マルクス、エンゲルスの履歴と協働と著作集

 (最新見直し2010.12.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 マルクスとエンゲルスの協働は、その同一も差異も「精神的姻戚関係」とみなすべきであろう。この観点が基本ならなければならず、徒に差異を強調するのは如何だろう。但し、革命的弁証法に於いて、マルクスのそれが全面全域的であり、エンゲルスのそれがやや二元的公式的な気がしない訳でもない。この観点より他にマルクスとエンゲルスの協働を論ずるのは為にするものでしかなかろう。

 2005.12.11日 れんだいこ拝


マルクスとエンゲルスの協働関係考
 マルクス主義は、18世紀中頃よりカール・マルクス(Karl Heinrich Marx,1818−1883)とエンゲルス(F・Engels,1820−1895)の協働によって生み出された。

 但し、この功績に対し、エンゲルスは次のように云っている。なかなか的確な客観描写であるように思われる。
 「ヘーゲル学派の解体からその他になおもう一つの方向が現れた。これは実際に実を結んだ唯一の方向で、この方向は本質的にマルクスの名と結びついているものである」

 エンゲルスは補足して次のようにも云い為している。
 「私が40年にわたるマルクスとの協働のあいだに、またそれ以前にも、この理論の基礎付けに対して、また主としてその仕上げに対して、独自にいくらかの寄与をしたことは、私自身もこれを否定することは出来ない。しかし、指導的な根本思想の大部分(特に経済と歴史の領域での)と、特に根本思想の最後的で精密な定式化とは、マルクスのものである。私が寄与したものは−せいぜい二、三の専門を除けば−マルクスがやろうとすれば、私無しにでもやれたであろう。マルクスがしたことは、私には出来なかったであろう。マルクスは我々全てよりも一層高いところに立ち、より遠くを見、より多くまたより速やかに展望した。マルクスは天才であった。我々はすべてせいぜい能才であった。マルクスがいなかったら、この理論は今日のその状態よりずっと遅れていたであろう。従ってまたそれがマルクスの名を付けられているのは当然である」(「フォイエルバッハ論」)。

 エンゲルスの次の言葉も味わい深い。
 概要「良識ある知識人は、歴史的な出来事に対し愚痴を言ったりはしないものだ。それどころか出来事の原因を理解しようと努力し、と同時に未だ完全には出てきていないその結果についても解明しようとするものなのである」

 2008.5.20日 れんだいこ拝

エンゲルス レーニン

【「マルクス」(Marx, Karl)、 (1818.5.5−1883.3.14)】
 19世紀ドイツ生まれの世界史上傑出した思想家兼社会主義者。マルクス主義と云われる共産主義理論の創始者で、この理論に基づく国際労働者運動、革命運動の指導者。一般に次のように評されている。
 「マルクスの学説は、1・ドイツの古典哲学、2・イギリスの古典経済学、3・フランスの革命学説を3つの源泉として、哲学としては弁証法的唯物論、およびこれを歴史と社会に適用した史的唯物論を確立し、この方法を用いて資本主義社会の運動法則を明らかにする経済学と、社会主義をめざす労働者階級の階級闘争の理論および戦術を樹立した。レーニンはこのマルクス主義を継承し、発展させた」。

【マルクスの生い立ちと家系】
 1818.5.5日、ドイツ(プロイセン)の工業地帯ライン州のトリール市(Trier、ライン・プロシャ)に生まれた。生涯の盟友となるフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は2年後の1820年に生まれている。ライン州の土地柄について、宮本百合子「カール・マルクスとその夫」は次のように記している。
 ドイツの南の小さい一つの湖から注ぎ出て、深い峡谷の間を流れ、やがて葡萄の美しく実る地方を通って、遠くオランダの海に河口を開いている大きい河がある。それは有名なライン河である。太古の文明はこのライン河の水脈にそって中部ヨーロッパにもたらされた。ライン沿岸地方は、未開なその時代のゲルマン人の間にまず文明をうけ入れ、ついで近代ドイツの発達と、世界の社会運動史の上に大切な役割りを持つ地方となった。早くから商業が発達し、学問が進み、人間の独立と自由とを愛する気風が培われていたライン州では、一七八九年にフランスの大革命が起った時、ジャコバン党の支部が出来、ドイツ人でフランス革命のために努力した人々が沢山あった。ナポレオンの独裁がはじまった時、ライン十六州は、ライン同盟を結んでナポレオンを保護者とし、その約束によって商工業の自由も守られ、ドイツの反動政策の圧迫にかかわらず、進歩的な自由思想が充ちていた。

 マルクス家はユダヤ人の家系でラビ(律法師)の家柄の上層に属していた。父の名はハインリッヒ・マルクス。彼は弁護士で後に法律顧問官となっている。マルクスの本名はヘブライ名でモルデカイ。母のアンリエットもオランダ系のユダヤ人。こちらもユダヤ教のラビ(律法師)と云う家柄だった。 1824年、マルクスが6歳の時、一家をあげて新教プロテスタントに改宗している。
(私論.私見) マルクスのユダヤ的DNA考
 ポーランド系ユダヤ人アイザック・ドイッチャーの「非ユダヤ的ユダヤ人」は、次のように記している。
 概要「マルクスは、ドイツ革命で名高い女流革命家ローザ・ルクセンブルクや、ユダヤ名ブロンシュテインと云ったトロツキー等と共に、『余りに狭量で古くさく、圧倒的な』ユダヤ人社会の限界を越え、脱出を図ったと記されながら、彼等の中にはユダヤ人の生活とユダヤ人的知性の本質的な物が宿っている」。

 つまり、マルクスも又「非ユダヤ的ユダヤ人の典型」であった。

 ユダヤ人と革命的急進主義とは並々ならぬ強い絆で結ばれている。ジョルジュ・バトウは、著「ユダヤ人問題」の中で、「ユダヤ人気風を反逆心と同一だ」と述べている。ヤコブ・ワッセルマンは、「ドイツ人でありユダヤ人である私の生涯」と云う自叙伝で、概要「ユダヤ人こそ現代のジャコバン党員である。ユダヤの急進主義は、其の伝統的救世主義(メシアニズム)に由来し、社会の全領域に拡がったものである」と指摘している。 

 フリツ・カーンの「人種及び文化的民族としてのユダヤ人」は、次のように述べている。
 概要「マルクスは、モーセやキリストと共に熱烈な愛他主義であり、社会主義の観念や地上に於ける神の王国の観念の重要な擁護者である。彼こそユダヤ精神の顕現者である」。

【少年及び青年時代】
 多感な青年時代普通じてマルクスは19世紀30・40年代の革命的事件の影響を受けた。1831、34年には絹工業の中心地リヨンに労働者の反乱が起こり、市は数日間労働者の手中にあった。彼らの旗には「労働によって生きずば、戦いによって死なん」と印されてあった。続いて1844年にはシュレージェンの織工の反乱が勃発した。これらの反乱は、僅か一つの市にすぎないとはいえ、ブルジョアジーの搾取と抑圧に対する反逆の旗を掲げ、労働問題を第一線におしすすめた。

 他方イギリスでも、産業革命の進展を背景に、労働者の選挙権拡張運動=チャーチズムが広汎な労働組合の支持をえて開始された。彼らの運動は全ブルジョア社会に向けた革命的綱領をもたなかったとはいえ、普通選挙権、被選挙者の財産上の制限の撤廃等の要求を掲げ、労働者を一つの独立した政党に組織しようとす運動であった。こうしたプロレタリアートの運動の発展・高揚は、マルクスが成年に達するのと時を同じくしていた。

【大学生時代】
 1835年、トリールの高等学校(ギムナジウム)で予備教育を終えて、35年以降ボン大学で、ついでベルリン大学で最初は法律学を、後には歴史と哲学を研究した。後にマルクスの語ったところによれば、彼は、「専攻は法学であったが、しかし私はそれを二次的に学んだにすぎず、もっぱら哲学と歴史を研究した」(「経済学批判・序言」)と云う。

 この頃のマルクスの動向は知られていない。「マルクシズムの起源 2」は、その一端を垣間見せている。それによると、マルクスは、学生時代に戯曲「ウーラネム」(原語のOulanemは、神の御名Emmanuelのアナグラムであり、逆つづりである)を書いており、ゲーテの「ファウスト」の影響を受けている様子が分かる。ゲーテは同書の中で、悪魔メフィストフェレスに「存在するすべてのものは、破壊に値する」と語らせており、マルクスはこの文句を
愛好した。これは、「ルイ・ボナパルト」の中で引用されている(Karl Marx, Louis Bonaparte, MEW, VIII, p. 119., cited in ibid., p. 16.)。

