予備論考その4、マルクス主義運動における「平等の価値」について

 (最新見直し2010.12.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、マルクス主義の重要な価値ファクターである平等概念に就いて考察しておく。

 2010.12.15日再編集 れんだいこ拝


 「カオスとロゴス第21号」の「村岡到:<平等>こそ社会主義正義論の核心」を転載しておく。
 「トーニー教授は、『重要なのは、それが完全に達成されうるかどうかということにあるのではなく、真剣に求められるべきか否かにある』という。人間は完全に正直たりえないからといって、正直たらんとすることの重要性を否定するわけにはいかない。かくて平等は完全には到達し得ないものであるが、現実の不平等を衝く運動の推進力として、それへの要求が現代の大きな力となっているのである1)」(川原次吉郎、1954年)。

 もう10数年も前のことであるが、ある論者が自著の「まえがき」にこんな風に書いたことがある。「現在の日本社会、特に知識人の世界において、『正義』は被差別用語の悲哀を味わっている言葉の最たるものである。……『人権』『民主主義』『自由』などに熱情を示す人々も『正義』になぜか冷淡であ2)」る。その著作は「蹂躙された『正義』の語権を救済する試み」と位置づけられていたので、思いが込められた誇張した表現になったのであろうが、今日でも事情はそれほど変化していない(ジョン・ロールズの『正義論』が訳刊されたのがその7年前1979年であったが、もちろん見落とされていたわけではない)。ここで問題にされているのは、「正義」であるが、それを<平等>と置換しても同じことが言えるであろう。<正義>と<平等>とがいかなる関係にあるかについても、後に触れるが、今日では<平等>は「正義」以上にうとまれているとすら言える。そして、私たちの周辺は、しだいに『不平等社会・日本』(佐藤俊樹、中公新書、2000年)、『機会不平等』(斎藤貴男、文芸春秋、2000年)となっている。

 昨年9月11日の「特攻テロ」にたいして、アメリカのブッシュ大統領が叫んだスローガンは「自由の防衛」であり、アフガニスタンへの戦争の作戦名は「不朽の自由作戦」であった。彼の口から「平等」と語られることはない。少し首を左に向けると、「特攻テロ」によって無惨にも倒壊した、ニューヨークのツインタワーが視野に入る至近の位置に「自由の女神」が立っている。独立100周年を記念して建てられたこの巨大な像が、後に考察する「正義の女神」ならぬ「自由の女神」であることは象徴的と言える。私たちの周囲を見渡してみると、「自由」と「平等」の使用頻度には格段の差がある。政党の名称には「自由」や「民主」や「社会」がさまざまな組み合わせで使われているが、日本にはかつて「平等党」は存在したことがない(部落解放を掲げた「水平社」は存在した)。書籍の書名を探すと確かに、本稿でも参照しているように、「平等」を冠するものもないわけではないが、『自由』本の氾濫には負けてしまう。なぜそうなっているのかを考えることも、<平等>の意味と意義を明らかにすることになるが、まずは、本稿のアウトラインを示すことにしよう。

 第1節では、19世紀のいわゆる「初期社会主義」では「平等」がきわめて重視されていたことを明らかにする。ところが、マルクス主義が隆盛になるにしたがって、「平等」は後景にフェードアウトすることになったようである。第2節では、マルクスは「平等」をどのように考えていたのか、あるいはどのように考えていたとマルクス主義の周辺で認識されていたのかを明らかにする。

 「平等」をめぐる社会主義運動内での歴史的経過を概観したあとで、第3節では、<平等>をなぜ問題にするのか、この問題の位置についてはっきりさせる。私は、<平等>の問題は<社会主義正義論>の核心に位置すると考える。そのうえで、<平等>の定義とその諸相を明らかにする。ここではあわせて<生存権>にも触れる。

 最後の第4節では、<自由>と<平等>との関係について明らかにする。かつて19世紀ドイツの文豪ゲーテは「平等と自由とをあわせて約束するものは、空想家でなければいかさま師である3)」と言ったというが、私たちの結論は今日においては<自由>よりも<平等>を重視することが大切だという主張である。さらに、日本の精神風土の深い底流となっている仏教において<平等>が最重要の徳目として尊重されていることに着目し、<社会主義と宗教>の接点についても言及する。

 半年ほど前に私は、「<ノモス>を追求する意義」なる標題の論文を書いて、敗戦直後に展開された「尾高・宮沢論争」を取り上げ、その結論の一つとして「<すべての人間の平等の福祉>を内実とする<ノモス>=<法の理念>を主体的に追求することこそが、今日における人間解放の道なのである4)」と明らかにした。尾高朝雄がアリストテレスを踏襲して強調した<人間の平等の福祉(エウダイモニア)>とは何かが、次に問われるべき課題とされたわけであるが、本稿はその問題意識の延長上にある。もとより、このような問題意識は私個人のつたない歩みのなかで生じたものにすぎないが、<平等>について考えることは、この個人的な関心を越えて意味あるはずである。「社会主義」やマルクスと関連させて問題にしたのは、私自身が長いあいだマルクスやマルクス主義を正しいものと考えていたし、その限界を悟った今日でも<連帯社会主義>を主張しているからである。

 このテーマに着手してすぐ気づいたことは、<平等>問題は時に浮沈は大きな振幅で生起していたとはいえ、洋の東西で古今の哲人賢者が生涯をかけて探究してきた人類の難問であり、ある意味では論じ尽くされているということである。その昔、日本法学の先達・穂積陳重は名著『法窓夜話』で、人は何かを初めて気づいたように思うことがあるが、大抵のことは先人あるいは同時代の人によって説かれている場合が多いと注意していた5)。確かにゲノムや「性同一性障害」をどう考えるかなどという問題であれば、大正時代にさかのぼることさえできないであろうが、「正義」や「平等」や「自由」については、はるかに紀元前から人類は同質の問題に直面してきた。その意味では、本稿は新しい見解を提起するというよりは、先人の成果を整理するにすぎないとも言える。それでも<社会主義>を探究する脈絡と志向性を貫いている点でいささかの意味を有するのではないかと考える。

 第1節 「平等」を重視した「初期社会主義」

 「社会主義」という言葉は、1827年にイギリスのブライトン協同慈善基金組合の機関紙に初めて現れたということである6)が、それ以前からも資本制社会の形成とともに、そこで虐げられる民衆の闘いは存在したし、その運動の理論的表現もさまざまに発せられていた。そこで初めに、諸国に先行して資本制社会への発展を実現したイギリスから見ていこう。

 1688年の名誉革命と18世紀の産業革命とによって近代への道を切り開いたイギリスでは、17世紀のピューリタン革命期に、左翼急進派――「レヴェラーズ」と称される文字通り「平等」を運動の名に冠する人々が広範に活動した。クロムウェルの軍隊内部の兵士を中心とした運動で、1647年に発表された彼らの「人民協定」では、「すべての法律においてすべての人は平等に拘束せれら」、「法律は平等であると同時に善法でなければならない7)」と明らかにした。

 トマス・ペイン――1774年のアメリカ独立戦争にも力を尽くし、1789年にはフランス革命のパリに滞在し、革命の歴史的意義を主張し、大きな反響を与えた――は、1792年に著した主著『人間の権理』で「人間は平等な権理を持つという、教えられるところの多い神聖な原理」を説き、「万人が生まれながらに平等で、しかも平等な自然権を持っている8)」と明らかにする。ペインはキリスト教に従ってこのように主張した。「モーゼによる天地創造の記述」を引いて、それが「人間の平等性が……記録にとどめられた最古のものであることを示している」と説明する(68頁)。

 ロバート・オーエン――1812年にイギリスのニューラナークで労働者福祉を取り入れた新しい工場を経営し、1824年にアメリカ・インディアナ州ニューハーモニーで「平等社会」の実験村を試みた――は、「ニューハーモニー準備社会の開設にあたって」で、「全人類のあいだに人為的不平等がなくなるような時期の到来を熱心に待ち望んでいる」と書き(103頁)。「平等と独立の共同社会」を展望した(105頁)。なお、オーエンは1848年3月にパリに渡り、後述のルイ・ブランと交流していた。

 「労働全収益権論」を説く「リカード派社会主義」と命名される人々も「平等」を強調した。「初期社会主義者のなかの最も重要な理論家」と称されるウィリアム・トムスンは「労働の報酬」で「分配における平等者の平等な社会」(121頁)や「平等な政治制度」を強調している(122頁)。印刷職人のJ・F・ブレイは1839年の「労働に対する不正と労働の救済策」で、「万人の権理も平等でなければならない」(289頁)と明らかにする。

 19世紀中葉に普通選挙権獲得運動を広範に展開したチャーチスト運動も当然ながら「平等な政治的社会的権理」を要求した(239頁)。1837年に発表されたロンドン労働者協会の「人民憲章」は、「人民の平等な代表のための法律」を求めた(247頁)。チャーチスト運動は、1842年には会員4万人を超え、同年には331万人の署名を集めて請願書を議会に提出した。40年には監獄に500人余が投獄されるほどであり、「暴力派」と「理性派」の論戦もあった。

 彼らの主張のもう一つの特徴は「暴力を排して」いる点であるが、本稿ではその点については論究しない。

 次にドーバ海峡を渡って、フランスに移ろう。誰もが知っているように、1789年のフランス革命の不朽の標語は<自由・平等・友愛>であった。この革命の思想的源泉は、周知のようにルソーに負うている。ルソーは1755年に『人間不平等起源論』を著した。その第2部冒頭の一節は広く知られているが、引用に価する。ルソーは「果実は万人のものであり、土地は誰のものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!9)」と警告した。

 フランス革命期において突出して「平等」のために行動したのはバブーフたちであった。「平等のための陰謀」事件とも「バブーフ陰謀事件」とも命名されて歴史に深く刻印を残したこの出来事については、平岡昇『平等に憑かれた人々』を学ぶことを勧めるが、フランス革命期の最末期、ロベスピエール政権によるテルミドール反革命の後、1797年にギロチン台で処刑されたバブーフを中心とする「バブーフ一味」による「陰謀」が摘発された。彼らのなかで「平等の体系」を実現するために「民衆の武装蜂起によって権力奪取を構想する『陰謀』が生まれた10)」。彼らの主張は「平民の宣言」や「平等派の宣言」として残されている。平岡によれば、「その口調のするどさと平等主義の信念において、『人間不平等起源論』や『社会契約論』のルソーを想像させずにはおかない」(46頁)。バブーフは、「ルソーにあやかって」自分の長男を「エミールと改名させた」ほどであった(8頁)。平岡は「バブーヴィズムは、共同の幸福、共同の福祉をめざす社会・政治体制の提案で、それは私有財産制の廃止、財産の共有のうえに築かれる平等主義的共同体、つまり一種の共産主義を意味する」(56頁)と説明している。なお、平岡によれば「バブーフは一種の宗教性、キリスト教への親和性をもっていたのではないかと思われる」(133頁)。

 当時のフランスの様相についていうと、「1791年ころのパリの人口が60万人くらいで、食うや食わずの極貧者が約12万人」にも上っていた(215頁)。「飢餓はパリから地方都市や農村にまでひろがっていた」(26頁)。貧困が大問題だったのである。

 次に訪れた革命の高揚期は1848年の革命であった。この前期には何と言っても、1840年に著されたエティエンヌ・カベの主著『イカリア旅行記』が<平等>を鮮やかに説いている。カベは、「不平等こそが、貧困と富裕を、そしてまたこの二つのものに由来するあらゆる悪徳、……一切の悪を生み出した原因である。……われわれのこのような確信は、ほとんどすべての哲学者や賢者が平等を主張していることを確認するたびに、揺るぎないものとなる11)」と強調し、「平等と友愛の教え」を説く。カベの「平等」は食事から衣料にいたるまでの文字通りの画一をすら意味している。「食事の回数、時刻、長さ」まで決められ、同一年齢では「同じ服装」を着用する。「優れた精神や優れた知性や天才」も「結局は自然の贈り物」と理解されて「区別しない」(168頁)。彼らは、1847年から49年にアメリカ大陸へと数百人が移住した。「イカリア共産主義運動は、1843年末に支持者5万人」の規模に拡がったという(235頁)。その機関紙月刊「ポピュレール」の趣意書は「平等を基礎に社会を再組織することが唯一の根本的な対策なのである」と主張している(236頁)。

