「フォイエルバッハ・テーゼ」
フォイエルバッハに関するテーゼ
1845: Theses on Feuerbach

 (最新見直し2012.05.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004.1.8日、人生学院掲示板で、疲労蓄積研究者さんより「George Novack Introduction to the Logic of Marxism」サイトの紹介を受けた。目を通していくうちに 「フォイエルバッハ・テーゼ(Theses On Feuerbach)」に辿り着いた。これを参照しつつマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」を読み解くことにする。

 もっとも、原文は独語であるから、この英訳文がどこまで正確なのかという問題の余地は残る。我が「左往来人生学院」掲示板の常連投稿士・疲労蓄積研究者氏は追伸で、「念のためいっておきますが、www.marxists.orgにある訳も盲信すべきではありません。www.marxists.orgには、モスクワのProgress社の訳が多く含まれています。モスクワの翻訳であるということで、国民文庫と同様に批判的に読まなくてはなりません」と補足してくれている。

 なお丁度折りも折、インターネット検索で、永江良一氏訳出のフォイエルバッハに関するテーゼに遭遇した。何と、マルクスオリジナル版「http://gutenberg.aol.de/marx/feuerbac/me03_005.htm」の和訳「マルクスのオリジナル版」とエンゲルス校訂版「http://gutenberg.aol.de/marx/thesen.htm」の和訳「エンゲルス校訂版」という両面から意義あるサイトアップしている。その違いの考察も含めて為になった。れんだいこの和訳文作成の際に参考にさせていただき感謝している。御礼を申し添えておきます。

 この過程で、「プロジェクト杉田玄白」を知った。「プロジェクト杉田玄白というのは、いろんな文章を勝手に翻訳して公開しちゃうプロジェクトなのだ。プロジェクトグーテンベルグや、青空文庫の翻訳版だと思って欲しい。日本は翻訳文化だといわれるけれど、それならいろんな翻訳が手軽に入手できるようにすることで、もっともっと文化的な発展ができるようになるだろう」とある。誠に有り難く、れんだいこは随喜の涙を滂沱した。

 という訳で、ここにれんだいこ初のマルクス文献和訳文が誕生しました。「フォイエルバッハ・テーゼ」がその記念作になりました。どうぞ皆さん、「ノン著作権、ノン翻訳権、引用、転載、リンク全てフリー」にしておりますのでご活用ください。訳出上の不出来なところはご指摘ください。大いに検討させていただこうと思います。

