「内藤湖南/卑彌呼考」 |
更新日2018(平成30).12.15日
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ここで、「内藤湖南/卑彌呼考」を確認しておくことにする。 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝 |
【内藤湖南/卑彌呼考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
+目次
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後漢書、三國志、晉書、北史等に出でたる倭國女王卑彌呼の事に關しては從來史家の考證はなはだ繁く、あるいは之を以て我神功皇后とし、あるいは以て筑紫の一女酋とし、紛々として歸一する所なきが如くなるも、近時に於ては大抵後説を取る者多きに似たり。今余が考ふる所はこの二者に異なる者あれば試みに左の序次により、その所見を下に述べんとす。 一、本文の撰擇
二、本文の記事に關する我邦最舊の見解 三、舊説に對する異論 四、本文の考證 五、結論 |
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一、本文の撰擇
卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、もとより後漢書、三國志に據りたること疑いなければ、これは論を費すことを須(もち)ひざれども、後漢書と三國志との間に存する*異の點に關しては、史家の疑惑を惹くものなくばあらず。三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止(とどま)らざれば、その倭國傳の記事も然るものあるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みしところなりき。この疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。 次には本文の中、各本に字句の異同あることを考へざるべからず。三國志に就て言はんに、余は未だ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本等を對照し、更に北史、通典、太平御覽、册府元龜等、この記事を引用せる諸書を參考してその異同の少からざるに驚きたり。その*異を決せんことは、即ち本文撰擇の第二要件なり。今先づ單にその先出の書たる理由によりて、左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。 倭人傳
この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。けだし三國志、特にその東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざるところあり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ちその例にして、この文中にも「今使譯所レ通三十國」といへるは、またこれと同一の筆法なり。ただ三國志の作者陳壽が、果してこの記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡(しばしば)「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、これに掲げたる本文中、「女王國東渡レ海千餘里。復有レ國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、これの疑は氷釋すべし。既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、その刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨みあるも、左の數條は明らかにその馬脚を露はせるものと謂ふべし。「倭在二韓東南大海中一。依二山島一爲レ居。凡百餘國。自三武帝滅二朝鮮一。使譯通二於漢一者。三十許國」。倭人在二帶方東南大海之中一。依二山島一爲二國邑一。舊百餘國。漢時有二朝見者一。今使譯所レ通三十國。從レ郡至レ倭。循二海岸一水行。歴二韓國一。乍南乍東。到二其北岸狗邪韓國一。七千餘里。始度二一海一千餘里。至二對馬國一。其大官曰二卑狗一。副曰二卑奴母離一。所レ居絶島。方可二四百餘里一。土地山險。多二深林一。道路如二禽鹿徑一。有二千餘戸一。無二良田一。食二海物一自活。乘レ船南北市糴。又南渡二一海一千餘里。名曰二瀚海一。至二一大國一。官亦曰二卑狗一。副曰二卑奴母離一。方可二三百里一。多二竹木叢林一。有二三千許家一。差有二田地一。耕レ田猶不レ足レ食。亦南北市糴。又渡二一海一千餘里。至二末盧國一。有二四千餘戸一。濱二山海一居。草木茂盛。行不レ見二前人一。好捕二魚鰒一。水無二深淺一皆沈沒取レ之。東南陸行五百里。到二伊都國一。官曰二爾支一。副曰二泄謨觚柄渠觚一。有二千餘戸一。世有レ王。皆統二屬女王國一。郡使往來常所レ駐。東南至二奴國一百里。官曰二*馬觚一。副曰二卑奴母離一。有二二萬餘戸一。東行至二不彌國一百里。官曰二多模一。副曰二卑奴母離一。南至二投馬國一。水行二十日。官曰二彌彌一。副曰二彌彌那利一。可二五萬餘戸一。南至二邪馬壹國一。女王之所レ都。水行十日。陸行一月。官有二伊支馬一。次曰二彌馬升一。次曰二彌馬獲支一。次曰二奴佳*一。可二七萬餘戸一。自二女王國一以北。