補足・北一輝の孫文論、宋教仁論考



 ここで、北の孫文評を確認しておく。



ドクター嵯峨の近代中国人物余話

 その22:宋教仁(1882~1913)

 宋教仁は清末民国初の革命家であり政治家としてあまりにも有名な人物である。ここで「あまりにも」と書いたのは、彼がその志を遂げることなく、袁世凱の放った刺客によって暗殺された悲運の政治家であるからである。

 宋教仁は湖南省桃源県の人。生家は地主で、一族から多くの秀才を出した書香の家柄であったという。彼自身、1900年に秀才となったが、この後は科挙を受験することはなく、排満革命運動の道に入っていくことになる。そして、1904年には日本に亡命するのであるが、革命運動に携わる一方で、この間彼は陽明学にかなりのめり込んだと言われている。ある研究者の記すところでは、宋教仁が陽明学に最も共感を覚えた点は主観唯心主義的宇宙観であったというが、清末の革命家の中には彼と同様に、革命に向けての戦闘精神を養うべく陽明学を評価する動きが見られたところである(劉師培にもそうした傾向は見られる)。してみれば、彼はかなりの伝統的素養を持った革命家であったと言えるのかもしれず、或いは北一輝が孫文を「西洋かぶれ」と批判しつつ、宋教仁を高く評価した理由もそこにあったと考えられるのだが、思想問題を云々するとややこしくなるので此処では深入りを避けておくことにする。

 さて、宋教仁という人物は何かにつけて孫文との相違が言われる人物である。先ず革命の方策が全く異なっていた。孫文が広東一体を拠点とする辺境革命論を主張したのに対して、宋教仁が考えるものは長江革命論とも言うべきもので、革命派が活躍する長江以南にあって、同時に天下統一に必要な北京との対峙に耐えうる要所は武昌しかないと見なしていた。そして、それ以上に違っていたのは革命後の政治体制のビジョンであった。簡単に言ってしまえば、国会を重視すべきかそれとも政府を重視すべきかの違いにあった。もともと孫文は政府が議会によって牽制されるのを嫌い、そのような状態を「議会専制」として批判していた。孫文の場合には、行政府に巨大な権限を付与すべきであるという傾向が強い。そして、憲法発布と国会の開設に至るまでには、革命的独裁政治が必要であると考えていた。他方、宋教仁の考えでは、行政府に巨大な権限を与えれば、行政府が腐敗した場合に多大な危険があるとされ、国会にこそ優先権が与えられるべきであったのである。

 良く知られていることだが、1911年の辛亥革命の勝利は言わばドサクサ紛れの僥倖と言うべきものであった。しかし、清朝皇帝の退位との引き換えに、政治の実権は袁世凱の手に渡り、その後は如何に彼をコントロールしていくかが革命派の課題となった。そこでは孫文の考えるような国家建設の方策が通用する余地はなかった。議会に権力を与えて行政=袁世凱を抑制する必要が生じたことは、理の当然であったと言うべきである。そこで、宋教仁は議会政治の実現に向けて活動を開始することになる。先ず、かつての革命派を中心として国民党を結成し、総選挙で第一党となった。これに対し、革命的独裁の必要性を唱えていた孫文は、こうした動きに反対はしないものの、積極的に関わることもしなかった。そうした中で、1913年3月20日、宋教仁は上海で刺客に襲われ、その二日後に死亡するという事件が起きた。その時、孫文は日本に滞在中であった。報せを聞いて急遽帰国したものの、彼は袁世凱に対決する姿勢を即座に示すことはなかった。恐らく情報不足もあり、また成立間もない共和体制を無用な混乱に陥らせることを避けようとしたものとも考えられる。だが、この事件が革命家・孫文の指導権回復の好機となったことは疑いないだろう。しかし、それは中国における議会政治の道を失わせるものでもあった。宋教仁の理想は束の間の夢に終わったのである。

 上海にある宋教仁の墓には、彼の筆名である漁父と記されている。これを揮毫したのは清末の革命思想家・章炳麟である。彼は清末の革命運動を行なっている頃、宋教仁と共に孫文批判の先頭に立った人物である。


辛亥革命と北一輝、孫文〈古賀 暹〉

〔study051:070418〕

 辛亥革命と北一輝、孫文〈古賀 暹〉

 〈こがのぼる:元『情況』編集長〉

 1、はじめに

 孫文は中国革命の民主主義的指導者で、北一輝は日本軍部と結びついていたファッシストというイメージが一般化していますが、このイメージに疑問を呈するというのがここでの手始めです。というのは、北は、確かに、国家主義者(ナショナリスト)ですが、しかし、そのナショナリズムとは他国を侵略し、支配下に置こうとするものではなく、あくまでも、他国を一つの人格として認めそれとの関係を考えるという基本姿勢に立脚したものでした。

 こうした姿勢は『国体論および純正社会主義』以来のもので、他の社会主義者たちに反対して日露戦争開戦支持を打ち出したときから生まれたものです。

 ここで、内村鑑三と北一輝の関係が問題になります。内村は日清戦争に賛成しましたが、その結果をみて日露戦争には反対しました。これに対して北は、日清戦争の大義が正しければ、日露戦争の大義も正しいはずである、要は、その戦争の結果においてもその大義を貫けるか否かと問題を立てています。(ある意味では司馬遼太郎史観や「新しい教科書を守る会」などと同じような発想だともいえますが、北の場合は、そのことに自覚的であり、そのために全生涯を賭けてしまった点が決定的な違いです。彼らの場合は帝国主義容認論ですが、北の場合、帝国主義との闘争に転化するものです。)

 こうした大義の延長にある世界像はということになれば、カント的な国際連盟の建設と云うことになり、個人間の関係に類比させて言えば、他者の人格を尊重した上での人間関係の樹立ということが目標になります。攘夷論は未だ近代的人格を身に着けていない人々の利己主義、排外主義として退けられるわけです。

 2、北一輝はなぜ中国革命に参加することになったか

 思想的な側面から見れば、上に記したように日露戦争の大義を貫くためです。「吾人は日本国の貴族的蛮風の自由がさらに進化して文明の民主的自由となりて支那、朝鮮の自由を蹂躙しつつあるを断々として止めしめざるべからず。社会民主主義の非戦論は実に今後の努力に存するなり」。これが、北一輝の根本発想です。こうした発想を持っている北が中国同盟会に参加したのは、単なる偶然ではないでしょう。

 3、アジア革命の焦点としての中国革命と日本

自由民権運動の残党に宮崎滔天という人物がいます。彼は兄弥蔵の影響を受けて、「累卵の危うきにある清国で真の共和制(自由民権)革命を実現し、ここを拠点にアジアの、日本のそして世界の革命を達成する」(近藤秀樹)という戦略を立てていたそうです。この宮崎滔天は朝鮮の革命家金玉均(明治27年暗殺)と知り合います。金玉均もまた、「アジアの問題は、シナの興亡によって定まる、朝鮮畢竟なにするものぞ、じゃ。あれはただの踏み台じゃ、僕は少なくとも朝鮮という小問題を閑却しておる」と滔天に語ったとのことです。こうしたことを紹介するのは、少なくとも日本や朝鮮にはアジア革命の中心環が中国にあるという認識があったということです。

 さらに、驚くべきことは日清戦争(明治27年)以降続いていた清国からの留学生が日露戦争(明治37年)後には急増し、2-3万に達したということです(チャンちゃん坊主、富士山帽などの差別用語が流行)。そのうち士官学校卒業者だけでも一千名を越えています(こうした留学生が中国革命の活動家になります)。こうした情勢を背景にして日本で成立したのが、中国同盟会です。

 4、中国同盟会の成立と北の加入

 中国同盟会は宮崎滔天の仲介により、興中会(孫文)、華興会(黄興)、光復会(章大炎)の三団体が統一することで成立しました(明治38年8月)。この大合同の結成大会に先立つ八月十三日に東京の飯田町で「孫文歓迎大会」が開かれましたが、なんとこの集会に参加したのは千人を超す中国人留学生であったということです。また、同盟会の結成大会には三百人あまりが参加し、孫文と黄興をそれぞれ総理、副総理とし、張継、章大炎、陳天華、宋教仁らを中心とする役員が決められました。

 宮崎滔天の革命評論社経由で北一輝が中国同盟会に加入したのは明治三十九年のことです。結成後一年後に神田錦輝館で開かれた「民報」一周年記念大会で北は演説していますが、この大会には、五千とも一万とも言われる留学生が集まりました。

 5、同盟会の内部対立と中部同盟会の結成

 対立の直接的契機は、国旗問題ならびに明治40年の孫文の日本からの退去に際する政府からの選別金問題でした。しかし、対立の潜在的要素には路線問題がありました。列挙してみます。

