「浦島太郎から辿る世界史と考古学」

 (最新見直し2013.02.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「浦島太郎から辿る世界史と考古学」を考察しておく。

 2013.02.11日 れんだいこ拝


 浦島太郎から辿る「世界史と考古学」」を転載しておく。

 邪馬台国論争100年の不毛

 決着がつかない邪馬台国論争 決着がつかないその原因

 1、邪馬台国を現実の日本国内のいかなる場所に比定しようとも、「魏志倭人伝」に述べられた地理行程とは、絶対に合致しないからです。7万戸余、少なく見積もっても35万人の大人口を誇る大都市の痕跡は、日本には見当たりません。

 2、「魏志倭人伝」に述べられている邪馬台国への地理行程は、地中海のイタリアのベネチアからエジプトのルクソールまでを正確無比に書いているのですが、それを、無視しているからです。

 3、その中央の要衝の地クレタ島やサントリーニ島は倭人が大活躍した舞台であったその証しとして、ファイストス円盤が造られており、これが、完全に、現在も通用する日本語で書かれています。これを、何ら検証することなく無視しているからです。

 4、ファイストス円盤には、「恵穂葉」という神名や「葉枝扶ヨシフ」という「聖書」中の第一級の固有名詞が、文字も意味も日本語で解明でき、「古事記」日本書紀」が、解読のヒントを提供しています。しかし、これも無視しているからです。

 5、ファイストス円盤には、彦穂々手見命が書かれており、「聖書」と「古事記」「日本書紀」「風土記」そのほかの古典が連動して、その彦穂々手見命が、ヨセフの息子(子孫)であることを、明確に明かしていますが、このような重要なことを検証せず、黙殺しているからです。

 6、彦穂々手見命は、別伝で、浦島太郎として伝えられており、「風土記」を介して、それはアトランティスと結び付けるように編纂されているのですが、アトランティス=クレタ島説とも符合していますが、検証しようともしないからです。

 7、「古事記」・「日本書紀」には、彦穂々手見命の子は、ウガヤフキアエズと記されていますが、これをギリシャ語で解すると、アトラスのことです。「古事記」・「日本書紀」の神代巻の末尾は、このウガヤフキアエズの子孫のことを記しています。それはギリシャのヘシオドスの「神統記」の末尾と同じ内容であり、それは、トロイア滅亡前後の建国のことが書いてあります。これについても検証をはじめません。

 8、紀元前1600年以前、縄文時代として区分されている時代の、日本人の様相を伝える、このような、超ど級の資料を完全無視するとは、日本の学者や政治家の愛国心、良心、責任感が欠けているからではないでしょうか。

 9、エジプトの王名には、日本語で読めるものがいくつもあります。邪馬台国エジプト説にとって、最も重要なこうした資料を無視しているのですから、邪馬台国論争が100年間不毛なのも当然です。これは、単に、邪馬台国論争の問題ではなくて、日本人の学問、研究、知性、良心、社会…全般にかかわる大問題です。

 この百年間のあいだに、私たちの知性や徳性は向上したのでしょうか。国民の大多数が、17年もの歳月と莫大な教育費を費やしてやってきたことは何なのでしょうか、今再考が迫られているような気がします。巷間、「東大話法」なるものが論議されています。ウィキペディアにも載っています。そこで、次回は、この
「東大話法」という亡国の言語術について、述べてみます。

 58 ツタンカーメンは倭人

 98 ツタンカーメンの謎 5

 歴史の偽造

 今回は、歴史の偽造について、意見を述べたいと思います。シーター様から次のコメントをいただきました。
 夏に放映されたNHKの知られざる大英博物館スペシャルをご覧になりましたか。古代ギリシアは白い文明ではなく、色彩鮮やかな文明であった事がわかってきたようで、エレクティオン神殿など真っ白な大理石の彫刻が目を見張るほどの色彩でCG再現されたのは圧巻でした。

 この番組を、わたくしも見ました。産業革命によって、急速に台頭してきたヨーロッパは、世界で優位に立つための歴史的根拠として、古代ギリシャを利用することにしました。古代ギリシャはヨーロッパのルーツとしてまさにふさわしいと考えたのです。ギリシャ彫刻がエジプトや西アジアの影響を受けていることを無視し、古代ギリシャはギリシャ人だけによって創られた白い文明であり、純粋で高度なものであるという思想にマッチするよう、大英博物館の地下室で、密かに大理石の彫像などの着色を削って白くしていたことを明らかにした番組でした。

 こうした、古代ギリシャの歴史の偽造については、すでに、マーチン・バナール氏「黒いアテナ 古典文明のアフロ・アジア的ルーツ 古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」において、より詳しい発表があります。


 マーティン・バナールの「ブラック・アテナ 古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」新評論 副題は「古代ギリシャの捏造1785年―1985年」

 マーティン・バナール「黒いアテナ批判に答える」藤原書店の表紙

 いずれも、部分的には、大変よく研究されていて、おおいに参考になる本であり、古代ギリシャの歴史が捏造され、西洋白人を最も文化的とする説を世界に定着させるのに大いに貢献したという主張は当たっています。しかし、ギリシャと日本、アテナと日本について言及されていない点は大きな瑕疵です。なぜなら、日本の「古事記」「日本書紀」の神話とギリシャ神話の類同はあまりにも多く、古代ギリシャの古い彫刻には日本的な風貌のものが多いからです。さらに、今から約3600年昔の火山爆発で埋没したサントリーニ島の厚く積もった灰の下から出土した壁画には、「まさに日本的」と云える風俗、センスのものが多いからです。マーティン・バナール「ブラックアテナ」の表紙を見てください。少なくとも「ブラック・アテナ」というタイトルとずれています。真っ白な彫像ではありますが和風です。

 ギリシャのメタクサ伯爵夫人(文化人類学を学ばれた)が、約100年前に来日された際に、木村鷹太郎氏を訪問して、「古代ギリシャと日本との類同のあまりにも多いのに驚き、かつ喜び、古代ギリシャを知ろうとする者は、是非とも日本へ来ねばならぬ」由、一夕を語り明かされたといいます。後に、メタクサ夫人は木村鷹太郎氏に、次の一文を寄せています。
 よく日本精神の真価を知り得るものはただ古代ギリシャの精神ばかりです。これら両国民は世界にかつて存在した諸国民中、最も芸術的で、また最も哲学的宗教的性質を有している国民であります。・・・・その人種と文明との外面的相違あるという裏面、そして、古代ギリシャと日本との類似のあまりにも多いという裏面には、古代ギリシャと日本との間に関係あることは疑うべからざる事であります。古代のデルフォイや、オリンピアのことを知ろうとするギリシャ学者は、日光あるいは京都に来て、それら金碧を以って装飾された殿堂や神域中に、神秘なる威厳を持って祭られある彫刻などを観なければならぬということです。そうすれば人は必ずや、宗教的太古は今なお日本において、親しき熟知の言葉をもって語りはじめるでしょう。・・・・ 両民族を結合せしめる連鎖を発見することは愉快極まりないことです。有名なる木村氏の御著述(「日本太古史」の英語ドイツ語翻訳本)は、あたかもアリアヅネの糸の如くよくその途を辿り得るものたることを信じます。今歴史の死灰から再生して、新生に入ろうと願う我がギリシャは、日本に於いてその古代文明の精神を発見し、両民族は協力一致して、今一度、芸術、哲学,人生の理想の創造を目指すことを願っております。1918年5月6日 イ ナ・メ タ ク サ

