マルクス主義の思想的源泉(マルクス主義が生み出される経過について)

 (最新見直し2010.10.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 マルクス主義が生み出される経緯を明らかにしたい。しかし、今現在腰を落ち着けてこれを論及することがせできないので、社労党の論文を紹介しておく。

 2004.2.13日再確認 れんだいこ拝 


 マルクス主義は歴史上突然に生み出されたものではない。先行する時代の理論と実践があり、それを如何に学んだかを観るのがマルクス主義を学ぶ際に重要なことでもある。以下、それを概観しておく。

 近いところで十六世紀初頭に登場したトーマス・モアの社会主義が踏まえられねばならない。それはやがて三人の空想的社会主義者(サン・シモン、フーリエ、オーエン)へ流れ着くことになるので、その前段階の社会主義として位置付けられる。

 15世紀から16世紀にかけての西ヨーロッパの状況は、地理上の発見により世界貿易の基盤が形成されるとともに、手工業からマニュファクチュアへの移行がすすめられた時代、「資本の本源的蓄積(「資本論」24章参照)がすすめられた時代であった。イギリスでは羊毛産栗が発達し始め、貴族は耕地を牧羊場化し、農民を大量に農村から追放した(これを「囲い込み」という)。このために農民は、村から村へ、町から町へと放浪していくことになった。トーマス・モアは、こうしたイギリスの状況を告発し、“どこにもない国”としての「ユートピア」(理想郷)について語った。

 この同じ時期にドイツではトーマス・ミンツアーに指導された革命的農民戦争が闘われ、エンゲルスは、「農民の背後に財産の共有を口にする」プロレタリアートの前身がいたとみなしているが、モアもまた土地から追放された農民(近代的プロレタリアの前身)への同情と共感を表明した。第一巻で次のように述べている。「おかげで、国内いたるところの田地や家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、……その土地の貴族や紳士(ヨーマン)や、その他自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家のためになるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです」。

 モアには、この過程を、イギリスの資本主義的発展形成過程であり同時に近代プロレタリアートの創出過程であること、この資本主義的発展の中に大きな矛盾を観るという視点はなかったが、土地から追放された農民が、食うに困って泥棒をやらねばならなくなるといった事態について、人々に盗みをさせるようにしておきながら、それを残酷な刑に処する不合理を激しく非難した。モアは、次のように私有財産制への批判を展開している。「あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道である。……そして、この平等ということは、すべての人々が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行われるべくもない……こういう訳で、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福がわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません」。

 そして第二巻で手工業を基礎にした40人程の家族集団を単位としたユートピア社会について語る。そこでは労働時間は6時間とされていた。そこでは、「自分で何もやってない連中」、「やっているとしても大して必要でないこと」をして怠惰な生活を送っている連中、つまり不生産的な不労階級がいないことを前提として、人間は全員が共同して生産し、共同して消費する、共同食堂が設けられ、貨幣は存在せず、政治的には「民主主義」が実行される、とされていた。

 このモアの「ユートピア」の中に時代的制約をみることは容易である。例えばマニュファクチュアが支配的になっているのに手工業を基礎にした社会を展望するとか、家父長制を認めているとか、宗教の容認とか、等々やや旧時代の在り様に墨守的であった。ただ中世の共産主義思想とは次の点で違っていた。キリスト教の観念に訴えて理想社会(千年王国など)を展望するというより、現実の資本主義の矛盾を理性的に解決し、理性にかなった社会組織――それが空想的ではあれ――を展望したことである。

 モアの「ユートピア」は大衆の悲惨な状能への同情や共感はあったにしても、登場しつつあった近代プロレタリアートを、未来を切り開く社会勢力としては全く考えていなかったこと(本書はラテン語で書かれた)、現実の矛盾に対して理性的思考から到達した一つの理想郷の描出にすぎなかったことなど指摘できるが、これは後の三人の空想的社会主義者に共通する特徴であり、モアの意義は一つの先駆的役割を果たしたというところにある。(社労党・山田明人)第3回 空想的社会主義Aモアの「ユートピア」


 このモアの思想が「サン・シモン、フーリエ、オーエン」らマルクスやエンゲルスによって「遠大な空想的社会主義者達」と呼ばれた人々に引き継がれていく。彼等が登場したのは1800年代初頭で、イギリスでは一八世紀後半の産業革命により大工業が発展しはじめ、フランスでは1789年のフランス革命が成功したすぐ後の頃のことです。