 (1)アメリカの独立戦争型の外国からの援助期待(孫文)か、自力更生の武装蜂起か。

 数次にわたる孫文主導の武装蜂起失敗に関する同盟内からの批判。「只彼等が支那人にして運動が革命なりしが為めに、米人の行きし所と方向を異にして断崖絶壁の革命道を蹌踉として歩みたりき。即ち反逆の剣を統治者其人の腰間より盗まんとする軍隊との聯絡これなり。―革命さるべき同一なる原因の存在は革命過程において同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者以て乗ずべき所。彼等は全党の心血を茲に傾注したり。」(第四章)

 (2)各州の独立か、中央権力闘争か。

 孫文の革命構想の中心は、広東省の独立計画が中心でしたが、他の二派(華興会、光復会)は長江流域の革命を先行させようと考えていたようです。これはそれぞれの会の根拠地の相違によるものでもありますが、明朝の復活を考える傾向と新しいアメリカ型国家を考える対立も含まれていたでしょう。

 追記 (2)の論点は、後に、フランス型大統領制かアメリカ型大統領制かという宋教仁と孫文の対立、さらには北の東洋的共和制論となっていきますし、また(1)の論点は革命後の経済的復興問題における外国からの援助問題、借款問題をめぐる論争ともなります。

 6、中部同盟会の結成と譚人鳳

 宋教仁は秘密結社の大物である譚人鳳を中心として中部同盟会を結成し、武昌における武装蜂起を成功させます。この蜂起は粤(エツ)漢鉄道を担保にして英米独仏の四国から借款を受けようとした清朝に対して起こったものです(アメリカにいた孫文はこの蜂起には全く関係がありません)。もちろん事前の準備は周到でした。

 「革命さるべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位在る者は悉く飽食暖衣の徒にして冒険の気概なきは固よりなり。特に己に斯る栄位を得たるは戦功学識にあらずして一に請託贈賄の賜なるが故に、其の関係上直ちに反復密告の出づべきは推想し得べし。彼等は又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働ける手と兵士を招く手とを互いに相聞知せざらしむることを規定したり。斯る複雑煩累なる手段を重ねずしては陰謀を保つ能はざるほどに道念の頽廃し、国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。(第5章)

 7、革命後の政権構想と孫文の帰国

 宋教仁が武装蜂起(明治44年、1911)を組織した主役でしたが、まだ若く、総理ならよいが、大総統は無理だと自他共に考えられていました。本来ならば、黄興もしくは譚人鳳が適任だったようですが、黄興は漢口の戦争の指揮をとり敗北したこと、譚人鳳は武昌蜂起に遅れてしまったことを、それぞれ恥じて大総統に就任することを固辞しました。

 そこで持ち上がったのが、武昌蜂起以前に清朝の武昌軍副司令官であった黎元洪という人物です。この黎は蜂起軍に拳銃をつきつけられて清朝から寝返った人間ですが、武昌の軍権を握っていた関係もあって、彼を大元帥に、副元帥に黄興ということに一旦はまとまります。

 しかしながら、こうした事態とほぼ同時に進行するのが、袁世凱ならびにイギリスによる南北和解、統一の動きです。黎元洪のような旧支配者層を抱えこんで、膨れ上がった革命派の内部から動揺がこれをめぐって広がりました。

 そうした時、蜂起後三ヶ月を経て、漸く、帰国したのが孫文です。当初、香港に立ち寄った際に、上海に上陸したら命さえ革命派によって狙われるのではないかと云われるほどでしたが、それを逆転させ、一躍、英雄に祭り上げてしまったのが、日本の大陸浪人たちです。当時、上海に頭山満、宮崎滔天、犬養毅を先頭に相当の数の大陸浪人団が行っており、彼らが孫文を大歓迎しました。日本人から支持されている孫文というイメージがこれでできあがり、さらに、彼は英米においても中国革命の指導者と目されていたわけで、それが国内にも流布され、国際的に通用する指導者とされるにいたりました。こうした事情で、袁世凱に対抗できる指導者として、孫文が南京政府の大総統につくことになりました(大正元年、1912)。

 8、孫文の失脚と南北和解

 孫文政権を南北和解に向けて余儀なくさせたのは漢冶萍問題です。漢冶萍とは中国湖北にある大鉱山、炭鉱ならびに製鉄所がある地帯のことで、後の二十一ヵ条の要求においても問題となる地域ですが、三井がこの鉱山に対する権利と引き換えに南京政府に対して借款を与えるという提案をし、孫文がそれに応じようとしたということです。これは、鉄道借款に反対して立ち上がった革命派への裏切りみたいなものです。孫文は批判の嵐にさらされ、袁世凱に、清朝の打倒と引き換えに政権を渡さざるを得なくなりました。(日本の大陸団はこのとき南北和平反対を唱えますが、革命派には相手にされず、頭山、犬養は悄然と帰国しています。これらの黒龍会首脳のことを北は愚人島興行団と書いています。)

 9、帝国主義列強と日本帝国主義

 いわゆる黒龍会系の大陸浪人を十把一絡げにして、日本帝国主義の尖兵として扱うのは間違いですし、彼らは統一的に行動したのでもなく、各自が勝手に動いていました。宮崎滔天などは、純粋な孫文支持派ですが、川島浪速などは満蒙の獲得派、内田良平などもそれに近い立場に回ります。また、清朝復辟派を応援する佃信夫もいました。さらには、軍部や外務省、大陸浪人の一部には、南北対立を煽り、満蒙を始めとして中国分割を進めようという動きさえがみられます。

 日本政府は、基本的には、日英同盟、日露協約(ロシアは外モンゴルを独立させ、自己の支配権を広げる)を重視し、列強と歩調をあわせるという路線です。民本主義者の吉野作造などもこの路線で中国の近代化は歓迎するが、日本の既得権は守るべきだという路線です。

 北の路線はどうかというと、中国の民族主義的愛国運動の徹底化をおしすめ、それの障害になっている日英同盟、日露協約を破棄しろというものです。

 10、南北統一に対する北の評価

 「北京が首府たるべく決せられしは袁が推挙せられざりし以前の輿論なりき。ああ北京。彼等が涙を呑みて敵将の占拠する北京に走らざるを得ざるに至らしめし所以の者は抑々誰の責めぞ。日本なり。亜細亜の自覚史に東天の曙光たるべき天啓的使命を忘れて英国の走狗たりしのみならず、更に露西亜の従卒たらんとしたる日本なり。」

 11、総選挙における国民党の勝利と宋教仁の暗殺

 袁世凱政権に宋教仁も加わり、国民党を組織し(理事長孫文、理事長代理宋教仁)、実質的に選挙戦の指揮を取りました。その結果、宋が選挙後の正式大総統ならびに憲法を決定できる有力な立場に立つのですが、上海にて暗殺されます。

 暗殺者はだれか。直後に逮捕されたのは応桂馨という人物と武士英という人物で、応が指示し、武が実行したと断定されました。そして、応の背後には袁世凱がいるとされ、袁世凱打倒を主張した孫文らの手によって第二革命が引き起こされます。(このとき六国借款問題も持ち上がっておりますが、アメリカのウイルソンが降りたため五国借款となりましたが)。日本の浪人団は第二革命賛成。ところが日本政府は袁世凱に借款を与えこれが事実上、袁世凱の軍資金となります。これに対して、北は、第二革命に反対し、陳基美主犯、袁世凱、孫文の従犯説を執拗に唱え、中国から日本領事館の命令による退去処分を受け帰国します。

 北の第二革命反対論の根拠は、中国のナショナリズムは、日露英などの列強と戦っても敗北するということを自覚しているということです。

 12、自力更生路線による財政再建の道

 北は、中国社会をアジア的中央集権的な専制国家であったとしますが、その理由を大平原地帯という地理的な問題に求めています。中央の王朝が代官を地方に派遣し統治するというシステムで、ヨーロッパや日本のように山岳で各地域が分かれていないため、封建制は行われず、王朝の腐敗のたびに代朝革命がなされる、いわゆるアジア的停滞が続いたというのが北の見解です。

 したがって、中国社会を近代化するためには、この「代官階級」を打倒し、収奪者から収奪するという社会の平等化、コンクリート化が必要だといいます。そして外債によらない財源をこの収奪によって確保せよと主張しています。しかしながら、そういった方針は外国と結びついた代官階級(たとえば、袁世凱)の抵抗を引き起こし、フランス革命のように泥沼化する惧れがありますから、日本は中国革命に対する外国の干渉を排除するよう動かなければならないのだというのが北の主張です。ところが、関東軍の筒先は、北のロシア(日露協約)に向けられず、中国に向けられているといって日本を批判しています。日露戦争の際の大義をなぜ実行しないのだ、大義を守らない日本は没落するというのが、北の主張の原点です。

 13、東洋的共和制論

 中国の政治体制については、フランス型の大統領制をさらに北的に変形させたもので、終身大統領制が理想とされます。なぜかというと自立的な移民たちによって建国されたアメリカと異なり、中国においては他者の自由を尊重するという風土がないということが主要な論点です。そうしたところに形式的な民主主義を孫文が目指すように直輸入すれば、必ず、多数派による少数派の抑圧と弾圧を引き起こし、かえって自由がなくなるとしています。そうした事態を避けるために、名望と権威と確たる信念を持つ人間を大総統に据えた責任内閣制が望ましいというのです。

