【林彪グループ「敗者」たちの叫び】

 (最新見直し2008.8.21日)

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 2005.5.18日再編集 れんだいこ拝


「敗者」たちの叫び(1)――林彪グループ(その1)

コラムY! 2009/03/24(火) 12:27
 文化大革命中に海軍第一政治委員を務め、共産党政治局員でもあった李作鵬が2009年1月に亡くなった。彼は当時、軍総参謀長の黄永勝、空軍司令員の呉法憲、軍総後勤部長の邱会作(いずれも共産党政治局員)とともに、林彪を支える「四天王」と称された。彼の死によって、「四天王」はみなこの世を去ったことになる。
 
 香港の月刊誌『争鳴』(09年2月号)によると、李作鵬は亡くなる2か月前の08年11月、共産党指導部や最高人民法院などに「無罪」の訴えを提出していた。実に71回目の、そして最後の訴えだったという。
 
 李作鵬は黄永勝らと同様、1980年から翌81年にかけての「林彪・四人組裁判」の被告であり、懲役17年、政治権利剥奪5年の判決を受けた。共産党と国家の最高権力の奪取を図った林彪の活動に積極的に参画したとして有罪にされたのだった。だが、『争鳴』によると、李作鵬は、事実とは異なり何の証拠もない、と主張したのである。黄永勝も33回、呉法憲も60回、邱会作も52回、それぞれ生前に同様の訴えを提出していたという。
 
 呉法憲は2004年に亡くなったが、死後の06年に『呉法憲回憶録』が香港の北星出版社から刊行されている。上下2巻、1000ページ近くに及ぶ。彼は李作鵬と同じく、懲役17年、政治権利剥奪5年とされたが、判決に対する彼自身の見解が回顧録の最後に掲載されている。それは次のように述べている。
 
 「私は一途に共産党を擁護し、毛主席を擁護してきた者であり、党中央に対する、毛主席に対する堅い信念は変わることなく、かつていささかも揺るがなかった。(中略) 『文化大革命』において、まさに盲目的に毛沢東の指示を貫徹執行したがために、各種各様の誤りを犯したのである」
 
  呉法憲はその見解のなかで、裁判での焦点だった林彪による最高権力の奪取と「四天王」たちのそれへの積極的参画に関して反論している。彼はまず、林彪が毛沢東に次ぐ地位にのぼることができたのは、林彪が中国革命において巨大な功績をあげたからであり、毛沢東自身が林彪を抜擢したからであり、林彪が奪取したものではない、と指摘する。
 
 林彪が最高権力の奪取を狙った証拠のひとつとしてこれまで取り上げられてきたのが、国家主席制度の存廃問題で、林彪および側近の呉法憲らは、林彪の国家主席就任、実権簒奪にむけて、国家主席ポストの廃止に反対したというのである。そうした非難は、もともとは毛沢東が言い出したものだった。だが、呉法憲は同じ文章で、1林彪自身が国家主席就任を望んでいたという証拠は何もない、2林彪らが国家主席ポストを維持すべきと主張したことは犯罪でも何でもない、3たとえ林彪が国家主席になりたいと考えていたとしても、それは犯罪でも何でもない――と反駁している。
 
 呉法憲らの訴えは宙に浮いたままである。彼らの名誉が回復されることは、近い将来においてはありえないだろう。ここで問われているのは、是非、善悪の判断基準を何に求めるか、ということである。毛沢東、つまり「勝者」あるいは最高権力者の言動が基準なのか、ということである(このコラムでは、1949年以降の「共産党の中国」における「事件」とその「事件」の周辺を素材に、「現代中国」について考える。文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(2)――林彪グループ(その2)

コラムY! 2009/04/06(月) 17:29
 3月下旬に北京を訪れた。西単や王府井などの大きな書店をのぞくと、著名な伝記作家である葉永烈の『「四人組」興亡』が山積みにされていた。上中下3巻、1400ページを超える大作で、今年1月に人民日報出版社から刊行されたものである。