 フランスではこの革命の年に一時「国立作業所」が作られすぐに廃止されたが、ルイ・ブランがかかわったこの「国立作業所」は「平等主義的な国家の作業所」と特徴づけられていた(329頁)。そのころそこで配布された文書には「王もいらぬ、皇帝もいらぬ。ただ、自由、平等、友愛を」と、フランス革命の標語が繰り返されていた(384頁)。

 著名な政治学者トクヴィルは、48年2月革命を描いた「新しい革命の社会主義的性格」でこの革命のなかで人々が「あるものは財産の不平等の破壊を、別のものは知識の不平等の破壊を、第三の人はもっとも古い不平等である男女の不平等の平準化を主張した」と記している(312頁)。

 フーリエ派の領袖ヴィクトル・コンシデランは1847年の「社会主義の原理」で「万人が平等かつ直接に社会の統治に招かれることを望んでいる」と書いている(143頁)。

 非体系的なプルードンは、後述のヴェルナー・ゾンバルトによれば、時に「平等か、しからずんば死か、これこそは革命の法則である」と書いたことがあったという(101頁)。

 ドイツ人でプロシャ政府からフランスに1840年に派遣され、反政府主義者の動静を探索していたローレンツ・フォン・シュタインは、当時のフランスのプロレタリア運動のなかでは「社会的平等を打ち立てることが死活の要求とな」っていたと観察していた(446頁)。

 最後に、遅れたドイツに目を転じよう。ドイツでは先進的な運動の担い手は政府の弾圧を避けてパリに亡命することが少なくなかった。1834年から35年にパリ在住のドイツ人の秘密結社に「追放者同盟」がある。その機関紙「追放者」に「プロパガンダ」といういわば宣言文が掲載されている。そこには「人々のあいだの平等を確立すること、これが人類を解放し、人類に幸福をもたらし、不幸という革命のプロパガンダを打破する大事業の最後の詰めなのである12)」。「国家は、労働によって平等を確立するという原則をその根本原則の一つとして……明記しなければならない」(11頁)と書かれている。

 次いで、義人同盟が1836年に結成された――マルクスも一時そこに加盟した――が、38年末ないし39年始めにパリで刊行されたその最初の綱領である「人類、その現状と未来像」には次のように書かれている。執筆したのは、仕立て職人のヴィルヘルム・ヴァイトリングである。

 その第2章には10項目の「原則」が提示されている。「B労働を万人に平等に配分し、生活財を平等に享受させる」、「C自然法則に基づき、両性に平等な教育ならびに平等な権理と義務とを与える」。FとIにも「平等」と書かれている(43頁)。「最高の理想でもある社会的平等」とも高唱されている(46頁)。

 1844年?に書かれたアウグスト・ベッカーの「共産主義者とはいかなる者か」の冒頭には「第1問」として、「共産主義というのは、平等の自然権にしたがった共同体の教えのことで」あると明記されている(63頁)。

 ヘーゲル左派のマックス・シュテルナーは同年に「愛の国家についての試論」で「このような〔フランス革命と共通する〕平等と自由の原理は……全国民に共通する感情であったし、全国民が熱狂的に迎い入れた新たな原理であった」と書いた(313頁)。

 初期にはエンゲルスによって高く評価されていたこともあるゾンバルトは、ナチスを擁護する愛国主義に「転向」した後の著作『ドイツ社会主義』で「近代社会主義は平等の理念をも有する。平等の理念は、社会主義的思想界の構造に、極めて高き意義を有するため、プロレタリア社会主義の変種を……平等社会主義と呼びうるほどである13)」と特徴づけていた。

 以上にラフに概観したように、初期社会主義思想のなかでは<平等>はきわめて重視され、社会主義の基軸とされていたのである。

 そして、後にももう一度ふれるが、それらの<平等>はキリスト教と深く重なっていた。ヴァイトリングは前記の綱領で「キリストの教えに忠実に従う」(42頁)。ことを主軸にし、この宣言を「隣人愛の旗を立て」よと結んでいる(62頁)。

 第2節 マルクスは「自由」を基軸に

 先行する「社会主義理論」を「空想的社会主義」と特徴づけて批判・排斥したマルクスやエンゲルスは未来社会を展望するときに、「自由」と「平等」についてどんなふうに論じていたのであろうか。

 1848年に発せられた『共産党宣言』では「平等」はどのように扱われているのか。この言葉はわずかに次の3カ所に登場するだけである。
 @第2章末の例の10項目要求の第8番目に「すべての人々に対する平等な労働強制〔義務、の訳語もあり〕……14)」。
 A第3章で「ドイツ社会主義」を批判する文脈で「かれらは……ブルジョア的自由と平等に旧来ののろいを投げつけ……」(77頁)。
 B同章で「空想的社会主義」を批判する文脈で「それは……荒削りな平等主義を教える」(81頁)。

 すぐに分かるように、いずれの場合にも積極的、あるいは肯定的文脈で使われているのではない。前節でみたブレイの「平等な交換」について、マルクスは『哲学の貧困』では「正直なブルジョアの幻想を氏が実現せんと欲する理想たらしめている15)」とからかっている。

 他方、「自由」についてはどうか。@の直後に第2章の結びとなっている有名な一文がある。「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」(69頁)。近年、「アソシエーション」を強調する論者が好んで引用する周知の一句である。「自由な発展」は積極的な主張のキー概念とされている。他にも「社会が自由にすることができる生産諸力」(47頁)などとも書かれている。

 『共産党宣言』とならぶポピュラーな著作、エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』(あるいはその原典とも言える1878年刊行の『反デューリング論』)では「必然の国から自由の国への人類の飛躍16)」が標語とされている。その直前には「社会の全員の肉体的・精神的素質の完全に自由な発展と発揮とを保障する生活」などとも書かれている(489頁)。

 マルクスの主著『資本論』では未来社会について「自由な人々の連合17)」が説かれ、「真の自由の王国」が「労働日の短縮」と関連させて説かれている。

 明らかにこの3つの古典でマルクスやエンゲルスが強調しているのは、「平等」ではなくて「自由」のほうである。初期マルクスの愛好家なら「自由で意識的な活動こそ人間の類的性格である18)」という一句を想起するであろう。

 エンゲルスには「生産者の自由かつ平等な連合19)」などという表現もある。「平等」を「自由」とあわせて重視したかのようであるが、他方ではエンゲルスは「社会主義社会を平等の国と考えるのは、古い『自由・平等・友愛』に結びついた一面的なフランス的観念であ20)」るとまで書いていた。

 したがって、これらの論述に着目すれば、ハワード・セルサムが1943年に『社会主義と倫理』で言うように「マルクスの全見解は、各個人が自己の諸々の潜勢力を自由に発展させる可能性ということに存する21)」と結論することが妥当ということになる。この結論は、訳者によって「マルクス主義倫理学のまとまった書物としてはほとんど最初のもの」(1頁)と評価されている論者のものだけに引用に価する。

 プリンストン大学の政治学者ロバート・タッカーは「自由こそマルクスにとって『最高の人間的価値』であったとも考える22)」という。タッカーは、「究極のところ共産主義がマルクスにたいして意味したものは、生産の生活のなかでの人間の完全な自由だった」(89頁、下線部は訳文のママ)と書いている。タッカーは「分配上の正義〔平等を意味〕を、マルクスのマルクス主義の主要な道徳上の問題とみなす人たちは誤っていた」(36頁)とも説いている。

 最近の日本の論者にも「マルクス主義の基本理念は、社会的正義や平等ではなく、自由や自己発達であった23)」とする者も現れた。碓井敏正は『現代正義論』で「正義や平等に対するこの否定的立場は、マルクス主義の本質的性格に由来する」とまで書いている(141頁)。マルクスが「正義」や「平等」をまともに論じた形跡がないことについては、石井伸男が1996年に「社会主義と正義論24)」で指摘していた。マルクスには先行する論者の見解との違いを強調する性癖があり、そのことも「平等」への反発を強めたと言えるであろう。

 私たちが1960年代に集会やデモでよく歌った労働歌を思い出してみよう。「ワルシャワ労働歌」では「自由の火柱」が、ベトナム反戦運動では「自由ベトナム兵士」が唱和されたが、そこには「平等」はない。「インターナショナルの歌」には「自由」も「平等」も出てこない。これが左翼活動家の平均的な感覚だったと言える。

 だが、他方では「平等主義者マルクス」を高く評価する、対極的な認識も根強く流布されている。その面についても見ておかなくては一面的だという誹りを免れない。

 イギリス社会主義の伝統を体現して、1971年に『平等』を正面から著したジョン・リースは、「マルクスやエンゲルス以上に、人間の条件の不平等を際立って浮かび上がらせた人はいなかった25)」と評価する。

 ボトモアは――リースによれば――「マルクスの階級無き社会という概念は『現代社会において、他の何物よりも広範に受け入れられる形で平等の理念を表現している』」と主張している(138頁)。

 当代の福沢諭吉と言われた小泉信三は、敗戦直後にベストセラーになった『共産主義批判の常識』で、「社会主義者はおおむね平等の一事に最も重きをおくものである26)」と書いた。まさにそれが「常識」だったのであろう。1994年に刊行された『日本大百科全書』でも「財産平等の思想を徹底化させたのは、19世紀中葉以降のマルクス、エンゲルスらの社会主義者たちであった27)」と説明されている。

 このような理解もまったく的外れというわけではない。労働者階級と資本家階級との対立に焦点を当て、この「階級社会」の打破を明確に方向指示した点において、マルクスの功績はなお有効であり、その点に着目すれば、ボトモアの評価は当たっている。しかし、そのことは、マルクスが「平等」を論軸にしてその理論を構築したということとは異なる。

 だが――ともう一度逆説で論述できるのは幸せであるが――、「世俗の常識からすればほとんど意外とされる28)」ことを冷静に時流に流されずに指摘していた研究者が日本にも早くからいた。川原次吉郎は1954年に「平等論研究序説」で「主導的な社会主義ないし共産主義の理論家の所説を検討してくると、それらの主義と平等とは必ずしも不可離的な密接な関連があるとはいえない」(52頁)と指摘した。川原は、デビッド・トムソンからの引用によってスターリンに言及している。1931年にスターリンは当時実施されていた「画一賃金制」を激しく批判した。私は8年前に「労働に応じた分配」問題を検討した論文で、このスターリン論文を引用して、「画一賃金制」からの転換のために、差別賃金を合理化・論拠化するさいにマルクスの「労働に応じた分配」が活用されたことを明らかにした。

 リースはソ連邦などで「収入の厳格な平等が目的として宣言されることはなかった29)」と書いているが、それは事実誤認である。ロシア革命の直後には「画一賃金制」が導入された。この実態については、石川晃弘によれば「1921年時点での賃金格差は、最高額の労働者と最低額の労働者のあいだに、わずか102対100の差しかみられなかった30)」ということである。この事実誤認よりも重要なことは、1931年のスターリン論文によって、「労働に応じた分配」原則が浮上し、不平等が正当化されたことである。官僚の特権が正当化されることになったのである。ソ連邦で広く読まれていたに違いないパンフレット『社会主義とは何か』では「社会主義の下ではまだ完全な社会的平等を実現することはできない31)」と説明されていた。「完全な平等」は「共産主義」という彼岸に先送りされ、「平等」は目標から外された(にもかかわらず、ソ連邦崩壊の後になっても、「アメリカ」の「<自由と力>」と対比して、「ソ連」は「<平等と力>を絶対視し32)」たと書く論者が残っているのには呆れてしまう)。

