時田研究その2、文革総括考(「文革に纏わる百家争鳴」考) |
(最新見直し2005.5.27日)
【文革総括を廻る対立考その1、現中共党中央政権の文革論】 | ||||||||||
自由主義派と新左派の理論的対立を細部にまで見ていくと却って煩雑になる。結局のところ文革論に関わってくるので、文革評価を廻る両派の論争を検証することにする。劉国凱は、「文革をどう評価するかの問題は、単に歴史学の問題であるだけではなく、現実問題でもある」と述べている。 つまり、文革問題は現代中国政治に直通しているという観点を披瀝している。れんだいこの観るところ確かにそうではなかろうか。文革時代の対立が隠然として続いていると看做すべきではなかろうか。日本の評論士がこの観点を喪失したまま現代中国政治論を述べているが詰まらない。 |
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その前提として、現中共党中央政権の文革論を見ておく。現中共党中央政権は、一言で述べれば、「文革十年の大災禍論による徹底否定」の立場に立っている。 1981年、ケ小平系派は、11中総六中全会の「歴史決議」で次のような観点を打ち出した。
明らかに「勝てば官軍」式勝者の論理の押し付けであるが、以降「歴史決議の文革災禍論」が国是となり、現在この観点が更に深められ、「我々は永遠にいわゆる文化大革命を呪おう」(胡喬木)とまで述べる「文革徹底否定論」へ至っている。現中共党中央政権は、次のような歴史観を披瀝している。
これが、現中共党中央政権つまり体制当局側の共通認識である。日本の「文革礼賛者」たちは沈黙してその総括を放棄したまま今日に至っている。このことは、現中共党中央政権のプロパガンダの一人歩きを許している。ちなみに、日共党中央不破は、この点で現中共党中央と見解を一致させている。 同時に「10年文革」、「十年浩劫」(「10年の大災禍」)という言い方も定着していく。「文革は1966.5月の『五・一六通知』の採択を前後して始まり、10年後の1976.10月、江青・張春橋グループの失脚により終息した」との見立てである。これは、毛沢東派権力からケ小平派権力への移行過程に符号しており、現中共党中央政権の観点を如実に表わしていることになる。当局側の視点とは必ずしもいえない厳家棋、高?の文革史も端的に「中国文化大革命10年史」となっている(邦訳は「文化大革命十年史(上・下)」、岩波書店、1996)。 |
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劉国凱は、現中共党中央政権つまり体制当局側の文革論に接した時の違和感を次のように述べている。
劉国凱のこの違和感には根拠があるが、れんだいこが思うに、劉国凱の「文化革命は実際にはとっくに終わっていたのではなかったのか?」見解は却って皮相的であるように思える。文革を「毛沢東派権力からケ小平派権力への意向過程」と捉える権力闘争史観の眼があれば、「文革は1966.5月の『五・一六通知』の採択を前後して始まり、10年後の1976.10月、江青・張春橋グループの失脚により終息した」との見立てはその通りではなかろうか。最も闘う者が最も深く見えるということであろう。 劉国凱は、文革の特質を、従来の「政治運動」と区別される中国共産党の統制から相対的に自立した大衆組織と運動の登場を重視する。その頂点は、1966.8月の「十六条」採択から1968年(ないし69年)ということになるのだが、「文革徹底否定」論がこの見方を「徹底的に」排除していることを批判している。 さらにもう一つ、「10年文革」論は文革の「被害者」たる中国共産党官僚たちの一つのイデオロギー的な命名であるという批判である。劉国凱は、「三年文革与両條綫索」の中で次のように述べている。
しかもここには党官僚たちのメンタリティーが絡んでいたとして次のように述べている。
王希哲も、「関于翻案文革史論述提綱」の中で次のように述べている。
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【「文革史は書き換えられた」考】 | |||
文革は、その意義を「文革徹底否定論」で総括する現中共党中央政権つまり体制当局側によって相当に歪められている。「中国共産党の統治の仕方での悪魔的な知恵が働いている。あちこちめて手の込んだ歪曲、偽造が為されている」。
つまり、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派は、毛沢東の言説とは反対の事を毛沢東の権威を利用して彼らの意思を貫徹させたということになる。それは、「毛沢東権威の逆手取り行為」であったということになる。
この遣り取りを通じて、江青と張春橋は、ある重要な機密を漏らしたとしている。それは、江青・張春橋グループが三中全会での決着を準備していることを告知したことになり、これは江青・張春橋グループの政治的脇の甘さを示していることになる、と云う。 つまり、四人組は、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派を甘く見すぎていたということでもある。江青がこの頃頻りに「盛大な祝日を待て」、「身体を鍛錬しておけ」と指示している。王洪文が国家主席就任のための肖像写真を撮ったとかも漏洩している。つまり、江青・張春橋司令部は、「クーデター」を極秘裏にではなく、祝祭のように華やかに前宣伝をつけて進めようとしていたことが分かる。しかし、動きの刻々を敵方に筒抜けにさせるような戦闘がうまくいった試しは無い。 范碩の「葉剣英在1976」は次のように記している。
ということは当然、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派がそれを見据えていることになる。江青・張春橋司令部の甘さを物語る話である。 |
【文革総括を廻る対立考その2、「二つの文革論」の登場による官製文革論の否定】 | ||||||||||||||
上記「文革史は書き換えられた」で判明するように、現下のケ小平系中共党中央の文革論はあまりにも勝てば官軍式の得手勝手なものでしかない。そういうこともあって、遂に「二つの文革論」が登場することになる。 1980年になって、現中共党中央の「恐るべき文革史の書き換え」に対し、これに抗議する「二つの文革論」が生み出されてきた。それは、造反派紅衛兵世代による「官製文革徹底否定論のウソ」を告発する文革総括であった。仮に当局の云う様に毛沢東派の文革が徹頭徹尾謝ったものであったとしても、文革にはもう一つの流れがあった。このもう一つの文革の意義を抹殺することは許されない、と云う。これを仮に「二つの文革論派」とする。「二つの文革論派」は、その後に続く自由主義派の先駆けであり、新左派の産みの親となるものである。 1990年代初め、湖南省無聯の楊曦光(改名して楊小凱)が、文革にはその社会的根拠があったのだとの主張をしたときそれは集中的な非難に遭ったという。それらが海外中国人社会から始まって、大陸でのインターネット論壇などで一定の共鳴者を見い出し、事態がやや改善されたのは1990年代中頃だというからごく最近の動きということになる。 楊曦光の履歴は次の通り。1949年生まれの文革紅衛兵世代である。文革の最中を湖南省無聯のイデオローグとして登壇した。1967.1月闘争のあと、「二月逆流」のなかで逮捕され、10年間に及ぶ刑期を終えて出獄後、幼名の楊小凱を復活。北京に闘争経験の交流に赴くなかで「新思潮」にふれている。湖南大学で数学を学び、社会科学院研究員、武漢大学教員をへて、1983年アメリカに留学。プリンストン大学でエコノメトリックス(計量経済学)を専攻、その学問的業績は高く評価されているという。現在はオーストラリアのモナシュ大学の経済学部教授。その獄中記『牛鬼蛇神録』(牛津大学出版社、一九九四)は湖南省無聯の実態についての興味尽きない記述に満ちている。最近彼はカトリックに改宗したという。
