予備論考その1、社会とは何か、社会主義、共産主義思想の基底に有る社会認識は何か考 |
(最新見直し2010.10.30日)
【「社会主義、共産主義思想を廻る或る対話」】 | ||||||||||||||||
きたきたぽんさんの疑問への雑感 | れんだいこ | 2004/02/23 | ||||||||||||||
2004.2.23日、れんだいこの「左往来人生学院」で、投稿者・きたきたぽん氏とれんだいこの間で次のような質疑が為された。この要点を掲載しておく。
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【社会認識、分析の重要性】 |
「村岡到論文集・ロゴスの会」の「『社会』を規定する意味――経済と政治との明別が導く新地平」で次のような論及が為されている。「社会とは何か」を考える際の予備的知識として参考になる。 村岡氏論文は、「月や花の定義は分からなくても、月や花の美しさを実感することはできる」という逸話の紹介から論を説き起こしている。これによれば、偏狭な社会科学理論なぞ却って有害になるという戒めとなる。確かに、「人間は長いあいだ、自分が生きている社会が何かと定義しなくても生活してきた。とはいえ、今日ではそれだけでは人類は生存していけなくなった。社会が複雑になり、同時に多くの異なる社会が緊密に関連するようになったからである」。ここに社会学、社会科学の必要性が生まれている。今我々の社会が人類史の歩みの中の位置付けにおいて「どういう社会あるいは国家なのかを明確に認識すること」が必要であり、この正確な認識が「そこで生起している政治的動向を理解したり、国家的対立を解決する」処方箋に資することになる。概要以上のような構図で、社会認識、分析の重要性を説いている。 |
【「社会概念の発見」について】 |
村岡氏論文に拠れば、それまでは「世間」とか「世の中」と言われていたが、1875(明治8)年「東京日日新聞」の社長兼主筆の福地源一郎がsociety の訳語として初めて「社会」という言葉を生み出し、以降これが一般化した。世の中で起きるさまざまな出来事を「社会の問題」として認識するようになったのは、ヨーロッパにおいてもそれほど大昔からではない。福田徳三は1922(大正11)年に書いた「社会政策序論」の第1章に「『社会』の発見」を置き、その冒頭で「『社会』の発見」を「人類の発見の最大の一つに数えるべきもの」と強調している、と云う。 「社会政策序論」の巻頭に配置された板垣與一論文「生存権の社会政策」では次のように書かれている。周知のように、ルネサンスと宗教改革を経て、キリスト教の神から解放されつつあったヨーロッパの人びとは、「個人」を意識するようになった。イタリアのルネサンスのなかで、マキャヴェリが、近代政治学の出発点となった『君主論』を著わしたのが1532年であり、国家論をテーマにしたホッブスの『レヴァイアサン』は1651年に著わされ、フランス革命を思想的に準備した、ルソーの『社会契約論』は1762年に刊行された。 「近代における人類の【理論上の】三大発見は、15、16世紀にはじまる『個人の発見』と『国家の発見』、そして18世紀の末葉から19世紀にかけての『社会の発見』これである」。福田によれば、「『社会』の存在を見出さない前といえども、社会は厳として存していた。したがってその存在を認めることなくしては、解釈しえられざる現象がさまざまあったが、実際生活の上においても、学問上においても、社会を認めないがために、その解釈に苦しんでおった」。「個人と対立するものはみなこれを『国家』に組み入れることが、いずれの国においても普通であった」。<社会の発見>は、この隘路を突破する決定的な水路を切り開いたのである。 |
【「社会の概念規定」のあれこれについて】 | |||||||||||||||||||||||||
「社会とは何か」。「社会学小辞典」では、「(社会とは)多義的な概念であって、抽象的には人間結合ないし生活の共同一般を、具体的にはさまざまな集団生活や包括的な全体社会を、理念的には国家と対立し人類大の広がりをもつ市民社会を、歴史的には一定の発展段階にある社会体制ないしは社会構成体を意味する」と説明されている。 これまで、「社会」はさまざまに特徴づけられ、その視点に応じて様々な社会識別論が唱えられてきた。主なものとして次のような諸説がある。
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【マルクス主義の社会概念について】 | |||