 マルクスはこの頃、思想的な体制批判者として自己形成していった模様である。自ら、「いわゆる肯定的なものに対する卓越した嫌悪者」と呼んでいる。(Quoted in B. Brecht, Works, Vol. I (Frankfurt, 1979), p. 651., cited in ibid., p. 16.)。 マルクスは、戯曲「ウーラネム」最後において、ウーラネムに次のように語らせている。
 「 私と深淵の間に横たわる世界を  私は不断の呪いによって粉々に打ち砕こう。私は厳しい現実の周りに腕を伸ばす。私を抱きながら、世界は押し黙ったまま、過ぎ去り、完全な無の中に沈み行く。それは滅び、真に生ける者は消滅する」(Op. cit., Marx, Oulanem., cited in ibid., p. 18)。

 久保田政男氏の「フリーメーソン」P242は、次のような詩を紹介している。
 神は世界をユダヤ人に与えた。救世主の来る日、永遠にユダヤ人は世界を支配すべし。独りユダヤのみこの権利を有すべし。救世主の来る日、キリスト教徒より奪いし山の如き富と金庫の鍵を運ばんがため、二百頭のラバを要せん。

 この詩意は、ユダヤ・タルムード思想そのままであることが判明する。これをどう読み取るべきであろうか。「マルクシズムの起源4」は、「青年マルクスの悪魔思想」と評している。

 1841年、ベルリン大学を卒業、学業を終えた。卒業の学位論文として「デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異について」(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie,)を著している。これによりイエナ大学から学位を得、哲学博士となった。

【「青年ヘーゲル派」時代】 
 ベルリン時代のマルクスは、政治・宗教・社会の諸領域において最も急進的立場に到達していたブルーノ・バウエルその他の「青年ヘーゲル派」が組織していたドクトル・クラブの仲間に入る。ドクトル・クラブはその後、「ベルリン自由人」という団体に発展する。マルクスはその中でも革命的民主主義の思想に依拠しつつ革命派的な傾向を強めた。最左翼に位置していたが、思想的にはヘーゲル主義的観念論的基盤の上に立脚していた。

 大学を卒業した後、マルクスは教授になるつもりでボンへ移った。しかし、この頃の政府の反動的政策がマルクスの行く手に塞がっていた。1832年、フォイエルバッハの講座が奪われ、1836年、又も彼が大学に入ることが拒まれ、1840年、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世がプロシヤ王となりと学問の自由をますます押えつけるようになった。自由主義派の哲学者たちは大学から追放され、御用派が登用される時代になりつつあった。1841年、私淑していた若き教授ブルノー・バウアーがボンで講義する権利が奪われ、教授の地位から追放されるという出来事に遭遇していた。これらの事情がマルクスの学究生活を断念させた。

 この頃、ドイツにおける左翼ヘーゲル主義の諸見解の発展には目覚しいものがあった。フォイエルバッハは1836年以来神学批判を強め、唯物論に転向し始めていた。1841年の「キリスト教の本質」、1843年の「将来の哲学の根本問題」は、青年ヘーゲル派」の度肝を抜く衝撃を与えた。エンゲルスは後に、「人はこれらの書物の解放的影響を自ら経験しなければならなかった。我々(マルクスも含めて左翼ヘーゲル派)は忽ちフォイエルバッハ主義者となった」と、その意義を称えているほどである。

「ライン新聞」時代】
 この頃、左翼ヘーゲル派と接触を持っていたライン地方の急進的ブルジョアは、ケルンの地で反政府系の新聞「ライン新聞」(Die Rheinische Zeitung、1842.1.1日創刊)を発行し始めた。マルクスとブルーノ・バウエルは主要寄稿家として招聘されていたが、マルクスはハインリッヒ・ハイネとの親交があり、その口利きでライン新聞に入社するためボンからケルンへ移った。以降、ライン新聞の編集に参加し、1842.10月、主筆となり、この新聞をますます革命的=民主主義的傾向の機関紙に押し進めた。

 マルクシズムの起源4」は、この時期の青年マルクスは、「彼はまだ社会主義を信じていなかった。むしろ、それと争うことすらした」として、ライン新聞の編集長時代の次の一節を紹介している。これを転載する。
 概要「(私は)現在の形態の共産主義思想に対して、理論的な価値すらも認めておらず、まして、その実現を期待するなどあり得ず、絶対に不可能だと考えている。共産主義の考えを実現しようとする大衆の企画は、それが危険であるとわかった時点ですぐに、合法的に対処すべきだ云々」(Karl Marx, Die Rheinische Zeitung, “Der Kommunismus und die Augsburger Allgemeine Zeitung,” MEGA, I, i(1), p. 263. cited in ibid., p. 24.)。

 マルクスは、この時期、論説を通じては労働大衆の悲惨な状態を告発した。
「貧しい農民が山に入って枯れ枝を拾う、それが窃盗罪で裁かれる、これをどう考えるかといった問題」であったが、彼は木材盗伐を禁止した法津について、この法律の楕神は財産を所有し、土地を所有する階級の精神であって、この階級は農民を搾取し、農民を犯罪者たらしめる法律を考案したのだと指摘し、「貧民の権利」を断固擁護した。このため、ライン新聞は政府の十重二十重の検閲に附されることになり遂に発行禁止を迫られることになった。

 
これに対し新聞社は、論調をゆるめることで延命をはかろうとした。だがマルクスは妥協を拒否した。1843.1月、彼はその頃友人ルーゲに宛てて「へいつくばり、ぺこぺこするなんてうんざりだ」(「ルーゲへ」)と述べている。そこで彼は社を去ったが、実は新聞社に愛想をつかしただけでなく後れたドイツに対しすっかり愛想をつかしていた。「ドイツでは何もすることができない。ここでは人々は自分自身を偽っている」(同)。マルクスは新聞社を退社することになった。1843.3月、ライン新聞は閉鎖された。 

 
後に本人が語ったところでは、「ライン新聞」で働きはじめたとき、マルクスは「困った羽目におちいった」(「経済学批判・序言」)。何が困ったかというと、新聞は「いわゆる物質的利害」(同)にからむ問題を次々と取り扱うが、この種のことに正面から取り組む経験を持っていなかった。ヘーゲル学徒として「理念」的研究に重点があり、「物質的利害」はいわば埒外にあった。こうして、この時期、マルクスは、「物質的利害」にかかわる問題に取り組んでいく。そのなかでおぼろげながら、どうも人間社会を根底で規定しているのは「理念」等々ではなくこの「物質的利害」であること、したがって「この社会の解剖学は、哲学ではなく経済学のうちに求めなければならない」(同前)ことに次第に気づいていく。

 
この経験を通じて、マルクスはその活動と理論研究とから、ヘーゲル哲学の妥協的傾向・保守的な政治的立場、その原理と現実の社会間係およびその変革の課題とのあいだに見いだされる不一致をみてとって、ヘーゲルから離れ、さらに青年ヘーゲル派にも満足せず、フォイエルバッハの唯物論へ、また現実についての経済の研究へとすすんでいくことになる。マルクスは、社会が物質的な利害によって規定されていること、経済問題を知らないでば社会のことは理解しえないことを学んだ。これを契機としてマルクスは批判の哲学から哲学の批判へ、社会の土台たる経済関係の研究、つまり経済学の本格的研究に取り組むことになる。

イェニーとの結婚
 この頃の1843.6月、マルクスは、学生時代から婚約を交わしていた幼友達のイェニー・フォン・ウェストファーレン (Jenny von Westphalen 1814―81)とクロイツナッハで結婚した。イェニーはプロシャの貴族の出で、兄は1850―58年におけるプロシャの内務大臣となる人物である。

 宮本百合子「カール・マルクスとその夫」は次のように記している。
 「 カールとイエニーとが、長い7年間の婚約時代をへてついに結婚したのは1843年6月のことであった。歴史に有名な『ライン新聞の弾圧』によって、カールがその編輯者をやめさせられたのは、イエニーと結婚する三月前のことであった。しかも『ライン新聞』を去ったカールが友人と共にパリで『独仏年誌』を発行することにきまって、編輯者としてカールが五百ターレルずつ定収入を得ることが出来るという見とおしがついて、はじめてイエニーとの結婚も実現したのであった」。