楊曦光のこの回想に拠れば、造反派紅衛兵たちの中には当初より毛沢東の文革理論及び路線とは異なる運動を視野に入れていたことになる。
楊曦光は、当局お仕着せの「十年文革論」に抗するかのように「文革三段階論」を述べ、「もう一つの文革」の流れに注目し、「文革コミューン革命論」的流れのものが初期の段階に萌芽的にあったとして、その意義見直しを提起した。同書は、この観点から、周恩来をも含めて根底的かつブリリアントな批判を展開している。但し、付言すれば、楊曦光はその後、「コミューン革命論の放棄」さらには「革命そのものの否定」へと思想転回させている。しかし、中国の民主化問題、中国共産党の「10年文革論のごまかし」については今日なお批判の発言を続けている。 「二つの文革論派」は、楊曦光をはじめ、「李一哲大字報」の王希哲、広州「旗」派の劉国凱、紅衛兵組織発足の地、精華大学付属中学出身で作家の鄭義らが列なっている。いずれもかっての造反派紅衛兵の指導者たちであり、自らの経験に照らして官製文革史記述を批判し始めたことになる。鄭義の履歴は次の通り。1947年生まれ。紅衛兵組織発祥の地、精華大学付属中学の「出身不好」の造反派紅衛兵。のちに作家。「二つの文革」論を提起した『歴史的一部分』、広西チワン自治区での武闘と「食人事件」を扱った『紅色記念碑』を書く。1989年の天安門事件後、難を避けて中国各地を流浪。一九九三年、妻北明と共に香港経由でアメリカに亡命。 鄭義は明確に、「文革には第一の文革(毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった。第二の文革は人民の血の海の中から胎動した」と述べている。更に、概要「『血の海』はむしろ、文革初期を支配した劉少奇、ケ小平らの『工作組』と、その後の高級幹部子弟の『老紅衛兵』たちによって生み出されたものであった」と述べている。 鄭義は、「工作組」と「老紅衛兵」の支配を打ち砕いた毛沢東と中央文革による「ブルジョア反動路線批判」の提起を支持している。この時の「解放感」を最大限の言葉で語っている。一方、鄭義の「毛沢東の文革」評価はほぼ全否定である。これらはどういう関係になっているのか? 鄭義は「二つの文革」に連携があったとすれば、それは「相互利用」の関係だったからだという。 鄭義は、「両个文化大革命??」の中で次のように述べている。
劉国凱の履歴は次の通り。1945年生まれ。革期、親族に国民党上層部関係者がいたので「出身不好」の、広州「旗」派の活動家。文革渦中の1971年、今日なお高く評価される「文化革命簡析」を執筆。劉国凱がその執筆を考えたのは1968年の毛沢東による造反派大鎮圧の後だったという。「私はあの時、この政権は完全に人民を鎮圧する権力であり、あらゆる活動空間はすべて扼殺されたと思い、心の中で理論的にこの政権を徹底的に分析しようと考え、資料の収集を始め、1971年ひそかに『文化革命簡析』を執筆した」と述べている。1989年、アメリカに移住。 劉国凱は、「楊曦光の「中国はどこへ行く?」の精神をまともに引継ぎ、自らの経験をふまえた文革研究のなかに最も生かしており、文革についての該博な知識、その筆致、論旨の明快さが「二つの文革論」文献として必読のものとさせている。 劉国凱は、「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」として次のように述べている。
以上の把握の上に立って、劉国凱は、王希哲、鄭義ら他の論者たちの見解への自分の意見を述べている。
つまり、劉国凱は、鄭義の云うが如く文革を「人民の文革」と「毛沢東の文革」という風にはっきり分けることに疑問を提起している。相互の関係はもっと複雑だという。
王希哲の履歴は次の通り。1948年生まれ。「李一哲大字報」執筆者。文革終息後、北京の春(民主の壁)で活動し、1981.4月、「反革命罪」で逮捕、懲役14年。1995年に満期釈放。天安門事件七周年を控えた1996.5.31日、身柄拘束、6.15日、釈放。1996.10月、香港経由でアメリカに亡命、民主化運動に参加。
劉国凱は当初、王希哲の「李一哲大字報」に接したとき、「右派」的に感じたという。なにしろそこでは「コミューン革命」は語られず、「赤色ブルジョアジー」批判もなく、副題は「社会主義の民主と法制」だったのである。王希哲自身、自分は楊曦光と異なり、当時の文革に「右」として対したと述べている。しかし「李一哲大字報」には紅衛兵世代の明らかな政治思想の成熟があった。 |
【補足、「二つの文革論派」のもう一つ功績、「文革初期の紅衛兵たちの蛮行批判の批判」】 | |||
「二つの文革論派」の重要な功績に、「伝聞されている文革初期になされた紅衛兵たちの蛮行」の見直しが挙げられる。現下のケ小平系中共党中央文革論のウソとして告発している。文革経過への歪曲、とりわけ文革のすべての「悪」を造反派紅衛兵の仕業とし、その活動を全否定した当局の総括の仕方は容認できることではない、と立論している。
劉国凱の「致YQY先生的信」も次のように述べている。
楊小凱の「再談『文革』」も次のように述べている。
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【時田氏の「二つの文革論派」考】 | |
時田氏は次のように述べている。
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【補足、「二つの文革論」批判の潮流考】 | |||||||||||||||||
「二つの文革論派の文革論」は、自由主義派と新左派から乗り越えられていくことになる。自由主義派は、二つの文革論派の云うような「二つの文革論」という形での文革評価を認めず、一方、新左派は、二つの文革論派の「毛沢東の文革批判」に疑義を提起した。 ここでは四人の代表的論者を取り上げる。まず中共中央党校の金春明、つぎに社会科学院の徐友漁、そして在米「新左派」粛喜東、最後に在米中国人インターネット論壇の芦笛である。「文革徹底否定論」、「二つの文革論」、「文革二年(ないし三年)説」を批判した個所だけ取り上げる。 |
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金春明の履歴は次の通り1932年生まれ。中国共産党中央党校マルクス主義研究所副所長、教授。文革初期の1966年、金春明は「学術権威」として批判され、1969年「五七幹校」に下放。「文革徹底否定」の代表的なイデオローグであり、「文化大革命論析」(上海人民出版社、1985)、「文化大革命史稿」(四川人民出版社、1995)、席宣との共著「文化大革命小史」(邦訳、中央公論社、1998)等で知られる。
このように金春明は文革に格別な要素など一切認めず、中国共産党の歴代の「政治運動」の一特殊形態としてとらえ返すべきだという。 それでは「建国以来これまで毎回の政治運動」とはどのような性格のものだったのか。金春明はそれをつぎのように規定している。
