四 黒塚古墳について
黒塚が示したところは明瞭である。何が明瞭だと言いますと、鏡は一つしか出てこなかった。そんなことはない。そしてたくさん出てきた。そう言いますが私がいま言った意味はお分かりでしょう。棺の内から一枚出てきたのは画文帯神獣鏡だけである。棺の中に一枚鎮座していたのは三角縁神獣鏡ではありません。後漢時代に始まる画文帯神獣鏡一枚だけです。これはもちろん四・五世紀まで作られた鏡です。これが一枚だけ枕元の所にあった。いわゆる三角縁神獣鏡の方は百パーセント棺の外にある。疑いようのない事実である。
そうするとこの墓に葬られた人、葬った人々にとって大事な鏡はどちらか。棺の内の画文帯神獣鏡か、棺の周りに目白押しに立てられていた三角縁神獣鏡か。先入観のない人なら、中の一枚が大事に決まり切っている。いや外の鏡が大事だ。そう言うならば遺体は大事でないのか。遺体は外に置いてあったのか。こうなりますよ。
いや鏡は外に大事なものを置くのがルールである。鏡が外でも別に問題はない。そう言っている人がいるが御苦労なことです。それでは先ほどの大事なもの「三種の神器」は棺の外にあったのか。三雲遺跡の甕棺、私は甕棺と言いますが、その「棺の外」にあったのか。有名な福岡県前原市平原、そこから割竹形木棺が出てきた。これも「棺の外」にあったのか。とんでもない。百パーセント棺の中である。大事だから全部棺の中にある。「三種の神器」は棺の中にある。「三種の神器」を軽視して棺の中に置いた。そんなことを誰が言いますか。
三角縁神獣鏡は大事だ。鏡は外に置くのがルールである。それは結論を指し違えているから、説明もそう言わざるを得ないだけである。世界中の人に説明できる結論ではないと私は思う。もし三角縁神獣鏡が中国の天子から頂いた鏡であるなら、これほど失礼な話はない。こんな貴重なものを「棺の外」に置いといてくれ。こんな失礼な礼儀知らずな男はいない。黒塚の被葬者は傲慢無礼だ。礼儀を知らん人間とみなして良いのでしょうか。私はやはりそのようなことは言えないと思う。やはりそこに事実にあることから自然な理解をしてゆく。それが前もって決めてあった結論と、結論が合っても良し合わなくとも良し。無理矢理合うように説明を曲げるのは学問でないと思う。
今度の黒塚の素晴らしいところは、盗掘されずに出てきたことである。今までの発掘された鏡ではみんな盗掘を受けていて破壊されている。元の配置は分からないことが多い。菅谷文則氏が『歴史読本』九八年九月号で、一覧出来る報告書を出されていますが、ところがほとんど盗掘を受けている。平原古墳はすこし違いますが他の古墳はほとんど盗掘を受け、まともな元々の位置で見つかったのは、ほとんどない。ところが黒塚の場合は盗掘されかけたが、なぜか諦めが良くて途中で止めた。地震で崩れたところにぶつかって盗掘を止めた。盗掘されないままで、現状のままの考古学的に素晴らしい状態で出てきた。はっきり証拠をもって考えることが出来る。数から言えば黒塚古墳にならぶが、椿井大塚古墳の場合はひどい話で、あまりにも有名で当時の国鉄、現在のJRが線路工事のため山を切り裂いていた。そうしたら頭から鏡がぱらぱらと墜ちてきた。これは大変だというわけで京大に連絡した。土曜日でしたが、その時助手で京大に当直で居たのがで樋口隆康氏で、新聞社と一緒に出かけられた。そういうことをお聞きしました。このような状況では鏡を持って帰られた人もおられた。このように現状がどうだったかは、推察は出来るが正確なことは言えない。ところが今回の黒塚は正確に残った。それが素晴らしい値打ちだ。
そういうことから端的に言いまして三角縁神獣鏡は卑弥呼が中国から貰った鏡でない。なぜならばその他大勢扱いである。先入観なしに理解するとそう言わざるを得ないと思う。
それでは三角縁神獣鏡が中国から貰った鏡でないとなると、それでは邪馬台国は何処にあるのか。また霧に包まれている。そういう報道がおこなわれている。三角縁神獣鏡が魏の鏡でないと言っている人たちさえも、よけい邪馬台国が分からない。そういう議論が盛んにされている。私から見ると先ほどの図のように「銅鏡百枚」とあるのだから鏡がたくさん出る地帯でなければならない。それが常識ですよ。鏡がたくさん出るところは二カ所しかない。漢式鏡を取れば、博多湾岸とその周辺に集中している。また三角縁神獣鏡を取れば近畿が中心であることも疑いようがない。
だから三角縁神獣鏡が黒塚の出現によって、卑弥呼・壱与が中国の天子から貰った鏡ではない。西晋から貰った鏡ではないとなりましたら、やはり鏡は博多湾岸とその周辺になる他はない。それを誰も言わない。それを言ったら古田を呼ばなければならない。古田は退けておけ。相手にするな。対談にも呼ぶな。そういう最中である。いくらそんな事をしても駄目です。事実は変わるわけではない。(他に鏡があるわけではない。)
