マルクス主義運動通史その1、マルクス、エンゲルス時代

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).8.16日

 (参照、プルードンとマルクスその他)



マルクス主義夜明け前期)

 1760年、イギリスで産業革命始まる。ベルギー、フランスは1830年代、 ドイツは1850年代、アメリカは南北戦争以降、日本は日露戦争以降、産業革命が始まる。


 1776年、アメリカ独立宣言。


 1776年、アダム・スミス『国富論』。


 1789年、フランス革命勃発、@.封建的な特権の廃棄、A.人権宣言、B.立憲君主制を宣言する。10月の人権宣言は、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と詠われ、「自由、平等、友愛」を説いていた。


 1789年、アメリカ合衆国憲法発効、政府の成立。


 1809.1.15日、プルードン生誕。


 1818年、カール・マルクス生誕(〜83年)。


 1820年、フリードリヒ・エンゲルス生誕(〜95年)。


 1825年、周期的過剰生産恐慌発生(〜73年)。


 1814−1824年、ルイ18世による王政復古。


 1830−1848年、ルイ・フィリップによる7月王政。


 1834年、ドイツの亡命者によって共和主義的な秘密同盟がパリに作られた。


 1836年、パリに作られた共和主義的な秘密同盟のうちのもっとも急進的分子がドイツで、「人間はすべて兄弟として平等であると」いうことをモットー にした「義人同盟」(「正義者同盟」)を結成した。バブーフ派、ブランキー派、ワイトリング派らが混交していた。この同盟が次第に国際的に発展してゆく。


 エンゲルスのブリュッセル滞在中に彼とマルクスは共産主義的なドイツ人労働者協会(「共産主義通信委員会」)をつくった。この協会はフランドルとヴァローンの労働者のクラブと連絡があった。また両人はボルンシュテットといっしょに『ブリュッセル・ドイツ語新聞』を発刊した。



 1839.5月、パリ蜂起。オーギュスト・ブランキーやバルベスの指導する「季節社」と「義人同盟」の千人足らずのメンバーが決起しパリ市庁舎を占拠したが鎮圧される。この後、義人同盟の指導者カール・シャッパーらはロンドンに亡命し、本部をパリからロンドンに移す。同盟の再建と敗北の総括を廻って同盟内の対立が抜き差しならなくなる。主流派のシャッパー派は、組織面で秘密結社にありがちな形態をしりぞけ、国際的な共産主義者の同盟に改組し始めた。理論面でも一揆主義・テロリズムでは闘えないと戦術転換し、ロンドンのチャーチスト主義者らとの連帯を深めつつ、労働者の共産主義的教育活動に重点を置く方向へ活動の重心を移していく。これに対し、ヴァイトリング派は、従来路線のブランキー主義的な一揆主義・テロリズムを継承せんとした。モル派は、ブランキー主義の行き詰まりを認めるが清算には割り切れない中間派的見解を主張した。こうして、同盟内の路線上の対立がぬきさしならないものとなった。指導部内に対立が生じ、まとまりがつかなかった。

 逮捕を免れたヴァイトリングは、義人同盟の再建を企図してスイスのジュネーヴへ拠点をうつし、雑誌「ドイツ青年の救いを叫ぶ声」を創刊し、主著「調和と自由の保証」を刊行する。この著作は、ちょうどスイスに来ていたロシアの亡命者バクーニンに対しアナキズム思想形成上で多大な影響を及ぼし、また若きマルクスに対しても共産主義思想形成上で深い印象を与えた。


マルクス主義運動第一期

 すでに「経哲草稿」から「ドイツ・イデオロギー」、「賃労働と資本」の著作をもって、マルクス主義的共産主義思想の祖型を形成しつつあったマルクス、エンゲルスは、「共産主義通信委員会」と「義人同盟」の関係付けを求め、分派闘争が始まった義人同盟内の対立に積極的に介入し働きかけていった。ロンドン本部を中心とする主流派は、それまでの理論的指導者であったワイトリング派を排除する形で、マルクス・エンゲルスらが組織した「共産主義通信委員会」に接近してきた。やがて、「義人同盟」ロンドン委員会のモルを通して、同盟の綱領の作成をマルクスとエンゲルスに委ねる用意があるとの話が持ち込まれ、その確認をえてことから、マルクスとエンゲルスは、義人同盟ドイツ人委員会の招待に応じて同盟の会員になった。


 1840年、プルードンがその著「所有とは何か」を初版500部で出版、しだいに評判となり版を重ねる。「所有とは盗みである」という衝撃的なフレーズが若きマルクスを大いに感動させた。プルードンは所有に関する著作を41年、42年とたてつづけに出版し、新しいタイプの社会主義者,経済哲学者として有名になっていった。


1843年、ヴァイトリングは、「貧しき罪人の福音」を発表する。その中で、トーマス・ミュンツァー的な千年王国論・メシア共産主義(第二のメシア)をひときわ強烈に説き、実践面では社会的匪族(Sozialbandit)による徹底的な所有権攻撃を提起した。ヴァイトリングは、チューリヒ州警察に逮捕され、同年秋にはスイスからプロイセンへ護送され、翌1844年、プロイセンからも追放され、同年8月、ロンドン着く。この地では義人同盟ロンドン本部のシャッパーらと「革命か啓蒙か」の路線をめぐる連続討論を展開する。