要するに、文革は、毛沢東派の政治主義的文革運動でしかなく、紅衛兵運動はその枠内に組み敷かれていたと云う。そこには次のような7点の「特殊性」があったという。
金春明の主張は、「二つの文革」論者たちが強調する「大衆運動」の独自性なるものは存在しなかったのだということの論証に費やされている。
金春明の結論はこうである。
つまり、ケ小平路線賛美の立場からの毛沢東式文革路線否定理論であることが判明する。 |
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徐友漁の履歴は次の通り。1947年生まれ。四川省造反派の指導的メンバーの一人であり、大武闘をくぐっている。現在は中国社科院哲学所研究?であり、「新左派」と論争中の「自由主義」の代表的イデオローグの一人。かっての造反派活動家百余人からの聞き取り含む『形形色色的造反――紅衛兵精神素質的形成及演変』(中文大学出版社、1999)等の著書がある。
徐友漁は、かっての造反派世代のなかで毛沢東と文革の評価に最も厳しい。「異端派」の文章にも遇羅克らごく少数を除いて採るべきものは何もない、と言ってのけ、唯一の「成果」は文革と毛沢東思想を対象化し、批判できる自由な諸個人を生み出したことだという。彼にとって「新左派」たちの文革ノスタルジーなど児戯に等しいものでしかない。 「二つの文革」論を認めない徐友漁も、その前提となる「社会的衝突」論については高く評価しており、彼の紅衛兵運動分析もそれを基礎としている。「様々な造反――紅衛兵精神素質の形成と変遷」(中文大学出版社、1999)の中で次のように述べている。
徐友漁は、陳佩華、楊曦光という代表的な論者の見解を取り上げて反論している。彼らはこう主張していた。
徐友漁はここでいわれている造反派勢力の「独立」性、「反共産党」性に異議を唱えている。徐友漁にとってそれらのことは文革をへて、文革をくぐることによって、事後的に初めて可能となったのであり、文革を美化することなくそれをはっきり否定しなければならないのである。
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粛喜東の履歴は次の通り。「社会学者(香港)」、「中国人留学生」、「在米中国人左派」等の断片的な経歴が出てくるが、詳細な経歴は分からず。1960年代〜70年代の世界的な運動の高揚と後退のなかに文革の運命を位置づけ、日本のベトナム反戦闘争、三里塚闘争にも言及しているところをみると、香港で育った若い世代なのだろうか。民族主義的毛沢東主義者のようだが、その論旨展開は現代的水準を示しており、示唆される諸点がある。
つまり「人民の文革」の抽出により文革を救出しようとしたそれは、「毛沢東の文革」の否定を代償にしており、その点で「文革徹底否定」論への追従になっているというのである。 その上で粛喜東は「二つの文革」論の意義から出発する。
粛喜東も文革は「一〇年文革」ではなく、「本物の史上前例のない事件としての文革運動は一九六六年八月から一九六八年八月の二年間」と見るべきだという。
粛喜東が文革の起点を一九六六年八月としているのは、その月、「十六条」が公布されたのであり、世に「文革綱領」といわれる「五・一六通知」は文革固有の政治行動の特質にまだ合致していないとする見方からである。 「二つの文革」論者たちがその「二年(あるいは三年)文革」説を、その時期での大衆運動と組織の自立性にその根拠を置いているのに比べ、粛喜東の特徴はその時期での毛沢東、中央文革の指導方式、「政治運動の操作方式」の新しさに着目してことである。 粛喜東は、以上の評価の上に立って、しかしここから「二つの文革」論への批判が始まっていく。「毛沢東文革論と大衆造反運動の切断」に目を向ける。
その結果、「二つの文革」論は文革期の幾つかの顕著な現実を説明できないという。それは文革後期(原語「後文革時期」)をどう見るかに関連する問題である。
ここで注目すべき粛喜東の「政治連盟」論が登場する。
しかしこの「政治連盟」は破綻する。
ここで粛喜東は「政治連盟」の内的関連を分析している。
ここで粛喜東は「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東路線と造反派とは同質の「思想体系」にあったと述べている。
「二つの文革」論者たちの毛沢東「大民主」論批判についても粛喜東は反論する。
さて、粛喜東は「二つの文革」論者たちと共に「社会的衝突」論、「二年(ないし三年)文革」説をもって「文革徹底否定」を批判するわけだが、「二つの文革」論は取っておらず、また「毛沢東の文革」批判も受け入れていない。つまり「一つの文革」の立場なのだ。そうすると粛喜東にとって「二年(ないし三年)文革」期以外の時期は何なのか? 文革なのか文革でないのか?
粛喜東によれば「ここでいう『文革後期』は文革の後期〔原語「文革之後的時期」〕という意味であり、一部の文革を『文革以前』〔原語「前文革」〕と『』〔原語「後文革〕とに分ける観点がいうところの「ポスト文革」ではない」という。つまり粛喜東は「六八年末から七六年末までの時期」も文革に含めていると見てよいのか? しかしこの点は微妙であり、はっきりしない。それが中国語の多義性による解釈の幅なのか、あるいは当方の初歩的読解力の故なのか、それとも粛喜東自身がはっきりしていないのか、よく分からない。「二年(ないし三年)文革」以降は文革期なのかそうでないのか明言すればよいことであり、また「後文革時期」、「文革之後的時期」等の紛らわしい言葉を使うべきでないだろう。 いずれにせよ、それは文革を文革たらしめた「政治操作方式」はすでに失われている時期だという。 |
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● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」
【在米民主化運動従事者。インターネット論壇著名人。詳しい経歴は分からず。ただ芦笛は遇羅克「出身論」についてこう述べている。「当時あの文章がわれわれ黒い犬の子の心中に引き起こした震動はまさに言葉で表現できないものだった。何の誇張もなく言って、あの文章は私の暗黒の心に開けられた一つの明るい窓であり、毛沢東思想の他に世の中にまだこのように生き生きした別の思惟方式があることを初めて知らされたのである」。「黒い犬の子」、すなわち「出身不好」の紅衛兵世代である。現在、民主化運動の一部の指導者と悶着を起こしているようである】
だが今日、遇羅克の文章を読み返した芦笛はそれを「裏がえしの血統論」だと感じる。それまでは「出身好」が革命的とされていたのに、今度は「出身不好」が革命的、「出身好」はダメとされただけで思考のパターンは同じではないかというのである。
芦笛がこのように考えるに至るには献身的な造反派としての生き方から「真性の反革命」へと至る経過があったという。遇羅克、楊曦光、王希哲から最も大きな影響をうけたという芦笛はその後、これら「異端思想」こそ民衆にとって、「走資派」、さらには毛沢東以上に危険であって、もしその「パリ・コミューン式の」社会が実現したら悲惨極まることになったろうと考えるに至っている。