なんと言っても大きな影響を広げてきたのは、マルクスの唯物史観による「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という把握であろう。唯物史観を肯定・受容する者はもちろん、反対する人でもこの区分と用語は踏襲することが多い。以下、マルクス主義により創始された唯物史観の検討に取り組む。
尾高朝雄は、学究時マルクス主義陣営からは「反動」とまで非難されていた法哲学者であるが、唯物史観の意義について次のように書き記している。
加えて、マルクスの非凡性は、史上の様々な有益な観点を出藍的に継承していたところにある。「社会の動態観、歴史の動態観」をマルクスほど鮮やかに引き出した知識人を他に知らない。マルクスは、変化の動力が何かについて考察し、それが経済システムの中にあることを洞察し、「その動力学を『資本論』の経済学として打ち立てたところに偉大さがある。マルクスは当時の社会の基底をなすものを『資本制経済』と捉え、そのメカニズムを解明した」。続いて、歴史学が教えるところ、発生があれば消滅が不可避である。では、資本制社会は如何なる社会システムに取って代わられ出藍されるのかと問うた。社会の内在的合法則性からすれば、原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義と経過した人類史は、共産主義(社会主義)」へと辿り着くであろうと洞察した。これを「歴史の必然性」として強調した。 |
【マルクス主義の源流としてのユートピア思想について】 |
マルクス主義の革命是認思想は見てきたところであるが、この思想的バックボーンとしてユートピア思想があることを見なければならない。れんだいこ史観によれば、「マルクス主義とは、ユートピア思想を『科学』したものである。その果てに実現した社会体制の有効度が、マルクス主義の思想としての能力を語る。良くも悪しくもマルクス主義はこの観点において史的意義がある」。 ところで、ユートピアの語源について確認しておきたい。その出自は、トマス・モアの「ユートピア」に始まる。「ユートピア」は、ギリシャ語の否定の助詞「ウ」と、場所を意味する「トポス」を組み合わせたトマス・モアの造語であり、その意味するところは「どこにもない場所」ということのようである。考えてみれば、この「どこにもない場所」を夢想して史上いくつかの考究が為されてきたように思われる。プラトンの「国家」、キリスト教の「千年王国、神の国」、フランス革命の「自由・平等・博愛」等々。れんだいこは、コロニー型共同体思想もマルクス主義の共産主義もアナーキズムの無政府主義もこの系譜からくる夢想であったことを否定しない。 但し、無視したり忘れてはならないことは、それらの思想を紡ぎ出す背景に被支配階級の社会的救済というヒューマニズムの観点があったということである。今仮に、コロニー型共同体思想、マルクス主義の共産主義、アナーキズムの無政府主義に各々の欠点が見えてきていたとしても、それらに代わるヒューマニズム思想を生み出さない限りそれは知の貧困でしかないということであろう。世のあまたのマルクス主義批判者に欠けているのはこの観点であり、その獰猛さは何の変革主体を生み出さないまま剥き出しの現実と直面させても澄まし顔して恥じぬ顔の面の厚さに垣間見える。 |
加藤哲郎教授は、「マルクスには民主主義についての体系的言説はない」と確認している。出典は分からなくなったが、以下確認しておく。 丸山真男のいう「基底体制還元主義」という批判用語はこの点を指摘したものであるが、単に欠点を指摘しただけで、それがいかなる意味をもっていたのか、その欠点を克服するためにはどうしたらよいのかについては、丸山は考え及ばない。 だが、現実には、近代の社会では、経済と政治との関係は<分化>したのであり、マルクスが考えたように単純に対応・直結していない。繰り返すように、政治の領域・次元では<法の下での人間の平等>を基軸に据える<民主政>が実現したのである。それを「ブルジョア民主主義」などと捉えるのは錯覚だった。類推には多少ズレはあるが、冒頭の寓話を思い出せば、対立をあおる愚かなやり方と同じである。 そして、さらに重要なことは、政治システムにおいては、<民主政>にまさるシステムの原理を人類はまだ発見していない。ということは、資本制社会から社会主義社会に変革・移行した――その核心的内実は、資本制経済から<協議経済>への転換である――としても、政治システムにおいては<民主政>をそのまま継承し、その不十分なところを充実させることになる。