各党の日の丸、君が代政論考

 (最新見直し2007.4.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、れんだいこの君が代論を記しておくことにする。

 2006.7.11日再編集 れんだいこ拝








(私論.私見)

都教育委 「君が代」で、高校教諭ら8人処分へ
毎日新聞 2004.02.13
 東京都教育委員会は12日、創立記念式典などで「君が代」斉唱時に起立しなかった都立高校教諭ら8人を「職務命令違反」として処分する方針を固めた。都教委は昨年10月、「命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とする異例の通達を学校現場に出しており、通達後、初の処分となる見通しだ。都教委は卒業式シーズンを控え、日の丸掲揚と君が代斉唱の徹底を図りたい考えだが、教職員組合は「内心の自由に踏み込む行為だ」と反発している。
 都教委は通達とともに卒業式や入学式の実施指針を決め、▽国旗は舞台壇上の正面に掲揚する▽教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する――などと細かく規定した。その後、都立学校で開かれた創立記念式典などに職員を派遣し、行事の様子をチェックしていた。また、式典を開いた都立高・養護学校の校長も同通達・指針に基づき▽着席の指示があるまで起立している▽音楽教員は国歌斉唱に際してピアノ伴奏する――などの職務命令を出した。しかし、君が代斉唱時に起立しなかったり、退場した教職員がいたため、12日の教育委員会定例会で審議し、文書訓告以上の処分にする方針を決めた。
 都高等学校教職員組合(都高教)は「内心の自由は尊重されなければならず、起立しなかっただけで処分するのは不当だ」としている。



石原都知事の発言録より なぜ忌避わからない 国旗・国歌巡る訴訟
朝日新聞 2004.2.3
「彼らが国歌・国旗をなぜ忌避するかということの具体的な理由がいまだによくわからない。強制されるのはだれもみな嫌なものかもしれないけども、国歌・国旗というものを保有しない国家というのは私は聞いたことはないし、そういうものの象徴的な存在が、国家という共同体に属している人たちのエネルギーを喚起もするんで、私は国歌・国旗の存在というものを信じるし、国がそういうものを国歌として、国旗として認めた限り、私はやっぱりそういう行事の中に、先生が出席しないのは構わんかもしれないけどね、心ある先生がそれを一緒に歌う、国旗っていうものにちゃんと敬意を払うということは、私はやっぱり教育なり、重要なしつけの一つだと思いますけどもね」
(30日、記者会見で。日の丸・君が代を強制する違法な通達などで精神的苦痛を受けたとして、教職員らが都教委などを相手取り、国旗に向かって起立する義務がないことの確認などを求めて提訴したことについて、考えを問われて)



式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違法」 東京地裁
朝日新聞 2006年09月21日15時34分
 卒業式、入学式で教職員に国旗に向かって起立しなかったり国歌斉唱を拒否した東京都立校の教員が大量処分を受けたことをめぐる訴訟で、東京地裁は21日、違反した場合に処分することを定めた03年の都教委の通達は「少数者の思想良心を侵害し、違法」とする判決を出した。難波孝一裁判長は、(1)教員らには起立、斉唱の義務はないことの確認(2)不起立・不斉唱、ピアノ伴奏の拒否によって処分をしてはならない(2)原告401人に対する1人3万円の慰謝料支払い命令――を言い渡した。
 判決はまず、日の丸・君が代の歴史的な位置づけについて「第二次大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい」と指摘。「国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗、国歌と規定された現在でも、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と述べた。
 これを踏まえ、「教職員に一律に起立・斉唱とピアノ伴奏の義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になる」として都教委の通達と校長の職務命令は違法だと結論づけた。




6.その他の新聞記事(朝日新聞データベースより)
 
▼85/10/14 日の丸・君が代の文部省方針に賛成6割、反対2割 本社世論調査
▼90/03/30 日の丸・君が代義務化、5割が「行き過ぎ」 朝日新聞社世論調査
▼94/03/20 日の丸・君が代に生徒が反対署名 卒業式は混乱なし 調布三中/東京
▼97/07/19 「君が代」不起立の教諭を初の減給処分 北九州市教委 【西部】
▼91/07/26 「日の丸・君が代」(天声人語)
▼91/11/26 「日の丸と君が代」(天声人語)
▼85/09/12 踏み絵同然の国旗掲揚強制(声) 静岡市 辻 宣道(牧師 54歳)
▼85/09/12 民主主義なら多数に従おう(声) 横浜市 兼成 勇(団体職員 54歳)
▼85/09/12 若者らの手で新しい国歌を(声) 国立市 岡田 幸一(自由業 47歳)
▼85/09/19 日の丸・君が代の歴史を教えよ(声) 札幌市 山森 聡(学生 18歳)
▼85/09/19 多数に服従と民主主義は別(声) 東京都 石川 博詞(学生 26歳)
▼85/09/19 愛国心の発露が軍国主義とは(声) 横浜市 西沢 勲(無職 65歳)
▼85/10/06 利他と謙譲の君が代に賛成(声) 千葉市 川俣 泰男(医師 34歳)
▼87/01/21 君が代歌わぬ自由あるはず(声) 京都市 飯沼 二郎(大学名誉教授 68歳)
▼90/03/29 「君が代」斉唱の意味を教えて(声) 富山市 後藤哲子(非常勤講師 40歳)
▼90/03/29 何度もやり直した「さざれ石」を思う(声) 与野市 小泉美智子(主婦 40歳)
▼94/10/21 国歌への批判、深まるドイツ 廃止訴えるB・オルトマイヤー氏に聞く
 
 
生徒のレポート(1997.12月)
 
●僕は小学校の頃、君が代を覚えさせられた。それ以後、学校では事あるごとに歌わされてきた。しかし、歌詞の意味など理解していなかったし、理解しようともしなかった。
 今回の授業ではじめて君が代の歌詞の意味を知った。この歌をめぐる歴史や対立もはじめて聞いた。
 歌詞の意味を聞いたら腹が立ってきた。「天皇の治める世の中は……」なんじゃこりゃ?日本は国民主権じゃないの?民主主義じゃないの?「千代に八千代に続く……」はぁ?これはだまされたと思った。
 僕はこの歌の意味は知らなかったが、日本の国歌ということで誇りを持っていた。卒業式で歌えたことも光栄に感じていた。それなのに、この歌詞は何だ。戦前の日本とまったく変わっていないじゃないか。日本の民主主義なんて言葉だけで、まったく中身は変わっていないみたいだ。見た目ばかりをかざりたてて、ちっともおいしくない料理みたいなものだ。
 うわべを変えるのは簡単だけど、中身を良くするのはむずかしい。だから、日本の社会はこういうことずっとをあいまいなままにしてきた。この歌にはそういう日本の状況がつまっているように思う。
 賛成派の主張は、「これが日本の伝統」とか「他に考えられないし考えたくない」とか「心のよりどころだ」とか、民主主義自体を否定しているみたいだ。日本が民主主義国家になったというのなら、それにふさわしいものに変えた方がいいと思う。とりあえず、君が代は歌いたくない。
 
●日の丸と君が代は日本の国を一つにまとめてきた象徴だと思います。
 「日の丸ときたら日本」というくらいに定着しているので、いまさら違う国旗に変えるというのは無理があると思います。ただ、君が代に関しては、少し考えた方がいいと思いました。
 なぜ、君が代をサッカーや野球の試合で歌うのか、卒業式や入学式で歌うのか、少し疑問に感じるし、義務づける必要はないのではないかという気がしました。卒業式で君が代を歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎させれたりというのはいきすぎだと思います。
 
●日の丸は親しみやすくてわかりやすいので、わざわざ変える必要はないと思う。
 君が代については、歌詞を変えた方がいいと思う。小学生が歌わされても意味が分からないだろうし、歌詞も古いので好きになれない。そもそも今は天皇の治める世の中ではないので、今の社会にあっていないと思う。学校の式典では、いつも「国歌」あつかいされているが、法律では国歌と決められていないのに、義務づけるのはおかしいと思った。
 
●たんに日の丸はセンスがないと思っていただけだったが、戦争中、日の丸がナチスのハーケンクロイツと同じ性質を持っていたと知ってびっくりした。君が代は以前から好きではなかったが、歌詞の意味を聞いてますます嫌いになった。君が代斉唱の義務づけはやめて欲しい。あんな意味の歌を卒業式やサッカーの試合で歌わされるなんて、私たちもサッカー選手もお国のために戦う兵隊ではない。アメリカの国旗と国歌は、国民が中心の国だということが伝わってきて、すてきだと思う。日本もそういう国民がみんなでいっしょに作り上げた国旗や国歌にするべきだと思う。
 
●僕としては、日の丸と君が代をとくにどーこーは思わない。日の丸はかっこわるいとしか思わない。
 君が代はけっこう好きだけど、「君が代は千代に八千代に」の部分は問題ありだと思う。
 それに、日の丸や君が代を国旗・国歌として認めるかどうかは、人それぞれでいいと思う。卒業式で起立しなかった人を処罰したりするのはまちがっている。
 
●君が代と日の丸と日本人って、セットになっているようなイメージがある。個人的には、日の丸ってかわいいと思う。なんか、プチョっとした感じ。
 私は日の丸や君が代をかえる必要はないと思う。旗や歌をかえたからって、社会や私たち自身が変わらなければ意味がないから。
 
●歴史の時間にも、戦争中に日本軍が行ったひどいことを教わった。しかしその一方で、始業式や終業式では、日の丸をかかげて、君が代を歌う。日の丸・君が代はなんだか戦争賛美に思えるし、戦前のファシズムの象徴に見える。学校のしていることは矛盾しているように思えるし、起立して君が代を歌う自分も偽善者になったような気がして、いつも始業式や終業式の時は嫌な気分になる。
 ただ、自分のなかにも日の丸への愛着心や愛国心みたいなものがある。ボーイスカウトで、日の丸をあげて敬礼したりするが、その時には、日の丸を誇りに感じることもある。(といっても、ボーイスカウトは右翼団体ではない。)もし、日本の旗が日の丸ではなく、他の旗に変わったとしたら、こういう気持ちにはならないだろうと思う。多くの人にとって、日の丸はそれくらい定着していると思う。君が代は明らかに天皇賛美の歌だが、日本人に定着しているという点では日の丸と同じで、他に変わるものはないと思う。
 そもそも、国家という存在自体、ナショナリズムやファシズムの芽を持っているものではないか。自分の国が世界一だと思いたい気持ちは、アメリカでもイギリスでもドイツでも同じだと思う。だから、旗や歌をかえるよりも、国家というものへの意識から変えてないと根本的な解決にはならないと思う。
 