 その第19章(下巻)「与林彪又握手又〓脚」は、林彪グループと江青グループ(四人組)の協力と対立の複雑な関係を描いている。そのなかで葉永烈は、林彪が国家主席への就任、ひいては最高権力の簒奪をはかった「証拠」のひとつとされてきた葉群(林彪の妻、共産党政治局員)の発言を記している(1082ページ)。葉群の発言とは、「国家主席を設けないなら、林彪はどうしたらいい、どうなる?」という、よく知られたものである。葉永烈も葉群発言を事実として受けとめている(〓は足へんに易)。

 この葉群発言は、林彪事件(1971年9月)後に拘束された呉法憲(空軍司令員、共産党政治局員)の自供にもとづいている。林彪を支えた「四天王」のひとりである呉法憲に対して葉群が語ったというもの、つまり、葉群と呉法憲しか知らない「秘密」を呉法憲は自供したのである。葉群は林彪とともにモンゴルで墜落死している。

 しかし、前回のコラムで紹介した『呉法憲回憶録』によると、葉群発言は実は呉法憲自身の偽証にもとづくもので、呉法憲はその経緯をくわしく述べている(788ページ)。葉群発言とされてきたものは、毛沢東の側近だった汪東興(共産党政治局員候補。華国鋒時代には共産党副主席)が江西省の革命委員会主任だった程世清に語ったもので、呉法憲は程世清から聞いたという。江西省は林彪グループが権力の座から転落するきっかけとなった「廬山会議」(1970年8〜9月)の開催地である。

 取り調べにあたった者たちは、林彪に「野心」があった証拠をなんとしてでも集めようと呉法憲をせめたて、汪東興の発言を葉群の発言とするよう迫った。呉法憲はしばらくは抵抗していたが、「さまざまな巨大な圧力」を受けて、屈してしまったというのである。「ここには当然、私に一定の責任がある。だが、歴史は歴史である」と呉法憲は記している。そして自供書を書いた際、偽証した部分についてはみな印をつけており、今、その自供書を見れば、迫られて「うそ」を書いた部分がわかるという。

 汪東興にも回顧録がある。『汪東興回憶:毛沢東与林彪反革命集団的闘争』(北京・当代中国出版社)で、手元には1997年刊行の第1版と2004年刊行の第2版がある。本の体裁は大きく異なるが、葉群の発言か、汪東興の発言かに関する部分に異同はなく、「呉法憲の1971年10月21日の自供によれば」として葉群発言を記している。そして、「これは林彪が国家主席就任を願っていたことを明白に示している」と述べている(いずれも25〜26ページ)。

 次回以降のコラムで触れるが、廬山会議の途中で毛沢東が林彪グループを厳しく非難するまで、汪東興と林彪グループとの関係は良好で、汪東興は林彪グループと同じく国家主席制度の維持を強く支持していた。葉群発言か、汪東興発言かについて、私自身は『呉法憲回憶録』における呉法憲の弁明に軍配をあげるが、事実は明らかにされねばならない、明らかにしなければならない、と強く思う(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(3)――林彪グループ(その3)

コラムY! 2009/04/21(火) 14:13
 ちょうど40年前、1969年4月に中国共産党の第9回大会が開かれ、新たに採択された共産党の規約に、国防相の林彪が毛沢東の後継者であることが明記された。「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」と。

 党規約に後継者名が記されるのはきわめて異例なことである。そうすべきだと幾度か強く主張したのは毛沢東夫人の江青で、毛沢東はそれを支持した。それから11年後の1980年8月、文化大革命中の失脚から復活した〓小平はイタリア人記者の質問に答えて、「指導者が自分の後継者を自分で選ぶのは、封建主義的手法の踏襲である」と語っている(『〓小平文選』第2巻、347ページ)。そのように批判した〓小平自身も、毛沢東と同様の大きな権力を手にしたとき、「封建主義的手法」をとったのではなかったか(〓はいずれも登におおざと)。

 それはともあれ、林彪グループと江青グループはともに文化大革命のなかで次第に権力を握るようになった。ふたつのグループの関係は、前回のコラムで紹介した伝記作家、葉永烈の最新作『「四人組」興亡』でも描かれているように、提携と対立の複雑なものだった。そして、提携よりも対立へと傾く転換点が1969年の党大会だった。

 この党大会で林彪夫人の葉群と、空軍司令員の呉法憲ら林彪を支えた「四天王」は、指導部を構成する党政治局員に昇格し、江青および彼女の腹心である張春橋、姚文元らも政治局入りした。国家権力を毛沢東一家と林彪一家で二分したともいえる異常な状況だった。