 彼らは、資本主義に対する批判的な認識を出発点にしていました。被らは、フランス革命を準備した啓蒙思想家のいう「理性の王国」が実際にはブルジョアジーの国の理想化に他ならないことをつぶさに経験していた。永遠の「正義」はブルジョア的司法の実現であり、平等はブルジョア的平等であり、人権とはブルジョア的所有権に他ならない。大衆の貧しさやみじめさが資本主義の存続の必要条件の一つになっていることを洞察し貧富の対立がいっそうひどくなることを見抜いていた。三人の「遠大な空想的社会主義者達」は、この「理性の勝利」した社会がそれ以前の社会=封建社会に比べて合理的であったとはいえ、少しも理性的でないことを鋭く暴露した。

 しかし、三人には共通した限界があったとして、次のように指摘されている。「この三人のすべてに共通の点は、彼らが、そのころ歴史的に生まれていたプロレタリアートの利害の代表者として登場したのではないということである。啓蒙思想家たちと同様に、彼らは、まずある特定の階級を解放しようと思わないで、いきなり全人類を解放しようと思った。啓蒙思想家たちと同様に、被らは理性と永遠の正義の国を実現したいと願った」(「空想から科学へ」)。

 このエンゲルスの指摘は重要である。「遠大な空想的社会主義者達」の限界は、プロレタリアートの歴史的使命を認識し得ず、その解放を通じてのみ道が開けることを洞察しえず、全国民的な利害の代表者として登場し、いきなり全人類の解放思想に拘っていたと指摘しているということである。ここが、マルクス・エンゲルスによって「空想的」たるゆえんの一つとされていたところである。今日でも、この種の思想が語られている。「同じようなおしゃべりを、日本の社共は階級政党でなく国民政党だといった形で再現してはいないでしょうか。日本のように資本主義が高度に発展している社会――生産の社会化が極度におしすすめられ、社会主義の物質的基礎が十二分に形成され、またその事業を担うべきプロレタリアートが存在している――で、プロレタリアートの階級利益の代表者として闘わない人は、エンゲルスのこの指摘から何も学んでいないことを暴露しているのです。」と揶揄されている通りの思想がはびこっている。マルクス・エンゲルスの規定による限り、マルクス・エンゲルスが確立した思想ではないということになる。

 「勿論、空想的社会主義者と社共を同列におくことはできません(空想的社会主義者がかわいそうです)。というのは、彼らがいきなり全人類の解放者として登場したのは、当時の時代的制約と不可分だったからです。当時、プロレタリアートは登場しはじめていましたが、まだ未熟な段階でした。プロレタリアートとブルジョアジーの本格的闘争は、大工業の急激な発展が前提となるからです。大工業の発達こそ資本と賃労働の階級対立を深化拡大し、生産力と生産関係の矛盾をぬきさしならないものに発展させるのです(そしてその矛盾の解決の手段をも準備、形成するのです)が、当時の社会はそこまで十分に発展していませんでした。とすれば、これら社会的な弊害を除去するためには、現実の社会的関係の中にではなく、啓蒙思想家と同じように理性の力によって頭の中で(解決策が)つくり出される以外になかったのです」という観点も必要であろう。
 
 「空想から科学へ」は云う。こうした社会主義が一つのユートピア(その細部が詳しく仕上げられれば仕上げられる程)にしかなりえなかったのは、必然であった。「これらの弊害をとりのぞくのは、思考する理性の任務であった。社会的秩序の新しい、より完全な体系を孝えだして、これを宣伝によって、できれば模範的実験の実例をつうじて、社会に外からおしつけることが必要であった」。むしろ、この三人の天才たちの「空想の覆いの下から」いたるところで顔を出している「天才的思想の萌芽」を観るべきであるとして、種々考察紹介している。

 空想的社会主義者がその時代的制約から、空想家たらざるをえなかったとすれば、大工業が本格的に発展してきた十九世紀半ばに登場したマルクスやエンゲルスによって、社会主義は空想から、「実在的な基礎のうえ」にすえられる必要がありました。こうして、社会主義論は、空想から科学に発展していくことになった。(社労党・山田明人)第3回 空想的社会主義Bいきなり全人類の開放めざす――三人の偉大な空想家




(私論.私見)