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解説 |
マルクスのhttp://www.geocities.jp/okegawax/text-philmarx.htmより |
人間に宗教を持たざるを得なくしているのは、人間のおかれた社会状況の矛盾にある。とすれば、その社会を変えなくてはならない。そのさいマルクスが考えていたのは、単に国家レベルでの政治的な改革ではない。このことを問題にしたのが上の「ヘーゲル法哲学批判」と同時に発表された「ユダヤ人問題によせて」(1844)という論文だ。
マルクスは「社会」を二つのレベルでとらえている。「国家」と「市民社会」だ。「市民社会」とは、個人個人が労働して生活したり、それぞれの利害関心にしたがって取引したりしている、いわば経済的レベルでの社会だ。「国家」とは、そうした個人の利害関心を法によって調整し、トラブルが起きないように保護している政治レベルでの社会だ。
マルクスが人間の社会的状況を変革しなければならないと言うとき、それは、単に政治的なレベルで「自由」や「平等」が保証されることではない。「国家」が法律の上でどれだけ「自由」「平等」を保証したとしても、実際に人間が自由で平等になるわけではない。ここが「市民(ブルジョワ)革命」とマルクスが目指した革命の違いだ。
この論文では、この問題がドイツのユダヤ人問題をとおして論じられている。当時ヨーロッパには多くのユダヤ人が住んでいた。彼らははるか昔に国家を失っているにもかかわらず、民族としての同一性を固く持っていて、独自の生活スタイルを築きながら共同生活を送っていた。そしてそんなユダヤ人に対してキリスト教国であるドイツは、政治的な様々な制限を課していた。
さて、このユダヤ人問題について、ヘーゲル左派の中心的存在だったブルーノ・バウワー(Bruno
Bauer)がすでに意見を発表していた。そして、マルクスのこの論文は、バウワーの見解を批判するものだった。
バウワーの見解は次のようなものだ。ドイツはキリスト教国家であるのに対して、ドイツに住むユダヤ人はユダヤ教徒なのでキリスト教国家に従えない面をもっている。だとすれば、国家の法に従わない以上、ユダヤ教徒が国内である程度政治的な制限(選挙権など)を受けるのは当然だ。したがって、ユダヤ人が解放されるためには、ドイツがキリスト教を国教とする体制をやめ、かつ、同時にユダヤ人もユダヤ教に固執するのをやめなければならない。キリスト教徒とユダヤ教徒が宗教をやめれば、ドイツのすべての人は自由・平等を得るし、当然その中でユダヤ人も自由・平等を獲得するだろう。こうして、バウワーは、自由で平等な社会の実現を、阻んでいるのは宗教であるという結論に達する。宗教批判の一つの形である。
しかし、マルクスはそうは考えない。はたしてバウワーの言うとおりだろうか。たとえば、アメリカ合衆国では、国民の大多数は宗教をもっていて、しかもきわめて熱心だ。しかし、早くから自由と平等が確立し、国家はユダヤ人を全く平等に扱っている。ということは、宗教を捨てなくても国家レベルでの自由・平等は実現可能なのだ。とは言え、マルクスはアメリカをほめているのではない。アメリカ人が宗教を持っているということは、アメリカ社会のどこかに欠陥があるということだ。それは国家のレベルの問題ではない。それは実は市民社会のレベルの問題なのだ。
完成した政治的解放は宗教にたいしてどうふるまうか?政治的解放の完成した国においてさえ宗教がたんに存在しているばかりでなく、若々しく力づよく存在していることがわかったとすれば、宗教がそこに存在していることはなにも国家の完成と矛盾するものではないという証明が行われたことになる。ところで宗教がそこに存在することはある欠陥がそこに存在しているということであるから、この欠陥の源は、もはやただ国家そのものの本質のなかにしかもとめることができない。われわれにとって宗教は、もはや現世的偏狭の根拠とは考えられず、ただそれの現象であると考えられるにすぎない。だからわれわれは、自由な公民の宗教的な偏見を、彼らの現世的な偏見から説明する。われわれは、自由な公民が自分たちの現世の障壁を除くやいなや宗教的偏見をもすてると主張するのである。
(『マルクス=エンゲルス全集』第1巻、大月書店、389-90頁)
マルクスが言わんとすることを整理して見よう。
@国家が人間に法的な自由と平等を与える(政治的な解放のレベル)――ブルーノ・バウワーはこのレベルで議論している。
Aだが、このレベルで自由・平等が実現しても、現実には人間は自由でも平等でもない。なぜなら、市民社会には政治から自律した経済原理が働いていて、そこでは私有制にもとずく自由な利益追求が行われているために、富が公平に分配されず、富む人はますます富み、貧しい人はますます貧しいという状況があるからだ。
B宗教の問題は、国家のレベルでの自由・平等とは実は無関係だ。合衆国のように国家のレベルで自由・平等が実現していても、宗教を持つ国はある。宗教の問題と深い関わりをもっているのは、現実の市民社会のレベルだ。合衆国は、市民社会のレベルは自由でも平等でもない。だから宗教が発生するのだ。
Cこの場合、宗教は市民社会での人間の状況の原因(根拠)ではなく、その結果(現象)である。人間が悲惨な状況にあるために宗教が求められるというわけだ。
Dしたがって、バウワーは二重に間違っていることになる。まず人が宗教を捨て、それによって国家レベルでの自由や平等が実現するという順序が間違っており、国家レベルでの自由や平等の実現を人間の解放だと考えている点でも間違っている。実際は、まず市民社会レベルでの経済的抑圧から人間が解放され、そのことによって、人間は自然に宗教を持つ必要がなくなるのだ。
こうしてマルクスの目は、国家レベルでの改革ではなく、市民社会の経済的な構造の改革へと向けられていくことになる。
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(私論.私見)