 辛亥革命と北一輝、孫文 (引用資料集)

 川島浪速も第一次蒙古独立運動

 「満蒙が独立すれば彼等は必ず支那本土と対抗しなければなるぬことは、必然の数であるが、支那本土との対抗が激化すればするだけ満蒙は益々日本に頼らなければならぬ結果となるから、この勢いを利要すれば数年ならずして日本の実力は内蒙古方面に於いて確固抜くべからざるものとなる」(324、「東亜先覚志士記伝」黒龍会)

 「革命勃発に際し同文会系の小川秋作が揚子江を境にして支那を南北に両分し、日本は南北共に助けるという意見を立て、之を陸軍首脳部に建策した。これは川島浪速が逸早く実行せんとした計画とほぼ同じものであるが、陸軍では一つの参考案として相当考慮に上していたらしく、就中宇都宮(参謀本部第二部長)之に共鳴していたものと見える。」(325、同上)

 吉野作造 21か条(大正4年)の要求に関連して

 「根本の政策は支那の保全を図り、支那の賢全なる自主独立も発達を援くる荷あるのだけれども、尚他の一方に於ては各国の競争に促されて勢力範囲拡張競争の仲間に這入るといふ実際上の必要が吾吾に迫っていることを認めねばならなぬ。」「独り我が指を加へて傍観していることは出来ないのは当然である。」(247、『日支交渉論』)

 北一輝

 一、中国社会論と革命後の財政

 1)中国における中世

 「同一なる時代的要求は同一なる時代的制度を生む。仏蘭西の貴族日本の諸侯を対比せば外見上甚だ異なる如く然りと雖も、其の制令する地域の人民に対する権能に於ては生殺与奪の絶対的自由を有し、軍事財政司法一切の専権を行使すること全く中世的統治者なり。」(254)

 2)君主と代官

 「支那においては最高の主権者の権力強大なりしが為めに、官僚は人民に対して中世的統治者なるに係らず皇帝に対しては単純なる代官なりき。即ち支那にいては地理的区画なきが為めに封建的統治を必要とせる封建期に於て早く已に強大なる君権の確立せるあり。為めに必要に応ずべく封建的統治者を君権の代官として分遣したるものなりき。」

 「代官は権利を与えられて義務なし。借用者は所有者に比して器物の取扱ひに不親切なり。・・支那の代官的官僚が誅求暴虐なさざるなりしは当然なりとす。

 3)代朝革命

 「代朝革命して新たなる主権者が全支那の領主として立てる当初に於ては封建的統治の為めに分遣せらるる代官等は君主の聡明威力に対する義務の恐怖あるが故に、其の統治する封建的区画内の人民に対して誅求暴虐を加ふる能はず。・・・・皇威漸く弛み君主の暗愚なる者相継ぐに至るや、則ち義務を負はざる代官等の生殺与奪を恣にせし『実質上の封建政治』を以て一貫したりと考へざりしを得ず。代朝革命とは君主政治が代官政治に堕落すると共に新たなる君主政治を再建せんとする国民的運動なり。」

 4)排満革命と代官階級の一層

 「排満革命は爆発の宣言を異人種の支配を排除することに求めたるものに過ぎず。革命本来の要求は此の中世的代官政治に対する打破なり。・・・・『十月十日』の民主的革命に到達したる所以の者亦実に此国家と国民を経済的物件として取扱へる中世的代官政治の根本的一掃を要するが為なりとす。・・・・袁や実に代官階級の代表者。岑然り、段然り・・・今の各省都督各州縉紳悉く然り。」

 5)代官階級からの没収

 「勇敢なる掠奪、大胆なる徴発、一歩の仮借なき没収、斯くの如くにして一切の政治的腐敗財政的紊乱を発酵する罪悪の巣窟は転覆せられ茲に始めて新政治組織新財政制度を建設すべき基礎を得べし。・・・・強固なる大建築は完全にコンクリートされたる基礎を得べし。」

 「真理をして譚人鳳に裏書せしめよ。代官政治を転覆したる国民的革命は数百年間蓄積せる代官階級の盗財を国家に回収すべきものなりとす。」

 二、東洋的共和制

 1)アメリカと中国との相違点

 「北米の建国は君国を捨つるも自由に背く能はずとなし、信仰の自由のために君国に容れられずして移住せるものの子孫。自由の郷は米人の国民的誇りにして清教徒の血液は移住者の多きに従ひて濁れりとも自由は彼の歴史を一貫せる国民的精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳、即ち親に服し君に従ふ忠孝を以て家を斎へ国を治め来れる者、被統治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活する国民なり。彼の建国は一粒選の自由移民にして此れの歴史は数千年間鞭打の奴隷なり。」(12)

 「(米国の)大統領が親ら責任を負ひて反対党の監督の下に政治を為すは反対の自由監督の自由を尊重する国民精神の自由あるが故なり。自由に覚醒せざる、又は覚醒せんとして尚専制の歴史的惰力に捉はるる国に於ては、決して米国の如き制度に拠りて自由を擁護し得べきものにあらず。則ち米国の如き両党対立政治が斯る国に採用さるる場合は、反対の自由、監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代はるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由を蹂躙せずんば止まざる一政党の専制政治となりて、在野党は『叛徒』を意味すべし。」

 「彼の(アメリカの)聯邦制は独立せる意志を以て集まれる移住民の独立的小邦国が、他の征服又は併合によらず、英国に対する攻守同盟の為めに聯合せる国際的提携を永久にしたるもなり。・・・・「中華民国臨時憲法」なる者は中央集権的統一を根本義とする者にして聊かも米国の如き分権的悪臭に毒せられざる者なり。」

 「外国の援助とは則ち明白なる干渉なり」

 2)革命的独裁論

 フランス革命における王党派の勢力が議会において多数を占めていた中でのナポレオンのクーデターを例に挙げつつ、武力独裁の必要性を次のように訴えている。

 「投票則神聖論の共和主義者に従えば斯る場合反動者の自由を尊重して封建貴族を再建し、現在及び将来の自由政治を破壊せざるべからざる論理的自殺に陥るべし。一人の専制の君主亦必ずしも自由主義と両立せざるものにあらず。・・・・・・国民に自由の覚醒完かざる間、革命の或る期間に於て反動的勢力が必ず議会と与論に拠りて復活を死力的に抗争すべしとの事実は-大総統に弥陀の利剣を与えよ」(325-6)

 「支那の共和制が其の大総統を白人の如き選挙運動と議員の投票に求めずして天命と民意の上に立たしむることは、不肖是を彼と区別せんが為めに『東洋的共和制』と名けざるを得ず。『東洋的君主制』は二千五百年の信仰を統一して国民の自由を擁護扶植せし明治大皇帝あり。『東洋的共和制』とは神前に戈を列ねて集まれる諸汗より選挙されし窩濶壹汗が明白な終身大統領たりし如く、天の命を享けし元首に統治せらるる共和政体なりとす。・・・実に成吉思汗と云ひ、窩濶壹汗と云ひ、忽必烈汗と云ひ、君位を世襲継承せし君主に非ずして「クリルタイ」と名くる大会議よりて選挙されしシーザーなり。」

 「固より大総統は革命の元勲等によりて補佐せらるべし。而も彼等は投票の覚醒なき国民の法理的無効なる投票によりて議会に来る者に非ず。旧権力階級を打破せる勲功と力によりて自身が自身を選出すべきもの。断じて世の人民の選挙に非ず。即ち適切に言へば、彼らは新国家の新統治階級を組織すべき『上院』の人なり。真に国民の自由意志を代表する『下院』は、下院を組織すべき国民を隠蔽せる今の中世的階級を一掃したる後ならざるべからず。」(324)

 三、日本帝国主義と日中関係

 1)南満州問題

 「南満州は露西亜より奪ひたるものにして已に清国の領有にあらざりしなり。・・・・従て不肖は日露戦争により露西亜より奪へる南満州を以て日本の正義を疑ふものにあらず。只正義の発動は一張し一弛す。日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる国家的正義は南満州を占拠すると共に崩然として跡なく、支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして全く北満州に拠れる其れと相い携へて支那を脅かさんとする満州に一変せり。」(212)

 2)南満州問題と中国人

 「彼等(中国人)は南満州の還付を期待する程に自恣自らを量らざるものにあらず。彼等は保全主義者の城郭に据えられたる砲門が当然に北方の侵略に向けられるべきを期待したるに係らず。却って反対に己に向かて開かるる不信不義に怒らざることを得ず。」(214)

 「日露戦争と日露協約と、是を支那の側に立ちて看るに殆ど天使変じて悪魔となれるものの如し、ああ諸公。排満革命の声に応じて各省独立あり。各省独立の名に隠れて蒙古独立あり。蒙古独立の背後に露西亜あり。而して日露協約ありき。」

