「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)


 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).12.3日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)を確認しておく。

 2013.05.01日再編集  れんだいこ拝


【毛沢東「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」】
 前書き
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。
 本文
 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかからのみ生まれてくるのであり、ただ社会の生産闘争、階級闘争、科学実験という三つの実践のなかからのみ生まれてくるのである。

 人間の社会的存在は,人間の思想を決定する。そして、先進的階級を代表する正しい思想は、ひとたび大衆に把握されると、社会を改造しろ、世界を改造する物質の力に変わる。人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて、豊富な経験をもつようになるが、それには成功したものもあれば、失敗したものもある。

 客観的外界の無数の現象は、人間の目,耳,鼻,舌,身体などの五官を通じて、自分の頭脳に反映してくるが、はじめは感性的認識である。このような感性的認識の材料がたくさん蓄積されると、飛躍がおこり、理性的認識に変わるのであって、これが思想である。

 これはひとつの認識過程である。これは全認識過程の第一の段階、すなわち客観的物質から主観的精神への段階、存在から思想への段階である。このときの精神、思想(理論、政策、計画、方法をふくむ)が客観的外界の法則を正しく反映しているかどうかは、まだ証明されてはおらず、正しいかどうかはまだ確定することができない。

 そのあと、さらに認識過程の第二の段階、すなわち精神から物質への段階、思想から存在への段階がある。つまり、第一段階でえた認識を社会的実践のなかにもちこみ、それらの理論、政策、計画、方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。

 一般的にいえば、成功したものが正しく、失敗したものはまちがっており、人類の自然界にたいする闘争ではとくにそうである。社会における闘争では、先進的階級を代表する勢力が、ときには一部の失敗をなめることもあるが、これは思想が正しくないからではなく、闘争における力関係の面で、先進的勢力の方がまだしばらくのあいだ反動勢力の方におよばないため、一時失敗するのである。だが、そのあといつかはかならず成功するだろう。

 人間の認識は実践でためされてふたたび飛躍をとげる。こんどの飛躍は前の飛躍にくらべていっそう大きな意義をもっている。なぜなら、認識の最初の飛躍,すなわち、客観的外界を反映する過程でえられた思想、理論、政策、計画、方法などがはたして正しかったのか、まちがっていたのかを証明することができるのは、こんどの飛躍だけであって、これ以外に真理を検証する方法はないからである。

 そして、プロレタリア階級が世界を認識する目的は,ただ世界を改造するためであって、これ以外に目的はない。正しい認識は、しばしば物質から精神へ、精神から物質へ、すなわち実践から認識へ、認識から実践へという何回もの反復によって、はじめて完成されるのである。これがマルクス主義の認識論であり、弁証法的唯物論の認識論である。

 現在、われわれの同志のなかには、まだこの認識論の道理がわからないものがたくさんいる。こうした人は、その思想、意見、政策、方法、計画、結論、よどみなく、つきることのない演説、長たらしい文章がどこからきたのかとたずねられると、これはおかしな問題だとおもい、答えることができない。また、物質が精神に変わり、精神が物質に変わるという、日常生活のなかにつねに見られる飛躍の現象も、理解できないようにおもう。

 したがって、われわれの同志たちが、思想をただし、調査研究をうまくやり、経験をしめくくり、困難にうちかち、あやまりをすくなくし、仕事をりっぱにやり、奮闘努力して、社会主義の偉大な強国を建設するとともに、抑圧と搾取をうけている世界の広範な人民をたすけ、われわれがになうべき国際主義の偉大な責務をはたすことができるようにするためには、弁証法的唯物論の認識論についての教育をおこなわなければならない。

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評209 れんだいこ 2006/09/06
 【補足、「毛沢東『人間の正しい思想はどこからくるのか』考」】

 補足として「毛沢東「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」を検討する。次のように前書きされている。
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。

 毛沢東は、次のように述べている。(れんだいこ訳)
 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかから、そこからのみ生まれてくる。三つの社会的実践、即ち生産闘争、階級闘争、科学実験の中からのみ生まれてくるのである。人間の社会的存在が彼の思想を決定している。ひとたび、先進的階級を代表する正しい思想が大衆に把握されると、社会を改造し、世界を改造する物質力に変わる。

 人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて、豊富な経験をもつようになるが、それには成功したものもあれば、失敗したものもある。客観的外界の無数の現象は、人間の目、耳、鼻、舌という五感覚器官通じて頭脳に反映している。初めは、知識は感性知覚的である。このような感性知覚の材料がたくさん蓄積されると、飛躍がおこり、思想を生む。これが認識過程である。これは全認識過程の第一の段階であり、客観的事象から主観的意識へ導かれ、存在から思想へと至る段階である。このときの意識又は思想(理論、政策、計画、方法を含む)が客観的外界の諸法則を正しく反映しているかどうかは、この段階ではまだ証明されてはおらず、正しいかどうかはまだ確定することができない。

 次に、認識過程の第二の段階となる。即ち意識が事象へとさし戻り、思想が存在へとさし戻る段階である。つまり、第一段階で得た認識を社会的実践のなかにもちこみ、それらの理論、政策、計画、方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。一般的にいえば、成功したものが正しく、失敗したものはまちがっている。このことは、人類の自然界に対する闘争では特にそうである。

