華国鋒考 |
(最新見直し2008.8.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2005.5.18日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評454 | れんだいこ | 2008/08/21 |
【れんだいこの華国鋒追悼論その1】
2008.8.20日、華国鋒が、北京市内で逝去した(享年87歳)。華国鋒の死去により、中華人民共和国共産党総書記(主席)経験者で生存しているのは江沢民のみとなった。新華社は、「中国共産党の優秀な党員で、忠実な共産主義の戦士、プロレタリアート革命家」と伝えたとのことである。奇しくも中国オリンピックの開催中の死去となったが、華国鋒の胸中は如何ばかりなものであったのであろうか。 史上、近代に入っての清朝の支配する中国(シナ)は欧米列強の分割する好餌たる植民地であった。そこへ戦前日本の天皇制権力も分け入り、欧米列強を蹴散らすと同時に新たな支配者としての日帝の軍靴に押さえ込まれた。第二次世界大戦で日帝が敗北し、国共内戦を経て中国共産党の支配する中国となった。以来苦節60年、オリンピック開催国まで漕ぎ着けた現代中国に誇りを持って逝ったのだろうか、それとも建国革命の際に求めた姿とは著しく違う現代中国の姿に忸怩たる思いを持って逝ったのだろうかか、これを詮索するのが興味深い。 華国鋒の履歴を確認しておく。 山西省交城県出身出身。本名は蘇鋳(そちゅう)。華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られていると云う。1949年、国共内戦に勝利し、中華人民共和国成立。以降、毛沢東の故郷である湖南省の湘潭県で同党書記を務めた。文革期に毛主席に抜擢され、党湖南省委員会第一書記。1975年、国務院第一副首相兼公安相。党内序列第6位となった。周恩来の死去後、1976.4月、周恩来の後任として党第一副主席兼首相代理。王洪文が有力視されていたが、それを抑えての就任だった。同年9月、毛主席が死去。 同10.6日、葉剣英中央委員会副主席らと共に江青や張春橋などの四人組を逮捕、文革を終結させた。毛主席生前の「あなたがやれば、私は安心だ」の自筆メモが根拠となり、10月、毛沢東亡き後の党主席を後継した。 このメモにつき、中国共産党中央文献研究室の「毛沢東伝」では、後継指示的意味は否定されている。実際は、毛沢東の私設秘書であった張玉鳳の手記を引用したもので、国際上の問題について尋ねた華国鋒に「既定の方針にしたがってやれ」、「あなたがやれば私は安心だ」と言ったに過ぎず、後継指示メモではないとの見解が示されている。異説として、くだんの毛沢東メモは、華国鋒が四人組の攻撃に耐え切れずに毛沢東に辞意を示したときに、声の出なくなった毛沢東が紙に書いたものとする。華国鋒は、毛沢東メモを、その後の政治局会議で政治局員らに見せることにより攻撃を乗り切ったとする。真相は未だ不明としたい。 1977年、主席就任後の華国鋒は、生前の毛沢東指示を絶対視する方針「両個凡是(二つのすべて)」を打ち出し毛沢東路線の堅持を訴えた。が、その政治的基盤は弱く、ケ小平派から厳しく批判された。1978.1月、ソビエトの支援を受けたベトナムが中国と友好関係にあるポル・ポト首相率いる民主カンプチアに侵攻した。カンボジアは内戦状態に入ったが、華国鋒政権はこれに有効に対応し得なかった。同8.12日、1972年の田中内閣時に締結された日中共同声明を踏まえて、日本の福田内閣との間で日中平和友好条約を締結し、戦争状態を完全に終結させた。同12月、「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)で実権を奪われた。 1979.1月、中国は、「懲罰」と称してベトナムに侵攻した(中越戦争)。但し、人民解放軍は大きな損害を出し、軍事・外交の両面で得る物はなく終わった。カンボジア内戦ではポル・ポト派を支援し続け、ベトナムとの外交関係は断絶した。この事件は、社会主義陣営の国際主義的団結と云う夢想を粉々にした。 同1月、アメリカ(ジミー・カーター大統領)との国交を樹立した。中国を「中国を代表する唯一の正統政府」とする立場を認めさせたものの、アメリカは台湾の中華民国を見捨てず、中国国民党政府とも実質的な協力関係を維持した。