「日本の教育を考える」(宇沢弘文,岩波書店,1998)は次のように記している。「水俣病を始めとして、全国の公害問題にかかわることによって、私は、それまで専門としていた近代経済学の理論的枠組みの理論的矛盾、倫理的欠陥をつよく感ずるようになっていきました。そして、水俣病を始めとする数多くの公害問題の原因を解明し、その人間的被害の実態を分析し、その根源的解決の途を探ることができるような理論的枠組みとして、社会的共通資本の考え方に到達したのでした。社会的共通資本の重要な構成要因である医療、教育、公害、地球環境などの問題はいずれも、これから二十一世紀にかけて、私たちが直面するもっとも重要な問題です。しかし、これまでの経済学の理論的な枠組みのなかでは必ずしも満足しうる考察、分析ができませんでした。社会的共通資本という新しい概念を導入することによって、医療、教育、公害、地球環境などの問題を経済学的に分析することが可能になり、また、その制度的、政策的意味を明確にすることが可能になります」。
【宇沢弘文・内橋克人著「始まっている未来」より抜粋】
▼ 日本の植民地化と日米構造協議 (P41-P45)
宇沢
日本の場合、占領政策のひずみが戦後60年以上残っている。アメリカの占領政策の基本政策は、日本を植民地化することだった。そのために、まず官僚を公職追放で徹底的に脅し、占領軍の意のままに動く官僚に育てる。同時に二つの基本政策があった。一つはアメリカの自動車産業が戦争中に自らの利益を度外視して国のために協力したという名目をつくって、戦後、日本のマーケットをアメリカの自動車産業に褒美として差し出す。もうひとつは農業で、日本の農村を、当時余剰農産物に困っていたアメリカとは競争できない形にする。
ポスト・ベトナムの非常に混乱した時代を通じて、アメリカは経常赤字、財政赤字、インフレ―ションの三重苦に苦しんでいたが、とくに対日貿易赤字解消に焦点を当てて、円安ドル高是正を迫ったのが、1985年のプラザ合意でした。しかし、その後も、日本企業は、徹底的な合理化、工場の海外移転などによって高い国 際競争力を維持しつづけて、アメリカの対日貿易赤字は膨らむ一方だった。そこでアメリカ議会は「新貿易法・スーパー301条」を制定した。これは、もっぱら日本に焦点を当てて、強力な報復・制裁措置を含む保護政策の最たるものです。
それを受けて、1989年7月に開かれた日米首脳会談で、パパ・ブッシュ大統領が宇野首相に迫ったのが、「日米構造協議」の開催でした。それは、 アメリカの対日貿易赤字の根本的な原因は、日本市場の閉鎖性、特異性であるとし、経済的、商業的側面をはるかに超えて、社会、文化など含めて日本の国のあり方全般にわたっ て「改革」を迫るものでした。
日米構造協議の核心は、日本のGNPの10%を公共投資にあてろという要求でした。しかもその公共投資は決して日本経済の生産性を上げるために 使ってはいけない、全く無駄なことに使えという信じられない要求でした。それを受けて、海部政権の下で、10年間で430兆円の公共投資が、日本経済の生産性を高めないような形で実行にうつされることにになったのです。その後、アメリカから、それでは不十分だという強い要求が出て、1994年にはさらに200兆円追加して、最終的には630兆円の公共投資を経済生産性を高めないように行うことを政府として公的に約束したのです。まさに日本の植民地化を象徴するものです。
ところが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付けたのです。地方自治体は地方独自で、レジャーランド建設のような形で、生産性を下げる全く無駄なことに敬630兆円を使う。そのために地方債を発行し、その利息の返済いは地方交付税交付金でカバーする。 ところが、小泉政権になって地方交付金を大幅に削減してしまったため、地方自治体は第三セクターをつくったものは多く不良債権化して、それが自治 体の負債となって残ってしまったわけです。630兆円ですからものすごい負担です。その結果、地方自治体の多くが、厳しい財政状況にあって苦しんでいます。日本が現在置かれてい る苦悩に満ちた状況をつくり出した最大の原因です。
日米構造協議が開かれましたが、実はアメリカの商工業者の団体が原案を作成し、アメリカ政府がそれに基づいて日本政府に要求と交渉をするというとんでもないもので、一番の焦点は経常赤字と財政赤字が膨らみ、非常に混乱した時代のなかで、日本政府に対して10年間で430兆円の公共投資をしろという要求でした。しかもその公共投資は日本の経済の生産性を上げるために使ってはいけない。まったく無駄なことに使えという。信じられない要求でしたが、中曽根政権はその要求をそのまま、日本政府のコミットメントとするわけです。次の政権で実行に移されますが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付けたわけです。地方自治体は地方独自で、レジャーランド建設のような形で、生産性を上げない全く無駄なことに計430兆円を使う。そのために地方債を発行し、その利息の返済は地方交付税でカバーするという。
ところが、小泉政権になって地方交付税を大幅に削減してしまったために、地方自治体が第三セクターでつくったものは多く不良債権になって、それが自治体の負債となっていまだに残っているわけです。430兆円ですからものすごい負担です。そのときから、地方の、たとえば公立病院は非常に苦しくなっていくわけです。
内橋
押しつけられた地方財政の赤字、それを住民への行政サービスのそぎ落としによって埋め合わさせる。「みせしめの夕張」が必要だったわけですね。
宇沢
