予備論考その2、マルクス主義における階級概念について |
(最新見直し2006.8.24日)
【マルクス主義的階級概念の正確な理解について(一)】 | |
ここに一章設けた理由は、マルクス主義を語る場合に階級概念の意味を明確にさせ、【階級対立−闘争】観点を正確に理解することが不可欠と思う理由による。その上で、マルクス主義における階級闘争的唯物史観の白眉な面を称賛したい。次に、特殊れんだいこ的かも知れないが、その功罪についても客観化させてみたい。マルクス主義が史上に現れて以来百有余年、そろそろそういう識別がされても良い時期に入っているのではなかろうか。 マルクス主義による階級闘争的唯物史観を客観化するとは、マルクス主義の階級概念・階級闘争観点の間違いを指摘しようという意味ではない。その視点も根拠がない訳ではなかろうが、むしろ世の中の全てを唯物史観の視点からしか捉えず、万事この観点に包摂して説明しようとするのは間違いではなかろうか、というより、唯物史観をそのような万能公式で理解するのは間違いではなかろうかという思いの方に力点があり、唯物史観の限界点をも明らかにして、他の有効な観点とのすり併せに向かいたい、という意味においてである。 いうなれば、当時のマルクスがそうしたように、最新の現代科学のエッセンスを吸収して、如何にして世界を社会を現代的に認識すべきか問い掛けたいと云う意味である。このニュアンスには、他の必須観点をも取り入れて唯物史観とのバランスよく把握しておきたいという意味が込められている。その際、マルクス主義のどこの辺りが吟味されることになるのだろうか。 最初に考察しておかねばならないことは、階級という用語が哲学的な概念であるということについてである。どういうことかというと、その構成員の個々を見ても集合体を見てもそのような認識が自然に生まれる訳ではないということを考えればお分かりいただけるかと思う。階級とは、社会的に似た特質を持つある集合体に冠せられる抽象概念であり、自然科学における何らかの質量を伴うエキス抽出物のようなものとは違う、という点に注意を喚起しておきたい。 その意味するところは、現実の個々の人間を評して無理矢理に階級規定をして、やれ資本家=階級敵だとか労働者=階級仲間だとか仕分けして、必要以上の対立を煽り、資本家を原罪的になじる他方で労働者を無条件に擁護するなどと云う、従来よく為されてきた手法はナンセンスだということを確認したい為である。実際に害のほうが多いのではないのか。 つまり、階級規定による判断を個々の史上の人物の個々の行為に厳密に適用していくことにはさほど意味がないということである。これが、れんだいこの云う「階級概念は哲学的な抽象概念である」ということの実践的な意味である。ところが、史上のマルキストはこれまでそういう安直な階級規定をし過ぎて来た、それは実践上何の役にも立たなかったし馬鹿げているということを確認しておきたい。 付言すれば、北朝鮮における出身成分ランク付けの万力型適用なぞ馬鹿げていよう。何と数十段階に仕分けされていると云う。人の成育に環境的「出身成分」が関係しイデオロギーにも影響を与えるのは事実であるが、「出身成分」が困窮階層出自であればマルクス主義者になれるというものではない。史上の指導者がこぞってプロレタリア的な困窮体験を語っているが、ある種馬鹿げている。いわゆる小ブル的インテリのひ弱さ論も然りであろう。それらは「半面の真理」であっても、それ以上の意味を持たせてはならない。 これを実事に則して云えば、我々の社会生活上、個人と個人が出くわし関係する場合、互いの所属階級認識なぞは極力不要であるかも知れないということである。他に適当な言葉がないので仮に人間力とするが、そういう場合には単に個人間の人間力関係で事が処理される場合を百として極力それに近づくとみなして差し支えないと思われる。 踏まえておくべきことは次のことである。ところが、それぞれが集団化するや否や階級色を強める。あたかもそれは、各人が色付きの薄いセロファンを身に纏っており、その薄色を集合化させれば濃い色になる例と思えばよい。この「階級=セロファン色理論」は目下れんだいこの独眼流であるが、マルクス主義における階級概念はこのような仕組みで理解される必要があるのではなかろうか。個々の人間にはまず階級が有って後に名前が有るのではなく、まず具体的な当人がいて煎じ詰めていけば階級色が見えてくるということである。つまり、「階級とは実態があるようで無い、無いようで有る」という、まことに不可思議な抽象概念なのである。このことをまずもって確認しておきたい。 |
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2,006.8.24日付日経新聞の「私の履歴書 小堀宗慶bQ3」で、「俗流マルクス主義の階級出自論」を証する一文に出くわした。これを書き付けておく。小堀宗慶氏は次のように述べている。
これをどう窺うべきか。論ずるまでもなかろう。 2006.8.24日 れんだいこ拝 |
【マルクス主義的階級概念の正確な理解について(二)】 |