 この対極的な二つの面について関連させて明らかにした論述がある。東ヨーロッパの経験が可能にしたのであろうが、ポーランドのエルジュビエタ・コストフスカは「社会的平等や平等な社会という理念は、社会主義イデオロギーにおいて重要な役割を与えられてきた33)」と確認したあとで、「どの社会主義国でも、その統治者集団は社会主義システムが導入されて間もないうちに、政治的武器庫から平等を追放してしまった」とも明らかにしている。同じ論文集で編者の石川晃弘は、ポーランドのヴェソウォフスキから引いている。ヴェソウォフスキは「社会主義社会には価値の配分にかんして相反する二つの傾向が内在すると指摘している。その一つは『平等主義』理念と結びついているものであり、他の一つは『労働に応じて』の分配原則に由来するという」(10頁)。

 私が「労働に応じた分配」問題について検討したさいには、私には<平等論>の問題意識は明確ではなかったが、マルクスが「労働に応じた分配」を肯定的に論じたことは、明らかに<平等>を排斥する方向を内包していた。「差別賃金」を導入しようとしていたスターリンにとってはまことに好都合なことであった。

 こうして、この2世紀間の社会主義運動の歴史を概観すると、<平等>は初めユートピアの高い理想として、虐げられた民衆と鋭敏な知性の目標となり、彼らの人生の動力とされたが、ロシア革命勝利後のいわゆる社会主義国の現実においてはしだいに後景に追いやられその輝きをフェードアウトさせられてしまった。わずかに<平等>はイギリスのフェビアン社会主義理論のなかで高く保持され、オーストリア社会主義理論のなかでその命脈をつないできた。グスタフ・ラートブルフは、「民主政」について、「平等思想が重きをなすもの34)」と説いた。

 ここまでは<平等>とは何かを定義することなく論述してきた。なぜなら、不平等な現実に抗して<平等>を希求する人々にむかって、「君の言う平等の中身は何か」と反問して困惑させようとするのは、不平等な現実から恩恵を受けながら、そのことにすら気づかない愚か者の所業だからである。<平等>の内実を探究するとは、不平等への怒りに共感し、<平等>を希求する志向性に立脚してこそ意味を持つ。苦々しいことに、このリアリティーと切断されても「不平等」についての「理論」――容認したり、「格差原理」なるものを探ったりする――を生産することはできる。知識や理論は疎外されることが多いからである。バブルで満足する人の遊びを奪うことはないが、私たちにとって<理論>とは、釣りに行かないのに、釣り竿だけ磨く艶布巾とは違う。

 <社会主義>と<平等>とが深く一体であるべきだといういわば直感を出発点にして、<平等>とは何かをさらに探究しよう。

 第3節 <平等>の定義と諸相
 
 A <平等>問題の位置

 <平等>とは何かを探るまえに、<平等>問題とはどのような問題なのかについてはっきりさせたほうがよいであろう。別に言えば、<平等>問題の位置はどこにあるのか。なぜ<平等>を問題にするのか、と言ってもよい。なぜ山に登るのかと問われて、「そこに山があるから」と答えた者がいたというが、賢い答えとは思えない。平原があり山脈があり河川があるなかで、その山はどのような特徴をもっているのか。<平等>問題を探究した、日本の法学者から学ぼう。

 阿部照哉は、1984年に刊行した『現代憲法体系』の第3巻『平等の権利』の「序」で、「平等の原理的考察は、少し進むと『正義とは何か』という究極的問題につきあたる35)」と書いている。では<正義>とは何か。

 尾高朝雄は、今日でも読み継がれている、1947年に著した『法の窮極に在るもの』で、「古代ギリシャの哲学者は……現実政治の権力をもって左右すべからざる人間共同生活の根本原則をば『正義』としてとらえた36)」と明らかにする。半世紀後に森征一は、12世紀に成立したイタリアの「都市国家」では「正義が統治の基礎であ37)」ったとし、「中世において、正義は権利の行使を意味するのではなく、都市の平和を象徴するのです」と書いている(41頁)。すでに、『旧約聖書』にも「正義と平和は口づけし」と書かれていたという(24頁)。このように<正義>もまた歴史的にその意味が変化してきた。しかし、誰から引いてもよいのであるが、尾高は「法は『正義』の実現を目的としなければならない38)」と書き、森は「法学は『正義のための学』でなくてはならない」(33頁)と書いている。この点は、歴史貫通的に共通認識にしてよいであろう。つまり、<正義>は法学の根本問題である。

 そして、「契約」が重視されるヨーロッパにおいては伝統的に法(律)は日常生活と密着していた。このことについては、例えば森征一ら編の『法と正義のイコノロジー』が沢山の絵画や肖像を使って教えている。西川理恵子が書いているように「文字を読めない人が多かった時代には、絵画は貴重な情報伝達手段でもありました39)」。そういう時代に、ヨーロッパ諸国には、教会や公共の建造物にさまざまな絵画が優れた画家や石工の手によって描かれた。そのなかで、「正義の女神」がひときわ目立って存在するという。

 なかでも有名なラファエロの「正義」は、1508年にローマの宮殿の天井に描かれたが、「右手に剣を振りかざし、左手に天秤を持」つ女神である。周りに4人の裸童が配置されているが、その手には「各人に各人の権理を分配せよ」と書かれた銘板を持っている。この文句は、前記の森によれば、3世紀のローマの「法学者ウルピアヌスの正義についての定義からの引用と思われます」(3頁)。目隠しはしていない40)。天秤は何を象徴しているのか。問うまでもなく<平等>を意味している。西川が着目した、18世紀末のスペインの画家ゴヤの絵画では、女神の代わりに農民風の男の老人が描かれ、彼が手に持つ天秤はペンと剣が「ペンのほうがやや重いところでバランスをとらせる」形になっている。詞書には「ペンは剣よりも強し」と書かれている(126頁)。

 言葉を書ける私たちは、文章でも確認しておこう。尾高は『法哲学概論』で、「人類が長い歴史を通じて、法によってその実現を求めてきたところの正義とは、そもそも何であるか。……抽象的にいうならば、すでに二千数百年の昔から、まぎれのない一つの答えが与えられてきたということができる。それは、『正義は人間の平等である』という答えにほかならない41)」。尾高は、フィヒテやマルクスをあげながら、さまざまに対立があっても、彼らの理想、「その彼方に描かれた社会正義の指標はただ一つ、『人間平等の福祉』に帰着する。法の窮極の理念はそれであり、それ以外のなにものでもない」(284頁)と結論している。私たちも、この立場と思想を受け継ぎたいと考える。<平等>の問題は、偶然や気まぐれによってテーマに設定された問題ではなく、このように長い人類の歩みのなかで一貫して最重要な難問とされてきた問題なのである。

 先に進みたいのだが、ここでもう一つ確認すべき問題がある。それは、ヨーロッパと日本(アジア)との法文化の相違という問題である。岩谷十郎は『法と正義のイコノロジー』で、「日本を代表する比較法学者、故野田良之の法文化論としてつぎのような有名な一節を紹介42)」している。

 「法律家やなんらかの法的知識を有する人を除いて、日本人は一般的に、法は国家がその意志を国民に課したいときに用いる強制用具として考えている。法は刑罰と同義なのである。善良な日本人にとって、法とはできうる限り遠ざかっていたいと思うものなのである」(295頁)。

 ここに厳として存在する法文化の相違は大きく、その意味は深く考えなくてはならないが、だからといって、ここまで本稿で追求してきたことも、このあと論じることも意味が半減したり、消失するわけではない。「正義の女神」にこと寄せて考えても、日本の最高裁判所の大ホールにも「正義の女神」が立っている(281頁)。ただし、「頭像は観音、法衣は洋式」となっている。目隠しはない。他にも各地の裁判所の建物には関連する図形が用いられているという。それらの事実は、法文化上の大きな相違とともに、洋の東西を超えて通底するものも人間の歴史には流れていることを示している。また、もし仮に、この相違のゆえに、本稿での考察が無意味だとすれば、仏教に関説することなど全くない、ジョン・ロールズやアマルティア・センの理論の翻訳とその解釈などは、日本でははるかに無価値と言わなければならない(後述)。<自由>やリベラリズムは世界共通だが、<平等>はそうではないと言うとしたら、余ほどの偏見の持ち主と断じる以外にない。

 以上の短い考察から得られた光に照らしてみると、<平等>や<正義>は、現状を変革しようと意志し行動する人間にとって、人間や社会や歴史を考察するさいにきわめて重要な位置を占める問題であることが確認できる。<社会主義>を希求する私たちの立場から改めて問題を構成すれば、<平等>は<社会主義正義論>の核心として位置づけることができるし、そうすべきなのである。ところが、マルクス主義や社会主義理論・運動のなかでは、<正義>は真正面から問題にされたことがほとんどなかったと言ってよい。