 2004.1.10日 れんだいこ拝


【れんだいこ和訳一括文】
(1―1)  これまで存在してきたあれこれの唯物論―フォイエルバッハのそれも含めて―の主要欠陥は、事象、現実、感性を、客観あるいは沈思黙考の形式のもとにのみ了解していることにある。しかし、生身の感性的な人間の活動、実践として理解せず、主体的に把握しようとしていない。これが為に、唯物論との比較で云えば、人間の活動的側面は観念論の側から抽象的に解明されてきた。そういう訳で、生身の感性的な活動をあるがままに捉えるという真の(リアル)の認識には至らない。
(1―2)  フォイエルバッハは、思考諸対象から厳密に区別された生身の感性的な対象を欲する。しかし彼は、人間の行動それ自体を対象としつつも人間的行動そのものを客観化させる方法では理解しなかった。それ故、「キリスト教の本質」の中で、彼は、理論的態度を唯一の本来の人間的な態度としてみなした。この構図の中で、実践を卑しいユダヤ人的なふるまいの面でのみ理解し、そういう理解に固執した。それ故、彼は、「革命的な」、「実践的−批判的な」行動の持つ重要な意義を把握しない。
(2)  客観的な真実が人間の思考に到達できるかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践的な問題なのである。人は、彼の思考の良し悪しにつき、実践という土俵で現実的であるか威力を持つかを証明しなければならない。実践から遊離した思考が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのである。
(3)  環境としつけの変化に関する唯物論者の教条は、環境が人間によって変えられ、教育者自身が教育されることが肝要であることを忘れている。この教条は、そういう諸々の理由で、社会を二つの部分に分けることになる。その片方が社会で優勢支配的なものとなっている。環境の改変と人間の行動あるいは自己変革の同時的一致は、革命的な実践を通じてのみ了解されることができるし、合理的に理解されることになる。
(4)  フォイエルバッハは、宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的なそれという世界の二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的基盤へ引き込み解決せんと欲している。しかし、自ら分離し合っており、自身を雲上の独立王国として確立している世俗的基盤は、この世俗的基盤内の分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。時の経過が、そういう訳で、世俗的基盤上で、その矛盾のままに理解されつつ同時にまた実践で革命的に解決されねばならないことになる。こうして、例えば、地上の家族が聖なる家族の秘密に転じた経緯が暴かれた後にやってくるのは、今度は、地上の家族が地上の家族のままに理論と実践で破壊されなければならないことになる。
(5)  フォイエルバッハは抽象的思考には満足せず、沈思黙考を欲する。しかし彼は、生身の感性的なるものを、実践的及び人間的な生身の感性的な行動としてとらえていない。
(6―1)  フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質の中で解決する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、人間の本質は社会的な諸関係の総体なのである。
(6―2)  フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に立ち入ろうとしておらず、それゆえ無理矢理に次のように強いている。1.歴史的経過を捨象し、自身が何らかの形で宗教的心情に拘泥し、抽象的にされた人間的個人という概念に拘束されている。2.本質が、そういう訳で、単に「類」としてのみ、多くの個人を自然に結びつけている普遍性を内的に且つあまり役に立たない形において把握されている。
(7)  フォイエルバッハは、それ故、「宗教的心情」がそれ自身社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には社会の特殊形態に属することを見ていない。
(8)  すべての社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的な解決が見出されるのである。
(9)  思索的唯物論、すなわち生身の感性を実践的行動として理解しない唯物論が到達した観点の最高レベルのものは、せいぜい個々の個人と市民社会相手の思索である。
(10)  古い唯物論の観点は、市民社会を想定して論じている。新しい唯物論は、人間社会あるいは社会的人間を見据えている。
(11)  哲学者たちはこれまで様々な手法で世界を解釈ばかりしてきた。肝心なことは世界を変革することであるのに。


【逐条和訳解析文】
(I)(1―1)
独原文
英訳文  The chief defect of all hitherto existing materialism - that of Feuerbach included - is that the thing, reality, sensuousness, is conceived only in the form of the object or of contemplation, but not as sensuous human activity, practice, not subjectively.

 Hence, in contradistinction to materialism, the active side was developed abstractly by idealism -- which, of course, does not know real, sensuous activity as such.
(れんだいこ和訳文)
 これまで存在してきたあれこれの唯物論―フォイエルバッハのそれも含めて―の主要欠陥は、事象、現実、感性を、客観あるいは沈思黙考の形式のもとにのみ了解していることにある。しかし、生身の感性的な人間の活動、実践として理解せず、主体的に把握しようとしていない。

 これがために、唯物論との比較で云えば、人間の活動的側面は観念論の側から抽象的に解明されてきた。―そういう訳で、生身の感性的な活動をあるがままに捉えるという真の(リアル)の認識には至らない。
(備考) the thingを事象, realityを現実, sensuousnessを感性、object を客観、 contemplationを沈思黙考、sensuous human activityを生身の感性的な人間の活動、practiceを実践、subjectivelyを主体的、abstractlyを抽象的に、which, of courseをそういう訳で、realを真に、as suchをあるがままに、と訳した。
(I)(1―2)
独原文
英訳文  Feuerbach wants sensuous objects, really distinct from the thought objects, but he does not conceive human activity itself as objective activity.

 Hence, in The Essence of Christianity, he regards the theoretical attitude as the only genuinely human attitude, while practice is conceived and fixed only in its dirty-judaical manifestation.

