八切史学の古代日本王朝史考

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


1053 古代史入門  5
耶馬台国群は中国の出先機関

 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の
存在だろう。
 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態
の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしては
ならない。
 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威
にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭
人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭
にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、
とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。
 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハ
ン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当
て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込
まされていたものである。
 さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、
「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国
では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼
ばれているのである。
 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、
みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、
当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そ
こから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとっ
て海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、
陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。
「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占
領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後に
は「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩も
つくるし、漂着地で農耕もする。
 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾
魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰
いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武
装解除し使役にされていた。
 しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもち
こんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の
薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称から
の伝承である。
 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつ
きだし、
「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣
を‥‥」
とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の
霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法
のランプはないから無理。そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をた
て、泣きつくようにして、
「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手
に伝えさせた。
「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもし
ようぞ」
となった。
 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。
しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知
れぬ。
 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくた
めに突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を
斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天
の慈雨のごとく感激した。
 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されてい
たから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻って
いる。
 サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄
剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われる
ようになった。
 そればかりでなく黒潮で流されてくる途中、インドの背丈1メートル余りのピグミ
ーが逃げてくるのを助けてきていたから、貯蔵食料の他にインドのピグミーをも捕虜
としヒミコの許へ伴ってつれ戻ってきた。恐らく助けられた八幡国群のために彼らピ
グミーも戦ったのだろう。
 当時はビデオも車もなかったから、武器援助の見返り進貢として背丈は小人だが顔
が小さく五体満足の珍しい生物として送った。魏志倭人伝に「生口」として出ている
のがこれである。
 現代でもカルカッタやボンベイへ行けば、幼い少女みたいのが、客とみるとパアッ
と前をまくって黒々したものを見せ、一人前の女であると安心させるピグミー達が屯
している。
 つまりそうした倭人の群れを貢進していたので、向こうでは「倭人国」とよんだも
のらしい。
 でなければ中国人に比べて耶馬台国群より使者として行ったものが、ぐっと背が低
かったわけでもなかろうから、頭ごなしに倭人とか倭国とか向こうが決めつけて呼ぶ
筈もないのである。
 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢
で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこら
れてはかなわぬ。
 貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連
行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴
隷国家の元祖といえる。そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判った
ので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練す
る多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王
朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。
 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北
へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日
本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百
野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊
勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬよう
にと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。
 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたとい
うのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺さ
れて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。
 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢
力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。
 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放り
っぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしてい
た時より、遥か以前らしい。もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三
省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。だ
から、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生
まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。
 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、
彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものと
みられる。
「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江
戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さ
まの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きに
もなるのではあるまいか。
 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方
だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王
さまという事になる。
 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼
らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、
中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。天変
地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、
やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。
 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、
おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地よ
り群れをなしたのだ。
 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」
をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明
書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。現在でも
伊勢松坂市内の旧家には入口にみな掲げてある。官製歴史では歴史百科辞典の類にも、
これを包み隠してしまい、
「昔、疫病が流行した時、蘇民と将来の兄弟[蘇民将来(兄)と巨丹将来(弟)?]
が厄よけに薬草をとって治して廻った事から、疫病よけに兄弟の名を軒ごとに貼りだ
して、まじないとする」などと、まったく出鱈目が書かれている。
「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四
つ」の騎馬系末孫である。
「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと
黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝す
るようになる者が増えだした。
 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後
も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上
の神祇省のもとをも作った。
 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ
[韓?]神で「四つ」。
 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからし
て、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺
の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがく
ると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、
それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。

[『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、この『青春』に
ついて解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。
なお、適当に用字を変えている個所もあります。(例:符ちょう→符牒)
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青春
 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、
人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。
 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったよう
なプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。それより昔は飼ってい
る牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つま
り庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする
為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、
改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時
々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると
人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪
れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たち
の売り頃が、青春なのでした。
 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治ま
であったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私
有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になる
から値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切
に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。<野史辞典>の巻末には、天
平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁
の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。
恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な
恥辱の語源。
「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきてい
るのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」
とも賢しい方はおっしゃっています。
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 これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミ
はホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書
日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りや
すく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」まで
の時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の
著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。
 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突
入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全
然ないゆえである。
 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しか
し日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、
史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるもの
はヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参
考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。
 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨さ
れた天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日
本書紀を金科玉条としている学校歴史では、悲しいが、本当のところは何とも探求し
ようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、
いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、
一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。
 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的で
あった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みに
してあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた
明治軍部にすっかり歓ばれて、
「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任す
べし」
となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教
科書とされるもので、学校歴史とよばれる。つまり戦争目的に作成されたものゆえ、
国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、
これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよ
く紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テ
レビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。
「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なの
だろうか?」
「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、
四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東
は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思
えない」
という事になってきた。
「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、
自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され
恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目
ではなかろうかと疑心暗鬼になる。
 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬよ
うにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖の
ための挽歌としたい。



                 第二部


歴史まがいに注意

 昔のことをやっているのだから歴史だろうとテレビをみる人もいる。昭和の敗戦ま
では、やはり昔の事を談じるのだから、講談は歴史だろうと、寄席でも昔噺をする講
釈師と浪花節語りは、紋付羽織姿で、着流しで出る落語のような色物を演ずる人々か
らは、先生先生といわれたものである。もちろん、「講釈師みてきたような嘘をつき」
とは、江戸時代の川柳にもある。
「何々」によれば、と裏書するみたいに援用引用する例も多いが、平田門下で日本書
紀をも書いた伴信友にしても、若狭人ゆえ、事さらに「水上のオンボ(隠亡)」を隠
して、「水上は雨降りの阿夫利神」などと曲筆する。郷土愛といってしまえばそれま
でだが、藤原系となると、御所全体をもって一致団結して同じように筆を揃えて書く
のは、公卿日記が、どれもみな「将門謀叛」と、筆を揃えてデッチあげを、それぞれ
が、みな記録しているような例でもよく判りうる。
 会社の社史みたいに藤原王朝のすべてを美化してしまい、例証として引用した本な
どは、「まんまと罠にはまった」みたいで読むに堪えない本になってしまう。
 が、日本人の御都合主義というか、長いものには捲かれろで、過去に文字で書かれ
たものは、頭ごなしに郭ムソウこと藤原鎌足の法令の昔からお上の布令と信用してし
まうように、今も教える側が仕向けてしまう。
 文字で残されているということ自体が、そうする必要があったからである。つまり、
これでは真実など判りっこはありはしない。その時代その時代のオカミの都合のよい
ようにしてしまい、過去はすべて美化して葬り去り、わけがわからなくしてしまいた
がるのだから仕方がない。
 また庶民も過去のみじめさは知りたがろうとはせず、嘘とは薄々は、内心では疑っ
ていても、美化された過去の方が恰好が良いみたいだと、それを信用しているにすぎ
ないうらみがある。
 なにしろ江戸の享保二十年頃までは、庶民の先祖は大名領でも天領でも、居付き部
落に収容されていて、逃散すれば斬罪になる閉じ込め暮し。その昔、寺へ寄進された
子孫が、その寺を、「ダンナ寺」とよんで台帳に書き込まれ、寺奴にされ百姓をし、
奴百姓つまりド百姓とよばれる。海浜で漁をなしてアー元つまり今いう網元に人頭税
として納めるのは、ヤン衆とみなされていた。
 喜田貞吉全集がいま刊行されているが、「民族と歴史 特殊部落研究」も含まれて
いるが、大正八年七月には二十五銭現在の五百円で雑誌をだした途端に勤務先の大学
を追われ、その雑誌も発禁処分となったのは前述。が特別部落の研究発表をした反体
制的な存在と今もみられている。
 しかし翌年の大正九年一月一日に、半年たらずで最後の313頁から318頁の読
者の投稿の「紀伊の特殊部落 土井為一」の一文だけを削除しただけで発禁解除とな
り、今度は定価を四倍とし「壱円」としたから、小冊子でも二千円の高値になって、
雑誌だが発禁本というので六版から十八版まで古紙型で次々と刊行。喜田貞吉の日本
学術普及会でだしたのだから、一冊千九百円の差益の七掛けでも数が多いので莫大な、
今ならば数億円の儲けと、初めから作為がみえそうである。
 が、この一冊で反体制歴史家として令名が大いに広まり、菊池山哉も「日本の特殊
部落」の原稿を文学博士の彼を信用し次々と送ったが、大半を握り潰されて、使える
ものだけを自分の名で発表したから、堪りかね菊池は送稿をやめ自分も雑誌をと「多
摩史談」を自費で次々とだし、まだ無名だった棟方志功が毎号の表紙をその版画で飾
った。「長吏と長吏部落」は、その合本所産。
 大正年間で、一度発禁になった雑誌は紙型も没収され処分のもので、[喜田のよう
に]末尾の数頁のみの一部削除だけで紙型もその侭で返されて十余万冊も新しく再発
行できたというのは、内務省警保局傘下の「民族事業融和会」の前身である「同情融
和会」や、官製の「大日本公道会」の御用を勤める事を条件にしての、内務省の特別
考慮による特殊な計らいだったものであるらしいと考えられる。