其戸數道里可二略載一。其餘旁國遠絶。不レ可レ得レ詳。次有二斯馬國一。次有二已百支國一。次有二伊邪國一。次有二郡支國一。次有二彌奴國一。次有二好古都國一。次有二不呼國一。次有二姐奴國一。次有二對蘇國一。次有二蘇奴國一。次有二呼邑國一。次有二華奴蘇奴國一。次有二鬼國一。次有二爲吾國一。次有二鬼奴國一。次有二邪馬國一。次有二躬臣國一。次有二巴利國一。次有二支惟國一。次有二烏奴國一。次有二奴國一。此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一。男子爲レ王。其官有二狗古智卑狗一。不レ屬二女王一。自レ郡至二女王國一。萬二千餘里。男子無二大小一。皆黥面文身。自レ古以來。其使詣二中國一。皆自稱二大夫一。夏后少康之子。封二於會稽一。斷髮文身。以避二蛟龍之害一。今倭水人好沈沒捕二魚蛤一。文身。亦以厭二大魚水禽一。後稍以爲レ飾。諸國文身各異。或左或右或大或小。尊卑有レ差。計二其道里一。當レ在二會稽東治之東一。其風俗不レ淫。男子皆露レ*。以二木緜一招頭。其衣横幅。但結束相連。畧無レ縫。婦人被レ髮屈*。作レ衣如二單被一。穿二其中央一。貫レ頭衣レ之。種二禾稻紵麻一。蠶桑緝績。出二細紵*緜一。其地無二牛馬虎豹羊鵲一。兵用二矛楯木弓一。木弓短レ下長レ上。竹箭或鐵鏃。或骨鏃。所二有無一。與二*耳朱崖一同。倭地温暖。冬夏食二生菜一。皆徒跣。有二屋室一。父母兄弟臥息異レ處。以二朱丹一塗二其身體一。如二中國用一レ粉也。食飮用二*豆一。手食。其死有レ棺無レ槨。封レ土作レ冢。始死。停レ喪十餘日。當時不レ食レ肉。喪主哭泣。他人就歌舞飮レ酒。已葬。擧レ家詣二水中一澡浴。以如二練沐一。其行來渡レ海詣二中國一。恆使下一人不レ梳レ頭。不レ去二*蝨一。衣服垢汚。不レ食レ肉。不上レ近二婦人一。如二喪人一。名レ之爲二持衰一。若行者吉善。共顧二其生口財物一。若有二疾病一遭二暴害一。便欲レ殺レ之。謂二其持衰不一レ謹。出二眞珠青玉一。其山有レ丹。其木有二※[#「木+冉」、249-16]杼、豫樟、*櫪、投橿、烏號、楓香一。其竹篠*桃支。有二薑橘椒*荷一。不レ知三以爲二滋味一。有二*猿黒雉一。其俗擧レ事行來。有レ所二云爲一。輙灼レ骨而ト。以占二吉凶一。先告レ所レト。其辭如レ令。龜法視二火*一占レ兆。其會同座起。父子男女無レ別。人性嗜レ酒。(魏略曰。其俗不レ知二正歳四時一。但記二春耕秋收一爲二年紀一。)見二大人所一レ敬。但摶レ手以當二跪拜一。其人壽考。或百年。或八九十年。其俗國大人皆四五婦。下戸或二三婦。婦人不レ淫。不二妬忌一。不二盜竊一。少二諍訟一。其犯レ法。輕者沒二其妻子一。重者滅二其門戸及親族一。尊卑各有二差序一。足二相臣服一。收二租賦一。有二邸閣一。國國有レ市。交二易有無一。使二大倭監一レ之。自二女王國一以北。特置二一大率一。檢二察諸國一。諸國畏憚之。常治二伊都國一。於二國中一有レ如二刺史一。王遣レ使詣二京都、帶方郡、諸韓國一。及郡使二倭國一。皆臨レ津搜二露傳送文書、賜遣之物一詣二女王一。不レ得二差錯一。下戸與二大人一相二逢道路一。逡巡入レ草。傳レ辭説レ事。或蹲或跪。兩手據レ地。爲二之恭敬一。對應聲曰レ噫。比如二然諾一。其國本亦以二男子一爲レ王。住七八十年。倭國亂。相攻伐歴レ年。乃共立二一女子一爲レ王。名曰二卑彌呼一。事二鬼道一。能惑レ衆。年已長大。無二夫婿一。有二男弟一。佐治レ國。自レ爲レ王以來。少レ有二見者一。以二婢千人一自侍。唯有二男子一人一。給二飮食一。傳レ辭出入。居二處宮室一。樓觀城柵嚴設。常有レ人持レ兵守衞。女王國東渡レ海千餘里。復有レ國。皆倭種。又有二侏儒國一。在二其南一。人長三四尺。去二女王一四千餘里。又有二裸國、黒齒國一。復在二其東南一。船行一年可レ至。參問倭地絶在二海中洲島之上一。或絶或連。周旋可二五千餘里一。景初二年六月。倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡。求下詣二天子一朝獻上。太守劉夏遣二吏將一。送詣二京都一。其年十二月。詔書報二倭女王一。曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣レ使送二汝大夫難升米、次使都市牛利一。奉二汝所レ獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈一以到。汝所レ在踰遠。乃遣レ使貢獻。是汝之忠孝。我甚哀レ汝。今以レ汝爲二親魏倭王一。假二金印紫綬一。裝封付二帶方大守一假授。汝其綏二撫種人一。勉爲二孝順一。汝來使難升米、牛利渉レ遠。道路勤勞。今以二難升米一爲二率善中郎將一。牛利爲二率善校尉一。假二銀印青綬一。引見勞賜遣還。今以二絳地交龍錦五匹、(注略)絳地*粟*十張、※[#「くさかんむり/倩」、250-16]絳五十匹、紺青五十匹一、答二汝所レ獻貢直一。又特賜二汝紺地句文錦三匹、細班華*五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠鉛丹各五十斤一。皆裝封付二難升米、牛利一。還到録受。悉可下以示二汝國中人一。使上レ知二國家哀一レ汝。故鄭重賜二汝好物一也。正始元年。太守弓遵遣二建中校尉梯儁等一。奉二證書印綬一詣二倭國一。拜二假倭王一。并齎レ詔賜二金帛錦*刀鏡采物一。倭王因レ使上レ表。答二謝詔恩一。其四年。倭王復遣二使大夫伊聲耆掖邪狗等八人一。上二獻生口、倭錦、絳青*、緜衣、帛布、丹、木※[#「けものへん+付」、251-2]、短弓矢一。掖邪狗等壹拜二率善中郎將印綬一。其六年。詔賜二倭難升米黄幢一。付レ郡假授。其八年。太守王*到レ官。倭女王卑彌呼與二狗奴國男王卑彌弓呼素一不レ和。遣二倭載斯烏越等一詣レ郡。