●俺は日の丸や君が代をたんに旗と歌としてしか考えていない。だから、沖縄での日の丸を焼いた事件での判決も重すぎると思う。
 
●日の丸に対して、悪い気持ちを抱いている人がいることは確かなのだから、それを国旗として国の象徴にしているのは適当ではない。少数意見だからといって、切り捨てていいものではない。
 
●確かに、君が代を強制して歌わせるのはおかしいと思う。それは思想の自由に反している。
 ただ、新しく国旗や国歌を作るというのも、無理があると思う。約80%の人が日の丸や君が代を支持しているからだ。それを無視して新しい旗や歌を作るというのは民主的じゃないと思う。それに、国旗や国歌が変わっても何も変わらないと思う。だから、学校の式典では、歌いたくない人は歌わなければいい。それだけのことではないかと思う。
 
●日の丸はおぼえやすい。あんな貧相で気の抜けた国旗は他にないので、かえなくていいと思う。しかし、国歌はかえるべきだ。君が代は暗すぎる。あれじゃ葬式だ。アメリカの国歌みたいな活気があって力強い曲が国歌にふさわしいと思う。学校の式典でも、日の丸はかまわないが、君が代は勘弁してほしい。
 
●君が代は意味を理解するとムカついた。卒業式でも歌いたくない。
 
●私は今までよく考えたことがなかったが、日の丸は好きで、君が代は嫌いだった。日の丸はかわいい感じがしたし、君が代は暗い感じがしたからだ。でも、意味を考えてみると、ふたつとも今の日本にはあわないと思う。じゃあ、新しく変えればいいのかというと、これだけ定着していることを考えると、どうかと思う。私自身、あまり変えて欲しくない。
 ただ、公立学校の卒業式では、両方とも別にいらないと思う。(どうせ、みんなめんどくさいくらいにしか考えていないだろうし。)私立の場合は、やりたければやればいいと思う。
 日の丸や君が代の意味って、知らない人が大勢いると思う。こういうことは私自身もふくめて、子供も知っておかなければいけないことだと思う。
 
●日の丸の支持率が90%近いというのはおどろいた。そんなに大勢の人があの旗に愛着を持っているのだろうか。でも、日の丸や君が代の歴史的な意味を知らない人がほとんどではないだろうか。意味を知らない人が「まあ何となくいいんじゃない」くらいに思っているのだとしたら、それは支持でも何でもないと思う。新しい旗ができてそれなりのデザインだったら、「まあ別にいいんじゃない」くらいに受け入れられるだろうからだ。
 日の丸や君が代の持っている意味をよく考えた上で、賛成か反対かを判断しないと、支持率なんて意味のないことだと思う。にもかかわらず、学校でやっていることはそれの全く逆だ。日の丸や君が代の意味を教えもしないで、一方的に強制するのは、政府の人がそうやって国民を操ろうとしているからじゃないかという気がする。「考えるな、言うとおりにしてればいいんだ」って。なんだかバカにされているような気分だ。
 
●戦争中、この旗や歌のもとに、大勢の命がうばわれていった。そういう日の丸と君が代の意味を知っていれば、「別にいいんじゃない」「悪くないんじゃない」とは言えないはずだ。この旗と歌は歴史的に重たい意味をもっている。星条旗と日の丸をくらべると、明らかにその性質は違っている。星条旗にはたんに愛国心だけでなく、「自由」への思いが込められている。それに対して、日の丸は排他的な愛国心そのものだ。それは天皇をたたえ、国民を束縛する。
 僕は個人的に日の丸が好きな人に対してまで文句を言うつもりはない。しかし、学校の式典に義務づけるのと、個人として自分の家に日の丸をかかげるのとは意味合いがまったく違う。日の丸・君が代の義務化のどこに「民主政」や「思想の自由」があるというのか。日の丸の義務づけは戦争中と何ら変わりない。将来、日の丸・君が代が、法律でも国旗・国歌として定められる時が来るかも知れない。その時、ほとんどの人が日の丸・君が代を支持したとしても、僕は認めるつもりはない。それは戦争中、天皇をたたえ、日本の侵略の象徴だったものだ。
 学校で愛国心などという前に、日本の歴史(正しいやつ)を教える方が先ではないのか。
 
 

生徒のレポート(1998.6月)
 
●私は日の丸や君が代は日本になくてはならないものだと思う。いまさら、別の国旗や国歌を作るのは無理があると思う。日の丸や君が代がなくなってしまったら、学校での卒業式や入学式はどうなってしまうのか心配になる。君が代は日本だけの歌なのだから、国歌にふさわしくないなんて日本人として恥ずかしいと思う。
 国旗が燃やされた事件があったけれど、国旗を燃やしてどうなるというのだろう。それほど日本や日本の旗が嫌なら、日本から出ていけばいいと思う。
 
●日の丸や君が代にこういう意味があることを初めて知った。特に、君が代の歌詞が「天皇の治める世の中は……」という意味だと知ってショックを受けた。意味も知らずに歌わされてきたなんて。今は天皇を神として政治をする世の中ではないと思う。民衆一人一人が政治に参加する時代だというのに、こんな歌が国歌として扱われていたら、世の中良くならない。
 確かに、この旗や歌に愛着をもっている人もたくさんいると思う。でも、そういう人の多くは、たんに子供の頃から親しんでるからとか、日の丸が戦争中にもっていた役割や君が代の歌詞の意味を知らないだけだと思う。国旗や国歌を新しくするなら、今がチャンスだ。21世紀を平和の世紀にするためにも、今世紀中に戦争の影を引きずっている旗や歌に決着をつけるべきだ。今、変えることができなければ、この先もできないだろう。
 ドイツではナチスの旗を禁止している。私たちも「別にいいんじゃない」とか「自分に関係ない」とかじゃなくて、歴史や社会のことをもっと良く知り考えるべきだ。政治や社会にもっと積極的に働きかけて良い社会を作ろうとしなければ何もかわらない。このままでは、また戦争をやろうとする人間が日
本に出てくるかもしれない。
 
●日の丸も君が代も強制することはないと思う。強制には反対だが、私は日の丸も君が代も日本国を象徴しているのだから大切にするべきだと思う。ただ、君が代の歌詞は「象徴天皇」の意味から大きくはずれているし、曲だけにするといいと思う。
 
●戦前、日の丸と君が代は軍国主義の象徴に使われました。今の日本は民主国家です。国旗も国歌も変えるべきだと思います。君が代の歌詞は今まで知りませんでした。多くの人がそうだと思います。だから、もっとわかりやすく、親しみやすい歌に変えた方がいいと思います。
 所沢高校の入学式でも、校長が君が代と日の丸をやろうとして対立していたけれど、強制するのはおかしいと思います。この旗や歌を嫌だと思っている人もいるわけだから、そういう人の気持ちも考えるべきだと思います。そういう意味でも、みんなが納得できるような国旗・国歌を新しく作った方がいいと思います。
 
●今から国旗や国歌を変える必要はないと思う。
 日の丸や君が代は日本に定着しているから、オリンピックなどで使われるときも日本という感じがしてなかなかいいと思う。そういうとき、私は感動するし、日の丸や君が代じゃなければ、我が国という感じがしなくなってしまう。日の丸や君が代に戦争中の嫌な思い出がある人もいるだろうけど、それも日本という国の歴史のひとつとして、旗や歌にそういう思いが込められているのもいいと思う。今の天皇陛下はすごくいい人だし、私は反感を持っていない。
 ただ、入学式や卒業式で日の丸や君が代を押しつけるのはまちがっていると思う。それがなくたって式はできるし、卒業のお祝いや先生への感謝に日の丸や君が代は関係ないと思う。それに、君が代を押しつけるというのはやっぱり天皇主権を押しつけることになってしまうんじゃないかと思う。
 
●天皇を個人的に嫌っているわけではない。ただ、天皇をたたえる歌を国歌として、公式な場で歌うことを決めている国の方針が気にくわない。それに、学校でも君が代の歌詞の意味も教えずに、国の方針なんだからとにかく歌えというやり方も気にくわない。こういうやり方は、戦前・戦中の軍国主義とほとんど変わっていないと思う。
 民主主義は思想の自由を認めると言うことでもあるはずだ。君が代を好ましく思っていない人も大勢いるのに、そういう人を無視して天皇をたたえる歌を押しつける日本のやり方は、形は民主主義でも中身は軍国主義だと思う。
 
●日の丸は戦争中に日本軍がアジア各地を侵略したときに盛んに振られた旗だ。日の丸が軍国主義を連想させるのは当然だと思う。ドイツが戦後、ナチスのハーケンクロイツを法律で禁止したように、日本も日の丸をやめた方がいいと思う。にもかかわらず、現在、日本政府は日の丸や君が代にこだわっているというのは、過去の侵略の歴史を何も反省していないということだ。学校の式典で、日の丸と君が代が強制され、歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎処分になるというのでは、日本の政府のやり方は戦前から何もかわっていない。
 それに、君が代の歌詞は国民の歌・国歌というよりも「君歌」だ。「君歌」は国民主権の国の国歌ではない。
 
●日の丸は別にあってもなくてもいいものだと感じる。私はこだわりも反発も感じないので、わざわざかえて新しい国旗を作ることもないと思う。君が代についても同じで、新しく作り替えることもないと思う。ただ、学校で強制するのは良くないと思う。
 
●はっきり言って、君が代はいらない。日の丸はあってもいいと思う。
 君が代はいかんせん暗すぎる。変な言い方だけど、老人のための葬式の歌という感じだ。歌詞も今まで気にしなかったけど、今さら、天皇がどうしたもないだろうという気がする。もっと、厳粛でかつ若々しい感じの歌を考えるべきだろう。これからの日本を支えていくのは若い力なのだから、若い人が新しい国歌と作るといいと思う。日の丸については、「なんか日本」という感じがする。批判する理由もないと思う。
 学校の式典でわざわざ義務化したのは、そうでもしないと日の丸も君が代も影が薄くなってしまっているからだろう。義務化には疑問を感じるが、そうしなければならないほど愛国心も薄れてしまっているという感じもする。
 
