明石大佐考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.24日

 児玉源太郎から密命を受けた明石元二郎は、ロシアに飛び、革命党と交わりその懐深くに入り込む。日露戦争における後方撹乱を目的とした秘密工作に乗り出す。ちなみに「密命」とは、日露開戦後の状況を受けて「ストックホルムに急行し、かの地において露国内外の不平党との連携の糸口を掴むべし」というものであった。


【「明石元二郎陸軍大佐のロシア革命工作」】

 かってドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、「日本の明石元二郎は、たった一人で日本の満州軍二十万人に匹敵する成果を挙げた。実に恐ろしい男だ」と感嘆した、と伝えられている。「機密日露戦史」(谷寿夫中将作成)には、「戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と書かれているが、世間ではこの点が知られていない。 元老の山県有朋は「明石というヤツは恐ろしい男で、何をやらかすか分からない」と畏怖した。明石の同僚は「彼なら陸軍大臣でも立派にやりこなしただろう」と称賛している。

 

 日本陸軍参謀本部が明石に与えた工作費は百万円という途方もない巨額な金額だった。当時の日本の国家歳入が2億5千万円だったからして、その頃の百万円が如何に大金であったか分かる。明石はフランス語がうまく、ドイツ語もこなせた。明石は、ロシア革命の革命工作に大金を惜しみなく投じた。その為にヨーロッパの職業スパイを使いきった。「スパイは情義的(人情と義理)な動機で仕事してくれる者よりも、むしろカネだけを目的にするプロの方が、はるかに役立った」と後年、述懐している。

 ロシアの内情に通じ、前陸相クロパトキンの来日、帰国後の動静を的確に把握していた。極端な反日家であったプレーブ内務大臣の暗殺にも関与していたと伝えられている。日露戦争時のロシア国内での反政府暴動では、レーニンやその他のロシア革命家を通じて、その全てに関与していたと伝えられている。こういう史実から、「日露戦争において機密工作によりロシア革命を支援し、日本の勝利に大き く貢献した蔭の立役者」と評される。

 ロシア政府は指名手配し、常に密偵から付け回された。

 明石氏の次のようなレーニン評がある。明石氏は革命前のレーニンと親交があり、かねがねレーニンを高く評価していた。

 「レーニンは目的のためなら手段を選ばぬ人間だと思われているが、それは間違いで、彼は珍しく至誠純忠の精神を身につけた人物だ。将来、ロシアに革命が達成できるとすれば、それはレーニンを除いて他にいない」。

 明石大佐は常に葉巻をくわえていたが、レーニンは「貴方はぜいたくだ」と何度も云った、と云う。(倉敷芸術大学客員教授・河上文久「日本近代史132」)


 2023.6.24日、「明石元二郎と石光真清は日露戦争勝利にどう貢献したか」。
 現在のロシアでは、ウクライナへの侵攻を支持する国民の割合が半数を大きく上回っているという。しかし若年層になるほど、戦争に無関心、もしくは忌避感を示す傾向があり、今後、ロシア兵の戦死者がさらに増加し、本国に送還されると、ロシア国内で反戦の機運が高まっていくことも予想される。特にロシア側は、自軍の戦死者数を大幅に下方修正しているため、正確な戦死者数の情報がロシア国内に広まれば、戦争支持の趨勢に何らかの影響を与えよう。そのため欧米諸国はロシア国内に向けた情報発信に余念がない。このように戦争中の国家に揺さぶりをかけることは、インテリジェンスの重要な任務の一つであり、今から120年も前の日露戦争において、日本陸軍は莫大な予算を投じてそのような工作を行った。それを最前線で担ったのが、かの明石元二郎大佐である。