 B <平等>の定義

 いよいよ、<平等>とは何かを定義するところまで進んだ。
 まずは、1789年にフランス革命のさいに発せられた「人間および市民の権理宣言」を引いておこう。ごく短い前文のあとに、「第1条 人は、自由かつ権理において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる43)」と記されている。第1条はこれだけである。
 これより前、1776年にアメリカの「ヴァージニア権理章典」につづいて発せられた「独立宣言」では「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いかたい天賦の権理を付与され、そのなかに生命、自由、および幸福の追求の含まれることを信ずる」と記されている。
 これらの宣言が発せられる歴史的背景や思想的根拠についても深く探ったほうがよいのであるが、ここではキリスト教との関係についてだけ確認しておきたい。
 伊藤正己は1950年に発表した「法の前の平等」で、「諸学者が一致して強調するところの宗教的思想の寄与44)」について、「リューメリンの語を引用」して「『イェリネックやトレルチが重きをおくごとく、すべの人が平等に神の子であるというキリスト教思想が、平等思想の発展に極めて重要な意味をもっているといってよい』のである。かかる『神の前の平等』の思想が、法の前の平等の起源をなしたことは、ほとんど異論がない」と明らかにする。前記のアメリカの「独立宣言」には「造物主」が登場していた。初期社会主義思想のなかでのキリスト教との親和性についてはすでに言及しておいた。
 時代は下って、1946年11月に敗戦の廃墟のなかで日本国憲法が公布され、その第14条に「すべての国民は法の下に平等であって……」と記された。
 1948年12月10日――後に「世界人権デー」となる――に、国際連合の第3回総会は「世界人権宣言」を採択した。出席56ヶ国中、ソ連邦など8ヶ国が棄権したが反対はなかった。その「前文」の冒頭に「人類社会のすべての構成員の、固有の尊厳と平等にして譲ることのできない権理とを承認することは、世界における自由と正義と平和との基礎である」と明記されている。そして、「第1条 すべての人間は生まれながら自由で、尊厳と権理について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互いに行動しなくてはならない」。「第3条 何人も、生存、自由、および身体の安全を享有する権理を有する」と定めた。
 ところで、「自由」や「平等」をテーマにして一書を著しながら、これらの宣言を引用は愚か、宣言が発せられたことについてすら触れようとしないものも少なくないが、歴史の蓄積を無視・軽視するそのような姿勢からは、確かな認識や理論は生み出すことはできないことだけを強調しておきたい。人間は先人の知恵と到達点にしっかり踏まえることによってのみ、多くの人が納得することができる共通の理解を拡げてゆくことが可能となるからである。
 多くの人が納得すると言えば、私もそうだが市井の人々の日常的感覚とも触れあうことが大切である。小林直樹は1966年に著した「法のもとの平等」で、「思想以前のもっと素朴な感情のなかに正義=平等の欲求があることは、だれでも体験しているところだろう。ある学者は、人間の幼少時から正義感情が自然に発生することについて、“子供部屋にも正義がある”と言ったが、平等欲求はたしかに人間本然の感情と言える45)」と書いている。私は、子供のころ小さな農村に住んでいたが、夏になると母親が沢山いる兄姉にスイカを上手に均等に分けて与えてくれたことを思い出す。ひらがなしか書けない無学な母であったが、子供たちがどうすれば喧嘩しないで済むかは知っていた。<平等>について何を論じるにしても、出発点に据えるべきは、この素朴な感情であろう。この私のいわば原風景を貧しい時代の一場面にすぎないと思う人は、本稿執筆中に放映中の次のようなテレビ・コマーシャルを見るとよい。カレー・ルーの宣伝で、カレーなべから子供たちが各自もりつけている場面で、女の子が男の子に「肉ばかり取ってずるいよ」と注意すると、「そんなことないよー」と愛らしく答える。男の子は、自分には肉を多く取る自由があると言ったのではなく、他の子供と同じだと答えた。そこに働いているのは、「自由」ではなく、<平等>への志向性である。
 <平等>を定義するさいに、第1に明確にすべきは、<人間の多様性>である。人間は一人として同じ人間は存在しない。出生の時も、場所も、環境もみな異なる。身体も能力も異なる。工場で作られる製品とは違う。このごくあたりまえのことをしっかり確認することがなによりも大切である。トーニーは1931年に著した『平等論』で、この点を明確にして次のように明らかにしている。少し長くなるが、ジョン・リースから孫引きしよう。リースはトーニーの弟子である。
 「精神と趣味のできるだけ幅広い多様性を称揚するのが重要であることについて、ミルほど鋭敏な感受性を持った人はいなかった。彼は、『人間性にとって最上の状態は、誰も貧しくなく、しかも誰よりも富裕になろうとする欲求を持たない状態である』と論じ、また社会政策は平等の増進を目的とすべきであると主張しているが、こうした主張をするに際して彼は、それが個人の機能や性格や多様性を抑圧すべきであるという意味にとられるのを欲しなかった。反対に、彼がいわんとしたのは、相当程度の経済的平等があることをもって特質とする社会においてのみ、そうした多様性は完全に表現され、しかるべき理解という報いを与えられるであろう、ということであった46)」。
 リースは引用にさいして、「トーニーにとって、等質的人間社会に向かって努力するなどということは、明らかに無価値であった」と確認している。「トーニーは、平等の理念は『人々の性格と知能が等しいというロマンチックな幻想』に依存するのではないと論じ」たのである(129頁)。
 トーニーがここで、J・S・ミルを論拠にしていることは興味深い。リースは気づいていないようであるが、同時代にイギリスに亡命していたマルクスは人間の<多様性>にはほとんど目もくれず、逆に「人間の全面発達」を強調したことを想起しておくことも無駄ではない。この「全面発達」論をさらに発達させたのがトロツキーである。
 トロツキーは、『文学と革命』で「人間は従来よりもはかりがたく強力で賢明で繊細になるだろう。……平均的な人間のタイプは、アリストテレスやゲーテやマルクスのような水準に高まるだろう。そしてこうした尾根をこえて、新しいピークがそびえたつだろう47)」と展望した。
 トロツキーは「新しいピーク」を予見しているのだから、画一を理想としているわけではないようであるが、それにしてもユートピアが過ぎると言える。かつては、私もトロツキストを自称していたころには、『ドイツ・イデオロギー』の例の「朝に狩りをし、夕方に釣りをし48)」と合わせて、このイメージにあこがれたこともあった。本稿ですでに参照した論者のなかにもこのトロツキーに留目する例もある。「社会主義」に背をむけたゾンバルトは反面教師として引用している(124頁)し、「自由」に力点を置いて「社会主義」を説明するタッカーは好意的に紹介している。タッカーは「マルクス主義が低開発社会のインテリゲンチャの心にこうした影響を及ぼした」(121頁)例と理解しているが、この理解は正しいであろう。
 ところで、ロールズと並んで著名なセンは『不平等の再検討』の冒頭で「『人間の平等』という強力なレトリックは、このような〔財産、環境、年齢、性別、病気などの〕多様性から注意をそらしてしまう傾向がある49)」と書いている。バブーフやカベの時代に彼らを相手に論じるのなら、それでもよいであろうが、たったいま明らかにしたように、トーニーは<多様性>を明確にして<平等>を説いていた。だが、英語圏の研究者であるにもかかわらず、センはトーニーを無視する。なぜなのであろうか。センは「多様性」を出発点として強調する――そのこと自体は誤りではない――だけでなく、<多様性>と<平等>とを背反的あるいは非親和的なものと考えている。この立論にとっては、<多様性>を明確にして<平等>を説く認識は無視したほうが都合よいからであろう。
 先行する理論的蓄積を無視するこのスタイルは、先の引用につづく「このようなレトリック(例えば『人は生まれながらにして平等である』)」という書き方にも現れている。カッコ内の一句は、本稿の読者にとっては「人権宣言」からとすぐに分かるだろうが、センはどこからのものかには関心はない。しかし、別の章でもくりかえしている(38頁)。余りに有名だから出典をあげなかっただけだと思う人もいるだろうが、「人権宣言」の重要性という認識が欠落しているせいであろう。だから、「レトリック」と軽く扱う。センは、この命題が規範であることを知らずに、事実認識だと錯覚するから「多様性から注意をそらしてしまう」と思ってしまうのである。また、センが新しそうに強調する人間の「潜在能力」もすでにみたように、セルサムが指摘していたことであるが、「潜在能力というレトリック」と書かれたら、センは何と言うだろうか。。
 <平等>を定義するさいに、第2に明確にすべきは、<平等>とは「比較を前提とする概念」だという点である。そして、その比較の場はあくまでも「社会の制度」に限定されている。だから「個人の自由」という言葉はあるが、「個人の平等」という言葉はない。この点については、阿部照哉が、戦時中に書かれた高田保馬の『国家と社会』から引用しているので、借用する。
 「平等というものは、ただ社会の制度についてのみ考え得る。社会の制度の範囲外にあるところの生理的心理的ないしは文化的特性、天稟、能力などにかんしては、平等というものが考えられ得ない。これらの点については常に顕著な差等があ〔る〕……個人的属性の差等のゆえに平等は実現せられ得ずと見るのは、この社会的制度における平等と個人的属性の差等とを混同したるものの見方である50)」。
 高田は<平等>の実現にとっては「社会制度の改廃」こそが問題だと続けている。
 最初に確認した<人間の多様性>を別の視点から明確にしたとも言える。「社会的制度における平等」とは別言すれば<政治的平等>と<経済的平等>であり、それらを実現することに立脚して、<文化的多様性>が花開くと考えることもできる。
 <平等>とは、或る基準に照らしてAとBとが、あるいはAとその他とが<同一の状況においては同じ権理を認められる>ことである。<平等>なるものが抽象的にどの点においても実現するということではない。あくまでも或る点についての<平等>なのである。問題はこの或る基準をいかにして見いだし、共通のものとして形成するかにあり、そこに困難がある。
 ここでもセンが反面教師の有資格者である。センは、例えば「肝臓障害で透析を必要とする人」(173頁)の場合もあげて、「平等」が一筋縄では理解できない複雑なものだと書いているが、人間の生理的条件の相違を勘案することは<平等>論の本質的論域を超えると考えるべきである。「肝臓障害」なら、まだ見分けは付きやすいかもしれないが、それなら軽度な風邪引きの場合はどうするのか。そこまで細部に踏み入って、議論を複雑にして、その結果として、もっと大きな位置を占める問題――すぐ前の高田を借りれば「社会制度の改廃」、別言すれば後述の生産手段とのかかわりにおける不平等――をあいまいにするのでは、何のために<平等>を論じているのか不明になる。いや、だから、彼が「再検討」しているのは「不平等」についてである。「訳者解説」が指摘しているように、彼は「所得の平等を求めていないという点で、一般に使われる意味での平等主義者ではない」のである(253頁)。
 センを待つまでもなく、具体的な場面ではさまざまに考察する必要が生じる。項を改めて、<平等>の諸相として明らかにしよう。

 C <平等>の諸相
 <平等>の理念は、「法の前の平等」として提示され、人間は<同一の状況においては同じ権理を認められる>ことである。そして、現実においては<平等>はさまざまな具体的様相を現す。阿部は『平等の権利』で、「平等に〔は〕事実の平等と取扱の平等があり、両者は混同されてはならない。事実の平等は人の自然の属性に着眼した比較の結果として認識される均一、平等のことであり、取扱の平等は事実の平等とは関係なく、人為的すなわち制度的または規範的に平等に処遇することである」と明らかにする(58頁)。
 そもそも、第1節で引いたルソーの段階ですでに問題にされていた。ルソーは『人間不平等起源論』で、「私は人類の中に二種類の不平等を考える。その一つを私は自然的、または物理的不平等と名づける。それは、自然によって定められ、年齢、健康、身体の強さ、精神または魂の資質の差異などにより成る。他の一つは道徳的、政治的不平等と呼ぶことができる51)」と書いている。だが、リースが説明するように、何をもって「自然的」と「人為的」の区別の基準とするのか、少し考えるとそう簡単ではない。妊娠中に薬を飲んだ妊婦から出産した子供は「自然的」と言えるのか。
 ルソーが考えていた「平等」については、平岡昇が「『社会契約論』11章にいうように、平等とは各人の権力と富の享受とが絶対に同一でなければならないという意味ではなく、どんな市民も他の市民を買えるほど裕福でなく、どんな市民も身を売らなくならないほど貧乏であってはならないという意味である」と説明している(43頁)。
 「絶対的平等」と「相対的平等」という区別もある。「絶対的平等」は、「各個人の……各種の差異の事実に拘わらず……数量的に同一の権理を与え52)」る。他方、「相対的平等観によれば、……個人的特性に基づく差異があるときは、事物の本質に基づくこの不平等は立法においても顧慮されなければならない」(64頁)。
 日本国憲法第14条の「法の下の平等」の解釈をめぐっては、すでに1950年代に憲法学者のなかで論争を惹起した。この論争を紹介する余裕はないが、同じ問題はさらに30年も前にワイマール憲法第109条の平等条項の解釈をめぐっても展開されていた。「通説では、差別であっても一般社会通念により正当化される合理的根拠のあるものは不平等とはされないとする53)」。
 伊藤が明らかにしているように、「年少者のみに特定の法規の適用のあることも否定できない。特定の職業に服する者に、高度の注意義務を課することも承認せざるをえない。法秩序を肯定している以上、具体的人間の差異の上に立った、それぞれの差等のある法的処遇を否認することは許されないであろう」(31頁)。そうでなければ、私たちは安心して診察台で裸になれないし、床屋で剃刀を顔に当ててもらえない。
 リースが書いているように、「政治的平等は、その必要条件の一つとして、すべての集団、すべての人々が政治的宣伝メディアに平等に接近できる、ということを意味すると解されねばならない」(79頁)。しかし、現実にはどこまでそれを実現できるのか。現実には、力のない者、力の少ない者が表現の場から閉め出されている。万人に同じ機会を保障することは困難である。「1票の重み」や選挙権取得の年齢は絶えず争点になっている。しかし、だから「1人1票」の原理を放棄してよいわけではない(ミルは、1人の持ち票に差をつけたほうがよいと書いていたが54))。
 男女の平等、労働賃金の適正なあり方、教育システム、医療受診・保険システム、租税システム、刑法(尊属殺人の別扱いの適否など)、など日常生活のさまざまな場面で、<何が平等なのか>が問題となり、論議となっている。「臓器移植」問題、「性同一性障害」など新たな争点もある。それらについては別に解明する必要がある。
 阿部が『平等権』で明らかにしているように、「憲法の定める平等原則は、近代的民主制の枠内においてとらえられる限り、法的取扱の均一を意味する形式的平等であり、社会的・経済的関係における事実上の平等を意味する実質的平等ではなかった」(7頁)と考えるべきである。とはいえ、他方では、「平等権は……実質的平等の実現を内容とする社会権的性格を帯有し、ますます多くの分野で、出発点における『機会の平等』から『結果の平等』への移行が語られるにいたっている」(8頁)。
 伊藤は「法の前の平等」で、「貧富の甚だしい懸隔に伴う実質的な大きな不平等は、20世紀世界の直面している現実であり、ここに実質的な平等をたてまえとする経済的民主主義が当然の要求として生じてくる」と明らかにする(32頁)。同じことは、尾高朝雄も『自由論』で示唆していた。尾高はフェビアン社会主義を引いて、そこでは「市民社会の生活原理たる民主主義の放棄にではなく、民主主義を政治生活から経済生活へと深めて行くこと55)」が課題とされたと書いていた。尾高は『法哲学概論』ではさらに、「配分の面から見た社会正義の実現が、資本主義の脱皮と社会主義への接近となってあらわれることは明らかである」(186頁)とまで明らかにした。すぐに続けて、尾高がアントン・メンガーの<生存権>にも触れていたことも興味深い。近代社会が理念として明確にした「法の前の平等」に踏まえて、人類は新しい課題に直面したのである。
 このように、<平等>はさまざまな局面と条件のなかで、複雑な問題を提起しているが、今日のもっとも主要で重要な問題は、<経済的平等>を実現、獲得することである、と私たちは考える。尾高朝雄や伊藤正己においても明確にされていたこの認識を、私たちは共通のベースにする必要がある。<経済的平等>とは、経済の根底をなす<生産>における<平等>を意味する。つまり、<生産手段とのかかわりにおける平等>である。
 <経済>を考えるさいに、<生産関係>には頓着しないで、「所得」なる用語で済まそうとする者もいるが、そもそも原理的には「労働の報酬」として「所得」を得るというあり方そのものが問われているのである。「所得」の「格差原理」は何かと考えるのではなく、<生存権の保障>として構想すべきなのである(後述)。