 権力を獲得する過程で協力しあったふたつのグループは、党指導部内に座を占めると互いに牽制、対立するようになる。両勢力の激突の舞台が、林彪事件(1971年9月)につながる「廬山会議」(1970年8〜9月)だった。中国の現代史において、ふたつの有名な「廬山会議」がある。ひとつは、毛沢東が大躍進政策を批判した彭徳懐(国防相)を失脚させた1959年の会議(党政治局拡大会議および党中央委員会総会)で、もうひとつが、ここで取り上げる会議(党中央委員会総会)である。

 林彪グループが廬山会議で攻撃の対象として選んだのは、江青グループの「参謀」ともいうべき張春橋だった。「毛沢東は天才か否か」をめぐって、両グループは対立した。張春橋が毛沢東を天才としてたたえることに反対したのをとらえて、林彪グループは張春橋批判を会議で展開した。張春橋が「天才論」に批判的態度をとったのは、毛沢東自身が天才論を批判する発言をしていたからである。

 林彪グループの張春橋批判は、「毛主席の偉大な謙虚さを利用して毛沢東思想をおとしめている者がいる」というものだった。名指しの批判ではなかったが、やり玉にあがっているのが張春橋だとわかると、会議参加者の多くは林彪グループの主張に同調した。とりわけ文化大革命を苦々しく思っていた者たちにとって、張春橋、そして江青グループは憎しみの対象だったからである。

 危機に陥った江青らは毛沢東に泣きついた。毛沢東は江青グループに救いの手を差し伸べ、林彪グループを批判した。毛沢東は江青グループとほぼ一心同体であり、毛沢東は強大になった林彪グループを切り捨てることにしたのである。

 江青グループ(後の「四人組」)の追い落としをはかった林彪グループこそ評価すべき、というのが林彪らの名誉回復を唱える人々の主張である。毛沢東と江青グループと林彪グループ、これらをいかに評価するか、それが今日の私たちの問題である(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(4)――林彪グループ(その4)

コラムY! 2009/05/09(土) 11:10
 40年前の1969年4月に開かれた中国共産党第9回大会で「政治報告」を読み上げたのは、劉少奇に代わって毛沢東の後継者となった林彪だった。だが、この政治報告は林彪が執筆したものではない。政治報告作成の過程は、私たちが毛沢東と江青グループと林彪グループを評価するうえで、ひとつの重要なてがかりとなる。

 党大会における政治報告は、前回党大会で決まった政策や方針が実際に履行されたか否かを総括するとともに、次回党大会までの新たな政策や方針を打ち出す文書である。党の文献としては最も権威あるものといえよう。

 第9回大会の政治報告の草案はふたつ作成された。ひとつは林彪に近い存在だった陳伯達によるもので、もうひとつは江青グループの張春橋、姚文元らによるものだった。林彪が読み上げたのは後者だった。

 毛沢東は当初、林彪を政治報告作成の責任者とし、林彪のもとで陳伯達と張春橋らが協力して作成するよう指示した。しかし、『陳伯達遺稿』(香港・天地図書、2000年、113ページ)によると、陳伯達は張春橋らとの共同執筆をきらって独自に作成した。陳伯達と江青グループとの関係悪化が最大の理由だが、毛沢東の秘書を長年務め党内重要文書を幾度となく起草してきたという自負が陳伯達にはあったのだろう。ただ、陳伯達の草案は毛沢東の支持を得られなかった。

 陳伯達の草案は「我が国を強大な社会主義国家に築くため奮闘しよう」と題するものだった。このコラムですでに紹介したことのある『呉法憲回憶録』(香港・北星出版社、2004年、下巻739ページ)によると、陳伯達草案の最初の部分は、文化大革命の目的と意義が生産力を発展させ、人民の物質的、文化的生活水準を向上させ、中国を強大な社会主義国家にすることにあると強調する内容だった。