「広く日本民族といっても、数百十万(実際は大正初年でも約五百万人)にも達する
特殊の一大部落あり(中略)明治四年エタ非人の称を廃されてから、半世紀もたつ今
日なのに、まだ特に限定社会とされ、その必要なき者まで一括して救済改善をいうの
は、まったく無用な事である」
と、彼[喜田]は巻頭言で、被差別して何が悪いのかと極言までし、日本人でない他
民族だと決めつけ、
「彼らは貧困、汚らしくトラホームやカサ[瘡]っかきの患者多く、その品性下劣に
して犯罪者が多いといった理由の他に、深い昔からの因縁が、その根底に存する為で
犯罪人が多く検挙者が多い」
 つまり、犯罪をおかすのは彼らゆえ、全部が彼ら犯罪予備集団だから、疑わしきは
捕え罰せよとの論を、彼は言っているけれど何も判っていない。
 幕末まで「八つ」の部落の、道とか堂の者が朱鞘と捕縄を亨保年間から渡されてい
た、本可打ちとよばれた二足草鞋の親分が、今でいう地方警察署長。
 警察庁にあたる大目付の配下の町奉行では非農耕漁業の「四つ」の飼戸の民を「千
金の子は盗賊に死せず」の中国の格言で、捕物課役には部落に人数を割りあてて「御
用ッ御用ッ」と捕方にした。
 「四つ」や「八つ」が目明かしや捕方にされ、「その筋のもの」とよばれていたか
らして、明治までは「おのれっ、不浄の縄目にかかるかっ」と、ばったばったと斬り
たおしても、彼らは寺人別にも町人別にも入っていないから殺人罪にはならなかった。
 ところが岩倉訪欧団が戻ってきて警察国家にすべく、警視庁ができ、旧士族が羅卒
となった。そこで以前の警察勢力であった彼ら「四つ」や「八つ」の者らを新しい威
信を示す為に片っ端から、デッチあげ(野史辞典[参照?])で検挙し犯罪者にした
のである。
 彼[喜田]は解放のためと称し己が雑誌への各史料の投稿を読者によびかけ、その
所見や成果を集め、それで他人の褌で相撲をとっているのだが、数十年前の明治初年
の警察権の異動も知らぬ男が、
「一学究の自分は平素より研究してきた日本民族成立上の知識から、何故に彼らが被
差別されてきたか(中略)と彼らに自覚反省するの資料にさせよう(中略)と過去の
特殊の部落の由来を明らかにして、その調査をすべく、諸氏の投稿を待つ。長く世の
落伍者として悲境に沈んでいる条理を、これは内務省地方局に於て開催された細民部
落改善協議会席上における講演なしたる筆記」
と、自ら官製歴史の立場に立ち、「四つ」「八つ」は縄文原住日本人なのに、高千穂
に降臨されたとするトウの天孫民族を純日本人化し、被差別の社会への落ちこぼれが
落伍者と決めつける。
 つまり天孫民族と自称したのは郭ムソウこと日本名藤原鎌足だったとは御存じなか
ったらしい。
 講演の速記だけを自説として雑誌の巻頭から掲げているが、秩父事件につぐ富山の
米騒動も、部落民の蜂起となれば、治安維持上、なんらかの名称をつけて区別排斥す
る必要もあるとして、細民部落、後進部落、密集部落と改名するべきかとも述べ、不
潔不衛生とも極限して差別を説く。が、
「特殊部落という名称には少しも悪い意味はない」
と言い切っているが、私の「特殊部落発生史」でも読み比べれば、いくら官制歴史で
もひどすぎ、また大宝律令の良賎までもってくるものの、
「トウ体制の大宝律令での良はトウ渡来の大陸系、日本原住民は前からゆえ賎」
の差別も知らぬ。
 しかし官制というか不勉強のゆえ何も判らぬみたいに匿したがりエタと非人の区別
もできぬ。
 が、まさか大儲けするための発売禁止処分とは知らずに、「特殊部落研究」の反体
制歴史屋のごとく一般い思い込まれて、大正九年からの信奉者も多く、大研究家のご
とく信用している向きも多いからして、その講演部分を分析して、彼の誤りを訂正し
ておかねばならぬと想うのである。

 が、予め言っておきたいのは、彼の趣旨はあくまでも「特殊部落でも新平民でも良
いではないか。真の部落開放とは、彼らが犯罪をおかさぬ善良な民となり、信頼すべ
き部落となって、被差別された新平民の侭でもよいからして、新進気鋭の人民なりと
の心意気をもち、実質を改良するよう心をみな入れかえ、内からのもので部落開放は
なされるのである」という、きわめて高尚な国益につながる説で、この論説のため上
海の「爆弾三勇士」に部落民はなるのである。つまり郭ムソウは武力をもって原住民
を討伐し王化しようとしたが、筆は剣よりも強しのやりくちなのである。

 さて、大正九年一月一日発行の喜田貞吉主筆の「民族と歴史特殊部落研究」日本学
術普及会発行の20頁より、漢字はみな当て字ゆえ判りやすく直して引用して、この
部分をみると、
(特殊部落は、大部分もとの江田[オリジナルでは『穢多』?]であります。もと江
田と非人とはどちらが卑しかったかと申すと、徳川時代の法令の上では同一に越多
[ママ]非人と並称しまして、もし区別するならば、むしろ非人の方が低いものにな
って居りました。その制度は、江戸を中心にした関東と、京を中心とした関西とでは
相違もありましたが、大体非人は共に天下の公民として認めて居りませぬ。さうであ
りましたから、幕府の法律は直接越多非人には及びませぬ。彼等にはそれぞれ頭があ
りまして、人頭税をとってその自治に任して居りました。よって越多非人の犯罪者で
もそれぞれ此の頭に引渡して、彼等の仲間の刑法に任すといふ有様であったのであり
ます。その越多と非人とどちらが多かったかと申すと、今日正確な数を知る事は出来
ませぬが、少なくとも京都附近では、非人の方が非常に多かった。
 正徳五年[1715)」(今より二百四年前)の調べに、洛外の非人の数八千五百
六人に対して、越多の数は僅に二千六十四人しかありません。その後非人といふ方は
だんだん減じまして、明治四年非人開放の際には、全国で越多二十八万三百十一人、
非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千九十五人とあります。この皮作はやは
り越多の仲間です。つまり維新前に於て既に多数の非人が消えてしまった、つまり良
民に混じてしまった証拠であります。維新後に於て既に多数の非人といふ方は解放さ
れ、もはや世の人は彼らを特殊部落民であるとは、考へなくなつて居るのが多いので
あります。京都附近でこれまで小屋者と言はれて居た悲田院の部落のものの中で、今
でも特殊部落として認められて居るものは、僅に柳原の一部に住んで居るもののみで、
一般民からはなほ多少の区別をするのがあつても、今は公署の統計上にも区別は認め
て居らんのであります。
 これらのもと非人と言はれたものの中で、最も種類の多いのは雑多の遊芸者であり
ますが、その中でも散楽(さるがく)即ち能役者のごときは、室町時代から解放せら
れて、立派な身分となって居るのであります。もっともこの仲間にも、手猿楽(てさ
るがく)・辻能(つじのう)などと称して、後までも非人扱いになつたのもあります
が、近ごろ著しいのは俳優即ち歌舞伎役者であります。彼らは、もとは非人の一つに
数えられて、河原者・河原乞食などといふ名称があつたのみならず、名優であっても、
もと非人部落と言はれて居た中から出た者も多いのでありますが、今日では芸術家と
いふことになりまして、貴頭紳士とも交際し、だれも特に賎しいものだとは認めなく
なりました。
 かうなつてまいりますると、もとからの非人でない、立派な身分の人々までも、進
んで仲間に入つて参ります。某文学博士の令息とか、某代議士の令嬢とかいふ方まで、
俳優となつて少しも恥かしいとは思いません。もとは河原乞食と言われて居ても、今
は俳優として立派に大道を濶歩して行けるやうになつて居ります。
 近ごろ世にもて囃される少女歌劇も、昔であれば乞胸(ごうむね)と云つて、その
頭の仁太夫の支配を受けなければならなかったのでありませうが、今日では、よい身
分の娘さんの寄り合いで、監督も厳重だし、教育の手当もよく行き届き、内容実質共
まったく賎しいものでありません。これは‥‥役者という者が事実上、非人階級から
解放された結果であります。今日に於てだれも、役者を以て特殊部落の仲間だなどと
考へる者はありませぬ。しかし地方に依りますと、彼等がまだ非人時代からの、もと
の部落に住んで居るが為で、附近のものからは、特殊民の待遇を受けて居る例がない
でもありません。播磨・但馬などにも、この例があるさうであります)