断るまでもないが、政治の領域における私たちの闘いが不要になったわけではない。さまざまに時代逆行的な悪法が狙われ、策動が絶えないがゆえに、それらとの闘いこそが求められている。<民主政>は与えられるものではなく、不断の努力によって創造してゆくものだからである。 革命論に及ぶ問題については別に検討することにして、話を戻すと、私たちは、経済にのみ過重で決定的な位置を与えてしまった「唯物史観」の限界を克服して、経済と政治とを明確に区別して解明しなければならない。政治については、さらに法(律)の重要性に注意を喚起するために、<法文化>という視点が近年、提起されている。本稿では、話を簡単にするために、<文化>については言及しなかったが、近現代社会は経済、政治、文化の3層の構造をなしており、<文化>とその変容についても考慮しなければならない。 さらに、経済と政治のおのおのについて、その分析基準は何なのかについて探る必要がある。 経済については、すでにマルクスが明らかにしたように、<生産関係>――生産手段をめぐる人間と人間の関係――という視点が最重要な基準である。その上で、<分配問題>についてもしっかりと位置づけることが重要である。マルクスは、分配は生産の結果にすぎないものと考えたようであるが、経済の発展段階にも大きく左右されるが、<分配問題>は独自に解明する必要がある。「社会主義経済計算論争」が明らかにしたように、社会主義においては<分配問題>はきわめて重要な位置を占めている。<生産手段の社会化>――これとてその内実の確定と実現は困難である――が実現したら自動的に<分配問題>が解決するわけではない。 近代経済学者ヒックスは、成瀬治によれば、「人類がこれまでの歴史のなかで、経済問題(社会を存続させるために、生産と分配をいかに調整するかという問題)を解決するためにとられてきた方式は3つある、すなわち、第一が伝統、第二が指令、第三が市場による方式である」と明らかにした。195頁。成瀬がすぐに与えている注意は、本稿全体にとっても有効なので、引いておこう。「これら三者は、いずれも一種の『理念型』であって、現実の特定の経済社会のなかでは、これらの方式ないしシステムが重なり合って現れるのがふつうである」。「資本主義市場経済」という言葉がよく使われるようになったが、「資本制」と「市場」との関係については、さらに解明すべき問題が残されている。 政治を分析する基準は、その社会の「共同の意志」を形成するあり方、原理に着目する必要がある。古代の神権政治では、政治的支配者は神の代理者として絶対権力を主張し、人民を服従・支配した。君主制では、世襲の君主によって人民が支配された。そして、近代の<民主政>では繰り返し確認しているように、<法の下での人間の平等>を原理とする<人権>を基軸にしている。ここまで到達したがゆえに、近代の憲法ではその点を明記・高唱している(逆に、経済システムについては規定していない。生産手段とのかかわりにおける人間の不平等を残しているがゆえに、万人を納得させるものとして説けないのである。これと対比的に、ソ連邦の憲法では、内実に歪みがあったとはいえ、経済システムについても明確に規定している)。 私たちが本稿で明らかにした方法論によると、これまで安易に「資本主義」とか「社会主義」とかと分類されてきた社会はどのように表現することができるのか。その結論だけ示して本稿を閉じることにする。私は「資本主義」は<資本制民主政>、「社会主義」は<協議制民主政>、そしてソ連邦は<指令制党主政>と呼ぶのがもっとも適切だと考える。このように表現すれば、変革すべき対象は経済の領域なのだということが明示される(<協議>は、ヒックスの分類を活かせば、第4の方式となる)。このように、規定した上で、それらの社会の現状分析が求められている。<資本制民主政>から<協議制民主政>へと転換するためのオルタナティブは、その現状分析に踏まえてこそ的確に提示できるからである。私たちは、<社会>をいかに規定するのかという問題を出発点にして、ここまで進んできたのである。 |