「独仏年誌」時代
 ライン新聞が閉鎖されたことにより、1843年、マルクスは自由のないドイツを去りイェニーと共にパリに移る。1840年代のパリは、歴史的な革命高揚の時期であった。リオンの絹織工が大規模のストライキを行ったのにつづいて、ブランキーの反抗があり、急速に発展しつつある資本主義の矛盾に対して様々な反抗が沸き立っていた。パリには、8万5千人ものドイツ亡命者がいた。

 
秋頃、マルクスは、アーノルド・ルーゲ(1802〜1880年、左翼ヘーゲル派、1825―30年は獄中にあり、1848年以降は亡命者、1866年―70年以降はビスマルク派)と共に急進主義的機関紙の発行を誓うことになる。この頃、詩人ハイネと親交している。ハイネはマルクスより21歳も年長であったが、年の差を気にさせない友情がむすばれていた。カールが徹夜しながら「書物の海」に埋れて社会発展の歴史とその理論を学んでいる時、ハイネは一つの詩を創るごとにカールに見せに持って来た、とある。


 1844年、「独仏年誌」(Deutsche-Franzosische Jahrbucher)を発行した。マルクスはこの雑誌の諸論文で革命家として登場しており、ヘーゲル法哲学批判Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie, 1843)、「ユダヤ人問題Zur Judenfrage, 1843)を発表し、それまで研究してきた経済学と歴史、および社会主義論の成果のうえにたって、プロレタリアートの歴史的役割、社会革命の不可避なこと、労働者運動と科学的世界観の結合の必要さを説きしめした。「現存する全てのものの仮借無き批判」及び特に「武器の批判」を宣言し、大衆とプロレタリアートへ向けて呼びかけている。

 「独仏年誌」は第一冊を出しただけで中絶した。資金不足と秘密頒布という限界とマルクスとルーゲとの意見の相違が理由であった。
ついで「
前進」(
Vorwarts、フォールベルツ)を発行した。「プロシャ国王と社会改良」を発表し、ドイツの遅れた野蛮体性を告発している。

 この1844年、エンゲルスが「国民経済学批判大綱」を著作している。エンゲルスは既に経済学的考察の重要性を示唆しており、マルクスに少なからぬ影響を与えていくことになる。

 
この間マルクスは急進民主主義者から共産主義者へと急速に成長していった。概要次のような見解に達していた。
 「封建的絶対主義の思想的支柱たる宗教から人々が解放されなければならない。フォイエルバッハはこれに功があったが、彼は、神を人間の創造物として天上からひきずりおろしはしたが、彼においては人間は具体的な人間ではなく、一つの抽象物でしかない。問題は神ではなく人間であり、行動し、実践する人間を理解すること、宗教を生みだす人間の社会を変革することが求められるべきである」。

 これがマルクスの結論であった。

マルクス、エンゲルスの歴史的邂逅
 マルクスが唯物論に立つ革命家として成長する上で大きな力となったのは、エンゲルスとの出会いであった。この時期の1844.8月にマルクスはパリでエンゲルスと邂逅(かいこう)し、「驚くほど意見の一致を見出した」二人は以後まれにみる友情でむすばれ、活動をともにすることになった。

 バルメンの繊維工場主の息子であったエンゲルスは、父の工場を手伝う一方、ワイトリングやシャッパー等の急進主義者やイギリスのチャーチストと交わりつつ、社会主義を学んだ。エンゲルスは、極貧におかれているイギリスの労働者の状態についての論文を「独仏年誌」に送り、「国民経済学批判大綱」では、恐慌と階級闘争の深化によって、ついには社会革命を生みだす資本主義の諸矛盾について強調した。マルクスとちがった道ではあれ同じ結論に到達したエンゲルスは、マルクスと邂逅する。

 1844.9月、エンゲルスはパリへ来て数日間滞在し、マルクスと出会う。以来、二人は終世の盟友となり、先行する小ブルジョア的社会主義の批判を通じていわゆるマルクス主義的社会主義の確立のための生涯にわたる両人の協力が生まれた。

 1844年頃、次第に革命的民主主義からプロレタリア共産主義へ、労働者階級の立場へと革命的な変化を重ねていった。この経過の背景には、ヨーロッパにおけるプロレタリア階級闘争の進展、シュレージェン地方の繊維労働者の蜂起、またかれ自身のパリでの革命闘争への参加が、大きな要因をなした。

マルクス、エンゲルスの共作時代
 マルクスとエンゲルスの協働が始まった。二人は極めて精力的にプロレタリア解放の理論的構築に向かった。1844年、マルクスが「経済学・哲学草稿」Okonomisch-philosophisches Manuskript)を著す(1932年に公開される)。

 
1845.1月、マルクスは、プロシャ政府とフランス政府の画策によりバクーニン等同様パリを追放された。マルクス夫妻は、エンゲルスの骨折りで集めた資金で、ベルギーの首府ブリュッセルに移った。1845年、マルクスは、ベルギー政府とプロシヤ政府連合の追放政策から自身を守るためにプロシヤの国籍から離脱した。これにより故郷なき一家となった。マルクスは、ブリュッセル時代において「書物の海」を出ることになる。

 1845年、エンゲルスは、「イギリスにおける労働者階級の状態」
を著作している。「20代前半の見習い時代のエンゲルスがロンドンとマンチェスターの労働者の実態を見聞してショックを受け、実態調査したもの。詳細かつ克明に労働者の生活を描写」とある。

 1845年、マルクスはエンゲルスと初めての共著(エンゲルスが担当したのは12ページだけであったが)で「聖家族-批判的批判の批判」Die heilige Familie oder Kritik der kritischen Kritik)を著す。


 本書の意義は、ヘーゲル左派を代表していたバウアーの観点を批判し、更にフォイエルバッハの思弁哲学をも乗り越え、革命的実践による社会の変革という立場を宣言したことにある。プロレタリアートこそが、その総ての生存条件によって、ブルジョア社会内における社会を変革する唯一の革命的階級であることを示した。これらの点について、「二人は意見の完全なる一致を見た」とされている。

 1845年、マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」が発表された。「マルクスの思想的転回点となった」とされている。 

 
1845から46年にかけてのこの頃、同じくエンゲルスと共同で「ドイツ・イデオロギー」Die deutsche Ideologie,)が書き上げられ、マルクス主義の構成部分(哲学・経済学・社会主義)が統一的に表明された。マルクスはこの「ドイツ・イデオロギー」によってドイツ古典哲学の批判をおえた。フォイエルバッハらの哲学者や社会主義者の批判。第1巻第1章「フォイエルバッハ」の章で、唯物史観をエンゲルス主導で展開している。結局、出版されず。しかし、このときの作業がマルクスにとって「導きの糸」となって、マルクスは経済学の批判的研究に没頭することになる。

 続いて1847年、「哲学の貧困」
Misere de la philosophie, reponse a la philosophie de la misere de M. Proudhon, )を著す。同書において、フランス社会主義の典型であったプルードン主義を批判した。プルードン主義が財産は盗みであるとし、私有財産を批判している観点は認めるが、プルードン主義は私有財産制の廃止を撤底的に追求しようとしないという観点からの批判が為されている。

 この経過で、 ドイツ古典哲学、イギリス古典経済学、フランス社会主義を批判的に摂取、改造し、新しい、質の高い哲学、経済学および階級闘争と革命の学説を作り出した。これを「マルクス主義の三つの源泉および三つの構成部分」と呼ぶ。また、マルクスが史的唯物論と剰余価値の二代発見をしたことによって、社会主義を「空想から科学に」転化したとの評価を得ている。

「共産主義者の宣言」起草
 1847年頃、ブリュッセルで、マルクスは共産主義通信委員会をつくり、活動を開始した。その後義人同盟への参加を請われ、後の秘密結社・共産主義者同盟に加わった。(「マルクス主義運動通史その1、マルクス、エンゲルス時代」)

 同盟の第一回大会ではエンゲルスが綱領草案に着手した。エンゲルスは、25の問答体で「共産主義原則」を書く筈になったが、問答体の書きかたを変更し一連の理論の綴りとしての「共産主義者の政策をのべる」ことが決定され、本格的に起草していくことになった。1848.11月の第二回大会でマルクスとエンゲルスに党の綱領の起草が依頼された。