説二相攻撃状一。遣二塞曹掾史張政等一。因齎二詔書黄幢一拜二假難升米一。爲レ檄告喩之。卑彌呼以死。大作レ冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。更立二男王一。國中不レ服。更相誅殺。當時殺二千餘人一。復立二卑彌呼宗女壹與年十三一爲レ王。國中遂定。政等以レ檄告二喩壹與一。壹與遣二倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人一。送二政等一還。因詣レ臺獻二上男女生口三十人一。貢二白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹一。 三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有二倭人一。分爲二百餘國一。以二歳時一來獻見云」とあるに本づきたるにて、その「舊百餘國」と「舊」字を下せるは、これが爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる「今」は魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、その注意の至れるところなれども、左の條の如きは、なお全くその馬脚を蔽ひ得ざるなり。 「樂浪郡徼去二其國一萬二千里」。魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれもその郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く「其地大較在二會稽東治之東一。與二朱崖*耳一相近。故其法俗多同」。三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の*耳朱崖と同じきをいひ、その下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。これ改刪の際に起れる疎謬なり。「有二城柵屋室一。父母兄弟異レ處」。三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書がその造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。 更に著しき疏謬は左の一條にあり。云く「自二女王國一東度レ海千餘里。至二拘奴國一。雖二皆倭種一。而不レ屬二女王一」。三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、その南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。これけだし顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。その他、後漢書が魏略の文を割裂し、*括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆な然り。中にも左の最後の一節、即ち「又有二夷洲及*洲一。傳言秦始皇遣二方士徐福一將二童男女數千人一入レ海(中略)所在絶遠。不レ可二往來一」の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及*洲を求めしめたる記事を割裂して、これに附けたるものにて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、あるいは直ちに三國志に據りけんも知れず。さればこの記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益*明白なり。 ただこれに辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く「建武中元二年。倭奴國奉レ貢朝賀。使人自稱二大夫一。倭國之極南界也。光武賜以二印綬一。安帝永初元年。倭國王帥升等獻二生口百六十人一。願二請見一。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無レ主。有二一女子一。名曰二卑彌呼一」云々。この漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。これだけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆な秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。これは裴松之が三國志を注せる時、その剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書のこの條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。 附記、この文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、その著漢籍倭人考に見えたり。余もこの事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、ここには述べず。
