プルードン、バクーニンとの交流及び対立考

 (最新見直し2006.10.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 マルクスとエンゲルスの協働は知られている。しかし、マルクスと同時代のプルードン、バクーニンらとの交流と抗争が正確に知られていない気がする。プルードン、バクーニンらのいわゆるアナーキストは、マルクス、エンゲルスの視点から批判的に見られることが多い。そういう中にあって、大杉栄の「マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−」(1922.12月)は意義が深い。大杉栄の文章3、マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−(1922年12月)で紹介されている。サイト管理人に謝辞しておきたい。

 そこでは、彼らがかなり親密な関係にあった事、その関係は常に相互批判的というか罵倒的であったこと、その多くがマルクスの性癖に原因していた事等々を暴いている。もちろんこれも、大杉栄の視点から見た「マルクスとバクーニン−社会主義と無政府主義−」考であり、我々は我々の観点から読み取らねばならないだろう。しかし、貴重な情報には違いない。以下、関連箇所を抜き出し再整理あるいは引用してみる(地文とれんだいこ文が混在してしまった。後日改める。大杉栄なら難しい事は云わないだろう)。

 2004.2.13日 れんだいこ拝


【マルクスとバクーニンの交流史】
 「1845.7月、バクーニンはその革命的思想のためにドイツやスイスから追われて、はじめてパリへ行った。そこで彼は、当時のもっとも進歩したあらゆる民主主義者と知り合いになって、プルードンやマルクスともはじめて相知った。バクーニンはそれらの交友からいろんな影響を受けたのだが、ことにこのプルードンとマルクスとからはもっとも大きな影響を受けた」。
(私論.私見) 「マルクスとバクーニンの交流史」について
 バクーニンは、「ことにこのプルードンとマルクスとからはもっとも大きな影響を受けた」と自認しているが、マルクスはバクーニンに対しどのような関係付けをしているのだろうか。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その1、マルクス主義の強権的政治手法について】

 「どこの資本主義国家にでも、社会主義者や無政府主義者は、いつも気違いだとか、強盗だとか、人殺しだとか、またはその国家自身が使っているスパイだとか、宣伝される。その敵の人格を民衆に疑わせるのが、政府にとって一番有効な方法だからだ。ところが、この政府的方法は、さらに社会主義者によっても、いつもその敵の無政府主義者に用いられる。しかも社会主義者は、資本主義者よりももっと政府主義的であるところから、資本主義者よりももっと悪辣にこの方法を用いる」。

(私論.私見) 「マルクス主義の強権政治的手法」について 

 ここでは、いわゆるマルクス主義の強権政治的手法が宿亜としてみなされている。今日これをスターリニズムとして批判する向きがあるが、この指摘に拠れば、始祖マルクス伝来の手法という事になる。


【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その2、バクーニンのプルドン、マルクス評について】

 バクーニンは、後年、プルードンとマルクスの二人を批評して次のように言っている。「プルードンは、古い理想主義の伝習を打ち破ることに全力を注いだのだが、その生涯はやはり矯正することのできない理想主義者であった。彼はその爪の先までもいつもメタフィジシャンであった。彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、したがっまたその方法を知らなかったことである。彼は、彼に本当の道を発見させる天才的才能を持っていた。しかし、いつもその理想主義の悪い癖に引きずられて、もとの誤謬の中に落ちていった。これがプルードンの不断の矛盾のもとだ。力強い天才と革命的思索家とが、いつも理想主義の幽霊と戦っていた。しかもかつてそれに打ち勝つことができずに」。

 「マルクスは思想家としてはいい道にあった。彼は史上いっさいの政治的、宗教的、法律的進化が経済的進化の原因ではなくって結果だということを原則として立てた。これは大きな、そして実りの多い思想だ。もっともそれは決して彼が発明したのではない。他の多くの人々によってすでに部分的に瞥見され説明されていた思想だ。しかし、その原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼の上に帰せられなければならない」。

 「が、プルードンは彼よりもいっそうよく、自由を了解しまた感得していた。プルードンは理論や哲学を言わないでも、革命家の本当の本能を持っていた。彼は悪魔を崇めて無政府を唱えた。マルクスはプルードンよりも、自由についてのもっと合理的な組織の上に、理論的に立つことはできるかもしれない。しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ」。