 D <平等>についての認識の前進と逆行
 バブーフの「平民の宣言」やカベの主著『イカリア旅行記』とトーニーの『平等論』とを比べれば歴然であるが、そこには大きな相違がある。前者は人間を画一的あるいは斉一的にイメージしているが、後者では<多様性>を基礎に<平等>を考えている。この違いこそ、人間はその認識を進化=深化させてゆくことを示している。さらに、前項でみた法学における<平等>をめぐる具体的場面でのさまざまな解明は、<平等>が抽象的理念から現実の日常生活における規範としてその内実を充実してゆく過程である。私たちが、バブーフやカベに筆をさいたのは、単に物知りになりたいからではなく、この認識の深化をしっかりと知るためなのである。
 話は変わるが、<貨幣>についても同じことが言える。先年、私は「<貨幣の存廃>をめぐる認識の深化」を書いて、初期社会主義思想においては「貨幣は一切の悪の根源」として「貨幣の廃止」が叫ばれていたが、マルクスの場合には『資本論』で「貨幣ではない」「指図証券」が必要であると示唆されたことを明らかにした。私はさらに<社会主義経済>=<協議経済>では<生活カード>を用いることになると提起した。歴史的に認識の深化を追うことによってこそ、新しい展望を切り開くことができる。なぜ、ここで<貨幣>の話になるのかは、すぐに明らかになる。
 他方、人間の認識はただ前進するだけではない。時には大きく後退することもある。とくに、その認識や理論が現行の社会経済体制を鋭角的に批判し、それを乗り越える可能性を秘めている場合には、危険な思想として葬り去られることも稀ではない。ただ圧殺するだけでは逆効果である場合には、棘を抜かれてマイルドに変形されて受容されることもある。
 <平等>については、その意義や価値が疑いもなく高いがゆえに、<自由>を強調する者のなかにも、<平等>をまったく無視することは不都合だと気づく者も生み出される。1971年に『正義論』を著して一石を投じ、大きな論議を呼んだジョン・ロールズの理論がその典型である。周知のように、ロールズは『正義論』で、「公正としての正義」を実現するために二つの原理を提起した。ロールズは「第一原理」「第二原理」と分け、後者を「格差原理」と命名している。「第一原理」は「平等な基本的自由……平等な権理」について、「格差原理」は「社会的・経済的不平等」についての原理とされている。後者は、どういう場合にどこまで「不平等」が許容されるかという原理である。「富や所得の分配は平等である必要はない56」というのが、ロールズの基本的立場である。つまり、生産手段とのかかわりにおける不平等を容認したうえで、別言すれば資本制生産・経済を前提にしたうえで、残余の領域でなるべく「平等」を実現しようする。だから、ロールズは二つの言葉の違いや関係については明示することなく、「平等」よりも「公正57)」を前面化する。
 ロールズの「正義論」について詳述する必要はないが、「格差原理」についてだけ触れておこう。すでに反面教師として登場ねがった碓井は、この「格差原理」を「これがもっとも平等主義的性格の濃い原理だといえるであろう」(161頁)と評価する。井上達夫は『共生の作法』で、この「格差原理」について解説したなかで、「ひとびとが自尊を失うことなく自己の生の設計を追求し得るための基礎的生活条件を保障する『恥ずことなきミニマム』の原理〔こんなに言葉を費やさなくても<生存権>と言えば済むと思われる〕のほうが配分的正義の原理としてふさわしいと考えられる」(153頁)と書いている。井上の文章は慎重のゆえからか回りくどいが、ともかく「格差原理」に注文をつけている。だが、碓井は手放しで絶賛する。その碓井は、はしがきで「庶民の正義感に照らせば」「イチローのようなスポーツ選手が高額の年俸を得ることにはあまり抵抗感がない」(4頁)と書く。果たしてそうであろうか。
 碓井は数値をあげることはしていないが、イチローの今年の年俸は8億4000万円である。3Aなどのマイナーの選手の最低年俸は100万円くらい、日本の二軍選手の最低年俸は400万円である(ただし、イチローには50%の税金がかかる)。この200倍から800倍の格差が納得できるものという感覚についてどう考えるかは読者の自由であるが、私はそれほどの格差を許すのは適当ではないと考える。素晴らしいプレーは、金銭によってではなく、その名誉を讃える拍手や記憶のなかで相乗化され、記録や映像として長く保持されればよいのである。多くの少年や少女がスポーツに魅せられるのは、報酬が高いからではなく、そのプレーが胸を打つからである(貧しい国の場合にはそうは言えないことを知らないわけではない)。世界新記録などの表示にさいして、その選手の年俸を付記することはしない。プロの選手に出会ったことはないが、彼らのなかには、金銭ではなくて自分が選んだスポーツの素晴らしさに魅力を感じて日々精進している例も少なくないであろう。新庄選手は、年俸は下がるのに大リーグに移籍した。求められているのは、<価値観>の転換なのである。何でも金銭の高低に換算しないといけないと思っているのは、貨幣物神崇拝の結果にすぎない。
 ロールズがプロ野球選手の報酬について事例をあげて論じているのかどうかは知らないが、碓井の理解はあながち曲解とは言えないであろう。<平等>の追求を中途で放棄して、「自由」を強調する思考がどこにいきつくのかを、碓井は分かりやすく示したにすぎない。なお、「ロールズが……自由権的基本権を中心に考え、生存権や労働権といった社会的基本権にあまり言及しない」(168頁)ことについては、碓井は不満をもらしているが、彼自身が<生存権>について論じているわけではない。
 話をもどそう。「格差原理」を設定することになったのは、「経済的不平等」の根本的打破を断念したからであったが、問題は、なぜ、生産手段とのかかわりにおける不平等を容認しなくてはいけないのかにある。前述したように、生産手段とのかかわりとしてはっきりさせることを嫌う者は、「所得」とだけ書くことが多いが、センは『不平等の再検討』で、「人々が直面している機会がいかに不平等であるかは、所得の不平等の程度からは簡単に推し量ることはできない」。「所得水準」の他にも「身体的・社会的特徴の違いにも依存しているからである」(36頁)と書いている。
 ごく当たり前のことを確認しているだけであるが、この認識から、だから「所得」の問題が重要な位置を占めているとは言えないという結論に行き着くとしたら、とんでもない誤りである。だが、この本の訳者・野上裕生は「訳者解説」で、「所得だけでは、人間の多様性をとらえることはできず、社会に根強く残る不平等の分析には使えない58)」と書いている。何が「使えない」のか明記されていないことはさておいて、よくある論法であるが、もし次のような書き方に出会ったら、私たちは同意するだろうか。「人間は水を飲むだけでは生物としても生きていけない。だから、水は人間が生きるうえで必要ない」。「使えない」を「必要ない」に言い換えたが、論理的飛躍を犯してはいない。十分ではないが必要であるものは多い。この思考の初歩的常識が破られるようでは、これ以上つき合う必要はない。センの論述では、野上のような理解を誘発するのである。
 <「賃労働―資本」関係の変革>という問題は、本稿のテーマではなく、経済システムをいかに構想するかという別の大問題であるが、ここでの論述に即して一言だけしておこう。井上は、ロールズの「格差原理」に関説して「所得や富という基本善が前提している貨幣経済」と対比して、あまり聞いたことのない「バーター経済」なる、『広辞苑』にもない言葉を突然、説明もなくあげている(221頁)。経済システムに言及したことはよしとしなければならないが、井上は、人類の経済にはあたかも「貨幣経済」と「バーター〔物々交換〕経済」しか存在しないかに論じている(経済人類学から借用すれば「贈与経済」もあるのに)。井上は「計画経済」には言及しないが、常識的には「市場経済」と「計画経済」しかあり得ないと想定したうえで、「計画経済」のソ連邦などが崩壊したのだから、いまや「市場経済」以外にはあり得ないと思われている。問題は、この二つ以外の経済システムを構想することは不可能なのか否かにある。この二つ以外にはありえないと考えれば、すでに「ソ連型社会主義経済」、正しくは「計画経済」=「指令経済」が破綻したことを知っている者にとっては、井上のいう「貨幣経済」=資本制経済の永続性を肯定するほかない。だが、いわば第3の道を発見し開拓できるとすれば、この井上(だけではなくほとんどのリベラリスト)の理論はその根底からカードの城のように崩れるだけである。私はすでに「計画経済」ではない<協議経済>を提起している。この第3の活路に気づかない者は、旧ソ連邦や東欧の官僚たちのように、「市場経済」に舞い戻ろうと試みてやがて破産するほかない。
 先に、「貨幣の存続」をめぐる認識の深化について言及しておいたが、「貨幣経済」しか知らない人は、「貨幣の廃止」と聞いて腰を抜かすしかないし、逆に「貨幣の廃止」と叫ぶだけでよいと思っている闘士は経済を運営することはできない(ソ連邦における「戦時共産主義」の失敗を直視すれば歴然である)。第3の活路は、「貨幣ではない」流通しない<生活カード>の創出にある。<協議経済>における生産物の分配・引き替えの手段が<生活カード>なのである。
 マルクスが明らかにし、強調したように、「賃労働―資本」関係は歴史的なものであり、変革可能なものである。私たちは、<平等論>についてはマルクスを踏み越えて進まなくてはならないが、<「賃労働―資本」関係の変革>という点については、認識の拠点として継承する必要がある。リースは『平等』で「マルクス主義の階級論において、生産手段の所有が中心的位置を与えられている」(47頁)ことを指摘している(52頁も)。どうして、この認識=<「賃労働―資本」関係の変革>を放棄しなくてはならないのか。「困難だから」がその理由だとすれば、私たちはその困難に立ち向かうことこそ、人間らしく生きる道だと答えるだけである。変革の道筋がなお不明ならば、明確になるように努力すればよい(私たちはその努力を重ねている)。この認識を放棄しないと、先に進むことができないと考えるところに、「社会主義」断念派やリベラリズムの限界がある。
 前項で私たちは、「法の前の平等」の歴史的意義に踏まえて、「今日のもっとも主要で重要な問題は、<経済的平等>を実現、獲得することである」と確認したが、「社会主義」断念派やリベラリストは、この人類の到達点を反古にして、しかも自分たちが先に進んでいるかに錯覚している。
 同じことが分野は異なるが、科学界でも起きていたことを渡辺一衛が明らかにしている。20世紀の後半に、ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリなど「ポストモダンの思想家たちが新しい数学や物理学の知識を恣意的に用いて」「新科学論」なるものを唱え、それまでの「古いパラダイム」が無効であるかに論じた。だが、「20世紀の第二の科学革命」によって、ニュートン力学など「のマクロの世界の物理学が否定されるわけではない59)」。「古いパラダイムは廃棄されるのではない。ただその適用範囲の限界が明らかになるだけなのである」。だから、学校では今も「古典物理学と呼ばれているマクロの世界の物理学」が教えられている。重ねて確認するが、「法の前の平等」の意義を不明にして、<経済的不平等>の打破=<経済的平等>の獲得を投げ捨てて、「格差原理」を案出したり肝臓疾患の人をどう扱うかが複雑だと頭を悩ますのは、迷路に陥るだけである。泳げないのに、床の上でシュートの練習に熱中しているだけで水球の選手になれるのだろうか。

