「れんだいこの文革論」

 (最新見直し2005.5.25日)

 文革は発動以来30年を経過しているが「棺を閉じてなお定まっていない」、これがれんだいこの文革観である。2002年現在昨今の中共党中央の変調さを見るに付け、いや増しにそう思う。

 一般的には次のような評価が定着しているようである。
 「文化大革命は中国人民にとって一大悲劇であった。悲劇をもたらした直接的契機は、毛沢東の空想的社会主義モデルである。毛沢東は一方では個人崇拝を利用しつつ、自らを神のように崇拝する中国人民のために、共産主義の大道を切り開かんと奮闘したが、結果から見ると、中国人民を大きな災難のなかに投げ込んだ。こうして最も麗しい理想のために立ち上がった中国人民は、最も苛酷な現実によって復讐されることになった」(矢吹晋「文化大革命」1989.10.20、講談社現代新書)。

 なぜかように悲劇史観による反文革総括になるのか。れんだいこは、文革を終息せしめた側が内部から文革を止揚したのではなく、外在的な強権発動で封殺せしめたことに起因していると観る。ここに文革が「現代三国志絵巻」として語り継がれない不幸な所以があるように思われる。華国鋒―ケ小平―江沢民の後継政権の考察は別サイトに譲り、ここでは封じ込められた文革の意義の見直しと限界を確認してみたい。

 文革の眼目は、現代史上稀なる精神革命であった。これに続くものがあるとすればイランのホメイニ革命であるやに見受けられる。両者の違いは、イランのホメイニ革命がマホメット教に指導されたのに比して、文革はマルクス主義に拠っていたことにある。もう少し詳しく云えば、文革は中国マルクス主義内毛沢東主義派に理論の面でも実践でもリードされていた。

 そういう意味で、文革は極めてイデオロギッシュな精神革命であった。この種の革命が地上に二度と現れることがあるのか無いのか分からないが、稀なものであったことは疑いない。文革は権力闘争として立ち現れたので、このイデオロギッシュな面が見失われがちであるが、それは文革の何たるかを理解しない不毛な考察にしかならないだろう。

 もう一つ。文革のイデオロギッシュな面の意義を否定し、文革途上で発生した騒乱的事態による人的物的経済的被害を論(あげつら)う文革批判論が隆盛しているが、これもまた文革の何たるかを理解しない不毛な考察にしかならないだろう。

 文革を論ずるには、1・イデオロギッシュな精神革命そのものの意義と限界の考察、2・文革イデオロギーそのものの切開的考察、3・文革運動の流産過程の原因考察、この三点からの検証こそが相応しいのではなかろうか。文革を正面から論ずれば権力闘争史とならざるを得ないが、今日的な意義に於いては、上述三観点からの考察が有益であろう。以下、論述して見たい。

 2005.5.18日再編集、2005.5.25日再編集 れんだいこ拝


【3・文革運動の流産過程の原因考察】
 まず考察順序を逆にして、「3・文革運動の流産過程の原因考察」から入ることにする。この主たるテーマとして、毛沢東の王朝主義を設定したい。れんだいこは、文革は毛沢東主義により発動され毛沢東主義により転んだという観点を持っている。その他要因は様々あるにせよ、これがキーワードであるように思う。

 このことは、毛沢東主義の価値を落としこめようというのではない。毛沢東の建国革命期の理論的実践的指導能力は高く称賛されねばならない。今日、日共及び日本左派運動の思潮は毛沢東全否定論を構築しており、抗日闘争から建国革命に至るまでの時期の毛沢東の能力をも悪し様に論難しているが、それは犯罪的であろう。こうして、日本左派運動は変調なことに、学べば学ぶほど観点が歪むように教育されている。れんだいこは憤怒を禁じえない。

 毛沢東派の建国後の能力については疑問符を付けざるを得ないが、それにしてもその営為はマルクス主義の創造的適用を求めてのものであり、出来不出来は別にして毛沢東の罪として評されるべきものではなかろう。れんだいこは、当時のマルクス主義の水準にこそ責があるように受け止めている。毛沢東に原因があるとすれば、毛沢東自身そして取り巻き共々で生み出した王朝主義にこそ求めねばならない、のではなかろうか。

