ドクター嵯峨の近代中国人物余話
その22:宋教仁(1882~1913)
宋教仁は清末民国初の革命家であり政治家としてあまりにも有名な人物である。ここで「あまりにも」と書いたのは、彼がその志を遂げることなく、袁世凱の放った刺客によって暗殺された悲運の政治家であるからである。
宋教仁は湖南省桃源県の人。生家は地主で、一族から多くの秀才を出した書香の家柄であったという。彼自身、1900年に秀才となったが、この後は科挙を受験することはなく、排満革命運動の道に入っていくことになる。そして、1904年には日本に亡命するのであるが、革命運動に携わる一方で、この間彼は陽明学にかなりのめり込んだと言われている。ある研究者の記すところでは、宋教仁が陽明学に最も共感を覚えた点は主観唯心主義的宇宙観であったというが、清末の革命家の中には彼と同様に、革命に向けての戦闘精神を養うべく陽明学を評価する動きが見られたところである(劉師培にもそうした傾向は見られる)。してみれば、彼はかなりの伝統的素養を持った革命家であったと言えるのかもしれず、或いは北一輝が孫文を「西洋かぶれ」と批判しつつ、宋教仁を高く評価した理由もそこにあったと考えられるのだが、思想問題を云々するとややこしくなるので此処では深入りを避けておくことにする。
さて、宋教仁という人物は何かにつけて孫文との相違が言われる人物である。先ず革命の方策が全く異なっていた。孫文が広東一体を拠点とする辺境革命論を主張したのに対して、宋教仁が考えるものは長江革命論とも言うべきもので、革命派が活躍する長江以南にあって、同時に天下統一に必要な北京との対峙に耐えうる要所は武昌しかないと見なしていた。そして、それ以上に違っていたのは革命後の政治体制のビジョンであった。簡単に言ってしまえば、国会を重視すべきかそれとも政府を重視すべきかの違いにあった。もともと孫文は政府が議会によって牽制されるのを嫌い、そのような状態を「議会専制」として批判していた。孫文の場合には、行政府に巨大な権限を付与すべきであるという傾向が強い。そして、憲法発布と国会の開設に至るまでには、革命的独裁政治が必要であると考えていた。他方、宋教仁の考えでは、行政府に巨大な権限を与えれば、行政府が腐敗した場合に多大な危険があるとされ、国会にこそ優先権が与えられるべきであったのである。
良く知られていることだが、1911年の辛亥革命の勝利は言わばドサクサ紛れの僥倖と言うべきものであった。しかし、清朝皇帝の退位との引き換えに、政治の実権は袁世凱の手に渡り、その後は如何に彼をコントロールしていくかが革命派の課題となった。そこでは孫文の考えるような国家建設の方策が通用する余地はなかった。議会に権力を与えて行政=袁世凱を抑制する必要が生じたことは、理の当然であったと言うべきである。そこで、宋教仁は議会政治の実現に向けて活動を開始することになる。先ず、かつての革命派を中心として国民党を結成し、総選挙で第一党となった。これに対し、革命的独裁の必要性を唱えていた孫文は、こうした動きに反対はしないものの、積極的に関わることもしなかった。そうした中で、1913年3月20日、宋教仁は上海で刺客に襲われ、その二日後に死亡するという事件が起きた。その時、孫文は日本に滞在中であった。報せを聞いて急遽帰国したものの、彼は袁世凱に対決する姿勢を即座に示すことはなかった。恐らく情報不足もあり、また成立間もない共和体制を無用な混乱に陥らせることを避けようとしたものとも考えられる。だが、この事件が革命家・孫文の指導権回復の好機となったことは疑いないだろう。しかし、それは中国における議会政治の道を失わせるものでもあった。宋教仁の理想は束の間の夢に終わったのである。
上海にある宋教仁の墓には、彼の筆名である漁父と記されている。これを揮毫したのは清末の革命思想家・章炳麟である。彼は清末の革命運動を行なっている頃、宋教仁と共に孫文批判の先頭に立った人物である。