 1846.3月、 ヴァイトリングは、ロンドンからブリュッセルへ渡り、今度はマルクスと革命論をめぐって激論を交わす。いずれの論争も決裂に終わり、そのこともあってヴァイトリングは、1846年末、大西洋を渡航しニューヨークに上陸し、解放同盟(Befreiungsbund)を設立することになる。


 1844.9月から45.2月、パリで、プルードン、マルクス、グリュンが親交している。「グリュンはドイツ哲学をわかりやすく解説してくれる人物として、また生活苦のなかにあってもがんばる姿を示して、パリの知識人・労働者のあいだで受け入れられていた」。


 しかし、マルクスやエンゲルスは次第にグリュンを批判し始め、1846.5.5日付け手紙で警戒をよびかける手紙をプルードンに送っている。同年5.17日付手紙で、プルードンはこの手紙の前段にある独仏同盟結成の企てに原則賛成を表明しながら、グリュン攻撃についてはたしなめる返事を書いている。これを境にプルードンとマルクス、エンゲルスは親交を断ち切ることになる。


 1846.10月、プルードンが「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」を世に出す。プルードンは同書で、「アナルシ」(an-archie 権力の不在)という言葉を“anarchie”と綴り字をつなげ、貴族主義にも君主主義にも、共和主義にも民主主義にも、連合主義にも組合主義にも属さない立場がありうることを暗示した。これがアナキズムという言葉の生誕となった。


 1846年、若きマルクスは、これまで9歳年上のプルードンをフランス社会主義の最も良質の部分と見なし、「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言である」とまで評価していたが、この1846年を境に評価を一変させ、概要「彼は資本と労働のあいだをたえずうろつくプチ・ブルジョアであるにすぎない」と規定するようになった。


 1847.6月、「義人同盟」と「共産主義通信委員会」が発展的に解消し、「共産主義者同盟」を創設。共産主義者同盟第1回会議が開かれた。イギリスのチャーチスト運動の指導者と独仏等大陸諸国の政治亡命者達によって組織された。

 マルクスとエンゲルスは理論的指導者として迎えられた。マルクスは、「あらゆる人間は兄弟」であるという従来のスローガンを、「万国のプロレタリア団結せよ!」というスローガンにおきかえた。が、旧指導部のカール・シャッパー、ヨーゼフ・モルのイニシアチブが強く、マルクス派のヘゲモニー掌握には至っていない。以降、それぞれのメンバーの「共産主義者同盟」への再登録作業が進められていった。


 1847.7月、マルクスは「哲学の貧困」を顕わし、プルードンの「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」を痛烈に批判する。プルードンは黙殺する。


 同年11.29ー12.8日、ロンドンでひらかれた同盟の国際会議(第2回大会)で、「公表を目的とする詳細な理論的・実践的な共産主義者同盟の党綱領の起草」をマルクスとエンゲルスに依頼した。これにつき、「1819年に創立されたユダヤ人文化科学協会にいたバルーフ・レヴィが起草をマルクスに依頼した」との説がある(「マルクスとロスチャイルドの関係」参照)

 「共産主義者の宣言」の起草をマルクスに依頼したバルーフ・レヴィの「マルクス宛バルーフ・レヴィの手紙」が遺されており、次のように彼らの目的を伝えている。この理論を骨子として「共産主義者の宣言」を執筆するよう依頼したことになる。

 概要「救世主とは、団結する我々ユダヤ民族それ自身のことである。ユダヤの世界支配は、まず第一に、世界各地の多民族の統合を進めることにより、次いで、独立した主権に基づき民族分断の壁をなしている国家と君主制(天皇制、南ユダ王国イザヤの子孫を建てた国)を廃止することにより、そして最後に、未だ全面的には認められていないユダヤ人の権利を至るところで認める「世界共和国」の建設を進めることによって達成される。

 この新しい人類の社会組織(コミューン)の中で、我々ユダヤ人はいかなる国家に属することもなく、また他の民族から何ら抵抗を受けることなくして指導的勢力となり、やがてその影響は全世界に及ぶであろう。ことにもし彼らの中の何人かの賢者が、これら労働大衆のうちに確固たる指導権をうちたてることに成功するなら、プロレタリア(無産者)の勝利によって次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これらプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることが出来る。

 要するに、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入る。かくして我々ユダヤ人のメシアが到来する時、ユダヤ人は全世界の民の財産をことごとくダビデ(神エホバの弟にして悪魔ルシファを使ってあらゆる人を墜落する計画建てた悪魔)の星の下につかさどるであろうと言い伝えられてきたタルムード(ユダヤ教の悪魔の法典)の予言が実現されるであろう」。


 以降、二人はそれを1848.1月下旬に書きあげた。


 1848.2月、フランスの二月革命が起るほんの数週間前に当るこの日、共産主義者同盟は、マルクスとエンゲルスの起草になる「共産主義者の宣言」を同盟の新綱領として発表した。「宣言」は、翌1848年の二月革命の直前に発表されて、ヨーロッパのほとんどすべての国語に翻訳された。同じ年に彼らはブリュッセル民主主義協会の設立に協力した。この協会は、公開の国際的団体で、そのなかにはブルジョア急進派の代表者と社会主義的労働者の代表者とがいっしょになっていた。