 毛沢東が主宰する党指導部の会議でこの陳伯達草案が討議されたとき、江青グループは「唯生産力論」だと批判した。毛沢東はこの批判を支持し、陳伯達草案は生産を強調して革命や階級闘争をないがしろにしているため採用することはできないと結論づけた。『呉法憲回憶録』(下巻739〜740ページ)によると、周恩来は見解を表明せず、毛沢東の発言ですべてが決まり、毛沢東の指示により、江青グループが新たな草案を起草することになった。江青グループによる草案は文化大革命の重要性と必要性を力説した内容で、それを討議したさい、陳伯達は「やはり生産をきちんとやるべきだ」と批判したが、毛沢東の怒りを招いただけだったという。

 党大会初日、林彪は、江青グループが起草し毛沢東が手直しした草案をそのまま読んだ。林彪はその政治報告の作成にはまったく関与せず、草案討議の場でも一言も発しなかったという(『呉法憲回憶録』下巻741ページ)。

 1970年代末以降、改革・開放時代の党指導部は文化大革命を全面的に否定しており、その党公認の「正統史観」からみると、第9回党大会の政治報告は毛沢東の「誤った理論」をさらに「合法化」するものでしかない(中共中央文献研究室編『毛沢東伝 1949−1976』中国・中央文献出版社、2003年、下巻1549ページ)。「誤った理論」とは、社会主義体制下でも革命を継続すべきだという、文化大革命をもたらした継続革命論である。

 文化大革命を革命とは縁もゆかりもない「内乱」だったとする「正統史観」に立てば、毛沢東によって否定された陳伯達の政治報告草案こそ評価すべきではないのか。林彪はその作成に深く関与したとされている(『毛沢東伝 1949−1976』下巻1546ページ)(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(5)――林彪グループ(その5)

コラムY! 2009/05/26(火) 14:23
 38年前の1971年9月にモンゴルの草原で墜落死した林彪は、死後、「勝者」の毛沢東や周恩来らによって、「野心家、陰謀家」として断罪された。その林彪の「悲劇」はまさに、意に反して、毛沢東の後継者に選ばれたことにある。林彪は毛沢東の後継者になることを自ら望んではいなかった。毛沢東が林彪を後継者に指名し、林彪はそれをやむなく受け入れたのである。

 文化大革命が始まったのは1966年5月だが、その3か月後の8月、中国共産党の中央委員会総会が北京で開かれた。林彪は健康状態を理由にこの総会を欠席し、大連で療養していた。しかし林彪は毛沢東によって総会に出席するよう命じられる。毛沢東の指示を受けて、林彪を大連から北京に連れ戻す具体的なお膳立てをしたのは周恩来だった。林彪の側近のひとりである呉法憲(文化大革命中の空軍司令員)は回想録で次のように書いている。

 「8月7日夜9時ごろ、周恩来からの電話で、翌日、つまり8月8日の午前に専用機を大連に飛ばして、林彪と葉群(林彪の妻――引用者注)を北京に乗せてくるよう指示された。周恩来はさらに、『絶対に秘密を保たねばならない。このことは自分の胸だけにおさめておき、だれにも話してはならない』と特に強調した。周恩来はそのとき、彼自身が北京西郊空港で林彪を迎えるため、飛行機が着陸する時間を直接知らせるよう命じ、私以外のだれも空港に迎えにいってはならないとも語った」(『呉法憲回憶録』香港・北星出版社、2006年、下巻594頁)

 林彪を乗せた専用機が北京の西郊空港に着いたのは8日午前10時半で、呉法憲からの連絡で迎えにきていた周恩来は、専用機に乗り込んで林彪に会った。毛沢東側近の汪東興(当時、党中央弁公庁主任。後に党副主席)も駆けつけ、機内に入った。林彪と周恩来、汪東興との機内での会談は30分あまり続いた(『呉法憲回憶録』下巻594〜595頁)。

 呉法憲は林彪が北京に戻った日の午後、周恩来からの電話で、その夜に人民大会堂で開かれる会議に出席するよう命じられる。周恩来はこの会議で、8月5日に毛沢東が書いたという「司令部を砲撃しよう――私の大字報」と題する「大字報」(壁新聞)の草稿を取り出し、2度読み上げた。名指しこそしていないものの、劉少奇やトウ小平らを厳しく非難する内容だった。周恩来はさらに、林彪が劉少奇に代わって後継者になることを明らかにした。この会議は、軍の指導者に対する、いわば根回しの会議だった。呉法憲はようやく、林彪を秘密裏に北京に戻したわけを知ったのだった(『呉法憲回憶録』下巻595〜596頁。ただ、林彪が北京に戻ったのは8日ではなく6日で、この点に関して呉法憲の記憶は間違っている)。