 屋根つきで興行するのが弾家の「四つ」の支配。乞胸とよばれる青天興行は、「八
つ」の方で東は車善七、西は山崎仁太夫の取締をうけていたのを、喜田博士は誤って
いる。また、越多と非人との区別も、てんで判っていないのは大正初年ゆえ仕方がな
いとしても、引用を続ければ、
(皮作りはもと賎民の仲間ではありません。彼等は雑戸と申して、賎民よりは資格の
よいものでありました。賎民といふのは此の以外にあります)
とも喜田貞吉説では説明される。
 その雑誌の二六頁に、はっきりと言い切っているが誤りである。江戸時代の五街道
地図にも、「かわた」の地名は多い。四つ足の獣の皮をはぐゆえに「四つ」と、彼ら
はよばれる騎馬民族系。
 かつて裏日本から入ってきた部族で蘇我氏となり白を民族カラーとして、後の源氏
となる。
「雑戸」とは「雑色」の名でよばれる騎馬系や古代海人族より先に日本列島に住みつ
いていた種族であって、朽葉色を民族カラーとしていたが、大宝律令では、いずれも
先住日本原住民として賎。
 それなのに賎民とは、皮作りや雑戸ではないというのは、暴論というか事実誤認で
しかない。わけが判らなくするのが目的なのか、賎民の解明はせずに奴婢とよぶが、
やはり賎のことである。
(官戸・家人は奴婢よりも資格がよく、同じ奴婢でも官の奴婢は私の奴婢よりも資格
がよい。それで官戸や家人と公私奴婢との間にも、結婚は出来ぬといふことになつて
居ります。こっらの家人・奴婢は一国の元首たる御方の御眼から御覧になれば、陪臣
とも云うべきもので、公民の資格は認められません。中でも私奴の如きは、すべて主
人の財産で売買譲渡も出来る、殆ど人間としての権利は認められて居なかったのであ
ります。
 この外には陵戸というのであります。即ち墓守で、後世で云へば穏坊の類です。こ
の陵戸は屍体に触はり、葬儀に係るものでありますから、次に申す雑戸の中に属すべ
きものではありながら、特に賎しいものとして、五種の賎民中に置かれる事になつて
居ります。即ち陵戸らは職業が賎しかつたからして、賎民として蔑められたのであり
ますが、家人・奴婢に至つては、まったく社会上に於ける境遇上の問題でありまして、
人その物が特別に卑しいとか、汚いとかいふ訳ではありません。当初賎民ができた時
には、良は被征服民とか、被掠奪者とかいう者であつたでありませうが、それも民族
の別からではない。後には貧乏して金が返せぬとか、父兄に売られたとか誘拐された
とかの原因で奴婢になるのもあれば、みずから好んで家人になるのもあります)
とまで出鱈目を喜田貞吉は述べています。
 陵戸が穏坊と同じ、というのはひどい。陵戸は騎馬民族で非農耕非漁業非製塩の遊
牧の民で、大江匡房の「くぐつ記」にあるような有様だったのは、初めは捕えられて
副葬品として生きながら埋められていたのが、「飼戸」の民としてナラ王朝の頃から
馬飼いをさせられ、食糧作りをせぬからシコの御楯として防人として出征させられ、
普段は陵の番人として森林の中に住まっていたから「森戸」「守戸」というのがこれ
で、血税を払う賎民として江戸期は奉行所の捕方の「四つ」である。
 穏坊は隠坊とも書くが、彼らは四方拝の中でも火を崇ぶゆえ、その火で屍体も葬っ
たので、「髪剃り法師」ともいわれ、素焼きの土器もその火で焼く処の「八つ」の民
で全然相違するのである。
 つまり江戸末期のヤジさんとキタさんを一緒くたにしている。歴史まがいであるか
ら、これで古代史を勉強しようとしても、根本的にどだい無理な話と、いわざるをえ
ないとしか書けぬ。
 なにしろ官戸奴隷や家人とかの、家の子郎党、蘇我氏の頃の氏人、氏族とは、その
部落に捕えられて臣属した連中で奴隷市場で購入の奴婢とは違うが、官戸や家人は働
き者を増やすため結婚は許されたが、捕虜とされた奴婢は男は生涯酷使されるだけで
生涯にわたって独身。女は買主の慰安用で双方の結婚などはなく、男女共に結ばれた
いとの悲願信仰が今も残るコケシなのである。

1054 古代史入門  6
既成古代史の真相

 日本書紀に拘束され、日本人はみな天孫民族とするカテゴリーの内にあって部落問
題を解明してゆこうとするのは、両手足を縛られて泳ぐようなもので、喜田貞吉博士
もご苦労さまである。
(農耕奴隷は大御田(みた)のやからゆえオオミタカラだが、食糧耕作を絶対にしな
い遊牧民族の『四つ』の部族は非人とする。先住の土着人つまり国津神系統の民や、
中国や朝鮮人の帰化人の子孫が多いが、だからといってその理由で賎しむという事は、
我が古史にはみえぬ)
というが当たり前の話。
 古代日本人の雑色とよばれる種族が西南より漂着のあと。黒潮によってアブタビ海
よりの四方拝種族が拝火宗徒の平家の祖先とし、表日本の太平洋沿岸。次に、日本海
沿岸より入った騎馬民族も「先住民」であって、朝鮮半島や中国よりの者は鉄武具で
彼らを仆し、縄文日本人を奴隷にしてしまって弥生時代に変えてしまったのだから、
古代史にはみえぬは当然のことにすぎまい。
 順序が逆で中国の郭ムソウの軍隊が進駐してきたのが西暦673年で、自分らを良
とし敗戦国民の縄文日本人を賎とした日本書紀を、金科玉条としての解説ゆえ矛盾だ
らけは仕方もない。
 しかし、それなりの研究もしているから、「民族と歴史」の33Pからを、ついで
に引用する。
(雑戸と非人とに関係して、考えてみるべきものは、「あまべ」といふものがある。
京都の三条通からは南、加茂川からは東に当つて「あまべ」という一つの部落があり
ます。字では「天部」又は「余部」とも書きまして、もとは皮田とも越多とも言はれ
て居りました。これは昔の「余部」という名称を継いで居るからでありませう。「余
戸」といふ地名は、奈良朝時代の地誌や、平安朝頃の郷村名を書いたものによく出て
居りまして、全国各地あつたのであります。今も諸国に其の名が残って居ります。一
体どういふのかと申すに、先輩の間に種々の説がありまして、普通には余つた家即ち
一郷をなすには多過ぎるし、さりとて其の余つたのも独立の一郷とするにはたらぬか
ら、それで余戸というものにしたと云うのでありますが、恐らく農民以外の雑多の職
業に従事する雑戸であらうと思います。
 ならば、なぜ雑戸を「あめべ」といつたかという理由はよくは分りませぬけれども、
思ふに普通の郷の仲間に這入らず、余つた村落と云ふ事ででもありませう。余戸の説
明をした古文を見ますと、京都の栂尾(とがのお)の高山寺に伝はつて居た「和名抄」
という書物がありまして、その中に、「班田に入らざるを余戸という」とあります。
班田というのは大化の改新の時の御規則に依りまして、日本の土地をみな国家の有に
帰せしめ、それを均等に良の人民に分ち興へる、これを班田と申し農民は悉く、その
班田を受ける仲間に入つて居る訳であります。処が「班田に入らざるをば余戸という」
とあるのを見ますれば、田地は貰はないものの、即ち農民以外のものということにな
ります。種々の職人や雑役に従事するものは、耕作致しませんから、土地を貰わなか
った。土地を貰う権利を与へられなかったのであります。
 昔の諺に。「土地を得ぬ玉造」ということがありまして、玉造りの細工奴隷たちは
土地を持たなかった。又今の京都の天部(あまべ)部落は、もと四条河原におりまし
て、これを「四条河原の細工」とも言ったとあります。皮細工を課役とする者らの雑
戸で、それで「あまべ」の名を得て居ります。
 もう一つ「出雲風土記」にも余戸の説明があります。それには、
「神亀四年[727]の編戸による、天平の里」ということが書いてある。神亀とい
うのは奈良王朝、聖武天皇の御代の初の年号です。其の時に新に戸籍に編入せられた
もので、それを神亀の次の天平年間に「里」ということにした。それを余部というの
だとの事が書いてあります。
 そもそもどういう意味かというと、日本の公民の戸籍の初めは大化の時に調べまし
て、その戸籍の基本となるべきものは、天智天皇御代の庚午の歳の調査のもの、これ
を庚午年籍(かうごねんじゃく)と云ひます。久しい間我が戸籍の標本になってその
時分に村落をなし、一定の土地に住居して居た者が、我が公民の標準になったのであ
ります。よってこの戸籍にのって居るものが公民権を得たもので、即ち我が国の臣民
となり、それ以外の者らが、みな非人という訳です)
という説明が、もっともらしくされています。
 しかし御所奴隷、寺奴隷、公家奴隷と農耕する者は捕虜に限られていて、明治にな
る迄は土地はオカミつまり徳川氏のもので、大名は転封させられるが、領民は奴隷ゆ
え生殺の権を握りえた。
(出雲風土記)にみる余戸は、天智天皇の時の庚午戸籍に入って居らぬもので、其の
後新たに昂然と認められて居なかった村落を新しく拵えたという意味である、ときき、
さらに誤って、
(「里」は「さと」で、後に村という程のものに当たりませう。その村落も、新たに
土地を開墾し、農業を行つた農村ならば、普通の郷となつて、班田も貰つたでありま
せうが、雑戸であつて見れば班田の恩恵にも預らない。永く余部として特別の名に呼
ばれた事とみえます。余戸は諸国にあるのみではありません。昔の京の大学寮の古図
を見ますと、その敷地の西北隅に一区劃をなして、「余戸」と書いてあります。思う
にこれは掃除その他雑役に従事するものを置いた所で、やはり雑戸の一つでありませ
う。これは大学寮ばかりでなく、大きな役所には、どこにもあつたことでありませう。
大きな役所であれば、是非さういう専任の者が必要であります。ゆえに京都三条の南
の鴨川の東の天部部落にしても、この平安京時代の京内の余戸の残りで班田にもいら
ず、役所が潰れて扶持離れしてから、世人の嫌がる職業をでもして、生きて行かねば
なりませんから、ついに掃除によって汚物の扱いに慣れて居た所から皮細工人にもな
り、越多と言われる事になつたと思われます。
 ですから、この部落は、まず暫くおきまして、出雲の余戸を里となした天平年間に
は、雑戸を解放して平民に同じうすとの詔のあつた頃でありますから、班田に入らな
い余戸だからとて、賎民ではなかつたのであります。
 新たに編戸させられた村落の中には、狩人の部落とか、漁師の部落とか、或は従来
山家の様な生活をして居つた浮浪民の土着したものとか云うのもありませう。やはり
京の余戸と同じく、人の嫌う職業に従事するとか、或はどこにも材料の得やすい竹細
工に従事するというような事もありまして、さういうものはどうしても世間から賎し
まれる事に元来、なつたでありませう。村が新たに起こるのはどういう場合かと申す
と、前に一つの農村があって、段々と其の村に人民が数多くなる。従来の土地を耕作
したのみでは生活がし切れないとなる、又さうでなくて、これまで浮浪の生活をして
居つた者が、土地にいつき新たに農村を起こすか。雑工業を営む村落を起すとかいう
場合もありませう。
 また、かれら浮浪民が、一つの村を造るだけの力がなく、既にある農村に寄生して、
その村はづれに住まして貰うて、村人の用をたすという場合もありませう。そういう
ものゆえ、どうしても世間から賎しまれる。そこで昔の社会状態を考へるには、まづ
もって浮浪民の存在をよく考へなければなりませぬ)
というのが喜田貞吉の学説です。
 とはいうが、新しく田をつくったからといって新田とはいわぬ。「庶民日本史辞典」
[八切止夫著 日本シェル出版]の「楠木合戦注文」の項のごとく、南朝新田義貞の
子孫を居付き部落にしたのが「新田」の称の名残りである。