 そしてバクーニンはなお、彼自身とマルクスとを比較して、次のように言っている。「マルクスは今でもそうだが、当時僕よりよほど進んでいた。よほどどころではない。僕とは較べものならないほど学者だったのだ。僕は経済学をちっとも知らなかった。また形而上学的抽象論からも抜けきっていなかった。そして僕の社会主義はほんの本能的のものにすぎなかった。彼は僕より若かったのだが、(二人が会ったのはマルクスが二十六、バクーニンが三十の時だった)、すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。彼が今日のその学説の基礎を立てたのはこの時代だったのだ」。

(私論.私見)「バクーニンのマルクス評」について
 バクーニンは、マルクスの思想の深さ、それを経済学的に裏づけしようとする営為に対して高い評価を与えている。「博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった」と評している。他方で、プルードンのそれと比較して、「しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ」と批判している点も興味深い。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その3、マルクスのゲルマニズムについて】

 バクーニンはスラブ民族の解放を観点に据えていた。大杉は次のように述べている。1847.11月、バクーニンは1830年の最初のポーランド一揆を記念するポーランド人らの宴会に出て、そこで有名な大演説をやった。「ポーランド人とロシア人との和睦は、ニコラス皇帝の専制に対するその共同の革命的運動によって、はじめて事実になるだろう。しかもこの革命はすぐに来るだろう。そしてまた、ポーランド人とロシア人とのこの和睦は、同時に外国の覊絆の下にあるすべてのスラブ民族の解放をもたらすだろう」。

 バクーニンはもともとスラブ人をもっとも自由な性質の民族だと考えていた。そしてドイツから輸入された専制政府の覊絆さえ打ち破れば、そこから自然に若い自由な民族が発達してきて、それが世界の文明の進歩のため非常な助けをすると信じていた。バクーニンのパンスラビズムというのはそれだ。そして彼自身も「このスラブ対ポーランド問題は、1846年以来、僕の固定思想となり、1848ー1849年以来の僕の専門となった」と言っている。

 しかし、マルクスはそれとまったく正反対のいわゆるパンゲルマニズムを抱いていた。大杉は次のように述べている。「ドイツはロシアと結びついたために反動的になり、そしてこの影響が全ヨーロッパを専制に導くのだと主張していた。そしてこのパンスラビズムとパンゲルマニズムとは、バクーニンとマルクスとが後に純粋の国際的無産階級の革命を主張するようになってからも、いつもやはり二人につきまとっていたようだ」。
 バクーニンは、1849.4月に「スラブ人に与う」という小冊子を書いている。この小冊子の中で、その当時の彼の思想を明らかにした。それはスラブの革命主義者とハンガリーやドイツやイタリアの革命主義者を結合して、ロシア帝国とオーストリア帝国とプロシア王国の三専制君主国を倒し、かくして解放されたスラブ諸民族の自由な連合を組織するというのだ。

 マルクスはそれを読んで「バクーニンはわれわれの友人だ。しかしそれは彼の小冊子を批評することをわれわれに妨げないであろう」と言って、その「新ライン新聞」に批評を書いた。「ポーランド人とロシア人のほかは、そしておそらくはまたトルコのスラブ人のほかは、どのスラブ人にも将来はない。それは他のいっさいのスラブ人には、独立と活力の歴史的、地理的、政治的および産業的の重要な条件がないという単純な理由からだ」。

 このスラブ問題に対するマルクスと彼の意見の相違については、1871年にバクーニンがこう言っている。「1848年には、われわれの意見が違っていた。が、理屈は僕のほうよりも彼のほうに多くあったのだ。しかし次の一点は確かに僕のほうに理屈があった。僕はスラブ人としてドイツの桎梏からスラブ民族を解放したいと思った。しかるにマルクスはドイツの愛国者としてドイツの桎梏から自分を解放しようとするスラブ人の権利を認めなかった。今でもやはり彼はそれを認めていない。彼は、今でもまだそうだが、ドイツ人はスラブ人を文明化すべきすなわち否でも応でもドイツ化すべき天職を持っていると考えている」。