 
こうして世に打ち出されたのが1848.2月発表の共産主義者の宣言Das kommunistische Manifestである。歴史的な「宣言」はドイツ語で書かれロンドンから発表された。本書にはマルクス主義の基本的立場が結実されており、共産主義の理論と戦術が圧縮された形で体系的に示されている。ごく簡略にテーマ化すれば、1・人類史が階級闘争の歴史であること、2・資本主義はその最終決着的体制であり、ブルジョアジー対プロレタリアートの階級闘争として立ち現れていること、3・恐慌論と窮乏化論、4・資本主義の不可避的崩壊、5・社会主義の到来等々が指針されている。「万国の労働者よ、団結せよ!」で結ばれていた。宣言には、エンゲルスとマルクスがその時までに形成した研究の結果が具体化されていた。(「共産主義者の宣言考」)

 レーニンの「カール・マルクス」は、次のように要約整理している。
 「新しい世界観、社会生活の領域を含む首尾一貫した唯物論、もっとも全面的で深遠な発展学説である弁証法、階級闘争および新しい共産主義社会の創造であるプロレタリアートの世界的・革命的役割についての理論が、天才的な明瞭さとあざやかさでえがかれている」。

 社労党は、「マルクス主義入門」のマルクスの生涯と闘いで次のように評している。
 「宣言は、全世界のブルジョアジーに向って、共産主義者がはじめて公然と自らの目的を表明した綱領であった。『共産主義者は、所有の問題を、それがどの程度に発展した形態をとっていようとも運動の根本問題として強調する。共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする。共産主義者は彼らの目的は既存の全社会を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを公然と宣言する。……万国のプロレタリア団結せよ』と格調高い呼びかけで結ばれた宣言の基本的諸命題は百数十年をへた今日でもそのまま生命を失っていない」。

フランス-ドイツでの連続的反乱勃発と鎮圧の帰趨
 1848.2月、フランスで二月革命が起りイギリス、ドイツに波及しベルギーでは戒厳令が布かれた。パリの労働者人民は蜂起し、王制が倒れ、共和制が宣言された。労働者は政府に強要して、男子普通選挙、労働者の国民軍参加、国民作業所を実現させた。革命の波は全ヨーロッパに波及し、ケルンやウィーンやベルリンなど各地で国民議会が生まれ、自由主義的政府がうまれた。だがブルジョアジーは動揺的で封建勢力に対して妥協的であった。かれらはドイツでは封建勢力を徹底的に打倒するのではなく、それと権力を分けあって有利な経済的諸条件を手に入れることで満足しようとした。フランスでは、労働者の革命的闘いをおそれ、独自の軍隊をつくり国民作業所を閉鎖した。攻撃を受けたパリの労働者は六月反乱に立ち上った。それは「近代社会を分裂させている二つの階級のあいだの最初の大戦闘」であった。だが蜂起は、徹底的な敗北をこうむった。

 1848年の2月革命が勃発したとき、マルクスは、ベルギー官憲に捕えられ追放された。彼は再びパリへ赴き、そこからドイツ3月革命の後ドイツのケルンに向かった。

「新ライン新聞」時代
 1848.6.1日、「新ライン新聞」Die Neue Rheinische Zeitung)を発行し、その主筆となって革命の前線にたって戦った。しかし、フランスの2月革命、ドイツの3月革命はいずれも鎮圧された。「1848年の革命と反革命(革命の失敗)」が著作されている。

 1848.11月、
カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を公表した。檄はマルクスと二人の同志とを叛逆罪として起訴する種に使われた。公判の結果、一同無罪となった。

 この頃のマルクスを評して、次のように云われている。
 「自由主義者や民主主義者の同様、反動との妥協を批判し闘っていたマルクスは、これら一連の事件から、ブルジョア急進左派はもちろん小ブルジョア民主主義派も労働者にとって何の信頼もおけないことを学んだ」。

 「六月革命」敗北後、反動の嵐はヨーロッパ中に吹きあれ、プロレタリアートの見地を代表した唯一の新聞「新ライン新聞」は1849.5.19日に廃刊され、共産主義者同盟も解散に追いこまれた。こうしてマルクスは政治活動を一時中断せざるをえなかった。
 
1849.8月下旬、ケルンを発ったマルクス夫妻は、ロンドンへ渡った。マルクスは、詩人フライリヒラートに書いている。
 「家内は臨月の身なのにこの十五日にパリを去らなければならない。しかも僕は家内が出発するに必要な金や、当地に移って来るに必要な費用をどう才覚すべきか分らないのだ」。

 マルクス一家にとって辛酸な1850年代が始まった。

精力的な著作活動時代
 1849年、「新ライン新聞」紙上に賃労働と資本Lohnarbeit und Kapital)が発表された。同書は、のちにロンドンでの講演をまとめた「価値,価格および利潤」(Value, price and profit, 1897刊)とともにマルクス経済学の古典的な解説である。

 ドイツ革命の敗北により、マルクスは告訴され無罪となったがドイツから追放され、ふたたびパリに赴いた。が、1849.6.13日の示威運動の後そこからも終われ、1850年、ロンドンに移り没年までこの地ですごすことになった。


ロンドン大英図書館通い時代
 マルクスは、ロンドンに居住することになった。以降、朝9時から夕方7時まで大英図書館にこもって経済学の勉強を徹底的に行うことになる。が、この頃からマルクス一家に家計の苦しさが付きまとい始める。エンゲルスがこれを不断に献身的に財政的支援を行っており(マンチェスターで事務員になり、1851-1869年までに3121ポンド(当時の銀行支配人の年収が200ポンド))送金している)、マルクスも「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」などに時事問題評論家として記事・論説を書いて原稿料を稼いでいていたことが判明している。約800編(確実にマルクスが書いたのは480編で、エンゲルスが代筆したものもあると云われている)が確認されている。

 1850年、唯物史観に基づく最初の歴史分析として「フランスにおける階級闘争」Die Klassenkampfe in Frankreich)が著作された。

 
1851年、ルイ・ボナパルトがクー・デタによって皇帝(ナポレオン三世)となる。

 この頃、慢性的窮乏のどん底生活が続いたことにより、3人の子供が犠牲になっている。1950.5月、イエニーがワイデマイヤーに宛て書いた手紙はロンドンに於ける一家の姿をまざまざと語っている。
 概要「四番目の子供は弱くて夜もせいぜい二三時間しかねなかった。イエニーは乳母を傭えないで、健康を犠牲にして自分の乳を飲ませて育てていた。無法な家主に追いたてをくって、寒い雨の降る陰気な日にカールは妻子のために家を探してかけめぐった。子供が四人いるときくと貸す人がなかった。やっと友人の助けで小部屋が二つ見つかった。家主がマルクス一家のシーツからハンカチーフ迄差押え、子供のおもちゃから着物まで差押えたときくと、あわてた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋が勘定書を持って押かけて来た。その支払いのためには残らずのベッドが売られなければならなかった。二三百人もの彌次馬に囲まれて、全財産を手放したマルクス一家は新しい小部屋に引移った。

 この年の末、次男ヘンリーが死んだ。二年後に三女のフランチスカが亡くなった。その棺を買う二ポンドの金さえもフランスの亡命者から借りなければならなかった。その金で小さな棺を買いその棺の中でいま私の可哀想な子がまどろんでいます。この子が生れた時、この子は揺籃をもちませんでした。そして最後の小さな住居も長い間与えられませんでした」。

実践活動と精力的な文筆活動

 1852年、「共産主義者同盟」が解散し、その後も革命運動の活動をつづけた。1850年代、60年代はマルクスの実践的活動が最も旺盛な時期となる。これらすべてのマルクスの活動は、かれの理論に不可欠な材料をあたえ、その理論の展開に役だった。この頃マルクスは子供の葬式にも一文もない様な貧窮の状態にありながら、社会主義革命と階級闘争・ブルジョア革命においてのプロレタリアートの戦術・労働者と農民との同盟の必要性・革命におけるブルジョア国家機関の破壊・プロレタリアートの独裁についての構想などが、そこから生みだされた。

 1852年、
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日Der achtzehnte Brumaire des Louis Bonaparte,)を書き上げた。この中で、ブルジョア民主制の限界と欺瞞性、国家権力の問題、小ブルジョアと農民の役割、ボナパルティズムなど幾多の重要な問題について解明している。