 「共産主義者の宣言」は、現在の社会主義の最も価値のある文献の一つである。それは今日でも、ブルジョア社会の発展と、資本主義社会を終わらせなければならないプロレタリアートの形成とを、最も力づよくかつ明瞭に述べたものの一つである。その一年まえに発行されたマルクスの「哲学の貧困」に続いて「共産主義者の宣言」で階級闘争の理論がはじめて明瞭に定式化された。「労働者には祖国がない( Die Arbeiter haben kein Vaterland).」、「万国の労働者よ団結せよ!(Proletarier aller Laender, vereinigt euch!)」が有名な文句となった。


 1848.2月、「フランス二月革命」が勃発し、歴史に大きな波紋をもたらした。ルイ・ブランが工場労働者を産業軍の内側に逆編成する計画を発表した。マルクスとエンゲルスが「共産主義者の宣言」を刊行し、アナキズムが狼煙を上げた。シュティルナーが「唯一者とその所有」を著し、既存社会の打破のための結社の自由を謳い、偶像の思想を破壊することを奨め、国家の生存を真っ向から否定した。そこへロシアにいたバクーニンが、急ぎ足で燃えるパリに戻ってきた。バクーニンはそれまでは汎スラブ主義的な民族主義活動の中にいたが、「社会主義の前哨戦」に加わり1848年をさかいに極度にラディカルになっていく。

 バクーニンはプルードンのような協同的アナキズムには満足していなかった。むしろ革命家の前衛組織による破壊活動が先行し、この破壊によって生まれた突破口から民衆の建設活動が溢れ出てくるようなプランをもっていた。協同アナキズムではなくて、一握りのアナーキーな革命家の出現こそが必要だと考えていた。だからこう言うのも憚らない、「革命家は前もって死を宣告された人間である」。この瞬間、「命を持っていきたまえ」という革命家を先頭に立てるアナキズムが発芽した。

 但し、マルクスとバクーニンは対立していく。それは、今まさに生まれつつあるコミュニズムの真っ二つの分断となった。ロシアの貴族に生まれたバクーニンは、すでにプラーグやドレスデンで革命のための叛乱を組織し、サクソニアで捕らわれて死刑の宣告をうけ、ロシア送還ののちは6年にわたって幽閉されていたという経歴がある。また、その後にシベリア流刑となってはここをドラマテイックに脱出して、日本・アメリカをへて12年目にヨーロッパに戻ってきたという世界遊民的な経歴がある。一方のマルクスはバクーニンのようには行動をおこしてはいない。あくまでイデオロギーを見極め、社会を分析して、そこに革命の計画がありうることを展望した。「バクーニンが遊民なら、マルクスは常民だった」。世界をぐるりと駆けめぐったスラブ派のバクーニンには、こういうマルクスのようなあり方には承服しがたいものがある。加えてとくにバクーニンが嫌ったのが、中心を手放さない「鞭のゲルマン帝国」である。マルクスはそのドイツに育ち、その厄災(つまりドイツ・イデオロギー)を切り払うために立ち上がったのであるけれど、そこには、バクーニンから見れば、いくらでもゲルマン的な権威主義が残響していたのであろう。


 二月革命ののちに、エンゲルスは『新ライン新聞』のひとりになった。この新聞は、1848年にケルンでマルクスが創刊し、1849年5月にプロイセンのクーデタによって弾圧されたものである。


 1848.2月、革命直後から、プルードンの活動は社会的実践へと大きくシフトする。「貧困の哲学」でえた相互主義のアイデアにそって経済問題解決の糸口を金融の場面に求め、「人民銀行」という名の相互信用金庫の創設を企てた。又、新聞「人民の代表」を発刊し、銀行計画のアピールにつとめる。新聞の発行部数は平均4万部,1日平均250フランの利益をあげるほどであった。


による第二共和制6月革命。ドイツに波及して3月革命。但し、1849年、軍隊により鎮圧された。


 この間、1848.5.15日にブランキーは、権力奪取を図ったという罪で裁判にかけられ、49年に有罪判決が出され下獄。


 1848.6月、プルードンが国会議員補欠選挙で当選。その人望と名声のほどをうかがわせる。しかし、49.3月、大統領ルイ=ナポレオンを中傷した罪で禁固3年と罰金3千フランを課せられ、人民銀行計画もこのとき潰え去った。「19世紀における革命の一般理念」(1851年)は獄中で執筆したものである。


 エンゲルスは、エルバーフェルトの蜂起に参加したのちに、その当時義勇兵部隊の隊長であったヴィリヒの副官として、プロイセン軍にたいするバーデン人民の戦闘(1849年6月7七月)に従軍した。


 1850.4月、マルクスとエンゲルスは、ブランキー派のアダン及びヴィディルと一緒に秘密組織「革命的共産主義者万国協会」を結成。その規約第一条は、「本協会の目的は、人類家族の最後の組織形態たるべき共産主義が実現されるまで革命を永続的に続けながら、全ての特権階級を打倒し、これらの階級をプロレタリアの独裁に従属させることである」。第二条では、「本協会は、共和主義的友愛の原則に従って」云々と書かれていた。