(私論.私見) 「マルクスのドイツ民族主義性」について
 「共産主義者の宣言」からは見えてこないマルクスの民族主義性が垣間見られて興味深い。こういう民族主義を根深く持ちつつ国際主義テーゼを打ち出していたという面を理解しないと、マルクス主義の実際像が見えてこないのではなかろうか。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その4、マルクスの罵詈雑言中傷癖について】

 バクーニンは、マルクスの性癖について次のように評している。「われわれはずいぶんよく会った。なぜなら僕は彼を、その学問ゆえに、またいつも個人的虚栄心は混じっていたが、ともかくも、無産階級に対する熱心なかつまじめなその努力ゆえに尊敬していた。そして彼との対話を貪るように求めた。彼の談話は、そこに卑劣な憎しみの入っていない時にはいつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、その憎しみがあまりにしばしば入ってきた」。

 「が、われわれの間には、隔てのない親しみというものは、決してなかった。われわれの気質がそれを許さなかったのだ。彼は僕を感傷的理想主義者だと言った。それはもっともだった。僕は彼を不実で危険な見栄坊だと言った。そしてそれもやはりもっともだったのだ」。

 アドラーはその「ドイツにおける社会民主主義の初期の歴史」の中でロシアの著述家スネンコフの言葉を引いて、マルクスのこの態度を認めている。「彼は絶対命令的の調子で話した。他人の少しの矛盾をも許すところがなかった。同時にまた彼は自分の使命を感じて、自分は人々を支配し人々に法律を規定するために生まれてきたものだと考えていた。一言で言えば、彼は民主的独裁者の権化だったのだ」。

 マルクスはまた、「その論敵に対してはなんの遠慮会釈もなく、その偉大な学識のゆえと、不幸にもまたその敵を攻撃する方法に無頓着なゆえとで、その論争は実に恐ろしいほどのものだった。彼には罵詈ざんぼうのない論争は絶対にすることができなかった。そしていつもその論争の外に出ては、事実の白を黒に変えてしまった」。

 なおバクーニンはそのフランスの一同志アルベール・リシアルに与えた手紙の中に、マルクスを「その伝習的にも本能的にも、撹乱的の、陰謀的の、搾取的のブルジョワ的の」人間だと言っているが、さらにエンゲルスについても同様のことを言っている。「一八四五年ごろ、マルクスはドイツ共産主義者らの先頭にたった。そしてそのすぐ後でその断金の友エンゲルスとともに、ドイツ共産主義者すなわち強権的社会主義者の一秘密結社を創立した。このエンゲルスは、マルクスと同じように学才があって、彼ほど博学ではなかったがその代わりにもっと実際的だった。そして政治的中傷や虚言や陰謀にはマルクスに劣らないほどたけていた」。

(私論.私見)「マルクスの罵詈雑言中傷癖」について
 もう一つのマルクス、エンゲルス像が垣間見られて興味深い。マルクス主義者はマルクスを聖像化するあまりにこういう気質性癖的なマルクスの個性を見失いがちである。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その5、マルクスのバクーニンに対するスパイ呼ばわりについて】

 バクーニンの急進主義的革命的決起闘争は続いており、支持も強かった。その頃ロシア大使キスレフにより概要「スパイとして使っていたが、やり方が少し激しすぎるので免職にしたのだ」という噂が広められた。フランスの内務大臣デュシャテル伯爵も、貴族院での質問に対して、それを裏書きするような答弁をした。その後もバクーニンに対する「買収」の噂が立てられた。マルクスとエンゲルスは「新ライン新聞」を創めようとしていた時期であるが、「バクーニンスパイ説」に対してむしろ政治主義的に対応した形跡がある。

