プルードン、バクーニンとの交流及び対立考 |
(最新見直し2006.10.31日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
マルクスとエンゲルスの協働は知られている。しかし、マルクスと同時代のプルードン、バクーニンらとの交流と抗争が正確に知られていない気がする。プルードン、バクーニンらのいわゆるアナーキストは、マルクス、エンゲルスの視点から批判的に見られることが多い。そういう中にあって、大杉栄の「マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−」(1922.12月)は意義が深い。「大杉栄の文章3、マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−」(1922年12月)で紹介されている。サイト管理人に謝辞しておきたい。 そこでは、彼らがかなり親密な関係にあった事、その関係は常に相互批判的というか罵倒的であったこと、その多くがマルクスの性癖に原因していた事等々を暴いている。もちろんこれも、大杉栄の視点から見た「マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−」考であり、我々は我々の観点から読み取らねばならないだろう。しかし、貴重な情報には違いない。以下、関連箇所を抜き出し再整理あるいは引用してみる(地文とれんだいこ文が混在してしまった。後日改める。大杉栄なら難しい事は云わないだろう)。 2004.2.13日 れんだいこ拝 |
【マルクスとバクーニンの交流史】 |
「1845.7月、バクーニンはその革命的思想のためにドイツやスイスから追われて、はじめてパリへ行った。そこで彼は、当時のもっとも進歩したあらゆる民主主義者と知り合いになって、プルードンやマルクスともはじめて相知った。バクーニンはそれらの交友からいろんな影響を受けたのだが、ことにこのプルードンとマルクスとからはもっとも大きな影響を受けた」。 |
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バクーニンは、「ことにこのプルードンとマルクスとからはもっとも大きな影響を受けた」と自認しているが、マルクスはバクーニンに対しどのような関係付けをしているのだろうか。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その1、マルクス主義の強権的政治手法について】 |
「どこの資本主義国家にでも、社会主義者や無政府主義者は、いつも気違いだとか、強盗だとか、人殺しだとか、またはその国家自身が使っているスパイだとか、宣伝される。その敵の人格を民衆に疑わせるのが、政府にとって一番有効な方法だからだ。ところが、この政府的方法は、さらに社会主義者によっても、いつもその敵の無政府主義者に用いられる。しかも社会主義者は、資本主義者よりももっと政府主義的であるところから、資本主義者よりももっと悪辣にこの方法を用いる」。 |
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ここでは、いわゆるマルクス主義の強権政治的手法が宿亜としてみなされている。今日これをスターリニズムとして批判する向きがあるが、この指摘に拠れば、始祖マルクス伝来の手法という事になる。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その2、バクーニンのプルドン、マルクス評について】 |
バクーニンは、後年、プルードンとマルクスの二人を批評して次のように言っている。「プルードンは、古い理想主義の伝習を打ち破ることに全力を注いだのだが、その生涯はやはり矯正することのできない理想主義者であった。彼はその爪の先までもいつもメタフィジシャンであった。彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、したがっまたその方法を知らなかったことである。彼は、彼に本当の道を発見させる天才的才能を持っていた。しかし、いつもその理想主義の悪い癖に引きずられて、もとの誤謬の中に落ちていった。これがプルードンの不断の矛盾のもとだ。力強い天才と革命的思索家とが、いつも理想主義の幽霊と戦っていた。しかもかつてそれに打ち勝つことができずに」。 そしてバクーニンはなお、彼自身とマルクスとを比較して、次のように言っている。「マルクスは今でもそうだが、当時僕よりよほど進んでいた。よほどどころではない。僕とは較べものならないほど学者だったのだ。僕は経済学をちっとも知らなかった。また形而上学的抽象論からも抜けきっていなかった。そして僕の社会主義はほんの本能的のものにすぎなかった。彼は僕より若かったのだが、(二人が会ったのはマルクスが二十六、バクーニンが三十の時だった)、すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。彼が今日のその学説の基礎を立てたのはこの時代だったのだ」。 |
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バクーニンは、マルクスの思想の深さ、それを経済学的に裏づけしようとする営為に対して高い評価を与えている。「博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった」と評している。他方で、プルードンのそれと比較して、「しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ」と批判している点も興味深い。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その3、マルクスのゲルマニズムについて】 |
