緒帝の遺体の科学鑑定が行われ、同時代の光緒帝の皇后隆裕太后の遺体と比較した結果、光緒帝の遺体からは高濃度の砒素が検出され、毒殺説の可能性が高まった。しかし、誰が犯人かを示す証拠は何も発見されていない。光緒帝殺害の犯人としては古くから多くの説が唱えられているが、真相は不明である。主なものとしては西太后説、袁世凱説、李蓮英説、その他人物説、侍医毒殺などがある。 西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。これにより皇統は光緒帝の甥である宣統帝(1906-1967,在位1908-1912,溥儀)に受け継がれた。宣統帝の父・醇親王載灃が摂政王として政権を担当する。 醇親王は、戊戌変法で兄・光緒帝を裏切った袁を憎んでおり、失脚させた。全ての職を失った袁は、河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなる。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っており、また彰徳は交通の要地(現在は、新幹線で北京から3時間半ほど)でもあるため、情報はふんだんに入手していたらしい。袁はこの土地が気に入り、墓地もここに作られた。袁林と呼ばれている。 |
【清朝最後の政治改革の動き】 |
1908年、 清朝は「欽定憲法大綱」を発布して日本の大日本帝国憲法の模倣にもとづく君主権力の強い憲法制定の方針を明らかにした。各省の議会や中央の国会を開設する準備段階として、1909年、10年には各省に諮議局、中央に資政院という諮問機関を発足させた。このほかに地方議会を準備したり、各都市に商会を設置することを認めるなどし、1911年になって内閣制を発足させ、権力機構の再編成をめざした。これによれば、清朝は清朝なりに懸命賢明に近代化改革をしていたことになる。 |
【日本の高圧的外交に抗議運動の動き】 |
1908年、日本船第2辰丸の武器密輸事件や安奉鉄道改修問題をめぐって示された日本の高圧的外交に抗議して対日ボイコット運動が展開された。この頃より、中国ナショナリズムが台頭し始めており、広汎な人民大衆が政治運動に自覚的に参加しつつあった。 各地の農民や労働者・小商工業者は重税に反対する「抗捐抗税」闘争を組織し、長江流域などでは農民にとって伝統的反権力闘争手段の抗租(小作料不払い)闘争が発生し抗糧(土地税不払い)闘争もたたかわれるなどし、民衆の反権力闘争が社会の諸局面で噴出した。 |
【新軍士兵】 |
1908年以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学者社長の蒋翊武を初め劉尭澄、詹大悲、王憲章、張廷輔、蔡大輔、王文錦などが当時の新軍内部のメンバーであった。 |
【孫文がシンガポールに亡命】 |
革命派の華南地方での数次の武装蜂起の悉くが失敗し、清朝は孫文等に対する捜索を安南に拡大したため、孫文はシンガポールに移動、武昌起義成功まで中国に足を踏み入れることはなかった。
マレー半島での革命活動はマレーシアとシンガポールでの辛亥革命関連の活動を意味する。当時のマレー半島は中国本土以外で華人人口が最も密集し経済的にも発展していた。孫文は数度にわたりマレー半島を訪問し現地の華人に対し革命への参加を呼びかけ、多くの華人から指示を受けていた。そのためマレー半島は革命活動の主要活動地域の一つとされる。 マレーシア及びシンガポールにおける孫文及び同盟会の革命活動は順風満帆なものではなかった。外交関係の視点からではイギリス植民地政府と清朝が外交関係を維持し、シンガポール及びペナンに領事館を設置して革命活動を阻止していたことがある。また別に清朝は外交官や特使をマレー半島各地に派遣し、これら清朝官僚も現地華人より歓迎を受けていた。これらの官僚来訪の目的は現地華人による清朝政府支持の獲得と、売官による現地華人の懐柔であった。当時、胡漢民は満人の下の小官が南洋に赴き自らを3代にわたる高官であると吹調して現地華人の尊敬を集め、またマレー半島の華人が保守的であるため、保皇党の康有為が現地華人の支持を集められるものであると述べている。 |
【マレー半島での革命派の論戦】 |
康有為を中心とする保皇党と孫文を中心とする革命党による共和制樹立の思想上の隔たりは大きく、当時、両派はマレー半島で大規模な論争を展開していた。保皇党と革命党はそれぞれ自らの新聞を発行し、立憲君主制と民主革命の課題の進行に激しい舌戦を繰り広げた。この論戦の中、現地華人の上流階級は自らの財産に影響を与えず、既得権益を守るために保皇党を支持し、商人、教育者、労働者などの中下層階級市民は革命党を支持した。筆戦はシンガポールで開始され、保皇党支持の新聞として『叻報』、『星报報』及び『天南新報』が、革命党支持の新聞として『中興日報』と『総匯新報』が発行された。当時『叻報』と『中興日報』及び『総匯新報』の筆戦はマレー半島中国語新聞による最初の論戦となった。マレーシアでは1906年に黄金慶が『檳城日報』を創刊し、革命党によるペナン最初の新聞となった。 |