已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆どそのまゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。第二の要件たる字句の校定は、本文即ち地名官名人名等の考證と相待つて爲さざるべからざる者多く、單獨に各本の*異を列擧せんことは、益少きを以て、後段に合併して、ここには省略することゝし、今はたゞ已に掲げたる本文が、元槧明修本を本として、一二乾隆殿板本を參照せる者なることを告白するに止むべし。余が見たる諸本の中にては、大體に於て元槧明修本、最も正しきを覺えたり。汲古閣の十七史は、世に善本と稱せらるゝものなるも、余が知れるところにては三國志、後漢書等は、頗る劣れるが如く、三國志は往々乾隆殿板よりも劣り、後漢書は夐かに元大徳本に淵源せしと見ゆる寛永活版本より惡し。乾隆殿板本は明の北監本に出でたれば、これは重複して擧ぐるを要せざるべく、三國志の明南監本は馮夢禎が手校を經たれば、監本中のやゝ善きものとせらるゝこと、顧亭林の日知録にも見えたれども、その體式已に古ならず、字句の訛奪も亦往々にしてあり。これ等は余が撰擇の標準を定めたる理由なり。又參考せる書中、太平御覽は未だ宋本を見るの機會を得ざれば我が倣宋活字本を主として、極めて希れに鮑刻本を參照したり。鮑刻本は明板本を宋本にて校したる者によりたるが、四夷部倭國の條は、明板の粗惡殊に甚しく、鮑刻本は又之を汲古閣本の三國志にて校改したる跡ありて、校宋本として取るべき處殆ど之なく、我が活字本の影宋本を墨守せるに如かざるなり。通典、册府元龜等は通行本を用ひたり。 |
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二、本文の記事に關する我邦最舊の見解
本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す。これ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべきものなればなり。神功皇后紀に左の記事あり。 三十九年。是歳也大歳己未。(魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣二大夫難斗米等一詣レ郡。求下詣二天子一朝獻上。太守*夏遣レ使將送詣二京都一也。)
この記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍(さまた)げかあらん。然るに近世の國學者の間には、これ等の細注ある記事の大部分を、後人の*入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を*入とせる所以は、その外國史書の文が國史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、その口實とする所は、古本に之なしといふにあり。されどもこれ等の説も、近時田中勘兵衞氏の藏せる奈良朝の古寫本と思はるゝ應神紀斷簡出づるに及びて、大いにその信用を薄弱ならしめたり。應神紀五年船を造りて枯野と名づけたる條の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書記集解に古本に無し、私記*入せりとなせる者なるに、古寫本には之あり、この外にも集解に引ける古本の據るに足らざる證あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も、之を*入なりと見るべき根據なし。特に六十六年の細注が晉起居注を引きたるは、尤もその信ずべきを見るものにして、晉起居注は藤原佐世が日本國現在書目にも見え、古く我邦に流傳せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晉書を引かずして、この書を引きたるは、あるいは未だ晉書を見ざりしに由るならん。さればこの細注の古きことも隨て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中にある地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵、同十六年の細注に出でたる爾林の如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる布彌支、半古の地は、馬韓傳に不彌國、支半國、狗素國、捷盧國の名見えたり。こは三國志が不彌支國、半狗國、素捷盧國とすべきを誤りて四國に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは、實に奇と謂ふべし。凡そこれ等の地名は、韓國の古史にも多く見えず、見えたるも、兒林が爾陵に作らるゝなど、反(かえっ)て日本紀と三國志との近接せるに似ざるを證するに過ぎざるに、日本紀と三國志との符合は、以て日本紀の作者が、已に三國志もしくは魏略の類を見たりしことを推知すべし。かく神功紀の細注、並びに紀中の地名の兩端によりて考ふれば、日本紀の作者が、卑彌呼を神功皇后と推定して、その年代をも同時に置きたりしことは疑ふべからず。これ實に我が邦の史家が卑彌呼の記事に對して下せる批評の嚆矢といふことを得べし。この古き批評は、もとより今日史家にありても漫然看過すべからざるところなり。但しこの見解が果して正當なりや否やは、なお別問題に屬す。(以上明治四十三年五月「藝文」第壹年第貳號)
四十年。(魏志云。正始元年。遣二建忠校尉梯携等一。奉二詔書印綬一。詣二倭國一也。) 四十三年。(魏志云。正始四年。倭王復遣二使大夫伊聲耆掖耶等約八人一上獻。) 六十六年。(是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣二重譯一貢獻。) |