 そういう流れにあったせいであろうか、バクーニンは同志ヘルヴェクに次のような手紙を送っている。「マルクスとエンゲルスとがーーことにマルクスはーーここでもいつもの悪事をやっている。虚栄、奸佞、悪口、理想の高言と実行の臆病、生命や活動や誠実を論じて、その生命や活動や誠実のまるでないこと。文学好きの労働者や雄弁な労働者に対するヘドの出そうな手練手管、フォイエルバッハをブルジョワ的だと罵っていること。ブルジョワ以外の何人でもない人間どもが、他人に対してこのブルジョワという言葉を飽かずくり返していること。一言でいえば、ウソとバカと、バカとウソ。そんな人間の間では自由な呼吸もできない。で、僕は彼らの共産主義者同盟には入らず、また、彼らとは何事も一緒にしたくない(ということを明白に宣言した)」。

 そういう最中に、「新ライン新聞」紙上に、パリ通信として次のような記事が載った。「このポーランド一揆について、こう断言する者がある。ジョルジュ・サンドはここから追放されたロシア人ミシェル・バクーニンをひどく窮地に陥れる文書を持っている。それには、彼は新しく雇い入れられたロシアの一スパイで、そして彼は最近の不幸なポーランド人らの捕縛の主役を勤めていると書いてある。ジョルジュ・サンドはこの文書をその友人のある者らに見せた」。

 バクーニンはすぐに一文を書いてこの中傷の反駁をした。それはまずブレスラウの一新聞に発表されて、さらに「新ライン新聞」にも転載された。そしてバクーニンはなお、ジョルジュ・サンドにも手紙を書いて、彼女の名がそんなことに使われたことについての説明を求めた。ジョルジュ・サンドはすぐにその返事を「新ライン新聞」の主筆に送った。「あなたの通信員が報告したことはまったく間違いです。私はかつて、あなたがバクーニンに対して求めようとしている風説のなんの証拠をも持っていたことがありません。この手紙はすぐにあなたの新聞に載せて下さるよう、私はあなたの名誉と良心とに訴えます」。

 マルクスはこの手紙を新聞に載せた。そして同時に彼がパリ通信員のざんぼうを発表したことについて、次のような説明をした。「かくのごとくにしてわれわれは公人を厳重に監視するという、新聞の義務を果たしたのだ。そして同時にまたわれわれはそれによって実際パリのある団体でいだかれていた疑いを晴らす機会を、バクーニンに与えたのだ」。

(私論.私見)「マルクスの 「バクーニン・スパイ説」に対する政治主義的対応について
 マルクスの「バクーニン・スパイ説」に対する政治主義的対応はいかがなものだろうか。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その6、マルクスの戯談について】
 その翌月、バクーニンはベルリンでマルクスに会った。そしてとにかく仲直りをした。その後バクーニンはこのことについてこう書いている。「二人に共通の友人らがとうとうわれわれを握手させてしまった。そしてその時、戯談半分の妙な話の間に、マルクスは僕にこう言った。今僕は非常によく訓練された共産党の秘密結社を率いているんだがね。で、僕がその党員の一人にバクーニンを殺してこいと言えば、そいつはすぐ君をやっつけてしまうんだぜ。 この話の後、われわれは一八六四年まで会わなかった」。

 マルクスが1848年に「戯談半分」に言ったこのことは、それから24年後にこんどはまじめに実行されようとした。第一インターナショナルの中で、無政府主義者らの反対がマルクスの行なおうとした個人的支配の邪魔になった時、彼はまったくの精神的暗殺でもって、バクーニンをやっつけてしまおうとしたのであった。
(私論.私見) 「マルクスの『戯談半分』」について
 真偽確かめようが無いが、言葉を失う。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その7、バクーニン派の闘争に対する冷淡さについて】

 当時ライプツィヒでバクーニンと会った、マルクスやバクーニンの先輩のアーノルド・ルーゲによると、「バクーニンは非常な苦心をしてロシアで一揆を起こす資金をようやく手に入れた。そして今、彼がブレスラウへ行くのも、ロシアの国境の近くにいて、その一揆を起こす準備のためだったのだ」。そして「バクーニンはそこで多くの人々と関係を結んだ。彼はその才智と愛すべき性格とから、みんなに敬愛されていた。彼はその計画した目的のために、多くのロシア人をその周囲に集めた。彼はまた同じようにしてチェコ人とも連絡を結んだ。そして種々のスラブ民族が互いに了解するように、スラブ人の大会をプラーグで開くことにきめた」。