 さて、「民族と歴史の特殊部落の研究」の38Pには、サンカを山家と書いている
けれども解明が違う。
(今日でも山家などとよばれる浮浪民は所々におります。当局者や世の特志家慈善家
が、特殊部落のことに多く注意をされて居るのは無論必要ではありますが、特殊部落
以外に於て、まだ部落をなすに至らぬ浮浪民の随分あることも注意せねばなりませぬ。
彼等の中には罪を犯して逃亡してものや、或は貧乏してやむを得ずその仲間に入つた
ものもありますが、中には土着できず農工等の業に従事する機会を得ず、祖先以来の
浮浪生活を続けて居たのも多かつたでありませう。
 今日の浮浪民たる所の山家などという類の者の中にも、この浮浪系統の者で、昔か
ら帝国臣民の戸籍に入らず、代々浮浪生活を継続して居るのもすくなからずと思いま
す。山家という名は、もと山林にでも居たからの名でありませうか。或は散家の意味
かとも云いますが、それは確ではありません。地方によつては越多を「山の者」とい
う所があります。後に申す山人と合せ考うべきものかも知れませぬが、近ごろでは普
通に新聞などに「山窩」と書いて居ります。穴住居をするという事かも知れません。
今も鎌倉あたりの墓穴(横穴)に住んで居るものもあります。近ごろ石器時代の遺蹟
として有名な、越中氷見郡海岸の洞窟には、毎年山家が来て住むそうです)
となっています。
 しかし江戸末期になつても百姓は穴居生活でディとよぶ地面の昇り口にムシロをし
き来客をもてなす時だけ、穴から這いだしてきていたのは菊池山哉の考証でも写真入
りで明らかである。
(奈良朝の頃、神護景雲三年[769]に、浮浪の百姓二千五百余人を陸奥國伊治城
に置くとか、平安朝の初め延暦二十一年[802]に、駿河・甲斐以東諸国の浪人四
千余人を陸奥國胆沢城に配置すなどということが古書に見えて居ます)
とも記紀からの引用がでて居りまするけれども、これまた解明が違っている。
 何故かというと、これは百姓という方が「八つ」を捕らえてきて、ゲットーにいれ
て強制労働させたものだし、浪人は「四つ」の部族で、戦わせる奴隷として使つたの
でサンカとはまったく関係はない。
 サンカは弁髪軍進駐時に女が犯される前に共に逃亡し放浪の純日本人で、捕虜には
されていぬ。
 また乞食を、乞食記を意識してか、恰好よくするために書いているが、僧はトウ
[唐?]系でなくては髪を剃って官僧にはなれぬ。乞食坊主と俗にいわれるのは剃れ
ないから、法印の大五郎や法界坊みたいにイガグリ頭で、チョボクレなどを門づけに
食を乞うたので、本物の僧の托鉢とは違う。
(乞食坊主というのも随分沢山出来ました。しかし本来から云えば、乞食との語は必
ずしも卑しい言葉ではありません。万葉集の歌にあるように、乞食、食物以外の物を
以て食物と交換する者はみな乞食であります。前にもうした万葉集の歌に、乞食の歌
というのが二つありますが、それは漁師と狩人との歌です。狩人や漁師は獣をとり、
魚を捕りますけれども、その獲物のみでは生きていかれず、必ず、これでやはり農民
の米を貰はねばならぬ。それで彼らを乞食と云つたものとみえます)
となると、こうした解明そのものが、こじつけ以外の何物でもなくなる。
(普通に乞食というものは、多くは祝いごとをする。その祝言も、ただ口で目出たい
事を述べるだけでは不十分でありますから、節を付けて面白く歌うとか、それを楽器
に合はすとか、手振り身振りを加えて、踊をするとか人形をまはすとか、猿を使うと
か、いろいろ工夫をして、はては人の耳目を楽しませるという方が主となつて参りま
す。かくて遊芸人は、多くこの仲間から出て、万歳とか、春駒とか、越後獅子とか、
人形舞わしとか、猿舞わしだとか、祭文・ほめら・大神楽・うかれ節などを始めとし
て田楽・猿楽等の類まで、もとはみなこの仲間でありました)
と決めつけてしまっているから、まるでサンカの先祖みたいに、読んでいて間違える
が全然誤りなのである。
「三河万歳は松永太夫」「尾張万歳はアジマ[味鋺]の楠木太夫」と共に「八つ」の
方の限定職業であり、祝いごとをのべるのは心ならずも米を貰うためゆえ万歳の節廻
しはイヤイヤみたいなリズムである。
「七変化部落」として「野史辞典」に詳しくでているが、鋳掛け直しでも仁輪加[に
わか?]でも農耕の田畑のない部落中が揃つて出掛ける。家康がいた酒井浄賢の家も
浜松の七変化部落でサンカとは違う。「栗原筋」というのが、進駐軍の専属劇団みた
いな部族となっていたから、現代の芸能人でも、この姓をもつ人が多いのは、タレン
トとしての血の流れの伝統が続いているせいだろう。
 おかみからみれば浮浪者かも知れぬがサンカは「サンカ生活体験記」[八切止夫著
 日本シェル出版]のごとくまるで違う。
(この浮浪民のことを昔は「うかれびと」と云つてます。一定の居所をきめずに、水
草をおうて常に転居して居る者が浮かれ人であります。又その浮かれ人の女の事をう
かれめと云ひました。後に「遊女の事をうかれめ」と云ひますが、もともと此の浮か
れ女というのは、浮浪民の職業から起こつたのでありまして、奈良朝頃の歌集の万葉
集などを見ますと、遊女の事を「遊行女婦」と書いて、それを「うかれめ」と読まし
て居ります。耕作をせぬ女が生活して行くのには、自然と媚を売る事になるのは、や
むをえなかつた事でありませう。即ち浮かれ人や浮かれ女は、一定の居所を定めずし
て、次へ次へと浮かれ歩いて行く人々であつたのであります。この浮かれ人は普通ど
ういうことをやつて居たかというと女子ならば遊女にもなりませうが、男子では狩や
漁もしませうし、簡単な工業もやつたでありませうが、又人の軒に立つて、祝言をの
べて人から食物を貰つて行くというのが頗る多い。即ち一種の遊芸人です)
と騎馬系の遊牧民族と誤っている。
 浮かれといっても牧草地を廻っただけで、さっぱり何も判っていないからでしょう
か。
 しかしである。サンカは掟で一夫一婦で子作りに励み、決して他の男女と営みをし
て、その純血を乱すような事はないから、女が春をひさぐといった事例は古来から全
然なく、箕直しという職業をもっていたから門付けなどしていないのである。恐らく
大江匡房の前述の「くぐつ記」からの読み誤りであるらしいが、水草とか牧草を追っ
て次々と移るだけで、うかれではない。
「夷(生)駒」と名をのこす土地のごとくに、つまりやがては源氏と変わってゆく
「四つ」の民で、遊牧民族は牧草を求め狩をするため野獣を追って旅をするので女は
邪魔になるので残してゆき、やむなく今も蒙古は多夫一妻だが、彼女らは客をとった
から「源氏名」として今でもトルコ[ソープランド]などで使う。
 彼は部落研究家としては勉強せず、足利時代に明国経由で被差別制度が入ってきた
時には、「散所奉行」とよぶのを東西に設けて、まず前体制の北条政子の末裔を刈り
込み、ついで足利創業の邪魔だてをした南朝方の子孫を捕らえて、散所(山所)の居
付き部落とした詳細は、これは「特殊部落発生史」(八切止夫著)に詳しいが、どう
もそうした事さえも知らぬらしいゆえ、間違えられては困るから、「特殊部落の成立
沿革を略叙して、その解放に及ぶ」の彼の42Pを引用してみる。
(河原者と同じ仲間に産所というのがあります。散所・算所などとも書いてあります。
摂津の西の宮は人形遣いの起つた有名な場所でありますが、ここは附近の産所という
部落賎民が西の宮の夷様の像を舞わして諸国を遍歴し、米銭を貰つて生計としたのが
もとだと存じます。後には立派な操人形の座元が出来まして、諸国を興行して廻ると
いう事になりました。それが淡路に移ったと見えまして、後世では本家の西の宮の方
はすたれて、淡路あやつりの方が有名になつて居りますが、やはり西の宮を元祖とし、
西の宮の夷神社にあたる、百太夫を祖神と仰いで居ります)
となっているが逆である。
 瀬戸内海から阿波の鳴戸へ抜けてゆく黒潮によって突きあたる土地は古代アラブの
水の意味のアマ、アワを上につける。淡路島につき当たって阿波に流れてゆくから、
そこから神戸や西の宮のゲットーへ連行された古代海人族が奉じていったもの。阿波
浄瑠璃のトトントンの拍子をとって見得をきるのが、フラメンコと同じ訳もこれなの
である。
 それゆえ、ここの所は次に書き直すようにして、喜田文学博士も訂正しているのも
ある。
(西の宮から起こつたというよりも、淡路に於ける同類の産所のものが、それを真似
たというのでありませう。淡路ではその村を三条と云つてますが、そこも、もとはや
はり産所でありました。産所・算所などという地名は方々にありまして、その住民は
多くは一種の賎民扱いにされて居り、現に丹後では今も算所という特殊部落がありま
す。しかし他の産所では住民が他に移つて今は絶えて無くなつたのが多い様でありま
す。産所がなぜさう賎しまれたものかというと、大体産所というは、その文字の通り
婦人がお産をする所であつたと思ひます。
 一説これは算所で、算を置く陰陽師の部落であらうとの説もありますが、私はそれ
を信じません。今日でも我が日本の風習としてお産の汚れを忌むということは、なほ
一般に行はれて居るところで、産婦は神様の前に近づけないとか、火を別にするとか、
居を別にするとか、居を別にしない迄も座敷の畳を揚げて、板敷に藁を敷いた上で子
を産ませるの風習は、まだ田舎へ参りますと各地に残つて居ります)
 漢字はすべて当て字で発音さえ同じならば意味はみな同じという西暦663年の郭
ムソウ藤原鎌足の使用命令を忘れ、当て字で意味づけしてゆくとこういう間違いをま
じめにするのである。