 革命運動は1857〜58年の資本主義史上初の世界大恐慌を契機に再び高揚し、イギリスでは労働評議会が各地に拡まった。フランスでもブルードン派やブランキ派が台頭し、ドイツでも労働組合運動がもりあがり、ペーペル、リープクネヒトの共産主義運動が発展した。労働運動の高まりとともにポーランドやアイルランドの民族解放闘争も激化した。マルクスは、「革命は近いと予想し、経済学研究の成果をまとめることを決意」したと云われている。


「経済学批判」

 この頃、マルクスはロンドンで経済学研究に力を注ぎ、朝の9時から夜の7時まで図書館に通いづめで研究を続ける。1857-59年、マルクスは「経済学批判要綱」を執筆している(1939-41年に公開される)。「『資本と労働の交換』の過程で、労働力はその価値通りに売買されるが、次の過程で、労働者はその労働力の価値よりも大きな価値を創造し、資本家は、その差額の剰余価値を受け取るとする剰余価値理論を形成した」。

 1859年、「経済学批判」Zur Kritik der politischen Okonomie)をあらわす。
「序説」で「唯物史観の公式」が提起された。概要「経済的土台(生産関係)が上部構造(政治・法・意識)を規定する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。物質的生活の生産様式を全体社会の強力な土台と見る唯物史観を確立する」。

 この頃、マルクスは、次のように述べている。

 「万難を排して目的を遂げなければならない。そして僕を金儲け機械にすることをブルジョア社会に許してはならないのだ」。

「第一インターナショナル」の創立

 1864年、「第一インターナショナル」(「国際労働者協会」The International Workingmen's Association)を創立し、この組織を主宰しながら、多くの国ぐにの革命的労働運動を結合し、その運動を詳細にしらべ、非プロレタリア的・前マルクス主義的社会主義者を統一しながら、これらの立場の誤りとたたかった。


「資本論」公刊される
 「経済学批判」の9年後の1867年、マルクス49歳の時、「資本論第1巻Das Kapital, vol. 1,)第一巻が発行された。それは剰余価値の源泉を明らかにし、資本の運動法則を暴露し、社会主義の必然性を分析した画期的著作であった。商品の物神性、恐慌と革命の経済学が提起された。これによって、社会主義思想が学問的な裏付けを持つことになった。

 レーニンは次のように述べている。
 「『資本論』において、マルクス主義の提出した見解が仮説の段階から科学として確立されたのである。それ以前に書かれた『経済学批判』序言に、史的唯物論の基本的立場が要約されていることは、よく知られている。こうして、マルクスの残した成果は、盟友エンゲルスともども、以後、人類の進む道を照らしだす燈台となってますます輝きをましている」。

【「第一インタナショナル=国際労働者評議会」が結成される】
 こうした中で1864年、ロンドンで第一インタナショナル=国際労働者評議会が結成された。マルクスは第二回大会よりこれに加わったが、以降その指導的役割を引き受けることとなった。

パリ・コミューン

 第一インタナショナルの最大の事件はパリ・コミューンである。1871年パリの人民は武器をとり蜂起した。コミューンは、常備軍を廃止し、全人民の武装をなしとげた。コミューンは、行政府と立法府を統一した行動団体であった。また普通選挙に基づき、有責で解任でき、労働者並の賃金で全体の為に働く議員、公務員を実現した。

 だがプロレタリア権力の最初の実験たるコミューンは3ヵ月の英雄的な闘いのうちに崩壊した。マルクスは、コミューン敗北後、数日ならずしてだされた宣言の中で、コミューンの歴史的意義をあますところなく明らかにしている。概要「コミューンは本質上は労働者階級の政府であり、収奪者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるためについに発見された政治形態である」、「コミューンの経験は、労働者階級は『できあいの国家権力をたんにその手ににぎり、それを自分自身のためにつかうことはできない』ということを教えている」。

 
 1871年、パリ・コンミューンの経験を即座に「フランスにおける内乱」heorien uber den Mehrwert)に書き上げ、「プロレタリア独裁」論を深めるなどマルクス主義思想と観点による歴史観を如何なくしめした。


「第一インタナショナル=国際労働者評議会」が解散する
 コミューンの敗北後、1872年、ハーグでインターナショナル大会が開かれ、総務評議会のニューヨークへの移転が決議された。第一インターは解散に追いこまれた。
 「歴史的役割を終え、世界の全ての国々における労働者運動の測り難く大なる成長成長の時代、即ち広さにおけるその成長、個々の民族国家の土台の上における大衆的な社会主義労働者党の創設の時代に席を譲った」。

 
この頃、マルクスは、バクーニンと対立し分離した(これについては「バクーニンの生涯履歴概略」参照のこと)。プルードンと離れ、ラッサールとも離れ、バクーニンとも対立したマルクスは革命運動から再び書斎へ向かう事になった。晩年の10年は病気との闘いとなった。

晩年のマルクス

 1873年、以降マルクスは再び研究に戻った。この学究生活はエンゲルスの献身的な物心両面に わたる援助に支えられた。この頃の著作として1875年の「ゴータ綱領批判」(「ドイツ労働者党綱領評注」)(1891年公開される)がある。同書で、科学的社会主義―共産主義の見解をさらに発展させ、ドイツ社会民主党の綱領を批判し、プロレタリア独裁を論じている。(1891年公表)

 次に、生涯をかけて「資本論」の仕上げに生涯を傾け旺盛な研究活動に入っている。しかし未完のまま原稿としてエンゲルスに委ねられることになる。この著作は経済学にかんする画期的なもので、共産主義を基礎づける科学的成果であるばかりでなく、唯物論と弁証法とにとって哲学的意義の比類のない宝庫をなしている。またマルクスの校訂による「資本論」の発行、さらにはロシアの共同体の研究などが残されている。

 1877-78年、エンゲルスが「反デューリング論」を著作している。
 
 どんな困難な仕事にも耐えた頑健な身体は次第に弱まり、病気が仕事を中断させた。

 1881.12.2日、「親愛なる、忘れがたき生涯の伴侶」であった妻のイェンニー(エンゲルスは彼女について「他人をしあわせにするむことにみずからの最大のしあわせを感じた女性がかつていたとしたら、この女性こそ、その人でした」とたたえている)がこの世を去った。

 エレナーは書いている。

 「お母さんの一生と共にモールの一生も終ったのです。彼は沮喪しないようにと激しく闘争しました。(略)彼は彼の大著を完成させようと努めました」。

 イェンニーは、次のように評されている。

 「このような精力と熱情をもち、戦友に対してこれほどの献身をもつ婦人が、四十年近い間に運動のために尽した業績――このことは何びとも語らず、この事は同時代の新聞にも記録されていない。しかし私は知っている。コンミューン亡命者の婦人達がしばしば彼女を思い出すであろうと同様に、われわれ同志はなお更しばしば彼女の大胆、かつ賢明な忠告を惜しむであろう」。
 「他人を幸福にすることを自分の何よりの幸福と考えた婦人があったとすれば、彼女こそ正しくその婦人であった」。

 次いで娘のジェニーヒェンの死という打撃がマルクスを襲った。


マルクス逝去
 1883.3.14日14時45分、マルクスは亡命先のロンドンにおいて客死する。メートランド・パークの家の書斎の肘掛椅子にかけて、六十五年の豊富極まりない一生を閉じた。マルクスは妻及びヘレナ・デムートと共に、ロンドンのハイゲート墓地に葬られている。「資本論」の原稿は未完のままエンゲルスの手に委ねられ、彼の手で編纂され第2、第3巻出版されることになる(1885、1894)

 エンゲルスはマルクスを追悼し、次のように述べている。
 「マルクスはなによりもまず革命家だった。資本主義社会とそれによってつくりだされた国家制度の倒壊になんらかのしかたで協力すること、近代的プロレタリアートのすなわち、彼がはじめてそれ自身の地位と要求とを理解させ、その解放の条件を理解させた近代的プロレタリアートの解放に協力すること、これが、彼の真の使命だった」。

 「人間的なことで私に縁のないものはない」とは、マルクスの好んだ格言であった。闘うことに幸福を見いだし、屈従を不幸として憎んだマルクスは、全世界の労働者階級の解放のために、不屈の精神をもって、文字通りその全生涯を献げた。マルクスによって築かれた科学的社会主義の学説は現在も、不滅の輝きを放っている。