村岡到:<党主政>概念とその有効性 2003.1.3 400×27枚 別稿「社会を規定する意味」で、近代以降の社会については経済と政治が別次元あるいは別領域であることを明確にしたうえで、その各々についてその特徴をつかみ出し、その内容にふさわしい言葉で表現することが必要だと明らかにした。両者の複雑な相互規定関係はそのうえで探求しなければならない。これまでは、経済人類学者は別にして、大づかみに見れば、マルクスが提起した唯物史観に賛同する人はもちろん、反対する者もマルクスが『経済学批判序言』に書いた唯物史観の「定式」にある「奴隷制」「封建制」「資本主義」「社会主義」という区別と用語を踏襲してきたと言ってよい。日本とヨーロッパでは「封建制」の中身が違うとか、中国には「封建制」の時代はあったのかとか、発展が単線型か複線型か(飛び越しが可能か)とかさまざまな論議が展開されてきた。だが、この区別と用語を超えようとする者はいなかった。 例えば、ソ連邦をいかに規定するかという問題について諸説が飛び交っているが、「現存社会主義」「国家社会主義」「国家資本主義」の代表的な3説は前記の枠内である。これらの論者はいずれも「資本主義」と「社会主義」の二つの言葉以外にはソ連邦などの社会体制を規定する用語はないと思っている。日本共産党が1977年から94年まで「目からうろこが落ちる」と自画自賛していた「社会主義生成期」説も同じである。私をはじめトロツキストが主張していた「社会主義への過渡期社会」はいくらかは視点は異なっていたとはいえ、理論の枠組みでは質的に異なったものではない。「開発独裁」などという用語も使われているが、単なる思いつきにすぎず、方法論に踏まえたものではない。唯物史観の「定式」といかなる関連にあるかを問題にしたものではない。 「革命後社会」などという言い方もあった(ポール・スウィージー)が、崩壊したソ連邦や中国、キューバなどについて、経済と政治とを別次元として明別するという方法的意識に立脚した場合、その政治システムの特徴はどこにあり、いかなる用語で表現することがよいのか。本稿の主題はそこにあり、その解答は<党主政>である。この新しい提起は、<唯物史観の克服>の一環でもある。 古くから歴史的に存在し、よく知られている事象についてであれば、その事象は定まった用語で表現され、その用語は概念として明確にされることになる。新しい事象でもその新しさを的確に把握する方法論がない場合には、既出の用語を手がかりに表現することになる。前記の「現存社会主義」「国家社会主義」「国家資本主義」「社会主義生成期」がその例である。だが、新生事物を新しい方法論に立脚して捉えると、実態についての解明の後に、その特徴にふさわしい言葉を与えることになる。だから新しい造語が必要になることが多い。実態についてはかなり明確にされていても、それが新しい用語で表現されない場合もある。新しい視点が必要とされず、古い思考の枠内で用が足りていると思われている場合である。本稿で取り上げる問題はこの好例である。 <党主政>とは何か <党主政>という新しい用語を、私は提起したい。まず、この<党主政>なる造語によって何を表現したいのか。<党主政>とは、読んで字のごとく、<党>を<主>とする<政治システム>を意味する。党を主要な軸として形成されている<政治システム>である。<党>が一つであることのほうが多いであろうが、複数であってもどれか一つが抜群の位置と力を有していれば同じものとみてよい。<民主政>――一般の用語では「民主主義」――の対概念と考えてもらうと分りやすい。<民主政>とは、法の下で平等な権理をもつ市民を主体とする政治システムである。論証と実証が求められている時に、同意への期待に頼るのは上品なやり方ではないことくらい承知してはいるが、それなりにソ連邦や中国の政治の実態について関心と知識をもっている人なら、<党主政>と聞いただけで、なるほどそう言われればそれはいいネーミングだと納得するのではないだろうか。 本来ならば、ソ連邦や中国の政治の実態についての分析・解明に進むべきなのであるが、先を急ぐ必要があり、今の私にはその手順を踏む余裕がない。そこを明らかにしないで、先に進むのはけしからんと注意されそうであるが、ソ連邦や中国の政治の実態についての分析・解明を省くのはもう一つもっと有力な理由がある。これらの社会と国家における<党>の位置と力が絶大であった(あるいは、ある)ことは周知と言ってよいからである。ソ連邦では1977年憲法第6条に「ソ連邦共産党は、ソビエト社会の指導的および嚮導的な力であり、その政治システム、国家組織および社会団体の中核である」と明記されていた(この条文に改変が加えられたのは、ゴルバチョフによるペレストロイカ末期の1991年であった)。 だから、従来もこの点に着目していた論者もいた。ユーゴスラビアに注目していた岩田昌征は、1960年代に早くもソ連邦について「国権的社会主義」と命名していた(ユーゴスラビアの「民権的社会主義」と対照的なものとして)。彼は、1991年末のソ連邦崩壊の後に、この区別を取り払って、両国について新しく「党社会主義」と新しい呼び名を与えることになった。