マルクス資本論の史的意義考

 (最新見直し2008.8.14日)

Re:れんだいこのかんてら時評250 れんだいこ 2007/01/18
 【マルクス資本論の史的意義考】

 幸か不幸かれんだいこは齢60を前にして嵌ってしまったけれども、今時、マルクス資本論を読んでなんになると云うのか。それは既に歴史博物館入りしているのではないのか。否、ますます生命力を保持しているのとでも云うのだろうか。ここがまず問われねばならない。実際どうなのだろう。

 その前に、マルクス資本論はどれだけ正確に理解されてきたのだろうか、ここが問われねばならない。聞くところによるアインシュタインの相対性理論に似て、マルクス資本論はその字義通りに読まれていない可能性もある。

 それはともかくとして、日本人の場合、マルクス資本論の意義を問う前に、和訳本が正しく訳してきただろうかが更に問われねばならない。れんだいこは、マルクス資本論の和訳に着手してみて、「共産主義者の宣言」、「ユダヤ人問題について」同様に、既成の訳本では意味がますます以って分からないだろうと云うことが分かった。

 訳がこれだけ違うのなら、今後は誰それ訳のマルクス資本論として流布せしめねば不当だろう。それは何もマルクス資本論に限らず、文化圏の違う書物の訳本全てに共通適用させるべき作法かも知れない。和訳本は決して信用できない。こういうことが分かった。

 それはともかく、マルクス資本論の解読に勤しんだインテリは五万と居るだろうが、なぜ定訳本を生み出さないのだろう。大学の経済学部にはマル経の講座があった由であるが、彼らはせめて資本論の翻訳テキストぐらいは定本化しておけば良いのに。そういう時間はあったろうに。

 様々な訳本が巷にあるのであれば、知恵を結集して誤訳訂正ないしはより適正訳で共同テキスト策定しておけば良いのに。キリスト教聖書がそのようにして出版されていることを思えば、定本ができないことはないだろうに。それとも何か、そういうものを作り出すのは宗教的とでも云って内部から営為を排斥するのだろうか。

 俺は原本派だからそういうものは不要と強がるのもオカシイ。たいした理解能力が無かったことを間接的に証しているのではなかろうか。なぜなら、優れた内容のものを読み取った者は本能的に、それを広めることを希求するものだから。その希求欲が無いということは、あまり意味が分かっていないことを知られるのを恐れる気持ちの方が勝っているだけのことではないのか。

 それはともかく、れんだいこには比較する能力が無いので何とも言いにくいが、経済学というのはこういう風にちまちまと一から論証していくものなのだろうか。マルクス的知の真骨頂であり、誰かが為さねばならない企てだったかも知れない。その点は高く評価する。が、れんだいこには、マルクス資本論の一から説き起こし最終的に全てを解明する式の論理立てと意気込みがまばゆいというよりは却ってこそばゆい。疲れる。
 
 それはまぁ良いとしても、「マルクス資本論の試み」は、我々に何を語っているのだろうか。第一章辺りを読み取ったぐらいで意見を云うのは早いかも知れないが、「半面真理」のようなものでしかないと思っている。それが資本の搾取理論に傾斜し過ぎた為、資本のもう一つの役割である雇用面を軽視し過ぎ、そのことが左派運動全体に奇形をもたらしたと思っている。

 いずれにせよ、この種の社会分析が十分になされると云うことは永久に無いとみなして弁えるべきところを、マルクスは異常とも云うべき情熱で、社会の総体分析の決定版として取り組んでいるように見える。その熱意に、れんだいこはむしろ魂消る。

 それはまぁ良いとしても、日本左派運動は、その資本論をどう遇してきたのだろうか。想定されるのは、読みもしないで、否読んではいるが碌に理解もしていないのに、否理解したからと云ってどうなるものでもないのに、資本論を「全てを解き明かす究極真理のバイブル」と崇め奉って、神棚に供えてきたのではなかろうか。それを思えば滑稽でさえある。

 れんだいこは、神棚に供えたままの資本論では意味が無いと思い、こたびそのご神体を手元に戻して解析に挑んだ。一応第一章第一節、二節辺りを読み進め、第3章の半ば辺りまで訳すに至っている。第3章になると急に妙に長たらしい構文が増えてきて、れんだいこの訳力ではどうにもならない。内容的にも迷路に入るばかりである。何度も読み返し、腕組みしながら思慮すれば理解が伴い、適訳を見出せるのであろうが時間が無い。それに能力が伴わない。そういう訳で、この辺りでひとまず退散することにする。

 それはそれとして、資本論は人民大衆的に読み語り継ぐべきだろうか。一部の学者に任せておけば良いのだろうか。れんだいこは今そのことを考えている。どうしても普及せねばならないものならば、れんだいこは意地でも最後までお付き合いして訳本を完成させねばならない。今は、その意義を評する確信がないので、ここで頓挫させることにする。