●日の丸・君が代は現在の法律では、国旗・国歌として定められていないという。それなのに、入学式・卒業式で義務づけられていることに、「なぜ?」と思うのは当然のことだろう。所沢高校で生徒たちが日の丸・君が代に反発したのも当然だ。僕も反対だ。
 それに君が代を歌わされることは、歌詞の意味からいっても「天皇に従え」と言われているようで、嫌な気分になります。この歌は始めから終わりまで、国民については何も言っていなくて、「天皇の世は……こけがむすまで末永く続く」と天皇さえよければ国民はどうでもいいような感じがする。一日も早く新しい国歌を作るべきだと思う。
 
●私は小学4年の時まで、君が代という歌を知りませんでした。4年生の時に転校して、新しい学校では音楽の時間に毎時間、君が代を歌わされました。意味も知らなかったし、短い歌で楽だし、日本らしいし、別にいいと思っていました。今回、歌詞の意味を聞いて、「へー」という感じですが、この歌に反対するほどではありません。ただ、日の丸や君が代が嫌いな人もいるのだから、学校の式典で義務づけることはないと思います。一方で日の丸や君が代はこれだけ定着しているんだから、今さら新しい国旗や国歌にかえる必要はないと思います。
 あと、参考意見に「オリンピックやワールドカップで日の丸を振り回すのは良いことではなく、ナショナリズムがスポーツ本来の姿をゆがめる」とありましたが、これは深く考えすぎで、ひねくれた考えだと思います。応援している人は選手をはげましたいという純粋な気持ちで日の丸を振っているだけだと思います。
 
●戦争中、日本は天皇を頂点とする軍国主義の社会だった。そういう中で大勢の人が戦死していった。にもかかわらず、上の立場の人は命令を出すばかりで自分は生き残り、戦後もその責任をとってこなかった。君が代をきくとそのことを連想する。
 なぜ今、日の丸や君が代を強制するのか。なぜ、学校の式典に日の丸や君が代が関係あるのか。憲法に思想や信条の自由をいっているのに、実際の日本の社会ではそれが生かされていないのではないのか。
 僕は小学校のときに親から君が代の意味を教わった。僕はあまり頭の良い方ではないが、だいたいの意味は理解できた。日本人の70%が君が代を国歌として支持しているというけど、そういう人たちの多くは、歌詞の意味を知らないのではないのか。学校の式典で大声で君が代を歌っている子は、誰からも歌詞の意味を教わっていないのではないかと思う。なんだかかわいそうな気がする。
 
 

■ 授業担当者から 天皇制と日本社会について
 

 国旗がはためき、国歌が斉唱される。愛国心が唱えられ、人々は国家というワク組みを強く意識する。そういう社会状況はたいてい戦争によってもたらされます。国家間の戦争ほど、国家というワク組みをめぐって敵と味方がはっきりわかれる状況はないからです。ニューヨークの同時多発テロ後のアメリカ社会はその典型的なケースといえます。国旗や国歌はたかが旗や歌にすぎませんが、そうした状況下において、旗や歌はたんなる国の識別記号という意味を大きく越え、愛国心を奮い起こさせる政治的装置として人の心に強く働きかけます。皆でともに歌い皆で旗に敬礼することで、連帯感や大きなものに帰属することの高揚感を得ることができます。そのため、現在の国際情勢を19世紀と同様に国家同士の利益が衝突する力の関係としてとらえる人にとっては、国旗や国歌によって国民の愛国心を高め、つねに他の国への警戒を怠らないことが必要ということになります。次の産経新聞の社説はそうした主張の典型といえます。

産経新聞 2004.2.23
「国家は力と利益の体系であり、戦争行為を情緒的な正邪で語ることほど本質をぼかすものはない」
「北朝鮮の国家犯罪である拉致事件が明らかになり、国民は国家や主権を強く意識するようになった。自衛隊がイラクの復興支援のために派遣され、日本は新たな国際貢献に向けて一歩を踏み出した。学校での国旗・国歌の指導がますます重要な時代である」

 一方、現在の国際情勢を国家間の力のぶつかり合いからしだいに脱しようとしている過渡期としてとらえ、国家はやがて多様な民族がともに暮らすゆるやかな共同体になっていくと考える人にとっては、国旗や国歌で愛国心を高め国家のワク組みを強固なものにしようとする行為は時代錯誤となります。つまり「国家は力と利益の体系」であるとするヘーゲル的な一元国家観が、20世紀前半の世界にナチスドイツや日本の超国家主義をもたらし、その結果、口にするのも憚られる惨劇や侵略戦争をひきおこしたことを理解していれば、愛国心や国家への忠誠心を強調する行為には、常にそこに異質な者を排除しようとする危険性をはらんでいることに気づくはずだし、この20世紀の惨劇の歴史から少しは我々が学んでいるのならば、愛国心を強要するような愚かな行為を再びくり返すべきではないというわけです。次のオルトマイヤー氏の発言はそうした立場からのものです。

朝日新聞 1994.10.21
「私自身は国歌は無用だと思う。外国人が人口の1/4をしめるフランクフルトでは、学校によっては生徒の半分以上が外国人だ。私の学校もそうだ。その生徒たちに、なぜドイツの国歌だけを歌わせなくてはならないのか。いま、ドイツという領域には多くの民族が暮らしている。ひとつの民族の統合の象徴としての国歌は、いらない」
「世界にはいろいろな国がある。ようやく植民地のくびきから脱することのできた国では、民族主義的な国歌には意味がある。ドイツのような大国は違う。大国は侵略戦争を正当化するような国歌は持つべきではないと、私はいっている」

 現在の日本では、日の丸や君が代を意識することはめったにありません。しかし、半世紀前には、この旗と歌のもとに多くの兵士を戦場へ送り出し、アジアを侵略した歴史を持っています。第二次世界大戦後の日本社会は、戦争中の出来事をどうとらえ、後世に伝えていくのかをめぐって、常に水面下で政治的対立が続いてきました。日の丸と君が代をめぐる世論の対立もそのひとつといえます。日本社会にファシズムの熱狂がおきたのは昭和初期から敗戦までの20年足らずですが、日本の近代史の中でもっとも日の丸と君が代が愛国心を奮い起こさせる政治的装置としてもちいられた時代といえます。そのため、この時代を体験した人たちには、日の丸や君が代について、親近感を抱くか嫌悪感を示すかはっきり分かれる傾向がみられます。

 作家の城山三郎は、当時の軍国教育を受け、熱烈な軍国青年として戦争末期に海軍に志願入隊した経験の持ち主です。彼は特攻隊員として終戦を迎え、戦後、自分があれほど熱狂し、身も心もささげた天皇制や皇国という大義はいったい何だったのかと考えるようになります。そして、大義とそれを利用して自分の半生を奪い、仲間の命を奪ったものたちへ怒りを抱くようになります。その怒りが彼の創作活動の原動力になっています。彼の詩に「旗」という作品があります。

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も
ひとはみなひとり ひとりには ひとつの命
走る雲 冴える月 こぼれる星 奏でる虫 みなひとり ひとつの輝き
花の白さ 杉の青さ はらの黒さ 愛の軽さ みなひとり ひとつの光
狂い 狂え 狂わん 狂わず みなひとり ひとつの世界 さまざまに 果てなき世界
山ねぼけ 湖(うみ)しらけ 森かげり 人は老ゆ
生きるには 旗要らず
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
限りある命のために
 明治維新後、明治の新政府は天皇制を新たな国づくりの中心に据え、制度と思想の両面で天皇制を日本社会の求心力としました。その背景には、19世紀の帝国主義の時代という中で、欧米の植民地化に対抗できるだけの中央集権的な国家にしなければならないというせっぱつまった状況がありました。この天皇制を軸に約80年にわたって日本は近代国家としての姿を形成してきたため、日の丸と君が代には天皇制の問題がついてまわります。君が代はその歌詞から直接的に、日の丸は臣民として国家の主権者である天皇に忠誠を誓うことの象徴という間接的な意味で。現在の憲法では、天皇には主権はなく、日本の象徴という役割を与えられていますが、言うまでもなくその水面下にはきわめて宗教的・思想的なものをはらんでいます。そのため、日本人が天皇制の問題に触れるとき、たんなる政治的議題ではなく、非常に神経質で激しやすい問題になります。天皇の戦争責任を主張した元長崎市長が命をねらわれたり、天皇制を批判した新聞記者が刺されたりしたのもそのためです。文部科学省が学校の式典で日の丸・君が代を強制したのも、信者による布教活動の一環と見ることができます。本気でそれを信じているのか、それとも天皇制という権威を政治に利用しているだけなのかはわかりませんが、天皇制は政治に携わる者にとってきわめて便利な存在であることはたしかです。そのため、政府としては日の丸と君が代の学校の式典での義務化も「押しつけている」という認識はなく、「良いものを広めている」という認識しかないように思います。この認識が、これだけ賛否のわかれる問題を国民的議論なしで一方的に制度化するという強引な手段につながっているのではないかと思います。
 
 ところで、イギリス人は政治ネタのジョークが大好きで、王室から福祉制度までかなり毒のあるジョークにしてしまいます。テレビドラマや雑誌には、エリザベス女王やチャールズ皇太子をネタにしたかなり下品できわどいジョークが頻繁に登場します。そんなイギリス社会でも唯一ジョークのネタにできないものがイスラム教だそうです。イスラム原理主義組織がイスラム教を批判する者の暗殺を支持して以来、イギリスのメディアはイスラム教に対して非常に神経質になっているそうです。その話をしたイギリス人は、日本のテレビ番組に政治や皇室についてのジョークが全くないのを不思議がっていましたが、日本の政治には天皇制という宗教と一体化した部分があり、そのなかには政府関係者もふくめてきわめて狂信的な信者をかかえていることがそうした状況をもたらしているといえます。そういう意味で、日本の社会は、制度的には西洋型の民主社会ですが、実態はむしろ、政教一体のイスラム社会に近いように見えます。政財界と国粋主義の思想家が結びついていたり、狂信者のテロが言論を制限している点も共通しています。そもそも、国家の象徴である天皇が同時に宗教的祭司でもあるというのは、権力の中心に常にファナティックな危険性をはらみ、同時に異質なものを排除しようとする作用をもたらすので、民主社会としてはきわめていびつな姿です。戦後の総理大臣が「日本は単一民族国家」や「日本は神の国」といった発言をくり返していることもそうした背景に由来するものといえます。(1998.6 2004.2加筆修正)


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東京都では卒業式に君が代斉唱時に起立しなかった教諭を懲戒処分し、再雇用制度でも採用を拒否したとして訴訟を起こされている。日の丸・君が代は、天皇を盟主とする八紘一宇を実現するために仕掛けられた大東亜戦争推進の象徴だとして左翼陣営を中心に拒否反応があり、教育現場も混乱してきた。特に「君が代」については、「君」が天皇を指すものとして抵抗感が大きい。そこで、政府は1999平成11)年8月13日に「国旗及び国歌に関する法律」を公布し、即日施行、日の丸・君が代に正式な法的地位を与えた。