そういう政策を見ていると、日本は完全に植民地というか・・属国ならまだいいのです。属国なら一部ですから。植民地は完全に搾取するだけのものです。それがいま大きな負担になっていて、救いようのない状況に陥っているわけです。社会的共通資本のいろいろな分野、特に大気、教育、医療が徹底的に壊されていくことに対して、たとえば内橋さんがずっと正論を20年も主張されているときに、同僚の経済学者たちがそれを揶揄したり批判したりする流れがあるのは、私は経済学者の一人として黙ってみていられない。経済諮問会議も制度的な問題があるのではないでしょうか。首相自らが諮問し、首相自らが議長の諮問会議で議論して、答申を出す。それが首相自らが 議長の閣議に出されて、自動的に決定され、政府の正式な政策となる。ヒットラーが首相となって権力を握ったときとまったく同じ方法です。
内橋
官邸独裁ですね。世界で初めて「生存権」をうたい、もっとも民主的とされたワイマール憲法のもとでヒットラーが生まれました。政治的独裁の危険に通じます。いま、先にも触れました経済学者の中谷巌氏が市場原理主義からの「転向」「告白」「懺悔」の書を発表し、話題になっておりますが、気になるところもありますね。アメリカでは競争万能の市場原理主義が社会の激烈な分断と対立をもたらしました。「喉元をかき切るような競争」のはてに共同体が崩れていく。そこ で失われた絆とか人間信頼の輪を取戻し、社会統合を回復すべき、と唱えて登場したのがネオ・コンと呼ばれる「新保守主義」でした。
中谷氏は今回の著作「資本主義はなぜ自壊したのか」(2008年集英社インターナショナル刊)のなかで、「古き良き日本」を回復すべき、と説いておられるように見えます。昔の日本企業には人間相互の信頼とか絆があった、自分たちのやってきた規制緩和万能、市場原理主義がそれを破壊したので反省している、そう いった筋書きです。だから、古き良き日本型経営に戻ろう、と。そういうお気持ちなのでしょう。ですが、かつての日本は企業一元化社会であり、官僚絶対優越社会でした。企業に対してロイヤリティー(忠誠心)を差し出し、献身を誓わなければ排除され、排除されれば社会的にも排除される。そういう企業一元支配社会にはほんとうに 人間的な絆があったのか。そうではないでしょう。規制緩和、市場原理主義という幻想から、今度じゃ古き良き日本的経営という幻想へ。願わくば、幻想から幻想へと飛び跳ねる思想転向ではないことを、切に祈りたい気持ちです。
(抜粋終わり)
竹中総務相時代、彼は「私的懇談会」と称する恣意的な機関を三つも立ち上げました。うちの一つが「地方分権21世紀ビジョン懇談会」でした。この懇談会で出された答申の主旨がいよいよ今年四月から効力を発揮します。地域にとってかけがえのない公立病院を、自治体財政の負担を理由に切りはなす、という措置が多くの地方都市で進められていますが、もとをただせば、その震源地はこの私的懇談会の提言に発している。まるで地下深く埋められた時限爆弾のように、小泉政権が去った後のいま、炸裂する時期を迎えました。
そして第三に、日本型自営業、地域の中小零細企業を壊滅させるような剥き出しの競争政策。大規模小売店舗法(大店法)撤廃も大きな節目であったと思います。最後に、いうまでもないことですが、戦後、営々と築き上げた労働基本権をご破算にする「労働規制緩和」の完成です。……
ケインズが最初に書いた経済学に関する本を思いだします。『Indian Currency and Finance(インドの通貨と金融)』というタイトルで、ケインズがインド省にいたときに書いた本です。金と銀の相対価値はどう決まるかというのがテーマで、当時、インドのルビーは銀本位制、イギリスのポンドは金本位制でしたが、イギリスの軍事費と国家公務員年金はインド政府が払っていたため、金と銀の交換比率は重要な問題だったのです。イギリスの国家公務員は任期中に必ず2~3年インドに赴任し、インドのために尽くしてきたという名目をつくって、年金をインド政府が負担する。イギリスの軍事費も、イギリスがインドを守っているという名目で、インド政府が負担する。当時、世界で一番豊かなイギリスの軍事費と国家公務員年金を一番貧しいインドが負担するという信じられないことが起こっていた。
しかしケインズは、そこには一切触れていない。私は昔、この本を読んで、そこにケインズの限界を感じた。インドでは、イギリスの徹底的な搾取、社会破壊、人間破壊、そして自然破壊が今でも重い陰になって残っています。イギリスの植民地政策として、インドのエリートは徹底的にイギリス式の教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジを出て、イギリス的な考え、生き方を持って国に帰って支配層となる。これがイギリスの植民地支配の典型です。
いまの日本は、かつてのインドほどではないけれども、非常に似た形で、軍事費を負担しアメリカに守ってもらっている。さすがにアメリカの国家公務員の年金を日本が負担するところまではいっていませんが、基本的な考え方は非常に似ていると思う。まず、日本の官僚を徹底的に脅して、意のままに動かす。同時に、アメリカの自動車産業に日本を褒美として差し出すために道路をつくる目的で、徹底的に日本の街を空襲して燃やしてしまったのです。木造家屋が燃えやすいような焼夷弾をわざわざ開発して。
内橋さんも覚えていらっしゃると思いますが、日本人の体格が貧弱なのは魚を食うからだとか、米を食べると頭が悪くなるといった類の言説。パンを食べろというのは実はアメリカの余剰農産物を消化させる意図で、非常にきめ細かい占領政策を展開した。また、日本にはアメリカの農産物と競争できないようにする選択性農業を押しつける。それらが重なって、いまの日本の生き方というか、社会があって今度の大恐慌で日本はやはり一番大きな被害を受けていると思いますね。……(終)