古代阿波「イの国」考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日
(目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「古代阿波「イの国」考」をものしておく。 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝 |
【古代阿波「イの国」考】 | |
「1.古い阿波は、「イの国」といっていた 」。 | |
伊予(いよ)の二名島(ふたなじま)とは、伊国(いのくに)と予国(よのくに)の二つの国がある島ことです。 伊予は予国です。まず「愛媛県史」から[伊予の名称]を紹介します。
と最後に記され、結局はよくわからないと結んでいますが、通説の解釈は、大きな誤りがあり、的を得ておりません。古事記などには、「伊予の二名島」と書かれているにもかかわらず、語句の一部分だけをとらえて、伊予というと愛媛県と結び付けて、伊予は、四国全体を指す大地名であると解釈しています。「伊予の島」と書いてあるならそんな解釈でいいのでが、「二名島」と書いてあるのですから「二名島」の解釈もしなくてはなりません。しかし、愛媛県史には、二名島についての説明はありませんが、唯一、[本居宣長は、「古事記」国生みの条の「伊予之二名島」の「二名」について、四国は男女各二組が並ぶから「二並」(ふたならび)の意と解釈し、次に記す「書紀」の歌謡を援用して、四国は「弥二並(いやふたならび)の島」で、イヨは弥(いや)の意としている]と書いています。 |
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阿波は、イの国・イツの国・倭国(いっのくに)だった | |
伊予の二名島の西側が予の国であるなら、イの国の範囲は、おおまかにみて徳島県と呑川県、高知県の東半分、つまり、四国の東半分が一つの国をなしていたと考えられます。そこで、四国の東側をみると「イの国」であった痕跡が、たくさん残っています。徳島県に住む人なら、そう聞けば思い当たることが、たくさん頭の中に浮かんでくるでしょう。まず、阿波が「イの国」でなければ、祖(そ)を(イ)とは読まないでしょう。祖谷(いや)を祖先(そせん)の住む古い谷であるから祖(そ)の字を付けたかどうかは、今後の研究によりますが、徳島県の一番東に「伊島」もあります。また、井川・井ノ谷・井ロ・井関・井内など、他のイの付く字名、小字名は、各市町村に何カ所もあります。例を少し拾っただけでも、阿波が「イの国」であったことがわかります。そして、それ以上に決定的な地名が地図上に残っているのです。徳島県の周辺には、「猪の鼻」(いのはな)という地名が三カ所あります。(図2参照)鼻(はな)は岬名によく使われていますが、端(はし)という意昧です。「猪の鼻」とは、まさに「イの国の端」をあらわす地名であり、三ケ所とも徳島県の端にあります。それだけでも「イの国」を表していますが、その上に、名西郡神山町(みょうざいぐんかみやまちょう)西隣りの美馬郡木屋平村(みまぐんこやだいらそん)などに「猪の頭」(いのかしら)という地名があります。しかも、そこは徳島県の中心部でもあり、神山町周辺こそ、のちに登場する天照大御神(あまてらすおおみかみ)や大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が活躍する舞台である、高天が原(たかまがはら)だったのです。 このように現在の地名などから考えても、阿波が「イ・イツの国」であったことがわかります。「イツの国」とは、一番にできた国であるから「一の国」であり、例として一本(いっぽん)、古事記では、伊都之尾羽張(いつのをはばり)など「イツ」と使われています。それが、つづまり「イの国」と呼ぶようになったと考えられます。また、井戸のある文化国家だったから、「井の国」だという説もあります。また、忌部(いんべ)も「イの国の部(べ)」ですから「忌部」と名乗ったか、「一番重要な総括する部(べ)」と考えられます。 『古語拾遺』に「天日鷲命(あめのひわしのみこと)が孫(うまご)を率(ひき)いて肥(よ)き饒地(ところ)を求(ま)ざて阿波国(あはのくに)に遣(つかは)して、穀(かじ)、麻(あさ)の種(たね)を殖(う)えしむ。其(そ)の裔(すえ)、彼(そ)の国に在り、大嘗(おおみにへ)の年にあたりて、木綿(ゆふ)、麻布乃種種(あらたへまたくさぐさ)の物を貢(たてまつ)る。所以(このゆえ)に郡(こほり)の名を麻殖(をえ)と為(す)る縁(ことのもと)なり」と書かれていますが、徳島をよく知らない方は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)がどこか彼(か)の地から阿波国へやって来たと考えるでしょうが、よき地を求めて阿波国へ来たというのは、神山から阿波郡(あわぐん)・麻植郡(おえぐん)に来たことをいっているのです。以上のことから、阿波が「倭国」(いつのくに)であったことを理解していただけたと思います。阿波が、古い倭(やまと)だったことはあとで説明しますから、ここでは省きます。 (倭については「久米一族の調査研究」の香具山考を参照してください) |
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従来の古事記解釈は、間違っている。 | |
古事記は、古事記が書かれた712年から、約100年さかのぼる推古天皇(西暦600年頃)までの記録ですから、その特代に合わせた読み方をしなくてはなりません。従来の読み方は、地名を現在の地名にあてはめて、読むため話のつじつまが合いません。先に書いたように、四国は四国と呼ばれず「伊予の二名島と呼ばれていた」とあると、早合点して伊予を愛媛県と解釈します。同じように倭(やまと)は奈良県、出雲は島根県、竺紫(つくし)は九州、日向は宮崎県にあてるために、話のつじつまが合わなくなり、合わないから神話であるといい、最後に実際にあったことではない、などと言い始めます。それらの間違いは、その時々に説明しますので、今回は、従来の古事記解釈がおかしい五カ所を検証します。 1.伊予の二名島の解釈ができていません。これは、前ページで説明しました) 2.古代の日本国の範囲が限定されていません。(出雲と日向は、島根県と宮崎県のことではない) 3.国生みは、四国を中心としている。(国生みの比定と順序が間違っている) 4.別(わけ)の国から根別(ねわけ)の国はできない。 5.大宜都比売神が古事記の主人公(中心の神)! |
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【倭国(いのくに)研究会】 | |
「倭国(いのくに)研究会」がある。次のように紹介されている。
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(私論.私見)