 日本陸軍の期待を背に情報工作に徹した軍人

 明石は英・仏・独・ロシア語が理解できた稀有な軍人であり、日露戦争の2年前からロシアにおいて情報収集の任務に就いていた。彼の前任者は後に首相となる田中義一である。日露戦争が勃発すると、日本陸軍は明石にオーストリアのウィーンへ退去するよう命じたが、明石は単身スウェーデンに向かう。その目的は、情報収集とストックホルムに集まっていた亡命ロシア人やフィンランド人、ポーランド人の利用にあった。明石はストックホルムを根拠地とし、「アバズレエフ」の仮名でベルリンやパリ、ロンドンなど欧州を訪問して各地で反露革命勢力に資金や武器を提供し、ロシアの対日戦争指導に揺さぶりをかけたのである。  例えば、明石はスイスにおいて購入した1.6万丁もの小銃を、バルト海沿岸からロシアの社会革命党に引き渡している。この輸送のために蒸気船までが購入されており、折を見てはさまざまなルートを通じて、ロシア国内の反体制派に武器が供与され続けた。同党はこれらの武器の一部を使用して、ロシア国内で多くのテロ事件を引き起こしており、現役の内務大臣2人もテロの犠牲となっている。また、明石は鉄道の破壊工作やロシア皇帝の暗殺計画にも何らかの形で関与していたようだが、こちらは上手くいかなかったようである。他方、明石はロシア国民に厭戦気分が高まっている様子を参謀本部に通知しており、こうした情報は、攻勢限界点に近づいていた日本陸軍の士気を支えることになった。明石はある通信の中で、「前途有望なり。たとえ一気に政府を転覆するを得ざるにせよ、吾人は一歩一歩にその城郭を侵略しつつあり。皇帝政府は早晩墜落の時来るべきを信ず」と書き送っている。明石が明言した通り、1905年1月にはロシア第一革命が生じ、もはや戦争どころではなくなったロシア政府は、日本とのポーツマス講和会議に臨まざるを得なかったのである。

 ただし、明石の活動は各国の秘密警察や保安機関からも監視されており、ロシアでは明石の情報提供者3人が逮捕、もしくは行方不明となっていたため、明石自身も相当慎重に行動していた。明石はトラブルを避けるために、金銭についてはとにかく先方の言い値で先に渡し、そのまま連絡が取れなくなるようなこともあったようである。また、自分たちの郵便が開封されていることも承知の上で、手紙の文章の暗号化、筆跡の使い分け、あぶり出しの使用、封筒に別の書状を2通入れることで、いざという時の言い逃れをするためのアリバイ作りなどにも余念がなかった。 日本陸軍も明石の工作に期待しており、100万円(現在の価値で400億円以上)もの破格の機密費が支給され、戦争後、余った27万円の機密費が全て返還されたことはよく知られている(機密費なので、明石が懐に入れたとしても陸軍は確認できない)。優れたインテリジェンス・オフィサーは、「国益」を唯一の指針とする。もし私益の芽がわずかにでも生じれば、相手方の買収工作などに引っかかってしまうリスクが高まり、情報活動は失敗に終わる。そう考えると、明石工作は国益のみを考慮した、一級のインテリジェンス活動だったと評価できる。後の陸軍中野学校は、明石の手記『落花流水』をテキストに指定するほどであった。同書は明石の情報工作の手法が具体的にまとめられたものであり、情報活動に携わる者には必読書とされたのである。明石だけではなく、当時、欧州などに派遣されていた日本軍の武官や外務省公使からも多くの情報が寄せられ、日本の対露戦争を支えていたことは言うまでもない。

 敵国から信頼を得て自ら情報収集も

 その中でも特筆すべきは、日本陸軍の石光真清少佐だ。石光も私益を無視して国益のために働き続けたことで知られ、家庭を置いて単身ウラジオストクに渡ったような人物であるが、インテリジェンス・オフィサーとしての能力は秀でており、満州のハルビンで写真店を開業しながらロシアの内情を写真に収め続けたのである。石光はロシアの東清鉄道会社やロシア軍から信頼を寄せられ、軍の依頼で東清鉄道の建設の様子を詳細に写真に収めている。明石の場合は監視されていたがゆえに、ロシア人を使っての情報工作だったのに対し、石光は、ロシア側から信頼を勝ち取り、ロシア国内で自ら情報活動を行っていたのである。石光もロシア通であった田中義一との接点があったが、その後、栄達を極めた田中と比べると、昇進や栄誉とは無縁の人生を送った。日露戦争後、石光は東京・世田谷の郵便局長を務め、17年に日本がシベリア出兵を行った際には再びシベリアに渡り、情報活動を行っている。石光の活動自体は長らく秘匿されてきたが、没後の42年に長男の真人が『諜報記:石光真清手記』(翌年『城下の人』≪二松堂≫として出版)を発表したことで、ようやく世間一般に知られるようになった。

 日露戦争の裏では明石や石光のような有能なインテリジェンス・オフィサーの活躍があり、日本陸軍も情報活動の重要性を認識してそれらを活用していた。日露戦争における情報戦は日本の勝利に終わったといっても過言ではないだろう。

