時田研究その3、毛沢東文革論考 |
(最新見直し2007.5.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
毛沢東発動期の初期の文革をどう歴史的に総括すべきか、これを廻っての混乱が未だ続いているように思われる。時田氏の論考から学んでもなお疑問に思うのは、林彪派の文革の動きが捨象されていることである。れんだいこに云わせれば、それは歴史の偽造に近い。その上での文革論を縷々綴っているのでなかなか真意が掴めない。それはともかく整理してみる。今はまだ雲を掴むような状態である。 2005.6.9日 れんだいこ拝 |
【新左派の毛沢東革命理論検証考】 | ||||||
文革論は当然毛沢東理論の評価考に繋がる。「新左派」はこれをどう評しているのだろうか。典型的には、「毛沢東理論は反資本主義的モダニティーのモダニティー理論」(汪暉)として押さえられている。彼らによってとらえ返された文革理論はつぎのようなものであった。 崔之元は次のように述べている。
李憲源は次のように述べている。
新左派の毛沢東論につき、時田氏は次のように述べている。
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【新左派の毛沢東生産力理論検証考】 | ||||
毛沢東は、文革の最中、「鞍鋼憲法」を鼓吹し、生産力を高めようとしていた。「鞍鋼憲法」とは、「両参一改三結合」を唱えていた。「岩波現代中国事典」(1999年)は、「両参一改三結合」を次のように説明している。
崔之元は、「鞍鋼憲法」を「経済民主」へ引き継ぐべきものとして注目し次のように述べている。
これにつき、時田氏は次のように述べている。
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【新左派の文革批判の構図考】 | |||
「新左派」たちも「文革の失敗」について語っている。李憲源は次のように述べている。
粛喜東は次のように述べている。
「新左派」たちは、文革をその発端から、「綱領」次元においても「二面性」を抱え込んでいたと見立てる。即ち、「走資派」体制の「全面打倒」か「部分改善」かの問題である。「上海一月革命」の当初は「階級と階級の闘い」と述べていた毛沢東は「上海コミューン」への動きに直面して張春橋に「部分改善」だと明言し、以後一部の造反派の「すべてを打倒する」は誤りだとされていく。 「新左派」はこの「二面性」を「平民主義的な毛沢東主義」と「官僚主義的なスターリン主義」、「大民主言語」と「階級闘争言語」との関係と理解している。だが実際にはこの「二面性」は先に「大民主」の個所でふれたように「平民主義的な毛沢東主義」、「大民主言語」それ自体がはらんでいるものと押えるべきなのである。 つまり「新左派」にとって文革の失敗とは、毛沢東の文革理論がはらんでいた新しい要素が同時に並在した古い要素に妨げられて十分その力を発揮できなかったということなのだが、問題の所在はそこにではなく、まさにその新しい側面そのものに「大民主」は構造的に含まれていなかったのである。 鄭義は次のように述べている。
「共通認識」であるかどうかはさておき、「二つの文革」論者たちもまたほぼ「毛沢東の文革」の全否定に近い考えに達しているのは事実のようである。だがそういう認識に今日到達したにしても、それに至る変化過程の分析が重要である。造反派にしても当初は圧倒的な毛沢東の影響下にあり、その言葉から彼らの文革論を組み立てている。 しかしその後彼らは、自分らは毛沢東の「権力闘争」に利用されたのであり、その文革理論はそのための手段だったとして、そこに「人民の文革」の存在理由を立てている。ここには当初の幻想からすれば彼らの認識の深まりがあるわけだが、同時にそこには対象分析力の後退もある。というのはそこでは毛沢東文革論への共鳴とそこからの離脱の思想的経過が捨象されてしまっており、「毛沢東の文革」はその当初からダメだったというように一面化されているからである。 