なおも「社会主義」を用いている点は、前記の限界内ではあるが、特徴づけのほうについては「党」に焦点を当てることになったわけである。私たちは、この後者についてだけはそっくりそのまま継承したい。岩田よりも30年以上も遅れて「国家社会主義」と言い出した者も少なくないが、はるか以前から「国権的社会主義」用語を用いていた岩田の認識のほうが深い。一般的に、あることを先に認識した人は、途中で挫折することがなければ、遅れた人がその点で追いついた時には、さらにその先へと認識を深化させていることが多い(逆に、いつまでも孤立していると、こらえ切れずに「転向」する場合もある)。先駆性のもう一つの意味はそこにある。ソ連邦などの政治システムの特徴は、岩田が明らかにしたように、「国家」よりも「党」にこそある。大江泰一郎も1992年に著わした『ロシア・社会主義・法文化』で「『人権』や『人民主権』を排除して『共産党の指導的役割』を基軸に据えた社会秩序」と特徴づけていた。@頁 ところで、私は1980年代には、ソ連邦を<官僚制>に焦点を当てて<官僚制過渡期社会>と捉え、<官僚制の克服>を実践的な課題として提示していた。「官僚制」も確かにソ連邦の社会と国家の特徴の一つには違いないが、「官僚制」なら例えば日本にも強固に存在していることにも明らかなように、ソ連邦の特徴とするには弱い。私の場合には、このすぐに気づくこのことに目をふさいで、「官僚制」にポイントを設定したのは、<党>それ自体の役割を軽視する傾向を助長したくないという政治的判断が働いていたからである。「党が悪いのではなく、官僚制が悪いのだ」とずらしたわけである。もちろん、私は今でも<党>それ自体の役割を重視している。私は、<民主政>を十全に実現するためには<党>は不可欠だと考えている。ただし複数の党である必要がある。社会は多様性に満ちているからである。 ソ連邦の経済については「計画経済」という名の「指令経済」であったことを、私はすでに1999年に「ソ連邦経済の特徴と本質」で明らかにした。それに<党主政>を加えると<指令制党主政>とでも言うことができる。慣用になるにつれて、最初の3文字は経済システムについて、後の3文字は政治システムについて表現したものと誰にでも理解されるようになるだろう。仮にこの特徴づけがなお不適切であったとしても、「社会主義」というにふさわしいか否かだけにこだわる議論の水準をこえて経済と政治の内実における特徴は何なのかをめぐる議論へと誘導することができる。なにしろ、つい最近でも日本共産党の不破哲三議長は「ソ連の社会体制が社会主義の反対物だったという結論を明確に出しているところは、世界の共産党のあいだでもまだ少数でしょう」などと威張っている。だが、「社会主義の反対物」と決め付けるだけで、ソ連邦の社会を特徴づけることになるのであろうか(共産党の常任幹部会委員だった聴濤弘は「独特の位階制社会」という試論を提起した)。『ソ連とはどういう社会だったのか』1997年、新日本出版社 拙稿「『社会主義生成期』説を放棄したあとで」参照。聴濤は80年代に「官僚制」を論点として取り上げていた。 なぜ<党主政>は成立したのか ソ連邦(や中国)でなぜ<党主政>が成立したのか。 その第1の歴史的根拠は、ロシア社会の法文化が法や法律を重んじるよりは人治の要素が大きな比重を占めていたことにある。別の言い方をすれば近代的な人権思想にもとづく<民主政>の発達が遅れていた。文学者の川端香男里によれば「ルネサンスや宗教改革はロシアにはほとんど影響を与えることなく終わり、中世的要素は色濃くその後も残ること」になったのである。法学者の藤田勇が書いていたように、レーニンなどボルシェヴィキのあいだでは「法律についての無知は革命家の誇りである」などと思われていた(レーニンは法学部を卒業し弁護士もしていたのに!)。世間では「自白は証拠の女王だ」などと言われていた社会だったのである。だから、革命から数十年経っても、法律家の間ですら「社会主義では人権は不要である」と考えられていた。藤田勇によれば、「『人権』という概念がポジティブなものとして承認されるようにな」ったのは、「近時」つまりペレストロイカが始まった1980年代半ば!なのである。332頁。ここには後述するマルクスの思想の弱点も影響しているが、そういう影響を受けやすい法文化の下にあったとも言える。このロシアの法文化については、大江泰一郎がロシア革命を「反立憲主義的社会主義」として特徴づけて強調している。『ロシア・社会主義・法文化』 第2の歴史的根拠は、強行的な社会変革=革命を実現したことにある。