信じられないことだが、それまで日本には法的裏づけのある国旗・国歌はなかった。それなのに、国民の間では国旗は「日の丸」、国歌は「君が代」とされていた。一部国民に強い反発はあるものの、オリンピックなど国際的スポーツ大会では「日の丸」が掲げられてきた。特に「君が代」が演奏されると、国民は感激する。「日の丸」「君が代」はどうして、国旗・国歌になったのか。復習してみよう。

日の丸と君が代を日本国旗・国歌に認定できないと主張する日本人元教師がいる。東京都立南葛飾夜間高等学校で30年間余り社会科を教えてきた申谷雄二 (64)氏。彼は14日、東亜日報とのインタビューで「過去の歴史に対する徹底した反省なしに日の丸と君が代は日本の国旗と国歌になれない」と釘を刺した。

彼は2004年3月卒業式で国旗に向かって起立し国歌を歌うよう求めた校長の指示を拒否し警告処分を受け、このため 2007年再採用審査から脱落して定年退職した。申谷氏は「校長の起立提唱命令は憲法違反」と訴訟を提起して1審で一部勝訴したが2審と先月30日開かれた上告審でいずれも敗訴した。

日本では公立学校での起立斉唱義務を拒否し懲戒処分を受けた教師が昨年まで1143人に達する。彼らは「不当処分撤回を要求する集い」を作って現在の個別訴訟を進行中だが今回の判決が今後の訴訟に影響を及ぼすものと見られる。彼が日の丸と君が代を拒否する理由を訊いてみた。

―日の丸と君が代が日本の国旗と国歌であることは日本のみならず世界的にもよく知られた事実だ。「日の丸と君が代を国旗と国歌に認定できない理由をいう前にまず言いたことがある。私が日の丸と君が代を否定するからといって私を反骨指向の反社会主義者と誤解する人が多いが、私は極めて平凡で中産層家庭で育った。祖父と父のどちらも田舎の村長で自民党を支持する誰よりも保守指向の家だ。だが、私が大学に進学した後、それまで知らなかった日本の暗い歴史を習った。日本帝国主義は朝鮮と中国をはじめとする隣国を侵略し虐殺と略奪など悪いことを数多く犯したことを知った。日の丸と君が代はまさに日本帝国主義侵略史を代表する象徴物だった。そのような負の遺産を日本の国旗と国歌に認定するのは有り得ないと考えるようになった。ドイツで戦争の時、虐殺の象徴だったナチ旗を国旗に使っているか。ドイツは徹底して反省した。日本が誤った過去の歴史について反省せずかえってこれを美化して当時の時代的状況論理で合理化しようとするのは正しくないことだ。」(中略)―それでは日本の国歌と国旗は新しく作らなければならないというのか?「日の丸と君が代が真の日本の国旗と国歌になるためには日本の十分な反省がなければならない。そのためには歴史をあったそのまま教えなければならない。再び戦争をしないという確信を隣国に与えなければならず、これを韓国、中国をはじめとして侵略被害者がすべて認めた後でなければならない。加害者の日本は侵略と差別についてよく知らない。こういう状況で十分な反省が出てこない。それができないなら国旗と国歌は新しいものに変わらなければならない。」(中略)インタビューが終わって席を立とうとすると、すぐに申谷氏は「韓国国民に伝えたい話がある」といった。「日本にも誤った過去の歴史を反省する日本人が少なくないということを韓国国民が知ってくれたらいいですね。日本と韓国がさらに親密な隣国になるよう願います。」

埼玉=キム・チャンウォン特派員

ソース:東亜日報(韓国語)「日侵略の象徴‘日の丸-君が代’…過去の歴史反省なしでは国旗-国歌にはなれない」
http://news.donga.com/Inter/3/02/20110615/38034236/1

関連スレ:【書籍】天皇を意味する「君」ではなく「民衆」の時代歌おう!〜チョン・ヨンヘ著「民が代斉唱」韓国で翻訳出版★2[06/10]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1307755486/
【日韓】君が代条例、韓国ネットユーザー「国歌に敬意を表するのは当たり前では?」[06/07]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1307455664/

元スレ→http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1308148860/-100



 
 
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「日の丸・君が代」、国旗・国歌の問題で国民的討論をよびかけ

1999年3月18日「しんぶん赤旗」

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「赤旗」号外を4600万全世帯にもれなく配布

不破委員長が記者会見

 日本共産党の不破哲三委員長は三月十七日、国会内で記者会見し、「日の丸・君が代」問題について「国民的討論が不可欠だ」とのべ、国民的討論をよびかけるとともに、そのために「赤旗」号外を発行し四千六百万の全世帯にもれなく配布することを発表しました。
 不破氏は、政府が「日の丸・君が代」について一方的に国旗・国歌扱いしてきたが、「君が代」は天皇統治の体制が永久につづくことをうたったものであり、主権在民の憲法と両立しないこと、「日の丸」は侵略戦争のシンボルとされてきたものだと指摘。国民の意見がさまざまに分かれている現状がありながら、「戦前はもちろん、戦後も国民的討論が一度もおこなわれてこなかった」ことを指摘。政府が法的根拠もなく教育現場におしつけてきたことが「教育を暗くし日本社会に緊張をうんでいる」と厳しく告発しました。
 そのうえで不破氏は、日本共産党がこの問題の解決の道筋として、(1)国民的討論で国民の合意を踏まえて国旗・国歌を決めること、(2)法制化しても国が公に使う根拠となるだけで国民、とりわけ教育の現場での子どもへの押しつけはしない――という二点を提唱していることをあらためて紹介。「国民的議論のレールに乗せて解決する」ことの意義を強調しました。
 また政府が広島の県立高校校長の自殺事件を契機に、法的根拠なしに押しつけることの無理を認めながら、国民的討論抜きで法制化をすすめようとしている点について、「問題の根本をわきまえていないもので、問答無用のやり方でおしつけてきたことを法律の裏付けで続けようという最悪の暴挙だ」と批判。同時に、政府が論拠としてきた”国民的定着”論についても、日本共産党の提唱や法制化論議を契機に新聞・テレビでもさまざまな意見が噴出し、事実上国民的討論がはじまっている状況をあげ、「国民的定着という偽りは明らかだ」とのべました。また、もう一つの政府の論拠である”国際的認知”論についても、韓国、中国、マレーシアなどアジア各国の新聞で「日の丸・君が代」法制化について”日本軍国主義を復活させるもの”との批判があいついでいることを指摘し、「こういう問題を含め、いまこそ国民的討論をすることが道理にかなっている」と強調しました。
 教育現場の問題について、「赤旗」特派員によるサミット諸国の状況調査で、教育現場に強制している国が一つもないことを指摘。とくに米国で、太平洋戦争中の四三年に連邦最高裁が国旗強制を「知性と精神の領域を侵している」と違憲判決をくだしたことを紹介し、「これが近代国家の常識だ」とのべました。そして、日本での教育現場へのおしつけは戦時動員体制の遺産だと指摘しました。
 不破氏は、そのうえで「政党として国民的討論のよびかけで責任を果たしたい」とのべ、号外の内容を紹介。国民的討論が戦後初めてだと強調し、「国民の納得するまでしっかりした議論をやりたい」とのべました。

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「日の丸・君が代問題で国民的討論をよびかける不破委員長の記者会見(大要)

これまで「日の丸・君が代」問題はどうなってきたか

――国民合意ないまま政府が一方的におしつけ   

 「日の丸・君が代」の問題は、もともとからいうと、日本の政府が勝手に「日の丸」が国旗だ、「君が代」が国歌だというあつかいを一方的にやってきたことから起こってきた問題です。
 わが党は、最初からこれに反対でした。理由を簡潔にいうと、「君が代」というのは”天皇が統治する体制が永久にさかえよ”という天皇主権の歌、つまり明治憲法の歌であって、国民主権の現在の憲法とは両立しがたいものです。「日の丸」は、歴史はいろいろありますが、最大の問題は、アジアにたいする侵略戦争の旗印となってきた、そういう歴史をもった旗だということです。
 ところが政府は、戦後もう一度これをもちだして、いつのまにか、国歌・国旗だというあつかいをしてきました。
 そういう状況ですから、国民の意見も明らかに分かれています。これを拒否する意見も国民のあいだに根強くあります。政府がずっと国旗、国歌あつかいとしてきているので、そう決まっているのかなと思って受け入れている人もあります。熱心に賛成している方がたもいます。無関心な人もいます。
 現在、国民的な合意がないことは、はっきりしていますが、しかも国民的な討論をやったことが一度もないのです。戦前もなかったし、戦後もこれでいいのかということを国民に問いかけて、議論をしたことが一度もない。それで政府が一方的に「日の丸が国旗だ。君が代が国歌だ」という立場をとって、何の法的根拠もないのに、教育現場にこれを押しつけて、先生方と子どもたちに強制している。そのことが教育を非常に暗くしています。
 なかなか表立ってはいえないんだけれども、「日の丸・君が代」問題のこの押しつけが、日本の社会の重荷になっているというのが現状でした。

解決の道しめした日本共産党の二つの提唱

――国民的議論のレールに乗せて解決しよう  

 私たちは、広島の事件が起こる前だったのですが、この現状を考えて、やっぱりこの問題は、そんなやり方ではなく、もっと正々堂々とした国民的な解決の道をとる必要があると考えて、朝日新聞社が出している『論座』という雑誌が、アンケートを求めてきたときに、「日の丸・君が代」にたいするわが党の態度と同時に、この問題の民主的な解決策を提唱したのです。
 その解決策は二つの柱がありました。
 一つは、国旗・国歌をどうするかについて国民的な討論をおこない、国民の合意をふまえてこれをきちんと決める。きちんと決めるというのが「法制化」です。
 これを共産党が「日の丸・君が代」法制化に近寄ったという形で報道したむきもありましたが、われわれは、「日の丸・君が代」の法制化ではなく、国民的討論をつくしたうえで、国旗・国歌についてきちんと法律で決めるということを提唱したのです。
 二つは、国旗・国歌を決めるということは、国がいろんな行事でそれを公に使うということ、その法的根拠を明らかにするということであって、それと国民ひとりひとりの態度とは違うという問題です。これは、国民のひとりひとりの良心の問題、考え方の問題であって、本来国民自身の自主性にまかせるべきことです。法制化したからといって、国民に強制したり、ましてや教育現場の子どもたちに強制したりするものではない。
 この二つのことをしっかり国民的討論をつうじて確立して、問題の民主的解決をはかろうというのがわれわれの提案でした。問答無用ですまされてきたことを、公の国民的議論のレールに乗せようじゃないかというのが、この提案の中心点です。