五 金印の解釈の間違い
これは結局金印の解釈が駄目だという問題である。「漢の委の奴国」という読み方をしていることが問題である。以前は「漢の委奴国王」という読み方をしていた。江戸時代はそれが主流派です。
それが明治時代、現在茨城県筑波にある教育大学、昔の高等師範の教授であった三宅米吉という方が「漢の委の奴国」という読み方をした。その読み方と博多湾岸が那の津と呼ばれ「奴(ナ)」に当たるから良いとなった。こういう理由です。しかし「漢の委の奴」という読み方は具合が悪い。「AのBのC」という「三段読み」という読み方をした印は中国にはない。当然ながら与える中国の方がA、与えられる方がBで「AのB」という例しかない。私は『失われた九州王朝』という本で色々例を上げましたけれども。これが通例であって、まして金印ならば途中に変な人間が入ることは有り得ない。やはり「漢の委の奴国」という読み方は出来ない。「漢の委奴(イドもしくはwido)国王」と読んだ方がよい。「委」は倭人の種族という意味、「凶奴」と同じ「奴」はグループの意味で、「委奴」は倭人グループ。だから「漢の委奴国王」は、倭人グループの中心の王者が博多湾岸にいたことを意味している。
ところがそれを「漢の委の奴国」という読み方を教科書に載せてしまった。載せてしまったということは博多湾岸を「奴国」に決めてしまった。「奴国」というと『倭人伝』では三番目の国。『倭人伝』では一番目の国は七万戸の「邪馬壹国」、二番目の国は「投馬国」は五万戸、そして三番目の国である「奴国」は二万戸の国である。一番目の七万戸に対して、
がた落ち二万戸の三番目の「奴国」を「なこく」と読んで、博多湾岸に決めてしまった。だから「邪馬台国が分からない。分からない。」というのは正確ではない。分かっている知識が一つだけ有る。「邪馬壹国」で無いと理解している地帯が一つだけ有って博多湾岸である。がた落ちが三番目の「奴国」である。もしそうなら弥生期には女王国の「邪馬壹国」や「投馬国」には、がた落ち三番目の博多湾岸の「奴国」より何倍かの「三種の神器」が出てくる地帯がなければならない。しかしそんな所は日本国中、どこを探してもない。どこもないから分からない。それは三宅米吉の「博多湾岸が奴国だ。」という考えが間違っている。光武帝の終生のライバルであった猛々しい種族という意味の「凶奴」、それに対して従順な種族であるという「委奴」という呼び方を、倭にした。その「委奴」の中心地が博多湾岸というだけです。それを「奴国」に、博多湾岸に決めてしまったために、今更「邪馬壹国」には出来ない。
考古学の編年がありますが、これは考古学者の仮説なのです。考古学者が色々考えて、弥生中期を紀元前百年から紀元百年と考えて、『倭人伝』の三世紀では無いと考古学者が仮に当ててきた。考古学者も権威者と言っても人間ですから、人間のやっていることですから一度決めたら絶対正しいということはないはずだ。やはりそれが出土遺物の状況や文献解読に合えば正しいし、合わなければ人間の立てた仮説は、もう一度考え直すのが仮説の仮説たる由縁です。
絶対であってそれを押しつける。考古学の編年を受け入れない奴は相手にせん。古田の言うことは相手にせん。そういうのは学問とは言えないと思う。今の考古学者の決めた編年に合わない。そういうことがある。それは先ほど言った博多湾岸を「奴国」と
決めてしまっている。そのために身動きが取れなくなった。身動きが取れなくなったときは、今の大前提にしているテーマに、どこか間違いがあるのではないか。もう一回疑ってみることが学問である。
先ほどのキューリー夫人だって、ゴミ箱に捨てたと言うことは、当時の物理学の常識からみれば絶対にそんなものに、放射能が有るはずがなかった。しかしそれを大前提にしてはいけなかった。もしかしたら有るはずのないあのゴミ箱の中に全体の半分の四も有るのではないか。そして調べたら有った。放射能数値の全体の八という数値の半分の四が有った。それが分かったのが輝かしいキューリー御夫妻の業績の記録だった。
それに対して、考古学は博多湾岸を「奴国」と決めている。「邪馬台国」でないことはみんなで決めたのだ。考古学の編年からみて三世紀と違うのだ。だからそれは動かせない。それを動かせないままで、みんなで考えようというやり方を、考古学がしていることに、わたしは問題があると考えています。
六 中国の鏡
さて次の問題に行きたいと思います。
『洛陽晉墓的發掘』
(中華人民共和国河南省文化局文物工作隊第二隊一九五七年)
