国有化論ないしは市場経済論
マルクスは市場経済をどう見たかについて、国有化論との絡み考

 (最新見直し2006.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005.4月現在、日本の政局は小泉政権の郵政民営化で揺れている。相も変わらずマスコミは、小泉首相云うところの構造改革路線を支持し、「骨抜きされるな論」をぶち上げている。元に戻っての郵政民営化が果して構造「改革」なのかどうかの詮議は放棄され、単に言葉に酔っている。この手合いに漬ける薬はないものだろうか。以下、郵政民営化が如何に「改悪」なのか論証する。

 2009.4.27日再編集 れんだいこ拝


【中曽根政権以来の民営化の反動性考】
 国家の基幹産業の国営化は、その国の主権独立のバロメーターである。仮にこの公理が成り立つとすれば、近時の民営化路線は国の主権独立を侵す反動政策ということになろう。日本は戦前、官僚独裁体制下で重要産業の国有化を成し遂げてきた。奇しくもこれは社会主義体制を準備する「上からの革命政策」であったと云えば驚かれるだろうか。もとより当時の官僚は社会主義の為に重要産業の国有化を成したのではない。戦争政策遂行の為の最大効率システムとして生み出されたものに過ぎない。然しながら、動機はどうであれ、結果的に成し遂げられた重要産業の国有化は、蜂の一刺しで社会主義体制に転化し得るものであった。潜在的可能性という意味で受け止めれば良い。

 してみれば、中曽根内閣以来の近時の民営化路線とは、潜在的可能性としての社会主義基盤の破壊で有り、社会全域をより資本主義化するものでしかない。それは、戦時体制下で生み出された国防上の必要からの国有化政策に対するアンチの流れであり、必然的に反国防的政策ともなっている。反国防的政策とは、国家の主権独立の喪失化という意味である。民営化路線の本質は正にここにある。

 そういう国家の主権独立を危うくせしめる政策を誰が主導しているのか。対外的には国際金融資本即ち米英ユ同盟であり、これに呼応しているのが国内の名うての右翼民族主義派である。ここに民営化問題の戯画性がある。国内の名うての右翼民族主義派とは、80年代の中曽根派であり、2000年代の小泉派であり、共に自民党内タカ派として称されているグループである。この両派は、己の売国奴性を隠す為に、靖国神社を政治的に利用し、同神社を表敬参詣する特質を見せている。それは、売国傀儡権力的本質を見破られまいとして演出する右派性に過ぎない。

 話を戻す。我々が、なぜ小泉的民営化路線に反対すべきなのか、これを明らかにせねばならない。既に述べたが、それは歴史的に獲得されたプレ社会主義体制秩序の破壊であり国体の重要部門を、国際資本主義の渦の中に投げ込む愚挙に他ならないからである。既に運輸機関としての国鉄、通信情報機関としての電電公社、タバコ、塩産業の専売公社が投げ込まれ、国家の直接的コントロールの利かない機関にされている。今為されようとしている郵政民営化は、巨大に蓄積された郵政資金の更なる散財に他ならない。

 当然これを待ち受けているのはあの名高きハゲタカファンドであり、国際金融資本グループである。彼らは、郵政民営化を通じて最後の牙城に攻め込もうとしている。日本はこれにより外圧に対する有効な処方箋切り札を最終的に失う。郵政民営化後直ちに日本はダッチロールし始めるであろう。なぜなら、もはや郵政の後ろ盾亡き後の日本は完全に御せられるからである。

【広西氏の社会主義的国有化論への疑問提起】
 マルクス、エンゲルス協働時代の社会主義的国有化論をどう位置づけるべきか、この問題は旧くて新しい。そもそも、マルクス、エンゲルスが指針させていた社会主義的国有化論とはどのような内実のものであったのか、ここを明らかにしないと解けない。かって広西元信氏は、「資本論の誤訳」で衝撃的に次のように指摘した。
 概要「マルクスは、所有と占有概念の違いを識別し、占有概念で社会主義社会を透視していた。マルクスの言説の中に国有化概念は無く、むしろ資本主義的株式会社を労働者の生産管理的方向(アソシエーション)へ発展させる必要を遠望していた。その限りで、ロシアのスターリニズム的国有化政策指導は何らマルクス主義的でないどころか、反対物であった」。

 しかしながら、広西氏のこの指摘は黙殺された。否、公然と批判されたのかも知れないが、れんだいこにはその辺りの知識が乏しいので解析できない。そのれんだいこが分かる範囲で述べると、マルクスは社会主義的国有化を展望していたが、さしあたりの過渡期論として実際に指針させていたのは「国内基幹産業の国有化」であり、そこから先の産業全分野全領域に関わる国有化論については饒舌していない、ということではなかろうか。

 しかしながら、史実は、マルクス主義と云えば国有化とみなして資本主義経済体制に代わる重要な指標として国有化論を満展開させていった。ロシア10月革命以降の経済政策は、この認識の下に市場経済と資本主義経済体制を否定し国有化の名の下に統制経済路線を暴力的に敷いていった。そしてその政策は見事に失敗した。

