山形明郷著「邪馬台国論争 終結宣言」考

 (最新見直し2013.10.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「山形明郷氏の朝鮮半島説」がある。これを考察しておく。

 2013.10.11日 れんだいこ拝


【山形明郷著「邪馬台国論争 終結宣言」考】
 山形明郷氏著作の邪馬台国論争 終結宣言」(星雲社、1995.5月初版 )、その簡潔本としての「卑弥呼の正体 虚構の楼閣に立つ邪馬台国」(三五館、2010.5.21日初版) を確認する。

 「卑弥呼の正体 虚構の楼閣に立つ邪馬台国」の目次は次の通り。
まえがき
プロローグ 『魏志倭人伝』理解の方法
第一章 「古朝鮮」探しで“常識”を外す―史料に慣れる
第二章 漢の武帝の狙い―「漢の四郡」と「古朝鮮」
第三章 ニセ楽浪郡を構想した人々
第四章 高句麗の国都を追う―今のピョンヤンに都城はあったか?
第五章 謎をたたえる新羅
第六章 帯方郡の誤解をとく
第七章 意外なる、本当の百済
第八章 「倭」のカギを握る「前三韓」―馬韓・辰韓・弁韓
第九章 「倭」はどこだったのか
第十章 「邪馬台」にまつわるヒント
エピローグ 文献史学者の役割とは
あとがき

 山形明郷氏は、「正史二十五王朝史」(総冊二百八十九冊、三千六百六十八巻)、「戦国策」、「国語」、「春秋左伝」、「十八史略」、「高麗史」、「三国史記」等々厖大広範な古文献、諸資料を丹念に解読、精読を重ね、更にこれら叙述内容の比較、照合、検索、検証に精魂を傾けた。東アジア史を根本から再検討した結論として、倭は古代における朝鮮半島を指していたなる見立てを導き出し、邪馬台国朝鮮半島説を打ち出すにいたった。

 その前提として、古朝鮮を遼東半島に求めている。定説では、古(いにしえ)の朝鮮国を今日の朝鮮半島北西部一帯に位置づけ、その都「王検(おうけん)」をピョンヤンに置いて解釈しているが、「それは間違いで、この定説が古代東アジア史の歪曲化の始まりである」としている。これにより、漢帝の植民市としての楽浪、帯方の所在についても朝鮮半島ではなく旧満州地域にあったとしている。朝鮮国としての三韓(馬韓・辰韓・弁韓)も朝鮮半島ではなく遼東半島にあったとしている。

 魏志倭人伝についても、「中国遼東半島方面から今日の朝鮮半島方面の古代の或時期の史実の残片と、南支南方方面の土着人の国情習俗などの傳風聞を巧みに混淆させて綴られた雑記文の一種」であるとし、「半島古傳風聞雑録とでも言えようか」と述べている。倭国を現在の北朝鮮より南側であるとし、邪馬台(蓋馬)国の所在地を朝鮮半島の「鴨緑江北岸・渾江口より遡ること9kmの古馬嶺村周辺から麻天嶺の中間地域」としている。卑弥呼を遼東侯公孫氏の係累としている。

 次のように述べている。

 「十四世紀の後半に勃興した朝鮮と、古代の朝鮮を混同して語ると、北東アジア史解釈上大きな誤解が生じる。すなわち『朝鮮』の名称があるからといって、古の朝鮮をも現在の半島内の存在と見なしてしまうと、種々様々な弊害が生じる。しかも、その弊害がいわゆる『倭人伝』の解釈上にも影響を与え、現在の朝鮮半島の古代史像を奇妙に歪曲する結果となり、これが『虚構史観』発生の端緒となる」。
 「続十八史略」について次のように解説している。
 「嘗て十三世紀から十三世紀の七十九年にかけ、欧亜に跨る一大地を席巻し、東西史上類例を見ない大版図を有した蒙古帝国が、南宋の遺将たちと高麗一国を使嗾し、再度に亘って日本遠征を企てたが、其結果たるや周知の如く、実に散たるものに帰し、且つ、その遠征が彼の地の人心に如何なる影響を与えたかが、『続十八史略』に書かれており、海洋僻遠の地、日本遠征の容易ならざる事が窺える」。
 「元史巻十四世祖紀」

 
「帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本」
 (帝曰く、日本は孤遠の島夷なるを以って、(これを攻めるには)民力を重く苦しめることになる。日本を征するを罷める)

 更に、同書の「巻二百八列傳第九十五」中にも

 「二十三年、帝曰、日本未掌相侵」
 (二十三年、帝のたまわく、日本は未だ嘗て相侵せざるなり)

 1742(明の憲宋の成化7)年、李朝仕えた明人の申叔舟が著した文献「海東諸国記」。

 「竊かに観るに、東海に国するもの一つに非ず。而も日本もっと久しく、且つ大なり。その地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接す。其勢い甚だ長し。其初め處々保聚し、各自国をなす。・・・(中略)・・・猶、中国の封建の如し。かつて統属せず。習性強悍にし、剣槊に精し」。

 これに対し、次のように評している。
 「十五世紀も後半に入って『東海に国するもの一つに非ず』や『かつて統属せず』は重要な箇所であろう。これは、日本はかつて、異国異民族の支配を受けた事がなかったということを示している」。
 マルコポーロの「見聞録」