「文革一〇年での、見つけられた限りの毛沢東の一切の内部講話を私は仔細に読んでみて心底思ったのだが、毛沢東の内心深くにあった政治的理想はこれら『異端』の思索者たちが提起したものとまったくそっくりなものだったのである」。(「先知先覚者的悲劇――兼論『両个文革』」)
ところがこの思索者たちは毛沢東の二面性を理解しておらず、毛沢東の現実的側面に頭をぶつけて「毛沢東の文革」と異なるものとして「人民の文革、われらの文革」を言い出したのだが、実はその「人民の文革」は毛沢東の理想的側面がはらんでいたものだったのである。
「毛沢東と同様、彼らも民主を鼓吹した。だが不幸なことに彼らはこの重大な問題で毛沢東の教義を黙認した。すなわち民主は階級とイデオロギーを超越したものではなく、ただ人民にだけ与えられるのであり、『反動派』には与えないのである」。
「これらの『異端』思想家は毛沢東の心を深くつかんだが、しかし彼らにとって不幸なことに毛沢東は矛盾に満ちた人物であり、根深く『葉公龍を好む』気質を有していた。一面では彼は紛れもなく共産党の高級幹部のなかでただ独り比較的『抽象的な』思考を好み、明らかに理想主義的傾向と『ロマンチズム』気質を持った革命家だった。他方、彼はまた老謀深算〔細心に計画し深遠に見通すことのできる〕、無比の精妙さを持った政客、謀略家であった」。
毛沢東はコミューンを語りながら、実際に上海が「上海コミューン」を名乗ったら怖くなって逃げ出した「葉公」だといえるが、他方、一つの政治思想が諸関係を通してどのような実践的帰結をもたらすかを測定できる卓越した、かつ謀略に富む政治家でもあったというのである。(なお、中国語の「謀略」は「謀に長けた」という意味でそこに「陰謀」的語感は希薄なようである)。
「不幸なことに、『異端』思想家たちは毛沢東の『二面性』を見抜いていず、毛沢東のユートピア的な断片的な言葉に酔い、インスピレーションを得、マルクス・レーニン主義の用語をもってあれらの言葉の断片から比較的整った思想をつむぎ出し、『中国はどこへ行く?』、『社会主義の民主と法制を論ず』を書き上げたのであった。想像に難くないことだが、これらの文章が現政権の存在を脅かしたが故にただちに当局によって厳しく弾圧されたのだが、毛沢東は当然にもこれら民間思想家たちの生死を気にかけることはなかった。冷酷にいえば『異端』思想家たちは毛沢東に騙された忠臣たちだったのである」。
「遺憾なことに、『われらの文革』は真に『人民の文革』だったかも知れず、社会的に圧迫され、差別された『出身不好』の者たち、『落ちこぼれ分子』たちが立ち上がり、『走資派』、党員・青年同盟員、積極分子と真に闘ったのかも知れないのだが、不幸だったのはこのように主張する人たちが二つの基本的事実を見落とすか粗略に扱ったことであった」。
「第一に、『われらの文革』が仕えていたのは依然として『われわれの思想を指導する理論的基礎はマルクス・レーニン主義である』ということだった。のみならず、その革命精神が徹底的であり、その政治理想が現実的な弾力性に欠ける故に、その実践は必然的に中国に劉少奇、ケ小平ら平凡な管理より、更に大きな、更に深刻な災難をもたらし、だから更に反動的なものとなったろう。〔……〕これら『人民の文革』は、毛沢東が『徹底的な革命精神を』を欠いていたがゆえに、いまだ全国に広められなかったのは、人民にとってまさにいかに大きな幸運だったことか」。
「第二に、『われわれの文革』、あるいは真の『人民の文革』は、その人民の半分のものに過ぎず、少なくとも保守派という半分を含んでいないものだった。『人民の文革』が勝利した幾つかの地区では、それら半分の人民が受けた迫害は毛沢東の共産党が統治した以来の最高水準を越えていた。それと同時に伝統的な『階級の敵』の災難はまったく終わっておらず、『階級隊列の純潔化』、『一打三反』という民衆を踏みにじる運動のなかで再び残酷に蹂躙されたのである」。
芦笛はどの地区のことを言っているのだろうか? それに「階級隊列の純潔化」、「一打三反」はそれこそ毛沢東による陰惨な造反派掃滅の運動だったのに。
しかし「人民の文革」はその政治思想の質からすれば「イラン・シーア派の原理主義的イスラム革命的なもの」になるという芦笛の「異端思想」、「コミューン型革命」論批判の論理は強力であり、「二つの文革」論者たち、そしてわれわれもまたそれに答えなければならない性格のものではある。 |
【文革総括を廻る対立考その3、新左派の文革論】 | ||||||||||||||||||||||||||
民主派的「二つの文革論派」による文革再評検証が、「新左派」の文革再評価を生むことになる。「新左派」は、官許文革論、「二つの文革論派」の文革論が「毛沢東と中央文革の文革」を否定的に取り扱っていたのに対し、「合理的な要素があった」としての見直しに向っている。「二つの文革論派」は、文革時の「毛沢東の文革」と「人民の文革」の関係を「相互利用関係」と看做していたが、新左派は、「毛沢東の文革」と「造反派の文革」の関係を「政治的同盟」であった、と云う。 これにつき、時田氏は次のように補足している。
「新左派」の観点は、「二つの文革論派」の体制当局側の文革徹底否定論批判に比してより明快である。体制当局側の文革徹底否定論を次のように批判している。
かく述べて、文革再検証論の立場に立っている。れんだいこ風に述べれば、体制当局側の文革徹底否定論は、歴史観としても非弁証法的過ぎるとする批判であり、文革を全否定するのではなくその経験から有益な何かを汲みださねばならない、「傷痕文学的総括から脱しなければならない」と主張していることになる。 文革の意義を見直すべきだという大胆な発言を最初におこなったのは崔之元だといわれている。1963年生まれで中国社会科学院に入った崔之元はその後アメリカに留学し、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学で教鞭をとっている。その論文「鞍鋼憲法とポスト・フォード主義」で鞍鋼憲法こそポスト・フォード主義の先駆だったと述べて論議を呼んだ崔之元はさらに文革についてこう述べたのである。
官許的「文革徹底否定論」に真っ向から対立する見解を述べていることが判明する。文革から三〇年余をへた今日、こういう主張が登場したのである。当然これらは中国国内で強い反発を受けると共に共鳴も生み出している。現在の中国でこの程度のことを言うことは許されているのか、それとも「新左派」がその内部に多分に中国ナショナリズムに繋がる要素を含んでいることもあって当局が容認しているのか、それは分からない。 但し、「新左派」の内部は必ずしも一様ではない。というか明確な見方の差がある。崔之元のそれが西欧の現代理論によってとらえ返された文革再評価だとすれば、青年期に文革後期の「批林批孔」運動などを体験している李憲源(常仁)は心情的にも毛派であり、民衆の立場の名において「経済文革」の必要性を唱える実践派である。彼は「新左派」と呼ばれることを必ずしも歓迎しない崔之元らを皮肉ってこう述べている。
もっとも、李憲源のこの批判を「『新左派』の分岐を示すもの」と見る「自由主義」の論評に対して「左派、民族主義陣営内部の意見の分岐を無限に誇張している」と反論しているところを見ると、これらはイデオロギー的にいまだ生成過程にある「新左派」の内部論議なのかも知れない。 「新左派」の李憲源は、「文革徹底否定論」がもたらした諸結果をつぎのように列挙している。
「新左派」は、総論として次のように述べている。
興味深いことに、次のような観点も披瀝している。