【明石元二郎(あかしもとじろう)氏の履歴】

 コンサイス人名辞典・日本編(三省堂)には次のように書かれている。

 「明石元二郎(元治1年−大正8年)
 明治・大正期の陸軍軍人(大将)。福岡藩士明石助九郎の次男。陸士6期、陸大卒業後ドイツに留学、日清戦争では近衛師団参謀、日露戦争ではストックホルムで革命下ロシアの内情の諜報活動に従事、ドイツ大使館付き武官、韓国*軍参謀長(明治41年)、韓国駐*憲兵隊司令官(明治43年)、第一次大戦では青島戦に参加して第6師団長、台湾提督(大正7年)となり任地で病没した」。
 総評=日露戦争時のロシアに対する諜報活動(明石工作)で著名な明治・大正期の陸軍軍人(大将)。

 1864(元治元)年、福岡藩士の明石助九郎の次男として生を受ける。陸軍幼年学校、陸士6期、陸大と軍人としてのエリートコースを歩み、1889(明治22)年、陸軍大学校を卒業。ドイツに留学。日清戦争では近衛師団参謀。陸軍参謀本部員として台湾、東南アジア、清(支那)を巡った後、1901(明治34)年、フランス公使館付き武官となる。

 1902(明治35).10月、駐ロシア公使館付き武官(陸軍中佐)に任命されモスクワに赴任。日露戦争開始1年数カ月前、中立国スウェーデンの首都ストックホルムに移り、革命下ロシアの内情の諜報活動に従事する。日露戦争ではドイツ大使館付き武官。

 日露戦争に日本が勝利した原因は、1・奉天大会戦、2・日本海会戦の勝利、3・ロシアの革命煽動の3つある。最大の勝因は、知られていないが「ロシアの革命煽動」であり、その功績はすべて明石元二郎に帰する。明石は全ヨーロッパを舞台に縦横無尽に動き、レーニンの革命運動を支援して帝政ロシア・ニコライ2世を揺さぶった。時にはレーニンを罵倒しつつその活動を促した。

 明石は参謀本部に連絡して莫大な機密費を投じ、ロシア、ヨーロッパに拡散していた革命分子を大同団結させ、武装蜂起の工作を行った形跡がある。ロシアの革命党と連絡をとり、資金を提供して彼らの活動を支援した。その資金は百万円(現在の金額に換算すると凡そ百億円ほど)を費やした。ソ連共産党国家の産みの親は明石元二郎だったと云える。レーニンが後に、「明石元二郎に感謝状を贈りたい」と云ったとされており、こういう事情を背景にして理解し得る。

 明石氏は、次のように評されている。(サイト元失念)

 概要「明石氏は、アジアを見据え、ヨーロッパを見据え、民族の未来、人類の未来を考えていた。明石元二郎だけが特別だったわけではない。当時の日本人の多くは、全世界を見渡し世界の方向を見定め、遠い未来を夢見ていた。明治生まれ、大正生まれのなかにそうした人々が山ほどいた。昭和ひと桁生まれのなかにもかなりの数がいたようだ。だが近年、そうした男が存在しない。社会がそのような男の存在を容認しない」。


 1908(明治41)年、韓国*軍参謀長。

 1910(明治43)年、朝鮮の憲兵隊司令官となる。

 第一次大戦では青島戦に参加して第6師団長。

 1918(大正7)年、明石氏は、第7代台湾総督に任命され赴任した。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。明石の在任期間は1年4カ月と極めて短いが、1・日月潭水力発電事業の推進等の台湾の事業推進、2・司法改正(それまでの二級審から三級審への改革)、3・台湾新教育令の公布施行(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた)、4・嘉南銀行の設立、5・台北高等商業学校の設立、6・道路や鉄道など交通機関の整備、7・森林保護の促進など精力的に事業を進めた。こうした功績により名総督と評され、現地の人々から敬愛される人物となった。

 1919(大正8).10.26日、病にあった明石総督は公務のため本土へ渡航、その洋上で再発し、郷の福岡で没した(享年55歳)。「もし自分の身の上に万一のことがあったら、台湾に葬るよう」との遺言によって、遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され 北の日本人墓地に埋葬された。


 余談になるが、墓地はその後荒れ果ててしまっていたが、平成6年になって陳水扁(現台湾総統)が台北市長になり、明石元二郎の墓が新たに設置された。





(私論.私見)