 イナ・メタクサ夫人はまことに正直な意見を述べられました。大英博物館の担当者にも、同じ見解を持つ者もいたことでしょう。しかしイギリス人たちは、線文字A粘土板文書を、焼締めて保存する代わりに、風雨に晒して劣化させ、しかもほとんど持ち帰ってしまいました。サントリーニ島の発掘を進めれば、線文字A文書と倭人の文明が出土する見込みがあるにも拘らず、発掘は停滞したままです。こうしたことは、なぜ起こるのでしょうか。

 「真実」は、インターネット社会である現代においても「隠されている事実」が多いのです。第一次、第二次世界大戦において、絶大な力を発揮した、元イギリス首相ウインストン・チャーチルは、「真実はきわめて重要なものであるので、これには常に“嘘”というボディーガードをつけておかねばならない」という信条を吐露していました。彼は、第一次世界大戦を前にして、イギリス議会において、こう述べました。
 「われわれは世界の富と貿易のまったく不釣り合いなほどの独占に成功した。・・われわれは、武力で獲得したその膨大で華麗な財産を何人にも煩わされずに保有し続けるために・・武力をつかって維持してきた。」

 1945年、米国と英国が戦勝国になって、チャーチルは、「我々の力は、われわれを他の諸国の上に君臨させた。我々は、いわば、高級住宅地で平穏に暮らす金持ちだ。」「これをずっと維持するためには、防衛を独占し、軍を強化し、世界を一極化することである。」と言っています。

 「ワンワールド」「地球は一つ、世界は一つ」などという美しいスローガンだけをみて、これを唱える人々を賛美している人たちは、国連軍や英米の軍隊が公金を湯水のように費やして守ってきたのが、欧米の「大資本家の財産」であることを知りません。でも、この度のアメリカの大統領選挙で、ロムニー氏が、「防衛予算を増やす。国民健康保険は必要ない。」と云い、「オバマを支持しているのは47パーセントの貧乏人であるから視野に入れる必要はない。」などと口を滑らせて、その正体をいぶかしがられてしまいましたが、これは、ウインストン・チャーチルたちの心情を受け継いでいるのがロムニー氏であること、したがって、ロムニー氏がなにかとてつもなく大きなこと、戦争?を画策していたと考えられる徴候を示すものです。オバマ大統領のもとでも、アメリカの民衆の貧富の差は増すばかりだったので、貧乏人たちからさえも見放されようとしていたオバマ氏が再選されたことは、ロムニー氏の黒幕にとっては、予想外の出来事であったにちがいありません。

 嘘で固めた世の中、一寸先は闇の世を作り出した白い資本家たちがその財を増やす最も手っ取り早い方法は、戦争なのです。その際、断然有利なのは、嘘の中に隠してある貴重な真実の情報です。ですから、今、アメリカで騒然となっているCIA長官の愛人問題で、「愛のメール」がわざわざ保存してあったことなど・・は単なるアリバイ工作に過ぎないと思われます。CIAとは、いったい何でしょう。その前身はOSS(戦略情報局)、さらにその前身はイギリスのSOE(Special Operations Executive )で、それを仕切っていた重要人物がウインストン・チャーチルでした。ウィキペエィアにSOEの簡単な説明が載っていますが、日本語には翻訳されていません。第二次世界大戦中、このOSEの作戦に、とりわけ「エニグマ」というトロイの馬作戦に、日本は翻弄されていたというのに・・・。

 さて、北朝鮮の朝鮮労働党宣伝扇動部が行った2007年の講演で、講師が北朝鮮のミサイルについて、「1発で原子力発電所1か所を攻撃すれば日本という国を地球上から消し去ることが出来る」などと発言していたことを、韓国のネットメディア・デイリーアンが2012年11月6日に公開しました。そのテープの内容を時事通信などが報じましたので、ご存知でしょう。報道によりますと、「北朝鮮のミサイル1発で、原発1か所を攻撃すれば、広島の原爆の320倍の爆発が起こり、日本という国を地球上から消し去ることができる」「第2次朝鮮戦争が起こる場合、アメリカ本土、日本本土、韓国を同時に攻撃する」などと発言したそうです。たかが朝鮮労働党宣伝扇動部の誇大宣伝とあなどるなかれ、なぜ、あんな超独裁軍事国家が存在しているのでしょう。すでに、どこかの国から、密かに高性能のミサイルや発射台が送り込まれてスタンバイしていないと言い切れるでしょうか。

 今、第三次世界戦争の決着が迫っていることを教えてくれているのは、何と、ヨハネの黙示録なのです。ヨハネの黙示録を解読すると、第三次世界大戦はすでに始まっています。しかし、ただ今のところ、彼らの当初の計画通りには進んでいません。しかし、第二次世界大戦で、日本という小国が孤立無援で、世界中から叩かれ、唯一の原爆被災国になったのは何故かを追及すれば、第三次世界大戦でも日本がいちばんのターゲットとなることがわかるはずです。「日本という国を地球上から消し去ろう」とする計画の存在については聖書で預言されています。

 しかし、「終わりの日に」・・とダニエル書2章は予言しています。「天の神は一つの国(日本)を起こされ(目覚めさせ)ます。その国は、永遠に滅ぼされることはなく、その国はほかの民に渡されず、かえってこれら(敵)の国々を討ちます。しかし、その国は永遠に立ち続けます。」「日本という国を地球上から消し去ることは出来ない」とヨハネの黙示録も予言しています。それは、ヨハネの黙示録2章 スミルナへのメッセージの最後に書かれている「勝利を得る者は、決して第2の死の害はない」という預言です。「第1の死」とは、ヨハネの黙示録11章の「二人の証人、つまり、母と子からなる日本国の死」であり、それは42カ月間異邦人に蹂躙された第二次世界大戦で「日本国の主権が奪われた」ことを予言したものです。「第2の死」とは、第三次世界大戦で謀られている「日本国の滅亡」のことです。しかし、その預言によれば、日本に非難と苦難、死ぬほどの艱難を与えるのは、自分は「ゆダヤ人」と自称している者どもであるといいます。(ヨハネの黙示録2章)そして、ヨハネの黙示録3章 フィラデルフィア(友情)へのメッセージ、そこには、「見よ、サタンの集いに属して、自分はゆダヤ人だと自称するものたちに、こうしよう。ゆダヤ人ではなく、実は偽りを言っている彼らを、あなたがたの足元に来てひれ伏すようにして、神があなた方を愛していることを知らせよう。あなた方は忍耐についての神の言葉を守った。それゆえ、地に住む人々、全世界に来ようとしている試練の時にあなたがたを守ろう。・・・・そして、その者の上に、神の名と、神の都、すなわち、神の元から、天から下ってくる新しいエルサレムの名、そして、新しい名を書き記そう。」と預言されています。この預言によって、第一次世界大戦、第二次世界大戦、第三次世界大戦すべてがエルサレム問題であること、そして、新しいエルサレムの名が日本であることがわかるように編集してあります。