そしてこの革命は「反資本主義」を主要な柱にしていた。第一次世界大戦下の国際環境のなかで、遅れて資本制経済の影響を受けていたロシアでは、無能なツアーによる圧政と悲惨な戦争という現実からの脱出路として、「反資本主義」=「社会主義」を掲げる、レーニンに指導されたボルシェヴィキ党の政治主張が、社会を統合することになった。 簡単に言えば、ボルシェヴィキ党の主導によってロシア革命は実現した。あるいはこう言ってもよい。革命の帰趨はボルシェヴィキ党に国家権力が主要に集中することに帰着した。今日でも議論の争点になっているが、革命直後の憲法制定議会の解散やボルシェヴィキ党だけの一党制への移行は、その背景・妥当性・正統性がどうであれ、そのように事態が進展したことに、ロシアの法文化の特徴があったのである。したがって、この革命を主導した政党がその後の政治過程を主導することになるのは自然の勢いだった。だからすでに引用したように、憲法に「共産党の指導的な力」が明記されることになったのである。「市民社会」強調論者の視点を取り入れれば、「市民社会」の未成熟ゆえに諸政治勢力の競合にならず、一党主導となったとも言える。 ついでに付言すれば、このいわば「早すぎた革命」が背負うべき重い課題がどこにあったのかを明らかにすることこそが大切なのであって、「早すぎた革命」の是非を問題にする立場に私は立っていない。私は、歴史の採点者ではなく、歴史を創造する人間でありたいからである。この点については、上島武が、ロシア革命の生き証人ともいうべきミリュコフの言葉を引いて次のように指摘しているとおりである。「当時、ミリュコフが冷徹に洞察していたとおり、『コルニーロフかレーニンか』以外に選択肢はなかったのである」『QUEST』第19号=2002年5月、43頁。無能なツアーによる圧政と悲惨な戦争という現実のなかで、レーニンに指導されたボルシェヴィキ党が選択し主導した革命は、明らかにロシアの民衆にとって大きなプラスをもたらしたことも決定的な事実だったからである。E・H・カーが『ロシア革命』で明らかにしたように、当時のソ連邦の労働者は「革命が彼のためにしてくれたことを意識しないということはほとんどありえない。そしてこのことは、彼がかって享受したこともなければ夢みたこともない自由なるものの欠如を上まわるものであつた。体制の厳しさと残酷さは現実のものであった。しかし、その成果もまた現実のものだった」267頁からである。カーを引いたのは、ここでも「自由」別言すれば<民主政>の欠落が指摘されているからである。 第3の理論的根拠は、前記の「反資本主義」にはマルクスの思想が大きな影響を与え、その理論的な支柱となっていたことである。確かに、「資本主義の改良」ではなく、「資本主義の根本的否定・打倒」を経済学によって裏打ちして提起したことは、マルクスの偉大な貢献であった。だが、長所の裏に短所あり、でこのマルクスの理論には大きな欠落と逸脱が潜んでいた。この小論で詳述することはできないが、一言でいえば、マルクスは政治の独自の領域、位置、役割について過小評価あるいは見落としていたのである。マルクスは、政治、別言すれば<民主政>を正面からとらえようとはしなかった。確かに、『共産党宣言』には「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主政を闘いとることである」と書いてある68頁が、「民主政」についての何か説明があるわけではない。私がいつも引例する『マルクス・カテゴリー事典』の「民主主義」の項目で、加藤哲郎は「マルクスには……民主主義についての体系的言説はない」と確認している。エンゲルスは「議会は無花果の葉」であるとまで極言した。 レーニンはさらにこの傾向を「プロレタリアート独裁」を強調した『国家と革命』(1917年)で単純化した。前記のマルクスが「プロレタリア階級を支配階級にまで高めること」と「民主政を闘いとること」の二つを並置したことがミスリードを誘うことになった。レーニンにとっては「民主主義〔=民主政〕は、一階級の他階級にたいする系統的な暴力の行使のための組織である」116頁。だから、レーニンは「民主主義は国家形態であり、国家の一変種である」139頁と決めつける。レーニンにとっては、「独裁」と「民主主義」とは、A形態からB形態への変化=移行を意味するのではない。そのことは1年後に書かれた『プロレタリア革命と背教者カウツキー』における「プロレタリア民主主義」についての説明がよく語っている。