 労働者はマルクス主義の思想を学ぶとともに、その生涯と闘いから、労働者解放のために全身全霊をこめて、どんな困難にも属せず闘い抜いた革命家としてのマルクスの生き方をも学ばなければならない。

 (参照)「船戸和弥のホームページ」、  宮本百合子「カール・マルクスとその夫」等々。


【長女のジェニー(1844−1883)が1860年頃、父マルクスに出したナゾナゾ式一問一答】
ジェニーの質問 マルクスの答え
あなたの好きな人間の徳 素朴
あなたの好きな男性の徳 強さ
あなたの特性 ひたむき
あなたが一番許せる悪徳 軽信
あなたが一番嫌いな悪徳 追従
あなたの好きな仕事 本の虫になること
あなたの好きな詩人 シェイクスピア、アイスキュロス、ゲーテ
あなたの好きな散文家 ディドロ
あなたの好きなヒロイン グレートヒェン
あなたの好きな格言 人間的なもので私に無関係のものは無い


【「フリードリッヒ・エンゲルス」(F.Engels)、(1820.11.28〜1895.8.5) 】
 ドイツの経済学者,哲学者,社会主義者,革命家。マルクスとならぶマルクス主義の共同創始者,共産主義的国際労働者運動の指導者。
(『ing』の前身紙、95年6月〜8月小川紀氏の「物語・若きエンゲルス」より適宜抜粋引用
 1820.11.28日、ドイツのライン州バルメンに生まれる。父は紡績工場主。バルメンという町は、いまのライン州にあるが、「ドイツのマンチェスター」と呼ばれ、古くから紡績業の栄えた工業地である。

 この頃の時代的雰囲気について、1795.4月のヘーゲルからシェリング宛て手紙がある。そこでは次のように書かれている。「人間そのものがかくも尊ぶべきものと考えられるに到った事にもまして、時代のよき徴候はないと思う。これは、圧制する君主たちと地上の神とが背負っていた後光が消え失せた証拠だ」(ヘーゲルからシェリングへ、1795年4月)。とはいえ、これは隣の、フランスの話だった。イギリスでは早くも17世紀に一連のブルジョア的変革が遂行された。そして1789年、フランスで有名な大革命が起こった。上の手紙は、これに賛嘆の声を上げたものだ。

 エンゲルスは向学の精神が強かったが、工場主たる父は、息子に跡を継がせるつもりでおり、実業で生きていく者には学問は必要でないと考え、息子に高校中退を強要した。息子は仕方なくこれに従い、1837年、父の商会で働きはじめる。このことは大学に進み学問する道が断たれたことを意味する。どちらが幸いしたか、それは単純にはいえないが、かくしてエンゲルスは実業に長けていくことになった。

 1年後、ブレメーン市の商館で働くことになった。1838年夏から41年春まで過ごす。10代後半から20歳(はたち)にかけての歳月である。少年フリードリッヒは、さすがにちょっと寂しかったらしく妹や幼なじみの友人たちにひっきりなしに手紙を書き、自分と同じように頻繁に便りをくれない罪で彼らを責めているが、しかし他方、小うるさい父から解放されて自由は満喫できたようだ。「一昨晩、僕は地下酒場でビール2壜、1794年産の葡萄酒を2壜半やって大いに酔っぱらった」(グレーバーへ、1839.11月)等々。そして詩をつくり、戯曲を書き、漫画を描き、さらには「ところでお前にも話してやるが、僕はいま作曲している。賛美歌をつくっているのだ」(妹マリーへ、1838.12月)という有り様で、そうして本を読みまくっている。

 そしてこうした、自由で楽しく、しかしひたむきな右往左往、悪戦苦闘の日々の中で文学や哲学を研究した。やがて少年は、ある一点にたどり着いていったのだった。すなわち、「そうなるかどうかまだ僕にも分からないが、僕はヘーゲル主義者になろうとしている」(グレーバーへ、同前)。やがて2か月後には、「僕はまっしぐらにヘーゲル主義に到達した。僕は毎晩、ヘーゲルの歴史哲学を勉強している。これは壮大な著作だ。巨大な思想がおそろしいくらいに僕を感動させる」(グレーバーへ、1840.1月)云々。
 当時の青年たちがヘーゲルに引きつけられたのには理由があった。ヘーゲルがベルリン大学に赴任したときの開講の辞は次のようなものであったが、このヘーゲル精神に真理を求めてやまない青年たちが共鳴していった。
 「さしあたり私が諸君に要求しうることは、ただ諸君が学問に対する信頼、理性にたいする信念、自分自身にたいする信頼と信念をもつということだけである。真理の勇気、精神の力にたいする信頼こそ哲学的研究の第一の条件であり、人間は自己をうやまい、人間が最高のものに値するという自信をもたなければならない。精神の偉大さと力は、それをどれほど大きく考えても、考えすぎるということはない。宇宙の閉ざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力をもってはいない。それは認識の勇気のまえに自己を開き、その富と深みを眼前に現わし、その享受を欲しいままにさせざるをえないのである」。

 当時の青年たちがヘーゲルに引きつけられたのには、ヘーゲルのこの真理認識の力強い精神に対する共鳴と、その手法としての弁証法的認識論に対する賛辞があった。ヘーゲルのフランス革命賛美のスタンスに対する共感があった。ヘーゲルは、「小論理学」の中で次のように述べている。
 「われわれの周囲にあるすべてのものは、弁証法の実例とみることができる。あらゆるものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものである」。
「あらゆるものは、単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を止揚し、自分自身によって反対のものに移っていくのである」。
「われわれはすべての事物は最後の審判を受けるというが、この場合われわれは、どんなに自分を安全で強固と思っているものでも、それを防ぐことのできない、普遍的な抵抗しがたい力としての弁証法の表象をもっているのである」。

 この言葉が、あれほど永く、固く、神聖なもの、侵すべからざるものと信じられ、絶対の不動、不変を誇ってきたものが音を立てて崩れていったフランス革命の経過に対する力強い肯定で理解されていった。

 青年エンゲルスは1841年春、ブレーメンから故郷のバルメンに帰った。しかしすぐその秋には1年兵役を志願しベルリンにおもむく。砲兵隊に属しながらベルリン大学の聴講生となり、ヘーゲル派の学生たちと親交をあたためた。かくて青年ヘーゲル派に属することになった。この時、マルクスとはすれ違いとなっている。マルクスはその年の春にこの大学を卒業していた。


 
1841年、エンゲルスは、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に衝撃を受けている。ずっと後に、晩年になってエンゲルスは「フォイエルバッハ論」という書を著し、そこでこの当時をきわめて感慨深げに回想している。
 概要「ヘーゲルは弁証法をみごとに説いたが、観念論者としてこれを説いており、それを『理念』なるものの運動だとした。そのヘーゲルが1831年に生没するが、その継承方法を廻って青年ヘーゲル派間に分裂が生じた。しかし、ヘーゲル主義の限界をどこに見出すのか、それはおずおずとし、なかなかきっぱりとしたものとはならなかった。みんなが最後までぐずぐずしていたとき、そのときだった。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』が刊行された。呪縛は解かれた。この本の解放的な作用は、それを自ら体験した者でなければ思い浮かべることはできない。一人残らず感激した。われわれは一時、みなフォイエルバッハ主義者であった」。

 結局ベルリンには1年いた。1842.10月、エンゲルスは故郷バルメンに帰る。彼はまた父親から言いつけを受け、今度は、父が経営しているマンチェスターの「エルメン・アンド・エンゲルス紡績工場」に行ってそこで働くようにといわれた。当時イギリスは経済的に世界の最先端を行く先進国であったので、エンゲルスはこの申し出を受けた。

 エンゲルスはこの英国行きの途中、「ライン新聞」の編集委員カール・マルクスに会うためにケルンの駅に降り立つ。エンゲルスはその年の3月から寄稿をはじめていた。その翌月から、マルクスがやはり寄稿をはじめ、やがて主筆となった。非常に鋭い切り口で政府を批判していた。エンゲルスはこの人物に興味をもち会いに行った。この時の出会いはそっけない語らいで終り、エンゲルスはマルクスと別れ、再び汽車に乗り、さらに船に乗って1842.11月のある日、イギリスのマンチェスターに着いた。こうしてマンチェスターにある父の商館に勤めた。