これらの背景にどういう動きがあったのか、碌な分析ができていない。 1980.5月、中国首相として初めて日本を公式訪問。同7月、大平正芳元首相の葬儀参列の為に再来日した。その後、改革開放路線を主張するケ小平派との党内闘争に敗れ、同9月、首相を、1981.6月、党主席をそれぞれ辞任した。2002年、第16回党大会で引退するまで中央委員ポストに就いていたが、政治的影響力はなかった。一部メディアが「2004.2月、中国共産党に離党届けを提出した」と報道したが、2007.10月の第17回党大会に、「中共元老」なる格で特別招待代表として姿を見せた。 2008.8.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評455 | れんだいこ | 2008/08/21 |
【れんだいこの華国鋒追悼論その2】
以上が華国鋒の概要履歴であるが、史上にどのように位置づけられるべきであろうか。はっきりしていることは、文革の混乱を鎮めたということであり、これをどう評価するべきかと云う事になる。現代歴史学の潮流は文革否定論に立っているので、文革終結者としての華国鋒の功績を認め評している。 ところが、その華国鋒はその後、ケ小平派によりお役目御免とばかりに切って捨てられた。これにより、華国鋒の政治的位置は文革終結者としての功績のみであり、後は木偶(でく)の坊として扱われている。その後の中国はケ小平派政権であるからして、これを正史としている。我々は、これを「正史」として受け止めるべきだろうか、そこが問われている。これを解くには、文革論を俎上に乗せずんば解けない。その文革論が為されていないので、華国鋒の政治的位置づけは容易にはできない。これが、れんだいこの見立てになる。 文革論については、時田研一氏が「中国の「新左派」・「自由主義」論争――文革の評価をめぐって 」(ttp://www.kaihou.org/china.html)、「中国の「新左派」・「自由主義」論争 NO.2―「二つの文革」論をめぐって」(ttp://www.kaihou.org/bunkaku2.htm)で精力的研究を提起している。れんだいこは、「時田氏の労作から学ぶ現代文革論諸氏の見解考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/bunkaku_ronco.htm)で採り上げているが、中途で投げ出しそのままにしている。 思えば、文革は、20世紀政治史上特筆されるに値する例の無い壮大なマルクス主義的精神涵養実験であった。表面から見ればそういうことになる。が、内実は、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオ・シオニズムの侵食から身を護る社会主義政権中国の自律自存を賭けた実験であったような気がする。 しかしてそれは結果的に、文革派を形成した諸派が断続的に葬られ、文革派が文革期間中口を極めて批判したケ小平ら走資派権力を引き寄せただけの結末ドラマとなった。これをどう見るかが問われている。華国鋒が結果的に、これを橋渡ししたのは間違いない。これをどう見るかが問われている。 れんだいこは、文革派の大義の歴史的意味を認めたいと思う。但し、理論的未熟さがマルクス主義的実験を自壊させたと見ている。もう一つ、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオ・シオニズムの狡知が長けていたと見ている。この両面の理由により、結果的にケ小平らの走資派に付け入る隙を与え、走資派の支配する現代中国に至っていると見立てている。この辺りの分析が非常に難しい。 結論としてこうは云える。文革を否定、批判するのは容易い。問題は、かの壮大な実験のどこから何を学ぶかではなかろうか。この姿勢のない文革論は百害有って一利無しと見る。ところが現実には、そういう有害無益文革論ばかりが横行している。話が通じない連中による文革論ばかりであり、それらをいくら読んでも無内容で食傷するばかりでしかない。 そういう理由から、「出でよ、為になる文革論」。これが、華国鋒論の餞(はなむけ)になる。 2008.8.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)