レーニンは、『国家と革命』では使わなかった「プロレタリア民主主義」について、支配する者にとっては「民主主義」であるものが、支配される者にとっては「独裁」であると説明している。つまり、「プロレタリア民主主義」と「プロレタリアート独裁」とは同一のあるものを上から見るか、下から見るかの違いにすぎない。私たちの普通の語感では、「民主主義=民主政」は「独裁」とは別の形態で、「独裁」の対極をなすと考えられるが、レーニンにとっては1つのものの上辺と下辺と理解されている。「民主政」とは何かと内実を探るのではなく、すぐに<誰にとっての>民主政か、と問題をすり替えているにすぎない。 このように、<民主政>を正しく捉えることができなかったがゆえに、出発点において「プロレタリア民主主義」なるものは歪められ、「プロレタリアート独裁」が強調され、<党主政>へと陥没したのである。 ここに析出した3つの根拠は、ロシアのみならず、中国についても同じことが言えるであろう。ことわるまでもなく、レーニンの代わりに毛沢東が立っていた。毛沢東は、中国を「無天無法」と特徴づけていた。ペレストロイカ期にも今日の中国でも同様に「法治」が強調されているのは偶然ではない。今日の中国は<向資本制党主政>と言える。ベトナムやキューバがどのような歴史を背負っているのかについてもいずれ学びたいと考えている。話題沸騰の朝鮮民主主義人民共和国については「配給制軍事独裁」と命名できる。「軍事独裁」を<党主政>の下位概念として位置づけることも可能であろう。<軍主政>なる用語を創ってもよいが、そこまですることはないであろう。 <党主政>と捉えることの有効性 最後に、<党主政>と捉えることの有効性はどこにあるのかを明らかにしよう。 第1の有効性は、対象の内実を一番よく表現できている点にある。ソ連邦の社会と国家における共産党の位置と役割が絶大であったことについては、くりかえすように本稿では論究しないが、余りにも明らかである。<党主政>という用語はそのことをズバリと表現している。ほ乳類と言えば、卵からではなく母乳によって育つ動物を、甲殻類と言えば甲殻を備える動物をイメージするように、<党主政>と聞けば誰もが「党が主要な位置」を占めていると推測するだろう。 また、<党主政>と命名することが導き出すというわけではないが、ここでもう一つ、<党主政>が形成された現実性についてしっかり認識することの重要性を合わせて確認しておきたい。<党主政>なんかにならなければよかったと嘆いたり、直ちに<党主政>を廃棄したいと願望したからといって、別の可能性が開かれてはいなかったし、簡単になくなるものではない。もちろん、だからと言って、「現実的なものは合理的である」と考えよというのではない。逆である。 第2の有効性は、そうあってはいけないこと、別言すれば反面教師であったことを明示しやすくなる点にある。冒頭にも触れたように、<党主政>は<民主政>の対極をなす概念であって、否定すべきものである。言うまでなく「否定すべき」という価値判断は私が加えているもので、この用語それ自身から浮かびあがるものではない。「悪主政」なら誰だって「悪が主要ではたまったものではない」とすぐに反発するだろうが、<党主政>にはそこまでの語感はない。しかし、大多数の人間がプラスに評価している<民主政>の対極をなす概念だと説明するのだから、<党主政>はよくないシステムと理解されることになる。「資本主義」が多くの場合に否定的用語として使われているように、やがて<党主政>も同様によくないシステムと理解されるであろう。 ××はいけないと否定形で言うよりも、○○はよいと肯定形で主張するほうが積極的であり、困難でもある。では、よいものとは何か。<民主政>こそがそのよいものなのである。このことを積極的に主張できるところに、<党主政>と捉えることの第3の有効性がある。これまでは、マルクス主義や左翼のなかでは、「民主主義」は低次のもので、社会主義の前の段階で必要なものと思われていた。 だが、私たちは、<民主政>を永劫にめざすべきものとしてはっきりと位置づける必要がある。「永劫に」と強調したのは、けっして一時的なものではないことをはっきりさせたいからである。そして、この要求と、社会主義をめざすこととはなにひとつ対立・矛盾するものではなく、相互補完的な関係にある。 この問題は、後進国における革命論にとってきわめて重要である(日本がすでに先進国になったように、後進国は以前よりは少なくなったからその比重は下がっている)。 先の認識に到達した私たちは、今では聞くことがほとんどなくなった「二段階革命論」の意味をその功罪あわせて取り出すことができる。