 3)ロシア問題

 「不肖は固く信ず。天の配剤によりて日本が満州を占拠したるが為に全支那は北露の分割より消極的に保全せられ、更に日本がバイカル湖以東黒龍沿海州の一帯に進出したる時始めて支那保全主義は根底より積極的に確立すべきものなりと。」

 4)中国南北分割論への対応(参謀本部の中国政策参照)

 「北に於て亡国階級を擁護しつつ終に恐くは兵力を以て、南に於ては革命政府を声援しつつ現に資本を以て、第二の朝鮮を支那に求めんとするとの猜疑恐怖は彼等の過度なる憂国的警戒に非ず。日本の道義的惰弱の外交が支那の信頼に背きし故なり。」(196)

 5)帝国主義への態度(吉野作造の中国政策参照)

 「欧州各国の経済的分割に習ひて日本亦紛紛たる割前の要求者たらんとする如き其の主義に違ひ任務に背く自殺的惰弱にして、歴史の批評に対して赤面するが如き足跡は堂々たる大国民の残さざる所なるべし。・・・不肖が揚子江流域に於ける英国の所謂優越権を否認せんと欲するは、彼及び列強の支那に加へつつある経済的侵略を保全主義の名に於て許容する能はざるが為めなり。之に換ふるに三井大倉の資本を『悪用』して国家の正義を覆へさんと考ふるものに非ず。」(191)

 6)譚人鳳と大隈重信

 「近時譚人鳳故国革命の為めに上京し事を以て不肖に怒りて曰く。足下速やかに是を大隈総理に伝へしめよ。わが国人日人の野心を恐れて常に回天の大業を中挫す。今日亦然らんとす。鄙人将に帰へりて国民に告ぐべし。日本強兵ありと雖も我が国の海岸線を封鎖し得るに過ぎず。鄙人一息すれば中国一日亡びず。此翁兵を引きて内地に退守進出すること数年、日本先ず財政破産を以て亡ぶべし。」

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study051:070418〕
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亜細亜主義と北一輝~21世紀の亜細亜主義

 投稿者:miyadai
 投稿日時:2004-01-31 - 11:26:10
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◆グローバリゼーションとアメリカナイゼーション
 私が「亜細亜主義」という言葉を書き綴るようになったは、一九九九年の「WTOシアトル総会」がきっかけです。当時は「亜細亜主義」という言葉を大量に売れる刊行物の中に表立って書く事には勇気がいりました。ところが実際には拍子抜けで、何の反発もありませんでした。「あ、みんなもう知らないんだ」ということがよく分かりました(笑)。
 今年(二〇〇三年)私は朝日新聞に、憲法改正についての論説と、亜細亜主義についての論説を載せました。両方ともデスクが突っ返してくることを期待したんですが、これまた何の抵抗もなくスルーしたんで、「ありゃ、ありゃ」という感じです。「民度が上がった」ので受け入れられるようになった──なんてことは、ありえないでしょう(笑)。
 むしろ、何もかもが忘却の彼方にあるということなのです。とすれば、忘却の意味を理解するためにも、なぜ私が「WTO総会」の後に「亜細亜主義」の見直しを提案したのかをお話ししたい。それは追って話すとして、私の提案にアジアの留学生たちが反発してきたので、誤解を回避するべく「盟主なき亜細亜主義」という言い方をするようになりました。すると留学生の方々も、驚くほどすんなり納得してもらえるようになったのです。
 盟主なき云々の問題は、「亜細亜主義」の弱点とも密接に関ってきますので、後で触れるでありましょう。いつもそうですが、私は事前に何の準備もしてきてないので(笑)、皆さんの顔色を見ながら話の方向を変えていきます。ですから、話が嫌な方向になったときは、みなさん、嫌な顔をして下さいね(笑)。
 まず最低限の基礎知識から始めます。今日グロバリゼーションと言われるものと、帝国主義時代のグロバーリズムとは根本的に違います。そこから始めましょう。WTOへの反発を理解するためにも大切なことです。帝国主義的グローバリズムとは、簡単に言えば、軍事力を背景にした経済的覇権追求です。とりわけ九〇年代以降には、それまでの「国際化」(インターナショナリゼーション)という言葉に替わり、「地球化」(グローバリゼーション)っていう言葉が出てきました。
 その背景にあるものは何か。問題をグローバリズムには還元できません。グローバリゼーションっていうときに最も重要なのは、「自発性」──「服従者の自発性」──です。「服従者の自発性」という問題を北一輝も意識しているんですけれが、先の「WTO総会」につながる直接の概念的ルーツは、私の記憶の範囲で言うと、スーザン・ジョージ、あるいは師匠筋にあたるレイチェル・カーソンでしょう。
 分かりやすく言うと、こうなる。貧乏な南側の国がある。豊かになろうとする。そのために「近代化」しようとする。キーワードが出てきました。「近代化」。そのためには外貨を獲得しなければいけない。それゆえに換金作物に作付けを換える。すなわち一次産品を輸出して得た外貨で「近代化」する。抽象的にいうと流動性から収益をあげようとする。
 すると国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陥る。それに気付いて後戻りしようにも、土地には農薬がぶち込まれてスカスカ。マングローブは破壊され、森林は砂漠化している。つまり伝統的な自立経済圏を支えるインフラはズタズタ。だから永久に近代的システムに従属しつつ「構造的な貧困」に甘んじるしかない。ここにあるのは、軍事力を背景とした経済的覇権追求というより、「幸せになるために近代化しよう」いう「自発性」です。
 当初は一次産品だけが問題でした。今やWTOというスキームにまで関係しています。要は自由貿易を前提に、国際的な部品調達ネットワークから収益をあげる仕組みです。かつてNIESと言われた諸国も含めて、工業化を遂げようとすれば、国際的な部品調達ネットワークに組み込まれるしかない。流動性から外貨を獲得する以外にないので、WTOスキームに組み込まれるわけです。
 その結果、先進諸国、というより、アメリカ一国に対して従属的立場に陷ってしまう。これが「WTOシアトル総会」が、アンチ・グローバリゼーション=アンチ・アメリカニズムを起爆させた理由です。象徴的なのが、今や世界社会フォーラム(WSF)で活躍しているジョゼ・ボベのマクドナルド打ちこわしです。彼の行動についてはフランスの世論調査では六割の国民が「理解できる」としています。すごい民度だと思いませんか。もし私が日本でマクドナルドを打ちこわしたとしたら「気が狂った」で終わり(笑)。
 こうした欧州の民度には二つの背景があります。一つは、自立経済圏やそれに結びついたコミュニティー的なライフスタイルが現に存在して、「グローバリゼーションによって失われるものがある」という痛切な感覚を抱いているという事実です。グローバリゼーションによって破壊される伝統があるという感覚であるとも言える。日本には、維新以降の近代化や戦後復興の図式ゆえに、こうした感覚は昔も今も全くと言って言いほどありません。
 もう一つ、それにも関係しますが、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)からEU(欧州連合)にいたる思考伝統があります。第二次大戦後ひたすら流動性から収益をあげるようになったアメリカという国を睨んだ、欧州の相互扶助的な連合構想の伝統です。むろんアンチ近代ではありません。
 「近代化」は不可欠としつつも、やり方次第では「対米従属」してしまう。それは回避せねばならない。エネルギー安全保証、食糧安全保証、技術的安全保障──今日ではIT安全保障──、文化的安全保障などの観点から、ある種の「近代化」を回避し、別種の「近代化」を遂げねばならないとの発想が、長く抱かれてきています。
 それらの伝統が、アメリカン・グロバリゼーションを背景に、九〇年代の末に噴出したわけです。そのことをもって、まさに日本人たる者は、そこに「亜細亜主義」の本義を見なければいけないという思いを私は抱いたんですが、そう思った人が他にもいるはず──思ったところが、どうやらオッチョコチョイな私だけだったようであります(笑)。
 ところが最近、「亜細亜主義」関連のイベントが随所で開かれるようになりました。本日もまた然り。こういうイベントに私が呼ばれるようになったところを見ると、9・11からイラク攻撃に至るアメリカの行動ゆえに、皆さんがようやくヨーロッパに比べて数十年遅れで、「近代化」に対して単に「反近代」を掲げる「ノーテンキ左翼」を脱する機会がやってきたように感じて、感無量です(笑)。
 すなわち、「近代化」のやり方次第ではヒドイことになるがゆえに、「近代化」のやり方を熟考しなければならないだという発想が出てくるようになった。確かにアメリカの野蛮な行動は、世界にとって不幸なことではあります。しかし、転んでもただでは起きず。不幸は最大限利用しなくてはならない。そういう観点からすれば、我々は新たなるステージに立つに至った、という風に私は思いたいんです。まさしく願望。I hope。
 むろんどうなるかは分かりません。正直申し上げると、むしろ日本の民度はこれからどんどん下がるであろうというのが私の観測です。それは北一輝が、日本が新たなるステージに立ったと考えた『支那革命外史』から、国民の天皇が望んでおいでであるとの幻想を利用しようとする『日本改造法案大綱』に移行せざるを得なかった深いニヒリズムと、同種のものである可能性すらあります(笑)。
 事実は、私は昨年『絶望から出発しよう』という本を上梓いたしました。そのタイトルは、実は、北一輝の──私は別に法華経の信徒ではないんですが──法華経的な「絶望を背景とした現世極楽浄土主義」になぞらえたものであります。などと言うと、抹香臭いヤツだと思われるでしょうから、やはり今の話は取り消しましょう(笑)。まあちょっとはヒントになったかなというくらいにしておきましょうか。

