マルクス主義とネオ・シオニズム系社会主義との歴史的連動考 |
(最新見直し2010.11.06日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「阿修羅」の「ホロコースト2」で、バルセロナより愛を込めて氏が、「ネオシオニズムと通俗マルクス主義の歴史的連動」に関する貴重証言を翻訳サイトアップしている。これを転載し、コメントしておく。 2006.5.4日 |
【共産主義とファシズム考1】 | |||
バルセロナより愛を込めて氏の2006.5.1日付け投稿「和訳連載:シオニスト・イスラエルからの内部告発――共産主義とファシズムの国(1)」を転載しておく。(編集替え、ゴシック強調はれんだいこ文責、内容不改変)
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【共産主義とファシズム考2】 | ||
バルセロナより愛を込めて氏の2006.5.3日付投稿「和訳連載:シオニスト・イスラエルからの内部告発――共産主義とファシズムの国(2)」を転載しておく。
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【共産主義とファシズム考3】 | ||
バルセロナより愛を込めて氏の2006.5.5日付投稿「和訳連載:シオニスト・イスラエルからの内部告発――共産主義とファシズムの国(3)」を転載しておく。
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【共産主義とファシズム考4】 | ||
バルセロナより愛を込めて氏の2006.5.8日付投稿「和訳連載:シオニスト・イスラエルからの内部告発――共産主義とファシズムの国(4):最終回」を転載しておく。
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Re::れんだいこのカンテラ時評849 | れんだいこ | 2010/11/06 |
【マルティン・ニーメラーの警句考】
ここで、フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller)(1892年1月14日 - 1984年3月6日)の警句を採り上げる。少々気になることがあるので、お知恵を貰いたい。 マルティン・ニーメラーの概要履歴は次の通りである。「ウィキペディアのマルティン・ニーメラー」を転載する。 ドイツの神学者、ルター派牧師。ナチスに反対し読み上げた詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき (First they came for the Communists)」で知られる。最初は保守派として知られ、アドルフ・ヒトラーの支持者だったが、告白教会の創立者の一人となりドイツプロテスタント教会のナチ化に強く反対するようになる。ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する。1950年代から平和主義者、反戦運動家として声をあげるようになる。ベトナム戦争中もホー・チ・ミンと面談し、反核運動でも活動。彼の言論には反ユダヤ的側面があったとする学者もいる。 ドイツの神学者、ルター派牧師。ナチスに反対し読み上げた詩「 (First they came for the Communists)」で知られる。最初は保守派として知られ、アドルフ・ヒトラーの支持者だったが、告白教会の創立者の一人となりドイツプロテスタント教会のナチ化に強く反対するようになる。ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する。1950年代から平和主義者、反戦運動家として声をあげるようになる。ベトナム戦争中もホー・チ・ミンと面談し、反核運動でも活動。彼の言論には反ユダヤ的側面があったとする学者もいる。 「マルティン・ニーメラーの警句」は一般に次のように流布されている。 「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。 この警句について、れんだいこは次のように考えている。この文句を疑うことなく、「市民一人一人が今立ち上がる時とする呼びかけ」として聞ける者はシアワセである。この文章は1ケ所臭いところがある。共産主義者、社会民主主義者、労働組合員の次にユダヤ人とある下りである。果たして、ここにユダヤ人が登場する必然性があるだろうか。他のフレーズ例えば法律違反者だとか街頭デモ者とか「何らかの結社員」だとかとあれば問題ない。と云うか話の流れが合う。なぜ、ここに突如「ユダヤ人」が登場するのだろうか。マルティン・ニーメラーには、それが自然であったのかも知れない。しかし、れんだいこは不自然さを感じる。 同時に次のことを教える。「マルティン・ニーメラー的自然さ」の方が自然であったのかも知れない。なぜなら、歴史的に見て、それほどユダヤ人と共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動が近いところにあったと云う史実があるからである。では、ユダヤ人はなぜ親しかったのだろうか。この解はここでは省く。問題は、ユダヤ人だけが共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動の良き理解者だったのだろうかと云うことにある。ここに不自然にユダヤ人だけを持ち出すことにより、ユダヤ人に天賦の好意を寄せるよう細工されているのではなかろうかと云う疑念が湧く。ネオシオニズムを研究すれば、こういう細工が多いので注意しておくに越したことはなかろうと思っている。 もとへ。マルティン・ニーメラーの警句は様々に訳されている。こうなると、原文に当たらざるを得ない。ところが、ネット検索で原文が出てこない。ウィキペディアでは1976年バージョンとして独語、英語が紹介されているが、原文は1976年ではなかろう。「ニーメラーの警句の原文について」なるサイトがあるが、紹介されているのは和訳文のみである。当然の如く「正しい原文」開示が催促されている。なも拘わらず原文開示がない。 わざわざ「ニーメラーの警句の原文について」とする以上は原文開示、次に英訳、次に和訳の労を取るべきではなかろうか。しかしながら、サイト管理人の答えがない裏には原文に行きあたらないと云う事情があるのではなかろうかと思われる。とてもオカシナことである。どなたかが、恐らく原文はドイツ語であろう、それを教えて下されば助かる。れんだいこは多少のドイツ語ならできる。原文に当たらないと気持ち悪い。 それはともかく、和訳文を確認しておく。 1例。はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。 