 「ジパングは支那の東方千五百哩海中に在る一島国で、その地は広く、その民は皮膚が白く、文明の度が著しく進んでいる。その宗教は偶像崇拝で、嘗て外国に隷属した事がない」。
 次のように述べている。
 「さて、それでは征服王朝ならぬまでも、嘗て我が国が異民族の侵略や蹂躙に悩まされ、国家存亡の危機に見舞われた史実が無かったかと云うと、それはどうやら存在した様である。それは刀夷の乱や元寇どころではなかった様である。刀夷や元寇の役は我が国のすう辺を掠め島民を殺戮拉致した程度で終止符が打たれたものであったが、この二つの外寇とは較べものにならない大規模な侵略事実が存在した。ただ、我が国の史書中ではその詳細を伝えておらず、又、史家達も軽視していると謂われる。では刀夷の乱や元寇に倍する外寇とは何であったか。旧来一般的に史家達はその事実を坂上田村麿の「蝦夷」の反乱鎮定であったとして片付けており、而してその「蝦夷」とは千年一日が如き蠢爾(しゅんじ)たる生活を送っていた「アイヌ人」であったと語っている様である。だが、事実は全く異なったようである。

 この「蝦夷」とは奈良朝以前の記載に現れてくる「えみし」ではなく奈良朝も末期頃に入って来ると同じ「蝦夷」の文字は当てているが、その種族の様相特徴は著しく変貌してきているという。第一アイヌに比べると極めて剽悍寧猛となっている事、第二が騎射騎戦の術に長けていた事、第三がウラルアルタイ系の文化的特性を持っていたこと等である。(中略)

 蝦夷とは一体どのような種族であったのだろうか?この疑問に答えてくれる文献は、先に引用した「ヒノギハン・ヤッパン」の一文である。「一千年前なる桓武の御宇に当たって大韃靼(ダイダッタン)の無庭より、大軍を挙げて頻り基いとしける程に日本人も是を退治する事、はなはだ難なりけり。その故に彼等は常に挑戦して、しばしば敗軍してその勢いは大いに減衰せしか共、韃靼より日を追って新軍を送り備えて、勢いを助ける程に終に50年の久しきに堪えて、なおも日本の地に居て動かざりけり。然るに西紀799年国の守護神の威力冥助と、日本軍兵の鋭き多勢に力と一斉に起帳して終に彼らを抜き滅ぼしけり。如何となれば日本の史に記して曰く、「クヮンノン」とも言えり。(後略)」。

 さて、我が国の史書の中で、坂将田村麿の蝦夷征伐と軽視した「蝦夷」とは、中国の史書中にもしばしば名を変じて現れる「韃靼」と称す種族であった事が判明してくるわけである。この韃靼という名称は極めて厄介な呼称であり、一民種単位の固有名詞とするには相応しくない様である。然し、大方の一般的見解に従うならば、大興安嶺山脈西側のフルンブルイ地方に居住せし蒙古人系の「タタール部」の漢訳であったと言う。しかし最広義の意で言えば、オスマントルコ人を除く、アルタイ系諸族をも一括して韃靼と呼称したようである。

 さて、鎖国論(日本誌)の記載するところにより、8世紀中葉から末年にいたる50年の間、このチュルク系蒙古人によって日本の在る地域は完全に占拠され、当時の大和朝廷の武力を以ってしては如何ともしがたい状況下に置かれてしまった事がわかる。この50年間で済んだのだろうか?日本史を遡ると田村麿の征伐から遡る事431年前、即ち仁徳天皇の即位50年頃(西暦361年)に将軍上毛野田道が蝦夷征伐に当たっているが、蝦夷の猛攻にあい田道は伊寺の水門(石巻)で戦死し、下って舒明天皇の西暦628年に同じく将軍上毛野形名が蝦夷征伐に当たったがこれも惨敗している。さらに下って斉明天皇の即位後(659年から661年)に渡って安部比羅夫の粛清征伐が行なわれその攻略の容易ならざりし事が伺える。この一連の時期の蝦夷とは田村麿が征伐した韃靼と同じ種族であった事は間違いない。とすれば、その支配は優に150年の長きに渡って日本はこれらの侵略と蹂躙に悩まされ続けてきた事になる」。


【れんだいこの「山形明郷氏の朝鮮半島説」考】
 れんだいこは、「山形明郷氏の朝鮮半島説」につき上述の解説ほどにしか知らない。つまり両書を読んでおらず断片的な知識しかない。その評になるが、「邪馬台国朝鮮半島説」はいただけない。あまりにも奇説が過ぎる。邪馬台国論の肝要は日本国体論の解明に向かって為されねばならない。よしんばそのルーツが朝鮮半島にあったと仮説しても、そこからどのように日本精神、日本国体が形成されたのかを説き明かさねばならない。この点に於いて「邪馬台国朝鮮半島説」は奇説以上の意味を持たない。今なさねばならないことは「原日本新日本」の分水嶺的位置を占める邪馬台国の所在地及び政体、文化、精神の解明である。これを為すのに「邪馬台国朝鮮半島説」では話しが遠過ぎよう。これは「邪馬台国朝鮮半島説」が的を射ていないことを意味する。皮肉なことに、山形明郷氏の指摘より学ぶのは「邪馬台国朝鮮半島説」以外の史料紹介部分に対してであり、邪馬台国論のものに対してではない。史料渉猟に当たって相当の骨折りをされたことには深く敬意を表するが、他山の石としたい。これが総評となる。

 2013.10.11日 れんだいこ拝





(私論.私見)