(越中のトウナイという部落民は、産婆代りに取上げを行うそうで、「周遊奇談」に
は、出雲美保関では産婦がそこから二十町ばかり離れたハチヤの部落へ行つて、そこ
でお産をする例であつて、さうすれば決して難産ということがないとあります。
 ハチヤとはまた一種の特殊民で、やはり竹細工をしたり、万歳などの遊芸をする仲
間であります。特殊民がお産の世話をするのが、お産の世話をするが故に特殊民にな
つたのか、その本末は明らかではありませんが、他にもこんな例を聞いた事がありま
して、お産を自宅でするようになつても、やはりその汚れ物はエナも片づけて呉れる。
要するに、お産と特殊民との間には、十分な因縁のあつた事が認められます。しから
ば、産所という賎民は、産小屋に住みついた浮浪民でなくして、もと産所に居つてお
産の世話をしたものと解した方がやからうかと存じます。無論その中には、産所とい
う地名が出来て、それが汚れたエナなどを捨てられている所へ、新に特殊民が住み着
いたというものもありませうが、一般の見解としては産所の者というのが当たつてる
のでありませう)とまず間違いの説明をされ、ついで、
(サンジョという名称は随分古くからありまして、既に平安朝の頃、京都の西の桂河
辺に散所があって、他の土地へ来て勝手に住んで困るという苦情を書いたものがあり
ますが、今もその地方の梅津や鶏冠井(かいで)に産所という所があって、そこの人
はもと、やはり賎まれて居りました。産所即ち山陰地方でいうハチヤ或はハチと同類
で、越中でトウナイというのもつまりは「十無い」で、「八(はち)」ということを
避けた隠し言葉でありませう。京都の東寺にも昔散所法師というのがありまして、寺
の境内の掃除を拠当し、汚物取り片付けなどをする賎しい身分のものでありました。
これは産所の者を連れて来て、寺の掃除人足に使つたか、或は同じく賎役に従事する
ものだから散所と云ったか、いづれにしても、産所は賎しいもので、それが掃除人足
であったということは、河原者等と同じ程度のものであつたと察せられます。産所の
者が世の風俗の変化と共に、お産の世話をするという独占の職業を失うようになり、
一方では人口が増殖して参りましたならば、掃除人足にもなつたり、遊芸人(あやつ
り)にもなつたりして、世渡りをするのは自然です。
 かくて遂には西の宮の産所のように祝言即ちホニカを述べるホカヒビトになり、次
に夷舞わしから遂に操人形の座ともなるに至つた)
とあるが、トウナイは「唐でない」が正しく、契丹系の者に使われ海洋渡来の「八」
ではない。
「八ゆえ十ないの隠し言葉」というのはひどい。芝居の「和藤内」みたいに、トウナ
イとは垣内と同じ意味で、ゲットー収容の非人間つまり除外された者をさす言葉であ
り、ハチヤは八の民である。
(特殊民の一部族に夙(しゅく)の者というのがあります。ハチヤとか、ちやせんとか、
産所という類で「シュク」守戸で、昔の番人だという説があります。反対説もありま
すが、やはり守戸の説を取りたいと思います。守戸は同じく陵墓の番人でも、賎民で
あつた陵戸(りょうこ)とは違つて、いづれ罪人とかその他の社会の落伍者をあてた
のでありませうが、守戸はそうではありませぬ。
 陵戸は賎民として疎外されますから、逃亡したりなどしてだんだんと減ってくる。
これに反して陵墓の数は次第に増して、墓守の需要は益々多くなつて来る。そこで持
統天皇の時に、陵墓の附近の良民を徴発して、三年交替にして陵戸の代理をさせた。
無論その間課役を免ぜられるのであります。大宝令の頃には、それが十年交替となり
ました。これ即ち守戸であります。其の守戸の十年交替が、ついに永久的のものとな
つたと存じます。課役を免ぜられ、生活の安定が保障されて居りますと、その職務は
よし賎くとも、乞食を三日すれば忘れられぬという諺の通りで、三年が十年になり、
遂に永久的のものになるのは自然の勢でありませう)
と喜田貞吉説は、その著で間違える。
 が、守戸は初めから被征服のシュクの「四つ」の騎馬民族で、初めは生ける埋葬品
とされたが、後には埴輪で代用の陵戸も守戸も同じだが、後者は奈良朝の頃は飼戸つ
まり馬飼い奴隷にされていて、その馬で稼ぎ主人に銭を奉らねばならぬゆえ、旅人の
集まりそうな処に集まった。
「宿場」とかいて、シュクバと読ませるのも、シュクの者が駄賃馬を曳いてきて集ま
ってきたから名称はうまれたのである。つまり「四つ」は江戸の弾左衛門支配と同じ
源氏ゆえ馬子は白褌である。
(悲田院の仲間と同じく、市中や村落の警固、盗賊追補などの事をもやりました。兵
庫の夙の如きは、それでもつて、毎年町から五貫文、湯屋・風呂屋・傾城屋から各二
百文宛、金持の祝儀・不祝儀の際にも各二百文宛を、権利として徴収することを認め
られ、又盗賊を捕えた時には、その身に付いた衣服をも貰う権利を興へられて居まし
た。
 これは慶長十七年[1612]の片桐且元のお墨附がありまして、徳川時代になっ
ても。確かにそれが元禄頃まで実行されて居た証拠の書類があります。この点に於て
は町木戸の番太なども同じものであったのであります)
との説明に続き、また、
(夙が守戸だとの説の反対者は、例の本居内遠翁の「賎者考」で、今もこの説を採っ
て居る学者もあります。内遠翁は紀州の夙部落の実際を調査して。夙の名のあるもの
十の中で、一つは皮多、二つは附近に陵墓があるが、他の七つは全く陵墓は関係がな
い。さらばそれが守戸だという説は認め難い。思うに夙はもと「宿」とも書き、産所
と同じく産婦がそこへ行き止宿した所で、その宿の場所が汚れたとし捨てられた所へ、
浮浪民等が住み付いたのではなかろうかと云っております)
 ‥‥よく何々によればと勿体をつける為に引用され、援用するけれど「賎者考」に
しても、とんでもない勘違いというか誤っているのであるからして、決して頭ごなし
に信用してはならぬ。
 大阪でも五ヶとよばれる「四ツ」のシュクの部落者が、御用ッ御用ッと棄て殺しの
捕方にされる課役報酬に、人頭税として興行のあがりを取ったり、今いう風俗営業の
課徴金もかけていた。
 「八つ」は居付部落に入れられ働かされていたが、絶対に「四つ」は農耕も漁業も
しなかったから血税で奉公させられたのである。「頼朝御判42種」に坪立という植
木職が入っているというに、
(産所や夙以外に、河原者も賎民の一つになつて居ります。河原者とは前に申した通
り、京都鴨川の河原に小屋掛けをして居た浮浪民や、或は河原で皮革を晒らした皮作
りなどから起つた名称でありませうが、室町時代には掃除人足や植木屋・庭造りなど
に河原者を雇った記事などがあるのを見ますれば、今日で云わば手伝とか、立ちん坊
とか、日雇いとか云う類で、もとは夙や散所とも似たものであつたでありませう。そ
のうちから例によって遊芸人も出ます。遊女なども出て来ます。その中に皮革関係者
は越多となり、河原者の名は後世専ら役者への称になりました。この沿革も詳しく申
さば余程こみ入つたものですが今は問題のあまりに枝葉にわたるを避けます)
 「四つ」も「八つ」も判らずごったにしているけれど、皮革業や遊女だけには「八
つ」はなっていない。
(阿部貞任・清原武則・藤原清衡のやうな英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇
士・歌人なども、家柄を尋ねたなら即ち皆蝦夷の一族でありました。此以外にも蝦夷
出身の鎌倉武士は多かつたことでありませう。こういう連中が源頼朝の御家人になり
その主君と仰ぐ頼朝の立身と共に出世して、もと制度上からは賎民の筈の家人や、賎
しい給仕階級の侍が運がよいと大名にもなる。そうでなくても御家人・侍は四民の上
に立つて、「おほみたから」たる農民を卑賎のもののやうに見下してしまうようにな
りました。しかしもともと武士には蝦夷即ちエビス出身が多かつたから、徒然草など
を始として、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「夷(えびす)」と云つ
て居ります。また鎌倉武士の事を「大えびす」と云つてます)
と、前置きをしてから喜田貞吉文学博士は、
(大和大峰山中、一番奥にある前鬼村の人々は、鬼の子孫と云われてまして、紀伊粉
河の北の中津川にも、その子孫と称する者が五家に分れて居るさうであります。又京
都の東北の八瀬の者が、みづから鬼の子孫だと認めて居つたのは有名な話で、彼等は
他村の者と縁組もしなかったとも言われ、先祖の鬼が居たという鬼の洞が今もある。
同じ京都の北の貴布禰神社の旧祠宮舌氏も、鬼の子孫だと言われて居た。大和の宇智
郡地方には、鬼筋という家柄もあるさうです。この外にも鬼の子孫だという旧家は所
々にあつたが、要するに彼らは、先住民の子孫だということを認めて居つたものであ
りませう。山人が山間に残つた様に、海浜にも海人(あま)が残る。もつとも平地続
きの海浜には、豊後のシヤアとか、日向のドンキユウとか、一種異つたものとして認
められて居るのも少なくありません。又特殊部落とまで区別しなくても、他から結婚
するのを嫌がるところは各地にありました。出雲の北海岸地方に居る者は、近傍の人
が之を夜叉と云ひます。夜叉とは鬼の事で、つまり山人を鬼というのと同じことで、
鬼が島のお噺も、もとはこれと同じ発想です)
 しかし鬼といっても、飢えて施餓鬼をうけたり、節分の投げられた豆を拾い食いの
鬼は日本原住民「野史辞典」の「桃太郎」の条にも詳しくでているし、「忍術論考」
にも隠忍とされて居付き部落より脱出すると殺される者として、忍びに忍び堪えたの
は、判りやすくよく説明されている。