 社会における闘争では、先進的階級を代表する勢力が、ときには一部の失敗をなめることもあるが、これは思想が正しくないからではなく、闘争渦中の力関係の面で、先進的勢力の力がその時点では反動勢力の方に及ばない故に一時失敗するのである。だが、そのあと遅かれ早かれ必ず勝利する定めにある。

 人間の認識は実践で試されて次の飛躍を遂げる。こんどの飛躍は前の飛躍に比べて一層大きな意義をもっている。なぜなら、客観的外界を反映する過程でえられた思想、理論、政策、計画、方法の認識の最初の飛躍段階のものが果して正しかったのか、間違っていたのかを証明することができるのは、今度の飛躍だけであるから。他には真理を証明する方法はない。プロレタリア階級が世界を知る目的は、世界を改造するためであって、これ以外に目的はない。

 正しい認識は、しばしば事象から意識へ、意識から事象へ、即ち実践から認識、次に実践へと差し戻される何回もの反復によってはじめて到達されることができるのである。これがマルクス主義の認識論であり、弁証法的唯物論的認識論である。我々の同志のなかには、この認識論をまだ理解していない者が大勢いる。こうした人は、その思想、意見、政策、方法、計画、結論、饒舌、長たらしい文章の原因を尋ねられた時、何となく変だと思っても答えることができない。そういう人たちは、事象が意識に変わり、意識が事象に変わるという、日常生活のなかに常に見られる飛躍の現象も理解していないのではなかろうか。

 従って、我々の同志たちを、弁証法的唯物論的認識論で教育せねばならない。そうすることで、思想をただし、調査研究をうまくやり、経験から学び、困難を克服し、誤りを少なくし、仕事をりっぱにやり、奮闘努力しえるようになる。よって、中国に社会主義の偉大な強国を建設せしめ、世界中で抑圧と搾取をうけている広範な人民をたすけ、偉大な国際主義者的責務をはたすことができるようになる。
 「れんだいこ試論・哲学的認識論としての唯物弁証法」
 (marxismco/marxism_genriron_philosophy.htm)

 れんだいこ和訳集の中に取り入れました。既成訳にそれほど問題があるのではないのですが、れんだいこ訳の方が分かり易いという気がします。

 宮顕ー不破式日共理論により毛沢東の史的意義が落とし込められ、その評価が定着しておりますが、れんだいこは無茶だと考えております。曲がりなりにも、毛沢東は建国革命を成功させた指導者であり、そういう経験を持たない者が悪し様に云うのは不見識と考えております。

 建国革命期までの毛沢東は、異端粛清等々に於いての否定面はありますが、全体的にはやはり名指導者だったと考えております。但し、建国後の諸施策はほとんど失敗し通しだった。その理由については別サイトで考察をせねばならないと思う。

 毛沢東は、この「正しい思想はどこからくるのか」小論で、いわば「マルクス主義の真理論とはどういうものか」について言及しており、れんだいこは、それなりに値打ちがあると考えます。こういう風に説き明かせない自称マルクス主義者が、毛沢東の価値を落としこめることに汲々として、それが自分のマルクス主義者の証とでもしている倒錯を如何せんか。

 それにしても時代が変わった、変わり過ぎた。そういう思いが深しの今日この頃ではある。

 2006.9.6日 れんだいこ拝

【れんだいこ逐条和訳・毛沢東「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)】
 WHERE DO CORRECT IDEAS COME FROM? MaoTse-tungMay 1963
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。
 This passage is from the "Draft Decision of the Central Committee of the Chinese Communist Party on Certain Problems in Our Present Rural Work", which was drawn up under the direction of Comrade Mao Tse tung.
 The passage was written by Comrade Mao Tse-tung himself.
 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。
 Where do correct ideas come from? Do they drop from the skies? No. Are they innate in the mind? No.
 人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかから、そこからのみ生まれてくる。三つの社会的実践、即ち生産闘争、階級闘争、科学実験の中からのみ生まれてくるのである。
  They come from social practice, and from it alone; they come from three kinds of social practice, the struggle for production, the class struggle and scientific experiment.