国民的討論ぬきの法制化は最悪の暴挙

 その提案をしたあと、この問題をとりあげて国会で質問をした議員がいましたが、二月段階では、政府の答弁はやっぱり法制化はなじまないという議論でした。
 これは、政府がこれまでずっととってきた立場です。表立った議論をすると、なぜいまの国民主権の時代に「君が代」なのかとかいった問題が、いやおうなしに出てきますから、政府はいままで、「国民的に定着している」から改めて議論する必要がないと、いわば問答無用の形で押しつけをじわりじわり広げるというやり方をとっていました。今度もその作戦で答弁していました。
 ところが広島の事件が起きて、官房長官がこのままでは無理だということを自覚したのでしょう。法的根拠なしに押しつけるのには無理があるということをいいだして、「法制化」をとなえだしたのです(三月二日)。「日の丸・君が代」は法的根拠がないことを認めたのは、一歩目を開いたことですが、しかしそうであるならば、当然、国民的な討論を進めるという立場をとらなければいけないはずです。
 しかし、政府は、討論の方はまったく消極的で、だんだん話が進んでくると、今国会にすぐ提案するとか、その次には、この国会で決めてしまおうかとか、国民的討論抜きの「法制化」という話が政府部内で起きてきました。また、いまは「学習指導要領」で学校への義務づけをしていますが、今度は法律を根拠に、この強制をもっと強くやろうじゃないかという議論もではじめました。
 私は、こういう議論は本当に問題の根本をわきまえない議論だと思います。いままで問答無用で教育現場に強制してきたところに大問題があったのに、今度は、国会の多数ということで、国民的討論抜きでそれに法律の裏付けをあたえるというやり方は、事態をもっと悪くする最悪の暴挙になります。そんなやり方は、われわれはもちろん絶対反対です。

国民的討論は現に始まりつつある

――政府の“国民的定着”論も、“国際的認知”論も成りたたないことがはっきりした 

 しかし、われわれがそうやって問題を投げ、事件がおこり、政府も法的根拠がないことを認めた結果、私は、いまの日本の社会になかなか重要な変化がおこってきたと思います。
 一つは、マスコミの新聞紙面をみていても、いろんな議論が噴き出してきています。「君が代」がいいか悪いか、「日の丸」がいいか悪いか、こういう議論はこれまでマスコミの表になかなかでなかった議論です。ところが新聞の社説で、この問題がとりあげられるようになった。「君が代・日の丸」をそのまま法制化しろという新聞や、法制化はいまはまだ時期尚早で、国民的討論をやれという新聞もあります。意見はいろいろありますが、マスコミでももっと国民的討論をやれというのが多数派だということがはっきり出てきました。
 新聞への投書でも、「君が代」はやめて新しい国歌を選べという声も次つぎにでて、「さくら」がいいとか「故郷」がいいとか、そういう具体案までいろいろでています。事実上、国民的討論がはじまりかかってきているといってもいい。この問題を、もっと明るいオープンな形で議論しようじゃないかという雰囲気が相当できてきているということです。この問題をめぐって、大きな変化が起こっていると思います。
 そういう議論をみていると、政府の「国民的定着」論など、ぜんぜん成り立たないということがわかります。
 三月二日のフジテレビの世論調査では、「君が代」の法制化については反対三八%、賛成三四%でした。「日の丸」については賛成四六%、反対一八%で、賛成論の方が多かったが、過半数にはならない。まだ広く議論が起こっているという段階ではないのに、そういう答えが早くもでて、「国民的定着」論は事実でなかったことが明らかになりました。
 もう一つ重要なことは、「国際的に認知されている」という政府の議論にも、根拠がなかったことが、非常にはっきりしたことです。
 小渕さんが「日の丸・君が代」を法制化しようといいだしたら、まず最初に批判の記事を書いたのは、韓国の「東亜日報」です。それから香港の新聞「明報」、韓国の「ハンギョレ新聞」、マレーシアの「星洲日報」、中国の「中国青年報」と、三月に入ってからだけで、アジア各国に連続して批判記事が出ています。論旨は全部共通しています。”「日の丸」も「君が代」も、日本軍国主義のシンボルだったじゃないか、それを復活させるのか”という、痛烈な批判です。これが韓国、中国、香港、マレーシアと連続して出てきました。われわれがいっているとおり、「日の丸」を旗印にして侵略戦争をやった問題は、アジア諸国のあいだではまったく解決されていないということが、歴然と明らかになりました。
 こういう問題を含め、いまこそ国民的な討論をすべきだというわれわれの提起は、まさに実情にかなっているという確信を、私たちはいよいよ深めています。

国民にも子どもたちにもおしつけないのが近代国家の常識

――日本のおしつけは軍国主義時代の遺産       

 それから、教育現場の問題ですが、お配りした資料(3面)は、この問題で、「しんぶん赤旗」の特派員にサミット諸国の現地調査をやってもらって、まとめたものです。カナダだけは、特派員がいませんから、駐日大使館に問い合わせました。サミット諸国で、国旗・国歌の問題を教育現場に強制している国は一つもありません。
 なぜそれをしないのか、その理由も、たとえばアメリカでは非常に鮮明になっています。一九四二年にバーネット事件という裁判がありました。これは、アメリカのウェストバージニア州で、教育委員会が、学校で国旗への敬礼を生徒に義務づける規則を決めたんです。それが、アメリカの最高裁で問題になって、翌四三年、「これは憲法違反だ」という判決がだされ、それが今日も定着しています。
 四二年、四三年というと、太平洋戦争の真っ最中、国をあげての愛国心の鼓吹がもっとも強くすすめられた時期ですが、そのとき、この問題でこういう判決をだしたということは、注目すべきことです。しかも、最高裁の判決は、冷静に、「これは個人の権利にたいする侵犯」、「良心の自由への侵犯」だと批判しました。判決文には、「星条旗に敬礼や忠誠を強制するという地方当局の行為は」「合衆国憲法修正第一条の目的である知性と精神の領域を侵している」とあります。つまり、国が国家のシンボルとして国旗をもっているということは、国の正当な行為だが、それへの敬礼を国民に強制することは、良心の自由、内心の自由を損なうものだ、そういう判決をきっぱりと下しているのです。
 これは、アメリカだけでなく、近代国家の共通の良識となっています。
 そういうことをあらためて調べなおしてみると、いま「学習指導要領」で学校現場に押しつけるというやり方は、まさに戦争中、「日の丸」への敬礼と「君が代」斉唱を国民や学校に義務づけた、あの体制を受け継いだもので、いわば軍国主義の遺産、前近代的な遺物だということを、痛感しました。
 本当に世界に恥ずかしいことで、この問題も、いま、教育現場だけの問題ではなく、国民的議論がいると思います。

討論をよびかけ
「赤旗」号外を日本中の全世帯にかならず配る

 きょう紹介するのは、そういうことをふまえて、私たちの側から国民的討論を呼びかけるために、「しんぶん赤旗」の号外をもれなく全国民に配るとりくみをはじめることです。
 お配りした号外をみていただければわかりますが、最初の面は、国民のなかにいろいろ議論があるなかで、政府が「日の丸・君が代」を一方的に押しつけている、これがいいかどうか、私たちは、その問題を解決するために、「大切な問題だから国民みんなの討論で決めよう」ということ、また、「国民にも子どもにも押しつけない」ということ、この二つを問題解決の道筋として提案していますということを解説したものです。
 二面は、国民的討論のなかで、われわれの見方はどうかを明らかにした面です。二十一世紀にどんな国歌、国旗がふさわしいか、みんなで考えようじゃないかということで、われわれはこういう意味で「君が代」や「日の丸」は適切ではないと思っている、そのことをわれわれの考えとして聞いてもらいたいということを書いています。
 これは、政党の側から、この問題の国民的討論を呼びかける責任を果たそうということです。
 それだけのことを選挙を前にしてやるとなると大変ですから、今日も、全国の都道府県委員長に集まってもらって、この問題にとりくむ意思統一をしました。いま日本の世帯数は、四六一五万六七九六世帯というのが新しい数字ですが、この全世帯にもれなく配りたいと思っています。私たちの党の組織があまり強くはないが、離島がたくさんあるという県もあります。そういうところには、船でひとつひとつ渡っていって配らなければいけないわけでたいへんですから、期限は何日までとは決めていませんが、全世帯にかならず届けるつもりです。

国旗・国家の国民的討論は歴史上はじめてのこと

 国旗・国歌の問題で国民的討論をやるのは、明治以来初めてのことです。党としても、この問題で、全国に呼びかけるのは、これが初めてです。その初めての仕事にふさわしい意気込みでこの問題にとりくみ、国民みんなが腑(ふ)に落ちて、これならというところに到達するまで、しっかりした議論をやりたいと思います。マスコミのみなさんも、ぜひ、いま紙面やテレビで始まっている討論を率直につづけてほしいと思います。 

「日の丸・君が代」問題で都道府県委員長会議

不破委員長が報告

1999年3月18日「しんぶん赤旗」

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 日本共産党は三月十七日、「日の丸・君が代」、国旗・国歌問題に議題を絞った都道府県委員長会議を党本部で開き、この問題での国民的討論を促進するために、「赤旗」号外を全国の四千六百万世帯、もれなく全戸に配布する活動にとりくむことを確認しました。
 不破委員長が報告にたち、(1)「日の丸・君が代」問題をめぐる現状(2)日本共産党の二つの提唱がもつ今日的な特徴と意味、(3)日本共産党としてどうとりくむか、(4)教育現場の問題――の四点にわたって報告。「日本共産党がこの問題で国民的討論の先頭にたつ」ことを呼びかけました。

CS放送「朝日ニュースター」 不破委員長、大いに語る

「日の丸・君が代」問題、東京都知事選、
選挙制度問題について

1999年3月4日「しんぶん赤旗」
 日本共産党の不破哲三委員長は、三月三日放映のCS放送「朝日ニュースター」の番組「各党はいま」に出演し、「日の丸・君が代」問題や都知事選をめぐる情勢、選挙制度問題などについて質問に答えました。聞き手は、小林暉昌氏(朝日新聞編集委員)でした。(三月一日収録)