これによれば、政権正統派は四人組の方であり、その四人組を打倒した葉剣英ー華国鋒ーケ小平派の行為はクーデターであった、と看做していることになる。 かく正確に事態を見据えた上で、更に歴史観を問うというのが新左派の真骨頂となっている。次のように述べている。
新左派側は第二に次のように認識している。
新左派側は第三に次のように認識している。
時田氏は次のように述べている。
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【「大民主」の意義考】 | ||||
1966.8月、「十六条」(「中国共産党のプロレタリア文化大革命に関する決定」)が呼びかけた「大民主」(「大鳴・大放・大弁論・大字報」)は当時の造反派の運動を一気に解き放ったものであった。「新左派」たちの文革再評価はニュアンスの差を含んでいるが、彼らが一様に強調しているのは「大民主」の意義である。 崔之元は次のように述べている。
李憲源は次のように述べている。
粛喜東は次のように述べている。
このようにこれら「文革の積極的要素」の見直しは単に文革の再評価ということにとどまらず、今日の「改革開放」の推進に利するものであり、さらにはヨーロッパ民主主義を超えた「高度な民主主義」建設の中に生かされるべきものと位置づけられている。 そしてこの主張の背後にはソ連・東欧の崩壊に対する次のような総括があった。韓毓海は次のように述べている。
そして「自由主義」への批判は彼らが後者の道を歩もうとしているということにあるのだが、その正否はさておき「新左派」のこれらの「大民主」の評価にはいかにも甘さがあった。 中国共産党言語(毛沢東言語)には人を戦慄させる威嚇の言葉と共に魅惑的な解放的言語が数多くある。「思想改造」(「翻身」)、「生き生きした政治的局面」、「人民内部の矛盾」等々である。文革初期の「群衆自己解放自己」、「群衆自己教育自己」などはその最たるものだろう。 だがそれらが政治的に開かれた空間、自由な空間とは、まったく異質なものへと展開する契機を含んでいたことを「新左派」は理解していない。たとえば「思想改造」は人を旧来の諸関係、価値観からの解放であると共に「思想改造」の組織主体への思想的、政治的従属を意味した。また「人民内部の矛盾の処理」はそこで相対立する矛盾相互の相対的同等性の原理的承認を意味せず、常に「正しいもの」、「進んだもの」への「間違ったもの」、「遅れたもの」の包摂、吸収を意味した。 「生き生きした政治的局面」も同じである。この言葉は造反派紅衛兵たちに開かれた政治空間のことと理解されて彼らを魅了した。だがそれは複数の選択肢のもとでの異なる意見間の対立と共同の政治空間を意味せず、あくまで「正しい思想」に統一され、一体化されることを前提とした上での、「積極分子」たちの活発な活動世界なのである。「新左派」たちは総じて毛沢東の「解放性」がはらむこの側面には気づいているのかいないのか無批判的なままである。 |
【文革をどう総括してはならないか考】 | |||
だが「新左派」たちも文革がはらんだ深刻な問題に無自覚なわけではなかった。だが文革はどう総括されてはならないかという点に彼らの関心はおかれている。 汪暉は次のように述べている。
海外派の崔之元と共に「新左派」の理論的イデオローグである大陸在住の汪暉は崔之元や李憲源のようには文革の意義について語ることは少ないのだが、以上のように文革の問題性を「悲劇」と見ることのなかにその文革観は示されている。そして彼らは「文革徹底否定」論を突き崩し、文革の真の姿を復元した後はじめて文革がはらんだ問題の総括も有益なものとなると言う。 李憲源は次のように述べている。
粛喜東は次のように述べている。
これらの総括の仕方は首肯できるものである。当初の「良き意図」がいかなる脈絡のなかで「悪」を生み出したかということの解明こそが意味を持つからである。それでは「新左派」たちは何を解明しえたか。 |
【「世界的な革命情勢の後退――文革敗退のもう一つの原因」考】 | |||
文革の盛衰を当時の国際的な階級闘争の中で捉える必要があると強調しているのが粛喜東である。次のように述べている。
つまり、粛喜東は一九六〇年代後半の一時期をいわば「戦後第二の革命期」と見なしており、そのうねりの世界的終息が中国の文革を孤立させた、そういう面での失敗要因を見ねばならない、と述べていることになる。 |
1968.7月の中国共産党が公布した「広西問題に関する布告」(「七・三布告」)を廻る見解も重要であるように思われる。粛喜東は次のように述べている。
毛沢東がなぜこの布告を出したかについては、従来、毛沢東の文革路線から左にはみ出した部分への弾圧と理解されてきた。その側面は否定できないと思われるのだが、粛喜東の文章の功績はそれを「戦争が革命を阻止」した例として取り上げ論証した点にあった。つまりベトナム戦争の激化が文革大民主を後退させたと言うのである。粛喜東の「戦後第二の革命期」の把握がどの程度の深みがあったかはさておき、文革の崩壊は「四人組」がでたらめな事をやって人望を失ったのだという「文革徹底否定」論の大キャンペーンにわれわれにしても多かれ少なかれ影響されてきた経過を経てきた今日、その主張はあらためてわれわれの文革の見方を啓発する意義を持つと言えよう。 |
【文革再評価と中国ナショナリズム】 |
「新左派」たちによる文革再評価は、多分に中国ナショナリズムに傾斜する傾向を帯びている。ナショナリズムを通じての国際主義という視野に立っている。「社会的平等と社会的公正は国内的平等を含みもすれば国際的平等をも含む」(汪暉)という観点による。 もう一つは彼らの「自由主義」批判の重要な柱の一つとして、「自由主義」が依拠する西欧民主主義そのものの評価の問題があり、 「新左派」はそれに対抗しうるものとして文革での「大民主」を高く評価し、多党制を批判している。 つまり「新左派」による文革再評価は西欧民主主義に対する「中国の特色ある」政治的、経済的制度の見直しという文脈の中で主張され、それによって当局に黙認されているという側面を持っていると見るべきなのか。彼らが中国共産党政権を直接批判することなく、また「経済文革」の主張にとどまることもその結果である。 それではこの文革評価をめぐって「新左派」、「自由主義」は何を争っているのか。 |
【自由主義派の新左派文革論批判】 | |||||
時田氏は次のように述べている。 さて以上のような「新左派」の文革の見方は中国社会の公的世論を形成している「文革被害者」たちの驚きと憤激を呼び起こすと共に、長きに亘って「文革徹底否定」論とケ小平の「不争論」(論争をするな)のもとに封じ込められてきた文革への種々の思いを解禁することにもなった。 だがそれは「自由主義」にとっては容認できることではなかった。その主要なイデオローグたちの多くが元造反派紅衛兵であり、一九六八年以降の毛沢東による弾圧のもとで、多くの模索を通してついに毛沢東の思想と言語を対象化しつつその圏域から脱してきた彼らにとって、今になっての「新左派」たちの文革再評価はそれでは自分らの苦闘は何だったのかということになるからである。 そしてそれは文革の総括の仕方にとどまらず、「自由主義」にとって「新左派」の「政治民主」、「経済民主」の主張は、中国の将来展望にとって有害なものであった。現在の市場化の先に、今日の中国共産党の専制ではない政治的自由の道を、文革や天安門事件のような「急進主義」的方式ではない形で実現しようというのが「自由主義」の展望だったからである。当然彼らは厳しい批判をおこなっている。 徐友漁は、「中国九〇年代の新左派を評す」の中で次のように述べている。
