イタリア政界の「オリーブの木」運動考

 (最新見直し2012.7.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
  2012.7.12日、「国民の生活が第一」党を結成した翌日、小沢党首ら幹部が、国会内で各党にあいさつ回りを始めた。この時の共産党の志位委員長との会談で、概要は不明ながら「オリーブの木」構想が話題になったと云う。そこで、その「オリーブの木」についての正確な理解を得ようとしてネット検索したが「ウィキペディアオリーブの木」以外にはズバリのものがない。「オリーブの木」運動の重要性に鑑みれば不自然であり、これは情報が隠蔽されていることを意味する。そこで、こういう場合の慣わしとして、れんだいこが確認し、凡その纏めをサイトアップしておくことにする。追々詳しいものに仕上げるつもりである。

 2012.7.14日 れんだいこ拝


【オリーブの木運動の意義その1、歴史的意義総論考】

 「オリーブの木運動」とは、1990年代のイタリアの政治運動に発生した政党連合の動きを云い、イタリアの中道政党(イタリア人民党など)と左派政党が「ともにイタリアのために」を標語として連合したものである。政権を取る為にイタリアの中道・左派が結集した政党の連立方程式の枠組みの呼称である。これを運動理論で考察するならば、左派政党が常用してきた統一戦線論、人民戦線論よりも規制力の弱い即ち各政党の自由自主自律性を重視した上での共同戦線論になる。且つ政権を取る為に編み出された政党の連立方程式であり、これがイタリアで生み出された背景には、イタリア政治史の歴史的伝統的なルネサンス精神が関係しているものと思われる。

 結論として、この運動の重要性は、いわゆる統一戦線論ではなく共同戦線論で政権を奪取した意義にある。政権後の運営上の問題は次のテーマであり、「共同戦線論による政権奪取の意義」と「共同戦線論による政権運営の意義」の二面からの考察が要請されていよう。

 2012.7.14日 れんだいこ拝


【オリーブの木運動の意義その2、政権奪取考】

 「オリーブの木運動史その1、政権奪取までの歩み」を確認しておく。「オリーブの木運動」は、ボローニャ大学において産業政策の講師。1966年、同助教授。1971年、教授。ロマーノ・プローディの呼びかけから始まる。「オリーブの木運動」の経緯は次の通りである。

 1994年、中道右派連合が第12回総選挙で勝利し、シルヴィオ・ベルルスコーニを首相に政権運営を担った。しかし、政権はベルルスコーニ首相の汚職疑惑によりわずか1年で崩壊した。第12回総選挙を政党連合「進歩主義者」で臨んだものの敗北した中道左派連合は、ベルルスコーニ政権総辞職後に発足したランベルト・ディーニ率いる非政治家内閣を信任し、次期総選挙に向けて中道勢力との連携を模索し始めた。

 1995.2月、ディーニ内閣が上下両院で承認された翌日、当時ボローニャ大学の経済学教授にして1878年、産業政策の実績を買われ第4次アンドレオッティ内閣で商工大臣に就任と云う履歴を持つロマーノ・プローディ(Romano Prodi、1939.8.9日~2008.2.6日)が、ベルルスコーニ首相率いる与党・フォルツァ・イタリアに対抗する中道左派勢力を結集する市民運動「オリーブの木」を開始することを表明した。自ら議長に就任し、下院(代議院)選挙へ出馬、首相候補として名乗りを上げた。プローディによれば、「オリーブは平和の象徴であり、イタリアなら何処にも生え丈夫で実がなる」と云うのが「オリーブの木」の名前の由来であったと云う。

 プローディの「オリーブの木」構想に賛同したのは野党第一党にして旧イタリア共産党系の左翼民主党(PDS)で、書記長のマッシモ・ダレマは「オリーブの木」への参加を表明、前回選挙を「進歩主義者」で戦った各党も参画した。この共同戦線は次の6政党で構成された。1・the Democratic Party of the Left (略称「PDS」、左の民主党)(別名democratic socialist、民主的な社会主義者)、2・the Italian People's Party (略称「PPI」イタリア人民党)(別名 Christian democratic、キリスト教民主主義)、3・Italian Renewal (略称「RI」、イタリアのリニューアル)(別名social-liberal、社会自由主義)、4・the Federation of the Greens (略称「green」、緑の党連盟)、5・the Italian Socialists (略称「SI」、イタリア社会党)(別名social-democratic、社会民主主義)、6・Democratic Union (略称「UD」、民主同盟)(別名 social-liberal、社会自由主義)。左派の共産主義再建党(PRC)はプローディが旧与党勢力のキリスト教民主主義(DC)出身でDC政権において閣僚経験があることから警戒し、参加を見合わせたものの選挙協力には同意した。

 1996.4.21日、「オリーブの木」派は、第13回総選挙で上院で167議席(定数315)、下院で319議席(定数630)と両院で絶対過半数を獲得し、ベルルスコーニ率いる右派連合を抑え勝利した。5.17日、ロマーノ・プローディを首相に据えることに成功した。

