阿波忌部考

更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.25日(目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「阿波忌部考」をものしておく。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


 2013/7/23、日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部」その他参照。
 ※ 日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部 ※

 「オオクニヌシが日本を建国?」とするのは古事記とは真逆の観方になる。しかし、それが真実の歴史と思われる。

 阿波古代史上、衝撃的な系図が存在する。大和国一之宮大神神社社家である高宮家系を記した「三輪高宮家系図」である。高宮家は三輪氏で事代主命の後裔である。この系図によると、親子二代の事代主命の存在を確認できる。大国主命の子、都美波八重事代主命と、その子/天事代主籖入彦命である。そして、天事代主籖入彦命について「大和国添上郡座率川阿波神是也」と記されている。率川阿波神とは、宝亀二年(771)、大納言藤原是公(ふじわらのこれきみ、※藤原是公(Wikipedia) )が夢枕に現れた事代主神の神託に従って、その御霊を阿波国阿波郡から分祀したもので、これが大和国最古の事代主の神祀りである。
 
 宝亀二年冬 大納言藤原是公夢云。吾狭井御子神也。汝氏神建布都神共住。阿波国 瓦ニ有相親 而今皇孫命依招集 項吾與ニ建布都神共ニ来臨干帝都欺 宜敷敬之 是公依夢告 造神殿自阿波勧請之 仍去阿波神也 云々
 
 式内社事代主神社は全国で阿波国の二社のみだが、阿波郡の社の御祭神は二人目のコトシロヌシだったのである。藤原是公の夢に顕現した神は「吾は狭井の御子神である」と名乗っているが、狭井神とは大物主神のことであり、「三輪高宮家系図」では、大国主命と都美波八重事代主命の親子の別名を「大物主神」としている。必然、勝浦郡の社は『阿波国治世紀』に記される生夷地名の由来、カツラ、八重地などの地名から見ても初代コトシロヌシを祀っているといえよう。
 阿波国一宮大麻比古神社の御祭神は、古来猿田彦神だったが、近代になり「忌部の神社で一宮なのだから御祭神大麻比古神とは、忌部の祖神天太玉命なるべし」という“願望”を根拠として、二柱合わせ祀られるようになった。しかし、延喜式神名帳に二座と記されていない以上、御祭神は本来一柱である。
 千葉県南房総市白浜町に鎮座する式内社、下立松原神社所蔵の『安房国忌部家系』によれば、大麻比古命は阿波国忌部神社御祭神の天日鷲命の子である。
 
 事代主命は、その後、大物主神と名を変え記紀の物語に登場する。大物主は丹塗矢に姿を変え川を流れ下り、三島溝咋耳の娘玉依姫と結ばれ、生まれた姫が初代神武天皇の后となる。三島溝咋耳とは、鴨氏の系図などにより、鴨氏の祖である鴨建角身命の別名だと確認できる。また、『山城国風土記』鴨社の縁起によれば、鴨建角身命(下鴨神社御祭神)の娘玉依姫のもとへ火雷神の化身である丹塗矢が川を流れ下って二人は結ばれ、賀茂別雷命(上賀茂神社御祭神)を生んだとされる。つまり、同一人物(鴨建角身命=三島溝咋耳)の娘、同じ名を持つ、玉依姫Aと玉依姫Bが、それぞれ、賀茂別雷命と、のちに神武天皇の后となる伊須氣余理比売を生んだ、ということである。そして、その夫は共に丹塗矢に化身した神だった。この2つの記号、「丹塗矢」と「玉依姫」が、伝承上全く関係のない偶然のものであるわけがない。(「鳥の一族」に書いたので)詳細は省略するが、上記の火雷神は大山咋神と同神であり、『三輪高宮家系図』では、阿遅志貴高日子根神の別名を大山咋神と記している。氏族系図や『紀』の記述により、事代主命は鴨氏だとわかるのだが、『記』では兄の阿遅志貴高日子根神が迦毛之大御神と記される。
 大麻比古命の別名は津杭耳命である。天日鷲命(鴨建角身命)の別名が(三島)溝杭耳命。「溝」(三島・吉野川中流)、「津」(大津・吉野川河口)。海人族の王親子としての居住地を示している。
 三島溝咋耳、大国主命、鴨建角身命、天日鷲命。大国主命を中心に見れば、その長男・阿遅志貴高日子根神に本家(鴨氏)の跡目を継がせた。従って『記』においては迦毛之大御神と記される。そこへ自分(別名・鴨建角身命)の娘、玉依姫Aを嫁がせて、次の跡取りとなる可茂別雷命を儲けた。そして次男・事代主命にも、自分(別名・三島溝咋耳)の娘、玉依姫B(勢夜陀多良比賣)を嫁がせて、孫娘を儲けた。
 『紀』は、神渟名川耳天皇(綏靖すいぜい天皇) 神日本磐余彦天皇第三子也。母、曰媛蹈鞴五十鈴媛命、事代主神之大女也。磯城津彦玉手看天皇(安寧あんねい天皇) 神渟名川耳天皇太子也。母、曰五十鈴依媛命、事代主神之少女也。大日本彦耜友天皇(懿德いとく天皇) 磯城津彦玉手看天皇第二子也。母、曰渟名底仲媛命、事代主神孫 鴨王女也。と、第3代天皇まで、その后が事代主神の血筋であると明記している。初期王朝にあっては、鴨氏である事代主命の血を引く女性が天皇の后となる“習わし”だったのである。
 神武天皇を全力で支えたのが『新撰姓氏録』等で鴨建角身命の別名と記される金鵄八咫烏の姿なのだ。平田篤胤が指摘するとおり、この金鵄は天加奈止美(金鵄)命の別名を持つ天日鷲命のことだった。
 何故、記紀では大国主一族の物語が大量に記され、歴代天皇がこの一族を最大級に敬うのか? 何故、全国の神社で天孫よりもはるかに多く大国主一族が祀られるのか? 何故、賀茂御祖神社は「皇室の氏神」を称し、王家は代々この神社を特別視してきたのか? 何故、初代天皇を祀る式内社・古社がどこにも無いのか? 今までのように「大国主命は相当の実力を持った一地方の国津神だった」などという解釈では全く説明が付かないのである。
 「天皇即位」の「大嘗祭」に、「あらたえ」を奉納する「阿波忌部」。その「阿波忌部」と「石見忌部」の関係如何。「石見忌部」は「阿波忌部」よりも古い歴史を持っていると伝えられている。「石見忌部」が、如何なる関係性で「阿波国」にやって来たかは定かではない。いずれにせよ「石見忌部」と「阿波忌部」は、親類には間違いないと思われる。「石見忌部」(島根県)には、多くの「忌部関連」の神社があり、後に「出雲大社」となった話も伝わる。「石見忌部」は、日本の古代における氏族や部族の一つであり、古代の祭祀や宗教行事に関与していたと伝わる。一方、「阿波忌部」は後に発展した部族であり、「石見忌部」よりも後の時期に活動したと思われる。「石見忌部」は「大国主命」を祀ることが多く、彼らの祭祀や信仰が重要な役割を果たしていた。「出雲大社」に祀られているのが「大国主命」。「天皇家」へ「あらたえ」を奉納する「阿波忌部」は、「大国主命」とどう繋がるのだろうか、解明されていない日本古代史の一つである。

