文化大革命総論 |
(最新見直し2007.5.8日)
1966年よりほぼ10年間、中国に文化大革命闘争(以下、「文革」と記す)が巻き起こった。文革は、建国革命の父であり当時も中共の最高指導者であった毛沢東主席の指令により勃発した「永続革命」であり、世界を震撼させた。だが、それは完膚なきまでに失政に帰した。文革推進派は中共指導部から放逐され、代わって実権派が後釜に座り今日までこの系譜が権力を握ったまま経緯してきている。そういう事情もあって、今日においては「『文革』は中国人民にとって一大悲劇であった」的否定的な教訓でのみ語られ、これを歴史検証的に顧みようとすることが少ない。今なお続々と出版されている書物は、ほぼ共通して「文革が如何に狂気であったのか」の暴露本である。 れんだいこはこの観点に与しない。文革に対するそういう悪態手法は事態を少しも解決ないと考える。なるほど文革が内乱状態を生み、その被害の程度は人的にも物的にも建国過程のそれよりも甚大な天文学的なものであった由であり、さすればこれをまともに是認できる者はなかろう。しかしれんだいこは思う。それは、文革の所為(せい)と云うよりも、中国自身が社会的な民主化この場合より正確にはルネサンス感化法体系を経由していない東洋的専制社会秩序であるが故に発生した事態であり、そういう風土から生まれた暴君政治的強権暴力事態であったのではなかろうか。 この観点からすれば、文革をその暴力性故に論難するのは少しお門が違うのでは無かろうかと思わざるを得ない。なぜなら、当時の抵抗派にしてその後権力を掌握した側の実権派・ケ小平―江沢民系もまた同様の暴君政治的強権暴力政治を敷いていったのだから。天安門事件の圧殺手法を見れば一目瞭然だろう。その他諸々の動きから判明することは、「文革一過して、文革の暴力に対して反文革派が勝利し、今度は反文革派がその後今日に至るまで統制主義的強権政治を敷いているに過ぎない」ということではなかろうか。 もっともこの場合、その鉾の向け先が文革とは違う。文革派は、主として右派系「実権派・走資派」に矛先を向けたが、実権派が向けるのは主として急進主義系左翼運動に対してである。走資派に対してはとても優しいというか、今や指導部がこぞって走資派に移行しつつあるように見える。これは世界史的潮流であるから、中共だけがその責めを負う必要はあるまいが。 れんだいこは何を云いたいのかここで整理して見たい。れんだいこは、文革を次のように考えている。
文革は紛れも無く権力闘争ではあったが、マルクス主義の理論そのものから生起した理念運動でもあったのではなかろうか。ロシア革命はその数年後の革命の指導者レーニンの死を転機として片腕トロツキー派が追放され、スターリニズムにとって代わられ、この種の理念運動は起らなかった。その不発に対して、毛沢東が果敢に挑んだ理念運動であったのではなかろうか。さすれば、文革は失敗に帰したとはいえ、この理念運動に対する総括をせずんば、文革は単に鎮圧されただけのことではないのか。 本来、文革から得る教訓は次の点にあるのではなかろうか。文革はたまたま毛沢東思想に拠ってではあったが、左派運動における思想の優位性運動の意義を今後どう諾否するのか。その運動に抵抗勢力が付き物とすれば不可避に伴う内乱的事態にどう対処するのか。これを顧慮すれば二度と取り組んではならない種類のリスクの大きすぎる急進主義運動であったのか、もう少し要領を良くすれば再度チャレンジするに値があるのか、その場合克服せねばならないことはどこなのか、問題をかく設定し検証せねばならないのではなかろうか。 文革の失敗以降、世界史的に思想戦線の生命力が大きく損なわれ、人類はその分思想に重きを置く事を避け始めたように思われる。これは今日にも続く文革の後遺症ではないのか。それは現代インテリゲンチュアを臆病にさせたのか、それとも少し賢くさせたのか、この辺りを理論的に総括せねばならないのではなかろうか、そういう気がしてならない。後世の左派運動者は、文革をマルクス主義運動の本質に関わる重要な事件と捉え、これを真っ向から総括する姿勢を持たねばならないのではなかろうか。 もう一つ重要なことがある。文革評価以前の問題として、それが急進主義系によってであろうが穏健主義系によってであろうが、左翼運動の内部に沁み付いて離れない強権政治手法に対し、当然それは右派運動の宿あのような常套的統治手法でもあるが、我々はこうした権力に抗し社会の民主化を推し進めねばならないのではなかろうか。より正確には民主化という曖昧模糊基準よりルネサンス感化法体系として打ち出せば良い。この作風を社会に如何に根付かせて行くのか、いつでもここが問われているのではなかろうか。 付言すれば、ルネサンス感化法体系とは、「社会における自由、自主、自律の気風を基調とする法体系秩序」という意味で使っている。その要点は、政治的反対派の処遇に於いて、権力側が生殺与奪を一手専売に持つのではなく、一定のブレーキがかけられる仕組みの創出にある。これこそ野蛮と文明の分水嶺ではなかろうか。れんだいこの目の黒いうちに、左派政治でこれを首尾よく実現した社会に遭遇することが出来ないものだろうか。 2003.3.31日、2006.1.7日再編集 れんだいこ拝 |