 この地にエンゲルスは2年近く暮らす。何せ当時の世界1の先進国である。見るもの聞くものすべてが真新しかっただろう。エンゲルスは──僕らの知るとおりこの青年は好奇心に満ち満ちていた──、とにかく貪欲にあちこちに出かけ、さまざまな人と交わり、あらゆるものに興味と観察の目を向け、またこの世界最先端の情報集積地で、手に入る経済学者その他の著作を片っ端から読みまくった。この日々の観察と研究とがやがてエンゲルスをして1844
「国民経済学批判大綱」Umrisse zu einer Kritik der Nationalokonomieという論文を書かしめた。

 1844年春、場所はパリ。マルクスは、エンゲルスが書いた「国民経済学批判大綱」という論文に注目した。彼は自分より2才若いまだ23才にしかならないという青年の観点に惹かれた。「1842年にマルクスと文通を始め、その後二人の固い友情と協力が始まった」とあるが、この年イギリスからの帰途パリに亡命中のマルクスと再会した。二人の交流はこの頃から本格的に始まり、終生にわたって続くことになる。

 
1845年、エンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」Die Lage der arbeitenden Klasse in Englandを著し、プロレタリアートの歴史的使命を明らかにした最初の人となった。エンゲルスもまた革命的民主主義の立場を確立しつつあった。

 その後、ブリュッセルに移住し、マルクスと共に共産主義者同盟に加盟しこれを指導した。1845―46年にかけてマルクスと
共著でドイツ・イデオロギー」Die deutsche Ideologie)、1848年、共産主義者同盟の綱領「共産党宣言」Manifest der kommunistischen Partei)を起草した。

 エンゲルスは語学にたくみで、ヨーロッパ諸国語はもちろん、ギリシャやラテンの古典語、各地の方言や東方諸国の言語、古代語まで身につけていた。1848年「家族、私有財産および国家の起源」(Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staates
を著す。

 
1948―49年のドイツ革命をマルクスと共に指導し、敗北してロンドンに逃れる (49年)。「新ライン新聞」を創刊し、傍らマンチェスターで商業に従事し(50―69年)、マルクスを経済的に援助した。この関係は終生続いて行くことになる。

 1850年「ドイツ農民戦争」(Der deutsche Bauernkrieg)。

 

 
1864年、ロンドンで第一インタナショナル=国際労働者評議会が結成された。エンゲルスとマルクスは第二回大会よりこれに加わったが、以降その指導的役割を引き受けることとなった。

 1866年にフォイエルバッハ論」(Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie
を著わした。1870年ロンドンに移り、マルクスと共同してマルクス主義的社会主義の思想的確立と「第一インタナショナル」の指導に当った。1878年「反デューリング論」(Herrn Eugen Duhrings Umwalzung der Wissenschaft)。

 1880年、「空想から科学へ」(空想的社会主義と科学的社会主義を対比。『反デューリング論』の一部)を出版。

 1883年、マルクスの死後、「資本論」の遺稿を整理・捕筆し、第2巻(1885年)、第3巻(1894年)として編纂し刊行することに没頭した。

 1884年、「家族、私有財産、国家の起源」(モルガン『古代社会』を利用)

 また国際労働運動の精神的・組織的支柱となり「第二インタナショナル」を指導した。


 1891年、「空想から科学への社会主義の発展」(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft)
 「従来の一切の歴史は、原始共同体を除けば、階級闘争の歴史であったことが明らかとなった、そしてこの闘争しあう社会階級は常に生産と交換関係の経済的構造が常に生産と交換関係の経済構造が基礎をなし、歴史上の各時代の、法制度や政治制度はもちろんそのほか宗教や哲学やその他の観念様式などの全上層建築は結局はこの基礎から説明するものであるということが明らかになった」(空想より科学へ)。

 
1895.8.5日ロンドンで没。遺体は、イギリスのハイゲート墓地に埋葬された。「マルクシズムの起源6」によれば、概要「同墓地は、サタン崇拝者の中心地ており、そこでは、黒魔術の神秘的な儀式が執り行われている」(Tempo. Italy, November 1, 1979; cited in ibid., p. 57.)とのことである。

 『自然弁証法』Naturdialektik, 1935刊

 検索で「マルクシズムの起源8」に出くわした。重要な指摘のように思えるので、これを転載しておく。

 マルクスの友人であり、協力者であった、フリードリヒ・エンゲルスは、敬虔なクリスチャン家庭に育った。まだクリスチャン的な影響を持っていた彼が、最初にマルクスと会ったとき、彼の印象を次のように記している。

 「 …トリア出身の黒い人、驚異の怪物。彼は歩きもせず、走りもしない。彼は、飛び跳ね、怒り狂う。あたかも、天蓋をつかんで、それを地上に投げ捨てんばかりだ。彼は腕を伸ばす。邪悪なこぶしをしっかり握りしめ、絶えず怒りののしる。まるで無数の悪魔が彼の髪をつかんでいるかのようだ。
(Franz Mehring, Karl Marx--Geschichte seines Lebens (Berlin: Dietz-Verlag, 1964), pp. 99, 100; cited in ibid., p. 36.)
」。

 エンゲルスは、自由主義神学者ブルーノ・バウアーの著書を読んでから、キリスト信仰を疑いはじめた。彼は心の中に大きな葛藤を覚えていた。
 「 私は毎日、ほとんど一日中、真理を求めて祈っている。疑いを抱いてからずっとそのようにしているのだが、まだ信仰に戻ることができない。このように書いている間も私の目から涙が流れ落ちる」(Ibid., p. 97; cited in ibid., p. 36.)。

 エンゲルスは、ついに信仰に帰ることはなかった。むしろ、かつて「無数の悪魔に髪をつかまれている怪物」と呼んだ人間の仲間となった。
エンゲルスから信仰を奪ったブルーノ・バウアーとは一体どのような人物なのだろう。バウアーは、はじめ保守派の陣営にあり、聖書批評家と戦っていた。しかし、後になって、自分自身が聖書を批評するようになり、イエスは単なる人間に過ぎず、神の子ではない、と言い出した。彼は、マルクスとエンゲルスの共通の友人であるアーノルド・ルーゲに宛てた手紙(1841年12月6日付)の中でこう語った。
 「この大学で、私は、大勢の学生の前で講義をしている。教壇から冒涜の言葉を述べる時、私は自分ではなくなっている。冒涜の言葉があまりに激しいため、…学生達の髪の毛はずっと逆立ったままだ。冒涜の言葉を吐きながら、私は、自宅での自分の姿を思い浮かべている。聖書を弁護するために、敬虔な気持ちで文章を書いている姿を。とにかく、教壇に上るたびに、私は悪魔に憑依されるのだ。私はとても弱い。どうしても悪魔に負けてしまう。…教授として、権威を帯びて公然と無神論を講義しない限り、私のうちにある冒涜の霊は満足しないのだ」(Bruno Bauer, letter of December 6, 1841 to Arnold Ruge, MEGA, I, 1 (2), p. 263; cited in ibid., p. 37.)

 
マルクスと同様、エンゲルスに共産主義者になるように説得したのは、モーゼズ・ヘスであった。コロニュでエンゲルスと会った後で、彼は次のように述べた。
 「私と別れる時に、彼は熱心な共産主義者に変わっていた。これが、私の破壊のやり方だ…」(A Melskii, Evangelist Nenavisti (Berlin: Za Pravdu Publishing House, 1933, in Russian), p. 48; cited in ibid., p. 37.)。
 
 
クリスチャンの信仰を破壊することが、ヘスの人生における最高の目的なのか?なんと悪魔的なのだろう。

 若い頃、エンゲルスは、次のような詩を書いた。
  神のひとり子なる主イエス・キリスト、 ああ、天の御座から降りてきて私の魂を救ってください。まったき幸いのうちに、御父の聖き光のうちに、降りてきてください。私があなたを信じ受け入れることができるように。なんと心地よく、栄光に満ち、幸いなのだろう、救い主なるあなたをほめたたえる時に得られる喜びは。

 私が最期の息を引き取る時、 死の苦しみを耐えなければならない時、私があなたに固くつながっていられますように。私の目が暗闇に覆われ、私の心臓が鼓動を止め、あなたにあって、私の体が冷たくなっていく時に、 私の霊が天において、あなたのうちに安らかなあなたの御名を永遠にほめたたえることができますように。

 ああ、喜びの時がすぐに来ればよいのに。あなたの愛の御胸から、躍動する新しいいのちを引き出すことのできるその時が。その時、ああ神よ、私は、あなたに感謝しつつ愛する人々をこの腕の中で永遠に抱きしめることでしょう。永遠に生きておられる主のために、私の命は新たにされるでしょう。

 主は人間を死と罪から解放し、全地に祝福と幸いをもたらすために来られる。その時、あなたの新しい子孫はみな、地上においてまったく新しくされるでしょう。あなたは各々に御自身の分け前をお与えになるでしょう。

 (Friedrich Engels, letter of July 1839 to the Graber brothers, p. 531; cited in ibid., p. 39.)