 毛沢東式王朝主義を弁護すれば、「日本の26倍の国土をもち、11億5千万の人口をもつ多民族国家」としての中国を束ねる手法として強力な指導者を押し立てることが有効であったのかも知れない。しかし、「毛沢東を皇帝にした臣民の心理」は、明らかに後進国的専制主義の土壌そのものであった、のではなかろうか。専制主義がなぜ批判されねばならないのか。それは環境適合した時代には有効であるが、その歯車が狂いだしたときに調整するギアが無い脆さ故にであろう。これはいわば民主主義論の範疇に属する。

 いわゆる先進国型の近代統治システムは、この過ちを復元する能力において他に比類の無い優れもの足りえているのではなかろうか。その欠点は、万事において機動的に対応する能力が欠如していることにある。然れども、専制主義と近代統治システムを比較衡量すれば、軍配は明らかに後者に挙げられる。

 それは何故か。近代統治システムが、その理想的運営国家は知らないが、理論上教育水準の高い能力を身に付けた市民の存在を前提としているからであるように見受けられる。この市民は、権利と義務の対応関係の中でではあるが国家に対する自律が前提とされており、この適度の距離による市民の高等労働の産物が、廻りまわって国家に貢献するという仕掛けの中に生息している。

 建国後の中国は、本来この近代統治システム形成へ向かうべきであった。少なくとも、ロシア型マルクス主義が陥った隘路から抜け出すべきであった。1956.2.24日、ソ共第20回党大会での「フルシチョフ秘密報告」によるスターリン批判の際がそのチャンスであった。この時中共は政治局会議を開いて対応を協議し、「プロレタリア独裁の歴史的経験について」(56.4.5日)、「再びプロレタリア独裁の歴史的経験について」(56.12.29日)を書いて、スターリン主義にあった個人崇拝問題を分析した。

 その上で次のように総括している。
 概要「スターリンは誤って自己の役割を不適当な地位にまで誇張し、彼個人の権力を集団指導と対立する地位に置いた。一方では人民大衆が歴史の創造者であること、党は大衆と永遠に結合すべきこと、党内民主主義を発展させるためには、自己批判と下から上への批判を発展させるべきことを認めたが、他方、個人崇拝を受容し奨励し、個人専断を実行した」。
 「党と国家の民主集中制を徹底的に遵守し、大衆に真剣に依拠しさえすれば、全国的な長期の、重大な誤りは避けることができる」。

 この総括の前段は健全ではなかろうか。問題は、後段の「党と国家の民主集中制を徹底的に遵守し、大衆に真剣に依拠しさえすれば、全国的な長期の、重大な誤りは避けることができる」とした点にあるのではなかろうか。ここでもガンは「民主集中制」である。「党と国家の」とある点で、度し難い観点が披瀝されている。「党と国家の未分化混合」、これもロシア型マルクス主義の弊害であり、中共はこれを疑うことなく取り入れてしまった。従って、スターリン主義の問題は、これを政治システムに限って云えば、その個人崇拝性にあったというのは結果であって、それを生み出した要因として「民主集中制」そのものに疑惑を向けるべきであった。

 しかし、当時の中共指導者の能力水準はこの点で欠格するものがあったと云わざるを得ない。もっとも、この当時世界中のどの党でどの指導者がこの点で明確な理論を獲得し得ていたかというと心もとない。ということは、歴史的な限界枠であったのかも知れない。 

 ともあれ、史実は毛沢東専制の王朝カーテンを下ろす方向に向かった。その原因は毛沢東自身の理論能力及びその権威主義的資質にあり、それを許容した周囲の建国の功労者達の臣民精神にも原因があった、のではなかろうか。


 では、なぜこの王朝主義が文革運動を流産せしめたと云えるのか。これから検証する。その第一例を「国防部長彭徳懐失脚事件」から見ていく事にする。この事件を格別に論(あげつら)う理由は、この後に勃発する文革においても同様の誤りがごく平然と繰り返されているからである。