 1850年、ロンドンで彼は、マルクスが編集してハンブルクで印刷されていた『新ライン新聞。政治経済評論』に寄稿した。その誌上にエンゲルスは労作『ドイツ農民戦争』〔『全集』第七巻、『選集』第一六巻、または国民文庫所収〕をはじめて発表したが、これは一九年後にライプツィヒで小冊子として発行され、三版をかさねた。


 1850年、ヴァイトリングは、ニューヨークで移住ドイツ人労働者に向けて宣伝機関誌「労働者共和国(Republik der Arbeiter)」を発行し、1851年、アイオワ州クレイトンで共産主義的なコロニー「コムニア」(1847年設立)の運営に参加、さらには1852年、労働者同盟(Arbeiterbund)を結成する。こうしてヴァイトリングは、アメリカでも精力的に社会改革・労働運動を継続していくことになる。


 1853年、プルードンが生活の資をえるため書いた「株式投資マニュアル」が予想外の売れ行きを示す。


 1855年頃、プルードンは「経済学」と題する大著の執筆にとりくみ、集合存在としての社会の動態を大きくつかみとる新しい社会科学の構築を企てている。但し、未刊に終わった。その手稿にはかつてのマルクスの論難に応えようとする意図もうかがえる。


 1857年、恐慌発生。


 1858年、プルードンの大著「正義」が発刊され、売れ行き好調。但し、公序良俗壊乱をとがめられ、プルードンはベルギーに逃れる。 


 1859年、ドイツで、国内闘争が頂点化する。


 1860年、世界イスラエル民族連盟(本拠パリ)が創設された。


 この頃のドイツは、プロイセンを中心とした民族的領土的ドイツの統一気運にあった。1860年の普奥戦争、1870年のフランスのボナパルト体制に挑戦した普仏戦争に至る時勢下にあった。


 1861.6月、プロイセンのブルジョアジーによるドイツ進歩党が結成され、プロイセンの指導のもとにドイツの国内統一機運が盛り上がる。この60年代初めには、ドイツの各地に労働者教育協会や手工業協会が雨後のたけのこのように生まれた。


 19世紀半ば、産業革命後のヨーロッパでは労働者が大量に出現し、資本家の反労働者的攻勢に対応する為の連帯組織の必要が叫ばれていくことになった。この頃「共産党宣言」の普及が進み、いわゆる革命的理論が実効化しつつあった。1863年のポーランド反乱に対する英仏労働者の支援運動が契機となって、国際的な労働者組織の結成の気運が高まる。この流れが、第一インターナショナルの結成へと向かわせることになる。


 この頃、ドイツのではラッサール派が台頭し始め、彼らは、労働者の生活状態の改善を主眼とし、国家補助の生産協同組合の設立を唱え、概して国家に対して融和的でマルクス主義とは異なる道筋での労働運動を指針させた。


 1862年、プルードンが帰国し、数々の著作を出し、思想界にインパクトを与え続けた。


 1863.5.23日、ドイツ社会民主党の前身となる全ドイツ労働者協会がラッサールらによってライプチヒで創設される。ラッサールが任期5年間の会長に選出された。但し、1864.8.31日、ラッサールはジュネーブでの女性を廻る決闘で受けた傷が原因で死去する。


 1863.6月、中・南部ドイツの各地に存在した労働者教育協会の緩やかな連合体として「ドイツ労働者協会連合」が設立された。リープクネヒトやベーベルらが次第に左派色を強めていった。


マルクス主義運動第二期(第一インタナショナル時代)

【国際労働者協会(第一インタナショナル)創立】
 1864.9.28日、マルクスとエンゲルスの指導の下で、国際労働者協会(第一インタナショナル)(英語: International Workingmen's Associatio)が創立される(〜76年)。発足集会の決議に基づき、ロンドンに本部を設置することが定められ、「中央評議会」と年次大会を主軸とした「第一インター」の組織が示された。「第一インター」は、マルクスが創立宣言を起草し、直接指導した組織であった。かっての「共産主義者同盟」とその綱領である「共産党宣言」とは違って、ラサール派も受け入れることが出来るような「創立宣言」を発している。マルクスとバクーニンは互いに相手の出方を窺っていた。

 エンゲルスは、「この新しい協会は、諸問題がいくらか厳密に規定されるや否や、たちまちのうちに理論的にブルジョア的要素と理論的にプロレタリアート的要素に分裂するだろうと僕は思う」と語り、各国のプロレタリアートの国際同盟の性格上、分派が生じる可能性があることを指摘して、マルクスによる包括的な理論的指導が重要になることを助言した。

 エンゲルスの予言通り、「第一インター」は様々な内部的対立や、各国政府からの激しい弾圧などによって、その道のりは険しかった。第一インターは1876年解散することになる。