 ◆亜細亜主義の本義と多様な方向性
 亜細亜主義をどう理解したらいいか。ここまでの話でご賢察の通りであります。「近代化」には幾つかの異なる方向性がありえます。その「オルタナティブな近代」を構想する思想が「亜細亜主義」であったというのが私の理解です。その理解によれば、亜細亜主義の本義なるものは恐らく三つあると思います。
 第一に、日本は徹底的に「近代化」せねば欧米列強に屠られるより他ない。よって「近代化」を徹底すべし。第二に、しかし「単純欧化主義」を頼るのみでは、──先のスーザン・ジョージ思想の嚆矢と言える発想ですが──欧米に従属的たらざるをえなくなるばかりか、──岡倉天心に発し且つ三島由紀夫の文化防衛論にも通じる発想ですが──日本は「入れ替え可能な場所」になってしまう。ゆえに「単純欧化主義」たらざるべし。言い換えれば、近代化にもかかわらず護持すべきパトリがある、とする発想です。
 ちなみにこのパトリたるや、岡倉天心のようにインドから西南アジアまで含むような構想もあれば、北一輝や宮崎滔天のように中国革命と日本革命を重ねる立場、中国を除いた極東アジアの連合を構想する立場、日本一国を構想する立場、藩レベルの範囲を志向する立場など、範囲は論者によって防縮自在であることに注意する必要があります。亜細亜主義という場合、パトリを一国範囲よりも広く取るというだけの話であります
 そして、亜細亜主義の本義の第三は、日本一国より大きく取られた範域で、欧米列強に屠られざるべく、あるいは「近代化」の一定のやり方から来る害悪を取り除くべく、軍事・経済・文化的なブロック化を志向するべし、というものです。私の書物にあるような現代的言い方では、国家を超える範囲にも国家より小さな範囲にも通底する「マルチレイヤー化した異主体システム」ということになるでありましょう。
 金融・財政レイヤーは最大の行政単位、軍事・外交レイヤーはそれより小さな単位、エネルギー供給や食料供給レイヤーはもっと小さな単位、ゴミ処理レイヤーはさらに小さな単位、教育・文化レイヤーは最小単位という具合。要は、過剰な流動性を遮断して、多様性を護持するということです。近代に特有の流動性によって均一に塗り込められてしまわないうにしようというわけですね。
 ご存じの通り、近代は流動性と多様性を共に上昇させてきました。すなわち流動性から収益をあげるべく、外国人労働者の流入や、帝国化──帝国主義化ではありません──に見るように、域内多様性を深化させて来ました。ところが、近代が一定の成熟度に達すると、流動性と多様性を共に上昇させることが困難になる。結果、流動性からの収奪を優先させるべく、ノイジーな多様性を粉砕しようという志向が強くなります。それが先進各国で80年代に生じたネオリベ化であり、それに引き続くネオコンの変質──多様性優位から流動性優位への──で、今日のアメリカン・グローバリゼーションにつながる。
 つまり、亜細亜主義を嚆矢として今日のEUにも見出されるオルタナティブな近代化構想とは、一口で言えば、「流動性から多様性を護持する」あるいは「収益よりも共生を重視する」ものだと言えます。亜細亜主義というと、大陸侵略正当化思想という具合に思い込まれて、今ではいかにも聞こえが悪い。実際、そのように機能した歴史的事実もあろう。しかし、西郷隆盛に発する亜細亜主義の本義は、まさしく「流動性から多様性を護持」し、「収益よりも共生を重視」する、オルタナティブな近代構想にあると言えるのです。
 政治思想史に詳しい向きは、七〇年代のアメリカでなされたリベラル対コミュニタリアンの論争以降の論争史を想起するべきです。当初リベラリズムは多様性を無視して流動性に加担する思想だとしてコミュニタリアニズムの側から攻撃されていました。もちんろ今では馬鹿を除いては両者が対立する思想だと思う者はいません。自由を利用して流動性ではなく多様性を選択する。自由を利用して収益価値ではなく共生価値を志向する。まさしくオルタナティブな近代と称しうる所以です。
 こうした発想は社会学に馴染みやすい。なぜなら社会学には「あらゆるものには前提がある」とする思考伝統があるからです。「自由には、自由にならない前提がある」。かかる思考はヒュームの黙契思想に遡りますが、社会学ではデュルケームの「契約の前契約的前提」という概念に結実します。他方マンハイムの言うように、近代社会ではもはや伝統主義は「反省された伝統主義」──再帰的伝統主義──である他ない。伝統主義と言っても、伝統とされるものをあえて選択するという近代的な人為の営みがあるに過ぎない。
 これを総じて、自由の護持には共同体的な前提が必要であり、共同体の護持には自由の護持が必要である、との循環が見出されます。自由と共同体は互いに前提を供給し合う関係にあるとするのが、前提を遡る使命を自らに課す社会学の見解であります。社会学では、これを「自由と秩序の問題」として議論して来ました。馬鹿は、自由が増えると秩序が減り、秩序が増えると自由が減ると見倣す「自由と秩序のゼロサム理論」をとります。これが全くの出鱈目であることは拙著『自由な新世紀・不自由なあなた』に詳述しました。
 素人に分かりやすく言うと、「君が代斉唱」を強いる自称ナショナリストたちの振舞いがあるとする。しかしそれはいかにも脆弱な「ナショナリズムもどき」です。むしろ先生が「お前たち、無理に歌わなくても良いのだぞ」と呼びかけても、子供たちが「先生、私たちは歌います」とすっくと立ち上がるときにこそ(笑)、つまり自由なのにコミットメントするときにこそ、ナショナリズムは強固な実質を持つことになるのです。
 この発想は、もちろん若き北一輝の『国体論、及び純正社会主義』に見出されるものです。ことほどさように、九〇年代に爆発したグロバリゼーションの中で、元来は別々のルーツや系譜を持つはずの、まったく別の時代、別の地域の、思想の流れや行動原理の流れが、皆さんの頭の中では接続可能になってきた──少なくとも私の頭の中では接続可能になってきた──わけです。だからこそ、今や亜細亜主義が見直されるべきであり、北一輝が見直されるべきなのであります。
 近代には、多様性よりも流動性を優位させるアメリカンなタイプと、流動性よりも多様性を優位させる──収益よりも共生を重視する──オルタナティブなタイプがあると言いました。政治思想がどうたらこうたらということよりも、亜細亜主義の政治的実践者や、欧州主義の政治的実践者が、こうした対立を明確に念頭に置いていた歴史的事実を参照せよというのが近年の私の呼びかけです。
 むろん一筋縄ではいかない。たとえ教養なき誤解曲解や、意図された誤用濫用があったにせよ、それを防遏できなかった責めの一部は、亜細亜主義者や欧州主義者に帰せられるべきであり、さらにそうした問題をはるかに超えた内在的弱点があることも事実です。それについては、リベラリズムの限界とも関わる論点でもあり、大問題ですので、機会を更めるとし、ここでは一つだけ本質的な補足を加えておきましょう。
 それは、オルタナティブな近代が許容する「多様性」なるものには限界があるということです。要は近代というシステムに乗っかり得る限りでの「多様性」を許容するということ。近代内部の共生原理に合わないものは、いかに多様性が重要なりといえども、許容すべからず。これです。この一点において、文化的多元主義──近代と両立可能な多様性のみを許容する立場──と、多文化主義──近代と両立不可能な多様性をも許容する立場──とが分かれる。これはもはや周知の事実でありましょう。
 私自身ははるか以前から主張してきたように、オルタナティブな近代を賞揚する「近代主義者」であります。よって、近代の枠組みと両立可能であるような「多様性」以外は根本的には認めません。と申しますと、「亜細亜主義とそんな宮台思想が両立するんか?」と思われるかもしれません。両立どころか、論理的に思考すればぴったり重なるんですね、これが(笑)。まあ、いずれ皆さんにもお分かり頂けるときが来るでありましょう。