 すると、なぜ、14世紀までの世界図の極東の位置、すなわち、日本のあたりにエデンの園が描かれていたのに、ある時期から描かれなくなったのか、その理由が推理できます。そして、なぜ、アジアの東端で、突然、神国という名称が天皇に捧げられ、次に、神国というタイトルが日本から消し去られたかもわかりますし、その一方で、時を同じくして、「いスラエルという神国もどき」がアジアの西の端で出現したのかがわかります。そして、この記事の最初に書いた、「大英博物館が古代ギリシャの女神アテナ像を金髪碧眼の白い女神のように偽造するなどの工作をした」のは、いかなる理由かも推測できます。

 ヨハネの黙示録は、約束の民「日本人」の為に書かれているのです。その2章と3章を読めば、歴史と宗教の「虚偽」の発生要因がよくわかり、ニチユドウソ論を預言者は支持していないこともわかります。なぜなら、さきほどのヨハネの黙示録10章42か月間蹂躙された「母と子」姿の日本は、「二本のオリーブの樹」と記されており、その二本と日本は掛詞なのです。この言葉は、聖書エゼキエル書37章の「エフライムの手中のヨセフの木とそれに付くイスラエル全家とユダの木を合わせて一本の木とし、手の中で一つにする。」という預言にリンクしています。そして、

 彼らは、もはや二つの国とはならず、二つの王国にわかれない。
 彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。
 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは、彼らとの永遠の契約となる。

 このように書かれている国は日本です。現今の「いスラエル国やゆダヤ」には決して当てはまりません。歴史や宗教の偽造は、神、地球、精神など、すべてを歪めてしまいます。今後、一つ一つ、こうした偽りを糺してゆくことを神は要求しておられるのです。それは、「古事記」に掲げられている命題、「この国を修理固成なせ」ということです。

 このようなことを書いても、大方の日本人は、本気にしません。GHQの占領政策で、教育と宗教が徹底的に改革され、以来、日本人は、その路線で洗脳されているからです。でも、日本人は、キリスト教徒にならない人がほとんどですし、ゆダヤ教を「神のもの」として感服するものもほとんどいません。そこまではついていかないだけの感性が備わっているのです。ラビのマービン・トケイヤー氏のタルムード礼賛の書をはじめ6、7冊読みましたが、「内容の次元が低い」ので、本当のラビなのかしらと、首を傾げました。

 わたくしは、「ゆダヤ人であると自称している人たちがわが国の足元にひれ伏す。」ということを正面切って言うおそらく唯一の人です。昨今の中東情勢を見ますと、ゆダヤの不利と認識されると、十倍百倍の報復をされそうです。だのに、恐れ気もなく本音を言うのは、わたくしは「性善説」を信じているからです。宗教家が政治家と結託して、闇の世を作り出しているのであり、いスラエルも日本もそのほかの国々も、大衆は、洗脳されているだけであると思っているからで、「性悪説」、つまり、「生まれながらの悪人」「生まれながらの罪びと」はたしかに存在しますが、それは、少数だと思っているからです。善人が悪人に振り回され、真実が隠され大嘘がまかり通るのは、もううんざりです。多くの人々のこうした思いがあることを信じているので、勇気を奮って書くことができるのです。聖書の預言も、「古事記」の預言も、神と真実が顕われることを保証しています。

 わたくしの本当の使命は、聖書の真実を露わにし、ヨハネの黙示録の解読を知らせることです。邪馬台国エジプト説の検証をしているのは、聖書や「古事記」の預言の解明の裏付けのためです。本当に、日本の現状を憂えておられるなら、読みづらくても、今まで、わたくしが書きつづったブログを読んで、聖書と照合してください。そして、聖書は、まず、わが日本人にあてて書かれているということを念頭に入れて読んでみてください。

 聖書には、読み飛ばしてよいところもあります。マタイ伝14章13節から20節にかけての有名な言葉、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」20節「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。」とは、旧約聖書から預言者5人分、新約聖書から預言者2人分を研究すればよい。残りはかごに取りのけておいてもよいということです。

 57 ツタンカーメンは倭人

 97 ツタンカーメンの謎 4

 ツタンカーメンは天若彦 2

 以下、すでに何度か書いたことではありますが、もう一度取り上げてみます。

 「古事記」神代巻の天稚彦と下照姫の物語には、天稚彦が亡くなった後、下照姫が次のように歌ったと記されています。それは、天若日子の喪を弔うとき、天若日子と瓜二つの友人が弔門に来ます。すると、皆が天若彦は、死んではいなかったのだと大泣きします。その天若日子と瓜二つの人物、阿遲志貴高日子根は、「吾を穢き死人に比ふる」と言って怒り、十掬剣(又の名、大量、神度剣)を抜いてその喪屋を切り伏せたのです。そこは「美濃国の藍見河の川上の喪山」だといいます。そして、その同母妹の高比売命、又の名下照姫が、次のような謎詩を詠います。

  天なるや  
  弟棚機の 項がせる
  玉の御統(みすまる) 御統に
  足玉はや
  み谷 二渡らす 
  阿遲志貴高日子根の神ぞ 

 トト・アンク・アメンの妻アンケセアメンである下照姫が詠った歌というこの歌を検証してみましょう。「棚機」という言葉で、天の川の七夕を連想させ、「古事記」の神宝製作の場面の「天の安の河原」を示唆しているのです。この天の河がナイル川であることは「オリオン・ミステリー」にくわしく説明したことですのでそれを参照してください。要約しますと、イギリスのロバート・ボーヴァル&エイドリアン・ギルバート著(NHK出版1995年)において、ロバート・ボーヴァル氏は「ギザの大ピラミッド三基をはじめとするピラミッド群は、オリオン座と天の川を地上に投影する形で建設されている。」と説いています。 

 ロバート・ボーヴァル氏は、エジプトのピラミッド群の設計は、ナイル川を地上の天の川に見たて、オリオン座のベルトの三ツ星に対応してギザの三大ピラミッドを配置してあると説き、その証拠として、オリオン座の三ツ星の写真にギザの三大ピラミッドの航空写真を重ね合わせると見事にぴったり一致していることを示しています。 また、ギザの三大ピラミッドに限らず、メンフィスにある第四王朝のピラミッドにも、オリオン座の主要な七星のうちの五つが対応すること、さらに、オリオンの頭部を形成している三つ、もしくは四つの小さな星がアブ・シールにある三基ないしは四基の小さなピラミッドに相当していると云い、また、足、ベルト、肩といった具合に、星々とピラミッドが対応しているといいます。下照姫の「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統(みすまる)」が暗示している「天の川、天の安河」とは、このナイル川を指しているのです。それは、ピラミッド群をも含めた範囲のことです。

 日本では古来、プレアデス星団をすばる(昴)と呼んでいました。「すばる(統ばる)」または「すまる(統まる)」という言葉は、「すべる(統べる)」からきており、「統一されている」「一つに集まっている」という意味をもつといいます。下照姫は、棚機姫として伝わっている昴(すばる)星座すなわち、プレアデスple iades(p-eleia-des)を「玉の御統(みすまる) 御統に」といって、注意を促しています。また、玉飾を糸でひとくくりとしたものを「万葉集」で「須売流玉(すまるのたま)」、「日本紀竟宴和歌」で「儒波窶玉(すばるのたま)」などと呼んでいました。これらは、「古事記」神代巻に記されている「八尺の勾璁(まがたま)の五百津の美須麻流珠(みすまるのたま)」という「日本の三種の神器」の一つをも指すのです。

