「天照大神」の高天原と呼ばれる剣山を紐解けば日本の歴史が見えて来る!
剣山は標高1955mの四国第二の高山、本宮を構成する神社は頂上付近に分布、殆どは巨石を信仰の対象としている。平家の落人伝説の中でもこの剣山には安徳天皇を奉じて落ちてきた話が残っている。
安徳天皇は治承四年(1180年)六月、都を摂津国福原に遷し、次に兵乱を避けて讃岐の屋島より壇ノ浦に遷り、崩御と称して平国盛(教盛の子)等は伊予国大三島を経て山路、阿波国祖谷に遷るも、源氏の追尾を思い図り、遂に麻植郡木屋内裏村に行在所を定めた。世に言う三内裏とは、摂津福原、讃岐板屋、阿波小屋とされる。源氏の盛大にひき替え、平家が逆境を挽回せんと、四国太郎山(石立山)の不思議の池に安徳帝の御剣を天に奉じて武運長久の御祈願を行い、山の名も剣山と改称した。そこに神社を建立し、御剣の神霊である素盞嗚尊を祀った。後世、安徳天皇を合わせ祀った。さて、三種神器とは、伊勢神宮の鏡、熱田神宮の剣、皇室内の勾玉であるが、鏡と剣の模造品が崇神期に造られて、勾玉と共に、天皇の王の位の象徴としての儀器となっていたとの伝承がある。
義経の水軍が壇ノ浦へ平家を追いつめた際、安徳帝と共にあった三種神器のうち、鏡はそれを持っていた女官を源氏の兵がおさえ、勾玉は海面に浮いていたが、剣は発見でき無かった伝わる。これが剣山山頂に奉じられたとの伝承が剣山に伝わっていると云うこと。結局、源氏も三代で滅び、平氏の端族の北条氏に政権は移る。これらの伝授は、ネット上で収集したもので、友行神社の口伝とは異なります。
■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫(記)
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