 ◆「流動性」と「多様性」
 さて、亜細亜主義を見直すに際して不可欠な事柄ですので、復習しておきます。一九七〇年代以降の政治哲学において、流動性と多様性のどちらを優先するのかということが最重要課題となりました。これは、どっちが論争的に強いかといったフニャケた話ではなく、体制選択──アメリカンな近代かオルタナティブな近代か、あるいは単純グローバリゼーション型近代か屈折グローバリゼーション型近代か、あるいは単純欧化主義か屈折欧化主義か──に直結する立場選択だということを、再確認しておきます。
 日本には馬鹿が多いので、ネオリベラリズム(新自由主義)というと「小さな政府」とか「自助努力」といったクリシェしか想起できない輩で溢れています。そこから「自己決定論批判」などをホザク輩もいる。そんなことはどうでもいいんです。本質はむしろ、「社会政策の遂行」──再配分に象徴されるような──よりも、「法的意思の貫徹」──重罰化や排除──を優先させるオリエンテーションにこそあります。これを一気に縮めて表現すると、「流動性と両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」という命令文となります。
 だからこそ、ネオリベはある種の保守主義や共同体主義と結びつくのです。政府を小さくするから民間のセクターに頼らざるを得ないというだけでは、古典的な性別分業肯定や同性愛否定を説明できません。むしろ、社会内部の多様性の温存やそのための少数者への再配分こそが効率の妨げになり、かつこれらの排除こそが範域内部の同質性を健全に保ちうるという「一挙両得」的発想の然らしめるところです。範域を国内にとれば英国的なネオリベですが、範域を国際社会に取れば米国的な変質ネオコンとなる次第です。
 これに対して、流動性よりも多様性を、収益価値よりも共生価値を優先する、オルタナティブな発想があります。この立場は私が取るところですが、「社会政策の遂行」と「法的意思の貫徹」のバランスを、飽くまで重視します。七〇年代ならばコミュニタリアン的と称されたであろうこの立場は、今日ではリバタリアン(自由至上主義者)を相手にリベラル(自由主義者)が取るべき立場であると考えられています。
 憲法学者であり且つネットの公共性を担保しようとする『コード』『コモンズ』の著作を持つローレンス・レッシグに象徴的です。かつてインターネットに関わる者といえばサイバー・リバタリアンが相場だったのに、今やサイバー・リベラルとでも称すべきレッシグ的立場が影響力を持つに至っています。サイバー・リバタリアンは、かつての米国リバタリアンと同じく、フロンティアが無限に拡がっているという前提に立って、ネット空間を「公共財」──非排除的で非競合的な空間──だと見倣していました。
 ところがフロンティアが限られた範域しか持たないことが明らかになるにつれ、ネット空間は非排除的ではあっても競合的な──誰かが取れば誰かが失う──「共有財(コモンズ)」だと見倣されるようになります。すなわち、自由至上主義的な価値を主張するだけでは、失う者は失うがままに放置され、共生(コンビビアリティ)と両立しないことがはっきりしてくる。
 「市場の限界(飽和)」や「資源の限界(枯渇)」や「環境の限界(汚染)」がある中でヨリ多くの人々が自由であるためには、公共財視点から共有財視点への移行が──リバタリアン視点からリベラル視点への移行が、流動性優位から多様性優位への移行が、収益価値から共生価値への移行が──必要不可欠になります。
 リベラリズムは、共生価値を担保する前提にコミットメントするべきだとの価値観を主張し、この価値観に基づいて自由至上主義的な行動への介入の必要を主張します。これは一つの価値的な立場選択です。先に近代が再帰的(反省的)たらざるを得ないがゆえに、伝統主義もまた再帰的(反省的)なのだと言いました。これを拳拳服膺すべし。近代(計画や人為)に対して伝統(自然や非人為)を対置できるという発想を排除するべきです。
 分かりやすく言えば「為すも人為、為さざるも人為」。要は「伝統も選択、伝統破壊もまた選択」。「共同性もまた選択、共同性軽視もまた選択」。人為も不作為も横並び。伝統も伝統破壊も横並び。共同体主義も共同体軽視も横並び。いずれかが本来的で、余りが非本来的だ、などという素朴な潜入見を排除せねばなりません。各人が人為によって──すなわち自由を行使して──共同体(とされるもの)や伝統(とされるもの)を護持するか否かを、常に選択しているわけです。
 亜細亜主義は、流動性よりも多様性を、収益よりも共生を重視する、近代思想です。いや、そういうもの「だった」んです。しかしある時期から全然違うものとして理解されるようになる。例えば、満州事変(昭和六年)以降の大陸進出で忸怩たる思いを抱いていた知識人らは、日米開戦(昭和一六年)で一転元気になります。当時の朝日新聞一面に中野正剛が勇ましい署名入り記事を書いていたりするのが典型です(笑)。
 それまで大陸進出が亜細亜主義の大義に悖る──「アジアを列強から護持する」よりもむしろ「列強と競ってアジアを侵略する」──ように見えて困っていたところに、対米宣戦布告で、15年戦争の全体が「欧米列強からアジアを守る」亜細亜主義の大義に基づくと信じられるようになったというわけですね。開戦から随分時間が経って、ようやく重光葵外相の下で大東亜憲章が出され、大東亜戦争の目的が厳格に定義されたのと同じこと。
 ことほどさように亜細亜主義は、体よく「跡づけの理由」に利用された。「中国大陸に侵略なんてしていいのか?」「いいのだ。これは亜細亜主義に基づくものなのだ」「ウソつけ、この野郎!」という感じですな(笑)。そういう次第で「亜細亜主義」なるものが、アジアの人々にとって、そして何より戦後の日本国民にとって、タブーの思想になってしまう。これはこれで当然なことなのであります。
 加えてこういう事情もある。三一年の満州事変以降、まず「日支連合」の構想があり、それを日満支連合に拡げた「東亜新秩序」の構想があり、さらにそれに印度と東南アジアとオセアニアを加えた「大東亜共栄圏」の構想が生まれてくる。人呼んで亜細亜主義というと、まずもってこの流れが想起されてしまうわけですよ。「亜細亜主義」と「大亜細亜主義」という言葉が互換的に使われてしまうのも、そうした事情を背景とします。実際、多くの亜細亜主義者がかかる構想を支持した事実もある。
 皆さん、私が「亜細亜主義を見直せ」と言うからといって、そんな事前的・事後的な正当化スキームを再評価するべきだ、なんて言うわけないじゃありませんか(笑)。くれぐれも誤解やご心配のないように。私が「亜細亜主義」という言葉で申し上げたいのは、本来の亜細亜主義者とは、「近代」と言いつつその実「欧米近代」に過ぎない実態を見抜いた上、オルタナティブな近代を構想する者の謂いだということです。今日の「マルクス主義者のなれの果て」に見るような稚拙な「反近代主義者」ではなかったということですよ。
 「亜細亜主義の本義」について考えるにつけても問題になるのは、その都度の情勢判断です。アジアでいち早く「近代化」をとげた日本こそがアジア各国に近代革命を輸出すべきなのか。それとも近代化を遂げたと見えた日本が明治新政府の腐敗と堕落の渦の中に留まる以上、辛亥革命などを契機として大陸の革命を日本に輸入する方向で考えるべきなのか。むろん前期の北一輝は後者の線で考えたわけであります。後期の北になると、そうした革命輸入の可能性すらありえないほど日本の民度は低いという発想になっていきます。
 遡れば、『脱亞論』の福沢諭吉のように、亜細亜主義なるものの本義はよく心得てはいるものの、日本以外のアジア諸国にはいかんせん近代化の芽すらなく、近代革命の輸出などにかかずらわっていては、単に足手まといになるだけ。ゆえに日本一国がまず欧米列強に屠られないレベルへと近代化を遂げるべし、と考える立場もありました。
 実際に、アジアが欧米列強帝国主義の草刈り場となり果てる中、さてアジアがそもそもどういう状況にあり、その中で日本がどういうポジションにあるがゆえに、一体何を為しうるのか。そういうことについての情勢判断の分岐が、亜細亜主義者の内部で相当に鋭く、また一人の思想者の中でも大きく揺れたわけです。それが現実政治における闘争とも結びつき、重要な人間たちが処刑されていく歴史もありました。この対立軸を、今日もう一度きちんとなぞり直しておくことが必要だと思われますが、今日はスキップします。
 抽象的な話に戻して、亜細亜主義の本義たるオルタナティブな近代構想、すなわち「流動性からの多様性の護持」「収益価値からの共生価値の護持」というとき、私が想起するのは、明治では西郷隆盛・岡倉天心の二名、昭和では北一輝・大川周明・石原完爾の三名です。北一輝については、思想というより、むしろその思想遍歴が参考になります。
 北一輝はデビュー作から物凄い事を言っています。『国体論、及び純正社会主義』という早稲田大学の聴講生の時に書いた文章があります。要は、社会主義者たる輩が、なぜ自らの主張が国体論に抵触することを明確に言わず、あたかも社会主義と国体──天皇中心的な国家体制──とが両立するかのごとき欺瞞的メッセージを発しているかとコキおろす。そして、むろん北自身は、国体と両立せざる純正社会主義の立場を採ると言うんですね。
 天皇についてはもっと面白いことを言う。「万世一系の皇室を奉戴するという日本歴史の結論はまったく誤謬。雄略がその臣下の妻を自己所有の権利において奪いし如き、武烈がその所有の経済物たる人民をほしいままに殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与えたる武士より奪いその寵妾に与えし如く…うんぬん」。こんな、悪辣なことをする皇統のご先祖さまなるものは、日本人にとって戴くに足らずということを宣言している。
 「もとより、吾人と言えども最古の歴史的記録たる『古事記』『日本書紀』の重要な
る教典たることは決して拒まず…うんぬん」から始まる文章では何を言うかと思えば、神話のごとき非科学的な妄念によって天皇を正当化するなどとんでもないと言うのです。時間はないので朗読はやめますが──実は後で言うように朗読が大切なのですが(笑)──神話ならざる何によって天皇を正当化するのかというと、中大兄皇子によってだと言う。
 要は、天皇が革命家天皇である限りにおいて──まあ辛うじてそういう歴史もあったりするんで──、国民は天皇を尊崇し、天皇自身は中大兄皇子をモデルとして行動すべきだと。天皇がそのように行動したときに限り、「国民の天皇」──これは『日本改造法案大綱』の中で使うようになる言葉ですが──でありうるのだと言う。
 初期に北一輝が考えていたことは、当時日本の社会主義者が考えていたことを、圧倒的にラディカルにしたものであると言えるでしょう。例えば、彼は、暴力革命を否定し、投票主義を挙げています。プロ独だろうが何だろうが国家による強制を一切否定するかわりに、民衆によるある種の自治能力、これを強固に信頼するというわけです。
 しかし、残念ながらと申しましょうか、初期の北一輝に存在するある種の「民衆ロマン主義」は、後期になると「崩れていく」ように見えるわけです。私自身は北一輝に実存的にコミットメントするところがあるので(笑)「崩れていく」とは思わないんです。私の読み込みと言ってもいいのですが、「民衆ロマン主義」の素朴さだけでは残念ながら本懐を遂げられないという風に考えるようになっていく。その本懐とは何かというところにこそ、北一輝の「亜細亜主義者」としての志を見出すことができるんです。
 北一輝は孫文が大嫌いでした。なぜ嫌いか。理由は、西郷隆盛が大久保利通以下明治政府の重臣たちを批判して決起をする──というか決起をさせられてしまうんですが──経緯と、同一の問題に関係しています。つまりは孫文が「単純欧化主義者」だったからです。単純欧化主義者の明治政府重臣たちが、国粋とは名ばかりに権益にぶら下がる形で私腹を肥やす腐敗堕落ぶりを、西郷に倣って知っていた北一輝は、単に西欧産の「近代化」を目指すだけでは、この国は、アジアは、駄目になるという明確な意識を持っていました。
 同じく、西欧近代の産物たるマルクス主義に単に従うことも、日本国民の魂の何たるかを心得ない振舞いだとして退ける。だからこそ「革命」ではなく「維新」だと言うのです。北によれば、「革命」は虐げられたる者どもの怨念がベースになるが、「維新」にはそれのみならず、革命によって保全されるべき入替え不可能な本質に対する意志がある。「革命」と「維新」が対立するのではなく、「革命」だけでは足りないと言うのです。
 それは、「近代化」と「亜細亜主義」が対立するのでなく、「近代化」だけでは足りないという発想とパラレルです。単に「近代化」するだけでは、我が地は入替え可能な場所になる。同様に単に「革命」するだけでは、我が魂は損なわれる、と。この入替え不可能な本質、損壊を許さぬ魂を、ご都合主義的に実体化する辺りから、北の思想が馬鹿者どもに利用され、戦中国体論の翼賛思想だと思われていくのでありましょう。