 E <生存権>思想の意義
 次節に進む前に、ここで<生存権>について明確にしておこう。先に碓井がロールズに不満をもらしていたことを紹介したが、私は、1998年に「<生存権>と<生産関係の変革>」を発表した。アントン・メンガーに学んで、<社会主義>の主軸に<生存権>を据え、その実現のためには<生産関係の変革>が必要であると主張した。だが、私がこの論文を書いていたから、ここで<生存権>に論及するというのではない。
 本稿でこれまで参照してきた論者のなかにも<生存権>に触れる例が無いわけではない。リースは『平等』の終章で「生命への権理」について考察していた(220頁)。半沢孝麿はごく短い「訳者あとがき」で、リースは「生命への権理という概念を、平等についての最終理念として示唆している」と控えめながら指摘している(249頁)。原語が何かは分からないが、<生存権>に引き寄せて考えることは十分に可能であろう。『日本大百科全書』の田中浩は、はっきりと「生存権」や憲法第25条を説明に含めている。したがって、ここで、<生存権>について論及することはけっして我が田に水を引くものではない。前記のブレイも説いていた。
 <生存権>は、<平等>実現の核心的前提なのである。誕生した人間の<生存>が保障されなければ、さまざまな<人権>は実現できないからである。<生存権>は、ジョン・ロック以来の「労働」に基礎づけられた「所有」(=「私的所有」)を原理とする資本制経済を根本的に打破し揚棄するカギである。1924年に「最後の一人の生存権」を書いた牧野英一は、わずか5年前に制定されたワイマール憲法第153条(「所有権は義務を伴う」)を引いて、「所有権」克服の方向を示していた60)。
 〔本稿は予定をはるかに超過したので、この項目は内容を省略せざるをえない。改稿のさいに書き足すことを約束する(既出の拙論の参照を求める)。
 私が1994年に提起した<生活カード制>は、この<生存権>を実現するための分配面についての構想であり、98年に提起した<協議経済>はその生産システムである。前者を提起する前提として、94年に「『労働に応じた分配』の陥穽」を書いた。それらの提起では、<生活カード>の給付の基準や決定のメカニズムについてもごく簡単に触れている。<労働>をどのように<評価>するかがその核心であり、困難もまたそこにある。〕

 第4節 なぜ<自由>よりも<平等>を重視するのか

 A 認識と評価は歴史的に変化する
 今日では<自由>も<平等>も大切であることをあからさまに否定する人がいるとは思えない。二つとも大切であるとして、その関係はどのようなものとして理解したらよいのであろうか。すでに本稿冒頭で、ゲーテが「平等と自由とをあわせて約束するものは、空想家でなければいかさま師である」と書いていたことを紹介した。文学者がこう書くことは仕方ないが、法学や哲学はこの難問を探究する。私の読書の量などはきわめて限られたものであるが、それでもこの点についても、すでに論じられている認識を整理する必要がある。いうまでもなく、論者の立場によってさまざまに言及されている。
 セルサムは『社会主義と倫理』で、「自由という用語……いかなることばもこれ以上に近代人の心にとって親愛貴重なもの、あるいはこれ以上にしばしば近代人の唇にのぼったものはない」と書いている(289頁)。
 リースは『平等』の「序説」の初めで、「平等は、すぐれて一種の『革新的』観念であって、人類史上、平等主義的方向への改革の熱意が人間の全政治的体験の一部として確立してしまった時期以降、もはや、たまさかの重要性しかもたなくなってしまった」という意見のほうが一般的であるかにやや譲歩した認識を示したあとで、「それでもなお、現代、とくに17世紀以降、何らかの形での平等概念が政治の理論と実践の双方においてずっと枢要な役割を果たしてきた、ということもまた真であっ」たと確認している(11頁)。
 川原は「平等論研究序説」で、「今世紀に入ってから、デモクラシー理論の中に占める平等の位置は、漸次影がうすくなってきていた」と、書いている(47頁)。もっとあからさまに強調する論者もいる。アメリカ資本主義を支える自由主義者の経済学者ジョン・ガルブレイスは1958年に著した『豊かな社会』で、「経済問題としての不平等への関心の衰退にも勝って、現代社会史において明瞭なことはない。……不平等という問題が人々の心を奪うことはもはやなくなった」61)とまで豪語した(当時とて、アメリカにも貧民は存在していたであろうし、世界各地に飢餓人口は多かったと思われるが)。
 <自由>と<平等>とをからめて論じている例をあげるほうがより大きな意味がある。
 尾高朝雄は、『法の窮極に在るもの』で次のように明らかにする。
 「人間はすべて自由な人格者として平等に取り扱わなければならないというのは、道徳の理念である」(20頁)。
 「近世自然法論のとくにかかげる理念は、『自由』と『平等』とである。しかるに、人間は本来自由であるという思想は、神は人間をのみ自由意志の主体として創造したというキリスト教の根本観念に由来する。また、自由なる人間は、その意味で互いに平等であらねばならないという考えは、アリストテレスいらい西洋の社会倫理思想の伝統となったところの『各人にかれのものを』〔ウルピアヌス〕の要請を継承している」(51頁)。
 伊藤正己は「法の前の平等」で、次のように説明している。
 「平等こそは、自由と並んで、近代の黎明を告げる暁鐘にも似たものであった」(19頁)。「平等と並ぶものに自由の観念が存在する。この両概念相互の関係は、自然法的要請によって影響をうけた民主主義の語法において、全く調和して融合できるものと考えられてはいるが、実際には、極めて複雑であって、われわれの省察を強いるものである」。伊藤は、ここで、「民主政」の理解についての、対極的見解――ハンス・ケルゼンとラートブルフ――をあげているが、その点はすでに触れた。
 川原は、前記の論文の書き出しで「デモクラシーが自由と平等との背骨をもって立っていることは、……多くの人々によって確認せられてきた」と書き、「まことに自由と平等は、単純に二者択一をなすにはあまりに重大な問題である」と確認している(47頁)。
 正統派マルクス主義に立つ法学者長谷川正安は、1960年の「法の下の平等」で、「資本主義の枠内の中では、各時代をつうじて、平等の自由への第二義性は一貫している62)」と書いている。
 リースは、「平等と自由とは共に、人間社会の概念にとって必要な要素である」と書いている(169頁)。これだけでは、排他的ではなく、「共に必要」と言うだけで、両者の関係を深く解明しているとは言えない。
 阿部は『平等の権利』の「序」で、「人権の体系を一つの織物にたとえ、個々の自由権や社会権がいわばその縦糸の役割を果たしているというならば、平等権はいわば横糸の役割を果たしているということができよう」と説明している(1頁)。
 本論では、「自由と平等はたがいに対立する原理だというのが一般的な考え方である。……このような考え方は……抽象的であり、非歴史的でもある。……自由と平等は二つの異なる歴史的起源から出発し発展した自然法思想ではなく、どちらも近代的な人間の尊厳、個人の尊重に同じ根をもつものである」と明確にしている(12頁)。
 さらに、「自由と平等の緊張関係は、それが問題となる生活領域によって差異がある。政治の領域では、政治的自由と政治的平等は、各国の選挙権の拡大・平等化の歴史が示すように、対抗関係にはなく、並行ないし補強の関係にある。経済関係および社会関係においては、事情は異なる」と明らかにする(18頁)。
 私は、最後に引いた阿部の認識に従い、踏襲したいと考えている(自然法思想をいかなるものとして捉えるかという難問について、尾高と阿部には相違があるようなので、言い回しが異なっているが、内容的には大差ないと思える。尾高も「近世啓蒙時代の自由思想・平等思想63)」と書いている)。
 研究者の論議のレベルを離れて、日本社会の様相についても一瞥しておこう。
 「平等」という言葉はすで触れたように、仏教用語として用いられていた。「自由」は、江戸時代の、「農本共産主義者」とも評される安藤昌益も使っている64)が、こんな逸話が残っている。穂積陳重によれば、福沢諭吉は、慶応2年(1866年)に著した『西洋事情』で「リベルテ」に「自由」という訳語を用いたうえで、明治3年(1870年)の同書では「自主、自尊、自得、自若、自主宰、寛容、従容」などもあげて、なお座りが悪いと述べていた(195〜197頁)。しかし、早くも明治14年(1881年)には「自由民権」の拡大を主張して、板垣退助によって「自由党」が創成された。日本で最初の政党であった。
 敗戦直後の世相をよく伝えるものとしては、宮沢俊義が1950年に発表した「法の下の平等」に次の記述がある。当時は、福沢の有名な「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」が「小学校の教科書にも」載っていた。NHKのラジオでは「一時、『わたしはドレイになりたくない。だからわたしは、ドレイを使う身にもなりたくない。これが、わたしのいう民主主義だ』という〔アメリカ大統領〕リンカンの言葉を、毎日放送したことがあった」という。さらに「まもなく、それに加わって、福沢の『天は人の上に』が、毎日電波に乗った65)」。
 ところが、高度成長経済を経て、「自由」は“定着”し、1980年には童謡「七つの子」の歌詞をもじって「カラスなぜ泣くの、カラスの勝手でしょ」が流行言葉になった。何をやっても「俺の勝手だ」ということになってしまった。この風潮の延長上に「自己決定」なる理論を装った主張が流行っている(この主張は、「自己」なるものが<社会>を前提にして初めて成立するという核心を無視している)。
 外国人が日本人の法意識についてどう見ていたのかについても見ておこう。
 阿部は、敗戦直後からロングセラーになった『菊と刀』の著者ルース・「ベネディクトの次のような観察は誇張ではない。『不平等ということが、何世紀もの間を通じて、……最も広く一般的に是認されている点における、彼ら〔日本人〕の組織された生活の原理となってきた』66)」と書いている。彼女は、アメリカの文化人類学者であり、一度も日本を訪ねたことはないが、深い認識を示している。ついでに「民権」の訳語をめぐる明治時代初期の有名な逸話――「民に権があるとは何のことだ67)」――を想起するのも無駄ではないが、他方では全く逆の印象も残されている。
 幕末の日本を訪ねた「ロシアの革命家メチニコフ」の発言である。紹介している泉三郎は、彼は「日本語も解しただけに、その観察は鋭」いと評している。泉は触れていないが、メチニコフはアナキストで、明治維新を高く評価する著作を残している。メチニコフは「日本人の『進取の気性と社会的平等観念』に深く感じ入っています68)」。泉も「ロシア社会がその対極にあったからという事情もあ」ったからだろうと注意しているが、何と比較するのか、どこを比較するのか、そして何よりも観察者の立場によって異なった印象を抱くことになったのであろう。慎重で重層的な観察と分析が求められるゆえんである。
 以上の考察によっても、「自由」や「平等」についての社会の意識や研究者の論議が大きく変化してきたことが明らかである。