 「ボヘミヤの政治」の著者ヤコブ・マリーによるに、この一揆が起こって、兵士らが街路に集まり出した時、バクーニンやその他の大会会員の多くのポーランド人が泊まっていた青星ホテルの窓から盛んな銃声が起こった。そしてその後秘密の一揆政府が設けられていることがわかった。そこにはバクーニンやその党派の者らが陣取っていて、机の上にプラーグの地図を拡げて、その一揆を続ける命令を出していた。

 バクーニンはそのパンスラビズムの実行のために、ドイツ民主主義者とともにスラブ民主主義同盟を作って、みずからドレスデンの防御の指揮に当たった。このドレスデン防御というのは、1849.5.3日に爆発した民衆の一揆で、フランクフルト議会が可決したドイツ帝国憲法をサクソン王が拒絶したことから起こったものであった。翌日王は逃亡して仮政府ができた。そして叛徒らは五日間ドレスデンの主人となっていた。

 四月の中頃にはバクーニンはライプツィヒからこのドレスデンに来て、叛徒の首領の一人となり、プロシア軍の攻撃に対するもっとも有力な防御方法を講じていたのだった。バクーニンの偉大な風采とロシアの革命家だということが、民衆の注意を特に彼の上に引いた。そしてすぐ彼の身辺に噂が拡まった。その中にはドレスデン中に防御の火を放ったのは彼一人でやったのだというような噂もあった。ある人はまた彼を「全革命の魂そのものだ」と言った。そして彼は実に「泣く子を黙らす」ほどの勢いだった。

 バクーニンはその革命的本能から、この一揆がもっと大きく拡がるものと思った。そしてこの一揆のほとんど独裁者というような、重要な役目を勤めた。五月八日、ライプツィヒの代議員らの前で、バクーニンはこのドレデン防御の全ヨーロッパにおける価値について演説した。そしてその日から、ステファン・ボルンという若い活版工が叛軍の司令官となった。ボルンはその前年アルバイテル・プリウンテルンク(労友会)というドイツ最初の一般的労働者団体を組織した男であった。

 翌九日、叛軍は優勢な敵軍の来襲に遭って、フライベルヒへ退却した。バクーニンはその途でボルンを説いて、なお彼に残っている叛徒らとともに、このボヘミヤの土地で一揆を起こそうとした。が、ボルンはそれを拒絶してその軍隊を解散した。そしてバクーニンは仮政府のホイプナーや音楽家のリヒアルト・ワグナーといっしょにヘムニツのほうへ落ちていった。九日から十日にかけての夜の間に、武装した市民らがホイプナーとバクーニンとを捕えてプロシア軍に引き渡した。ワグナーはその妹の家に隠れてようやく逃げおおせた。

 ドレスデンでのバクーニンの行動は、実に断乎たる一戦士としての、また炯眼な一首領としての行動であった。そして、「そこで彼は非常な名声を博して、その敵ですらもそれを否むことができなかった」とゲルツェンが言っているごとく、さすがのマルクスもそれを認めないわけにはゆかなかった。マルクスは「ニューヨーク・デーリー・トリビューン」に連載した「ドイツにおける革命と反革命」の一章の中で「叛徒らはほとんどまったく付近の工場地方の労働者ばかりだった。そして彼らはミシェル・バクーニンというロシアの亡命者に、才能あるそして冷静な一首領を見いだしたのであった」と言っている。

 かくしてバクーニンは、ドイツで死刑の宣告をうけ、さらにオーストリアで死刑の宣告を受けて、ついにロシア政府に引き渡され、前後十三カ年の牢獄と追放との後に、一八六二年六月シベリアから逃亡して、十二月ロンドンに着いた。

(私論.私見) 「バクーニン派の闘争に対する冷淡さ」について
 左派運動圏のイニシアチブ闘争が介在していたのかも知れないが、マルクス主義派のバクーニン派に対する姿勢は冷淡とみなすべきではなかろうか。