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国旗・国歌の問題をどう解決するか

 小林 ソフト路線や現実路線で注目されている共産党ですが、新しく「日の丸・君が代」の見解をだして注目されています。きょうは、その共産党の不破哲三委員長に、「日の丸・君が代」の見解やまた都知事選などについておききします。不破さん、きょうはよろしくおねがいします。

日本共産党が「日の丸」「君が代」に反対する理由

 小林 「日の丸・君が代」の問題なんですが、なんか新しい見解をだされて注目、いろいろ議論をよんでいるようですが…。
 不破 これは、朝日新聞社の雑誌の(小林「『論座』ですか」)、『論座』から、この問題でアンケートがわが党に寄せられましたので、少しつっこんだ考えを回答したんですね。
 私は、この問題ではとくに教育の現場にものすごく無理な力が働いていると思うんです。広島の県立高校の校長先生が自殺したというつらいニュースがありましたけれど(小林「そうですね」)、これもその軋轢(あつれき)の結果ですね。
 「日の丸・君が代」問題といいますが、これは国民的合意がないままに、強行されているんです。
 実際、私たちも、たとえば、「君が代」についていえば、なにしろ天皇が治める体制を永遠にという歌でしょう、これはまさに戦争前の天皇主権の時代の歌で、憲法が国民主権を宣言した日本では、まさに国是にあわないわけです。だから反対です。「日の丸」はまた別の理由ですが、ともかくあれだけの侵略戦争をやって、その旗印としてずっと使われてきた旗でしょう。あの前の戦争のとき、日本、ドイツ、イタリアが侵略国家だったのですが、そういう国ぐにで戦争中の旗をいま「国旗」だとしている国は日本以外には一つもない。そういう点で、やっぱりこれも問題があるんですね。
 しかも、それが国民的な討論が全然ないまま、国民の合意もないまま、しかも法律の根拠もいっさいなしに、戦後いつの間にか、これがまた国旗ですよ、国歌ですよということになって、おしつけられている。これも世界に例のないことです。しかも、それを教育の現場に権力で無理に義務づけるということも、ほんとうに例のないことです。
 たとえばサミット(主要国首脳会議)の国ぐに。ここに十数年前に(資料をしめしながら)、日本の政府が、内閣総理大臣官房審議室などが調べてまとめた「諸外国における国旗・国歌について」という調査表があるんですよ。それぞれの在外公館からとりよせた報告だというのですが、(これをみても)サミットに参加している国で、学校教育の現場で、たとえば国歌の斉唱を義務づけているところは、日本以外に一つもないんです。そういうことを、法的根拠もなしに、国民的合意もなしにやっている。それがああいう悲劇を生むわけで、だから私たちはそれについてそういう批判をきっちりしたうえで、問題を解決する提唱を二つしたのです。

問題を解決する2つの提唱

第一。国民的討論をへて法的根拠を明確にする

 不破 一つは、国旗や国歌の問題について、いまみたいに、社会的通念だということで問答無用の形で合意のないものをおしつけるような無法なことはやめなさい、少なくとも法的根拠をあきらかにする努力をせよということです。
 そのためには当然、国民的討論が必要なんですね。それから、いまの国民主権の憲法のもとで、なぜこの歌を国歌とすることに道理があるかということを、政府側も当然、国民の前に説明しなければいけない。「日の丸」についても、政府がよってたつ理由を堂々といわなければいけない。われわれももちろん反対論をいいます。国民のなかからいろんな意見もでるでしょうね。そういうものを堂々とたたかわせて、そのうえでちゃんと法的根拠をしめせ、問答無用で社会におしつけるようなことはやるべきじゃない、これが一つなんです。

第二。国民一人ひとり、とくに教育現場への強制をやめる

 不破 もう一つは、国旗・国歌にたいしてどういう態度をとるかということは、仮に法制化された場合でも、これは国がそういうものを象徴としてあつかうということが認められるだけであって、国民一人ひとりに強制すべきじゃない。また、教育の現場に、世界に例がないような権力的な義務づけで、ああいう社会的緊張をもちこむようなことをいっさいやるべきじゃない。そういう点もきちんとすべきだという二つの点を提唱したんです。
 われわれは、政府にとってはかなりきつい提唱だと思っているんです。政府はなにしろ法的根拠をあきらかにするのがいやなんですね。だいたい、(「君が代」が)なぜ国歌かということを説明する自信がないというか、後ろめたさがあるんでしょうね。それがいやなものだから、いままで逃げてきているのですけれども、もしあくまでこれを国歌だ、国旗だというのなら、少なくとも国民的討論にもとづいてそういう法制化の努力をすべきだし、それから教育現場への強制ということはいっさいやめるべきだ、この二つの提唱をしたのです。それがだいぶ注目されたようですね。
 小林 『論座』に各党の見解みたいなものがでているんですが、自民党の場合はもう、「事実たる」、ずっとつづいていて異論はないはずだと論理的な説明をしないでやっているわけですね。一般的には「社会的慣習だ」「事実たる慣習だ」というようなことでいっているんですけれど、あえて日本の場合、法制化を無理にすると逆に教育現場なんかにむしろ強制的に、たとえば元号法制化と同じように元号を優先的に使えとか、そういうかっこうの強制がむしろでちゃうんじゃないかなと…。

法制化すれば、民意に応じた改定への道もひらかれる

 不破 その点は二番目の提唱として、国民へのおしつけと、教育現場への権力的義務づけはやめろということ。それを強制しようというのは、ほんとうにその国の文化の遅れの度合いをしめすみたいなものですね。だからそれをやめなさいということをいっているわけです。
 問答無用でおしつけようというのがいちばん具合が悪いわけです。直しようがないんですよ。制度化すれば、民意が変われば民意に応じてこれを変えられます。それが民主的な法治国家らしい解決の方法になるわけで、将来、国民の見方が変わってきて新しい態度をとるといったら、ちゃんとそれに応じる枠組みができるわけです。そういう点で未来にもつながる解決策として提唱したのです。
 小林 提唱としては、ひじょうにおもしろいんですが、具体的に、たとえば法制化の土台をつくっていくのは、どういうようなかっこうでやればいいんですか。たとえば国民的合意っていう……。
 不破 土台をつくってゆくというより、やっぱり、問答無用でおしつけているいまのやり方、その無法さをうんと追及することが先ですね。それ(権力的なおしつけ)をやるから、このあいだ埼玉で高校の卒業式のことが大問題になりました。あれもほんとうにおかしなことでしたが、こんどの広島の事件とか、こういう政府のやり方――問答無用、権力強制をつづけていると、ああいう悲劇的なことがいつまでも起きます。
 だから問題をすっきりさせて、一方で法制化、一方で強制はやらない、この二つをすっきりさせれば、民意に応じて、いくらでも変化してゆく道がひらけるわけだし、問答無用な、暗い問題だということにならないですむでしょうね。

「社会的慣習」の名での押しつけはやめ、国民的に堂々の議論を

 小林 共産党の見解のなかで、とくにその国会の多数で決めるんじゃないんだよと、国民合意だよってことをひじょうに強調しているわけですね。たとえば国民投票みたいなものがあると、比較的よくわかるんじゃないかと思うんですが。実際問題、合意の得方というのは、どういうふうに……。
 不破 それもあるでしょうね。国会の議決をいっさい否定しているわけじゃありませんが、これは、ただ形式的に「多数ですよ」と、議論なしにパッパッてわけにはゆかない問題です。やはり、(「日の丸」「君が代」は)それだけの否定的な歴史をもっているわけですから、それがほんとうにクリアできるのかどうかということは、(これを国旗・国歌と)主張している側でも大問題のはずです。戦後、その大問題を逃げてとおってきている。その逃げの隠れみのが「社会的慣習」です。
 「社会的慣習」といったって、戦前の慣習なんです。天皇絶対の時代の慣習を、そのままつづけようというわけでしょ。そう思うとすれば、戦後の憲法体制を、どう考えているかということになるわけです。そこらへんのきっちりした議論なしに、いままできているのだから、(私たちは)それを主張するなら堂々と議論しなさいといっているのです。
 小林 ただ、不破さんのいってるように、いざ法制化の議論をして、では「君が代」、「日の丸」が、国歌、国旗でいいというふうになったら、これはもうしたがわざるをえなくなると思うんですが……。
 不破 それは、「国が公式の行事でこの国歌、この国旗を国の象徴として使う」ことを認めるということですよ。だから、あくまで国民、諸団体、教育の現場に強制しないということをあわせていってるわけです。これが近代国家の常識なんですよ。その近代国家の常識にはずれたおしつけというのは、実は、これも戦前からはじまったことです。いっさいそれでがんじがらめにしばろうというやり方、そういうものを同時に、振り捨てる必要がありますね。
 小林 ただ、小渕さんの国会の答弁なんかきいてますと、法制化にはのりださないような発言ですけれども、これはむしろ共産党が刺激して、法制化を早めるということで、それはいままでの姿勢とちょっとちがうんじゃないかという、そういう苦情みたいなものはきてないですか。
 不破 議論は、いろいろありますよ、「よく考えて提案した」というものもあるし、「日の丸に手をつけるのか」というのもありますしね。ただ、私たちが「朝日」の雑誌に回答した文書の全体、それから同じものを「しんぶん赤旗」の二月十六日付にだしましたから、(全体を)読んでもらえばわかるんですけどね。マスコミで「容認」とでたというので、その見出しだけをみて意見をいってくる方は、けっこういますけどね。

他党との関係――超党派の議員の会合への参加など

 小林 おそらく、これは現実路線の一つだと、われわれは受けとめるんですが。共産党の最近の議員の動きやなんかみてますと、たとえば「財政赤字を憂える会」、超党派の議員だから、とうぜん共産党もでていいんですけども、ああいう生臭いような会にも、平気でいろいろでていって発言されてるようですけれども、そういうのはやっぱり、路線的に発展するということがあるんですか。
 不破 われわれは、もともと垣根をもってないんで、財政赤字をいちばん憂えてる党だと思ってますから、ああいう会でも、呼びかけがあれば参加するわけですよ。他党の側でも、こういう会にいままで呼びかけなかったのを、呼びかけてくるとか、あうんの呼吸で変化があるわけで、そういう点で道がひらかれれば、いくらでもやりますよ。ただ特定な方向づけがあって、その方向づけに賛成しないとあつまれないというところは、無理ですが、財政赤字を憂えて、どうやって解決するかについておたがいに意見をたたかわせるというのだったら、財政の問題だろうが、安保の問題だろうが、これはどんな討論会にも参加できます。
 小林 たとえば日韓議員連盟の加入申請なんかも、なんかそんな感じを私は受けてるんですが。要するに、いままで筋論をずっといいつづけている、孤高の路線からですね、現実路線というか、要するに、「普通の政党」化路線にはいったんじゃないかなという印象を受けるんですが、それはいかがですか。
 不破 筋論をもって広くつきあうやり方をしてます。(笑い)
 小林 まだまだそうすると、われわれからみて、「おっ、変わったな」というのが、今後もいろいろでてくると期待していいんですか。
 不破 うん、それは思い方、見方はそれぞれですから。ただ、いろんな流れのなかで、いろんなことがあるでしょうね。