これは『洛陽晉墓的發掘』と題する中国側の考古学の発掘報告書です。そのポイントの所をコピーしたものです。
洛陽の晋から出てきた物、この晋は西晋のことです。東晋は後の時代で南京に都が移ります。洛陽が都だったのは西晋です。その西晋で発掘された墓のものをまとめた報告書です。
その中で大事なことは、中国の墓に年代が書いて有るものが出てきた。有り難いことです。日本の墓にはなかなか年代が書いていないので困る。そこに年号が書いてある墓誌銘が出てきました。太康八年(公元二百八十七年)、元康九年(公元二百九十九年)、四世紀に入りまして永寧二年(公元三百二年)。この三つの年号が出てきた。 (注 公元とは西暦のことです。)
そこから出てきている鏡を見て下さい。この鏡は、一人が全部持っているわけではありません。一人一枚が原則です。多くのお墓から出てきたものをまとめたものです。
日本の考古学者は、この墓は西晋の墓であるから魏の墓ではない。そう言いますが、大きな間違いだと思う。
それは『三国志』を書いたわたしの尊敬する歴史家である陳寿が死んだ年は、元康七年(西暦二百九十七年)です。ところが先ほど言いました三個の年号。太康八年は二百八十七年、これは陳寿の死んだ十年前。元康九年は二百九十九年、これは陳寿の死んだ翌々年だ。もう一人の永寧二年というのは三百二年、陳寿の死んだ五年後だ。と言うことは、ここに葬られた人は皆陳寿の知り合いだということです。同じ洛陽で死んでいる。しかも年号が書いてあり、 ここに葬られる人は庶民ではない。陳寿の顔見知りの貴族か、官僚の墓なのです。その人達の鏡が、ここにあるという事は、日常顔を写していた一番馴染みの鏡。それを一緒に葬ってあげましょうと墓の中に入れた。ここにあげてある鏡はそれなのです。陳寿と同時代の人が身辺で使い続けていた鏡である。陳寿はもちろん魏の時代に生きていました。これは有名な話ですが、陳寿は生まれた時、蜀に生まれた青年だった。蜀が滅んで魏に来た。魏の宰相に取り立てられて史官になった。魏の時代はずっと洛陽で過ごしている。もちろん魏から西晋に変わる。その西晋の時代に『三国志』を作る。作り終わったときにボスが失脚して、一度『三国志』は日の目を見なかった。やがて死んだ後、まもなくボスのライバルが失脚して名誉回復した。そして『三国志』が正史と認められた。そういう有名な話がある。その辺の経緯をみんな知っている人々の墓である。わたしが何を言いたいかお分かりでしょう。つまり『三国志』に書いてある鏡は、この類の鏡である。ここには三角縁神獣鏡は全くない。ここにあるのは前漢式鏡もしくは後漢式鏡しかない。当たり前のことで、後漢が滅んで魏になる。しかしこれは「禅譲」である。禅譲ということは、後漢の天子は第一の家来に天子の位を譲った。第一の家来が天子を名乗って魏という国号を称する。言ってみればトップが変わっただけで後は全員同じ。実際の所はそんなきれい事ではないと思う。 推測ですけれど後漢の天子は座敷牢等に押し込められて、変なことを言われたら困るから囚人同様になっていたと勝手に推測する。 そして第一の家来が、うやうやしく天子の位についた。その後余計なことを言わせないために後漢の天子を処刑した。それが本当のところだろう。しかしそれは実体であって表面上は、世間に公布する大義名分は、徳の高い後漢の天子は自分の息子に天子の位を譲ろうとせずに、その代わり第一の臣下である曹氏に天子の位をお譲りになった。なんと目出たいことではないか。そういう公布が出ているはずだ。そういうことは、魏の人たちが魏の時代に身辺に使っていた鏡は、全て後漢の時に作られた鏡に決まっている。 それを魏になったから後漢のデザインの鏡は全部止めて、新しく魏らしいデザインに作り変えなければ承伏しません。そんなことは言うはずが無い。また魏から西晋も同様である。西晋になったから魏の時代のデザインの鏡は全部止めて、新しい西晋のデザインに作り変えなさい。同じ条件の禅譲ですから、そんなことは言うはずが無い。わたしはこれを机の上の理屈で言っていますが、それを実証するのがこの発掘報告書です。つまり西晋の終わりに亡くなった人達のお墓から出てきた鏡は全て前漢鏡・後漢鏡を愛用して死んでいます。わたしの 今言った推量が、推量ではない、事実であるということを証明しています。そうするとやはり卑弥呼が貰った時の鏡も前漢鏡・後漢鏡であると考えざるを得ない。この時の鏡が集中して出てくるのは、やはり糸島・博多湾岸の鏡である。この基準尺を取るという考え方からしても、やはり糸島・博多湾岸であると考えざるを得ない。
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