 プルードンが、所有を個人の自由・自立・自己責任の根拠と見なす「所有の理論」を遺す。


 1865年、プルードンは最晩年の著書「労働者階級の政治的能力」執筆。概要「労働者たちに、政府や議会に頼るのではなく、自分たちのassocistion, federationの力で漸進的に社会革命を進めるべきことを説き(その一環が労働者アソシアシオン、即ち労働者合資会社の提案でした)、選挙ボイコットを訴えました」と解説されている。その末尾で、「労働者たちは自分自身の苦しさしか視野にない。ブルジョアの難儀苦悩には想いが及ばない」と書いている。これは、印刷職人から身をたて印刷所の経営者になりその後経営難で倒産の憂き目に会うという一連の社会的経験を積んだプルードンならではの独白である。


 1865.1.19日、プルードン病没。

 プルードンの死後、プルードン主義(proudhonisme )が形成され、その思想的影響力は国際労働者協会に及び、アンリ・トランをはじめとするフランスの代議員たちは、ロンドンの中央委員会に対抗し全体の議論をリードしていく。


 この頃、国際労働者協会は、マルクスらのロンドン派、ラサール派、プルードン派等々で複雑に構成されていた。


 1866年、ジュネーブ大会が開かれ国際労働者同盟が創立された。イタリアのマヂニー派、フランスのプルードン派、ブランキー派、ポーランドの革命党員、マルクスら旧共産主義者同盟派、イギリスのオーエン派、チャーチスト派らが多種雑多に集合していた。アンリ・トランをはじめとするフランスの代議員たちがロンドンの中央委員会に対抗して全体の議論をリードしていき、大会はほとんどプルードン主義の色で染まった。労働者階級の解放は労働者自身による事業であり、そのオートノミーを発展させるうえではアソシアシオン(労働者を一束ねにしようとするもの)は有害だと主張。(斉藤悦則氏の「プルードン主義[proudhonisme]」参照)


 1866年、プロイセンの軍国主義に反対して、ケムニッツで労働者の集会が開催され、ラサール派も参加してザクセンにザクセン民主党が設立された。その綱領は、革命的民主主義を唱え、プロイセンの下での小ドイツでもなく、オーストリアの下での大ドイツでもなく、ドイツの民主的国家への統一を目指していた。


 1867年、ローザンヌ大会で、個々の労働者の自立の根拠として小所有を容認するプルードン派トランたちの主張が保守的と見なされるようになる。


 1867年、マルクス『資本論第1巻』。


 1868年、第3回大会(ブリュッセル大会)で、プルードン主義者が敗退。但し、脱退せず。これにより、国際労働者同盟は、それまでの経済闘争重視路線から資本主義体制転覆を目的とする国際団体に転換した。だが、当時の最大支持母体となっていたイギリス労働者を同盟から失うことになった。フランスからは以降、プルードン派に代わってフランスのマルクス派・コレクティヴィスト(集産主義者)派が参加することになる。


 1869.9月、ニュルンベルクでドイツ労働者協会の第5回大会が開かれ、ニュルンベルク綱領を採択。


 1869年、第1インターの第4回大会(バーゼル大会)で、バクーニンは財産相続の廃止を訴えて、マルクスとバクーニンの論争が為された。バクーニン提案が拒否され、バクーニン派対マルクス派の対立が不可逆的となった。バクーニン派の地方分権論に対するマルクス派の中央集権論による対立であった。プルードン派が反権威主義の立場でわけ入って、反マルクス派を形成する。バクーニンは、「私は共産主義が大嫌いだ。それは自由の否定だ。共産主義は社会のすべての勢力を国家に吸収させようとしている」と批判した。バクーニンの組織する社会民主主義同盟は第1インター加盟を許可されなかった。


 1869年、べーベルやリープクネヒトによって社会民主労働党が、バッハの誕生地として知られるドイツ中部の都市アイゼナハで誕生。ラサール派の会長・シュヴァイツァーの独裁に抗議し、離脱した人々やべーベルやリープクネヒトらのドイツ労働者連合の多数派や、旧ザクセン民主党からの離脱者が中核となった。アイゼナハ派と呼ばれることになったこの党派がドイツにおける最初の労働者党として位置付けられる。
【ドイツ左派運動におけるラッサール主義(ラッサール派)とマルクス主義(アイゼナハ派)の二潮流の相克について】
 この両派の違いはどこにあったのか。れんだいこ的観点によれば、どこの国においても生起する穏健派と急進派の抗争であったと思われる。従って、事を単純に方や否定、こなた肯定式にしない方が良い。

 ラッサール派は、今日的な云い回しで表現すれば社会民主主義的構造改革派(漸次的社会改良派)であり、アイゼナハ派はマルクス主義原理派であった。一口で言えば、ラッサールは穏健派であり、マルクスは急進派であった。ラッサールは、既存国家体制下での「よりまし運動」を目指し、左派運動を@・普通選挙の実施運動、A・労働条件の改良運動、B・「国家的補助」を引き出しつつの生産者共同組合運動等々に取り組もうとしていた。ある種の「階級調和の道」をたどって社会主義化していくことを良しとしていた風がある。
 
 マルクスは、既存国家体制下での階級協調主義的なラッサール派運動を否定していた。なんとならば、既成体制を否定し、社会主義革命の徹底遂行によって新社会を創造することによって初めて社会の諸矛盾の揚棄が可能となるとしていたからである。