徐友漁は、「九〇年代の社会思潮」の中で、「新左派」の文革再評価と真っ向から対立する見解を対置している。「自由主義」的立場からまず事実認識においてまるで話にならないとして次のように述べている。
「自由主義」的立場からすれば、「新左派」の路線性格は、ヨーロッパの「新左翼」がスターリン主義批判をくぐり社会民主主義に接近しているのに比べ、フランクフルト学派的なヨーロッパ・マルクス主義の影響下にスターリン的「左翼性」を評価するようなものとなってはいないかという見方になる。 秦暉は、「現代中国の『主義』と『問題』」の中で次のように述べている。
朱学勤 は、「一九九八年自由主義学理の言説」の中で、文革をくぐってきた者たちの切実な総括として次のように述べている。
「自由主義派」の主張は、新左派に劣らぬ文革をわが身でくぐってきた者たちの迫力がある。毛沢東が造反派への弾圧に踏み切った一九六七年後半以降、彼らは必死になって自分らの立場を思想的、政治的に再確認しようとして多くの文献を研究し思索している。湖南省無聯に関する優れた本(『北京と新左翼』時事通信社、1970)を書いたクラウス・メーネルトは楊曦光「中国はどこへ行く?」について、彼らがジラスの『新しい階級』を読んだとは思えないが、分析の仕方は瓜二つだと述べていた。 だが彼らは読んでいた。それどころかそれは彼らに最も大きな影響を与えた本だったという。さらにはマルクス「フランス三部作」、トロッキー『裏切られた革命』、『スターリン』までもが読み込まれている。 |
【新左派の自由主義派文革論批判】 | |||
これに対して「新左派」はこう反論する。
だが「自由主義」が「新左派」の提起に対して十分に反批判できているわけではない。それは「新左派」の文革論議が「自由主義」から見るといかに皮相なものに見えても、それが汪暉に代表される「モダニティーの超克」というダイナミックな構図の中に位置づけられ、そのとらえ返しが主張されるとき、それは一つの展望であるかの如き喚起力を持ってしまうからである。 文芸評論家の李揚はこう書いている。
「新左派」は、「自由主義派」の文革の見方は当局の「文革徹底否定」と同じではないかと皮肉っている。李憲源は次のように述べている。
だが「新左派」による文革再評価の登場には二つの要因があった。その一つは「文革徹底否定」論の問題であった。それについては朱学勤自身も「今日の新左派思潮の出現は文革を簡単に否定したことの報いであり、懲罰でさえあるのだ」と認めている。 もう一つは「自由主義」が「改革開放」が生み出した社会的現実に有効な対応をイデオロギー的に提起できていないことにあった。徐友漁が現在の中国は汪暉の言う「モダニティーの超克」が課題となっているどころか、資本主義と市場の積極的意義の汲みつくしの先に政治の民主化をふくむ中国の展望が切り開かれるのだと言っても、その資本主義と市場の権力による展開の中から深刻な社会的差別が顕在化してきている今日、それは説得力を欠くからである。 |
【「鞍鋼憲法」の評価を廻る両派の論争】 |
崔之元の「鞍鋼憲法」の評価について徐友漁は「中国の現実を知る人々をあいた口がふさがらなかった」と述べていたが、その歴史的推移を記したものに高華「鞍鋼憲法の歴史的真実と『政治的正確性』」がある。彼もまた「これらの論述を読んだとき、私はきわめて怪訝に思った。これらの研究者が提起したそういう判断の事実的な基礎が確かであるか否かについて私は大いに疑問を持っている」と言う。 高華は「鞍鋼憲法」提起の歴史的経過をたどりながら、その実態についてこう述べている。「問題は鞍鋼が採用したこの改革はつまるところ労働者が自発的に望んだものなのか、それとも指導者が強力に引っ張ったものなのかということである・・・事実が証明していることだが、それは毛沢東の主観的理念が強力に導き、促した産物であった」。 職場では「大弁論」がおこなわれ、労働者たちは合理化に向けての何万件もの提案をおこなっている。そして熱気の中で各種手当ての取り消しまで決議されている。「だが一九五九年に入ってから鞍鋼の生産状況は危機を示し始めた。原材料と電力の供給が厳重に緊張し、鞍鋼の生産は断続的にストップした」。そして栄養不足による病気が広がり、労働者たちの不平不満話が広がっていく。ここではその原因について深く立ち入ることはできないが、要するに「大躍進」時に中国産業を襲った現象が鞍鋼にも現れたのである。 興味あるのはそのとき鞍鋼の党支部が取った措置である。彼らは「階級分析」をおこない、「大批判」によって労働者の生産意欲を向上させようとしたわけである。生産の後退、職場の労働意欲の衰えを政治的不満分子の陰謀と見て、「積極分子」を動員してそれを暴露し吊るし上げるお決まりのやり方である。「歴史がわれわれに告げているように、当時の鞍鋼憲法はただ一つのユートピアの未来図でしかなく生活の現実ではなかった。現実の企業制度は当委員会の指導の下にあって、書記が指揮していた」のであり、そこでの「大民主」の崔之元の評価の仕方は「曲解されたユートピアの未来図」でしかなかった。(何家棟「ポスト・モダン派はいかに現代用語を流用しているか――『経済民主』と『文化民主』を評す」) |
【「大民主」の評価を廻る両派の論争】 |
自らの造反派としての経験とかっての造反派の指導的メンバ―百余人からの聞き取りによって『様々な造反――紅衛兵の精神的素質の形成と変遷』(中文大学出版社、1999)という優れた文革総括を書いた徐友漁は、歴訪の先々で「大民主」がいかに自分らにとって解放であったかという元造反派たちの証言に接している。 だが今日、徐友漁はそれに否定的である。 「私も文革のなかでおこなわれた大民主がある人々に以前彼らを圧迫していた官僚たちに反抗することができる一種の形式と手段を獲得したと思わせたことを認める。だがこの種のものは真の民主とはまったく共通するものはなく、益するものより弊害の方が大きかったと考えている」。(「総括と反思」) 「まことに文革のなかで大衆が実権派に大字報を貼って彼らを暴露し批判することができたということは文革以前にはできなかったことである。だがこれは大量の『党内走資派』を攻撃し打倒するという文革の戦略の一環でしかなかった。『文革』中の大民主とはどんなものだったか? たしかに大衆には指導的幹部を暴露し批判する言論の自由があった。だがそれは『文革』中に定められた基準に照らしてある幹部が「走資派」であるか否かを争論する自由でしかなかった。一般的に言って、この範囲を越えた言論の自由はなかった。『文革』中に公布されたいわゆる『公安六条』がその最も良い例である」。 徐友漁の文革と毛沢東への批判は厳しく、ほぼ全否定である。これらは文革以降彼が積み上げてきた総括作業の今日的到達点である。 「大多数の中国人にとって『文革』はすでに思い出すに忍びない往事となった。だが私と同年齢の多くの者にとって、『文革』はただ痛苦、恐怖、大災禍ではなく、彼らが『文革』について語るとき、彼らが『文革』のときどの党派に属していたかに関わりなく、総じて一種の懐旧の念と喪失感を伴っていた。彼らにとって『文革』は一つの砕かれた夢であり、彼らはこの夢に自らの理想、情熱、追求を託していた。彼らにとって『文革』は失われたきわめて心地よい栄光の歳月だったのだ」。 