バクーニンはスラブ民族の解放を観点に据えていた。大杉は次のように述べている。1847.11月、バクーニンは1830年の最初のポーランド一揆を記念するポーランド人らの宴会に出て、そこで有名な大演説をやった。「ポーランド人とロシア人との和睦は、ニコラス皇帝の専制に対するその共同の革命的運動によって、はじめて事実になるだろう。しかもこの革命はすぐに来るだろう。そしてまた、ポーランド人とロシア人とのこの和睦は、同時に外国の覊絆の下にあるすべてのスラブ民族の解放をもたらすだろう」。 このスラブ問題に対するマルクスと彼の意見の相違については、1871年にバクーニンがこう言っている。「1848年には、われわれの意見が違っていた。が、理屈は僕のほうよりも彼のほうに多くあったのだ。しかし次の一点は確かに僕のほうに理屈があった。僕はスラブ人としてドイツの桎梏からスラブ民族を解放したいと思った。しかるにマルクスはドイツの愛国者としてドイツの桎梏から自分を解放しようとするスラブ人の権利を認めなかった。今でもやはり彼はそれを認めていない。彼は、今でもまだそうだが、ドイツ人はスラブ人を文明化すべきすなわち否でも応でもドイツ化すべき天職を持っていると考えている」。 |
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「共産主義者の宣言」からは見えてこないマルクスの民族主義性が垣間見られて興味深い。こういう民族主義を根深く持ちつつ国際主義テーゼを打ち出していたという面を理解しないと、マルクス主義の実際像が見えてこないのではなかろうか。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その4、マルクスの罵詈雑言中傷癖について】 |
バクーニンは、マルクスの性癖について次のように評している。「われわれはずいぶんよく会った。なぜなら僕は彼を、その学問ゆえに、またいつも個人的虚栄心は混じっていたが、ともかくも、無産階級に対する熱心なかつまじめなその努力ゆえに尊敬していた。そして彼との対話を貪るように求めた。彼の談話は、そこに卑劣な憎しみの入っていない時にはいつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、その憎しみがあまりにしばしば入ってきた」。 なおバクーニンはそのフランスの一同志アルベール・リシアルに与えた手紙の中に、マルクスを「その伝習的にも本能的にも、撹乱的の、陰謀的の、搾取的のブルジョワ的の」人間だと言っているが、さらにエンゲルスについても同様のことを言っている。「一八四五年ごろ、マルクスはドイツ共産主義者らの先頭にたった。そしてそのすぐ後でその断金の友エンゲルスとともに、ドイツ共産主義者すなわち強権的社会主義者の一秘密結社を創立した。このエンゲルスは、マルクスと同じように学才があって、彼ほど博学ではなかったがその代わりにもっと実際的だった。そして政治的中傷や虚言や陰謀にはマルクスに劣らないほどたけていた」。 |
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もう一つのマルクス、エンゲルス像が垣間見られて興味深い。マルクス主義者はマルクスを聖像化するあまりにこういう気質性癖的なマルクスの個性を見失いがちである。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その5、マルクスのバクーニンに対するスパイ呼ばわりについて】 |
バクーニンの急進主義的革命的決起闘争は続いており、支持も強かった。その頃ロシア大使キスレフにより概要「スパイとして使っていたが、やり方が少し激しすぎるので免職にしたのだ」という噂が広められた。フランスの内務大臣デュシャテル伯爵も、貴族院での質問に対して、それを裏書きするような答弁をした。その後もバクーニンに対する「買収」の噂が立てられた。マルクスとエンゲルスは「新ライン新聞」を創めようとしていた時期であるが、「バクーニンスパイ説」に対してむしろ政治主義的に対応した形跡がある。 そういう最中に、「新ライン新聞」紙上に、パリ通信として次のような記事が載った。「このポーランド一揆について、こう断言する者がある。ジョルジュ・サンドはここから追放されたロシア人ミシェル・バクーニンをひどく窮地に陥れる文書を持っている。それには、彼は新しく雇い入れられたロシアの一スパイで、そして彼は最近の不幸なポーランド人らの捕縛の主役を勤めていると書いてある。ジョルジュ・サンドはこの文書をその友人のある者らに見せた」。 |
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マルクスの「バクーニン・スパイ説」に対する政治主義的対応はいかがなものだろうか。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その6、マルクスの戯談について】 |