この論は、遅れた国ではまずブルジョア民主主義を実現して、第2段階で社会主義革命をめざすというものであった。この論に対して、新左翼は社会主義革命を第2段階まで先送りすることは誤りだと批判した。「民主主義の遅れ」に着目する人たちは、「まず民主主義を」の方針に親近感をいだくことになった。いわば正統派と新左翼とのこの点での対立は、もし本稿での提起のように、<民主政>を追求することと、社会主義をめざすこととが、段階的に隔てられているのではなく、同時並行的に要求・追求することができると理解されていれば、生起しなくて済んだ。ところが、<民主政=民主主義を>ではなく、「ブルジョア民主主義を」あるいは「ブルジョア革命を」と表現したために、「社会主義はどこにいってしまったのだ、社会主義を彼岸化するな」という叫びを誘発したのである。正統派のほうは、「民主主義を要求する」ことを「社会主義の前段階」と理解していた。つまり、誤った枠組みのなかで、その誤りゆえに、着目点や力点の相違を隔絶した傾向あるいは対立関係として理解してしまったのである。 第4の有効性は、先進国における革命の課題が経済システムの変革にこそあることをはっきりさせる点にある。なぜなら、大づかみに言えば、先進国ではすでに<民主政>は理念としては掲げられ、ある程度は実現しているからである。この点では理念を十全に実現することが残された課題である。私は2年前に発表した「則法革命こそ活路」で、社会主義革命では「政治の領域では、原理の上で変革しなければならない内実はなかったのである」と明らかにした。168頁。この論文で続けて明らかにしたように、グスタフ・ラートブルフは『社会主義の文化理論』で「法治国家の理念と議会民主政の方式は……放棄されてはならない」と主張していたのである。それに対して、経済システムの変革はこれから実現すべき新しい課題である。そしてまさに、この<経済システムの変革>こそが<社会主義革命の核心的内実>なのである。私は、「資本制経済」に代わるのは<協議経済>だと主張しているが、そこまで同意できない人は、では何なのかを提起したほうがよい。間違っても今さら「計画経済」とつぶやくのだけはやめてほしい。 このように、<民主政>はその充実だけが必要で、変革すべきは経済システムであるという認識は、前記の「二段階革命論」がもたらした弊害を除去するよりもはるかに大きな影響を生むことになる。<民主政>の大切さを理解し、尊重しようと考えている人々をはじき飛ばしたり、対立を引き起こすことなく、<経済システムの変革>の必要性を説得できるようになるからである。レーニンのように、「プロレタリアート独裁まで承認する」ことこそが必要であるなどという、わざわざ間口を狭める立場に立つのは間違いである。言うまでもなく、「プロレタリアート独裁」は日本共産党によってすでに1976年に放棄されているが、綱領には依然として「労働者階級の権力の確立」が掲げられている。だが、「労働者階級」だけを特別に格上げするこの考え方は、<農民>をはじき飛ばしているだけではなく、<法の下での平等の権理>が万人にあるとする<民主政>とは本来的に相容れないのである。 ここまではっきり確言すると、「労働者階級の権力」を否定して何が社会主義だ、という反発を招くであろうが、労資関係を根本的に変革して、<生産手段の社会化>を実現した上で、<民主政>が実現している社会のどこに問題があるというのか。なお<未存>であることが“最大の弱点”ではあるが、それ以外の弱点を指摘してほしい。もちろん、この新しい社会に弱点が存在しないと主張したいのではない。「労働者階級の権力の確立」を実現しないと除去できない弱点は何かと聞いているのである。 このように、ソ連邦などの政治システムを<党主政>として捉える、私たちの新しい提起は、従来のマルクス主義の教条を決定的に超えるはるかに広く高い眺望を切り開いてくれるのである。 最後に、本稿での新しい提起について、図で示してみよう。複雑な歴史の発展を二次元の図で示すのはもともと無理ではあるが、多少の助けにはなるであろう。従来の定説の理解と私たちの新しい理解とを示す。省略 参考までに記すと、「共産主義(Communism)という言葉は、共同の、共有のという意味をもつラテン語のComunisからきているといわれている」(「現代マルクス・レーニン主義辞典」1980年)。 |
2001年11月8日(木) 西欧政治思想史第7章 『共産党宣言』を読む(4)
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(私論.私見)