菊の御紋考

 (最新見直し2007.4.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、菊の御紋史論をしておく。「ウィキペディア菊花紋章」その他を参照する。今はスケッチ段階であるが追々精緻にして行くことにする。

 2006.7.11日再編集 れんだいこ拝



菊の御紋表象論】
 「菊の御紋」は「菊花紋」(きくかもん、きっかもん)とも云われるが、正式には「菊花紋章」(きくかもんしょう、きっかもんしょう)と云う。キク科キク属のキク(菊)を図案化した菊紋のうち、特に花の部分を中心に図案化した家紋のことである。菊の花言葉は「高貴、高潔、真実」。

 「菊の御紋」の由来を中国に求める説があるが、「ホツマ伝え」に登場していることを踏まえれば、日本の自生の花であり且つ紋章と捉えるべきであろう。古来より、菊は桜と並んで愛でられ、梅、竹、蘭と共に四君子とされている。陰暦9月を菊月と呼び、9月9日を「重陽の節句」、「菊の節句」とし、菊花酒を飲み、「菊花の宴」、「菊花の杯」で邪気を払い長命を祈った。菊文様も吉祥文様として、好んで装束に用いられた。

 鎌倉時代には、後鳥羽上皇(1180〜1239年)がことのほか菊花紋を好み、自らの印として愛用した。御衣から牛車、輿の袖の文に至るまで菊花紋 を使ったとされている。その後、後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した。「十六弁菊は南朝の紋、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋とする説もある。他にも「十二弁菊」の紋章もある。

 イメージ 7
 皇室の菊花紋(十六八重表菊) 国章

 元来皇室の御紋は「日月紋」(じつげつもん)で、現在でも天皇が即位する際には、「日の丸」と「月」がそれぞれ錦の御旗(にしきのみはた)に掲げられる。太陽は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月は月読尊(つきよみのみこと)を表している。「五七桐花紋」も使われてきた。


【菊の御紋史論】

 1869(明治2).3.28日、太政官布告第195号で、提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止した。

 1869(明治2).8.25日、太政官布告第802号によって、「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされた。同時に、親王などの皇族に対して、この紋の使用が制限され、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした。太政官布告第803号で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の使用が禁止された。

 1871(明治4).6.17日、太政官布告第285号で、「皇族以外の菊花紋使用禁止令」が出され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた。

 1879(明治12).5.22日、太政官達第23号で、一般の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許された。この間、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用を許されていた。

 1926(大正15)年、皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)が各宮家の紋とされた。

 天皇家の「十六八重表菊」は現在でも宮内庁が使用禁止令を出している。


【日ユ同祖論による菊の御紋史論】
 「ユダヤから来た日本の妖怪たち 飛鳥昭雄(工学社)」を参照する。菊の御紋とまったく同じ紋章が古代イスラエルに存在し、実際、エルサレムの城壁の上にも「十六弁」の菊の御紋が彫られている。皇室のもう一つの菊花紋である「十二弁」の菊の御紋も存在している。東京の「明治神宮」では、鳥居などには十六弁の菊花紋が使われているが、神宮の門にある透かし彫りの大菊花紋は十二弁である。また、社殿の奥にも十二弁の菊の紋章が釣られている。古代ヘブライでは十六弁の菊花紋は全世界向けの場合に用いられ、十二弁はイスラエル十二支族に限る場合のみに用いられた。ユダヤの家紋は「ダビデの星/六芒星」と思われがちだが、昔にさかのぼるほど「菊紋」が使われていた事実が見えてくる。「六芒星」が多用されるのは比較的最近のことで、17世紀以降とされている云々。

 この問題については後に検討しようと思う。

れんだいこの菊の御紋史論】
 れんだいこは、菊の御紋が大和朝廷以前の出雲王朝の御代に既に存在していたと見立てている。但し、それが何弁なのか考証中である。

 
ニギハヤヒを祀る奈良県桜井市三輪の大神神社(祭神:大物主大神=ニギハヤヒ)や石上神宮(天理市布留町)では、やはり菊の御紋を掲げている。このことは、皇室が大和王朝以来のものであるとすれば、それ以前の大物主大神=ニギハヤヒの御代に於いて既に菊の御紋が掲げられており、大和王朝も又これを継承したとの推理を呼ぶことになる。してみれば、ニギハヤヒ王朝こそ、日本の国名のみならず国旗としての日の丸、国歌としての君が代、国紋としての菊の御紋をも生んだ祖王朝と云うことになりはすまいか。

 「秀真伝(ホツマツタエ)」のなかに、天照神の次のような諭しが記されている。
 「よくよく思えよ。命と云うものは、身の宝である。これを諺にするとよい。萬世の君も、命はたった一つで取り替えることはできない。寿命をまっとうしないで、神上がるときを待たずして死ねば、魂の緒は乱れ苦しみ天界の宮居に復帰することはあたわない。寿命を保ち天に還るときは、楽しみながら身罷ることができるであろう」という前文があって、次ぎにココナシ(菊)の諭しの言葉が続く。「菊のように美しく清らかな心身となって身罷るのが一番よい。清らかな御食を食し万歳の長寿を得れば、身罷るとき匂いも菊の匂いになるというものである。遺骸はすぐに神々しい神の形となる。穢れた肉を食べていれば死んだとき匂いも臭く、魂の緒も乱れて苦しんでしまう。それを解くには祓いと日の霊気がよい。菊は日月の霊気を両方兼ね備えた植物であるので、食べれば目が明らかとなり、天御祖神の瞳と感応して、天界に帰幽することができるのである。天の道に従い清らかな食物を食む人は神が相求める。それゆえ、古来から菊を愛でる風習があるのです」。

 
2013.5.7日 れんだいこ拝




(私論.私見)