その翌月、バクーニンはベルリンでマルクスに会った。そしてとにかく仲直りをした。その後バクーニンはこのことについてこう書いている。「二人に共通の友人らがとうとうわれわれを握手させてしまった。そしてその時、戯談半分の妙な話の間に、マルクスは僕にこう言った。今僕は非常によく訓練された共産党の秘密結社を率いているんだがね。で、僕がその党員の一人にバクーニンを殺してこいと言えば、そいつはすぐ君をやっつけてしまうんだぜ。 この話の後、われわれは一八六四年まで会わなかった」。 マルクスが1848年に「戯談半分」に言ったこのことは、それから24年後にこんどはまじめに実行されようとした。第一インターナショナルの中で、無政府主義者らの反対がマルクスの行なおうとした個人的支配の邪魔になった時、彼はまったくの精神的暗殺でもって、バクーニンをやっつけてしまおうとしたのであった。 |
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真偽確かめようが無いが、言葉を失う。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その7、バクーニン派の闘争に対する冷淡さについて】 |
当時ライプツィヒでバクーニンと会った、マルクスやバクーニンの先輩のアーノルド・ルーゲによると、「バクーニンは非常な苦心をしてロシアで一揆を起こす資金をようやく手に入れた。そして今、彼がブレスラウへ行くのも、ロシアの国境の近くにいて、その一揆を起こす準備のためだったのだ」。そして「バクーニンはそこで多くの人々と関係を結んだ。彼はその才智と愛すべき性格とから、みんなに敬愛されていた。彼はその計画した目的のために、多くのロシア人をその周囲に集めた。彼はまた同じようにしてチェコ人とも連絡を結んだ。そして種々のスラブ民族が互いに了解するように、スラブ人の大会をプラーグで開くことにきめた」。 バクーニンはその革命的本能から、この一揆がもっと大きく拡がるものと思った。そしてこの一揆のほとんど独裁者というような、重要な役目を勤めた。五月八日、ライプツィヒの代議員らの前で、バクーニンはこのドレデン防御の全ヨーロッパにおける価値について演説した。そしてその日から、ステファン・ボルンという若い活版工が叛軍の司令官となった。ボルンはその前年アルバイテル・プリウンテルンク(労友会)というドイツ最初の一般的労働者団体を組織した男であった。 |
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左派運動圏のイニシアチブ闘争が介在していたのかも知れないが、マルクス主義派のバクーニン派に対する姿勢は冷淡とみなすべきではなかろうか。 |
【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その8、第一インターを廻る抗争について】 |
そしてすぐまた彼はポーランド一揆を計画して、63.2月、その一揆の勃発とともにロンドンを去ったが、その首領らの無能と不和とはことごとに失敗を招かしめて、バクーニンはふたたびまたロンドンに帰った。そしてすぐにまたフィレンツェへ出かけ、翌年さらにそこからスエーデンへ行って、ロンドンとパリとを経てまたイタリアに帰った。その時彼はロンドンではマルクスに会い、パリではまたプルードンに会った。バクーニンはロンドンでのマルクスとのこの会見についてみずから次のように語っている。 バクーニンは、マルクスが、その創設しようとするインターナショナルへの加盟を勧告したのにもかかわらず、それを拒絶して、その年イタリアでの最初の無政府主義団体である社会主義革命家同盟という秘密結社を組織した。 そしてマルクスの政府的方法は、後にバクーニンがその加盟したこのインターナショナルの中で、その極に達したのであった。 |
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この辺りもっと考察される必要があるように思われる。 |
(私論.私見)
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以下の文はアエラ・ムック・シリーズの『マルクスがわかる』(朝日新聞社、1999年10月10日刊)に寄せた文。 (1999年7月9日) |
斉藤悦則 テキストの成立経緯 『哲学の貧困』はフランスの思想家プルードンの著作『貧困の哲学』(一八四六年)に対する批判の書。一八四七年にフランス語で出版された。書名そのものからもマルクスの才気と悪意がうかがえる。 内容 批判の書『哲学の貧困』は二つの章からなる。第一章はプルードンの経済学を批判し、第二章は哲学を批判する。 経済学を批判するといっても、それはプルードンの価値論がリカードの労働価値説より劣っていると主張しているだけのものである。その眼目は、プルードンを平等主義者に見立てる点にある。相手を素朴で幼稚な社会主義者のように描き出し、最高水準の経済学者(マルクスにとってのリカード)と見比べて、「平等主義的な結論」のお粗末さを笑う。フェアなやり方ではない。 哲学批判の部分はさらにその傾向が強い。 この本から何を学ぶか この本はプルードン批判としては問題があり、じっさい発刊当時はほとんど売れず、社会的インパクトはゼロに近かった。しかし、いったんマルクスが偉くなると様子が変わる。青年マルクスの口汚い罵りの言葉までもが神々しく、ありがたく読まれるようになる。本書は、偉大な思想が卑小な思想を木っ端みじんにうち砕く痛快な読み物として、また白と黒をはっきりさせてわれわれがどちらの側に立つべきかを教えてくれる階級闘争の教科書として、マルクス主義の必読文献の一つとされた。
上京して大学の寮に入り、寮食堂の食券を買った日だと思う。「マルクス・レーニン研究会に参加しませんか」という寮内放送。「津田塾の学生も参加します」と続いた。マルクスとかに関心はなかったが、女子大生には近づきたかった。即、参加する。 |