 1870年末、第一インターナショナル(国際労働者協会)。エンゲルスは、1870年にマンチェスターからロンドンに移ってのち、インタナショナル総評議会の委員となり、スペイン、ポルトガル、イタリアとの連絡を委任された。フランス支部の加盟者は24万人を超える。第一インターナショナルには、当時の左派的潮流が糾合されたという正の面と、為に指導部を廻る駆け引き綱引きで翻弄されたという負の面が付きまとっていた。マルクス派のみならず、バクーニンらの系統やプルードン、ラッサール、イギリス的自由主義的な労働組合主義者等々の様々な傾向が寄合い所帯していた。マルクスは、この寄合い所帯内で常に理論闘争を仕掛けながら、しかも全体を結集させ統一体として機能させるという困難な任務を自らに課していた。


 1870年、ウラジーミル・イリイチ・レーニン生誕(〜1924年)。


 1870.7月、普仏戦争勃発(〜71年)。ドイツ帝国成立。


 1870.9.4日、フランスで第三共和制。


 1871年、パリ・コミューン。ジャコバン党、ブランキ主義者、プルードン派、第1インター加盟者たちがあっちこっちから乗りこんできて都市戦場となった。ランボオも駆けつけた(第690夜)。しかし、パリは急激に燃え、パリは急速に沈んだ。

 1871年のパリ・コミューンは国家の廃絶をめざしたプルードンの思想を体現しようとする大きな歴史的試みであった。コミュナールと呼ばれる活動家の多くはプルードン主義者であり、トランの妥協的態度を乗り越えて急進化する。結果は悲惨な敗北に終わったが、プルードン主義が後にアナルコ・サンディカリズムとして蘇生・発展していく素地となる。(斉藤悦則氏の「プルードン主義[proudhonisme]」参照)

 マルクスは、各国にプロレタリアートの党をつくって、これらが国家権力を掌握できるように全運動を組み替えることを計画した。第1インターはその国際本部とならんとした。しかし、アナキストは承服しかねた。

 ところで、1905.3.27日付けの「自由発言」は次のような記事を発信している。

 「ロスチャイルド家の詳細を含んだ記録は187年、パリ・コミューンの期間に故意に焼却された。ロスチャイルド家がコミューンの資金を支えていたからだ」。

 1871.4.19日、「フランス人民への宣言」。マルクスは、「労働の経済的解放の実現を可能ならしめる、遂に発見された政治形態」と高く評価。
 バクーニン概要「自分たちの思想と生命とを捧げた巨大な仕事に直面した。---彼らは、その熱烈さと献身と誠実とを彼らと親しくした誰からも決して疑われることの無い人々であった。---彼らは政治革命と正反対のものである社会革命の中では、個人の行動ははとんど何物でもなく、大衆の自発的行動こそ全てでなければならないという信条を抱いていたのである。個人が為し得る全て、それは大衆の本能に呼応する思想を練り、明らかにし、分かつことである。そしてさらに彼らの絶えざる努力によって、革命組織に大衆の生得の力を付与することである。しかし何事も大衆を越えてではない。残りの全ては、民衆自身によってしか為されないし、またなされなくてはならない。そうでなければ、人は政治的独裁に、まり国家の、特権の、不平等の、国家によるあらゆる抑圧の再建に到達する。そして人は、遠回りの、しかし論理的な道を通って、人民大衆の政治的・社会的・経済的隷属の復活に到達する」。このバクーニンの指摘は、凡そ半世紀後の、ロシア革命における革命変質の運命を予告している点で貴重である。


 第一インター・ナショナルでマルクスと決裂したバクーニンの著「マルクスとの個人的関係」(1871.12月、バクーニン著作集第6巻・白水社刊)は、文中で次のように記している。(「マルクスとロスチャイルドの関係」http://sinobu10.hp.infoseek.co.jp/marukusu_and_roschairudo.html参照)

 概要「マルクスがエンゲルスと共に第一インター・ナショナルに最大の貢献をしたことは事実である。彼が聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ(イルミナティ会員)等はその生徒と呼んでいい程である。しかし、何事も光には影がある。先ず第一に、彼の教条主義的側面を取り上げる。彼は、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。彼は、社会主義や共産主義の法王だと自ら考えている。彼は、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」。
 「ユダヤ人マルクスは、ロンドンにもフランスにも、取り分けドイツにちょっと頭の切れる陰謀家で、活動家で、山師的な沢山のユダヤ人グループを持っている。実業家、銀行家、作家、政治家、色々な記者、文学仲買人だ。詰まり、一方で銀行に足を突っ込み財界の仲立ちをし、同時にもう一方の足で社会主義運動に突っ込み、お尻はドイツの日刊新聞(彼等は、全ての新聞を独占している)といった連中だ。しかし、暴利を貪る宗派、蛭(ヒル)の様な連中、欲張りで比類無い寄生虫により固く、親密に組織されているユダヤ人世界は、単に国境を越えているだけでは無く、あらゆる政治的意見をも超越して結ばれている。今日ではその大部分が一方ではマルクスに依って、他方ではロスチャ イルド家に依って思いの儘に動かされている。私はロスチャイルド家の人々がマルクスの優れた点を認める一方、マルクスの方もロスチャイルド家に本能的に惹かれ、大いなる尊敬を払っていると確信している」。