中国の「文革」は中国現代史においてきわだつ事件であり、1966年に発動され、1976年までほぼ10年間続いた政治運動であった。この「文革」の総括は今日まだ出来ていないとするのが正確であるように思われる。「文革」を推進したいわゆる造反派からみれば「革命」運動であったが、攻撃対象とされた実権派からすれば「迷惑千万な動乱」であった。 「文革」を推進したのは毛沢東主席自身であり、その意向を受けた夫人・江青を主とする「四人組」系文人派と林彪将軍系軍人派の左派系政治ブロックであった。当時このブロックが中共指導部を掌握していた。しかし、「文革」推進派であった左派系政治ブロックは指導部を掌握していたとはいえ、基盤は脆弱(ぜいじゃく)であった。その内実は少数派であり、為に「上から呼号し、下から突き上げる」内乱となった。 「文革」のもう一つの特異現象として、この間対外的に「文革」の無条件の支持、毛沢東思想の礼質、「政権は鉄砲から生まれる」とする見地から各国での武装闘争の呼びかけと指導が推し進められていった。その結果、イタリア・フランス・ポーランド・スウェーデン・セイロンをはじめ世界各国に「文革」を支持する組織がつくられ、急進主義運動が取り組まれていった。 日本の左派運動は直接にこの影響を受けた。日中間には長年の誼を通じて人脈が培われていたこともあり、その影響も大きかった。「文革」推進派は、日本の左派運動に対し「文革」路線の支持を迫り、「アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本反動派、宮本修正主義集団という『四つの敵』と闘う」ことを呼びかけていた。概要「この真理を認めない者は、現代修正主義者又はその下僕であり、ほろびゆく米帝や日帝の看護婦である」という論調が繰り返し人民日報や北京放送を通じて流された。 「文革」の背景には、新中国の建設手法を廻っての二股の深刻な路線闘争が介在していた。その為も有り毛沢東派と反毛沢東派は相互に妥協が許されず、いずれが倒すか倒されるかの凄絶な抗争となった。抗争の当事者は、建国過程での功労者である「建国の元勲」達及び当時の党幹部達で有った。つまり、党幹部同士が三つ巴戦で争ったということになる。こうして「文革三国志」絵巻が綴られることになった。 「文革」の目的、理念、方法は、「文化大革命の綱領的文献」とされた1966.5.16日の「5.16通知」、同年8月の8期11中全会で採択された「プロレタリア文化大革命についての決定」(略称「16カ条」)、翌1967.11.6日の人民日報、紅旗、解放軍報三紙の共同社説「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」に盛られた「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」などに示されている。これらは第9回党大会の政治報告(林彪報告)で総括的に要約されている。その核心はつぎのようなものであった。 「党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョア階級の代表的人物と修正主義分子がすでに数多くもぐりこんでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民の手には握られていない。党内の資本主義の道を歩む実権派は、中央でブルジョア司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とをもち、各省市自治区および中央の各部門に代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。実権派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ、上述の暗黒面をあばきだすよりほかはない。これは実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならない(「歴史決議」19項に引用)」。 「文革」期に迫害を受けた「党と国家の指導者」は次の通りである。まず政治局委員レベルでは、8期政治局委員および候補委員33人のうち、逝去者3人を除いて被害者20人であった。次に中央書記処17人のうち被害者14人である。軍事委員会副主席7人のうち被害者5人、3期全人代常務委員会委員長副委員長10人のうち被害者は7人、国務院副総理15人のうち被害者12人、各中央局第一書記6人のうち逝去者1名を除き、被害者4人、8期中央委員および候補委員194人のうち、病気、死亡者31名を除き、被害者96人であった。北京市の幹部、大衆のうち冤罪で死んだ者(「冤獄而死」)9804人に上る(譚宗級論文『10年後的評説』、なお39頁の政治局メンバーの表参照)と云う。 一般民衆の犠牲は資料がほとんどない。各地で頻発した武闘による死者数が問題だが、これらを含めて「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計する解説が11期3中全会(78.12月)に行われた(『毎日新聞』79.2.5日)。しかし、中国当局の公式資料には文革時の死者数の推計数字はない。たとえば“四人組”裁判の起訴状では「国家と民族にもたらした災難は推計困難なほどに大きい」と述べるにとどまっている。「歴史決議」では「建国いらい最大の挫折と損失をこうむった」としているが(決議第19項)、具体的な数字はない。『解放軍報』の「迫害狂・江青」(80.12.9日)では、「連座(原文=株連)した者は一億人に上る」とされている。家族の一人が反革命と認定されると、家族全員が反革命家族扱いされる。したがって仮りに2000万戸の場合、一家族5人と見て1億人が連座することになる。 この間、中国経済は停滞し、国民生活も極端に落ち込んだ。互いに相手を打倒せずんば止まじという凄惨な闘いーと移行した。1976.1.8日の周恩来の死が「文革」の転機となった。この時、「文革」期に培われた反体制的思想に目覚めた若者たちは、76.4月の第一次天安門事件を経て、79年の「北京の春」を担うことになる。79年「北京の春」の活動家の一部は、アメリカなどに留学したあと中国民主聯盟を組織し、雑誌『中国之春』を発行して国内の民主化運動を続けていくことになった。 1989.5.15〜18日、ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中し、30年ぶりに中ソ和解が成立した。両者は、商品経済を排除した計画経済(指令性経済)という教条主義的な社会主義政策に対し、「現実主義的」(修正主義的)な経済改革路線を採用する点で認識を一致させていた。これは、文革期の商品経済の極端な排撃からの反省でもあり、適当に物質的利益の奨励への軌道修正を観点としていた。ケ小平流の「白猫黒猫」論が復権したということでもあった。 |
(私論.私見)