 林彪を後継者とするにあたっては、毛沢東がこの党中央委員会総会期間中、劉少奇やトウ小平に失望したのでどうしたらよいか、と周恩来に相談し、周恩来が林彪を推薦したところ、毛沢東がそれに同意し、林彪を北京に戻すことになったという。『呉法憲回憶録』(下巻597頁)はそう書いている。1年後の1967年秋、呉法憲が周恩来から直接聞いた話だという。

 毛沢東は内心では林彪の起用をすでに決めていたにもかかわらず、周恩来を自分の陣営につなぎとめるためにも話をもちかけ、周恩来はそうした毛沢東の腹のうちを読んで林彪を推したのだろう。こうした見方は中国共産党史研究者の高文謙が『晩年周恩来』(米国・明鏡出版社、2003年、130頁)で記しているところでもある。林彪は後継者指名を心から喜んだわけではなかった。そのあたりの事情は次回で(文中、敬称略)(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)。

「敗者」たちの叫び(6)――林彪グループ(その6)

コラム】 【この記事に対するコメントY! 2009/06/10(水) 19:32
 毛沢東の後継者となった林彪は、死後、「野心家、陰謀家」として断罪されたが、林彪は本当に「野心家」、「陰謀家」だったのだろうか。そもそも毛沢東が林彪を後継者に選ばなければ、そのように非難されることもなかっただろう。

 劉少奇に代わって毛沢東の後継者となった林彪は、死後、毛沢東らによって「野心家、陰謀家」として断罪された。だが、林彪は本当に「野心家」、「陰謀家」だったのだろうか。そもそも毛沢東が林彪を後継者に選ばなければ、そのように非難されることもなかっただろう。

 中国共産党公認の毛沢東の伝記である『毛沢東伝』(中共中央文献研究室編、中国・中央文献出版社、2003年、下巻1429頁)は、毛沢東が林彪を後継者に選んだ理由をふたつあげている。ひとつは、林彪が毛沢東よりも14歳、劉少奇や周恩来よりも9歳若かったということ、もうひとつは、国防相就任以来の林彪が「政治を突出させる」など、毛沢東と考え方が一致していたこと、である。そして、後者の理由が「より重要」と指摘している。

 しかし林彪は病気を理由に後継者になることを辞退する。毛沢東はそれを許さない。毛沢東は林彪に向かって、「明の世宗になりたいのか」と迫る。明の世宗とは道教にこって政治をかえりみなかった嘉靖帝のことである。林彪は毛沢東にそこまで言われて辞退し続けるわけにはいかなくなった。毛沢東の後継者となることを受け入れたのである。

 この毛沢東と林彪のやりとりは、林彪の長男、林立果の婚約者だった張寧の自伝『塵劫』(香港・明報出版社、1997年、328〜329頁)にもとづいている。張寧は「林彪の周囲の者」からそうしたやりとりがあったことを聞いたという。彼女は林立果とともにモンゴル草原で墜落する要人専用機に乗るはずだったが、林立果の姉、林立衡に睡眠薬を飲まされて先に眠ってしまったおかげで、命をながらえたのだった。

 林彪は1966年8月の中国共産党中央委員会総会で毛沢東の後継者に選ばれる。当時、林彪は、自分の水準や能力を知っているがゆえに後継者となることを再三辞退したが、毛沢東と党が決めた以上、それに従わざるをえないとしつつも、「よりふさわしい同志がいるならば、いつでも交代する用意がある」と語っている(高文謙『晩年周恩来』米国・明鏡出版社、2003年、261頁)。

 毛沢東の後継者となること、それは決して手放しで喜べることではない。毛沢東によって後継者の地位にひきあげられ、毛沢東によってその地位から転落させられた劉少奇の運命が、カリスマ的指導者の後継者となることの難しさを端的に物語っている。林彪はそのことを十二分に知っていた。だからこその辞退であり、それは決して形のうえだけの辞退ではなかった。