毛沢東が一九六七年以降、造反派の抑圧に向かい、ついにそれを鎮圧したのは事実である。問題はここに毛沢東の当初からの本質を見るのか、あるいは毛沢東の退化、堕落としておさえるかということである。 毛沢東は人民大衆の運動を利用したのだが、人民大衆もまた「毛沢東の文革」を利用して自分らの利害を貫こうとしたのだと鄭義はいう。 この整理はスッキリしているが、下層民衆の場合にそういう要素もあったとしても、造反派運動の過程はそういうことではなかったろう。その社会的要因はあったわけだが、直接には彼らは毛沢東の呼びかけのもとに立ち上がったのであり、毛沢東と中央文革が劉少奇、ケ小平の「工作組」、高級幹部子弟たちの「血統論」を厳しく批判して造反派を擁護したとき、一瞬、相互の利害は一致し、その関係を粛喜東が「政治連盟」的な性格を帯びたというのは荒唐無稽なことではない。 ただ毛沢東のこれら「四大」(「大鳴〔大いに意見を出す〕・大放〔大いに討論する〕・大字報〔大字報を貼る〕・大弁論〔大弁論をする〕」)は毛沢東の政治路線にもとづき「走資派」を批判するかぎりで容認されたものであり、真の意味での「大民主」でなかったというのが「二つの文革」論者、そしてその批判者である徐友漁らの主張である。 このことは事実であり、「四大」は粛喜東ら「新左派」が評価するほど解放的なものではなかった。これをどう見るのか。 たしかに毛沢東の造反派に対する態度をただ「利用」と見ない場合でも、その「社会主義」観、「民主主義」観はマルクス主義的、あるいはレーニン主義的ですらないスターリン主義的な性格を持っており、「新思潮」派のコンミューン路線とは異なるものである。さらには一九六八年以降の過酷な造反派弾圧の記憶は、「毛沢東の文革」をそれもまた一つの変革運動だったと見なすことはできないとする見方を当然生み出す。 だがそれをもって「毛沢東の文革」を「政敵粛清」を専らとしたものと見なすことは、事実の経過として、また総括の仕方、批判の仕方として誤りを含んでしまうことにならないか。 |
2.「政治連盟」か「相互利用」か 「二年(ないし三年)文革」の時期、造反派と毛沢東、中央文革とは一種の「政治連盟」の関係にあったと指摘したのは粛喜東であった。考えてみればこの指摘は文革総括にとってきわめて重要な問題領域である。というのは文革終息後、造反派は「三種人」として貶められ、摘発の対象となり、中央文革に至っては「怪物」(葉永烈)であり、何の積極性もないものとして、真剣な総括の対象となっていないからである。そしてそれらの見方は「文革徹底否定」論の不可欠の属性だった。 だが「二つの文革」論者にとって中央文革は一九六六年八月以降の「革命」の時期の記憶と結びついていた。今日、「毛沢東の文革」には厳しい彼らだが、造反派の運動と中央文革の活動とがある時期重なり、連携したことを認めている。そして中央文革の盛衰は文革のそれと結びついていたのである。 楊小凱
劉国凱
王希哲
鄭義
このように彼らは「相互利用」論の鄭義を含めて「人民の文革」と「毛沢東の文革」との関係をただ相互に外的なものの「相互利用」であったとは見なしていない。だがそれではその関係は何だったのかという問題をほり下げることはしていない。「毛沢東の文革」の文革を「政敵粛清」と見るかぎり、双方を関連づけられないのである。 だから決して解放的なものではなかった「毛沢東の文革」を「人民の文革」に関連づけるためには、双方が同質であったということ以外の条件を見つけ出し、設定することが必要となる。 「二年(ないし三年)文革」期、その運動は一つの頂点に登りつめ、そこで「人民の文革」的要素と交叉し、交錯したと見ることもできよう。劉国凱のいう「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」の時期である。自分と同質でないから「悪」だとすることは、異質なものとの協同と対立が政治の世界であることを見失っているだけであろう。 しかし「上海一月革命」をへて、とりわけ一九六七年二月の「二月逆流」以降、それはまた次第に乖離していく。 |
(私論.私見)