【プルードン、バクーニンとの交流及び対立考その8、第一インターを廻る抗争について】

 そしてすぐまた彼はポーランド一揆を計画して、63.2月、その一揆の勃発とともにロンドンを去ったが、その首領らの無能と不和とはことごとに失敗を招かしめて、バクーニンはふたたびまたロンドンに帰った。そしてすぐにまたフィレンツェへ出かけ、翌年さらにそこからスエーデンへ行って、ロンドンとパリとを経てまたイタリアに帰った。その時彼はロンドンではマルクスに会い、パリではまたプルードンに会った。バクーニンはロンドンでのマルクスとのこの会見についてみずから次のように語っている。

 さきにバクーニンがシュルッセルブルグの牢獄にいた間に、またマルクスらの社会主義者は、バクーニンはロシアのスパイだという例の中傷を蒸し返した。マルクスはその弁解のためにバクーニンを訪ねたのであった。「ゲルツェンの言うところによると、その後インターナショナルの主なる創立者の一人となり、そして僕がいつも一大学才を持ったそしてもっぱら労働者の解放という一大事に身を献げた人としてみていたカール・マルクスが、この中傷に大いにあずかっていたのだ。が、僕はたいしてそれを驚きもしなかった。僕は僕の過去の経験から、ーーなぜなら僕は彼を一八四五年以来知っているのだ、ーーこういうことを知っていた。僕がいつもその大きな才能を認めてきた、そして今後ともきっとそれを認めてゆくだろうこの有名なドイツ社会主義者は、しかしその性格の中に、人道と正義とのまじめな、そして熱心な主張者にみるよりも、むしろドイツの諸新聞に通信するユダヤの文士に見るような、ある性質を持っている。で、僕は一八六二年にロンドンに着いた時にも、彼との交際を新しくすることはもちろん望ましくないので、彼を訪ねることもしなかった。一八六四年に、僕がロンドンを通過した時、彼は自分で私を訪ねてきた。そして彼が決して、直接にも間接にも、僕に対する中傷になんらあずからなかったことを私に断言した。そして彼自身もその中傷を実に怪しからんといっていた。僕はそれを信じなければならなかった」。

 バクーニンは、マルクスが、その創設しようとするインターナショナルへの加盟を勧告したのにもかかわらず、それを拒絶して、その年イタリアでの最初の無政府主義団体である社会主義革命家同盟という秘密結社を組織した。 そしてマルクスの政府的方法は、後にバクーニンがその加盟したこのインターナショナルの中で、その極に達したのであった。

(私論.私見) 「第一インターを廻る抗争」について
 この辺りもっと考察される必要があるように思われる。




(私論.私見)



以下の文はアエラ・ムック・シリーズの『マルクスがわかる』(朝日新聞社、1999年10月10日刊)に寄せた文。
「マルクスを読みなおす」コーナーに含まれる。
コラム用の短文「私のはじめてのマルクス」も末尾に付加した。

(1999年7月9日)