 1959年のこの時、
毛沢東は4月の全国人民代表大会で、国家主席を劉少奇に譲り、第一線を退いている。毛沢東に代わって党中央を牽引し始めたのは、劉少奇国家主席、ケ小平総書記である。彼らは、調整政策を進め、毛沢東路線からの転換を図りつつあった。

 1959.7.2〜8.1日の政治局拡大会議と、8.2〜8.16日の8期8中全会からなる45日間の大会議が開かれた。これを廬山会議と云う。この時の会議の眼目は、鳴り物入りで進められつつある人民公社運動の点検であった。この時毛沢東は、前半の政治局拡大会議の冒頭で、「成績は偉大、問題は少なからず、前途は光明なり」の三句で総括し、会議で討論すべき課題として、情勢、1959年の任務、1960年の任務など、先に文書にまとめておいた19の問題を列挙して講話を行っている。

 この講話のあと、会議はグループ討論に移った。7.10日、毛沢東は「情勢と任務について──廬山会議議定記録(修正草案)」を配付し、討論をよびかけていた。ここまでを見れば、中共及びその指導する国家には会議精神が有り、万事公論討議が基調にされていることが分かる。

 問題はこれ以降にある。国防部長彭徳懐は、7.13日朝、小組会議の模様および自らの見解を毛沢東に報告しようと出かけたが、ボディガードから「主席はいましがた就寝されたばかりだ」と伝えられ、安眠を妨げてはならないと思い直し、毛沢東宛て「私信」(意見書)を差し出すことになった。3000字余りの「私信」は、彭徳懐が見聞していた人民公社運動の惨憺たるありさまの直訴を書き連ねていた。

 
彭徳懐は、かねがね「野人」と評されており、建国革命時毛沢東の盟友であった。その剛毅な性格は概要「毛沢東を主席と呼ばず、毛沢東万歳を唱えず、東方紅を歌わず、『ゲリラ仲間毛沢東』としてつきあっていた」ことによく表われている。

 毛沢東は、これを如何に遇したか。この彭徳懐私信に対する毛沢東の扱いは異様であった。毛沢東は、周恩来の予想に反して、この私信に「意見書」の表題を付して印刷させ、会議用資料として配付した。そして「意見書は右傾日和見主義の反党綱領だ」と厳しく批判し、「廬山で出現した闘争は、階級闘争であり、過去10年の社会主義革命の過程におけるブルジョア階級とプロレタリア階級という敵対する階級の生死をかけた闘争の継続である」と論断した。毛沢東は、「私信」を厳しく斥ける大演説をも行っている。

 毛沢東が同志彭徳懐の意見書を敵による人民公社の攻撃であるかのごとく扱ったのはなぜか。二つの理由が考えられる。一つは、毛沢東にとって人民公社運動はいわば「共産主義の夢」であり、彭徳懐の手紙がその「共産主義の夢」に冷水を浴びせたことにあったと思われる。以降、毛沢東はむしろこの機会をとらえて、彭徳懐を日和見主義者の代表に仕立て上げ、反面教師として利用しようとしていくことになった。

 事の成り行きに驚いたのは、むしろ彭徳懐の方であった。しかし、現実は彭徳懐失脚となった。この時の周恩来、劉少奇の立ち回りは曖昧であり、「周恩来をはじめとして、劉少奇、その他の指導者たちは毛沢東の独走に掣肘を加えることに失敗した」とある。

 彭徳懐は国防部長解任後、毛沢東を訪ねて、1・私はいかなる情況下でも反革命はやらない、2・いかなる情況下でも自殺しない(自殺は処分に対する「抵抗」の意思表示と受け取られる)、3・今後は生産労働を行い、自力で生活する、の「3カ条の誓約」をしている。

 廬山会議で外交部副部長を解任された張聞天は、当時こう感想をもらしている。

 「毛沢東はたいへん英明だが、粛清もひどい。スターリンの晩年と同じだ。彼は中国史から少なからず良いものを学んだが、支配階級の権謀術策も学んでいる」。

 これに対して当の彭徳懐は当時こう述懐した。

 「毛沢東はスターリンの晩年とは異なる。毛沢東は社会主義社会の矛盾を二種類、すなわち人民内部の矛盾と敵味方の矛盾にわけた。スターリンは敵味方の矛盾という概念を否定しておりながら、実際には人民内部の矛盾にすぎないものを敵味方の矛盾にしてしまった。毛沢東は中国史に精通しており、いかなる同志も及ばない。毛沢東は皇帝とは本質的に異なる」。