 ◆「魂」を否定できるか?
 しからば、この「魂」を単に否定すれば済むか。「宮台、とうとうおかしくなりゃがったな」などと思わないで下さい(笑)。分かりやすい例を出します。ついこの間、小泉総裁選の前々日でしたか「クローズアップ現代」が諫早湾の水門の問題を取上げました。番組では、諫早湾の水門を閉切ったことで湾内の水が澱み、なおかつ湾内の海苔養殖業者が使う海苔育成の薬品のために無酸素水塊が発達して二枚貝と在来魚種が死滅していくのだと言う。かくしてヘドロ化した有明の浜辺が写し出される。
 皆さん、総裁選を前にNHKにしてはイイ線いってると思いましたか? 私は「ケッ」と思いました(笑)。「諫早湾を守れって」って、何を守れって言ってるんだよ。いいですか。水門を閉める前から有明海じゃ魚や貝が取れなくなったんで、多くの業者は海苔養殖業者に転業していた。海苔業者が使う薬でスゴイ勢いで有明海の生態系が変わってきたのは事実。そういう流れの中で水門を閉めたわけ。どこがいけないんですかあ? 有明の海が死滅する? じゃ全員で海苔業者になればあ? 誰も困らないだろうが(笑)。
 琵琶湖のブラックバス問題はどうか。テレビ番組は「ブラックバサーのメッカになっている琵琶湖は、ブラックバスのせいで在来魚種が死滅しつつある。在来魚種を前提に在来漁法をしていた漁師さんたちは食えなくなりつつある」などという。はあ? どこがいけないの? だって、ブラックバスで回る経済──旅館とか釣具屋さんボート屋さんとか食べ物屋さんとか──の規模のほうが、在来魚を採る漁師さんの経済よりも大きいよ。だったら漁師さんにはブラックバス経済に鞍替えしていただいけりゃいいじゃあないか?
 何なら、もう少し行きましょうか(笑)。私の愛する沖縄があります。毎月沖縄に出かけています。泡瀬干潟の開発問題でも、石垣新空港の開発問題でも、私としての私は大反対です。いわく「沖縄の美しい海を破壊してしまうと、貴重な観光資源が消えてしまうんだぞ」。すると「あのー、今でも観光資源あるんですけど、全然カネ落ちませんが」とマジで答えが返ってくる。だったら潰しちゃえばいい。どこがいけないんですかあ?
 こう言うと必ず、どこからか自称エコロジストが出てきて言う。「いや、生態系を壊すと、五〇年後、百年後に何があるか分からない」。はい、確かにそうですね。温暖化していけば農作物の収量増大のようなイイコトさえ期待できるかもしれない(笑)。もちろんこれはウルリッヒ・ベックが言う「リスク社会論」と直結する問題ですよ。つまり「将来何が起こるかわからないことのために行政は金を使えない」。公共性に反するからです。それだったら誰もが今日や明日のオマンマのためにお金を使ってほしいと思うでしょう。
 なんでこんな話をしているか分かりますか? こういう論法は何も奇をテラってるわけじゃない。実際、似たような主張を山形浩生のごときが大真面目でぶっている(笑)。一言(いちごん)にして言えば、「環境アクティビストたちの主張を合理性を欠いている」と。然り。ある意味ではその通り。でも、そんなこたぁ当たり前じゃあないか。今さら何を言ってるんだよ。
 という台詞は、山形浩生に対して言っているんじゃありません。そんなのはどうでもいい(笑)。私は、自らの主張が万人が許容可能な合理性に還元できないということを自覚できない──いわば「魂」の問題であるということを自覚できない──オボコイ環境アクティビストたちに対して、物を言っているわけ。言っていることが分かりますか。分からないなら、もっと極端なことを言いましょうか(笑)。
 ガイア主義者のいわく「人類が地球の主人公なのではない。地球こそが主人公だ。人類が主人公面をするせいで、それ自体が一つの生き物である地球生命圏(ガイア)が死滅し、人間以外の動植物が死滅する。許せない」。どうして? いいじゃん別に。誰が困るの?いわく「美しい動植物に触れることが出来ないのは困る」。大丈夫。ITが発達すりゃ、バーチャル・リアリティーの中で、望む時にいつでも過去に生存した動植物、小川のせせらぎ、オゾンの香り、全て体験可能。リアルじゃないってえならIT技術者に注文してね。
 映画『ソイレント・グリーン』の世界ですな。いいですか皆さん。そういう風に皆さんが思うのかって聞いてるんですよ。さらに言えば、そう思わないとすれば理由は何なのかと聞いてるんです。その理由は経済合理性のような万人に説得可能な合理性ですか。そりゃありえないでしょう。さっきオルタナティブな近代の話をしましたね。流動性よりも多様性を優越させる。収益価値よりも共生価値を優越させる。徹底的に突き詰めるとこの価値観はまさしく価値観であって合理的根拠はない。まさしく「魂」の問題なんです(笑)。
 合理性──百歩譲って「ある種の」合理性と言いましょう──の観点から言えば、別に他の動植物が死のうが、琵琶湖の在来魚が死滅しようが、食いぶちと健康さえ保たれれば、知ったことじゃないっていう立場もありうるってことです。「いやあ、それだと心が参っちゃうよ」。ほらね、「魂」じゃありませんか(笑)。むろん「オレは参らないから、それでも良い」と言う方々もいるでしょう。「それじゃ良くない」と言う方々は、合理主義的な説得によって「それでも良いよ」と言う人々を啓蒙することは、絶対に出来ない。
 実はそこが大事なんですよ。私は〈右〉と〈左〉の定義をいろんなところで書いてきた。〈左〉とは「解放的関心を本義と心得る立場」。〈右〉とは「合理性のみで割り切れないと観じる立場」。ゆえに私は〈左〉でありかつ〈右〉だとずっと言ってきた。私がそういう立場がありうると初めて知ったのは、北一輝を通じてです。「不合理からの解放を希求する志向」と「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」とが、北一輝の中ではみごとに両立しています。思想としては不完全でも、志向としては両立している。だから、さっき、思想としてよりも、実存としてモデルたりうるのだと申し上げたわけです。
 「解放の志向」と「護持の志向」が北一輝の中では両立をしています。とりわけ初期にはそれが顕著です。それが北の魅力です。どちらを欠いても実につまらない。さきほど亜細亜主義には三つの本義があると言いました。徹底した近代化を主張する第一義が「解放の義」だとすれば、単に近代化するのみでは自らは自らでなくなるとする第二義は「護持の義」。この二つの義を両立させる手段が第三義の「ブロック化の義」。
 難しい抽象的なロジックはどうでもいいが、北一輝の志向に第一義と第二義が見事に解け合い、第三義に近代革命を通じた日支連携が持ち出される。北一輝こそ紛うことなき亜細亜主義者となすべき所以であります。その意味でも、『国体論、及び純正社会主義』と『支那革命外史』に見られるような彼の非常にナイーブな、しかし後期のニヒリズムすらをも輝かせる力を持つ、ある完結した思考のベースを分かっていただきたいと思うのです。