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三、舊説に對する異論
足利氏の中世に當り、僧周鳳あり。文正の頃、善隣國寶記を著はして、始めて倭國が果して日本なりやに疑を挾めり。即ち前漢書地理志の「樂浪海中有二倭人一。分二百餘國一」とあるを、「もし日本とせば百餘國とするは疑ふべし」といひ、又魏志の「在二帶方東南海中一。依二山島一爲レ國。度レ海千里。復有レ國。皆倭種」とあるを、「もし日本とするときは、上に所謂樂浪海中百餘國とある倭人は何れの國を指すや」といひ、「韻書に倭を以て女王國の名と爲す、蓋し天照大神を地神の首として、この國の主たり、故に之を女王國の名と謂ふか、然るときは凡そこの國の人民は皆なその種その奴たるのみ、但し海を度ること千里の語は、樂浪海中の倭と倭種の國と異あるに似たり、未だ疑を決せざるのみ」といへり。これ樂浪海中の倭と海を度ること千里の東にある倭種の國と、何れか果して日本なりやを疑ひ、并(あわ)せて女王の名が天照大神に本づくにあらざるかを疑へるなり。(善隣國寶記にこの疑あることは鶴峰戊申の襲國僞僭考にも摘出せり) 然るに元禄年間、松下見林がその名著、異稱日本傳を作りし時は、後漢書、三國志のいわゆる卑彌呼を全く神功皇后の舊説のまゝに信じて、少しも疑ふところなきものの如くなりき。この從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は、「卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、その使いと詐りて私に遣はしたるなり」とし、「自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなり」といへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、「なお魏志の女王は神功皇后を指すに似たり」といへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、これより後の史家は皆なこの説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。 鶴峰戊申に襲國僞僭考あり、(やまと叢誌に出でたり)本居氏を祖述して、更に一新説を出し、「襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞りて漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を獻ぜしも、皆なこの國なり、景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼とは傳へたるさまなり」といへり。この説は又頗る世の學者を驚かして、靡然として之に從はしむる力ありたる者の如く、黒川春村の北史國號考には、なお本居氏の舊説によりて、卑彌呼を神功皇后とし、筑紫人の使譯、僞りて朝廷のと名告しならんといへるも、鶴峰氏の説の後の史家に奉行せらるゝには如かざりき。 明治以來の史家は、大體に於て鶴峰説の範圍を出でず。菅政友氏の漢籍倭人考、吉田東伍氏の日韓古史斷、那珂通世氏の日本上古年代考、久米邦武氏の日本上古史等、皆な一樣に筑紫女酋の説を取り、但だ熊襲の女酋とする者と、筑後、肥後あたりの女酋とする者との小差を存するに過ぎず。久米、菅諸氏の手に成れりと見ゆる國史眼の若き、吉田氏の日本地名辭書の若き、常用の典據とせらるべき性質の書にすら、已にこの説を載せ、久米氏の如きは邪馬臺の考證時代は既に通過したりといふに至れり。 これ等諸家の説に對し、各別に批評を加へんことは、煩雜にして且つ冗漫に渉るを免がれざるを恐るゝを以て、單にその大意を述べて、評論の變遷を示し、而してその説の可否は、必要なる限り、本文考證の際に道及ぼさんとす。 |
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四、本文の考證
本文は上に掲げたれば、ここには主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。なお事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、その異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたるものなり。その異同は各々その字句の下に擧ぐべし。
以上、地名を考證し畢る。(以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號)
次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。