 「邪馬台国学研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫(記)FB」参照。

 807(大同2)年、古代の朝廷において祭祀を担った忌部氏の一族である「斎部弘成」が編纂した「古語拾遺」によると、神武東征の際に忌部氏を率いて紀伊国の材木を集め、大和の畝傍山麓に橿原宮を造営した「天富命」(あめのとみのみこと)が、肥沃な土地を探して当地を候補にあげ、開拓を行い、穀・麻の種を蒔いて、栽培したと伝わる。

 忌部氏は、中臣氏と並び、古代の朝廷において祭祀を担っていた。忌部氏の祖は「天太玉命」(あめのふとだまのみこと)、中臣氏の祖は「天児屋命」(あめのこやねのみこと)とされ、ともに天照大神の「天岩戸」隠れの際に活躍した神とされている。朝廷に接近して地位を上げた中臣氏(のちに藤原氏)が畿内を中心に版図を広げる中、忌部氏は阿波国ほかを拠点とし次第に多くの役割を中臣氏に奪われていった。

 天皇家の祖先が誕生した高天原は、実は粟にあった。忌部氏は「天孫の側近中」の側近であった。忌部氏やその眷属は、中臣氏に対抗すべく、そうした神話や伝説を編み上げていったのかもしれない。阿波国の北部は粟の産地だったから国名が粟になったと云う。「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)が阿波国を開拓して木綿・麻を育て、製糸・紡績を営み、「阿波忌部氏」の祖となった。「阿波忌部氏」は代々朝廷に木綿・麻布を貢進。「荒妙御衣」(あらたえのみそ)を貢進して「大嘗祭(践祚の儀)」に供されたので、「麻植郡」(おえぐん)という地名になった。


【忌部神社】
 「Long Jiang  神社と歴史の広場」。
 忌部神社@徳島市二軒屋町
 式内・麻植郡 明神大社
 祭神:阿波忌部氏祖・天日鷲命

 麻植郡(吉野川市)の明神大社が徳島市(中方郡)にある。明治初期の文字通り二転三転する激しい論社の論争の末、明治18年、貞光の「五所神社」を式内・忌部神社と比定し、その上で、ニュートラルコーナーであるこの地に遷座し、「五所神社」を当社の摂社としたとのこと。古来、阿波忌部氏は、大嘗祭に用いられる「麁服」を納めており、今回の大嘗祭でも吉野川市山川町住民団体が調進して納められたようです(政教分離の観点から地方自治体が関わることはできないらしい)。