 ◆北一輝の「転向」と現代的アクチュアリティ
 皆さん、お疲れでしょうから、少し目先を変えましょう。北一輝の文章は擬古文でロマン主義的です。これを「完全口語訳」をする、なぜかまったく駄目なんですね。みなさん何でだろうと思いませんか? もちろん北一輝の文章が飛躍に満ちていることもある。でもことは亜細亜主義の本義──とりわけ第二義の「護持の義」──に関わっております。
 簡単いうと、私たちは、口語体を喋るようになってから、本当はロジックじゃないものに感心してるくせに──つまりミメーシス(模倣・感染)を生じているくせに──「人はロジックよって説得されるのだ」などと出鱈目を思い込むようになりました。でもどうなのか。調子に乗る、雰囲気に酔う、意気に感じる、空気に染まる、アウラに感応するということが、人には往往にしてある。私の言い方では〈表現〉──メッセージ伝達の仕方──ではなく〈表出〉──エネルギー発露の仕方──に反応することがある。
 皆さん、擬古文──森鴎外の『舞姫』でもいいですよ──で「声に出して読む日本語」をして下さい。何かこう、力が湧いてきませんか(笑)。気高い精神性が自らに宿ったかのごときミメーシスが生じませんか(笑)。「宮台、またおかしくなりゃがった」と思われるかもしれませんが、やってみてください。こういうことに免疫がないと、自分が〈表現〉に説得されているつもりが、実は〈表出〉に感応させられているだけなのだ、という勘違いが起こりえます。
 実は、北一輝が擬古文であるがゆえに力を持つ事態と、亜細亜主義の本義を理解することの間には密接な関係があると思います。その論理的飛躍に満ちた文章は「現代口語訳」をすると話がつながらなくなってしまう。どうですか? ね?(笑)。北一輝の擬古文でミメーシスを生じる資質を、護持されるべき「私たちが私たちである所以」すなわち、私たちのヘリテージ(相続財産)だと考えることができます。ここで「私たち」の範囲をオープンにしておきますが、ここでは飽くまでイメージ・メイキングな話をしております。
 だから今の若い人たちに北一輝を伝承するのは難しい。もちろん漢字も難しいので、ここに来ている若い人は読めません(笑)。輪をかけて擬古文だから意味が伝わらないでしょう。かといって平明訳をしたら「言葉の力」は伝わらない。「なあんだ、ロジックで伝わらないものなんか本質的じゃないぜ」と思われた若いあなた。そうじゃない。亜細亜主義の第二義=護持の義によれば、さっき説明したように「護持するべきものを万人に伝わるように合理的に説明するのは不可能」なのです。
 そこで北一輝を今の若い人に読んでもらうために、いったいどうしたらいいだろうかと出版社の方と話し合いをしているところです。私もどうして良いのか分かりません。見開きの片側を現代口語訳で意味を掴んでもらい、もう片側をルビ付き擬古文として声に出して読んでもらう。これがいいのかも知れないが・・・。まぁ、そういう〈表現〉と〈表出〉の絡み合いがが北一輝の文体には見出され、そのこと自体が、亜細亜主義の第一義=解放の義(徹底した近代化)と第二義=護持の義の絡み合いを示していると思われます。
 閑話休題。辛亥革命における孫文の動き、並びにそれに呼応する日本国内の動きに絶望し、そこから巷間「転向」視されるような動きを北一輝は示すことになります。第一の象徴的な変化が、選挙主義・投票主義を否定して、軍事革命主義・クーデター主義を表だって主張するようになることです。第二の象徴的変化が、天皇を蛮族の酋長扱いしていたのが、天皇親政を主張する2・26の青年隊付将校たちの主張するがごとき革命シンボルとなすようになることです。第一と第二の変化は、論理的に直結しています。
 これ、全部が『日本改造法案大綱』──上海で五・四事件(一九〇四)直後に『国家改造案原理大綱』として書かれたものです──に記されていることです。それまでの「民主主義」すなわち「民は信頼できるものだ」とする見方から、「民本主義」すなわち「民は愚かなる存在ゆえに賢明な指導者が民を思って導くべし」とする見方へのぎゃ戻り。亜細亜主義の系譜で言えば「西郷隆盛への後戻り」です。むろんご承知のごとく西郷の場合には儒教的徳治主義ですが、そんなものは北一輝には微塵もない。いわば苦肉の策です。
 北一輝は、澎湃として起こる中国革命の声に連動しえないどころか、腐敗した軍財閥の影響下これを弾圧にかかる日本政府に対して如何なる声も発しえない日本国民への絶望の果てに、かかる結論に達した。私の考えでは「二段階革命論」に達した。まず軍事革命を起してその先頭に天皇陛下に立って頂き、天皇陛下に中大兄皇子のごとく御振舞い願って君側の奸臣どもを取り除き、利権を漁る資本家的非国民どもを残らず溶鉱炉にぶち込む。然る後、軍事クーデターによって目覚めた国民が、二段階目の民主主義革命を起こす。
 従って2・26の青年隊付将校らについては、二段階目の民主主義革命の展望に乏しきがゆえに、彼が本来これを積極的に支持しえたか否かは実の所はなはだ疑問です。いずれにせよ同じ図式が、『日本改造法案大綱』以降、国外にも適応される。いっときは軍事的拡張主義に見えるのも止むを得ない。むしろ然る後、諸国のナショナリズムが刺激され、民衆ナショナリズム運動の澎湃たる声が起こるのであれば、よいのであると。
 これは凄い。こういう思想は凄いです。あの馬鹿ブッシュがそういうことを言い始めればなんでも出来ますよ(笑)。ナショナリズムのまだ確立していない、集団的自己像の確かならざる空間で、あえて主権への軍事的干渉を行なうことにより、民衆の下からの起ち上がりをもたらし、結果的には近代化を促進する、と。ここまでくると、皆さん、「北一輝、ちょっと狂っておるな」っていう気がするかもしれません。
 しかし、私はそう思わない。なぜかというと、私も同じように思うからです、ちょっとくらいは(笑)。北一輝の悩んだ問題、北一輝の絶望は、とても悩ましい。同じ悩みを悩みつつ、あくまで民主主義革命の条件を国内的伝統の中に探ろうとした戦後の丸山真男などに比べて、こらえの効かない早漏気味の発想だと思うかも知れない。どうだろう。丸山真男の輝かしい業績の数々、ならびに六〇年安保前後の渾身のロビイングの数々によって、いささかなりとも日本国民は変わりえたのか。どうですか、皆さん。
 「彼は右翼だ」などという杜撰な思考で片付けられるような簡単な問題じゃないのです。民衆の低すぎる民度に対する北一輝の絶望──ロマン主義者ゆえの絶望──は、亜細亜主義者や欧州主義者に倣って「オルタナティブな近代」を構想せんとする私たちにとっても、完全にアクチュアルな問題であると申すことができましょう。そこが北一輝のすごいところです。単に屈折した自意識を感じさせるに過ぎない三島由起夫ごときとは比べものなくすごいのです。
 いいですか。思想が完成されているのがすごいとかじゃない。彼が何を悩んだかということがあまりにも本質的な悩みなのですごいのです。その悩みはすごすぎて、私たちの誰一人として、整合的な理論的解決を与えることが恐らく出来ないのです。だからこそ、北一輝を通じて亜細亜主義の本義と同時に本懐──すなわち実存──を見直し、かつそれを私たちの学びへと活かすべきなのです。








(私論.私見)