 「古 代 史 入 門 」を転載する。
 1049 古代史入門  1
 「日本古代史入門」八切止夫著 1983年6月29日発行 日本シェル出版 刊

 タイトルとは異なり、対象となる時代が次々とんでます。「江戸」、「戦国」、「幕末」、「近代」などと‥‥

 ※原文は改行が極端に少ないので、適当に読みやすく改行を施しました。VZエディターのラインバッファの問題もありますし。

                        1996年4月7日 登録 影丸(PQA43495)
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////

              古 代 史 入 門

 まえがき(八切史観の正しきことの立証に、わが命にて証しとせん) 八切止夫拝

 今は亡き荒正人先生が、「八切史観は庶民の恨み節だ」とおっしゃった事がある。そう言われればアンラッキーの一語に尽きるみたいに、私は組織機構の末端から迫害され続け、闘争の一生みたいだった。何故にかくも苛められるのかと庶民の立場で、己れ自身に問いかけ続けたのが、これまで誰も試みようともしなかった茨の道への突入というか没頭だったと言うべきだろう。

 「不可思議な国ジャポネ」[日本シェル出版]のカバーにケント歴史学博士[同書の著者]の若かりし頃の写真を使い、「タル・ティング(おも恥ずかしい)」と文句をつけられたが、15世紀から16世紀にかけて日本へ来ていたイエズス派資料を教わり、日本での伝承通俗史と余りに相違しすぎるのに愕いたのが、私の開眼のスタート。つまり、戦国時代から「裏返え史」として解明に入ってしまったのが始まりだった。「同士討ちをせぬよう、馬印とよぶ標識を、遠くからでも判別できるように色分けしていた」というレポートで、江戸期になっても大名行列の先頭に立っていた馬印にひかれた。日本での裏付け資料は史籍雑纂の家伝史料の「黒田文書」に、「馬印が金色に候はば別所同意と存じ候」の一行だけだったが、それを手掛かりに武鑑を調べてゆくと、単一民族ではなく中世期の宗教合戦の時代には、祇とよばれる太平洋沿岸より黒潮で渡来した北条政子系の古平氏の者らは、「赤色」。日本海より裏日本に入って来た騎馬民族系の蘇我となり、源氏となったのは「白色」と色分け。 延暦の年号になっての原住民大団結反撃進攻の際に、東北には山金が転がっていたのを叩き延ばし、反射するからと共に同一目印にしたのが始まりで、反仏派は金色を用いたとも判った。

 つまり、彼らが捕虜にされ別所・散所の限定地に収容された奴隷の子孫が、下克上の世となって立身して武将になれた者は、[例えば]秀吉でも金色千成瓢箪である。「八切姓の法則」「日本人の血脈」[共に八切氏の著書、日本シェル出版]は、民族カラーの色分けと、独特の、苗字第一字発音の識別重視の選種別を鑑別する方式から、漢字はすべて当字ゆえとローマ字化してみて発見した。

 さて、八切史学、八切史観とよばれる私の考究は20年がかりで本書で終るが、新たに全巻を直接に送金してもらえる後学には、私が集めた文献類をもう入手不能の本ゆえ無料で専門別に戦国、外国と分け参考に供したい。というのは、読者名簿を整理処分したら、年賀状をダンボールに十五、六個も貰っていたが、照合すると九割までが図書館での方である。八切史観というのは初めから形が私の頭の中にあったのではなく、禁酒して20年前から次々と考究して展開してきたので、その中の一冊や二冊を読んで感心してもらっては困る。18年かけた「野史辞典」を軸にし、続篇の「庶民日本史辞典」の二冊と、「天の日本古代史研究」と本書の四冊を最低資料に揃え、後学は解明を続けてほしいのである。自滅する時には殺さねばと案じていた20年11ヶ月のタヌコ[八切氏の愛猫]が本書の脱稿時に老衰で自死してくれた。一日18時間は座っているので、生涯一度も抱いてやらなかった猫だが、唯一私のファミリーだった。後顧の憂いをなくしてくれた猫に本書を捧げたく、寂しさに涙して前書きとす。

 [目次]

No.1 純正日本史案内

第一部
 禁止眼的な教科書騒ぎ
 何故に歴史を知りたがるか
 受難の日本書紀
 復活日本書紀の捨て石
 後西さま著 日本書紀
 記紀離れせねば判らない
 八切史観の古代史
 耶馬台国群は中国の出先機関

第二部
 歴史まがいに注意
 既成古代史の真相
 これまでの部落史
 古代史は穢多非人の創世記
 紺屋高尾浪花節考
 エタは四でも八でもなくエの民
 各地別の良賎制度
 「神皇紀」否定 甲斐宮下文書
 山霊嵩敬の古俗
 吉田松陰 将門記

No.2

古松軒「人馬の市」
義理と人情とは
庶民は占領下の混血児の子孫奴隷
信長は部落解放者
古代史解明の必要
日本古代史入門参考書

No.3

出雲王朝高天原
聖徳太子と出雲の聖徳王
高天原は無数にある
古事記は江戸期の改作
古事記は初めは原住民史
後記

 No.1 純正日本史案内

 「三つ子の魂、百まで」というが、学校で教わった歴史は、ジンムスイゼイと、暗記ものだったゆえ、私でさえ未だに頭の中に引っ掛かっている。どうしても先入観は強いものである。そこへもってきて、前人未踏の八切史観では戸惑われるかも知れぬと案じ、順を追って判りやすく解明してゆくため、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。前書きをしてはやや重複をするが、いきなりぶつけるよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくには、タブー視されている部落史とは切っても切れぬ問題がある。

 なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の
日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。

 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。しかし、この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。

 しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々だろう。「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは『唐無い』で、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。

 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。

 つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。

 さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げ込み、木地師となって「山がつ」になりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放逐した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、その姓を本物と思われてしまい誤られている。日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治十八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。

 部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系でない者を追い込んだ。足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。まだ曖昧模糊の喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊行の高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判り得るといえる。「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という人情の機微を巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でもわけが判らなくなる。仕方がないというか、まぁ当たり前みたいになっている。

 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイ[内?]は十世紀流入の契丹系をさす。 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。

 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ、区別されていたというが、契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。「その筋のお達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。

 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌で有名な?]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。 だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。

 さて、大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にし、四倍に値上げ刊行し、第六版から十二版まで世に送り出したのは、金集めのための作為なのかとも感じられる。なにしろ、喜田貞吉博士は、その大正八年には南北朝両統問題でリース直系の三上三次らに睨まれ国定教科書編集官を追われ、やむなく自費で「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金ぐりで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にしてもらった裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向が
あるみたいゆえでである。

 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。

 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。

 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。

 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」 明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助けに対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。

 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。

 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。

 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。

 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。

 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、[尾張徳川家の?]家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。

 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。

 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。

 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。

 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。

 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。

 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。

 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。

 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。





(私論.私見)