 彭徳懐はこのように、毛沢東=スターリン論をしりぞけている。ただし毛沢東への不満をこう述べた。

 「主席は自分で誤りを犯しながらそれを認めず、自己批判せず、逆に他人を責めている。革命と建設の勝利によって頭脳が幻惑され、傲慢になった」。

 彭徳懐はその後文化大革命で辛酸をなめ、ついに惨死する。

 この「国防部長彭徳懐失脚事件」のどこが問題なのか。これを考察してみたい。判明することは、劉少奇に国家主席を譲っていたとはいえ、毛沢東王朝が厳然と存在し、重要会議はなべて毛沢東の意向の掌中で執り行われていたことではなかろうか。これは、機関運営主義では無い。建国の最大の指導者にして建国後のカリスマとしての毛沢東の権威が通用することは問題ではない。問題なのは、毛沢東が推し進める人民公社運動に批判的見解を述べた彭徳懐の地位と身分が剥奪されたことの非であろう。

 党内反対派が党中央の意向に反することを述べることの出来る自由と権利の保障が講ぜられているのかいないのか、問題はここにある。当時の中共が、この点で組織論及び機関運営主義の両面において、近代統治システムを確立し損なっている好例を「国防部長彭徳懐失脚事件」に見て取ることが出来るように思われる。

 これを簡単にいえば、人治主義と云うことができる。法治主義の対語であるが、人治主義は結果的に有能な働き手を損なう方向にしか機能しなくなるという意味で集団能力に被害を与えるばかりであろう。
しかし、この人治主義は権力者が容易に陥りがちな愚挙であり、一人毛沢東がその例であるとは滅相も無かろう。英傑毛沢東にしてさえも、この陥穽から抜け出ることが出来なかったと判ずるのが正解であろう。



【2・文革イデオロギーそのものの切開的考察】
 次に、「2・文革イデオロギーそのものの切開的考察」に入ることにする。この主たるテーマとして、毛沢東流マルクス主義を俎上に乗せせたい。れんだいこは、文革は毛沢東主義的マルクス主義の大々的発揚であり、その主意主義性により転んだという観点を持っている。その他要因は様々あるにせよ、これがキーワードであるように思う。

 では、毛沢東はなぜ文革を発動したのか。それは、建国後の経済建設におけるマルクス主義的適用としての人民公社化運動の破産という現実に直面して、その打開策を如何に講じようとしたのかという毛沢東らしさの解明になる。その後の経緯から見て、毛沢東は、マルクス主義の指し示す労働の共同化に対する信念には曇り一つ無い。この路線が貫徹しないのは、これに敵対する反マルクス主義勢力のサボタージュによってであると考えた節がある。当時想定されていた反マルクス主義勢力とは、1・旧権力的封建主義的地主階級、2・党内実権派、3・米帝、4ソ共修正主義派であった。これと大々的な闘争せずんば、中国は建国前の社会に立ち戻る。少なくとも社会主義国家では有り得なくなる、と考えた節がある。

 この想定自体は間違っていなかった。何とならば、文革封殺後の中国のその後は、毛沢東が疑惑し鋭く指摘していた通り「走資派」の道へひと走って行った訳であるから。むしろ毛沢東の慧眼はここでも証されていると云うべきであろう。但し、「走資派」路線が間違いであるかどうか、ソ連邦及び東欧諸国の解体後の今日評価が難しい。

 こうなると、「中共によるマルクス主義適用としての建国後の経済建設路線」の是非論こそが分析されねばならない、ように思われる。しかしてそれは、マルクス主義による市場経済の否定、企業の国営化、計画生産管理、賃労働報酬の均一平等化、労農同盟、都市と地方の格差是正、知識分子の再教育等々の原理論的是非再考察へと向かわざるを得ない。