いっせい地方選挙と東京都知事選挙

都政の破たんに責任のある政党は、その責任と転換策を明らかにせよ

 小林 都知事選のほうに話を移したいんですが。あいかわらず、だいぶ三上満さんを推薦して、いろいろ集会も大きいのをひらいてるようですけど、いかがですか。
 不破 そうですね。やっぱり、ずいぶん、大阪と比べますと、にぎやかになりましたね。大阪のほうは一対一ということなんですけども。東京のほうは、たくさん候補者がいて、しかも現職がいない。東京の討論をみてますと、いまの都政、都政の破たんに、責任をおう人がだれもいないんですよ、だから、なんとなく、全体がゼロから出発して、白紙にモノを書くような感じの議論がけっこう多いですね。
 私は、やっぱり、いまの都政というものは、これをここまで破たんさせた諸政党の責任が、ひじょうに大きいと思うんです。とくに青島都政をふくめ、自民党が(革新都政を)奪還してから二十年になりますからね。その二十年間、なにによって、ここまで(都政を)破たんさせたのかという議論を、きちんとやって、それで転換の方向を見定めないと、まずい。だから、この二十年間、与党として責任をおった政党が、やっぱり、その責任論、またどこを反省するのかとの認識をきちんというべきだと思います。それが、いまの討論にはなくて、ゼロから出発、白紙にモノを書くような議論が、けっこう責任ある政党にかかわる候補からもいわれてるのは、物足りない感じがする点ですね。

地方自治体の借金は8年間で100兆円増えた。その根源は開発仕事のやりすぎに

 不破 東京にかぎらないのですけれども、いまの地方自治体の(財政)破たんというのは、ひどいもので、この三月末で地方自治体の借金が、百六十六兆円ぐらいになります。八年間で、百兆円増えちゃったんですよ。
 九〇年度末が六十七兆円だったんです。それがことしの九八年度末で、百六十六兆円でしょう。約百兆円増えちゃったんですね。
 こんなにメチャクチャな、借金財政というのは戦後もかつてなかったものですが、それは別に自治体がその本業である福祉や教育や住民施策をやりすぎたからじゃないんです。前からいってますけど、開発仕事をメチャクチャにやりすぎたからなんですね。
 たとえば、いちばん新しい数字をみても、年間の地方自治体の財政規模が九六年度、八十五兆三千億円なんですけど、地方自治体の公共事業負担が三十八兆七千億円なんです。四割以上もこれにつぎこんでいる。ですから、そこのところを転換させないといけないというのが、われわれのこんどの訴えの中心です。

東京都政で地方政治再建の先駆けともなる転換を

 不破 東京はまさにその典型なんですね。かたや千六百億円の都庁舎建設があり、かたやすでに一兆数千億円もつぎこんだ臨海開発あり、そういう流れを変えて、そこへ税金がムダに流れている蛇口をとめないと、そしてほんとうに住民施策を中心にするという転換をやらないと、自治体の再生はない。その試金石みたいなところが東京なんです。しかも、政府もこれまでの都政も、そういうところに目をむけないで、赤字は都民のサービス切り捨てで解決しようという路線です。これがまた問題をひどくしているので、そこらへんを太く訴えながら、東京が全国の地方政治再建のいわば先駆けになるぐらいの地位をきずきたいと思ってます。
 小林 統一地方選では政策アピールをだしているようですけども、住民が主人公というような(不破「ええ、ええ」)スローガンだったと思いますけれど、どこをいちばん、訴えていくんですか。
 不破 いまの地方財政はどこへいっても、ゼネコン仕事が”本業”になっています。しかし、自治体の本業は住民サービスですし、住民のための仕事こそが自治体の魂です。その魂をとりもどすところにいちばんの力点をおいて、財政の再建も(行政の)流れの転換もすべてそこに力点をおいて、解決していきたいと思っています。

選挙制度論議――民意の反映にこそいちばんの基準がある

 小林 都知事選の関連でもあるんですけども、国会議員が立候補を予定していて、その補欠選挙で、さらに比例代表で当選した人がでる。またその比例代表の繰り上げ当選で、しかも新進党みたいなすでに党名がなくなっている党の当選者がでる。まあ、いろいろ矛盾があるではないかといろいろ批判をあびて、選挙区制度の改革論議というものにも発展してきているんですが、前回もちょっとおききしたんですけども、これについてはどういうお考えですか。
 不破 私たちは、選挙制度の改悪について、いちばん反対した政党でした。そのときにわれわれの反対論を無視して、これがいちばんいいんだ、いちばんいいんだと主張してきた人たちが、いま、おかしいおかしいといってるんですね。やっぱり、そこらへんのことを整理しないとまずいと思います。
 確かにいまの選挙制度の矛盾がいろいろ露呈していますが、いちばんのおおもとは、選挙制度は、国民の意思を国会に反映させることがいちばんの命だという民意反映論を無視して、安定した政権をつくることが選挙制度の要(かなめ)だといって、いわば少数でも第一党に議席を集中するというために小選挙区(制度を)入れたわけでしょう。それがものすごい矛盾を生みだしているんです。
 ですから、いま選挙制度の議論をしようとするなら、そこらへんで、自分たちがやってきたこと、考えてきたことのどこがまちがいだったかについてちゃんと反省する。やっぱり選挙制度というのは民意を正確にどう反映するかというところに、いちばんのものさし、命、基準があるんだというところに立ち返って議論しなおすことが大事です。これからの選挙制度論議には、おおいにそういう立場でとりくもうと思っています。
 ただこの議論やるときに、自自合意で、(衆院の)五十議席削減が決まったから(小林「はい」)その分をどこでへらすかなどということを前提にした議論は、ほんとうにもう逆立ちも逆立ち、邪道中の邪道ですから、そういうものは捨てて、まともな議論を、最初の原点に立ち返ってやる必要があると思っています。
 小林 これは与野党の協議機関をつくろうではないかという話がでてますけれど、これには参加されるんですか。
 不破 参加して、われわれの主張をおおいにいうつもりです。

議員定数の削減 国政と国民を結ぶパイプを細くする逆立ちの議論

 小林 議員定数の削減というのがいちばん合意しやすいというか、各党の表面的にいっていることをあわせるとしやすいんですが、そういうところにはいって、むしろ苦労するということはないですか。
 不破 いや、はいってもはいらなくても苦労するときは苦労しますから(笑い)。ただ、議員定数の削減というのはマスコミにもとりあげられていますけれど、人口の割合でいうと、(世界の主要国で)日本はいちばん(国会)議員が少ないんですよ。議員の定数というのは、国民の意見が国政にどう反映するかのいわばパイプですから、これは細くすればするほどいいっていうものじゃないんですね。細くすればするほど、政権党に有利ということになるわけで、こういう議論はやっぱりさっきいった、逆立ちの議論なんです。
 しかも、これを、いろんな形でやろうとすると難しいから、比例を削ればいいということになって、民意の反映に逆行する改悪をさらにすすめることになる。こういう立場は、われわれは、とりません。堂々と本来の選挙制度はどうあるべきか、われわれは、比例代表の拡大を主張していますけれど、それを主張するつもりです。
 小林 なにかにわかに中選挙区制というのが、公明党や、また自民党の一部から叫ばれているんですが、これはいかがなんですか。
 不破 このことでも、さっきいった原点からの議論が大事なんですね。それで、あれをいま叫ぶんだったら、なんであの中選挙区を廃止するときに、もっと大きな声でこういう人たちがいわなかったのか、またその党があの不当な改悪案に賛成したのか、疑問になりますよね。
 私たちはここまできて、ここから民意の反映という方向で前進するには、どこへ前進するのがいちばんいいかという点で、ブロック別比例代表定数を二倍半にすれば、これは定数五百の完全な民意反映の選挙制度ができるわけですから、そういう方向で前むきに解決したいと思っています。
 小林 選挙区制度の改革が本論になりますと、だいぶ時間がかかって結論がでないんじゃないかと思うんですが、とくに各党の見解それぞれちがうんだろうと思うんで、また共産党の見解もこまかくぜひおききしたいと思います。
 それで、いよいよ国会のほうは、予算案の審議からガイドライン関連法案の審議と移りますけども、これもいろいろ修正の攻防がつづいていきますので、ぜひこまかい見解をいずれおききしたいと思います。きょうはどうもありがとうございました。
 不破 ではまた。

「『日の丸・君が代』をどうとらえていますか」
──アンケートへの日本共産党の回答
1999年2月16日「しんぶん赤旗」

<= 各党の回答
<= 解 説 国民主権の憲法下の国歌・国旗のあり方

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 朝日新聞社発行の月刊誌『論座』は、現在発売中の三月号で、「『日の丸・君が代』大研究」を特集し、各政党、新聞社などへのアンケート「『日の丸・君が代』をどうとらえていますか」を掲載しています。『論座』編集部からの質問は、(1)「日の丸・君が代」をどうとらえているか(2)外交(対外活動)の際などの扱いをどうしているか(3)学校行事などでの扱いをどうすべきか――の三項目です。質問項目と、これにたいする日本共産党の回答の全文はつぎのとおりです。
質問   (1)「日の丸・君が代」をどのようにとらえていますか(国旗、国歌として認識している、認識していない、特に定めていない、本社玄関前に掲揚している、入社式での扱いなど)。
 (2)アジアの諸外国、ことに中国と南北朝鮮には「日の丸・君が代」が「アジア侵略の象徴」としてとらえられ、それが強い反発の理由の一つになっています。外交の際、オリンピック報道などの扱いはどのようにされていますか。
 (3)卒業式や入学式など、学校では「日の丸・君が代」の扱いがしばしば問題になります。こうした現状をどうとらえ、どうあればよいと考えますか。
 