 「マルクスとロスチャイルドの関係」は、マルクスがアダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ(啓明結社)と云うフリーメーソンの会員だった事を明らかにしている。


 1872年、ハーグ大会。マルクス派がバクーニン派を同盟より追放。バクーニン派の侵入を防ぐために同盟本部をアメリカに移す。事実上、同盟が無力化する。アナキストたちはサン・ティミエに集まって、バクーニンの指導のもとにいわゆる“黒色インターナショナル”をおこす。この時点では、マルクスよりもバクーニンの追随者のほうが多かった。 


 1875.5月、ドイツ中部の都市ゴータでドイツ社会主義労働者党の大会が開かれ、党綱領を採択(ゴータ綱領)する。この党には二つの潮流があった。その一つがラッサール派(「全ドイツ民主労働者党」)であり、もう一つがマルクス主義派のアイゼンナハ派(「社会民主労働者党」)。この二つの潮流が、ラッサール死後に都市ゴータで合流し、新党「ドイツ社会主義労働者党」を結成し、ゴータ綱領を採択した。

 この時、マルクスは、ゴータ綱領の不十分性を批判するための文書を著し、アイゼナハ派幹部に送りつけている。これは、草案の内容がラッサール主義的性格の強いものであった為、これに疑問を抱いていたベーベルやブラッヶの質問に答えて、マルクスが私信として書いたものであった。この時の文書が「ゴータ綱領批判」と云われるものであり、マルクスは、「ゴータ綱領批判」の中で、社会主義と共産主義社会についての基本的な理解、いわゆる「過渡期の社会主義社会」論、いわゆる「プロレタリア権力の全権掌握(プロレタリア独裁、ディクタツールシップ)」に触れていることで注目される。

 しかし、綱領は大した修正のないままに、採択された。マルクスとエンゲルスは、党組織の団結を優先させた為に、敢えてこの批判文書を公表しなかった(公表は、6年後の1891年、エンゲルスの手で「ゴータ綱領批判」として発刊される。この時、エンゲルスは、91年に党名をドイツ社会主義労働者党から社会民主党へ改名することになった際に、ラッサール主義からの脱却を意図して公表した)。 


 1875年、マルクス『ゴータ綱領批判』。


 1876年、同盟が、フィラデルフィアで正式に解散。


 1876年、バクーニン逝去。アナキズムの活動を支えていたジャム・ギョームが引退した。インターナショナルな活動から締め出されたアナーキーな粒子が、バクーニンの原郷ロシアに飛び火してナロードニキの動きとなり、さらにテロリズムの様相を呈していった。


 1877年 露土戦争(〜78年)。


 ドイツ社会主義労働者党結党後の1875年頃よりベルリン大学の私講師・デューリング博士が、私党的派閥的運動を開始し、エンゲルスが批判していくことになる。1878年、「デューリング氏の科学の変革」(「反デューリング論」を著わす。
 1878.10.19日、ビスマルクが、社会主義者取締法(「治安を危うくする社会民主主義の動きに対する法律」)を強行成立させた。その第一条には「社会民主主義的、社会主義的又は共産主義的諸活動によって現存の国家及び社会秩序の転覆を目的とする結社は禁止されるべきである」。こうしてドイツの左派運動は非合法化された。例外的に社会主義者が選挙に参加することや集会で演説することを許した。そういうこともあって、社会主義政党は、議会活動に対して熱心に取り組んでいくことになる。なお、この時、アメ政策として、労働者の支持を得るための社会保障政策が導入されている。

 1880年 エンゲルス『空想より科学へ』。


 1881年、アナキストにより、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。この先鋭化したテロは、フランスではティエールの像の爆破となり、炭鉱都市モンソーの教会焼打ちに、さらに各地の教会爆破に連鎖した。モンソーの焼打ち事件では65人のアナキストが逮捕されるのだが、そこには次の時代の指導者の一人クロポトキンが入っていた。


 1880年から83年にかけてドイツで社会民主党、フランスで諸種の社会主義同盟、イギリスの社会民主同盟、フェビアン協会が結成される。


 1883年、マルクス死去。亡命先のロンドンの地で逝去した。


マルクス主義運動第三期(第二インタナショナル時代)

 ジョーレスとベーベル


 1889年、フランス革命百周年を記念して、パリで各国の諸団体の国際的会合が開かれた。穏和派と急進派の二つの大会。穏和系は、イギリスの労働組合とフランスのポシビリスト派。急進系は、ドイツ社会民主党の主唱の下にフランスの左派社会主義同盟の支持のもとに組織せられた。後者の会合が第二インターの第一回目の会合となる。


【第二インタナショナル創立】

 1889.7月、社会主義者の国際的連合体として、パリで開催された国際社会主義者大会で「第二インターナショナル」創設を決議。第一インターの解散後、各国別に運動を展開していた各国の社会主義者たちが、「フランス革命百年祭」を契機に再び結集、19カ国の代表によって第二インターナショナルが結成された。第二インターは右派系の社民政党が中心で、特にドイツ社会民主党が指導的な地位を占めていた。