 
ブルーノ・バウアーによって疑いを植え付けられた後で、エンゲルスは、何人かの友人に手紙を書いた。
聖書には、「求めなさい。そうすれば与えられます」と書かれている。真理のひとかけらでも見つけることができそうな時は、私は必ずそれを捜し求める。しかし、私はあなたがたが説いている真理が永遠のものであると考えられないのだ。しかし、「探しなさい。そうすれば、見つかります。自分の子供がパンを求めている時に、石を与える親がいるだろうか。まして、天におられるあなたがたの御父があなたがたによくしてくださらないことがあるだろうか」ともある。

 このように書いている間にも、私の目には涙がこみ上げてくる。私の心は[疑いによって]すっかり揺り動かされてしまった。しかし、自分が失われるとは思わない。私は、私の魂が慕い求める神のもとに帰るだろう。このことも、聖霊の証である。その証によって、私は生き、また死ぬ。…御霊は、私が神の子供であることを証言している。

(Ibid., Friedrich Engels, letter of July 1839 to the Graber brothers, p. 531; cited in ibid., p. 39.)

 
エンゲルスは、サタニズムの危険性を十分に認識していた。『シェリングと黙示録』の中でこう述べた。
恐るべきフランス革命以来、まったく新しい悪霊が人類の中に入り、不信仰が非常に大胆かつ巧妙に侵入している。そのため、私は、現在、聖書の預言が成就しつつあると思うのだ。まず、終わりの時の背教について聖書がどのように述べているか見てみよう。主イエスは、マタイ24章11-13節において次のように言われた。「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」そして、24節で、「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と言われた。また、聖パウロは第2テサロニケ2章3節において「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。…[不法の人の到来は、]サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです」。

 
さらに、
我々は、主に対して無関心や冷淡であってはならない。絶対に。これは公然たる敵意である。今や、あらゆる教派や党派の中に見られるのは、「クリスチャン」か「反キリスト」のいずれかだ。…我々の周りには、にせ預言者がいる。…彼らはドイツ中を旅し、いたるところに忍び込もうとしている。彼らは、市場においてサタンの教えを伝え、サタンの旗をかかげて町から町へと移動し、哀れな若者をたぶらかし、彼らを地獄と死の深淵の中に放り込もうとしている。

 そして、この本を黙示録の言葉で締めくくっている。
見よ。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。アーメン。

(Friedrich Engels, Schelling und die Offenbarung, MEGA, pp. 247-249; cited in ibid., p. 40.)

 
このようにサタニズムの危険について警告を発し、敬虔な詩を書き、涙ながらに自分の救いについて祈ったクリスチャンが、マルクスの親友となり、世界において一億人を粛清・虐殺する運動の指導者になったとは、なんという悲劇だろう!

 我々から信仰を奪い、悪業に引き込むきっかけを作るのは、聖書に対する疑いである。サタンの方法は、エデンの園以来、変わらないのである。


【その他主要なマルクス主義者の概要履歴】
 レーニンについては、「レーニンの生涯履歴概略」に、トロツキーについては、「トロツキーの生涯履歴概略」に記す。




(私論.私見)



マルクシズムの起源 9


レーニンの親友にして協同者トロツキーによれば、レーニンは16歳の時、自分の首にかかっている十字架をひきちぎり、それを地面に投げ捨て、その上に唾をかけ、足で踏みつけたという。これは、どのサタン礼拝においても行われる典型的な儀式である。

彼がサタニズムに影響されていたことは、1913年11月13−14日にマクシム・ゴーリキーに宛てた手紙から明らかである。


無数の罪、悲劇、抑圧、肉体的伝染病は簡単に目につくので、霊である神に関する考えよりも安全である。…
(V. Illitch Lenin, Complete Works (Moscow: Politica literature Publishing House, 1964, in Russian), Vol. 48, pp. 226, 227; cited in ibid., p. 49.)

さらに、


無神論は、マルクス主義の一部である。マルクス主義は唯物論である。我々は宗教と戦わねばならない。これは、すべての唯物論のABCであり、それゆえ、マルクス主義のABCでもある。
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59.)


レーニンが唱えた戦略が、サタンの無律法主義から出ていることは明らかである。


「我々は、姦計、妙計、トリック、詐欺、非合法な方法、真理の隠蔽、秘匿など何でも利用せねばならない。大切なのは、[方法の合法性ではなく、]資本主義国同士が互いに争い取ろうとしている利権の奪取である。」
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59.)


共産主義者は、体制の崩壊と社会主義国の建設という大義のためならば、方法を選ばない。詐欺であろうが、殺人であろうが、目的を達成するためならば、何でもやる。

マルクスは次のように述べた。


共産主義者は、自分の意見や計画を隠さない。彼らは公然と「我々の目的は、既存の社会構造の全体を暴力的に転覆させることを通してのみ達成される」と主張する。


さらに、


旧体制の死に伴う激しい痛みと、新しい体制の誕生に伴う激痛の時を短くするには、方法は一つしかない。革命的テロリズムだけが、これらの苦しみを単純化し、集中化する唯一の方法である。
(MEW, V, p. 457 cited in ibid., p. 58.)


サタンに従うあらゆる者が、最後にサタンに裏切られるように、レーニンも、自分がはじめたロシア革命によって裏切られた。


我々が期待するとおりに国は機能していない。…人間が運転席に座って動かしているように見えるのだが、クルマは彼の期待する方向に動かない。何か別の力が動かしているのだ。


サタンは究極のエゴイストであり、常に自分のことにしか関心がない。そのため、サタンに力を借りて成功をはかる人間は、ある時点で、自分がサタンに利用されていることに気づく。しかし、気づいた時には、「時すでに遅し」である。サタンは、自分を思いのままに動かし、引きずりまわしはじめる。そして、自分がはじめた事業そのものが自分の首を絞めるようになる。
サタンに従う人間の結末は絶望である。

レーニンは1921年の手紙の中で次のように述べた。


我々は、臭いロープを首に巻きつけられて処刑されればよいのだ。私はずっとこの希望を失わなかった。というのも、我々は汚らわしい官僚制度を非難できていないからだ。…
(V. Illitch Lenin, ibid., Vol. 54, pp. 86, 87; cited in ibid., p. 49.)


臭いロープを首に巻きつけられて絞首刑にされること…。これが、共産主義の国家を作るために、一生を捧げた人物の最後の希望だった。レーニン自身の上にこの希望は実現しなかったが、彼の同労者の上に成就した。すでに述べたように、1917年の革命時にソビエト共産主義者中央委員会の29人のメンバー及び候補者だった者のうち、他人から命を奪われずに済んだ者は4人しかいない。

奇妙なことに、レーニンは13歳の時に、自分の人生の結末を予期する詩を書いている。


おまえは、他者のために人生を捧げるが
哀れなことに、悲しい運命がおまえを待ち受けている
おまえの犠牲は、結局、いかなる実も結ばないだろう
(”Budilnik,” Russia, No. 48, of 1883. Quoted in The New Review, New York: 140/1980, p. 276 cited ibid., p.50.)


この予言のとおり、彼は、死の床において次のように述べた。


私は、大きな間違いを犯した。私は、無数の犠牲者から流れ出る血の海の中で茫然自失している。これは、悪夢だ。今更戻るには遅すぎる。われらが祖国ロシアを救うには、アッシジのフランシスのような人間が必要だったのだ。このような人間が十人いれば、我々はロシアを救うことができただろう。
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59)


他者のために、祖国ロシアのために、人生を捧げたはずだった。
しかし、現実に得られたのは、革命によって粛清された無数の人々の血の海と、累々と積み上げられた犠牲者の死体だけだった。