時田研究その4、走資派論考 |
(最新見直し2007.5.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
文革をどう見るかの重要な判断指標の一つに「走資派論」がある。文革の期間中、毛沢東系文革派は「走資派論」を掲げ、劉少奇らを「ブルジョア階級の立場に立つ者」と規定し奪権闘争を挑んでいった。ポスト文革後、ケ小平派は、そんなものは存在しなかったとして最も厳しく批判しているのが「走資派論」である。いわば、「走資派論」はポスト文革政権のアキレス腱となっている観が有る。本サイトでこの問題を考察する。 |
【「走資派」規定の問題考】 | ||||||||||
毛沢東が「走資派論」に至るには前段階があった。当初は、官僚主義者階級」という表現を使っており、社会主義社会での官僚制というトロッキー、ジラス以来の難題に取り組んだかに見える。次に、「官僚層」等の言い方をへて、最終的に「走資派」という表現を選んでいる。
造反派は、毛沢東の走資派打倒指令に歓喜した。劉少奇、ケ小平が批判され、周恩来まで槍玉に挙げられた。楊曦光は、周恩来=「赤色ブルジョアジーの代表者」論を述べ、打倒を主張した。 「李一哲グループ」のメンバーであった?小夏は今日、「毛沢東のいう走資派とは、異論派、自由主義的指導者であった」として次のように述べている。
今日、「新左派」も「走資派」論について自らの見方を提出している。
なかなか興味ある文革総括の一視点である。文革が「経済制度上での大民主」を創出できなかったというのは毛沢東文革理論の核心、文革総括の核心にふれる問題であるからだ。その上でよく分からないのだが、「走資派」論の曖昧さによって「『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与える」やり方を許したということによって、崔之元は本来の文革対象である「党内官僚集団」との闘いはどうあるべきだったといっているのだろうか?それは「敵」ではなく、本来「人民内部の矛盾」として対応すべきことだったというのだろうか? この問題に関連して粛喜東はこう述べていた。
つまり文革での「官僚集団」との闘争は「人民内部の矛盾」として処理すべきことだったと言っているようにも思われるのだが、しかしここにはかなり厄介な問題がある。毛沢東の「走資派」批判は、異論派としての劉少奇、ケ小平への誤った批判だったのか、それとも彼らは打倒されるべき抑圧的官僚層だったのかという問題は今日なお明快な回答はなされているわけではないからである。 ところで、?小夏は崔之元の主張についてそんなことではないのだという。
「走資派」といわれた層が?小夏がいうように異論派、自由主義的指導者だったとすれば、それを「敵」として批判し、打倒した文革は最悪のものとなる。そうではなく新たな抑圧的官僚層だったとすれば、それを「敵」として打倒したのは必ずしも間違いではないということになる。 これに関連して興味あるのは、「ブルジョアジーの代表者」と規定された劉少奇が、奇妙なことに党員としての倫理性を問われて弾劾され、自己批判を要求されたことである。彼は文革中三度にわたって「自己批判書」を書かされている。 ここには異論派と「敵」とを概念的に区別できない中国共産党の理論的欠陥が露呈しているのだが、同時にそこには異論派とも官僚層とも截然とは分けられない「社会主義的官僚層」の特質把握の困難さも示されていた。 劉少奇、ケ小平ら「走資派」とはそういう層だったわけであり、単なる「思想闘争」としての批判では、文革前に毛沢東が、北京は「針も通さず、水も通さぬ独立王国」だと愚痴ったように、封じ込められ、無力化されてしまう可能性があるし、また文革初期の「工作組」の対応が典型的に示したように、あらゆる内部的批判の動きに対しては党組織は強力な抑圧機関として登場するのであり、批判は大衆運動の動員をもってしなければ有効性を持ちえない。 だから毛沢東の「走資派」論、造反派の「赤色ブルジョアジー」論や大衆運動をもってする批判の展開がただ誤りだったかといえば、そこでは「社会主義的官僚制」の問題が感受されていたわけである。 しかしそれらの官僚制批判が有効性を持つには、それが「走資派」の社会的基盤を解体しうる「社会革命」的要素を持っていなければならなかったのだが、江青・張春橋グループの「新生事物」はそういうものたりえていない。理論次元では崔之元がいうように、その「ブルジョア的権利の制限」論(毛沢東、張春橋)ではそこをほり下げることはできなかった。 そして中国共産党と毛沢東に当初から根深くある異論を異論として見るのではなく、すぐさま旧支配層の残滓、反共勢力と見る傾向が全面化している。これらのことは文革後期、「走資派」層の道義性を回復させる要因となっている。 この問題につき、「新左派」もそこに問題があったことを認めている。崔之元は次のように述べている。
粛喜東は次のように述べている。
これにつき、時田氏は次のように述べている。
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【「走資派」論を廻る両派の論争】中国民主化、民主革命、の名のもとでの西洋化の完成である。○ケ小平(トウショウヘイ)の改革開放政策以来、中共の公式イデオロギーは、拝金主義=資本主義=弱肉強食主義、である。 | |||||