 ちょうど20年前、1989年の天安門事件で趙紫陽が失脚し、江沢民がトウ小平の後継者に指名されたとき、江沢民の妻や周囲の者たちが懸念したのも、江沢民が胡耀邦や趙紫陽と同じ運命をたどるのではないかということだった。胡耀邦も趙紫陽も劉少奇同様に後継者からの転落という道を歩んだのである。

 後継者となった林彪は毛沢東に対していかにふるまったのか。林彪が自分を追い落とそうとしているといった疑念を毛沢東が抱かないよう、とにかく低姿勢で毛沢東に接したのである。毛沢東が「イエス」といえば「イエス」といい、毛沢東が「ノー」といえば「ノー」というように、林彪は毛沢東に追随したのである。

 だが、林彪には林彪の考えや利害関係があり、何事も毛沢東と完全に同じというわけにはいかなかった。毛沢東が林彪の協力を得て劉少奇らの政敵を失脚させると、劉少奇とその支持者たちが保持していた地位と権力の一部を、林彪と彼につながる軍指導者たちが手に入れることになった。そして、文化大革命が進むにつれ、林彪と毛沢東との間に亀裂が生じ、それは次第に深くて広い溝となっていく(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(7)――胡・趙グループ(その1)

コラム】 【この記事に対するコメントY! 2009/06/23(火) 14:24
  天安門事件(1989年6月)からちょうど20年になる。それを記念するかのように、事件で失脚した趙紫陽の回顧録『改革歴程』が香港の新世紀出版社から刊行された。「真相はそうだったのか」と感じさせられる記述も少なくなく、とにかくおもしろい。1980年代の中国を知るうえでの必読文献のひとつといえよう。

  趙紫陽は学生らの運動を武力で鎮圧することに反対したため、トウ小平らによって共産党総書記を解任された。以後、2005年1月に85歳で亡くなるまで、北京の自宅で軟禁状態にあった。むろん、軟禁を正当化する法的根拠はない。

  趙紫陽は2000年から2年間ほどの間に、いわば政治的遺言をひそかにテープに吹き込んだ。これを活字におこしたものが回顧録である。出版責任者の鮑僕によると、テープは35本から40本、時間にして30数時間、字数にして約15万字に及ぶ(香港の月刊誌『開放』2009年6月号、22ページ)。鮑僕は趙紫陽の側近だった鮑=の子息で、天安門事件後に米国に留学しており、回顧録の英語版は彼の翻訳によるものである(=は丹へんにさんづくり)。

  トウ小平らにいわせれば、学生らの抗議行動は「ごく少数の者が学生の運動を利用して引き起こした計画的、組織的な政治動乱で、反革命暴乱にまで発展させた」ものであり、動乱と暴乱の目的は「共産党の指導を覆し、社会主義中国を転覆させること」だった。そして、趙紫陽は「動乱を支持し、党を分裂させる誤りを犯し、動乱の形成と発展に対して逃れられない責任を負っている」とされたのだった。

  趙紫陽は回顧録で反論する。だれが、いかに、反党、反社会主義の闘争を指導し、計画したのか、いかなる証拠があるのか、どうして反革命暴乱と決めつけることができるのか、と(『改革歴程』53〜54ページ)。トウ小平らによる、動乱を支持し党を分裂させたという断罪に対して、それは受け入れられないという趙紫陽の立場は、事件当時から死ぬまで変わることはなかった。

  趙紫陽の総書記解任を正式に決定したのは、天安門事件から20日ほど経って開かれた共産党中央委員会総会だが、それに先立つ共産党政治局拡大会議で解任問題が討議された。トウ小平はその会議での採決にあたって、非政治局員には投票権がないにもかかわらず、「会議出席者は政治局員であるなしを問わずみな採決に参加する権利がある」と述べたという(『改革歴程』61ページ)。趙紫陽は「こっけいなことに」として、このトウ小平発言を紹介している。

  趙紫陽はトウ小平の期待に反して自己批判しなかった。林彪は毛沢東の期待に反して自己批判しなかった。批判と自己批判は中国共産党のよき伝統的作風とされる。自分に誤りがないと思った場合でも、最高指導者が批判しているのだから、党の多数が批判しているのだからとの理由で、そして自己と家族の今後のことも考慮しながら、ほとんどの者が自己批判してきた。