2例。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。 3例。ナチが共産主義者を襲ったとき 自分はやや不安になった けれども結局自分は共産主義者ではなかったので 何もしなかった それからナチは社会主義者を攻撃した 自分の不安はやや増大した けれども依然として自分は社会主義者ではなかった そこでやはり何もしなかった それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり そのたびに自分の不安は増したが なおも何事も行わなかった さてそれからナチは教会を攻撃した 私は教会の人間であった そこで自分は何事かをした しかし、そのときにはすでに手遅れであった 4例。ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時,私は不安に駆られたが,自分はコミュニストではなかったので,何の行動も起こさなかった。その次,ナチスはソーシャリスト(社会主義者,労働組合員)を弾圧した。私はさらに不安を感じたが,自分はソーシャリストではないので,何の抗議もしなかった。それからナチスは学生,新聞人,ユダヤ人と,順次弾圧の輪を広げていき,そのたびに私の不安は増大したが,それでも私は行動に出なかった。ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが,その時は,すべてがあまりに遅過ぎた。 5例。ナチが共産主義者を襲ったとき,自分はやや不安になった.けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった.それからナチは社会主義者を攻撃した.自分の不安はやや増大した.けれども依然として自分は社会主義者ではなかった.そこでやはり何もしなかった.それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が,というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり,そのたびに自分の不安は増したが,なおも何事も行わなかった.さてそれからナチは教会を攻撃した.私は教会の人間であった.そこで自分は何事かをした.しかし,そのときにはすでに手遅れであった. 6例。彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。 ドイツ語文(1976年)は次の通りである。 Als die Nazis die Kommunisten holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Kommunist. Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Sozialdemokrat. Als sie die Gewerkschafter holten,habe ich nicht protestiert; ich war ja kein Gewerkschafter. Als sie die Juden holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Jude. Als sie mich holten,gab es keinen mehr, der protestieren konnte. 英語訳文(1976年)は次の通りである。 First they came for the communists, and I did not speak out,(When the Nazis came for the communists, and I did not speak out,) because I was not a communist; Then they locked up the social democrats, and I did not speak out,because I was not a social democrat; Then they came for the trade unionists, and I did not speak out,because I was not a trade unionist; Then they came for the Jews, and I did not speak out,because I was not a Jew; When they came for me,and there was no one left to speak out for me. 1976年版の独語、英語に従うと、れんだいこ訳は次のようになる。 最初に、彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。なぜなら、私は共産主義者ではなかったから。次に、彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私は社会民主主義ではなかったから。次に、彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は抗議しなかった。なぜなら、私は労働組合員ではなかったから。次に、彼らがユダヤ人たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私はユダヤ人ではなかったから。彼らが、私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。 しかしながら、原文開示のなきままの1976年版訳をしても何になるだろうか。とにかく不自然である。簡略文が流布されるにしても、まず原文が開示され、それからのことであろうに。著作権に煩い割には、こういうところが杜撰であるのは解せない。どなたか応援を頼む。 補足しておけば、マルティン・ニーメラーの履歴に「1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する」とある。これは、マルティン・ニーメラーはユダヤ人と云う意味だろうか。ユダヤ人でなかったがザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容されたのだろうか。どうも解せない。ユダヤ人であったとしたら、警句にわざわざユダヤ人を挟んだ下りが素直に読めないことになる。 結論として、「マルティン・ニーメラーの警句」には自然な名文と云うより加工されたプロパガンダ性名文の臭いがつきまとう。こう感じるれんだいこの方がオカシイのだろうか。この辺りもご批判頼みたい。 2010.11.6日 れんだいこ |
(私論.私見)