 以上、この歌が「みすまるの玉」という御神宝について謎掛けしていることがわかります。

 また、奈良時代に成立したとされる「丹後国風土記」逸文には、浦島子(浦島太郎)が蓬莱島で出会った「其七豎子者(七人の童子)、昴星也。其八豎子者、畢星也」という記述があり、昴(すばる)星=プレアデス星団、畢(あめふり)星=ヒアデス星団の二つの星団がアトラスの子供たち、すなわち、アトランティスを星座化したものであることを示唆しています。プレアデスの星々には、アトラスの娘たちの名がつけられていますが、それは日本においても七夕七姫として名付けられています。

 マイア(Μαια; Maia) 秋さり姫
 エーレクトラー(Ηλεκτρα; Electra) 糸織姫
 ターユゲテー(Ταυγετη; Taygete) ささがに姫
 アルキュオネー(Αλκυονη; Alcyone) 百子姫
 ケライノー(Κελαινω; Celaeno) 梶の葉姫
 アステロペー(Αστεροπη; Asterope) 朝顔姫
 メロペー(Μεροπη; Merope) ともし火姫 夕顔

 そして、八乙女のうちの一人は、天から落ちたので、七人になったと伝えられています。

 この肉眼では識別し難いプレアデス星団が、3600年も昔に、ファイストス円盤上にちゃんと描かれているということを先に述べました。

プレイアデス星座 ワトソン図

 上のClaire Grace Watsonさんの作図によるプレイアデス星座は、次のような刻印を繋いで出来たものです。
lion ワトソン図

 ワトソンさんはこれを雌ライオンととっていますが、私は、犬=シリウス、そして、日と火を表しているとして、ファイストス円盤のB面を読み解きました。シリウスは「火花を散らす」「焼き焦がす」「輝くもの」というギリシャ語(セイリオス)に由来しています。シリウスは、おおいぬ座にあって犬星と呼ばれている星につけられた名前として有名です。エジプトではソティス、ナイルの星シホールと呼ばれ、特に古代エジプトでは季節の始まりを示す星としてあがめられてきました。そのため、エジプトではシリウスは女神イシスと同一視され、崇拝されていたそうです。 すなわち、シリウスはイシスの知恵のシンボルでもあるのです。イシスがイセであり、イリスであることは先に説明しました。

 Claire Grace Watsonさんの作図によるこのプレイアデス星座図の出現で、「南総里見八犬伝」もまた、アルゴ船や聖書の解明を補佐する書物であることを証明できます。「南総里見八犬伝」の物語を一言で説明しますと、八犬がそれぞれ持っていた「仁義礼智忠信孝悌」の文字が浮きでた八つの珠にまつわる話です。「南」はエジプト、「総」は、すばる星の「すべる(統べる)」を連想しますし、玉飾を糸でひとくくりとしたものを「万葉集」で「須売流玉(すまるのたま)」という・・・を想起させる物語です。そして、ファイストス円盤、における「昴(すばる)星座」の構成要素が「犬」を繋いでできているということと見事に符合するのです。「南総里見八犬伝」では、それらの八玉が、「四天王の目玉となる」という結末になるという深淵な物語りです。日本の神宝「みすまるの玉」が、プレイアデス、すなわち、アトランティス=トロイアゆかりのものであり、それは、エジプトのイシスのシリウスやトト・アンク・アメンと関係あることを下照姫の歌はものがたっています。

 今回のブログの冒頭で、天若日子と瓜二つの阿遲志貴高日子根が、「吾を穢き死人に比ふる」と言って怒り、十掬剣(又の名、大量、神度剣)を抜いてその喪屋を切り伏せ」た場所を「美濃国の藍見河の川上の喪山」であると「古事記」に記されていると書きました。「喪屋を切り伏せ」とは、ツタンカーメンの墓の痕跡を絶ち、これを伏せたことを意味して、「美濃国の藍見河の川上の喪山」とは、ナイル川の川上、即ち、ルクソールの王家の谷を示唆していると考えられます。とすれば、美濃国とはミーノス王の国であり、ルクソールはミーノス王の領地であったことが伺われるのです。

 また、阿遲志貴高日子根が、十掬剣(又の名、大量、神度剣)で喪屋を切り伏せた。とは、何を告げようとしているのでしょう。「十掬剣」は日本神話に何度も登場する剣で、「十握剣」「十拳剣」「十束剣」などと表記されており、また、天之羽斬、天之尾羽張、伊都之尾羽張などという呼び名を持っています。三種の神器の一つである「草薙の剣=天叢雲剣」に次ぐ重要な剣です。この剣の最初の持ち主は伊邪那岐命で、素盞鳴尊に継承され、出雲神話の中に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時の剣と伝えられており、また、彦穂々手見命が継承し、神武天皇が所有していたという大変な代物です。しかし、前にも述べましたように、この「トツカ」とは「トスカ」即ち、イタリアの「エトルルリア」の事であろうと考えられるのです。エトルリア Etruria は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。ギリシャ語ではティレニア Tyrrheniaといいますが、トスカーナToscanaというのもエトルリアのことなのです。

 トツカの剣が初めて神話に登場するのは、イザナギ(伊弊諾 伊邪那岐)とイザナミ(伊弉冉 伊邪那美)の神産みの場面です。天地開闢の後、国産みを終えたこの二神は、次に数多の神々を産み出していきます。そして、この神産みのはてに、カグツチ(加具土 軻遇突智)を出産したイザナミは、カグツチの炎で女陰(ホト)を焼かれ、その傷がもとで黄泉に行ってしまいます。
そこで、イザナギがトツカの剣でカグツチを切り伏せます。これは、「イザナミ」が日本の倭のことで、「ホト」がヘテ、即ち、ヒッタイトであるとわかれば、簡単に解ける謎です。ヒッタイトの製鉄所であるカグツチを切り伏せて、以後は、イタリアのトツカに拠点を移してしまったことの寓意なのです。

 ヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣を天羽々斬(あめのはばきり)といいます。「はばきり」という言葉が「ハパルキ、即ち鉄」のアナグラムになっています。そして、このトツカの剣はヤマタノオロチを切るときに、その尾の中にあった草薙剣に当たった時に刃が欠けたとしていますので、トツカの剣とクサナギの剣では製鉄方法が若干異なっているか、鉱石や砂鉄の質の優劣があるということを暗示しているように思えます。なお、このヤマタノオロチ=ヤタノオロチとは、アナトリアのヤズルカヤのアナグラムであり、ここを切り伏せて(切り捨てて)原料豊富、かつ、トレードに至便なトツカ(トスカーナ)へ「製鉄コンビナート」を移したというのが真相でありましょう。

 スサノヲは、アシナヅチ(足名椎命)・テナヅチ(手名椎命)いう夫婦とその娘(櫛名田姫)の窮地を救うためにヤマタノオロチを切ったのでしたが、このアシナヅチ・テナヅチの足とは足の形のイタリア、手とは手の形のペロポネソス半島を持つギリシャのことですから、エトルリア=トスカーナ=トツカの話も理解しやすくなると思います。ツチというのは、製鉄のシンボルです。