 B 両者に内在する制限とその質的相違
 <自由>にしても、<平等>にしても100%あるいは絶対的に要求したり実現することはできないと、誰もが知るようになった。それぞれに或る制限があることは共通認識と言ってもよいであろう。<平等>については前節でみたが、<自由>については、どんなに「自由を」と叫ぶ人でも「殺人の自由」を要求することはない。
 問題はその先にある。そこで課されている制限の質が同じなのかどうかについて踏み込んで検討する必要がある。
 <自由>に課されている制限は、実行しようと思えばできるにもかかわらず、為してはならないといういわば主体的制限である。他人を殺したり、物を盗んだり、約束を破ることは為そうと思えば、ある程度の能力が備わっていれば誰にでも可能である。しかし、道徳によって為してはいけないこと、為した場合に法律によって刑罰を科されるという社会環境のなかで、その「自由」は制限され封じられている。このことは、すでに1789年のフランス人権宣言の第4条に明記されていた。そこには「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」と書かれている。つまり、初めから<自由>にはこの限界が負わされていたのである。
 ところが、<平等>の場合には、いくらその実現を望もうともその可能性が極度に少ないか、あるいは無いがゆえに、制限されているにすぎない。人間がまったく同一の身体や年齢や能力などを保持することは、人間存在の基礎的条件に反する。誕生日、誕生の場所、両親が同一ということは絶対にありえない(双子にしても出生時間は異なる)。万人に同一の資源をどんな形態にせよ給付することについてもまず不可能と言ってよい。それらの客体的根拠によって<平等>の実現が阻まれているにすぎない。
 したがって、<自由>と<平等>とに課されている制限の質は全く異なる。この相違が次に何をもたらすのか。この相違は、それぞれを追求する方向と質の相違を結果する。<自由>はどこまでも無限に拡大追求することはできない、あるいはそうすべきではない。他方、<平等>はその実現の度合いは別として追求すること自体に不都合はない。いや、<平等>の追求を不都合と判断する人は、「不平等」を肯定しているのである。重ねて<自由>の場合との違いを言えば、<自由>を過剰に追求することを不都合と判断する人は、「不自由」を肯定しているのではなくて、自分や他人が殺されたり、盗まれたり、騙されることに反対しているだけであり、それらはいずれも社会が社会として存続するための基礎的要件である。これに対して、「不平等」の肯定は社会存続のための基礎的要件と言えるであろうか。奴隷主と奴隷、王と家臣などの「不平等」は、当初はその社会存続のための基礎的要件と考えられていたが、いずれもそのような「不平等」は消滅しても社会はむしろその前よりもより良いあり方において存続可能であった。
 労働の報酬が「不平等」でないと、労働意欲が減退・消滅するのではないかという声――前記の1931年のスターリンを知ってか知らずか――が聞こえる。この危惧について言えば、それが大きな問題であることは否定しないどころか、<労働の動機>問題として、私は一貫して重視している(<社会主義社会>での<労働の動機>は<誇り>ではないかと、私はすでに試論を提起している)。カベは『イカリア旅行記』で「怠け者ですって。われわれにはそのようなものは縁がありません」と書いた(168頁)。これは願望の表現であるが、18世紀末にアメリカでごく一時期とはいえ存続した、たとえば「シェーカーズ」――「平等社会」を実現した宗教集団――の社会では、人々は宗教的信条にしたがって労働し、労働に喜びを見い出した69)。
 労働意欲が金銭的報酬の大小=「不平等」に左右されるのは、労働力が商品化される――資本制生産の基礎的要件である――などの特定の歴史的条件のもとにおいてにすぎない。過去を振り返れば、「しゃべることができる動物」にすぎなかった奴隷は報酬なしに労働していた。未来を遠望すれば、人間はやがて、他人や社会のために労働することが同時に自分のためでもあるような関係と意識を創造するであろう。機械の発達によって重労働が軽減され、労働時間が大きく短縮されれば、労働を「難儀」と思う意識も変化するであろう。「労働時間短縮」の意義については、すでにマルクスに先んじてヴァイトリングが提起していた(39頁)。今日でも各種のボランティア活動などでは新しい関係が部分的に実現しているし、恋人へのプレゼントや母親が子供に乳を含ませるとき、父親が子供に夢を語るとき、多くの場合、そこに金銭の授受や打算はない、と言ってよい。