日本共産党の回答  (1)「君が代」「日の丸」を国歌・国旗として扱うことには反対です。
 第一に「君が代」は、一八八〇年に海軍省の依頼で作曲されたのが始まりで、その後、小学校の儀式での斉唱を義務づけたこと(一九〇〇年)から、戦前、国歌的な扱いをうけました。内容は、天皇の日本統治をたたえる意味で使われてきた歌であり、「国民主権」を定めた現憲法とは相いれないものです。
 「日の丸」は、もっと古い歴史をもっていますが、国旗としては一八七〇年、太政官布告で陸海軍がかかげる国旗として定めたのが最初です。太平洋戦争中、侵略戦争の旗印となってきたことから、国民のなかに拒絶反応をもつ部分が大きくあり、現在でも国民的な合意があるとはいえません。外国でも、日本と同様、第二次世界大戦の侵略国であったドイツとイタリアでは、大戦当時と同じ旗を国旗としていません。
 第二に、さらに重大なことは、「君が代」「日の丸」が、何の法的根拠もなしに、「社会的慣習」を理由に、一方的に国歌・国旗として扱われていることです。これは、世界でも異常なことで、サミット参加国をみても、成文憲法をもたないイギリスは例外ですが、他のどの国も、憲法や法律で根拠を定めています。
 国歌・国旗の問題を民主的な軌道にのせて解決するためには、国民的な合意のないまま、政府が一方的に上から社会に押しつけるという現状を打開し、法律によってその根拠を定める措置をとることが、最小限必要なことです。そのさい、ただ国会の多数決にゆだねるということではなく、この問題についての国民的な合意を求めての、十分な国民的な討議が保障されなければなりません。
 そして、法的根拠を定めるということは、国民の意思が変わった場合、民主的に改定する道も開くことにもなり、国民主権の原則にふさわしいものだと考えます。
 (2)党の対外活動としては、(1)の趣旨にもとづいて、「君が代」「日の丸」を国歌・国旗として扱う態度はとっていません。
 (3)学校行事などで、「日の丸」「君が代」の使用を強制することはやめるべきです。法的根拠が存在しない今日、そういう強制の不当性は明白ですが、仮に法制化が行われたのちでも、これは、国が公的な場で「国と国民の象徴」として公式に用いるということであって、教育の場にも、また国民一人ひとりにも強制すべき事柄ではありません。私たちの調査したところでは、国歌の斉唱や国旗の掲揚を教育の現場に強制している事例は、現在の世界では、きわめて例外的な一部の国にしかありませんでした。

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 日本共産党以外の各党の回答(要旨)は次のとおりです。
各党の回答
自民党
 「国民は、自己の国旗・国歌に誇りを持ち、なにびとといえども毀損することは許されないというのが国際通念です」「『日の丸』が国旗であり、『君が代』が国歌であることは、歴史的な経緯からみても、法制的な根拠からみても疑問の余地はありません」
 「教育現場においては、混乱がみられますが、学習指導要領には、『入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする』と明記されており、今後いっそうの定着をはかることが日本の国を愛することであり、このことが国際社会の中で、世界に貢献する国際性豊かな真の日本人を育てることなのです」
民主党
 「『国旗』『国歌』として、多くの国民の間に定着し、また、諸外国からも認められていると考えます」
 「もっとも、『日の丸』『君が代』には、一部に拒否感があることも事実です。国旗や国歌への敬愛は、自国を愛し、他国を尊重するという自然な感情から醸成されるものであり、これを強制できるものではありません。したがって、歴史に対する謙虚な認識と国旗・国歌に対する正しい理解を育んでいくことによって、粘り強く解決を図る姿勢が重要です」
 「国を愛する自然な感情の発露として、国旗・国歌に対する正しい理解を育む教育を実践するのは当然のことですが、その運用には十分な配慮が必要であると考えます」
公明党
 「『日の丸』は使用されてきた歴史的経緯、また形態のうえから検討して、日本の国旗としてふさわしいものと考えます。また、『君が代』についても、国民の間に広く定着しており、国歌として位置づけられてよいと考えます」
 「ただ、これらについては、過去における軍国主義国家のイメージが強烈に焼きついている人たちもあり、国旗・国歌として認めたくないという感情を抱いていることも承知しています」
 「『日の丸』『君が代』が存在したから軍国主義国家への道を歩まされたのではなく、むしろ軍国主義者に利用されたものというべきです」
 「教育現場において、日本の国旗や国歌に誇りを持ち、どのような歴史のなかで作られたのかを考える意味からも、各校同様に取り上げることが重要であると考えます」
自由党
 「『日の丸・君が代』は当然、日本の国旗・日本の国歌として認識しており、『日の丸』は自由党本部玄関および党首室に掲揚しております」
 「日本国民として、自国の歴史・文化・伝統とともに、他の国や民族の歴史・文化に敬意を払うことは当然であります。その観点からも、わが国の象徴である国旗・国歌について教育現場で指導することは当たり前であると考えます」
社民党
 「党としては、『日の丸』を国旗として、『君が代』を国歌として認識しておりません」「アジア諸国の侵略のシンボルであったことや、そもそも『日の丸』『君が代』が国旗、国歌として法律上定められているわけではないからです」
 「どう認識するかは、国民一人ひとりの判断にまかせるべきことです」「アジア侵略の象徴として、アジア諸国、とりわけ中国、朝鮮半島の国々などが強い反発を示していることを、私たちは真摯に受け止めなければならないと考えています」
 「『日の丸』『君が代』が法制化されていないにもかかわらず、文部省が入学式、卒業式での『日の丸』掲揚と国歌斉唱を義務化してきたことは大きな問題であると考えます」

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(解 説)
国民主権の憲法下の国歌・国旗のあり方
 日本共産党は、「君が代」「日の丸」を国歌・国旗として扱うこと、学校行事などでの使用を強制することに一貫して反対しています。今回の回答は、この立場をあらためて強調するとともに、「国民主権の原則に立つ憲法のもとで、国歌・国旗はどうあるべきか」という根本問題にまで踏みこんだものです。
 回答は、「君が代」「日の丸」を国歌・国旗として扱うことに反対する理由として二点を指摘しています。
国歌・国旗にふさわしいか
 まず第一は、いわば”中身”の問題です。「君が代」は、回答がのべるような経過をたどって「国歌的扱い」を受けてきましたが、戦前の政府自身、「『天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるように』といふ意味」(『尋常小学校修身書』)の歌だとしてきたものであり、現憲法の「国民主権」原則と相いれないことは明白です。
 「日の丸」は、その歴史をさかのぼれば西暦七〇一年の「大宝律令」の時代にまでいきつくことにもみられるように、もっぱら天皇の専制支配をたたえる目的で作られた「君が代」とは性格を異にするものです。しかし「日の丸」は、「太平洋戦争中、侵略戦争の旗印となってきた」ことへの拒絶反応もあり、戦後もひきつづいて「国旗」として扱うことで国民的合意が得られていないものです。
 これにくらべて、第二次世界大戦で同じ侵略国だったドイツ、イタリアのとった措置は注目すべきです。ドイツはナチスのシンボル=カギ十字を配したものを、イタリアはサルディニア王室を象徴する文様をあしらったものを国旗としていましたが、戦後、両国ともこれを公式に廃止し、現在ではそれぞれ憲法で、「連邦国旗は黒=赤=金色である」(ドイツ)、「共和国の国旗はイタリア三色旗…である」(イタリア)と定めています。侵略戦争への真摯(しんし)な反省もないまま、その旗印を今も「国旗」として国民に押しつけている日本と大いに違うことは明らかです。
法的根拠なし 世界でも異常
 回答は、第二に、「君が代」「日の丸」を国歌・国旗とすることには何の法的根拠もないと指摘しています。政府も、「日の丸は我が国の国旗であることは…慣習法」(参院予算委、八八年三月十一日)、「君が代が国歌であるということは国民的確信」(同)と、明文上の根拠がないことを認めています。
 これも国際的にみてまったく異常なことです。たとえばサミット参加国を例にとってみると、成文憲法をもたないイギリスを除けば、どの国も国歌・国旗を憲法や法律などできちんと規定しています。フランスは憲法で「国旗は…三色旗である。国歌はラ・マルセイエーズである」(第二条)と定めています。先にみたように憲法で国旗を規定しているドイツ、イタリアは、それぞれ「大統領決定」(ドイツ、五二年)、「議会決定」(イタリア、四六年)で国歌を定めています。アメリカは、国旗については三一年、国歌については四七年にそれぞれの根拠法を制定しています。カナダは、国旗(六四年)・国歌(六七年)とも議会などで公式に制定されています。
法的措置が必要 国民討議ふまえ
 回答は今回新たに、国歌・国旗にかんして法制上の措置をとることを提起していますが、これは世界の常識にかなったものであり、「君が代」「日の丸」を政府が一方的に国歌・国旗だと決めつけて、上から社会に押しつけている異常な現状を打開するために「最小限必要なこと」です。
 もちろん、だからといって政府が一方的に法案を提出し、まともな議論もないまま数をたのんで成立させるようなことは許されません。国歌・国旗が「国と国民の象徴」である以上、憲法にふさわしいものとなるよう十分な国民的議論を保障したうえで制定すべきです。また、このような道を踏んでおけば、いったん制定したあとでも、国民の意思が変化した場合、同じく民主的な手続きを経て改定することもでき、国歌・国旗が名実ともに国民的合意に支えられたものとして受け継がれてゆくことになります。
 この点についていえば、戦前のきびしい検閲のもとで発行された『国民百科大辞典』(冨山房)でさえ、「国旗は変更できないことはない。国体が変れば国旗も変更される」とのべていることが注目されます。天皇主権から国民主権へといわゆる「国体」が根本的に転換した今日、天皇制政府の定めた「日の丸」がわが国の国旗として適切かどうか、国民のあいだで大いに論議すべきです。
使用の強制は すべきでない
 回答は最後に、法制化の有無にかかわらず、国歌・国旗の使用を学校行事や国民に強制すべきではないと強調しています。
 国歌・国旗を憲法や法律で定めている国、たとえばドイツでは「学校教育での扱いは…学校に委ねられて」おり、イタリアでも憲法教育の一環として教えるものの、学校行事などで使用を強制することはいっさいありません。わが国と同様に明文上の根拠を定めていないイギリスでも、学校行事などで国旗掲揚・国歌斉唱を押しつけることはおこなわれていません。「学習指導要領」で、「(学校行事のさい)国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」として使用を強制しているわが国は、この点でも異常なものであり、ただちにあらためるべきものです。

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