 我が国には、「古今伝授」という一子相伝の歌学の秘伝がありました。そのテキストのうちで、重要視されていた一冊に「在五中将 在原業平」の物語があります。この在五=ザイゴがアルゴであり、アルゴ船団の消息を伝えていると思われるのです。そして、その、中心テーマは、「在語」すなわち「ことばありき」で、「ヨハネの福音書」が伝えるところの「はじめに言葉ありき」「言葉は神なりき」です。「在五中将 在原業平」の奥義は「言問い」であり、「都鳥=都獲り」、すなわち、エルサレム問題です。それは、墨田区の「言問橋」にその名を刻みつけてあります。「在五中将 在原業平」の物語は「伊勢物語」というほうが一般的です。「伊勢の御神宝」が本来「日本国を幸わう言霊」であることが暗示されているようで、「万葉集」で、それを「我が日本国を幸わう言霊」と詠われれています。

 それゆえ、アルゴ船には50人の乗組員が乗ったという伝説は五十音を意識してのことです。オルフェウスも主な乗理組員の一人ですが、オルフェウスとは、黄泉に下った妻エウリュディケを連れ戻すべく黄泉に行って竪琴を弾いた人物です。そしてそれは、ダヴィデやダヴィデの詩編と連携しているばかりではなく古事記の伊邪那美を連れ戻しにいった伊邪那岐にリンクしているのです。オルフェウスは、オシリス=オリオンの亦の名でアスクレピオスのことでもあることは、「オリオンミステリー」のところで書いておきました。

 ところで、古今伝授の真の奥義を知っていた人は、常に一人か二人しかいなかったようです。そして、江戸時代にはいたようですが、ついに、一人もいなくなりました。「南総里見八犬伝」のほかに、「奥の細道」や「忠臣蔵」が、日本の秘密の一部を語っていることはあきらかです。「大石内蔵助」の名前も絶妙です。また、「いろは四十七士」とは、「日本の五十音」とアルゴ船の五十人を連想させます。「大石内蔵助」は、戯曲では「大星由良之助」とされていました。「大星」とは、オリオン=アスクレピオスの星にしてダヴィデの星です。ダヴィデの星をその息子のソロモンは百合の花で表現していました。ユリはユリガネ、即ち黄金のことでもあるのです。ユリガネとは、毛皮の上に砂金の混じった砂を流して、毛皮をゆらゆらと揺らして砂金だけを毛皮に付着させて採った砂金のことです。「ユラノスケ」の名に、この情報が込められています。敵役の「吉良」がすごい!キラとは雲母のことで、雲母のあるところは金脈に近い場合が多いと言います。

 アルゴ船は「金の羊毛」を積んだ船のことですが、それは、「ソロモンの黄金」と合体しますから、ソロモンの財宝と同義語なのです。アルゴ船にはオデュッセゥスの父も乗組員の一人として登場しますが、オデュッセゥスすなわち、ユリシーズは、日本では「百合若大臣」という名で伝わっています。その黄金と日本の関係が証明できれば、ユリシーズもモーセもダヴィデもソロモンも日本人であることがはっきりするのです。聖書、ギリシャ神話、古事記などの文献は幾重にも連携して謎解きの解明をバックアップするように編纂されていますが、意外にも、「魏志倭人伝」が大きな役割を担っていることがわかっていただけたとおもいます。

 日本の御神宝の本物は、天の羅馬船(かがみのふね)に載せ置かれた御樋代(みひしろ)という黄金の缶に入れられており、その黄金の缶は羊毛と麻を撚り合わせた五色の糸で織られたご衣裳に包まれています。そのご衣裳(袋)の上から五色の絹糸を架け渡して幾重にも封印されています。また、「天の羅摩船に乗りて鵝の皮を内剥に」した衣服を着て、帰り来る神の名は「少名毘古那神」であることが「古事記」神代巻に書かれていますが、これは、恵比寿神=夷神のことです。第一に、これを「金の羊毛」というものと考えられますが、これは東京以北に存在します。第二に、これとは別の、黄金そのものを「金の羊毛」と言っていることも十分考えられます。片方を胎蔵界、もう一方を金剛界と伝えていると考えられますが、木村鷹太郎氏は、この金剛界とはアフリカのコンゴに由来すると言っておられます。第二のケースの追及については、わたくしはノータッチでいこうと、ずーっと避けています。

 56 ツタンカーメンは倭人

 95 ツタンカーメンの謎 3

 ツタンカーメンは天若彦

 「古事記」「日本書紀」の神代巻に、高御産巣日神と天照大御神の命令により「天の安河の八百万の神を神集へに集へて」協議をするというシーンで、この天若彦が出てまいります。神々が会議に召集されたのは、豊葦原の千秋長五百秋の水穂国が騒然とした世上となっているからだと説明されています。「葦原中国はわが御子(正勝吾勝勝速日天忍穂耳 アメノオシホミミ)に統治する国として委任した国である。ところがこの国には暴威をふるう乱暴な国つ神どもが大勢いるので、誰を遣わしてこれを平定したらよいだろう」と仰せになり、天菩比神を遣わしたのです。しかし、彼は大国主神に媚びついて、三年たっても復命しません。そこで、次に天若彦を遣わすことになるのです。

 天若彦は、天之麻迦古弓と天之波波矢を賜って、その国に遣わされます。ところが、天若彦はその国の大国主神のむすめ下照姫を娶ってその国を獲ようと慮ってしまい、そして八年の時が過ぎてしまったのです。天若彦が「下照姫を娶って、その国を獲ようと」図った「その国」とは「黄金に富むエジプト」であり、天若彦がエジプトのファラオになりたいという野望を抱いたのであり、それは、少なくとも外面的には、兄妹や親族のなかで最も華やかな王になることを意味します。しかし、実は、この下照姫と天若彦はアンケセアメンとツタンカーメンという兄妹なのですから、王朝に、ますます幾重にも不吉な暗雲がたちこめることになったのです。

 そこで、遣わされたのが「雉、名は鳴女」で、天若彦の門の「ゆつ楓」の上に止まって、天つ神の詔命を委曲を尽くして伝えましたが、「天探女」の進言によって、天若彦は、「天つ神から賜った天の櫨弓と天の鹿児矢」を執って、雉を射殺してしまいます。雉を射た矢は、天の安河原にいます高御産巣日神や天照大御神の御前に届きます。そこで、高御産巣日神は、この矢はわたしが天若彦に与えた矢である。もし天若彦に邪心があるならば天若彦はこの矢にあたって死ね」と仰せられて、その矢を投げ返されたところ、その胸に命中して天若彦は死んでしまったと記されています。

 天若彦に遣わされた「雉、名は鳴女」とは、いったいどんなことを示唆しているのでしょう。それは「名が鳴女」即ち「ナガナキ」女であり、天岩戸の場面で登場する鳥「ナガナキ」鳥と同種の神鳥です。「古事記」「日本書紀」の天照大御神が天岩戸に籠られたとき、岩戸の前で鳴かしめた「常世の長鳴き鳥」のことなのです。それは、柿本人麻呂が「あしびきの山鳥の尾のシダリオのながながし夜をひとりかも寝む」と詠んだ山鳥=日本=トロイア=トリであることを示唆しています。すなわち、長い間名が埋もれてしまうトロイア日本、アイデンティテイーを喪失し、名声を失くしてしまった日本にまつわる神聖な使いなのです。この「ナガナキ」雉が止まっていたのが、天若彦の門の「ゆつ楓」という神聖な樹の上であることは、「世界樹」に関する重要な「きじ」であることを意味しています。