 2012.7.14日 れんだいこ拝


【オリーブの木運動の意義その3、政権運営考】】

  「オリーブの木運動史その2、政権奪取後の歩み」を確認しておく。

 1998.2月、中核になったPDSが社民勢力を結集する方針を表明し、PDSも含めて「オリーブの木」そのものを政党化しようとする動きとの間で論争もあった。同年10.9日、共産主義再建党の閣外協力が得られなくなったことをうけて内閣総辞職した。10.21日、左翼民主主義者のマッシモ・ダレマが後任に選ばれた。ダレーマ政権が発足したことにより「オリーブの木」は本来の市民運動に戻り、1999.12.22日、第二次ダレマ政権。2000.4.25日の第二次ジュリアーノ・アマート政権までオリーブの木は政権の中核を担った。プローディはその後活動の場を欧州委員会に移し、1999.9月から2004.10月まで欧州委員会委員長を務めている。

 2001年時点で、与党は次の6政党で構成されていた。
1・the Democrats of the Left (略称「DS」、左の民主党)(別名 social-democratic、社会民主主義)、2・Democracy is Freedom – The Daisy (略称「DL」、民主主義は自由である)(別名 centrist , born by the merger of PPI, The Democrats and RI、中道 PPIの合併により誕生し、 民主党とRI)、3・the Party of Italian Communists (略称「PdCI」、イタリアの共産主義者の党)(別名 communist、共産主義者)、4・the Italian Democratic Socialists (略称「SDI」、イタリアの民主社会主義者)(別名 social-democratic、社会民主主義)、5・the Federation of the Greens (略称「green」、緑の党連盟 (緑)」、6・the Democratic Union for Europe (略称「UDEUR」、ヨーロッパの民主同盟)(別名 Christian-democratic、キリスト教民主主義)。

 2001.5.13日、第14回総選挙で、マルゲリータ党のフランチェスコ・ルテッリ率いるオリーブの木はシルヴィオ・ベルルスコーニの中道右派連合「自由の家」(Casa delle Libertà) に敗れた。2002年、マルゲリータの結成に伴い解散。2004.6.12日の欧州議会選挙でオリーブの木連合は31,1%の得票を得た。このときのオリーブの木はそれまでの参加8政党中の3つとそれまで協力関係のなかった「ヨーロッパ共和運動」だけであった。

 2004.9.13日、オリーブの木は夏に欧州議会選挙を戦った4党で「統一オリーブの木」 (Uniti nell'Ulivo) を再結成した。次の4党の厳格な同盟だった。1・the Democrats of the Left (略称「DS」、左の民主党)、(別名 social-democratic、社会民主主義)、2・Democracy is Freedom – The Daisy (略称「DL」、民主主義は自由である)(別名 centrist、 デイジー中道)、3・the Italian Democratic Socialists (略称「SDI」、イタリアの民主社会主義者)(別名 social-democratic、社会民主主義)、4・the European Republicans Movement (略称「MRE」、ヨーロッパの共和党運動)(別名 social-libera、社会自由主義)。

 2005.2.10日、プローディが復帰し、2006年のイタリア総選挙に向けて、「自由の家」のベルルスコーニ政権打倒を目指すオリーブの木連盟と緑の党系と共産党系の中道左派政党は「連合」(L'Unione、ルニオーネ) を結成し、名前とロゴを公表した。2.25日、ルニオーネ代表に就任する。10.16日、ルニオーネの首相候補予備選挙で勝利する。

 2006.4.9日、プローディが代議院議員選挙(無所属 - ルニオーネ)2期目当選。5.17日、総選挙で、ルニオーネを率いてベルルスコーニ政権の中道右派連合「自由の家」に挑み、僅差で勝利。第80代首相となり再び首相に就任し、第2次プローディ内閣を発足させた。しかし左派からキリスト教民主主義政党までを含む9会派連立政権の運営には苦心し続ける。

 2007.2.21日、イタリア共和国軍のアフガニスタン駐留延長を含む外交方針案が一部の与党議員による造反によって否決された事を受け、ナポリターノ大統領に辞表を提出。野党連合は総選挙を求めたが、大統領は辞表を正式には受理せず続投を要請。翌月両院の信任を受けて危機を乗り切った。その後中道左派政党を結集すべく、ルニオーネの中心政党でイタリア共産党の流れをくむ左派「左翼民主主義者」と中道右派「マルゲリータ」を合流させ、10.27日、新党・「民主党」を結成し議長に就任した。

 2008.1月、ルニオーネに所属していた「欧州民主連合・人民」書記長のクレメンテ・マステッラ(司法大臣)が自身への汚職捜査に対する不満と小選挙区制の復活を柱にする選挙制度案への危機感から連立離脱を表明。政権は上院で少数与党となった。1.24日、上院で内閣信任決議案の投票が行われたが、その結果は賛成156、反対161、棄権1で決議案は否決されたため、プローディは内閣総辞職を大統領に通知、政権は崩壊した。大統領は暫定政権の構築を試みたが調整がつかなかった。

 2.6日、議会を解散した。プローディはその直後の記者会見で今度の’総選挙には出馬せず、政界から引退すると発表した。(なお憲法の規定に基づき、大統領が次期首相を指名するまでプローディは首相の職務を遂行した)。

 2012.7.14日 れんだいこ拝







(私論.私見)