 人間の社会的存在が彼の思想を決定している。

 It is man's social being that determines his thinking.
 ひとたび、先進的階級を代表する正しい思想が大衆に把握されると、社会を改造し、世界を改造する物質力に変わる。
 Once the correct ideas characteristic of the advanced class are grasped by the masses, these ideas turn into a material force which changes society and changes the world.
 人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて、豊富な経験をもつようになるが、それには成功したものもあれば、失敗したものもある。
 In their social practice, men engage in various kinds of struggle and gain rich experience, both from their successes and from their failures.
 客観的外界の無数の現象は、人間の目、耳、鼻、舌という五感覚器官通じて頭脳に反映している。
 Countless phenomena of the objective external world are reflected in a man's brain through his five sense organs-the organs of sight, hearing, smell, taste and touch.
 初めは、知識は感性知覚的である。このような感性知覚の材料がたくさん蓄積されると、飛躍がおこり、思想を生む。
 At first, knowledge is perceptual. The leap to conceptual knowledge, i.e., to ideas, occurs when sufficient perceptual knowledge is accumulated.
 これが認識過程である。これは全認識過程の第一の段階であり、客観的事象から主観的意識へ導かれ、存在から思想へと至る段階である。
 This is one process in cognition. It is the first stage in the whole process of cognition, the stage leading from objective matter to subjective consciousness from existence to ideas.
 このときの意識又は思想(理論、政策、計画、方法を含む)が客観的外界の諸法則を正しく反映しているかどうかは、この段階ではまだ証明されてはおらず、正しいかどうかはまだ確定することができない。
 Whether or not one's consciousness or ideas (including theories, policies, plans or measures) do correctly reflect the laws of the objective external world is not yet proved at this stage, in which it is not yet possible to ascertain whether they are correct or not.
 次に、認識過程の第二の段階となる。即ち意識が事象へとさし戻り、思想が存在へとさし戻る段階である。つまり、第一段階で得た知識を社会的実践のなかにもちこみ、それらの理論、政策、計画、方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。
 Then comes the second stage in the process of cognition, the stage leading from consciousness back to matter, from ideas back to existence, in which the knowledge gained in the first stage is applied in social practice to ascertain whether the theories, policies, plans or measures meet with the anticipated success.
 一般的にいえば、成功したものが正しく、失敗したものはまちがっている。このことは、人類の自然界に対する闘争では特にそうである。
 Generally speaking, those that succeed are correct and those that fail are incorrect, and this is especially true of man's struggle with nature.

 社会における闘争では、先進的階級を代表する勢力が、ときには一部の失敗をなめることもあるが、これは思想が正しくないからではなく、闘争渦中の力関係の面で、先進的勢力の力がその時点では反動勢力の方に及ばない故に一時失敗するのである。だが、そのあと遅かれ早かれ必ず勝利する定めにある。

 In social struggle, the forces representing the advanced class sometimes suffer defeat not because their ideas are incorrect but because, in the balance of forces engaged in struggle, they are not as powerful for the time being as the forces of reaction; they are therefore temporarily defeated, but they are bound to triumph sooner or later.
 人間の認識は実践で試されて次の飛躍を遂げる。こんどの飛躍は前の飛躍に比べて一層大きな意義をもっている。
  Man's knowledge makes another lean through the test of practice. This leap is more important than the previous one.
 なぜなら、客観的外界を反映する過程でえられた思想、理論、政策、計画、方法の認識の最初の飛躍段階のものが果して正しかったのか、間違っていたのかを証明することができるのは、今度の飛躍だけであるから。他には真理を証明する方法はない。
 For it is this leap alone that can prove the correctness or incorrectness of the first leap in cognition, i.e., of the ideas, theories, policies, plans or measures formulated in the course of reflecting the objective external world. There is no other way of testing truth.
 プロレタリア階級が世界を知る目的は、世界を改造するためであって、これ以外に目的はない。
 Furthermore, the one and only purpose of the proletariat in knowing the world is to change it.
 正しい認識は、しばしば事象から意識へ、意識から事象へ、即ち実践から知識、次に実践へと差し戻される何回もの反復によってはじめて到達されることができるのである。
 Often, correct knowledge can be arrived at only after many repetitions of the process leading from matter to consciousness and then back to matter, that is, leading from practice to knowledge and then back to practice.

 これがマルクス主義の認識論であり、弁証法的唯物論的認識論である。

 Such is the Marxist theory of knowledge, the dialectical materialist theory of knowledge.
 我々の同志のなかには、この認識論をまだ理解していない者が大勢いる。
 Among our comrades there are many who do not yet understand this theory of knowledge.
 こうした人は、その思想、意見、政策、方法、計画、結論、饒舌、長たらしい文章の原因を尋ねられた時、何となく変だと思っても答えることができない。
 When asked the sources of their ideas, opinions, policies, methods, plans and conclusions, eloquent speeches and long articles they consider the questions strange and cannot answer it.
 そういう人たちは、事象が意識に変わり、意識が事象に変わるという、日常生活のなかに常に見られる飛躍の現象も、理解していないのではなかろうか。
 Nor do they comprehend that matter, can be transformed into consciousness and consciousness into matter, although such leaps are phenomena of everyday life.

 従って、我々の同志たちを、弁証法的唯物論的認識論で教育せねばならない。そうすることで、思想をただし、調査研究をうまくやり、経験から学び、困難を克服し、誤りを少なくし、仕事をりっぱにやり、奮闘努力しえるようになる。よって、中国に社会主義の偉大な強国を建設せしめ、世界中で抑圧と搾取をうけている広範な人民をたすけ、偉大な国際主義者的責務をはたすことができるようになる。

 It is therefore necessary to educate our comrades in the dialectical materialist theory of knowledge, so that they can orientate their thinking correctly, become good at investigation and study and at summing up experience, overcome difficulties, commit fewer mistakes, do their work better, and struggle hard so as to build China into a great and powerful socialist country and help the broad masses of the oppressed and exploited throughout the world in fulfillment of our great internationalist duty.




(私論.私見)