1181 織田信長殺人事件 13(最終)
森乱丸は大男

「やっと夜も明けてまいりました。昨日の大雨の後ゆえ、少し白むのが遅うござりま
した」
 あれから起きた侭だった乱丸が声をかけると、横にはなっていたが、眠っていなか
ったとみえ、
「よしっ」
と信長は起き上がった。そして、
「教会へ集まった者どもにしては、ちとうるさすぎるの」
自分で顔を出して怒鳴りつけるつもりなのか、そそくさと衣桁(えこう)にかけてあ
った絽羽織に手をやろうとした。そこで、
「はあっ」と坊丸がとんでいって羽織をおろすと、信長の肩にかけ前へ廻って紐をゆ
わえた。
 控えの間から濡れ縁に出ると、そこは廊下続きゆえ、もう桃色になってきた六月の
空が仰げた。が、白っぽい陽光があたりを包んできたとはいえ、手を伸ばすとまだ指
の先はぼやけて視える程度だった。しかし、それでも信長は大股でせかせか歩いてい
った。
 なにしろ本能寺の周辺でも、ここと同じくらいに明るくなってきたせいであろう。
まるで餌を拾いに集まってきた雀のように、人声がうるさく、前にも増して響いてい
た。
「けしからぬ輩め」
信長は振り替えると、背後から打ち太刀(かたな)を両手に捧げて持ってきた力丸に、
「よこせっ」と不機嫌に怒鳴った。
「はあっ」と腰を屈めて差し出す太刀を、
「この騒ぎはなんである‥‥頭(かしら)分の者の素っ首これではねてやらす」
柄頭に黄金の曲り枠のはまったところを引っ張った。鞘の金蒔絵の螺鈿細工が、いつ
もならピカッと反射するのだが、まだ陽が差し込んでいないせいなのか、鈍く鉛色に
くすんでみえた。
「これっ、虎松に愛平」
向こう廊下に座って迎える二人の顔がやっと見えてくると、
「村井道勝の許へ使いしてか」
信長はキンキンした声で呼びかけた。
「‥‥もうしわけございませぬ」
年長の高橋虎松の方が両手を前へ放り出すようにして、その場に額をこすりつけた。
「今まで何をしておったか」不機嫌そうに信長は眉をつりあげた。
「はぁ、不浄口もしっかり閉ざされてしまい、なんとしても戸が開けられませぬ。よ
って厩より駒を引き出し、築土を一気に駆け登って外へ出ようとしましたところ‥‥」
と、そこで無念そうにしゃくりあげた。
「よって、何と致したぞ」
足を止めた信長にせかされると、堪りかねて嗚咽(おえつ)しだした虎松に代わって
小川愛平が、
「厩仲間に手伝わせ駒の尻に鞭をくれさせ、一気呵成に築土の山は越えましたなれど
も」
と、そこで言葉に詰まったように黙ってしまった。
 だから信長に代わって乱丸が、
「築土の山をとびこえたはよいが、外の濠へでもはまってしもうたと申すのか?」と
聞き、
「これさ‥‥はっきり申し上げい」
短気な坊丸が二人の背後に廻って、どやしつけるように耳許へ口をつけた。しかし、
「濠はとうに古板や床板をかぶせられていて、水中には落ちませなんだ」と愛平が云
えば、虎松が拳で涙を拭い上げつつ、
「飛び降りた我らの馬は押さえられてしまい、馬は貰っておくが、人間はいらん。そ
ないに云いおって我ら両名は手を取り足を取られて、また築土の上へ放り上げられ、
この境内へ戻され、突き返されてしまったのでござります」
口惜しそうに涙声で説明した。
「‥‥うむ」ただ怪訝そうに信長は顔をしかめた。
「それで、きまりが悪うて、この乱丸の許へもその旨を言いにこなんだのか」
と二人を叱るように云ってから、
「‥‥して寺外の様子は、如何でありしよな」
続けておおいかぶせるよに尋ねた。
「はあ、今と違ってもそっと暗かった時分ゆえ、はっきりとは何もよく見えませなん
だが、なにしろ兵共がぎっしりと詰まっていたやに覚えまする。はい」
と愛兵が、おそるおそる口にした。
「歩幅にして何人ぐらいぞ」
 乱丸は足を左右一杯に開いた歩幅に、およそ何人ぐらいかと聞き返したのである。
「はい、三人から四人。深さは七列」これは即座に高橋虎松が答えた。
「えっ?」乱丸もこれには顔色を変えた。いくら大股にひろげても一人の歩幅はおよ
そ決まっている。そこに三人も四人もいるということは、本能寺の濠の一辺を一町と
なし、それを六十間とみれば一列でも濠わきに四百人近く、これが重なり合って七列
となれば‥‥
一辺が二千八百人、これを三千人とみて四方だから乗すれば一万二千人。これの他に
本陣とか使番といった別の命令系統を全体に対する五分か六分として加えれば、取り
巻いているおよその兵力は割り出せる。そこですぐさま、
「およその周囲の兵力は、一万三千」と乱丸が答えを出せば、すぐ脇から、
「手前の目算では一万と二千六百」虎松が言った。
 信長の小姓組というのは、徹底的に暗算で掛け算引き算をしこまれていた形跡があ
る。もともと初めは、通信機の発達していなかった時代なのでと、何か事が起きてか
ら、「ああせい、こうせい」と使いを出して指図をしても間に合わぬ事が多い。
 また、その時は辛うじて切り抜けられても、次の段階で又何かが起れば、「如何し
ましょうや?」と問い合わせをよこす。すれば、かくかくせいと次の使者を出さねば
ならぬ。
(この煩わしい反復を避ける為に、自分と同じ様な判断を臨機応変に、その場、その
場で下せる者。つまり己の代行をする者を育て上げよう)
と信長の意図したのが、この小姓団である。
 つまり、人間それぞれ個性は違うが、
(幼い時から手許へ置いて、いつも合戦に伴っていって、本陣へおいて見習わせてお
けば、こういう時は上様はかくなされた、ああした時は上様はああなされた、と記憶
にすがっても処置してゆけよう)と考え、幼年学校から士官学校といった具合に順々
と教育してきたものらしい。
 というのは信長の若い頃、妻の奇蝶の里の父斎藤道三というのが日蓮宗妙覚寺で、
やはり「丸」のつく名で入門し、のちに「法蓮坊」と名乗ったこともあるから、それ
への気兼ねで、信長は己の子にも、長子は「奇妙丸」、次男は「茶筅丸」といったよ
うに、皆「丸」のつく名乗りをさせていたが、その子等を軍陣に連れ出し、仕込んで
みたところ、そこは親の子という血脈もあろうが、結構よく代行に間に合うから、つ
いで家臣の遺児や、これはというのは側近に置いて仕込んだのである。
「高級参謀団」のような編制をとっていたもので、参謀教育といっても、突いたり斬
ったりする体育よりも算数の計算の割り出しが主だったらしい。
 なにしろ当時は計算機はなく、勘定をするのに、まず両手の指を折って使い、それ
だけで足らないときは足の指まで加えて算えたものであるが、信長は関孝和などが生
れ、日本の数学が誕生するよりも二世紀も早く、この小姓団に掛け算割り算の暗算教
育までしていたらしい証拠がある。
 奈良の興福寺の塔頭多聞院の和尚英俊は、
「奈良一国の土地割出し検出係に、織田信長からその小姓の矢部善七郎がまわされて
きた。これまでの隠し田などが一切合財、彼の計算にかかっては浮かび出てしまうが、
仏の収入が、こういう具合に搾り取られ減らされてしまうとは、世も末と覚える。し
かし、手をこまねいて傍観しているわけにもゆかないから、銭十疋(百文)をもって
いって、よろしくと勘定のために気持ちを殺して挨拶をしてきた」
と恨めしそうに言った事が、その日記に書き残されている。
 つまり信長の小姓団というのは、「軍目付」と呼ばれる大本営参謀の任務もしてい
たが、また一方では、その皮算用能力を生かして、今日でいえば徴税Gメンのような
任務も課せられていた、これはその裏書きでもあろう。

「一万二千から三千の軍勢が、この本能寺を取巻くとはなんであろうか」
乱丸はじめ小姓の面々も、これには顔色をかえたが、当の信長はもっと焦燥しきって、
「不逞な奴ばらである。何故に勝手気侭に、この本能寺の表門はいうに及ばず、各築
土の木戸口を塞ぎおるのか、至急に調べてこませ」と難しい顔をした。
 もう、朝の陽は芙蓉の花が開いたように明るく、本能寺裏手のさいかちの森に集ま
ってきた野雀は、昨日までの大雨で飢え切っているらしく、揃って、
「チュンチュン」さえずりながら樹の枝から枝へととび、本能寺の便殿と客殿に囲ま
れた植込みにまで、恐れげもなく舞い降りてきては、チイチイと餌をひろって啄ばん
でいた。
 それを脇目にしながら、信長に言いつけられた森乱丸が正面の表大門口まで行って、
固めている厩衆の者や、向こう側の村井道勝邸より泊まり込みで手伝いに来ている女
共に、「開けさせい」と命じたところ、大門はおよしなされた方がよいと、耳門(く
ぐり)の方を開けられた。
 しかし耳門というのは高さ1メートルあるかなしで、身体を屈めねば潜って出入り
できるものではない。なのに、内開きの戸をこちらへ引いたところ、胴鎧の腹の下の
ところが、まるで詰め込まれるように、戸口まで押し合いへし合いしていて、
「御用の向きにて、美濃金山城主森長定様のお出ましぞ。どきませい」
と厩衆が外へ乱丸を出そうとして喚いてくれたが、返事どころか咳払い一つ戻ってこ
ない。かえって、「わっしょ、わっしょ」と開けた耳門から犬の子一匹出すまいとす
るように、押込んで邪魔だてをしているだけである。
「俺が森乱丸長定ぞ。上様御下知にて外へ出ようとするのに、何で邪魔だてを致すぞ
や‥‥組頭なり、物頭なり、一応の話のできる者を廻してよこせ」
とばかり乱丸も、この侭では引き返せぬから、大声を出して呼ばわった。
 しかし、いくら待っても返事もないので、堪りかねて、
「この森長定の命令は、恐れ多くも上様の御言葉なるぞ‥‥それでも外へ出られぬよ
う人垣を作って邪魔だてを致すのか」烈しく叱咤した。
 が、それに対しても、塀の外からは何となく、ただ響いてくるのは、
「わっしょ、わっしょ」と祭りの山車でも担いでいるよに騒がしく、
「やあ、やあ」と矢声と、それに混ぜて聞かせてくるだけだった。そこで、
「誰ぞ道具をもっておらぬか」
居堪らなくなって乱丸は振り返った。
 さて、この時代は「調度」といえば弓の事、「道具」とよべば「槍」の事である。
しかし乱丸ら小姓三十人は「身軽についてきませえ」と信長に命令されて、二十九日
に安土城を出てきた時、鎧具足はいうに及ばず馬の手綱を両手でひっぱる邪魔になる
からと、誰一人槍さえ携行していなかったのである。
 だから、村井邸より手伝いにきている武者から槍を借りて、それで耳門のところか
ら突き崩してでも、乱丸は外へ出ようとしたのである。なにしろ、
「問答無用っ」という言葉があるが、てんで相手が返事さえしないので、乱丸として
は胴鎧しか見せない相手を、突き立てて血路を開くしか脱出の手だてはなかったので
あった。 しかし、そうは思っても、と村井道勝から来ている武者共は、
「滅相もない」自分等の槍を貸しだすかわりに誰もがよってたかって、
「そんな無茶はおよしなされ」
袖をひっぱり肘をつついて諌めた。乱丸を押し返すように引っ張って戻した。しかし、
乱丸は、
「何故じゃ」
と喚き返した。なんとしてでも外へ出ないことには、言いつけられてきた主命がはた
せぬと、乱丸としては血相をかえ、押さえる手を払いのけ、
「邪魔だて致すな」と叱りつけるのだが、
「入口や木戸を外からふさいでおりますが、何も小石一つ放りこんできたわけでなし
‥‥」
とか、又は意見でもするように、
「この本能寺を取巻いておりまする軍馬や軍兵は、先刻われらが大屋根に登って検分
しましたところでは一万の余。一万五千もおりまする。なのに寺内は上様はじめあな
た様御側衆等で三十と一名。あとはお厩衆と、我ら村井より参った家人どもだけで、
手伝いの婢女を加えても合計は百とはいませぬでな」
と年嵩の頭並の男が口にした。
 すると、やはり寄り添う髭もじゃの男までが、
「向こうが何も仕掛けてこんのに、こちらから槍をふるって突きかかるは穏やかでは
ござらぬ‥‥この寺内に我らだけならば苦しゅうござらぬが、なんせ御客殿には上様
も居られること」
と手をかすどころか、あべこべに忠言してきた。
「何の事やら我々、とんと見当はつきませぬが、向こうの邸には我ら主人の村井民部
介道勝もおりまするし、洛中の武家屋敷はこれことごとく、織田信長様の家来でない
者は一人もない筈ゆえ、こちらより、何も無理して外へ出られなさらんでも、おっつ
け御味方衆が集まってきて、外の人垣を追い払って門を叩いて参りましょうほどに」
他の武者どもも、乱丸に早まった事をするなと言わんばかりに口々に喚いた。