「私にしても当然これら一世代の若き日の理想と情熱を抹殺したいとは思ってはおらず、自分自身その中の十分積極的な一員だった者として、彼らを理解し愛惜している。だが私は彼らが主観的なものと客観的なものを区別することを希望する」。 「肝心なことはわれわれの世代は騙されたのだということを承認しなければならないということである。・・・われわれの理想と情熱は弄ばれたのだ」。 「私は『文革』の中で多くの若い学生たちが真心をもって真理を追求したことを承認する。だが多年来の極左イデオロギーの作用によって各種の紅衛兵理論はただ偽りの前提から演繹したものでしかなく、遇羅克らの文章を例外とするのみであった。中国の現代化、民主化の進行過程との関係でいえば、『文革』中の文章と理論は、そこに紅衛兵たちのどんなに多くの思考と探求が凝集されていたにせよ、すべて無価値である。たとえ〔文革〕後期に到って一群の紅衛兵たちが新たな認識を持ったとしても、それもまた『文革』が強いたもの、『文革』への教訓と反思の産物であり、それらの思想の成果を『文革』それ自身に帰すことはできないのである。悪事がときには良い結果を(高い代償を払ってだが)引出すからといって、われわれは良い結果のために悪事を働くことはできないようなものである」。 「自分は弁証法を捨てた」と徐友漁は言う。 以上のような徐友漁の「総括と反思」は「新左派」たちの問題の所在に気づかぬままの文革再評価へ冷水をかけるものとなっている。だがここには微妙な問題があるように思われる。それは過去の経験の問題点の理論的根拠の認識の仕方なのだが、今日になって見えてきてことから過去を裁断するとき、その過去の清算の仕方が一歩間違えると人がこの現実に関わる実践的・理論的契機、回路の喪失となるという問題である。 たとえば徐友漁は「中国は大きな災禍を代償に毛沢東主義と毛沢東式社会主義への別れを告げる機会を得た」、「文化大革命の災難は人々に毛沢東的社会主義の徹底的な破産を認識させた」と言う。(「社会の変動と政治文化」) ここには毛沢東の文革理論を部分的「誤り」とか部分的「悪」としてではなく、「誤り」そのもの、「悪」そのものとしてとらえ切り否定し去る意志が示されている。だがここに登場する先にふれた一つの罠、過去を総括する際に陥りやすい陥穽に徐友漁は必ずしも自覚的でないように思われる。 たとえば徐友漁は「全体主義の思想的根源」を解明する作業の一環として、ポパー『開かれた社会とその敵』を取り上げ高く評価している。この本は読み物としてはきわめて面白いものだが、問題はそこでの「理論的根拠」の掘り下げの仕方である。 ポパーはそこでマルクス主義の問題性をヘーゲルからさらにプラトンの弁証法に遡ってその理論構成の中に抑圧的社会の「根拠」を解明しようとしている。だがこういう「思想的根源」の掘り下げの仕方は根本的であるかに見えてどこかに錯誤がある。たとえば思想の型として見れば同一に見える理論も、それが現実化するに際して置かれる諸媒介によって別の性格、機能を帯びる。 たとえばマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東からその思想の抑圧的性格、型を抽出してそれを現実的抑圧の「思想的根源」とすることのどこに錯誤がはらまれるかといえば、抽出すれば一見同質のものとなってしまうそれらも、実際には各々のニュアンスやベクトルの差異を持ち、それはそれが置かれる諸条件、諸関係のもとでまったく別の働きをもつものとして現実化する(たとえばそれへの対抗思想や政治的対抗力の有無は大きな作用力を持つ、というように)ことが見落とされているからである。 思想とその現実化の間にそれを媒介する以上のような諸条件、諸関係が果たす作用があるからこそ、人はある思想に対して否定か肯定かの二者択一ではない接し方、評価の仕方(「批判的継承」とか「弁証法的止揚」とか)が可能となるのである。それはそういうとらえ返しも可能ということではなく、どの思想もとらえ返しを可能とする側面を持っているということであろう。 だからこそある局面である積極性を持っていた一つの思想が、何を契機にその堕落、退廃、敗北形態へと転化したかの見きわめが可能となる。ここでのテーマで言えば、当時の現実の中で「大民主」のはらんだ理論的・実践的な射程力、それが諸関係の中で造反派を鼓舞したことなど無意味とされて「走資派打倒の戦略の一環」に切りつめられ、それが本質だとされてしまうことである。ここからは「大民主」に批判的にであれ、肯定的にであれ総括的に関わる契機は失われ、ただ否定があるだけとなる。すなわち現実への理論的・実践的契機の喪失であり、その空隙はまったく別の新理論(種々の自由主義理論)によって埋められねばならないこととなる。たとえば徐友漁自身、文革のある局面での経験をつぎのように回想している。 「差別、排斥され、打撃を受けてきた学生にとって、一九六六年、『毛主席を筆頭とする党中央』の名で公布された二つの文書は終生忘れがたいものとなった。・・・ほとんどの造反派積極分子がはっきり覚えていることだが、彼らがこの二つの文書の内容を知ったときどれほど感動し喜んだかは、あたかも死刑囚が釈放されたかのようであった。・・・彼らは当時の気持ちを期せずしてつぎのように表現した。『革命方知北京近、造反方覚主席親』(「革命してはじめて北京の近きを知り、造反したはじめて毛主席の親しきを感ず」)」。(『歴史に直面する』中国文聯出版社、2000) この「二つの文書」とは一九六六年一〇月、毛沢東と中央文革がそれまで曖昧だった文革の闘争対象を明確に「ブルジョア反動路線」に絞ったときの提起であり、それによってそれまで劉少奇、ケ小平主導下の工作組によって弾圧されていた「出身不好」の造反派の復権がなされたのである。この時期、毛沢東と中央文革の路線はそれが可能性としてはらんでいた「解放性」の頂点に達している。陳伯達のこの講話は劉少奇、ケ小平に連なる驕り高ぶった高幹子弟ら「老紅衛兵」の「血統論」を打ち砕き、江青もまた「血統高貴が何だと言うのだ」と叫んでいる。 「この一時期、毛沢東と中央文革小組はこれら圧迫され、迫害された造反派の盟友であった」。(粛喜東「文革の中での指導者と大衆:言葉、衝突と集団行動」)それもまた徐友漁が言う「走資派」打倒の「戦略の一環」でしかなかったと見なすことは可能である。だがそれを「悪事がたまたま良い結果を引き出したもの」と見なすことはどこかに錯誤がある。 良きこと(ここでは「解放性」)が純粋に確固として完成した姿で出現するということはないのであり、それは「すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境のもとで」(マルクス『ブリュメール十八日』)、限界を帯び、諸関係のなかで一歩まちがえればその退廃形態、敗北形態へと容易に転化しかねない脆さをもって登場する。 徐友漁がなすべきだったのは、当時このように造反派を鼓舞した毛沢東と中央文革の路線がどのような問題点を持ち、いかなる文脈の中で否定的なものとなったかの解明であり、今日の到達点からそれを全否定することではなかった。 徐友漁が数少ない例外とする遇羅克は紛れもなく文革のなかで現れた優れた資質を持つ思想家である。その文章には当時隆盛を極めつつあった姚文元らの「大批判」言語とは異質の論理と文体が示されている。「文化大革命はまさしく彼に文革前の一七年に造反する機会を与えたのであり、文革がなければ彼の『出身論』もなかった。だが他方、遇羅克は紛れもなく文革において重刑を科せられ、のちに銃殺されたのである。