【坂元神社】
 阿波忌部氏の痕跡
 坂元神社
 香川県丸亀市

  阿波忌部一族の祖天日鷲命の御子、天冨命の孫、鷲住王は、阿波国を再建した後に、讃岐国に移住し、讃岐忌部一族が創建した大麻神社を再建した後、飯野山の麓に移り住み、讃岐国造になったことを由来とされる。社の裏側は、鷲住王の塚とされ、磐座信仰の痕跡も見られる。  

【鳴神社】
 阿波忌部氏の痕跡
 鳴神社
 和歌山県和歌山市
 創建不明。阿波国から移住してきた忌部一族が、祖先の天太玉命をお祀りしたことを由来とされる。紀伊忌部一族の発祥地とされる。  

【櫛磐間戸神社】
 阿波忌部氏の痕跡
 櫛磐間戸神社
 ときわ山古墳
 和歌山県和歌山市
 伊太祁曾神社摂社で、祓い戸の神。
 祭神 忌部一族の祖天太玉命の御子/天石門別神
 ときわ山古墳
 櫛磐間戸神社の裏山にある古墳。
阿波国特有の石積み方式で造られている古墳。おそらく忌部一族所縁の首長が葬られていると思われる。

 「光慶図書館と阿波国文庫」。
大正5年7月24日 大正天皇即位記念として創立、徳島県立光慶図書館と称する。
大正6年6月24日 開館式を挙行する。
昭和20年7月4日 戦災により焼失する。
昭和24年5月3日 徳島県立光慶図書館を再建し、憲法記念館と称する。
昭和25年3月13日 火災により焼失する。
昭和25年3月25日 昭和天皇が徳島へ(昭和天皇の戦後の巡幸リストより
昭和28年11月3日 徳島県立図書館の開館式を挙行する。

 昭和二十四年五月憲法記念館が建築せられて貴重本はこゝに返ったが、翌年三月天皇御巡幸の直前出火のために館と共に残らず烏有(うゆう)に帰した(=すっかり火災でなくなった)。


 忌部別当 東福寺 忌部と仁和寺
 http://www.toufukuji.or.jp/index.html

 第58代光孝天皇と第59代宇多天皇により建てられ、天皇の出家寺だった! なお慶応3年(1867年)明治維新のさなかの大政奉還の年、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えた。

 『八鉾神社 虚像の国引き物語 皇太子や中国雲南省政府が参拝したわけ』〔Youtube〕
 https://www.youtube.com/watch?v=CqGCQ61hj4o

 『八鉾神社』 - Facebook
 https://m.facebook.com/awakodaishi/posts/432395403469664

 「出雲大社の話が出ていましたので、もう一度シェアしておきます。徳島市からも30分 以上車を走らせて到着する小さな神社である「八鉾神社」になぜ現役の皇太子がお忍び でお参りするのか? (平成4年行啓) それはここが出雲大社の元宮であると現在の皇室もよくわかっているからなのです」云々。

 現三木家当主にして「あらたえ」御殿人(みあらかんど)の三木信夫氏が、鎌倉時代の三木家に下された官宣旨の中に、三木家が忌部氏ではないとの文言を発見され、三木家の古文書を精査されて忌部氏ではないとの結論に至り、三木家は忌部、阿波忌部の一族ではないと発言した。これには恐らく古代史上の政変が絡んでおり、三木家と忌部氏との系譜、三木家内においても、忌部氏内においても違う系譜が混じっているということであろう。

 忌部氏族は、大和朝廷に於ける祭祀を職掌する氏族の主であり、従としての中臣氏は詔を奉賛するなどの役割を担っている。天皇代替わりの時の即位式である践祚大嘗祭においても忌部氏が準備をしてきた。

 「あらたえ」と油加物と呼ばれる大嘗祭に供えられる品々の多くは、阿波忌部と那賀国の海部が調達し麻植忌部神社へ参集され、京都へと搬入された。この供物の中でただ1点取り扱いが別格だったものが「あらたえ」である。「あらたえ」だけは、御殿人(みあらかんど)が大麻の種の播種からすべてを統括管理し大麻の布=反物を織り上げさせ、完成した大麻の反物を三木山の三木家へ搬入させる。ここまではまだ大麻の反物であって「あらたえ」ではない。三木家内の神殿に安置された大麻の反物に御殿人の三木家当主が詔を奏上する。その内容は御殿人以外知りえない秘儀となっている。その奏上が済むと大麻の反物は「あらたえ」となる。麻植の忌部神社に取り揃えられた各種供物と「あらたえ」は受け取りに来た神祇官の役人が京都へ運ぶ。「あらたえ」には御殿人と阿波忌部氏4人が同道して朝廷の神祇官に一旦納入する。大嘗殿の儀当日神祇官に保管されていた「あらたえ」を御殿人と阿波忌部氏4人が受け取り供納の式列に参加し、悠紀殿主基殿のそれぞれ神座の右側に安置する。(「あらたえ」については御殿人が一切の指揮監督をしたという)「あらたえ」は天皇の先祖霊に関わるもの=神御衣(かむみそ)神が宿った衣と考えられている。












(私論.私見)