次に、歴史学において階級概念的観点から考察を試みたのはマルクスが端緒ではないということを確認しておきたい。「空想より科学へ」では手短ながら次のように述べている。「******」。但し、この場合の階級はどのように区分されていたのであろうか。それらを読んでないので分からないが、察するに支配者対被支配者対中間層、我が国では「お上」対「下々(しもじも)」対中間層、富裕層対貧困層対中間層という三項区分での階級観なのではなかったのか。この「階級区分=三項対立説」も目下れんだいこの独眼流である。 これに対し、マルクスの階級概念の意義は、それまでの階級区分が漠然としていることを念頭に置きつつ、社会構成の基本として最重要なものに経済を位置付け、生産手段の所有者=資本家階級(ブルジョアジー)対それに依拠して労働を提供するしか手段を持たない層=労働者階級(プロレタリアート)対中間層という区分で階級規定したことの秀逸性にある。残念ながらというべきか流石(さすが)というべきかマルクスを措いて他には誰もこのようには認識できなかった。 この階級規定の秀逸性は、この区分けの仕方がまことに社会実態に合致していたということと、同時に今後の歴史動向をも指針せしめていたことにある。つまり、生産手段を持たない労働者階級がそれを社会的に共有化していくことが、次の時代への流れであるということを示唆する規定にもなっていたということである。 但し、この階級規定は哲学的概念であるから、既に指摘したように個々の史上の人物の個々の営為にこれを当て嵌めようとすると無理が生ずる、ということを踏まえられねばならない。同時に、個々の人物の立身出世又は没落に伴う階級移動とか、それぞれの側の子弟はどうみなされるべきなのかとか、公務員はどのようにみなされるのかとか厳密な意味では未解明な面を宿している、ということが知られねばならない。 次に、この階級概念の由来の根拠について述べてみる。階級概念を導入することの実践的な意味は次のことを意味する。社会的事象を判断する場合に、人は階級的に置かれた立場によって諸判断が異なってくるのであり、そのように異なった結論が出てくるには相応の理由があるということである。もし、この階級概念を用いなければ、マルクス以前のヒューマニズムの世界、つまり人間一般ないしは社会一般の共通価値観を求めたり、基準を求めることに翻弄され、その結果不毛な果実しか生み出さない。マルクス主義からすれば徒労の企てに過ぎないということになる。実に、マルクス主義の功績はここにあると思われる。 次に、かくて概念化された階級間による闘争こそ社会を突き動かす歴史のモーターであるとしたマルクス主義の観点の秀逸性について見ておく。 次に、この階級闘争観点が万能ではないことを見ておく。 次に、どこに補足せねばならぬ点があるのかを見ておく。 |
【マルクス主義的唯物史観の正確な理解について】 |
もう一つ、唯物史観が卓見であったとして、それは化学ないしは物理学における物質の構造式のような意味で社会の構造式の発見として受け取るべきであろうか、という疑問も有る。例えば、水の分子式はH2Oとして表わされるが、唯物史観は社会のそのような分析公式を積み上げたものであるのだろうかという問題である。一般にそのように認識されているように思われるが、この観点の是非、そのように理解することの是非論議が不足しているように思われる。 れんだいこ的には次のように理解したい。我々はある社会事象を捉える場合に、「群盲、象を撫でる」ようにして様々な分析手法を形成してきた。その共通項は、個と集団、個と社会、個と国家とのいきなりの関係論であり、それぞれ経験主義的に精緻な理論を作り上げていたとしても、ある重要なことが欠けていた。その欠けていたところのものは、いわばフォイエルバッハ的な類の概念であった。フォイエルバッハは、個と類の関係を徹底して認識しようと努めた価値ある業績を遺しているが、マルクスはこの類概念を階級概念へと止揚させたのではなかったか。 この場合、その功罪があるように思われる。しかし、認識の発展としてのこの階級概念を媒介させることに成功した結果、史上初の観点となった唯物史観の獲得に至った。それは、「群盲、象を撫でる」諸見解に比して、それらを纏めて「表見解」とし、もう一つの有力な見方として「裏見解」的位置に立つ功績が有るのではなかろうか。この「唯物史観=『裏見解』説」も目下れんだいこの独眼流であるが、マルクス主義における唯物史観はこのような仕組みで理解される必要があるのではなかろうか。 してみれば、マルクス主義の階級概念、唯物史観等は、史上の様々な諸論を単に排斥するところに意味があるのではなく、別の有力な見方として華を添えたという捉え方で受け止められるべきなのではなかろうか。それは認識の一層の豊かさへの道であって、その逆に堕すものであってはならないのではなかろうか。 補足すれば、「裏見解」としての唯物史観の優位性は確かにあるということは云えるだろう。どういうことかというと、様々な「表見解」は必ずしも唯物史観に辿り付けないが、「裏見解」としての唯物史観は、様々な「表見解」の良所を適宜に変容させながら取り入れたり吸収し得るといういわば横綱相撲のような立場にあるのではなかろうか。 |
【現代においてはもはや階級という概念自体成立しない、ましてや革命を求めるプロレタリアートなどというものは幻想にすぎないという主張について考】 | ||||||||||||
こういう考えが一定の支持を得つつある。資本主義の改良を要求する今日の社会民主主義者の多くも、基本的には階級の存在自身を否定している。その背景には、いわゆる帝国主義的先進国における中産階級=「いわゆる買収されたプロレタリアート、ある程度裕福な生活を保障されている上層労働者」の出現がある。古典的には、プチブル的な中間階級とみなされてきたが、その層としての出現がこうした理論を受け入れやすくしている。
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(私論.私見)