「大民主」の問題性を「走資派」論との関係で分析したのが?小夏「文革と毛沢東の偽の急進主義イデオロギー」である。かって「李一哲」グループに属していた彼女は、天安門事件以後「海外民運派」としてアメリカからの帰国を認められていない。今回「自由主義」としてこの論争に加わっているわけではないが崔之元の文革論文は読んでおり、この文章もその所論の検討から入っている。 彼女はまず崔之元の「毛沢東は正統マルクス主義を超えた」という主張には初歩的な誤りがあると言う。普通、西欧の論者たちが毛沢東の文革思想の新しさと言うとき基準としているのは正統マルクス主義ではなくスターリン主義なのだが、崔之元はその前提的なことを分っていない。
彼女の結論はこうである。
このように*小夏は毛沢東の文革と「大民主」についてほぼ全否定している。ここで興味あるのは「走資派」とは毛沢東への異論、その政敵に対しての規定だったとされていることである。ここには「走資派」規定に対するかっての造反派たちによる見方の変化、反省がある。王希哲はその文革総括(「毛沢東と文化大革命」『中国研究』123,124、日中出版)で、毛沢東への幻想が砕かれるにつれて「走資派」なる層への見方が変わったと述べていたが、*小夏も同じ見方をしているのかも知れない。 文革終焉後、その代表的な被害者として劉少奇には多くの同情が寄せられてきた。だが少々意外なことに造反派たちの劉少奇への批判は当時のみならず今日なお厳しいものである。
劉少奇が国家主席という権力階層にあって人々の運命を左右できる立場にあったことを考えるとき、単に毛沢東への異論の持ち主だったと見るのは妥当か、毛沢東の劉少奇「走資派」規定はただ誤りだったかという問題はトロッキー以来のスターリン主義官僚規定の問題としてそれとしてあるわけだが、毛沢東のそれが階級分析に裏打ちされないスターリン主義的他者批判の一つの典型であったことは否定できない。 ところで以上の「大民主」と「走資派」論の問題をわれわれ自身の運動経験との関係でとらえ返せば何が見えてくるのか。 「四大」が自由な日本のわれわれにとって「大民主」の意義を実感として感じ取るのは難しい。だがわれわれもまた一九六〇年代から七〇年代にかけて一たびは獲得した「大民主」をその意義をつかめないまま、粗略に扱い、乱費し、とどのつまりは失ったのだと認識すべきなのである。どういう意味か。 「大民主」の意義をスターリン主義との関係でとらえ返せばわれわれにとっても分らないことではない。日本共産党のかってのイデオロギー支配の呪縛力は今ではピンとこないが、それを打ち破って以降、党派間対立の「内ゲバ」的堕落、退廃に至る一時期全体に亘って新左翼運動はいわば「大民主」を手中にしたわけである。 だが当時その固有の意義は理解されていない。それはあくまで革命にとっての手段と見なされていたのであり、その限りにおいて党派的利害が優先されるのは不可避だった。だがこの言い方は正確ではない。運動が一たび発展するや党派的に避けがたく分岐し、その間の対立と共同が展開されていくのは、各派が党派利害に固執したからということではなく、それが現実的基礎を持つ大衆運動の場合不可避な過程なのである。 警戒すべきなのはこの分岐なのではなく、むしろこの分岐が強いる緊張に耐え得ず、それは本来あるべきことではないとして理論的、物理的に抑圧する動きであり、それらこそ共産主義の名において開かれた政治空間を抹殺しようとするものである。 と言うのも、将来の共産主義においては民主主義もまた死滅する、そこでは政治的異論などなくなる、すなわち政治的他者問題そのものが消え失せるのだというのがレーニン「プロレタリア民主主義」論の眼目なのであり、新左翼もそれに何の疑いを持つことなく、マルクス共産主義論もそう読み込まれてきたからである。つまりそれは党派的利害を優先したなどということよりもっと根は深いのであり、自分らの「将来の共産主義社会」論そのものによって日本のこの「大民主」の意義、その維持、防衛、発展など理解できなかったのである。 「内ゲバ」――それは革命運動における政治的他者問題という避けがたく普遍的な問題の特殊形態、敗北形態、堕落形態なのだが――もまた「将来の共産主義社会」の名の下になされたものである以上、その総括は「異論や党派間対立、民主主義そのものが死滅する将来社会」論そのものに及ばなければならない筈である。 「走資派」問題とはまさしくこの政治的異論、政治的他者の問題である。この問題が厄介なのは、政治の場では意見の違いがただ意見の違いとして向き合うのではなく、そこに階級間の問題、支配と被支配の問題が絡まることをめぐっていた。さらにそこには意見とその物質的基礎というマルクス主義のイデオロギー論が関与する。こうして異論=敵性のもの、そうでなくとも「主観的にはともあれ、客観的には」という論理が一つの鋭さであるかのように不可避に登場する。必要なことは将来社会においては意見の違いそのものが消滅する、そこは「物の管理」をめぐる「統制と計算の単純な作業」(レーニン)の世界だなどという認識は誤りなのだということをはっきりさせることであろう。 |
(私論.私見)