 ドイツ社会民主党が、社会主義鎮圧法(一八七八〜九〇年)下の非合法状態から解放された直後の帝国議会選挙(一八九〇年二月)において、一挙に投票総数の約二〇%、三五議席を獲得。その後、「民主主義とは何よりもまず政治的自由と議会主義を意味するに至った」として、マルクス主義に民主主義的概念の尊重という重点移動を見せた。


【ベルンシュタインの「修正主義理論」が登場する】

 社会民主党内から新たなマルクス主義批判が生まれてきた。それがベルンシュタインの「修正主義理論」であった。 

 ベルンシュタインは、マルクスの予言に反して労働者階級の生活水準が上昇しており、ブルジョアジーやプロレタリアートの中間層に経営管理者や官吏(サラリーマン)のような中産階級が出現していることを指摘して、マルクス主義を修正しようとした。彼によれば、社会主義は望ましいものであるが、法則不可避的なものではない。したがって、社会主義者は、当面の課題として、労働者階級の日常的利益に力を注ぐべきという理論であった。

 ベルンシュタインは、左派的な「社会の革命的転覆の戦略とプロレタリアートの階級独裁の思想、武装蜂起主義的な革命論、プロレタリア独裁理論」を批判した。あるいは超右派的な「資本主義の崩壊と社会革命の必然的到来をひたすら待機する思想」も批判した。代わって、「不断の前進の戦略―改良の戦略」に基づく「漸進的(ぜんしんてき)な改革、改良主義、議会主義」が社会変革の手段として選択すべき課題として提起した。

 ベルンシュタインの「修正主義理論」は、現存する社会体制と国家機構、運動体の組織や思想の持つ巨大な既成性に日常的に取り囲まれていること、またそれらにある程度「取りこまれる」ことなしには、それらを利用することもできず、その結果、この戦略主体自身がこの「既成性」の一部に知らずして変容してしまうという新たな悪魔的矛盾に社会民主党を捲きこむこととなった。事実、第一次世界大戦に遭遇して、第二インタナショナルの「戦争と植民地問題」に於ける無能を晒すことになった。 

 ベルンシュタインのこうした理論的提起、思想は、結果として、ドイツの社会主義運動のなかでは多数派とはならず、敗北する。しかし、ベルンシュタイン理論は、第一次大戦後の社会主義運動の激動期に復活する。それを否定したレーニン主義の登場により、マルクス・レーニン主義からの決別といった道を通じてその後の社会民主主義政党の魁(さきがけ)となる。


 1890年、ビスマルクによって制定された「社会主義者取締法」が労働者の批判の前に撤廃されることになる。


 1890年、ハレで社会民主労働者党の党大会が開かれ、「勝利の大会」。ヴィルヘルム・リープクネヒトが大会を代表し報告している。


【エンゲルスが「ゴータ綱領批判」、「エルフルト綱領批判」を発表】

 1891.1月、エンゲルスが、「社会民主党綱領批判について」という表題で「ゴータ綱領批判」を「ノイエ・ツァイト」に公表、出版した。続いて、党機関紙「フォアヴェルツ」にも掲載された。エンゲルスは続いて、ドイツ社会民主党執行部の求めに応じて、執行部内で練られた草案に対する批判書として「エルフルト綱領批判」を書き上げている。この時エンゲルスは、社会民主党内からラッサール主義からの脱却をはからせようとしていた。

 社会主義労働党は、選挙における躍進をふまえてエルフルトにおいて新しい綱領を採択し、党名を社会民主党に変える。この時の綱領草案は、前段が、カール・カウツキーが執筆し、後段はベルンシュタインが執筆したとされている。エンゲルスの批判をほぼ全面的に取り入れた綱領というふれ込みで、ゴータ綱領批判を通じてマルクスが指摘した革命の命題や、その後エンゲルスが指し示した社会民主主義政党の役割の明確化などを多く盛り込んだものとなった。当事者たちは、ラッサール主義から離れ、マルクス主義的綱領にたどり着いたと宣伝された。この綱領が、その後の第二インターナショナルに結集する社会主義政党の綱領の見本となる。

 しかし、エンゲルスは、この綱領草案に対しても批判的検討を加えている。評価した部分は、社会主義の不可避性、労働者階級の政治闘争の重要性、党の指導的役割、労働者階級の権力の獲得の必要性等が明記されたことであった。批判的な部分は、当時の権力支配の要をなす君主制否定の見地が弱く、議会制民主主義制度に立脚した民主共和制国家に対する無原則性にあった。「エルフルト綱領批判」として出版される。


 穏健派と急進派が合同。第2回大会を開く。


 1891.10.14日、エルフルトで党大会が開かれ、提出された草案や提案を審議する綱領委員会が21名の委員で設置された。リープクネヒトが委員会を代表し報告を行っている。 第一インターの場合と異なり、何らの中央機関をもたず、毎年大会を開くことだけで足りる機関と化した。但し、漸次バクーニン派系アナーキストや非議会主義者を清算していくことになる。


 1895年、エンゲルス死去。


 これより以降は、マルクス主義運動通史その2、第二インター時代





(私論.私見)