 これは、ホメロスの「イーリアス」の中で、トロイ戦争の原因が、アキレウスの父母のペーレウスとティティスの結婚式にあり、この婚儀が原因で、ヘスペリデス(不死の庭園)の黄金の林檎(世界樹)をめぐって、殊にヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神による激しい対立が起こり、これに神々全てが巻き込まれる争いに発展したことが語られているというその記事に対応していることを示しているのです。聖書では、「エデンの園の命の樹」にまつわる神話として語られています。そして、天若彦にまつわる一連の記事は、天若彦が高御産巣日神や天照大御神の託した使命に背き、預言者(しかも自国の預言者)を殺しトロイアを滅亡に追い詰めたことの報いとして殺されたという内容です。

 また、「古事記」のこの記事において、天若彦の弓矢は極めて重大な使命と神秘力とを含めて語られています。敵側と味方側の弓矢が「同一」であったことを語って、同族の同士討ちとなってしまったことを暗示していますし、天若彦が、「和平」の使命に反して、しかも、身内に刃向かって「戦争」を遂行したことを意味しています。また、この弓矢は単なる弓矢ではなく、天若彦に託されていた武器全般、戦車までも含まれると考えられますが、一方で、「恵穂葉神=矢羽=ヤハ」の象徴物としての弓矢であり、弓型の日本の象徴の可能性すらあるのです。

 さらに、重要なことは、「古事記」「日本書紀」のこうした記事は、過去と未来を同時に委曲を尽くして伝えるという高等技術を駆使していることを理解することです。日本では、これは「大国主の国譲り」という事件の一場面でもありますが、歴史的にみますと、「トロイアの移遷」であり、聖書的には「出エジプト」となります。こうした、国際的にみても非常に重要な問題を孕んでいる記事ですから、ここで強調されている武器、弓矢などという言葉にも注意を払わなくてはなりません。

 その弓矢は「天の安河」に届いたと書かれています。天の安河とは天の川のことで、天若彦は天の川の伝説や行事と結び付けられて、三千数百年もの永きにわたって語り継がれているのです。そして、天の安河とはナイル川のことなのです。くわしくは、このブログの「オリオンミステリー」を参照してください。ナイル川のテーベにあるツタンカーメンの墓から出土した「ツタンカーメンの弓矢をつがえている肖像画」に注目してみましょう。この弓は「大弓」とよばれるものです。

 「夷=えびす」という字をよく見てください。「大弓」の文字が組み合わせからなる文字なのです。また、鉄には、「銕」という字もあり、てつ、即ち、くろがねのことです。日本の恵比寿様は釣竿と糸を持っておられますが、これも大弓と弦の化けたものでもあると考えられます。また、ギリシャ神話では、弓矢はアポロンの持ち物、あるいはキューピットの持ち物として有名です。

 神話では、ヘリオス(太陽神)の子(アポロン)は、日輪を運ぶ父の四頭立ての馬車を馭してみたいと願い、父に強引にせがんで馬車を借り受けて馭します。しかし、その技量がなくて、馬車はふらふらと軌道を逸れて暴走してしまい、ために、地は焼け焦げめちゃめちゃになってしまいました。それ以上の害を避けるために、ゼウスの雷に撃たれてしまい、太陽の子は馬車もろともエリダノス河に落ちてしまいます。この神話は、ツタンカーメンにもあてはまりますし、明治以来の日本にも当てはまります。エリダノス河とは古来謎とされていましたが、ナイル川、また天の川=天の安河であることについては、このブログのオリオンミステリーの項目で説明しております。

 55 ツタンカーメンは倭人

 94 ツタンカーメンの謎 2

 ツタンカーメンは倭人

 このことを検証するまえに、ツタンカーメンがアキレウスであり、さらに、トロイア王子のパリスであるという私の大胆な仮説について説明したいと思います。

 ホメロスの大叙事詩「イーリアス」の主人公がアキレウスであるというのは非常に不思議なことです。トロイア戦争の原因がアキレウスの母の結婚にあることも謎です。トロイア滅亡の戦記である「イーリアス」は、本来ならば、トロイア滅亡の原因となったトロイア王子パリス、あるいはその兄のヘクトールが主人公のはずです。しかし、アキレウスとパリスこの二人が実は同一人物かあるいは兄弟であれば、ホメロスの「イーリアス」の主人公がアキレウスであるという構成の謎が一気に解決します。

 トロイア王子パリスには、イーデー山に捨てられ、羊飼いに育てられるという生い立ちがありました。アキレウスも父母のもとでではなく、ケイロンという「半人半馬」に養育されたという生い立ちがありました。しかし、この「半人半馬」とは「半人半牛」のクレタ島の別称であると考えられます。イーデー山は現在のトルコにありますが、クレタ島にもイーデー山があり、そこは、ゼウスが養育されたという伝説の地でもあります。

 また、パリスのトロイア王子としての本名がアレキサンドロスであるというのもアキレウスのアナグラムを取り入れたことを思わせる材料です。アキレウスとパリスの死亡はほとんど同時であり、アキレウスはパリスに殺されるという形での終焉となっています。

 ところで、ツタンカーメンの別名にはエテオクレースEteocles(真のクレタ人)というのもあるのです。ホメロスは「オデュッセイア」において、「クレタ島には、アカイア人あり、大いなる心のエティオクレース人あり、キュドーン人あり、三つの部族のドーリス人、貴いペラスゴス人あり・・・」とオデュッセウスに語らせています。エテオクレースは、ギリシア悲劇に登場する人物で、テーバイ王オイディプスと、その母であり妻となったイオカステーの息子です。

 父オイディプス(テーバイ王)が自分の出生の秘密と神託の真実を知って、アンティゴネー、イースメネーを伴い国を出ます。その秘密とは、テーバイの先王ラーイオスに「男の子が生まれたら、その子に王は殺され、王妃(母) を妻にして子をなす」という神託のことでした。そこで、王はわが息子の殺害を依頼したのですが、その子は殺されずにコリントス王の息子として育てられます。こうして、その素性を知らないまま成長し、行き違いから預言の通りにラーイオスを殺して王妃(母)イオカステーとの間にエテオクレースのほかに、兄ポリュネイケース、 姉アンチゴネー、姉イースメネーが生まれたのです。、、

 この恐ろしい真実を知って、オイディプスが出て行ったあと、エテオクレースは兄のポリュネイケースと一年おきに国を治めることになりますが、その兄を国外追放して国を独占します。そして、国を逃れてアルゴス王アドラーストスの娘と結婚したポリュネイケースとエテオクレースは、戦闘で相討ちとなり死亡したといわれています。

 この、テーバイとは、あたかもギリシャのテーバイであるように工作してありますが、実はエジプトのテーベ王朝のことであり、オイディプスとはエジプト王という意味だったのです。ギリシャ非劇と解釈されていたこの近親相姦の悲劇は、じつは、エジプトの王朝にしてトロイア王朝の悲劇を脚色したものだったということになります。

 この仮説が正しいかどうか、2012年8月11日の土曜プレミアム「独占解明!誰がツタンカーメンを殺したのか?~謎の少年王・悲劇の生涯」と照合してみるとよくわかります。この番組で、ツタンカーメンについての謎を追及する元エジプト考古庁長官のザヒ・ハワス博士の研究結果によれば、ツタンカーメンの祖父は、アメンホテプ3世。祖母はティイ。その二人の間に生まれたのがツタンカーメンの父親であるアクエンアテン王です。