1911.5月、清朝は日本の内閣制にならって慶親王奕キョウ※注5※を首相に内閣を発足させた。この内閣は全閣僚13名のうち首相以下9名が満州族モンゴル族の王侯貴族で占められていたほか、軍の最高権力もすべて清朝の皇族が独占しており、清朝がめざしていた立憲政体がいかなるものであったかを暴露した。このため清朝に期待を寄せていた立憲派は失望し,その他の漢族の官僚・地主にも不満を抱かせる結果となった。 |
【清朝が鉄道の国有化政策実施】 |
1911.5.9日、清朝は鉄道の国有化政策を実施し、民間資本により建設された粤漢線、川漢線の買収国有化を発表した。この施策は,帝国主義列強から借款を引き出すために鉄道の権利をいわば抵当に入れるためのものであった。国有化政策は四川・湖北・湖南などの株主や民衆の反発を招き、四川省が中心となり鉄道国有化反対運動(保路運動)が展開された。 |
【保路同志会闘争】 |
1911.6.17日、四川民間各団体により“四川保路同志会”が結成され、咨議局議長の蒲殿俊が会長に、副議長の羅綸が副会長に選出され、各種宣伝活動や北京への請願運動が実施された。8.5日、成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会が開催、8月24日、市民によりゼネストが貫徹された。9.1日、川漢鉄道会社の株主総会の指導のもとに「抗糧抗捐活動」が実施された。9.7日、四川都督の趙爾豊は保路同志会の指導者を拘束、鉄道会社と同志会を押さえ込みを行った。この措置に激昂した民衆は総督衙門で請願行動を起こすと、趙爾豊は清兵に発砲を命令、請願行動中の市民30名が射殺される成都血案が発生した。9.8日、成都近郊の農民は同盟会及び会党組織である哥老會の指導の下に保路同志軍を組織して武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦が行われると、付近の住民も参加し、数日の内に20数万の規模となった。四川は内乱状態に陥った。9.25日、同盟会会員・呉玉章、王天傑等は栄県の独立を指導している。清朝は民衆による武装蜂起と成都包囲を知ると端方に湖北新軍の一部を指揮させて四川での革命運動の鎮圧を命じた。内乱は鎮圧されたが、清朝の権威失墜は誰の目にも明らかとなった。 |
湖北新軍は張之洞による訓練された“鄂軍”であり、中級軍官以下多くの人材が官費で日本に留学していた影響もあり、革命党の影響力、特に共進会及び文学社の影響を強く受けていた。保路運動が民衆蜂起に変化した後、命令を受けた端方は湖北新軍を率いて四川鎮圧に向かったが、それにより武漢の清朝勢力が弱まったことを好機と捉えた革命党人士は革命蜂起の絶好の機会と捉えた。 |
【革命同盟会中部総会を設立】 |
1911.7月、同盟会の分裂騒ぎの後、宋教仁らの湖南派は、華南辺境の両広革命に固執する孫文に対抗して、長江革命を主張し、孫文と一線を画して革命同盟会中部総会を設立した。 |
1911.9.24日、文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義総指揮部)を組織、文学者の蒋翊武が総指揮に、共進会の孫武が参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理に選出された。起義総指揮部は武昌小朝街85号文学社機関に、準備局は漢口ロシア租界宝善里14号に設置された。 10.9日(旧暦8月15日)に向けての武装蜂起が確認された。ところが計画が事前に露見し、指導部は逃走したり処刑されたりした。10.16日、準備不足により延期された。 |
10.9日、孫武はロシア租界で爆弾を製造している際に爆発事故が発生、孫武が負傷、ロシア当局の調査を逃れるために逃亡したが、武装蜂起の文書や旗などが押収され、秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。湖広総督瑞澄がこの事件の発生を知るや全市に警戒命令を発し、革命党関係者の逮捕に当った。文学社の蒋翊武は清朝当局の動きを知り、予定を早めて武装蜂起を決定、各方面に文書を送付した。9日夜、彭楚藩、劉復基が起義総指揮部で逮捕、楊宏勝が弾薬輸送中に逮捕され、10月10日深夜に3名は斬首されている。 |
新軍工程営後隊正目(班長に相当)の熊秉坤等は予定を早めて蜂起することを決定、隊官の呉兆麟を決起軍臨時総指揮、熊秉坤を参謀長とすることを決定した。 |
(私論.私見)