 これを純理論的に述べてみるよりは、実践的に考察してみたい。さて、建国後の中国は如何なる手法で如何なる社会へ向かうべきであったか。社会を下部構造と上部構造に分け、それぞれ論じていきたいと思う。もう一つ、過渡期社会論をここに導入させて私見も述べていきたい。(以下、略)


【市場経済の否定】考
 マルクス主義による市場経済否定論は案外理論が混線している。一般には、市場経済こそ資本主義の母胎であるとしてこれを否定し、国家管理式計画経済を代替させようとするのがマルクス主義経済学のイロハだとされている。しかし、事はそう簡単ではないように思われる。

 まず、マルクス自身が市場経済を如何なるセンテンスで否定しようとしていたのか、ここを明らかにしたい。マルクス主義の精髄として、弁証法的唯物論、階級闘争史観による史的唯物論、社会主義論の三視座を据えることが出来るが、市場廃絶がマルクス主義の構成要件のうち如何ほど重要な意義を占めているのか、この辺りの考察となる。(以下略)

 マルクス主義に基づく建国革命に勝利したのは、1917.10月革命によるロシア革命によってソビエト連邦共和国の樹立をもって嚆矢とする。これを指導したレーニン率いるボリシェヴィキの当初の経済政策は、生硬なまでの私有財産否定、市場経済否定、国有化理論に基づく諸政策、国家管理式計画経済化、統制経済の推進であった。しかしそれは頓挫する。(以下略)

 レーニンは慧眼であった。公式主義的な国有化理論に基づく統制経済からの転換を図った。いわゆる「ネップ政策」を導入した。しかし、賛否両論で、レーニンはこれに頭を悩ませた。「レーニンと日本」に拠ると、晩年のレーニンはネップ型経済政策の更なる積極導入を意図していたことが判明する。その際、レーニンは、マルクス主義理論とどのように整合付けしようとしていたのであろうか、非常に興味深いが丁度この頃から病に倒れることになる。

 レーニンの後を継いだのはスターリンであった。スターリン派は、レーニン晩年の「ネップ政策」の意義を否定し、元の公式主義的な国有化理論に基づく統制経済へ引き戻した。(以下略)


 続いて、対象するに値するのは、建国後の中国の一連の経済政策である。5ヵ年経済政策、人民公社化運動、文革と続いた政策の背景には、資本主義的市場経済に代わる国家管理経済方式があったことは疑いない。それはまさにマルクス主義イデーの生硬な適用であった。

 しかし、中国でも、国家管理型経済方式は期待されたようには機能しなかった。生産が伸びず、先進資本主義事に較べて技術革新に遅れをとり、労働者には低賃金構造下での労働が果てしなく要求されることになった。(以下略)

 ポスト文革後の中国は大胆な開放改革経済路線にシフト替えし、今日では資本主義国と提携し共存する巨大市場を形成するまでに至っている。

 これらの経過から「市場経済」をどう捉えるべきなのか、マルクス主義内に包摂し得るのか、既にその内皮を破っており最後の外皮を脱ぎ捨てるところまで来ているのか、これを判断する知恵が要求されていると思う。


【1・イデオロギッシュな精神革命そのものの意義と限界の考察】
 社会主義政権が樹立されるや、その基盤の一層の補強と社会主義体制化へ向けての向自的な努力はいわば当然であるように思われる。但し、新政権の国家機構が近代的法制度下で運営されるべきであることは論を待たない。資本主義体制下の近代的法制度は、いわゆるブルジョア民主主義に基づく三権分立制と議院内閣制から成り立つ。とするならば、新政権の国家機構がこのブルジョア民主主義的諸制度よりもより実質民主主義的な運営でプロレタリア民主主義的諸制度を生み出さねばならないことも論をまたないのではなかろうか。

 ところが、史上経験としてのロシア革命後のソビエト連邦のその後、建国革命後の中国、その他東欧諸国の歩みは、中世的国家運営におぞましいほど先祖返りさせられてしまった。残念なことに、現代マルクス主義がこの種の問題について精力的に取り組んでいるとは思われない。

 こういうことを前提認識として本稿の考察に入る。(以下略)




(私論.私見)