このことは文革の両面性を典型的に示している。それは解放的な一面と抑圧的な一面を併せ持っていたのである」。(祝東力) どこか詭弁のにおいもするこの言い方の中には、しかし文革を見ていくに当たってわれわれが熟思しなければならないある真実もある。 徐友漁も編者の一人である『遇羅克 遺作と回想』(中国文聯出版公司、1999)を見るとき、遇羅克もまた当時のイデオロギー世界と無関係に登場した突然変異だったわけでなく、「出身論」以外の「聯動」(中央文革を公然と批判した老紅衛兵組織)を批判した文章はきわどく中央文革の「走資派」批判の文章に近づいている。 4.毛沢東の「大民主」について 「新左派」崔之元、粛喜東らが毛沢東の「大民主」を「パリ・コミューン型原則」として高く評価するのに対して、「自由主義」の徐友漁ら、そして?小夏は、それは毛沢東の路線への支持を大前提にしたものであり、真に自主的なものの承認ではなかったことを強調していた。 毛沢東の「生き生きした政治的局面」という有名な言葉も、決して異なる見解の対立と共同として自由な政治空間を意味しなかったように、それらの指摘は当たっている。王力によれば毛沢東は端的に「大民主はプロレタリア独裁を前提とする」と述べたという。そして中国共産党の「プロレタリア独裁」がいかなるものであったかを考えるとき、「新左派」たちの「大民主」賛歌はそのことの総括の上になされるべきであろう。 ただ注意すべきことは毛沢東の「大民主」はただ「民主主義の欠落」でなく、レーニン「プロレタリア民主主義」論にもとづく主張だったということである。今日、「民主主義の軽視」を非難されるレーニンだが、それはレーニンが反民主主義的思想の持ち主だったからではなく、その民主主義論は将来社会における「国家の死滅」、「政治の死滅」、従って「民主主義の死滅」という壮大な展望の中に位置づけられていたのである。そしてそこにこそ異なる意見の撲滅をはじめとする「民主主義の軽視」ないし否定の根拠がすえつけられていたのであり、それはつぎのような論理構造を備えていた。 「レーニンがここで言おうとしているのはつぎのようなころであろう。 そもそも『平等な権利』や『多数者への少数者の服従』、『少数者の保護』等の『民主主義』の根底にあるのは『共同生活の根本規則』のことなのだが、それが『民主主義』という制度形態をとるのは階級矛盾が存在しているからであり、『民主主義』というのは『共同生活の根本規則』の疎外形態なのだ。もちろんわれわれは『民主主義』を軽視しないし、汲みつくしていかなくてはならない。だが『民主主義』の実現が目的ではなく、階級の消滅する共産主義社会では『国家形態としての民主主義』は『死滅』し、『共同生活の根本規則』が社会を律することになるだろう。 ここでさきの引用個所の一つをふりかえってみよう。 『われわれは多数者に少数者が服従するという原則が守られない社会秩序の到来を期待しているのではない。しかし、われわれは社会主義をめざしながらも、社会主義は共産主義へと成長転化するということ、またそれにともなって人間にたいする暴力一般の、ある人間の他の人間にたいする服従の、一般住民の他の一般住民にたいする服従の必要はすべて消滅することを確信している。なぜなら、人間は暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣がつくだろうからである』。 だがここにはある理論的飛躍ないし欠落があるのではないだろうか? そしてこの間隙から将来における『民主主義』の死滅の名による現在的な『民主主義』の軽視がしのび込むことになる」。(倉田洋『非抑圧的政治の再生へ』新世出版同人、一九九一) スターリンはこの論理を援用して、「国家の死滅」のための「国家権力の最大限の強化」を主張した。 毛沢東の「民主主義は手段」という主張も同じ文脈でなされているものである。だからレーニン、そして毛沢東の「民主主義」論を真に批判するとしたら、その「プロレタリア民主主義」論、さらにはこれまでの共産主義論、その将来社会論そのものの点検が必要なのである。「政治の死滅」論的「国家の死滅」論を心情的、無批判的に保持したまま、「民主主義の軽視」を非難してもはじまらないのである。 |
【.「告別革命」論の問題】 |
以上のように「自由主義」の文革総括は「新左派」の甘さを突き崩す迫力を持ちえている。彼らの文革と毛沢東批判は部分的な批判にとどまることなくその理論的、思想的根拠そのものを抉り出そうとしている。朱学勤はこの問題を中国近代史に中に探ろうとして、中国革命の原動力となった「民衆主義」(「民粋主義」)、「民族主義」の二つそのものが問題だったと言う。(「五四以来の二つの精神的『病巣』」) だがここには先にふれたように難しい問題、陥りやすい一つの罠があった。こうして「革命」そのものがこれまでの神聖さを剥ぎ取られ、問題的なものとなる。李沢厚、劉再復『告別革命――二〇世紀中国を振り返って』(天地図書、1995)はそうした雰囲気の中で出版されている。両派に属しているわけではない李沢厚はこう言う。 「七〇年代末から、私は何度も述べてきたのだが、国内や国外での影響の大きかった革命について、フランス革命を含めてロシア革命、辛亥革命等々をあらためて再認識、研究、分析、評価をすべきであり、革命方式の弊害、それが社会にもたらす各種の破壊を理性的に分析し、諒解する必要がある」。 「私自身は文革後の反革命的気分の代表である」という楊曦光もまた、長期投獄の中での研究と思索、中国の現実の分析の結論だとして「革命」についてつぎのように述べている。 「私には二つの基本的観点がある。その一つは革命という方法によって専制を打ち倒すことはできない。二つは革命は民主化の過程を繰り延べてしまう。さらに言えば、現代の条件下ではもし国と国との戦争がなければ、上層階級内部の大規模な衝突や代理人間の戦争的な局面がなければ、革命という手段によって一つの専制政体を打ち倒すことに成功する確率はほぼ零に等しい。言い換えれば私は革命を主張しない。なぜならまさに一九四九年の革命が中国民主化の過程を数世代にわたって遅らせてしまい、ロシア革命がソ連の民主化を挫折させたように、革命は民主化の過程にとって無益だからである。したがって革命を阻止することが今日の中国の改革にとって十分に重大な現実的意義を持っているのだ」。 (「革命と反革命およびその他」) これが一つの歴史的な革命のあとに必ず生み出される「反革命」の情緒、心性、イデオロギー、思想なのか、それとも「戦争と革命の時代二〇世紀」を経て成熟した政治的思惟、智慧なのかは「自由主義」、「新左派」双方の内部でも論議があるようである。そしてそれは他人事ではないわれわれ自身の考察課題でもある。 |
一方、「自由主義」もまた「市場」万能派と必ずしもそうではなく「社会的公正」と政治改革に力点を置くもの等の差異があるのだが、共に「新左派」の主張には強い警戒心を抱いている。その多くは文革をくぐっており、その一人徐友漁は文革史上名高い四川省成都での大武闘を経験した「出身不好」の元造反派紅衛兵の指導的メンバーの一人である。この両派が文革をめぐって何を論争しているのか、これはきわめて興味あることである。 |
中国の「新左派」・「自由主義」論争 NO.2――「二つの文革」論をめぐって (時田 研一 )
追悼:この7月7日、楊曦光死去とのことです。55歳(あるいは56歳)。ネットに元造反派たちの追悼がたくさん流れ、劉国凱、王希哲らが弔辞を書いています。 |
(私論.私見)