以上 人名を考證し畢る。次に論ずべきは道里なり。白鳥庫吉博士は、最近の考證に於て、道里に關する意見を發表せられたるが、その大要は帶方郡より女王國に至るまで一萬二千餘里なるに、その中間帶方郡より狗邪韓までは水路七千餘里、狗邪韓國より末盧國まで水路合して三千餘里、末盧より不彌まで陸路合して七百餘里なれば水陸合計、已に一萬七百餘里を算し、剩す所は一千三百餘里に過ぎず。この一萬七百餘里は我が二百九十餘里に過ぎざれば殘れる一千三百餘里にては大和に達するに足らずといふにあり。然れども當時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なる者なりや否や、已に疑問なり。帶方郡より女王國に至るとは、女王之所都なる邪馬臺國を指せりや、女王境界所盡なる奴國を指せりや、將た投馬國と邪馬臺との接界を指せりや、先づ之を決せざるべからず。女王之所都に至るとせんには、白鳥氏の計算の如くなるべきも、奴國に至るとせんには一萬六百餘里に過ぎず、もし投馬と邪馬臺國の接界を標準とせば、一萬二千餘里は必ずしも短きに過ぎたりとはすべからず。且つこの道里は海路をば太だ遠く算し、陸路をば比較上近く算したる者なることを認めて、伸縮する所なかるべからざるが上に、下節に述ぶる如く帶方より不彌に至る道里と、帶方より女王國までの道里とは、その記者をも記事の時をも異にしたれば、之を一致せしめんこと難かるべし。又當時奴國、不彌國以南にして道里明白ならば、宜しくその數を記すべきに、單にその行程を日數にて計り、里數を擧げざるを見れば、この間の道里を一萬二千餘里の中より精確に控除して計算せんことは、杓子定規に近きの嫌あり。故に考證の基礎を地名、官名、人名等に求むるの寧ろ不確實なる道里に求むるよりも安全なるを知るべし。地名を等閑視するの過は、白鳥氏の考證に於て、已に之を見る者あり。氏は魏使が一支より末盧に至れる地點を定むるに、菅氏の説に據りて松浦郡値嘉島の見禰良久崎に因りし者となせり。値嘉島は今の五島なれば此より陸行して伊都に至るべき理なきことをば注意せられざりしと見ゆ。これ著しき誤謬なり。余が見る所にては、魏使の上陸地點は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗縣主祖熊鰐、天皇を周芳の沙磨之浦(即ち佐波にして、本傳の投馬に近き程の處なり。此の沙磨に關しては景行紀及び豐後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際經由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし)に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門より向津野ノ大濟に至るを東門とし、名籠屋ノ大濟に至るを西門とすとあり。名護屋が當時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壹岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。向津野大濟とあるは、周防の上之關、室積あたりに當るべきか。此あたり今は熊毛郡なれども、古は都濃郡とともに角國の中なりしならん。或は熊毛郡を古の周防郡なりしならんと説く者あれども、沙磨之浦が周芳に屬するを見れば、周防郡は都濃の西に在りて、東に在らざりしなり。この都濃即ち向津野の津野と解すべく、向といへるは上之關などの海島にて、都濃の對岸に在る者を指せるならん。余は魏使の投馬以東に於ける上陸地點をこの向津野附近の要津ならんと想定す。道里を考ふるの次で聊か之に及ぶ。 次にこの傳を構成せる材料に就て論ずべし。三國志は魏略に據れること、已に言へる如くなるが、魏略が何等の材料を採用せしかも推定し得べからざるに非ず。余は之を四種に解析せんとす。 一、倭人在二帶方東南大海之中一より使譯所レ通三十國までは漢書地理志に據りて、當時の事に及ぼし總序せる者、是れ一種なり。
二、景初三年六月より末尾に至るは、是れ當時官府の記録に據れる者、是れ又一種なり。
三、倭使の始めて帶方郡に詣りし時、之に本國の事情を訊問し、加ふるに漢書の如き前代の記録を參考して作れる記事、是を第三種とす。余は傳中、左の各節を以て此の性質の者と斷定す。
次有二斯馬國一より與二*耳朱崖一同に至る一節。(い)
其行來渡レ海詣二中國一より持衰不レ謹に至る一節。(ろ)
其會同坐起より人性嗜レ酒に至る一節。(は)
參問倭地より五千餘里に至る一節。(に)
四、魏使が倭國に至り親しく見聞せる所を記せる者、是を第四種とす。即ち左の各節なり。
從レ郡至レ倭より旁國遠絶、不レ可レ得レ詳に至る一節。(イ)
倭地温暖より以如二練沐一に至る一節。(ロ)
出二眞珠青玉一より視二火*一占レ兆に至る一節。(ハ)
見二大人所一レ敬より船行一年可レ至に至る一節。(ニ)
一種と二種とは辯證を要せず。三種四種をかく解析せる標準は、一には三種に屬する記事が多くは倭より郡に至る方面より着眼し、四種に屬する記事が多くは郡より倭に至る方面より着眼せるの別あるに由る。二には次有某國云々といへる國名の排列が大和の王畿附近、特に伊勢を起點として、次を逐て最後に及べるに、從郡至倭云々といへる國名の排列は、之と全く反對の排列を爲せるに由る。三には記事に重複ありて、屬辭に脈絡なく即ち三種の(い)節、風俗不淫の句が四種の(ニ)節、婦人不淫不妬等の句と重複し、三種の同節、禾稻紵麻以下、箭鏃に至る物産が四種の(ハ)節に記せる物産と脈絡相屬せず、四種の(ハ)節、父母兄弟云々の句、三種の(は)節會同坐起云々の句と脈絡相屬せざるが若きに由る。又「夏后少康之子。封二於會稽一。斷レ髮文レ身。避二蛟龍之害一。(三種い節)」とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、「作レ衣如二單被一。穿二其中央一。貫レ頭衣レ之。種二禾稻紵麻一。蠶桑緝績。――其地無二牛馬虎豹羊鵲一。兵用二矛楯木弓一。――竹箭――或骨鏃。(同節)」とあるは、大要漢書地理志の*耳朱崖の記事を襲用せり。これ等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の參問云々も亦然りとす。次に零碎なる字句の異同を校訂して以て、この章を終ふべし。注に魏略を引きて「正歳四時」とある時を宋本には序に作り。