 ただ、こうは云える。マルクス主義の集大成作であるマルクス資本論に対して、これをよく読み且つよく精通している者がマルクス主義政党の指導者として登場するのが筋だろう。実際はどうも違うようだ。マルクス資本論とは無縁の指導者が、マルクス主義の名と権威を借りて、非マルクス主義的弁舌を振りまいているという現実がある。日共の宮顕−不破ラインの指導はそのようなものである。

 かの連中は、1955年の六全協で宮廷革命で奪権した異筋の闖入者でしかない。れんだいこが断言するが、日共の宮顕−不破ラインの指導は断じて左派のそれではない。連中の言説に丸め込まれると左派脳がやられることを請合う。だから、本当は、指導者の地位に就かせるべきではなかった。

 この物言いが嘘と思うのなら、現下日共の何でも良い、これは正しい指導だろうと思うものを挙げてみたまえ。れんだいこが悉く反証して進ぜよう。そういう連中の指導によって、日共は既に五十有余年にわたって変調指導をし続けており、自民党も驚く長期安定不倒権力を樹立しているのが現実だ。この認識がなかなか共有できない。

 他方、そういう日共党中央の変質に対抗して生まれた急進主義左派党派も冴えない。思うに、連中は、マルクス資本論をご神体にして、マルクスもどきの社会観世界観で武装してきただけのことではないのか。日共のそれと比べて五十歩百歩ではないのか。だから、前衛の地位を日共にとって代わると公言しながら未だに並び立つことさえできず後塵を拝するばかりなのではないのか。

 ここにきてどうやらマルクス教条主義の虚構も見えてきた。マルクス資本論の例で言えば、一体、当のマルクスさえ未完に終わらざるを得なかった、かの大それた試みでしかないマルクス資本論を真理本であるかのようにご神体にしてどうなるというのか。ご神体を供えて、信仰しているかのように気取ってきただけではないのか。本当は、マルクス資本論は学問的に精通するぐらいで良いのだ。精通したふりをすることはないのだ。

 れんだいこは何を云いたいのか。我々はもう、いったんはマルクスを横に置いて、マルクスよりもマルクスらしい新派の運動始めようや、これである。マルクス主義の歴史的制約、変調さをも見据え、特にそのネオ・シオニズム的思想圏のしがらみから抜け出し、在地型社会主義とでも云うべき新思想を生み出そうや。これである。そうとならば、史上の有益なその他思想をも左派的に取り込み、そのエッセンスを抽出して、ザ・左派運動つうものを新創造せしめようではないか。

 この精神に基づく運動は、喧々諤々の、異論、異端大いに結構の競り合い式共同戦線運動を生み出すもので無ければならない。著作権如意棒を振り回すものであってはならない。人民大衆の知の啓蒙と生活上の活性化を生み出すもので無ければならない。政治と正面から取り組み、いつしか我々が権力を掌握するものでなければならない。そういう思想と運動を獲得しようではないか。これを一応左派ルネサンス運動と仮称する。目下の左派運動は余りにも矮小であり、ルネサンス性が無さ過ぎる。

 方や、今や我が日本の与党権力は、自由、自主、自律的なルネサンス型政治能力を全く欠如しており、ひたすらネオ・シオニズムの傀儡政権化への水先案内に勤しんでいる。自ら好んで売国奴化し、そうすることで自らの権力と地位の安泰を図ろうとしている。誰しも避けられない寿命を考えれば泡沫でしかないのに、そういう小権力に与ろうとしており醜悪極まりない。

 戦後タカ派の生態とはまさにそのようなものであり、品格が悪過ぎる。彼らは、云われるままに教育基本法改正、憲法改正、自衛隊の傭兵的武装派兵、増税による人民大衆の一層の貧困化、それに伴う志願兵化の道を敷こうとする請負師である。まもなく、チェイニー副大統領が来日するようだが、何かきっと重大事を催促されることだろう。

 我々は、この動きに指を加えてただ見ているだけでよいのだろうか。そこが問われているのではなかろうか。れんだいこは、この問いに答える一助になればと思い、マルクス資本論の解読に着手したが、道が遠過ぎる。一体全体難し過ぎる。ちょっとやそっとでは履修できない。そういう訳で、引き続き宿題にしつつ、目前の関心事に対し、我々の頭脳で紡ぐ左派思想と運動を創造した方が賢明と思うようになった。こう理解できたのが唯一の収穫だったと云えるかも知れない。

 そうとならば、この間次第に網がかけられつつある我が国家の予防取締法的法律の繰り出しに断然抗議する事にする。阿呆が政治を牛耳れば、人民大衆生活がますます締め上げられる方向にのみ精出すのは歴史の通例だ。こうして、いわゆる窮屈な社会が生まれつつあるが、その道は違うと乱打する太鼓を打ち鳴らし続けたい。

 先の首相小ネズミ一派が返り咲きを狙って蠢動している。安部政権は、野党によってではなく小ネズミ一派によって潰されようとしている。これでいいのか日本、そこが問われている。

 2007.1.18日 れんだいこ拝




(私論.私見)