  1959年の廬山会議で彭徳懐(当時、国防相)の仲間として毛沢東らから批判され失脚した黄克誠(当時、軍総参謀長)も自己批判した。しかし、彼は回顧録に記している。「冷静になったとき、よくわかった。心に背いて自己批判したことこそが、廬山会議における私の本当の誤りだった」と(『黄克誠自述』中国・人民出版社、1994年、261ページ)。

  自己批判を拒否して自己の立場を保持し続けた趙紫陽、そして林彪をこそ、中国共産党は誇るべきではないのか(文中、敬称略。次回はまた「林彪グループ」に戻る予定)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(8)――胡・趙グループ(その2)

コラム】 【この記事に対するコメントY! 2009/07/07(火) 16:37
  天安門事件(1989年6月)で失脚した趙紫陽は、共産党の一党支配という中国の政治体制について、どのように考えていたのだろうか。事件20周年を記念する形で刊行された趙紫陽の回顧録『改革歴程』(香港・新世紀出版社)は、その問いに対する明確な答えを私たちに与えてくれる。

  趙紫陽が中国共産党の最高指導者(総書記)として画期的な政治体制改革案を提出したのは、天安門事件の2年前、1987年の共産党第13回大会においてだった。その改革案の骨子は、1党と政府の権限・機能を分離する、2党と政府の活動の透明度を高め、大衆の意見を吸収するための協議対話制を確立する、3「差額選挙制」(複数候補者制)の充実など、選挙の民主化を進める、4報道・出版・結社・集会・行進などに関する法律を制定し、憲法に規定された国民の権利と自由を保障する――などである。

  共産党大会はこの趙紫陽提案を承認した。しかし、天安門事件と趙紫陽の失脚によって、この政治体制改革構想は少なくとも一時的に後退、あるいは棚上げされた。もし、これらの改革が全面的に具体化されていたならば、中国における政治体制は今日、間違いなくかなり異なるものとなっていただろう。

  趙紫陽は回顧録のなかで、政治体制改革に関する当時の自分の基本的な考えを述べている。それは、政権党としての共産党の地位は維持するが、統治のあり方は変えねばならず、「人治」ではなく「法治」を実現しなければならないというものだった(『改革歴程』293ページ)。

  天安門事件直前の1989年5月にゴルバチョフ(当時、ソ連共産党書記長)が北京を訪れた際、趙紫陽は彼と会談し、中ソ両国における改革について意見を交わしている。ゴルバチョフの回顧録によると、趙紫陽はその会談で、「われわれは西側のような新しい党制度、つまり党が交替で政権につくような制度をつくる方向へ、事を運ぶつもりはありません」と語っている(工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録』下巻、新潮社、1996年、513ページ)。多党制には反対だが、国民の政治参加をできるだけ拡大する、というのが当時の趙紫陽の考えだった。

  だが、時間の経過と情勢の変化によって、人の考えも変わる。趙紫陽は「失脚後、国際および国内情勢の変化にともない、中国の政治体制改革に対して新たな認識を得」て、多党制・議会制民主主義に対する考えを変えた。当面は共産党が政権の座を維持すべきだとしつつも、いわゆる西側先進諸国で実施している議会制を政治体制改革の最終目標に設定すべきだと考えるようになった。徐徐に政党や報道機関の自由な設立を認めなければ、健全な市場経済の確立も、深刻化している腐敗や格差の解決もできないだろう、と考えるにいたったというのである(『改革歴程』296〜300ページ)。

  経済的発展、そしてその前提としての政治的安定をなによりも重視していたトウ小平は、多党制や三権分立に強く反対した。趙紫陽の側近だった鮑=によると、共産党第13回大会における趙紫陽改革案に対して、トウ小平は「西側の三権分立はやるな」とだけ注文をつけたという(陳一諮ほか主編『趙紫陽与中国改革』米国・明鏡出版社、2005年、64ページ)。(=は丹へんにさんづくり)