「記二春耕秋收一」とある「記」を宋本には「計」に作れり、從ふべし。「重者滅二其門戸及親族一」の「滅」を宋本は「沒」に、親を宗に作れり亦從ふべし。「其國本亦以二男子一爲レ王。住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年。乃共立二一女子一爲レ王。名曰二卑彌呼一」。この數句異同甚だ多し。後漢書には前にも引ける如く、「建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱二大夫一。倭國之極南界也。光武賜以二印綬一。安帝永初元年。倭國王帥升獻二生口百六十人一。願二請見一。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無レ主。有二一女子一。名曰二卑彌呼一」に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間を靈帝光和中に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に無レ主二字なきことは三國志に同じ。宋本御覽は三國志を引きて住七八十年を靈帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願二請見一に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以二男子一爲レ王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覽が三國志を引て靈帝光和中の句を殘せるは、當時の異本或はかく作りし者ありけん。 景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。 |
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五、結論 已上の各章に於て、魏書倭人傳の邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと、女王卑彌呼とは倭姫命なることはほぼ論じ盡せり。ただその魏と交通せる時期が我が國史に於て、如何なる時代に相當するかは、なお未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以てこの考説を結ばんとす。 余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、その時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語り部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。故にこの魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當るものと定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、この間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、「崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有二背叛一」(崇神紀六年の語)により、神祇を崇敬せしこと、武埴安彦の叛、四道將軍の出征、狹穗彦の亂などに當る者とせんには、その間五六十年にして、長短頗る當を得る者の如し。これ我が古史の紀年を定むるに於て亦甚だ有益なる資料たるべきなり。 今一事の注意すべきは、余が考定せる倭國の使人が田道間守以外の諸人も、皆な但馬、出雲より出でし人物たることなり。崇神紀六十年に見えたる出雲大神宮の神寶を貢上せしめたること、垂仁紀八十八年に見えたる但馬出石の神寶を獻ぜしめたることを併せ考ふるに、神寶の貢獻は實にその國の服屬を表する者なるべく、この二國の服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと、已に説く所の如くなるを以て、その時外交の使命を奉ぜし者が但馬、出雲二國の名族たりしことは、事情に於て極めて當然なりと謂ふべし。もし倭人傳に見えたる倭國の習俗その他をも旁證し、又諸韓國との關係にも及ばんには、更に闡發を要する者あるべきも、この考證已に長きに過ぎたるを以て、今皆な之を略し、別に補考を草するの機を待たんとす。(以上明治四十三年七月「藝文」第壹年第四號) |
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附記
この一篇は之を發表せし當時に於て、已に頗る專門學者の注意を惹き起したり。余と同時に白鳥博士は邪馬臺九州説を發表せられしが、尋で博士の門人橋本増吉氏は、長篇の論文を史學雜誌に載せて、同じく九州特に筑後川流域説を主持し、以て余が所説を覆さんとせられしも、多くは余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に駁議を要すべき所なきを以て、余は敢て之と爭はざりき。唯だ余が滿足せし一事は、この一時の議論ありし結果、並時の學者が九州説を定論とせし迷信的意嚮より離脱し、再び近畿説と九州説との兩端に就て考慮するに至りしことにして、六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り、その中には九州以東の海路を山陰に考察する説などをも生じたり。之が一定の結論をなすまでには、なお討究を累ねざるべからざること勿論なるも、學者が遠くは本居、鶴峯諸氏の名に震ひ、近くは星野、菅諸先輩の言に雷同せざるに至りしだけにても一の進歩と謂ふべし。今この篇を再び世に問ふに當り、二十年間に於ける史論の變化を囘顧して、中懷に*觸する所なきを得ず、因て聊か篇末に附言することこの如し。