 江戸時代でさえ京には各大名の京屋敷というのが、ずらりと百五十はあった。
秀吉の伏見城の頃でも、「伏見京大名屋敷図面」というのが残っていて百はある。
 だから、信長の頃でも京の市街には諸国大名つまり信長の家来の屋敷がやはり四十
くらいはあった。一邸百人から二百人とみても、四千人から八千人ぐらいの留守居は
いたはずである。
 なのに、この時の洛中の信長の家臣の京屋敷については、その絵図面はもとより、
存在をはっきりさせるものも何も伝わっていないのである。
 この事件後に国家権力を持った者が徹底的にそうした図面は集めて焼き払い、まる
で京には信長と小姓しかおらず、他の織田方京屋敷は、さながら皆無の如くに体裁を
作ってしまっている。

 しかし、信長は前年天正九年の「大馬揃え」とよぶ観兵式を、前後二回又は三回、
京で示威運動として開催している。こうなると、信長の家臣の大名としてはホテルも
モーテルもなかった時代だから、どうしても家来団やその乗馬の群れをつなぐ厩付の
大きな家がなくてはならぬ。つまり各自の大きな京屋敷を天正八、九年までには洛中
に普請していたはずである。
 勿論、安土にはそれぞれの留守邸のを置いていたろうが、京にも屋敷を持ち百名か
ら二百の留守武者を置いていた筈である。ところが、<細川家記>にも、
「今出川の祖国寺門前にありしは、家老米田壱岐守の邸にて、細川家の京屋敷はなく、
本能寺の変が起きるや、使番として早田道鬼を丹後の宮津城へ走らせた」
とあるように、おかしな話だが、家老は京に屋敷をもっていても、細川藤孝や忠興の
殿様父子は吝をして京に邸はなかった。そこで家老が丹後まで、
「如何しましょうや?」
と使番をだしているうちに本能寺の変は終わった、と変な話にさえなっている。
 勿論、各大名が京屋敷に留守居の武者を揃えていながら、本能寺の変を傍観して、
信長や乱丸達を見殺しにした裏面には政治的謀略と相当な銀子が動いていたろう。
 また、京の絵図面の中で天正時代のものが今となっては一枚も残っていないという
事実は、六月二日の本能寺の変から十日あまりで死んだ明智光秀のやれることではな
いし、またできることでもない。
「信長殺し、光秀ではない」を、もし興味ある方は一読していただきたいものである。
なにしろ「御霊社」とか「御霊神社」というのは、無実の罪で殺された人の魂を祀る
ものとされているが、明智光秀にも京都府福知山市には大きな御霊社が江戸時代から
あって祀られている。

「一体、こりゃ何じゃ。夜明け前からワイワイ集まってきおって、もうかれこれ一刻
半(三時間)もたつではないか」
信長はすっかり焦燥しきっていた。だから、
「もし害心を抱くものなら、やつらは甲冑に身を固め弓鉄砲まで持つ一万三、四千の
軍勢ゆえ、ワアッとここの境内へ攻め込んでくれば、なんせこちらは槍さえ持ってき
ていない有様ゆえ、息をつく間にも勝負はつきましょうほどに、てんで攻め掛かって
こぬは謀叛ともみえませぬ有様。よって、まぁ、ご安心なされましょう」
乱丸は口にした。しかし、
(何がなんやら判らずに包囲され、いくら待っても京中の大名屋敷からの援軍もまだ
来ぬ無気味さ)
には、乱丸初め小姓団の三十人も、切ながって息を吸うのさえ重苦しい檻の中で、
「こりゃ堪らんのう‥‥まるで生き埋めにされとるようじゃ」
と、あえぎ切っていた。
「こないな馬鹿げた真似しくさったら、癇癪持ちの上様が後で許される筈もなかろう。
囲んでいる輩は、いずれも後で一人残らず縛り首にされるじゃろ」
いまいましがって、地団駄を踏む者もいなかった。
 みんな囲みがとけてからの話より、目先の息苦しさにへこたれて脂汗をだらだら垂
らした。溜め息と吐息を交互にもらしていた。
 もはや真紅の花をつけた金蓮花の叢に、餌を啄ばみに来た雀の群れもみえなくなっ
た。チイチイないていた小鳥のさえずりのかわりに、「ヒイヒイ」と女達の涙声が洩
れてきた。
「こない時に女ごはいかん。村井道勝めが、手伝い女などよこしておくからじゃ」
高橋虎松が忍び泣く女共の声を聞きとがめ、それを制しようと出かけていった。
 が、これがいけなかった。虎松に叱り飛ばされた女達は、それまで堪えていたのが
押さえようがなくなったのか、裸足のままで植込みを斜めに駆け込んでくるなり、信
長のいる客殿に向かって、
「お助けなされませ」
と声を枯らして絶叫しだした。
 びっくりした乱丸達は駆け出していって、
「これ、恐れ多いぞ」とたしなめながら手荒く、
「早々に立ち去るがよい」と、女達の肩をつかんで引き立てようとした。
 だが、半狂乱の女どもは、もう咎めても言うことをきかず、てんでに逆上して、
「上様はお豪いお方じゃろ。なんでもできんことはない天下様なら、この手伝いにき
とる私らを助けてやりなされ」
と、押さえる小姓どもの手に喰いつく者までいて、
「死にとうないで」と絶叫したりした。
「なんとか救うとくりょ」
と喚き散らす女どもには、小姓どももすっかり手を焼いた。
 若い坊丸のごときは、年少の愛平と一緒になって、涙をぼろぼろ眼に溢れさせてい
た。信長も同じ想いだったろう。
「なんとかならぬか‥‥女どもだけでも外へ出してはやれぬか。築土の上までつれて
いき、そこから落としてやっても怪我すまい」
 灯り障子の蔭から、たまりかねたように声がした。しかし、そうは言われても、
「はぁ、さいぜん村井の武者どもが向いの村井邸に連絡すべく、四人あまり築土へ這
い上り、そこから飛び降りましたなれど、蹴鞠が跳ね返されるごとく、次々と足をと
られ、またこちらの境内へ弾き返されて戻りました」
乱丸も答えるしかなかった。
「そうか‥‥」
障子をあけ織田信長が顔を出した。すると女達は捕まえられていた手をふり切って、
その足元へ駆け寄りざま、
「助けたって‥‥」
と縋りつく。他の女も口々に、
「死にとうない」と泣き叫んだ。
「うむ、この信長は何でも出来る男の筈じゃったが、今朝はちいと具合が悪い。この
儂とて、今のところ何が何やらわからんのじゃ」
慰めたつもりだろうが、かえって女共の泣き声を甲高くさせただけだった。
つられて小姓共も、
「うう‥‥」と皆声を堪えかねて男哭きした。
 その瞬間である。
ゴギャアーンと大爆発が起きた。
本能寺は赤い火柱に化した。
寺の建物は、客殿便殿その他堂宇の一切が粉々になって、六月二日の、ようやく青み
を見せた青空へ、まるで噴火するみたいにはじけていった。
 しかし、「フロイス日本史」の「カリオン師父報告書」では、この火薬の出所がイ
エズス会からだという事を隠すためにごまかされてしまっていて、
「侵入してきた兵達は、信長が洗顔をしているところを見つけた。そこで背に矢を放
った」というのであるが、最後の部分で、
「我々が知り得たところでは、三河の王を討つために上洛した信長も、その一行の女
も、みな毛髪一本も残さず灰塵になってしまった」
と爆発による謀殺を示唆している。
 それにしても、まさか起きてから三時間後に、のこのこと手拭いをぶら下げて、信
長ともあろう者が洗面所などに行くわけがなく、のんびり背を向けて縁側でジャブジ
ャブしていたわけもなかろう。
 この事件の三年前にスペイン王フェリッペ二世が開発させたチリ硝石、新黒色火薬
による物凄い爆発が、この一瞬に全てを決したとものだろう事は疑いもない。
つまり、これが信長の最後であり、本能寺の殺人事件の確かなことである。

(了)