 Hence he does not grasp the significance of "revolutionary", of "practical-critical", activity.
(れんだいこ和訳文)
 フォイエルバッハは、思考諸対象から厳密に区別された生身の感性的な対象を欲する。しかし彼は、人間の行動それ自体を対象としつつも人間的行動そのものを客観化させる方法では理解しなかった。

 それゆえ、「キリスト教の本質」の中で、彼は、理論的態度を唯一の本来の人間的な態度としてみなした。この構図の中で、実践を卑しいユダヤ人的なふるまいの面でのみ理解し、そういう理解に固執した。

 それゆえ、彼は「革命的な」、「実践的−批判的な」行動の持つ重要な意義を把握しない。
(備考) human activity itselfを人間の行動それ自体、as objective activityを人間的行動そのものを客観化させる方法で、henceをそれゆえ, dirty-judaical manifestationを卑しいユダヤ人的なふるまい、fixを固執する、 whileをこの構図の中で、 theoretical attitudeを理論的態度、 genuinely human attitudeを本来の人間的なもの、graspを把握する、と訳した。
II )(2)
独原文
英訳文  The question whether objective truth can be attributed to human thinking is not a question of theory but is a practical question.

 Man must prove the truth ? i.e. the reality and power, the this-sidedness of his thinking in practice.

 The dispute over the reality or non-reality of thinking that is isolated from practice is a purely scholastic question.
(れんだいこ和訳文)
 客観的な真実が人間の思考に到達できるかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践的な問題なのである。

 人は、彼の思考の良し悪しにつき、実践という土俵で現実的であるか威力を持つかを証明しなければならない。

 実践から遊離した思考が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのである。
(備考) objective truthを客観的な真実、this-sidedness of his thinkingを彼の思考の良し悪し、in practiceを実践という土俵で、realityを現実的、powerを威力、と訳した。
III )(3)
独原文
英訳文  The materialist doctrine concerning the changing of circumstances and upbringing forgets that circumstances are changed by men and that it is essential to educate the educator himself.

 This doctrine must, therefore, divide society into two parts, one of which is superior to society.

 The coincidence of the changing of circumstances and of human activity or self-changing can be conceived and rationally understood only as revolutionary practice.
(れんだいこ和訳文)
 環境としつけの変化に関する唯物論者の教条は、環境が人間によって変えられ、教育者自身が教育されることが肝要であることを忘れている。

 この教条は、そういう諸々の理由で、社会を二つの部分に分けることになる。その片方が社会で優勢支配的なものとなっている。

 環境の改変と人間の行動あるいは自己変革の同時的一致は、革命的な実践を通じてのみ了解されることができるし、合理的に理解されることになる。
(備考) upbringingを躾(しつけ)、doctrineを教条、educatorを教育者、essentialを肝要、thereforeをそういう諸々の理由で、one of whichをその片方、superiorを優勢支配的、coincidenceを同時的一致、self-changingを自己変革、as revolutionary practiceを革命的な実践を通じて、rationally understoodを合理的に理解、と訳した。
(IV )(4)
独原文
英訳文  Feuerbach starts out from the fact of religious self-alienation, of the duplication of the world into a religious world and a secular one.

 His work consists in resolving the religious world into its secular basis.

 But that the secular basis detaches itself from itself and establishes itself as an independent realm in the clouds can only be explained by the cleavages and self-contradictions within this secular basis.

 The latter must, therefore, in itself be both understood in its contradiction and revolutionized in practice.

 Thus, for instance, after the earthly family is discovered to be the secret of the holy family, the former must then itself be destroyed in theory and in practice.
(れんだいこ和訳文)
 フォイエルバッハは、宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的なそれという世界の二重化という事実から出発する。

 彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的基盤へ引き込み解決せんと欲している。

 しかし、自ら分離し合っており、自身を雲上の独立王国として確立している世俗的基盤は、この世俗的基盤内の分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。

 時の経過が、そういう訳で、世俗的基盤上で、その矛盾のままに理解されつつ同時にまた実践で革命的に解決されねばならないことになる。

 こうして、例えば、地上の家族が聖なる家族の秘密に転じた経緯が暴かれた後にやってくるのは、今度は、地上の家族が地上の家族のままに理論と実践で破壊されなければならないことになる。
(備考) religious self-alienationを宗教的自己疎外、secularを世俗的、duplication of the worldを世界の二重化、basisを基盤、in resolvingを引き込む、consistsを解決せんと欲する、detachesを分離、realmを王国、 cleavagesを分裂、self-contradictionsを自己矛盾、The latterを時の経過、 to beを転じた経緯、と訳した。
(V )(5)
独原文
英訳文  Feuerbach, not satisfied with abstract thinking, wants contemplation; but he does not conceive sensuousness as practical, human-sensuous activity.
(れんだいこ和訳文)
 フォイエルバッハは抽象的思考には満足せず、沈思黙考を欲する。しかし彼は、生身の感性的なるものを、実践的及び人間的な生身の感性的な行動としてとらえていない。
(備考) abstract thinkingを抽象的思考、と訳した。
(VI )(6―1)
独原文
英訳文  Feuerbach resolves the religious essence into the human essence.