余が此篇を出せる直後、已に自説の缺陷を發見せし者あり。即ち卑彌呼の名を考證せる條中に古事記神代卷にある火之戸幡姫兒、及び萬幡姫兒の二つの姫兒の字を本居氏に從ひて、ヒメコと讀みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと讀みしが正しきことを認めたれば、今の版には之を改めたり。 その外、「到其北岸狗邪韓國」の條下に「此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る」といひ、又篇末に「此の二國(但馬、出雲)の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと云々」といひしが、その後余は倭人が支那の戰國の末より漢代に至るまで、半島の南部に定住せしこと、山海經の記する所によつて推定し得られ、姓氏録に載する所、左京皇別吉田連の祖鹽乘津彦命が三己*の地に遣されしは、半島に殘存せし倭人が、他族の壓迫に對して、本國に援助を請ひし者なるべしと考ふるに至りしを以て、任那を崇神天皇の時、始めて服屬せし如く見ゆべく記せる前説は改訂せざるべからずと考ふるに至れり。 又「對蘇國」の條に、之を近江國伊香郡遂佐郷に擬したれども、村岡良弼氏の日本地理志料に遂佐は遠佐の訛誤ならんとの説當を得たりと考ふれば、改めて之を同國蒲生郡必都佐郷に擬せんとす。延喜式神名帳によれば、本郡に比都佐神社あり、又この地方に鳥坂長峰あるによるなり。又投馬國につきては、近年之を備後の鞆津に擬する説あるは、余も一考すべき者と考ふ。余が前説は周防の佐波が古代より要津として知れわたりたる地なるに重きを置きたれども、鞆といづれか可なるやは、更に考ふべし。又西高辻男爵の藏せらるゝ張楚金の翰苑卷第卅に倭國の條ありて、其中に魏略を引きて「女王之南又有狗奴國」とあり、狗奴國を女王之南とせるは、恐らく魏略の文を誤解せる者ならんも、之によりて後漢書の「自女王國東度海千餘里。至拘奴國」とするの誤りは益々明らかなり。なお參考すべき各論文の略目を左に掲ぐ 白鳥博士「倭女王卑彌呼考」(明治四十三年六月、七月東亞之光第五卷第六號、第七號)
白鳥博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號) 橋本増吉氏「耶馬臺國及び卑彌呼に就て」(明治四十三年十月、十一月、十二月史學雜誌第貳拾壹編第拾號、第拾壹號、第拾貳號) 高橋建自博士「考古學上より觀たる耶馬臺國」(大正十一年一月考古學雜誌第十二卷第五號) 三宅米吉博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號) 笠井新也氏「耶馬臺國は大和である」(大正十一年三月考古學雜誌第十二卷第七號) 笠井新也氏「卑彌呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的關係」(大正十二年三月考古學雜誌第十三卷第七號) 笠井新也氏「卑彌呼即ち倭迹々日百襲姫命」(大正十三年四月考古學雜誌第十四卷第七號) 中山太郎氏「魏志倭人傳の土俗學的考察」(大正十一年三月、五月、八月考古學雜誌第十二卷第七號、第九號、第十二號) 山田孝雄氏「狗奴國考」(大正十一年四月、五月、六月、七月、八月考古學雜誌第十二卷第八號、九號、十號、十一號、十二號) 志田不動麿氏「耶馬臺國方位考」(昭和二年十月一日史學雜誌第參拾八編第拾號) 以上八氏中、九州説は白鳥博士と橋本氏とにして、餘の六氏は近畿説なり。(昭和三年十二月記)
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底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房 1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行 1976(昭和51)年10月10日初版第2刷 底本の親本:「読史叢録」弘文堂 1929(昭和4)年8月初版発行 初出:「藝文」 1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、7月第1年第4号 ※底本の「内藤湖南全集 第七巻」は、「研幾小六」と「読史叢録」からなり、本稿は「読史叢録」中にある。 ※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「史家の甚だ等間に付せし」には、「門<月」をあてている。「門<月」は「閑」の意味で使用されている。 [#「叔」の別体、268-18]は、「大字典」講談社、1965(昭和40)年9月15日第1刷発行322ページ、「叔」の見出し字の下にあるものに同じ。 入力:はまなかひとし 校正:米田進 ファイル作成: 2003年6月30日作成 2011年1月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
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●表記について
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(私論.私見)