 
マルクスの『哲学の貧困』を読む

斉藤悦則

テキストの成立経緯

 『哲学の貧困』はフランスの思想家プルードンの著作『貧困の哲学』(一八四六年)に対する批判の書。一八四七年にフランス語で出版された。書名そのものからもマルクスの才気と悪意がうかがえる。
 当時、マルクスは二八才、パリ、ブリュッセルと移り住む無名のドイツ人亡命者であった。一方、九才年長のプルードンはすでにヨーロッパ思想界のスター級の存在であり、マルクス自身もかつてはプルードンを大いに賛美していた。
 二五才の頃、マルクスはパリでプルードンと交わり、独仏交流の評論誌への参加をよびかけている。しかし、プルードンはこの若者がほかのドイツ人亡命者を非難するその言葉の激しさや心根の狭さにいささかあきれる。プルードンは社会変革の活動のなかでも「あらゆる異議の歓迎、すべての排他性の払拭」が大事と諭すのだが、マルクスにはそうした発想こそがプロレタリアートの運動にとって有害と思われた。寛容やバランス感覚を重んじるのはプチ・ブル(小ブルジョア)的な感傷にすぎない。そこで、マルクスはそれまでの友好的な態度を改め、相手を理論的に打ちのめして、プルードンが革命家たちに与えている影響力を失わせようと企てる。
 プルードンの『貧困の哲学』はまさしくバランスをテーマとする本であった。彼によれば、人類の経済的営みはいずれも自らの福祉(より良い暮らし)を求めるが、その営みそのものが同時に弊害(悪)を生む。それを克服しようとする営みもまた新たな弊害を必然的に生じさせる。たとえば、分業は生産性を飛躍的に向上させるが、同時に人間を愚鈍にする。人間を単純反復作業から脱却させるため、機械制を導入すると、生産性はさらに高まるが、人間は機械の奴隷と化す。人間に主体性を取り戻させる仕組みとしての競争は、人間に創意と工夫を発揮させ、生産性をますます高めるが……。
 というぐあいに、プルードンの見るところ、すべての経済カテゴリーはその内部に対立をはらむ。対立しあう二項はともに正当な存在理由をもつ。単純素朴に「良い面だけ保持して、悪い面だけを除去」するわけにはいかない。両面はいずれもそのカテゴリーの必然的で本質的な属性だからだ。しかも、こうした矛盾こそが経済にダイナミズムをもたらす。否定面を否定しても、それはさらなる否定を求めるから、したがって、われわれはどこまでも矛盾とともに生きてゆくしかない。矛盾の解消を求めるのは生気のない停滞を望むことにひとしい。矛盾のはざまに立ち、あるいは人間の歩行運動のように、バランスをくずしつつバランスを追求すること、これがプルードンのヴィジョンであった。
 プルードンの『貧困の哲学』(副題=『経済的諸矛盾の体系』)は分厚い本だが、マルクスは二日で読了。そして、ただちに批判にとりかかる。 

内容

 批判の書『哲学の貧困』は二つの章からなる。第一章はプルードンの経済学を批判し、第二章は哲学を批判する。

 経済学を批判するといっても、それはプルードンの価値論がリカードの労働価値説より劣っていると主張しているだけのものである。その眼目は、プルードンを平等主義者に見立てる点にある。相手を素朴で幼稚な社会主義者のように描き出し、最高水準の経済学者(マルクスにとってのリカード)と見比べて、「平等主義的な結論」のお粗末さを笑う。フェアなやり方ではない。
 プルードンはその著作(全一四章)の第二章で価値論をあつかうが、その前の第一章では経済の科学について論じ、現状に添い寝する「経済学」と夢見心地のままの「社会主義」の不毛な対立を浮き彫りにした。そして、経済学の礎石である「価値」の概念にも矛盾があるとし、以下すべての経済カテゴリーにおける矛盾の系列的な連鎖へと叙述をつなげてゆく。マルクスによる批判は、相手の積極的な部分とわたりあって議論を高次化するたぐいの批判ではない。相手の弱点をさぐり、そこを集中的にたたく。引用文を並べて客観性を装いつつ、相手の言い分を巧みにゆがめる。

 哲学批判の部分はさらにその傾向が強い。
 マルクスはいう。「彼にとって、解決すべき問題は、悪い面を除去して良い面を保存することである」。そうではない、とプルードン自身が言っているにもかかわらず、マルクスはこのフレーズをくりかえす。さらに、「悪い面こそ歴史をつくる運動を生みだすのである」というが、これはもともとプルードンの発想。
 マルクスがこうした荒っぽい手口を用いるのは、彼がそこで理論闘争ではなく政治闘争を展開していると意識していることによる。プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争、その全面的な対決の前夜にあっては、プルードンのような客観主義的な態度は許されない。プロレタリアートの革命的気概の盛り上がりにとって、小ブルジョア的な感傷やためらいは有害である。革命運動からプルードンの影を一掃しよう。マルクスにとって、これはどんな手を使ってでもやりとげなければならないことであった。
 最後にマルクスは「労働者のストライキは非合法である」というプルードンの言葉を引用し、その反革命性を印象づけようとする。プルードンのレトリックを無視した引用で、もとの文意を逆にしてみせた。なにしろここは戦の場なのだから、何でもありなのである。
 すべてを戦争になぞらえるマルクスのしめくくりの言葉は一段と勇ましい。「戦いか、死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている」というジョルジュ・サンドを引用し、「社会科学の最後の言葉」はこの一句につきるとする。すなわち、戦闘性をそなえない社会科学は無意味だと結論した。 