 レーニンは晩年になってネップ政策を導入し、一定程度の市場経済の復活でもって軌道修正させた。ところが、レーニンのその政策は次のスターリン時代には生かされず、再度古典的統制経済的国有化政策へと軌道修正された。その功罪を一概に述べることは出来ないが、スターリン時代の経済政策は停滞した。これが史実であろう。

 これらのことを述べ始めるとキリが無いので以下割愛する。ここでれんだいこが述べようとするのは、マルクス、エンゲルス協働時代の社会主義的国有化論とはどういうものであったのか、そのアウトラインをスケッチすることにある。そして、2005年現在、小泉政権の下で暴力的に強行されようとしている郵政事業の民営化なるものが、マルクス主義の見地からどう評されるべきものであるのか、その観点を確立することである。論がここにまで至らないと、理論は生きてこない。

 しかし、これを説くことはとても器量のいることである。(以下略)

 2005.4.4日 れんだいこ拝

 エンゲルスは、「反デューリング論」(1876年9月―1878年6月)の中で次のように述べている。
 「デューリング氏は、各人にたいして「等量の消費」をおこなう権能をあたえているが、しかし、だれにたいしても,かならずそうするように強制することはできない。それどころか、彼は、彼の世界では誰でも自分の貨幣でなんでも好きなことをやれるのだ、と誇っている。だから、彼は、一部の人がささやかな貨幣を貯える一方で、他の一部の人は支払われた賃金ではやってゆけないという事態がおこるのを、防ぐことはできない。彼は、そうした事態が不可避となるようにさえしている。というのは、彼は、家族の共有財産の相続権を明確に認めており、そのことからさらに、両親が子供を扶養するという義務が生まれてくるからである。だが、そうなると、等量の消費に大きな裂け目ができてくる。独身の男子は、かれのもらう1日8マルクないし12マルクの賃金で、なに不自由なくたのしく暮らせるが、8人の未成年の子供をかかえた男やもめは、それだけでは食うや食わずの暮らししか立たない。ところが、その一方で、コミューンはなんの疑いもなく貨幣の支払をうけるため、その貨幣が自分の労働以外の方法で得たものかもしれないという可能性がでてくる。それにはなんの臭いもない。コミューンは、その貨幣の出所を知らない。だが、そうなると、これまでは労働証券の役割を演じていたにすぎない金属貨幣がほんとうの貨幣機能を果たすいっさいの条件がそなわったことになる。一方では貨幣を貯蔵し、他方では負債を背負いこむような機会と動機が現われてくる。困窮者は貨幣貯蔵者から借金する。この借りた貨幣を、コミュ―ンが生活手段にたいする支払として受け取ると、それによって、この貨幣は、ふたたび今日の社会における貨幣と同じものに、すなわち人間労働の社会的化身、労働の現実の尺度、一般的な流通手段になる。世界中のあらゆる「法律と行政規則」もこれにたいして無力なことは、それらが九九の表や水の化学的組成にたいして無力であるのと同じである。また、賃幣貯蔵者が困窮者から利子をもぎとることのできる立場にあるため、高利かせぎも貨幣として機能する金属貨幣といっしょに復活する」。




(私論.私見)



「計画経済」とは、「単一の国家計画の作成とその遂行という形で経済発展がおこなわれ、財貨の生産・流通・分配が人間の意識的管理のもとにおかれている国民経済をいう」と社会主義経済を専門とする経済学者によって定義されてきました(岡稔「計画経済」、岩波『経済学辞典』第3版、一九九二年、三〇一〜三〇二ページ)。

 指令経済というのは、一九三〇年代にソ連で確立された、中央集権的な「計画経済」の形態で、基本計画と工業生産は中央によって計画された、上から下への命令としての効力をもつ計画で、この計画が各人民委員部(省)によって管轄される企業に対して設定され、その対象は生産物や原材料の量と種類、賃金、価格などあらゆる領域に及び、計画の調整機関としてのゴスプラン(国家計画委員会)の役割を高めた、といわれています。

 このような「計画経済」には、一社会の一切の財貨やサービスとそれをになう労働力の配分が、人々の需要をみたすようなかたちでうまくおこなわれるかという問題、経済専門家のいう「経済計算」という技術的難問があるばかりでなく、「指令経済」においては、一九三〇年代、ついで戦後のソ連をとりまく国際環境――不断の軍事的脅威、戦後は米ソ冷戦――によっても規定されて、生産中心的、とくに軍需生産中心的で消費者無視の傾向、もの不足と品質不良、官僚主義的傾向、非能率などのマイナス面が多かった。

 スターリン没後、いろいろ改革が試みられたのですが、抜本的効果をあげることはなく、体制が崩壊してしまいました。この「計画経済」の可能性の問題についての論争には最終的な決着はまだついていませんが、歴史的事実の問題としていえば、それは自然発生的な社会的分業にもとづく資本主義的市場経済体制にとって代わることはできなかったし、次節でのべる政治的条件(革命による資本主義体制の転覆ということが難かしくなっていること)もあって、これからも難かしいのではないでしょうか。ただ部分的な計画化ということが市場経済体制にとりこまれるということは、ありうるとは思いますが。