 最近のDNA鑑定の結果、ツタンカーメンの母親は王妃ネフェルティティでなく、父親アクエンアテンの妹もしくは姉のどちらかだと判明したそうです。つまり、ツタンカーメンは、兄弟と姉妹の間の子供だそうです!!しかし、戯曲では、父アクエンアテンの母ティイが母であるということになり、すると、このティィがティティスとなります。どちらにしても近親相姦の悲劇には違いがありませんから、生まれてすぐにケイロンに預けられるのも無理ありません。

 ツタンカーメンもまた2歳年上の姉アンケセナーメンと結婚します。アンケセナーメンは、父親アクエンアテンと美貌の王妃ネフェルティティとの間の子供ですから、ツタンカーメンとアンケセナーメンは父親を同じくする異母姉弟間で夫婦になったということになります。しかも、アンケセナーメンは、その前に、父のアクエンアテン王と結婚して自から王妃となっていたのですが、その二年後にアクエンアテン王が死亡した・・・という前歴があります。

 なぜ、こんな、親子兄弟姉妹間の結婚が続いたのかといえば、それは、エジプトが実はトロイアであり、ヒッタイトであり、ギリシャであり・・・という多重国家だったことにありそうです。つまり、エジプトもトロイアもクレタ島もヒッタイトも「アトランティス」だったのであり、このことは、ごく少数の王や神官しか知り得ない秘密だったことが混乱の大きな要因であったと考えられます。

 そして、王子たちを、「神託により捨てる」と称して、あちらこちらの国々に送り込んだことが、混迷に拍車をかけたと考えられます。エジプトにおいて、モーセが赤ん坊の時に「葦船に乗せて捨てられた」というのは、聖書に記されている有名な記事です。そうしてエジプトでは、かの「出エジプト」がなされました。トロイア戦争は「出トロイア」とも言えます。両者は、同じ事件なのです。

 日本では、「古事記」の神代巻に、「伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた子ヒルコを葦船に入れて流し去てき」と記されています。ヒルコとは、エジプトの「太陽の都」ヒルコン、即ち、ヘリオポリスのことであると木村鷹太郎氏は説いています。日本では、この「ヒルコ」は、水蛭子、蛭子神であり、恵比須、即ち「エビス」とも言われて、「大黒様と恵比寿様」一対の福の神として知られています。これは、「大国主と少彦名」のことでもあるのです。

 また、「出エジプト」が「出トロイア」であり、のちに「出ヒッタイト」ともなったという経緯を「証拠づける文書」、それこそが「ファイストス円盤」なのです。すると、それは同時に「アルゴー船」の消息についてもわが日本がカギを握っていたということを「ファイストス円盤」が明かしていることになります。

 そして、ツタンカーメンが倭人であることが明らかになった今、エジプトの黄金文化とアルゴー船の金の羊毛伝説とが結びつく可能性が大きくなってきたのです。それが、「ファイストス円盤」が偽物であるなどというとんでもない偽情報を天下のタイムズ・オンラインともあろうものが世界に発信しなければならない第一の要因なのです。そして、「ファイストス円盤」中に秘められているアルゴー船星座、牡牛座星座、スバル=プレアデス遷座、ピラミッド図・・などを、英語でのグ・グ・検索から殆ど辿れないように隠してある理由の一つです。しかし、日本人以外では決してこの秘密を解明し得ないことがあきらかですので、わたくしのブログは抹殺されないで辛うじて生き延びさせられているのです。

 48 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

 87 邪馬台国への行程  6 伊都国 続

 聖なるイトミ山(Ithome Ιθωμη)

 このペロポネソス半島のアルゴスの中心となるのは、聖なるイトミ山 Ithome (標高802m)です。「魏志」倭人伝が、「伊都(いと)国」という名を持ち出したのは、ペロポネソス半島全体もまた、女王の君臨した宗教国家に所属していたということを示唆するためと考えられます。しかも、聖なるイトミ山の周辺には、メッセネという古代都市がありました。古代メッセネは地図上にはイトミ(Ithomi)とあり、海辺の現代のメッセネに続いています。メッセネは、マンティネィアよりも大規模な都市でした。倭人伝の「郡からの使者が常に滞在する」と言う言葉は、このアルゴスの古代都市「メッセニア」のメッセンジャー(使者)と言う意味に対応しています。

 「メッセニア」には「女主人」という意味もありますが、このあたりを支配していたヘーラー Hera女神の名も「女主人、貴婦人」という意味です。「女主人」という意味を持つほかの言葉にメドゥーサMedusa(女王)があります。ヘーラーが、クジャクの羽根にアルゴスの100個の目を付けたという神話がありますが、これは、「ゼウスの妻ヘーラーとは、アルテミスやキュベレーであった」ということを示唆しています。

 紀元前七五〇年頃、ギリシアにおけるメドゥーサ像の代表作はアルテミス像でした。メドゥーサの仮面をかぶった アルテミス像も伝わっており、その仮面の眼は、すべてを認識し、見通し、聖なる秘密の知恵を守護し保護するために用いられ、「近づくな! 神秘なり」という結界を表現していたといいます。この女神像は、クレタ島のそれと同様に腰のまわりに聖なる蛇が巻きついていて、この蛇は地球を取り巻く海の表象であったといわれています。また、女神は渦巻く蛇のような髪に取り巻かれ、大きな翼をもっており、この翼は、世界中を飛び回る活動力の象徴でした。

 トルコ出土のアルテミス神像の胸いっぱいについているのは「乳」ですが、「目」をも兼ねていると考えられるのです。また、トルコに旅行しますと、どこの土産物屋でも、ナザールボンジュー Nazar Boncuguという「目」のお守りを並べ立てて売っています。下の写真がその「目」の護符です。

 古代においてトロイアやヒッタイトのあったトルコ、イヨ姫の神話の「イオニア」も存在していたトルコにおける乳房だらけのアルテミス像や大量の「目」の護符を見ますと、ヘーラーが、百眼巨人のアルゴスにイヨ姫を監視させたという神話や、孔雀の尾の上にその百眼をちりばめたという神話が、ヘーラ~=アルテミスであると告げているように見えるのです。アナトリアのチャタル・ヒュックにおける神殿には城壁冠をつけた豊穣の地母神キュベレーが描かれ、都市の守護神としての機能を表しています。チャタル・ヒュックは、製鉄で有名なヒッタイトの聖地でした。

 そのヒッタイトからのスタンダードといわれているものの鹿についている同心円を見てください。私が、アルテミスの「豊穣の乳房」なるものが、鍛冶神の「目」でもあり、さらに、ヘラー神の監視の「目」にして、キュベレー神の「都市マーク」であるという意味がわかっていただけると思います。

 ヘーラーについてウィキペディアの解説から抜粋してみます。

 ヘーラーは、元来は、アルゴス、ミュケーナイ、スパルタなど、ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつて、 アカイア人に信仰された地母神であったとされ、北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられる。 オリュンポス12神の神々の中で、情報収集能力に優れていたという描写が多い・・
    
 こうして、ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤と優れた情報収集能力が集約していたことが伺われます。古代エジプトも古代ギリシャも宗教の主要な働きが「通信施設 トレードセンター、倉庫、警察 軍隊 宿泊施設」の経営であったと考えられます。

 そして、卑弥呼が鏡を好んで、一度に数百枚の鏡を贈られたという記事からは、その裏に、鏡による「光通信」網があったことが示唆されていると考えられるのです。勿論、他にも烽火通信や旗通信や伝書鳩などによる通信ががあったでしょうが、快晴の日の多い地中海地域では、なんといっても光通信が能率をあげていたと考えられます。

