マルクス・エンゲルスの議会論について

 レーニンは、著書「カール・マルクス」 において、プロレタリア階級の戦術という項目をあげて次のように述べている。

 概要「マルクスは、プロレタリア的階級闘争の戦術の問題に絶えざる注意を払った。 プロレタリアートの戦術の主要な任務をマルクスは、彼の唯物論的世界観の全ての前提を厳密に一致させて規定した。ある与えられた社会の全ての階級の相互連関を一緒にした全体の客観的な顧慮、したがって又、この社会の客観的な発展段階の顧慮、ならびに、この社会と他の社会との間の相互的諸連関のみが先進的階級の正しい戦術のための基礎として役立つことができる」。

 マルクス主義的議会論は、ブルジョア議会に対して次のような見解を持つ。A、マルクス主義者は、革命的情勢を有利に切り開くために議会や選挙を活用する。2、ならば、どう活用するのか。1・人民に対する宣伝と煽動の演壇として活用する。2・労働者と人民の為に改良をかちとる闘争の舞台として活用する。3・労働者階級が議会で多数を獲得して適法的に政府を握る可能性を顧慮する。これが原則である。

 レーニンは、資本主義国家に於ける議会の本質について、「国家と革命」の中で次のように述べている。

 「支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し、蹂躙するかを、数年にただ一度決めること―この点に議会制立憲国をはじめ最も民主的な共和国においてもブルジョア議会主義の真の本質がある」。

 B、マルクス主義は、できあいの国家機構をそのまま使うことはできないという革命的原則を持つ。これにより、議会は革命的に再生される。

 C、ベルンシュタインや、第二インターは、議会での多数者獲得を国家権力の獲得と同一視し、人民が権力を握った時、官僚的、軍事的統治機構の破壊と再生の必要性を最後まで認めようとしなかった。

 D、ロシア10月革命は、ソヴィエト形態を創出した。レーニンは、ロシア十月革命前後の議会に対して次のように述べている。

 「議会はすでに雑談場に変ってしまった」といい、更に「この雑談場とそこでの決議でもって馬鹿正直な百姓をごまかしている」。

 レーニンは、「国家と革命」の中で、エンゲルスのパリ・コンミューンに対する評価(「 フランスの内乱」第3版序文)を引用して次のように述べている。
 「エンゲルスはここで徹底した民主主義が一方では社会主義へ転化し、他方では社会主義を要求するという興味ある限界点に接近している」と述べ、更に「民主主義を徹底的に発展させ、このような発展の諸形態を要求し、その諸形態を実践によって、点検する等々、全てこれらは、社会革命のための闘争の諸任務を構成する要素の一つである」。

 E、ソヴィエト運動の変質。

Re:革命的議会主義考 れんだいこ 2003/01/22 14:32
 うちはだいこさん皆さんちわぁ。いわゆる「革命的議会主義」ですが、もう少し理論的に切開すれば良いのにね。不破の人民的議会主義論が、議会専一主義であり、大衆闘争解体論であったことは今日では明白になりました。その議会専一主義も外に向かっては国連専一主義と繋がっているという驚くべき正体が見えてまいりました。

 他にも、結社の自由、規約による自主入党制論に支えられた党中央万能型党幹部集中制、分派の禁止、相互の横の連絡さえ不許可、友党間の批判自粛論、内政不干渉論もかなりケバイものですが、一応理論らしき体裁を取っている以上、理論的に対応しなくてはならないと考えます。

 そういう研鑚を経て「革命的議会主義」にせよ何にせよ取り組むと、威力が倍加すると思います。残念ながら出来ているようには思えません。党派間ゲバルトも党内査問も、離党者の反対派的活動処遇にも、理論が整備されておりません。まず体が動くというような経過があるように思います。理論的なものを創りださないと党派運動としては失格だろうと思います。

 不十分であったり仮に間違っていても良いではないですか。まず体を張って見解を纏め世に問う。それを我々が喧喧諤諤するうちに共有認識が高まるというような弁証法的対応が出来ないものだろうか。補足すれば、離党者の反対派的活動に対するテロなんてものはあって良いわけが無い。批判の自由を保証し、切磋琢磨していくことが革命の弁証法だろうと思います。今回の件に関しましては背景がまだ分かりませんのでぼかしておきますが、早く大人の知恵に至らねばならないと考えております。

 れんだいこ見解に拠れば、戦後憲法制度下の秩序は、近年の旧「社会主義」国家が目指している市場性社会主義体制の先を行く極めてスグレモノであったという認識をしております。こういう秩序下では、議会闘争に精力的に取り組むのは当たり前のことでせう。問題は、議会専一主義では当然に限界があると云う弁えの認識であり、それさえ踏まえればあれもやりなはれ、これもそれもやりなはれで良いのでは無いでせうか。

 この平明な認識になぜ至らないのか。どうも賢すぎる人たちは難しく理論をこねすぎるきらいがある、なんちゃって思っております。出来ることを力あわせてやり抜く。その先に見えてくるのが体制的な壁であり、さてどうしようかということになる。左派がそういう努力をせずして、分かったような分かっていない理論を振りかざして薀蓄を垂れている間に戦後民主主義秩序がどんどん空洞化形骸化させられ、もう余命いくばくもないところへ来てしまいました。

 小泉の構造改革論なるものは、もうとうの昔に化けの皮が剥がれており、何のことは無い戦前並みの旧体制への復古運動に過ぎず、違いといえば天皇に代わってその地位に小ブッシュはんを据えているだけの阿諛追従政治に過ぎない。小泉政治の支離滅裂さにはサド的なものがあり、凡庸というレベル以下のマニア的なものであるが、これを批判しきる代役がいないお粗末さを露呈している。川口外交も然り。その親米露払いぶりは吐き気無しには見ていられない。マスコミが寡黙なのは真紀子叩きに興じた姿と対照的で、結局ウマが合っているのだろう。

 民主党も切り札の管が登場した。いろいろ嫌がらせ受けているが、党内右派のボケぶりには怒りを通り越して、さっさっと出ていかんかい、とか思う。いずれにせよ、管の限界もまもなく現われてくる。そうしたら、こちらにも後の受け皿が居ない。早く、急進主義系左派の能力を見せて欲しい。その為には中央でも地方でもどんどん人士が登場してこなければならない。下手な理屈は要らないとか思います。

 要するに、革命とは、どういう人物が社会の上層部に巣くうのか、その熾烈な闘いなのではないでせうか。制度一般論を百年論議するよりも、誰が執行権、財務権、人事権を持つのか、これを廻ってもっと日常的に戦闘的に闘争せねばならんと考えます。人が変われば制度も変わる。というか、それぐらいの幅はある。下から上から同時的にイニシアチブ闘争を遂行せねばならん、と考えております。革命つうものはそういう渦中からうみだされるものであり、待機しているうちに棚から牡丹餅なんてことはないと考えます。

 そういう意味では、今や大戦末期の如く人材が枯欠しているからして、革命の時節到来でせう。




(私論.私見)