 C <平等>を強調する意義
 <自由>と<平等>について、両者の関係、その認識の変化、それぞれの制限の質的相違について明らかにした私たちは、そのことからさらに何を明らかにしなければならないのか。私たちは、この二つの根拠によって、<平等>をこそより重視して追求する必要がある。<平等>がうとまれ、「自由」が過剰にあふれる風潮のなかでは、とくに<平等>を強調する必要がある。誤解を招かないように付言すれば、<平等>をこそより重視するということは、<自由>を軽視することを意味するわけではない(例えば、国際人権規約の自由権規約は、社会権規約と合わせて周知・拡充されなければならない)。
 では、<平等>をこそより重視する意味はどこにあるのか。<平等>の視点を強調すると何が見えやすくなるのか。言葉というものは、その使用によって、世界、あるいは現実の何かをよりよく見る・理解するための手段、別言すれば<連帯>を創り出す手段である。<平等>はいくつもの大切な問題に光を当ててくれる。事の性質から叙述が羅列的になるのは許してほしいが、いくつかの問題を列記しよう。
 @近年、残虐な殺人や深い因縁が感じられない殺人が多発し、「なぜ人を殺してはいけないか」が切実で大きな問題として浮かび上がっている。1冊の本が書かれるほどであるが、結論だけ示せば、<人間は平等であるべきだ>がその最奥の答えであろう。殺人は相手の存在を丸ごと抹殺・否定する行為であり、殺人によって相手は存在しなくなり、殺人者は生き残るのは<平等性>をこれ以上ない形で否定することを意味する。こう言うと、すぐに、では殺人者もその場で自殺すればよいのかという反発を招きそうであるが、果たして、この二者が同じ条件の下に死んでいったと、正常な人間が言う勇気があるであろうか。片方は殺されたのであり、他方は自殺した。他殺と自殺の区別が不要とは考えられないからである。ここでも<自由>と対比すると、果たして<自由>を論拠にして「なぜ人を殺してはいけないか」の問いに解答を提出できるであろうか。むしろ、「殺人の自由」をどうしてくれるのだという暴論を招きかねない。いや、「他人の自由を奪ってはいけないからだ」が答えになりうると思うかも知れないが、重ねて問う必要が生じる。「どうして他人の自由を奪ってはいけなのか」と。結局、この「答え」らしきものは、問いの核心である「殺人」を「自由を奪う」に置き換えただけなのである。
 A地球温暖化が大問題になっているが、小杉修二はその解決策について「平等主義を否定して温暖防止は可能か」というそのものズバリの標題の論文で、「みんながもつと害悪が生じるような財は誰ももつべきではないという原則70)」を提起している。「平等を基調にする社会の実現なしには、……温暖化防止の実現は叶わ」ないのである。ここでも<自由>と対比すると、ブッシュ大統領は京都議定書を足蹴りしているし、暴走族や自動車業界の「自由」は、地球温暖化を促進こそするが、防止には役立たない。
 Bリストラの嵐のなかで、セーフティーネット論がさまざまに論じられているが、それを原理的に位置づけるためには憲法第25条――生存権思想に依拠するほかはない。野宿労働者の権理を拡大するための法案が闘い取られようとしているが、そこでもこの闘いを支える理論的根拠は<生存権>である。前節で明らかにしたように、<生存権>は<平等>実現のための核心的前提である。ここでも<自由>強調論者の仲間である竹中平蔵経済財政担当大臣の発言が対極的である。彼によれば、今や必要なことは「ハイリスク・ハイリターン」の、分かりやすく言えば弱肉強食の競争社会だということである。自殺者が3万人も生み出される過酷な社会を放置というよりは推奨している。1960年代の初めには「貧乏人は麦を食え」と放言して、首相の座を追われた例もあったが、カタカナ言葉で言うと抵抗感が少ないのも奇妙な現象である(解雇を「首切り」と言うのも確かに凄いが、「リストラ」だと容認されるのも異常である)。
 最後に、<平等>を強調することが大切であるという認識に踏まえて、私自身がこれまでそのなかでもがいていた左翼という世界――口の悪い人に言わせると「ゲットー」と評したほうがよいらしいが――から少し身を振りほどいて(立場を移行してではない)、広い世間に視野を拡げると、実は<平等>は仏教の最重要な徳目であったことに気づく。梅原猛は、中学生に語りかけた近著『梅原猛の授業・仏教』で、「釈迦はカースト制度を無視し、人間はみな平等だというのです。生きとし生けるものはみな平等だというのが仏教の教えです71)」と説いている。紀元前5世紀にガンジス河流域で仏陀によって説かれた仏教では「平等」はもっとも大切な徳目とされた(そのゆえに、根強いカースト制が牢固として形成されたインドでは仏教ではなく、ヒンズー教が圧倒的である)。とくに紀元前後にインドで書かれた『法華経』では<平等>が強調されている。仏教は日本には6世紀に伝わり、山崎純によれば、「『法華経』は最澄〔788年に比叡山延暦寺を創建〕、日蓮〔鎌倉時代〕、道元〔同〕、さらには宮沢賢治にいたるまで、わが国の仏教および精神世界に計り知れない影響を及ぼした。一切の衆生は仏と同じ立派な性質をもち本来平等であ〔る〕……という思想もそこから生まれた72)」。平安時代には、女性は穢れたものとされていたが、法華宗では「女人成仏」が可能とされた。1052年には京都の宇治に平等院が建立された。<平等>を説く仏教が日本人の精神・文化に深く影響していることは、プラスであってマイナスではない。誤解を避けるために付言するが、このことは日本において、<平等>思想がきわめて未発達であったことと両立しないわけではない。対象たる世界の実践的変革に向かうのではなく、魂の救済に向かう根本的傾向――そのゆえに支配的権力と癒着することが多い――を共有することはできないが、<平等を志向する>点では十分に連帯できるし、その連帯を通して前者の傾向からの脱却を促すことができるであろう。
 仏教には興味がないよと言う人でも宮沢賢治には感動することが多いであろう。長岡輝子の語りは深く胸を打つ。そこで心を動かす多くの人々と、私たちは単なる政治的必要性という狭い打算をはるかに超えて、交流し学びあう道をさぐりださなければならない(この点では、日本共産党は理論上はさほど明確にしているわけではないが、実践的には宗教者との対話を創りだしている)。
 私たちは、少し前にラートブルフ――「社会主義はある特定の世界観にむすびつくものではない73)」――に学んで、<社会主義>をマルクス主義などの特定のイデオロギーから解放する必要を提起したが、<平等>という核心において仏教――広く宗教――と接点が形成されることは、<社会主義>を遙かに広い世界へと根づかせることを可能とするであろう。
 こうして、私たちは<平等>の大切さを明確にし、<平等>を基軸とする社会を創造する方向を堅持して努力することこそが、今日のさまざまな問題に打開策を見いだす道――万人が<生きる意味>を掴んでゆく道であることを理解できる。だが、私たちは「これが真理である」とか、「人間は本来こうあるべきである」とかと主張したいのではない。そうではなくて、ある問題について、社会を構成する圧倒的に多くの人間によってそういう理解でよいという<共通の合意>(<フィクション>と言い換えてもよい)を形成することこそが大切なのである。その<共通の合意形成>にとって、<平等>こそが基軸になるのではないかと、私たちは考える。私は、1997年にロシア革命80年を記念した論文で、人間について「<自主性・連帯性・意識性>を<人間らしさ>の核として創りあげてきた74)」と書いた。今もこの理解は有効であると考えている。<連帯>と「友愛」はほぼ同義と理解してよい。<連帯社会主義>が実現すべき<正義>の内実は、<平等>なのである。
 なお、本稿では、なぜマルクスは<平等>よりも<自由>を強調したのかについては探究していない。この問題は、マルクスが<法(律)>を軽視したこと――周知の『ユダヤ人問題について』での「政治的解放」についての結論が根拠か――とも関連していると考えられるが、そのことの解明も今後の課題である。
<注>
 同一の文献については本文中に頁数を示す場合もある。
1)川原次吉郎、1954年。阿部照哉『平等権』三省堂、1977年、53頁。
2)井上達夫『共生の作法』創文社、1986年、B頁。
3)小泉信三『共産主義批判の常識』講談社、1976年、76頁から。
4)村岡到「<ノモス>を追求する意義」『カオスとロゴス』第20号、87頁。
5)穂積陳重『法窓夜話』有斐閣、1916年、384頁。本書の扉には目隠しのない「正 義の女神」の写真が掲げられている。
6)都築忠七編『資料・イギリス初期社会主義』平凡社、1975年、131頁。
7)阿部照哉『現代憲法体系』第3巻『平等の権利』法律文化社、1984年、10頁。
8)都築忠七編『資料・イギリス初期社会主義』67頁。
9)ルソー『人間不平等起源論』岩波文庫、85頁。なお、平岡昇によれば「ルソー は、この後、彼の主要作品のなかで、私有制の廃止を主張したことはない」とい う(注10、43頁)。今さらルソーでもあるまいとかすかにでも感じる人には、世 界的規模で「水問題」が浮上し、その打開策として、「水資源の私有禁止」が提起 されている21世紀の現実を直視することを勧める。
10)平岡昇『平等に憑かれた人々』岩波新書、1973年、28頁。
11)河野健二編『資料・フランス初期社会主義』平凡社、1979年、156頁。
12)良知力編『資料・ドイツ初期社会主義』平凡社、1974年、10頁。
13)ヴェルナー・ゾンバルト『ドイツ社会主義』三省堂、1936年、101頁。そこで は176種の「××社会主義」がリストアップされている。77頁〜82頁。
14)マルクス『共産党宣言』岩波文庫、69頁。
15)マルクス『哲学の貧困』岩波文庫、76頁。
16)エンゲルス『反デューリング論』国民文庫、490頁。
17)マルクス『資本論』新日本出版社、133頁。1435頁。
18)マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫、95頁。
19)エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』岩波文庫、229頁。「国家」を「古 物博物館へ」と述べたところ。
20)エンゲルス「ベーベルへの手紙」1875年。全集、大月書店、34巻、110頁。
21)ハワード・セルサム『社会主義と倫理』理論社、1954年、308頁。訳者は藤野渉。
22)ロバート・タッカー『マルクスの革命思想と現代』研究社、1971年、113頁。
23)碓井敏正『現代正義論』青木書店、1998年、142頁。
24)石井伸男「社会主義と正義論」『カオスとロゴス』第5号=1996年。だが、石井 は、私たちとは全く逆に「全面発達」論を発達させようとしている。石井は「一 つの全体性・総体性を獲得することは、哲学史や社会思想史をひもとくまでもな く、人々の理念であり続けた」と書いているが、そこではこの著作のタイトルに 使われている二人しかあげていない(『マルクスにおけるヘーゲル問題』御茶の水 書房、2002年、261頁)。この著作には「平等」は出てこない。
25)ジョン・リース『平等』福村出版、1975年、14頁。98頁もみよ。
26)小泉信三『共産主義批判の常識』77頁。
27)『日本大百科全書』小学館、1994年。田中浩執筆。
28)川原次吉郎「平等論研究序説」52頁。
29)リース『平等』47頁。
30)石川晃弘・川崎喜元編『社会主義と社会的不平等』青木書店、1983年、7頁。
31)D・クレメンチエフなど『社会主義とは何か』モスクワ・プログレス出版所、  1987年、51頁。
32)中西洋『<自由・平等>と<友愛>』ミネルヴァ書房、1994年、A頁。
33)エルジュビエタ・コストフスカ「国家管理型社会主義における社会的不平等」。 注30、57頁。58頁。
34)伊藤正己「法の前の平等」(阿部照哉『平等権』)より。伊藤は、ケルゼンと対比 して明確にしている。24頁。他方、碓井はケルゼンだけを引用(注23、60頁)。
35)阿部照哉『平等の権利』2頁。
36)尾高朝雄『法の窮極に在るもの』有斐閣、1947年、34頁。
37)森征一「中世イタリア都市社会における『正義』のイメージ」、森征一ら編『法 と正義のイコノロジー』慶応大学出版会、1997年、8頁。
38)尾高朝雄『法哲学概論』学生社、1953年、21頁。
39)西川理恵子「ゴヤの正義」注37、93頁。西川は「近代革命のスローガン」=「自 由、平等、友愛、独立」のうち、「最も重要なのものは平等だと思われます」と書 き(121頁)、「正義の実現は、私たちの永遠の課題であり、魂の課題なのです」と 説いている(126頁)。
40)「目隠し」にこだわってきたが、最初は目隠しはなかった。目隠しされるいきさ つについては、注37の村上裕「目隠しされた正義の女神」参照。井上は目隠しさ れているとだけ思っているようである(注2、133頁)。
41)尾高朝雄『法哲学概論』278頁。
42)岩谷十郎「法的象徴空間としての最高裁判所」、注37、294頁。なお、野田は、  尾高の同僚でもあり、戦時中に、後の最高裁判所長官田中耕太郎のもとで、ラー トブルフの輪読会に参加していた。
43)宮沢俊義など『人権宣言集』岩波文庫、1957年。以下も。
44)伊藤正己「法の前の平等」、阿部照哉『平等権』22頁。
45)小林直樹「法のもとの平等」、阿部照哉『平等権』66頁。
46)トーニー『平等論』、リース『平等』143頁から。また、川原によると、このトー ニーの著作はイギリス思想史のなかでは「稀な例外」だという(注1、48頁)。
47)トロツキー『文学と革命』。タッカー『マルクスの革命思想と現代』121頁から。
48)マルクス『ドイツ・イデオロギー』新日本出版社、44頁。
49)アマルティア・セン『不平等の再検討』岩波書店、1999年、1頁。
50)高田保馬『国家と社会』、阿部照哉『平等の権利』58頁から。
51)ルソー『人間不平等起源論』、リース『平等』18頁から。
52)阿部照哉『平等の権利』59頁。
53)阿部照哉『平等権』6頁。
54)小林直樹「法のもとの平等」71頁。
55)尾高朝雄『自由論』勁草書房、1952年、144頁。
56)ジョン・ロールズ『正義論』紀伊国屋書店、1979年、47頁〜48頁。
57)阿部照哉は『平等の権利』で、「各人の間に存在する事実上の不平等を認めなが ら、それぞれの条件に応じた多様性のある取扱いを要請する。平等という言葉を 絶対的平等のために留保するなら、公平という言葉があてはまる」と区別してい る。65頁。「公正」と「公平」とは違うが、ヒントになるであろう。
58)野上裕生「訳者解説」ロールズ『正義論』253頁。この文章の直前には「日本的 (あるいは東アジア的)な平等な社会」と書かれているが、この認識も疑わしい。
59)渡辺一衛「自然科学の認識論的基礎」オルタ・フォーラムQ『QUEST』第19号= 2002年5月、40頁。
60)牧野英一『法律と生存権』有斐閣、1928年、52頁。〔本誌本号、131頁など〕
61)ジョン・ガルブレイス『豊かな社会』、リース『平等』46頁から。
62)長谷川正安「法の下の平等」、阿部照哉『平等権』139頁。長谷川は、社会主義 憲法では「平等」が重視されていると言うのだが、1977年憲法を解説したトポル ニンの『ソビエト憲法』(法律文化社、1980年)では、各頁に2つほど表記されて いる小項目のなかに「平等」は1つも挙げられていないし、この憲法の「もっと も重要な原則」が6つ挙げられているなかにも「平等」は出てこない(27頁)。
63)尾高朝雄『法の窮極に在るもの』51頁。
64)石渡博明「安藤昌益の技術批判」「舞字抄通信」第2号=1996年10月、10頁から。
65)宮沢俊義「法の下の平等」、阿部照哉『平等権』57頁。
66)阿部照哉『平等権』3頁。『菊と刀』については、文化人類学の祖父江孝男は訪 日経験の欠如による「大きな見当ちがい」や「フロイド学説」による悪影響もあ ると指摘している。『文化人類学入門』中公新書、1979年、185頁以下。
67)穂積陳重『法窓夜話』212頁。
68)泉三郎『堂々たる日本人』祥伝社、1996年、171〜172頁。
69)穂積文雄『ユートピア――西と東』法律文化社、1980年、20頁。この著作につ いては、拙論「ユートピアを構想する意味」「稲妻」第337号=2001年8月10日 号、参照。
70)小杉修二「平等主義を否定して温暖防止は可能か」『カオスとロゴス』第10号 =1998年2月、22頁。23頁。
71)梅原猛『梅原猛の授業・仏教』朝日新聞社、2002年、68頁。梅原は「イチロー は『空』を実践している」と語っている。86頁以下。
72)山崎純「いのちの共鳴」。北村寧『新世紀社会と人間の再生』八朔社、2001年、
 57頁。
73)グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』みすず書房、1953年、132頁。 訳者は野田良之。
74)村岡到「ロシア革命と『歴史の必然性』の罠」『協議型社会主義の模索』社会評 論社、1999年、208頁。
 ☆私は1994年から、<権理>を使用。このことについては、すでに牧野も指摘していた(注60、382頁)。訳文についてはすべて「権利」を「権理」に直した。
 <村岡到の関連論文・著作>
「『労働に応じた分配』の陥穽」「稲妻」第264号=1994年10月20日。*
「<貨幣の存廃>をめぐる認識の深化」『カオスとロゴス』第6号=1996年10月。*
「<生存権>と<生産関係の変革>」『カオスとロゴス』第11号=1998年6月。
『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年。*も収録されている。
『連帯社会主義への政治理論』五月書房、2001年。
「<ノモス>を追求する意義」『カオスとロゴス』第20号=2001年10月。
    村岡到論文<追記>
 印刷所に入れたあとに、本文第1節で触れたローレンツ・フォン・シュタインの主著『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)を一読したので、追記する。訳題は内容にふさわしく『平等原理と社会主義』(法政大学出版局)とされて1990年に刊行。本書「第1部・平等の原理」で、シュタインは「自由」が重要であると書いたあとで、「この信仰を生み出した真理とは、普遍的な財貨を平等に占有する権理がすべての人格にある」(37頁)と明らかにし、「フランスにおいて非占有者階級は、平等の思想をスローガンに掲げたし、また平等によって規定された社会いがいの社会を望まないのである」(47頁)と書いている。
 シュタインが、この引用でも明らかなように、「所有」ではなく<占有>を重視している点についても注意する必要がある。というのは、「所有に関する現代の根本的な誤りは、所有に対する現在の権理を絶対的なもの、まったく必然的で不変的なものとみなすことである。このような考えがいかに一面的なものでしかないかは、歴史をちょっと見れば明らかである」(237頁)からである。




(私論.私見)