 But the human essence is no abstraction inherent in each single individual.

 In its reality it is the ensemble of the social relations.
(れんだいこ和訳文)
和訳文
 フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質の中で解決する。

 しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。

 現実には、人間の本質は社会的な諸関係の総体なのである。
(備考) inherentを内在、In its realityを現実には、social relationsを社会的な諸関係、 ensembleを総体、と訳した。
(6―2)
独原文
英訳文  Feuerbach, who does not enter upon a criticism of this real essence, is consequently compelled:

 To abstract from the historical process and to fix the religious sentiment as something by itself and to presuppose an abstract - isolated - human individual.

 Essence, therefore, can be comprehended only as "genus", as an internal, dumb generality which naturally unites the many individuals.
(れんだいこ和訳文)
 フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に立ち入ろうとしておらず、それゆえ無理矢理に次のように強いている。

1.歴史的経過を捨象し、自身が何らかの形で宗教的心情に拘泥し、抽象的にされた人間的個人という概念に拘束されている。

2.本質が、そういう訳で、単に「類」としてのみ、多くの個人を自然に結びつけている普遍性を内的に且つあまり役に立たない形において把握されている。
(備考) consequently compelledを無理矢理に強いる、abstractを捨象、as something by itselfを自身が何らかの形で、presupposeを拘束、genusを類、と訳した。
VII )(7)
独原文
英訳文  Feuerbach, consequently, does not see that the "religious sentiment" is itself a social product, and that the abstract individual whom he analyses belongs to a particular form of society.
(れんだいこ和訳文)
 フォイエルバッハは、それゆえ、「宗教的心情」がそれ自身社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には社会の特殊形態に属することを見ていない。
(備考) consequentlyをそれゆえ、religious sentimentを宗教的心情、particular form of societyを社会の特殊形態、と訳した。
VIII )(8)
独原文
英訳文  All social life is essentially practical.

 All mysteries which lead theory to mysticism find their rational solution in human practice and in the comprehension of this practice.
(れんだいこ和訳文)
 すべての社会的生活は本質的に実践的である。

 理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的な解決が見出されるのである。
(備考)
(IX )(9)
独原文
英訳文  The highest point reached by contemplative materialism, that is, materialism which does not comprehend sensuousness as practical activity, is contemplation of single individuals and of civil society.
(れんだいこ和訳文)
 思索的唯物論、すなわち生身の感性を実践的行動として理解しない唯物論が到達した観点の最高レベルのものは、せいぜい個々の個人と市民社会相手の思索である。
(備考) contemplative materialismを思索的唯物論、と訳した。
(X )(10)
独原文
英訳文  The standpoint of the old materialism is civil society; the standpoint of the new is human society, or social humanity.
(れんだいこ和訳文)
 古い唯物論の観点は、市民社会を想定して論じている。新しい唯物論は、人間社会あるいは社会的人間を見据えている。
(備考)
(XI )(11)
独原文
英訳文

 The philosophers have only interpreted the world, in various ways; the point is to change it.

(れんだいこ和訳文)
 哲学者たちはこれまで様々な手法で世界を解釈ばかりしてきた。肝心なことは世界を変革することであるのに。
(備考) onlyをばかり、と訳出した。
 Written: Spring 1845
 First Published: As an Appendix to Engels' Ludwig Feuerbach and the End of Classical German Philosophy, 1886.
 Source: Marx/Engels Selected Works, Volume One, p. 13 - 15
 Publisher: Progress Publishers, Moscow, USSR, 1969
 Translated: W. Lough from the German
 Transcription/Markup: Zodiac/Brian Basgen
 Copyleft: Marx/Engels Internet Archive (marxists.org) 1995, 1999, 2002. Permission is granted to copy and/or distribute this document under the terms of the GNU Free Documentation License.




(私論.私見)