  中国において多党制を導入するまでの過渡期にはどのくらいの年月を要するのか、趙紫陽は回顧録で具体的には述べていない。しかし最晩年の趙紫陽は、いずれは多党制を導入すべきだと考えた。彼を失脚させたトウ小平にとって、趙紫陽のそうした考えは否定の対象でしかなかった(文中、敬称略。次回こそ「林彪グループ」に戻る予定)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

「敗者」たちの叫び(9)――林彪グループ(その7)

コラム】 【この記事に対するコメントY! V 2009/07/29(水) 16:03
 林彪事件(1971年9月)に関して私たちが知っていることのほとんどは、事件後に「勝者」である毛沢東や周恩来らが公表した「事実」にもとづいている。モンゴルの草原で墜落死した林彪や妻の葉群、長男の林立果らが「それは事実ではない」と反論することはできない。「死人に口なし」である。

 毛沢東らにとっての事実とは何か。林彪事件の直前、1971年8月中旬、毛沢東は北京を離れて専用列車で南へ向かった。武漢や長沙などで地方の指導者に会い、共産党中央指導部の現状について説明した。毛沢東は林彪との間で深刻な闘争が進行中であることをはっきりと告げたうえで、自分の側につくよう “遊説活動”を行ったのである。林彪らが国外逃亡をはかるのは、毛沢東が南方から北京に戻った9月中旬のその夜のことである。

 毛沢東は南方で何を語ったのか。この遊説に随行した側近の汪東興(華国鋒時代の共産党副主席)の回顧録によると、毛沢東は「廬山会議はふたつの司令部(毛沢東の司令部と林彪の司令部のこと――筆者注)の闘争だった。(中略)彼らは形のうえでは張春橋に反対したが、実際には私に反対したのだ」、「廬山でのことはまだ終わってはいない」などと述べた。そして、1カ月近い旅を終えて戻った北京の豊台駅でも首都の指導者たちに、「黒幕は陳伯達ひとりではない。まだ黒幕がいる」と語ったのである(『汪東興回憶:毛沢東与林彪反革命集団的闘争』中国・当代中国出版社、1997年、99、152、175ページ)。

 廬山会議とは、このコラム(第3回)ですでにふれたように、1970年の8月から9月にかけて江西省の廬山で開かれた共産党中央委員会総会のことである。林彪グループはこの会議で、毛沢東が支持する江青(毛沢東の妻)グループの参謀格である張春橋(当時、共産党政治局員)の追い落としを図ったが、かえって毛沢東の批判を浴び、林彪グループの陳伯達(当時、共産党政治局常務委員)が失脚したのだった。毛沢東のいう、なお暴露されていない「黒幕」が林彪を指していることは明白である。

 毛沢東の話の要点は、毛沢東の後継者である林彪こそが毛沢東反対派の張本人であり、林彪たちとの闘争にはまだ決着がついていない、ということである。それは、林彪を打倒するぞ、という毛沢東の宣言だった。毛沢東は当時、中国の多くの国民にとって神的な存在だった。毛沢東の話を聞いた地方の指導者たちは毛沢東の話をそのまま信じ、打倒すべきは林彪とその仲間だと思ったに違いない。

 この南方での毛沢東発言は秘密裏になされたものだった。林彪の側近で、林彪事件後に逮捕された呉法憲(当時、空軍司令員)は、十数年後に初めて毛沢東発言の内容を知った。そのとき、「毛主席は言行不一致だ」と感じ、それまで心に抱いてきた輝かしい毛沢東像は崩れてしまったという。理由のひとつは、呉法憲ら林彪グループの将軍たちが廬山会議後に自己批判したとき、毛沢東は面と向かって「私はおまえたちを守る」と約束したにもかかわらず、地方の指導者たちに向かっては呉法憲らを打倒することについて語っていたからである(『呉法憲回憶録』香港・北星出版社、2006年、下巻859〜861ページ)。

 毛沢東は劉少奇に対しても、やさしいことばをかけておきながら結局は悲惨な死に追いやった。呉法憲は同じ回顧録の別のところで書いている。「私たちは無骨者で、政治生活の経験もなかった」と(『呉法憲回憶録』、下巻823ページ)。「私たち」とは呉法憲ら林彪派の将軍たちのことである。呉法憲は「敗者」となって初めて、権力闘争の厳しさを痛感したのである(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)





(私論.私見)