この本から何を学ぶか

 この本はプルードン批判としては問題があり、じっさい発刊当時はほとんど売れず、社会的インパクトはゼロに近かった。しかし、いったんマルクスが偉くなると様子が変わる。青年マルクスの口汚い罵りの言葉までもが神々しく、ありがたく読まれるようになる。本書は、偉大な思想が卑小な思想を木っ端みじんにうち砕く痛快な読み物として、また白と黒をはっきりさせてわれわれがどちらの側に立つべきかを教えてくれる階級闘争の教科書として、マルクス主義の必読文献の一つとされた。
 それはついこのあいだまでの風潮。いまでは、もっと別の読み方が大きな顔をしてできるようになった。たとえば、ここで青年マルクスを等身大のまま見ようとすれば、自分の新しいアイデンティティを獲得するために父親殺しを試みる若者の姿が浮かんでくる。口調の激しさは自己否定の苦悶とその断固たる意志をあらわす。
 また、初期と後期のマルクスの落差を知るための資料として読むのもよい。これはごくマニアックだが、同時にきわめてオーソドックスな読みのスタイルである。マルクスについて、こじゃれたことを言って悦に入りたいなら、本書をはずすわけにはいくまい。
 マルクスの思想形成の過程において、この著作が一つの大きな節目をなしていることはたしかである。マルクス自身が後年(『経済学批判』の序言で)述べているように、彼はここにおいて「科学的」方法を確立し、それまでの哲学的意識を精算できた。すなわち、経済学の面では自分のうちにあった「平等主義」的な感傷から脱却し、哲学の面ではいわゆる史的唯物論の骨格をここでつくりあげることができた。
 したがって、マルクスの著作のあれこれを読んだ後ならば、この本はマルクス理解のために大いに役立つ。では、初心者はこの本を敬遠すべきなのだろうか。単独のテキストとして読んではいけない本なのだろうか。いや、そうではない。この本は単独でも十分楽しめるし、十分タメになる。そこで、初心者向けに読みのコツを一言。
 まず、第一章は飛ばし読みをお勧めしたい。価値論の部分は話がこまかいばかりでなく、ここでのマルクスはリカードの価値論の枠内にとどまっているので、読者はとりあえず悪口の言い方やマルクスの小物っぽさを楽しめばそれでよい。
 その点、第二章は読ませる。読んでいるうちに自分まで頭が良くなったような気分になる。プルードンに対する批判の当否を棚上げにし、一種の文学作品として批評の芸を味わえば、また一段と楽しい。歴史が好きな人にはさらに御利益がある。第二章の話の大筋は歴史のとらえ方にかかわっており、読めばなるほどとうなずかされる巧みな叙述が続く。これが歴史の法則性についてのすぐれた教科書とされてきたことも納得できる。
 もちろん、その結論部分は重要だ。すなわち、階級対階級の闘争を語った部分から、階級概念の新しい可能性についてヒントを得られるかもしれない。いまからこの本を読もうとするぐらいの人なら、あるいはとんでもない読み方ができて、新しい道を開くかもしれない。そして、とんでもない読み方こそが、この本には一番ふさわしい。

 

私のはじめてのマルクス

 上京して大学の寮に入り、寮食堂の食券を買った日だと思う。「マルクス・レーニン研究会に参加しませんか」という寮内放送。「津田塾の学生も参加します」と続いた。マルクスとかに関心はなかったが、女子大生には近づきたかった。即、参加する。
 参加して、女子大生の件ではがっかりさせられたが、研究会は思いのほか楽しかった。留年を重ね教養課程の主と化していた男がチューターで、漢字の読み間違いは多いが、話は感動的だった。なにしろ政治や経済、森羅万象のことごとくを解説してくれる。そして、それはマルクス・レーニン主義を学んでいるおかげだという。
 どんな問題にも正解があると思っていたので、これにはしびれた。マルクスを学べば蒙がひらかれると確信した。じじつ、本を読んでいくたびに少しずつ「正解」を獲得しているような気がした。幸せだった。

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