 しかし、そうした秘密が表ざたになりますと、容易に通信の妨害や傍受や解読がされて、物資やシステムが横取りされますので、嘘や演技を交えた数々のテクニックが編み出されて、その技術が秘匿されていたと考えられます。山や丘の上のほうにある神殿はみなこの類であったのではないかと想定されますし、怪物、妖怪、化け物が出没するような風評があるところは、こうした機密に属する重要施設の近辺であったと考えられます。そして、通信などに最重要な場所は、「聖なる場所」として、厳しい結界が設けられる必要があり、同時に、それ以外の場所には、大衆が参詣し、雑多な人々の出入りで賑わっているような宗教施設である必要があったといえます。そうすれば、カモフラージュと収益、通信、貿易の一挙三得となりましょう。

 これを、現地の事情から確かめてみましょう。

 イトミ山の山頂には、オリュンポス12神の主神であるゼウス神の神殿があった場所であり、アルゴスは、ゼウスが養育されたという伝承の地でもあります。そして、ゼウスとアルテミスとエイレイチュアが三位一体となってここに祀られていましたから、イトミ山の名は、トロイアやクレタ島のイデー山、イダ山に因んだ名であることがわかります。クレタ島のイダ山はゼウスに乳をあげたアマルテアがいた場所であり、ゼウスとエウロパはクレタ島でミノスを始めとする3人の子をもうけたといいます。

 アルテミスとアマルテアが、ともにアマテラスのアナグラムであるということを「偶然の一致」として退けることができるでしょうか。アルテミス神がリビアのアマゾンからもたらせられたと云う説がありますが、アマゾンと、「天孫」とも一致するのです。

 アマルテアとアルテミスは同じ神の別称であり、アマテラスも同様であったことがこれでわかります。アルテミスとアポロンは、月と日の一対の姉弟として語られています。これは、すこしズレてはいますが、アマテラスとスサノヲの一対なのです。

 「古事記」によれば、イザナギが禊ぎの後に左目を洗った時にアマテラスが、右目を洗った時にツクヨミが、そして鼻を洗った時にスサノヲが生まれ、この三人は「三貴子」と呼ばれたと記されています。アマテラスはイザナギから御倉板挙神である珠の首飾りを授けられて、高天原を統治することになったと書かれていますが、この「球の首飾り」は、アルテミス女神の「乳だらけ、あるいは、目玉だらけ」の御衣装にほかなりません。

 ペロポネソス半島の中心地、アルゴス高原の聖なるイトミ山の様子をみましょう。イトミ山のふもと、標高700メートルの高原に古代メッセネの広大な遺跡が広がっています。聖なるイトミ山の山頂の方はゼウス・アルテミス・エイレイテュイアの神域です。また、メッセネの中心を占めているのはアスクレピオスの神域ですが、もうひとつの中心はアルテミス神殿でした。

 22 いよいよ邪馬台国エジプトへ

 60 いよいよ邪馬台国エジプトへ

 邪馬台国エジプト

 邪馬台国

 エジプト、スエズ付近。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。


 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸

 南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に至る。女王の都する所。官を伊支馬、次を弥馬升という。その次を弥馬獲支といい、その次を奴佳提という。七万戸余りある。

 クレタ島からエジプトの海岸線までは約630kmあります。それを水行10日間とすると、1日63km進むことになります。時速3kmという速度がおおよその目安と申せましょう。この船が、サントリーニ島の壁画に見られるような、帆と漕ぎ手を装備した細長いカヌー状の船を双胴船に連結し、女王の特使用の快速船となしたものであろうと仮定して、次に述べるような計測をしてみました。

 クレタ島~エジプト海岸間の距離約630kmとは、ほぼ、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間の距離。これは、現在では、6000トンのクイーンコーラルプラスで、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間、24時間、即ち、まる1日の行程です。沖縄には、帆かけサバニという伝統的な船があります。この帆かけサバニで座間味~那覇間の36kmを帆漕するレースが毎年行われていますが、1着は、およそ3時間30分以内のタイムで走破しています。たかだか36キロという短距離でのレースでの記録ですから、その18倍ほどもあるクレタ~エジプトの630kmの航行の試算にこのデータを使うのはいささか乱暴ですが、このレースの所要時間の4倍の「14時間(ときどき漕く)」で見積もって、14×18=252(時間)、つまり、約10日と半日という数値を得ます。座間味~那覇間の36kmレースの時の4分の1のスピードで10日間かければ到達可能であると考えられます。

 ポリネシアの古代船を復元した「ホクレア号 全長約20m 幅5m」の南太平洋での大航海の例から割り出すほうが科学的と申せましょう。こちらは、7200マイル=約11600kmを5ヶ月間=約150日の予定を組んで航海していますので、一日平均77kmほど、10日間で770kmの走行を目安としていたことになり、ここから割り出しても、630kmを10日というのは、ゆとりのある日程と云えます。

 陸行一月程行くと、テーベとなり、ここが、女王の都となります。エジプトの人口は、当時すでに数百万人から1千万人の規模に達していたと試算されていますから、女王の都が「七万戸余りある」、つまり30万人ほどの人口であったとしてもリーズナブルです。しかし、2000年ほど前の九州や畿内のどこを探しても、このような大都市の痕跡を見つけることは不可能です。

 テーベ王朝について、わたくしは、既に、トゥト・アンク・アメンが「古事記」などの「天稚彦あめわかひこ」であることを検証しております。また、クレタ島出土のファイストス円盤には、エジプトでファラオの右腕となった人物ヨセフの名前が日本語で刻まれており、その息子が彦穂々手見命=山幸彦と海幸彦であることまで解明できているわけですから、さらに、エジプトの歴史と照合しながら探索すればよいわけです。

 池田仁三氏のホームページから

 「魏志倭人伝」には、邪馬台国の官職4名の名が挙げられています。この4名について、池田仁三氏が、「コンピューター画像解析」による墓碑の解読を試みられていて、「墓碑から卑弥呼を確定する」というホームページで発表しておられます。池田仁三氏の「卑弥呼説」は、わたくしの「邪馬台国エジプト説」とは相容れない説ではありますが、私は、池田氏の「伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳提」の四名の比定については同意いたします。 

 http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html からの引用です。

 邪馬台国の官の「伊支馬」とは、垂仁天皇です。「古事記」には伊久米、「日本書記」では活目となっています。次の「弥馬升」は、垂仁妃の氷羽州比売、次の「弥馬獲支」は、景行妃の美波迦斯毘売、次の「奴佳提」は、垂仁妃の沼羽田入毘売(氷羽州の妹)。池田仁三氏の説では、上記のように、四つ共にむりなく比定できておりますので、わたくしは、これを正解とみなします。上記の人事をみますと、王に次ぐ高官3名が皆女性であるという大きな特徴があります。これは、天照大御神が、三人の女神を産んだという記事に連動するものと考えられ、ホメロスの「イリアード」で語られているような、三美神間の争いの始まりを予感させるものです。

 さて、「魏志倭人伝」の邪馬台国到着地点の記事が「垂仁天皇の時代」であることはわかりましたので、次に、垂仁天皇とは、エジプトでは誰のことなのかを調べました。

 「伊支馬=垂仁天皇」はエジプトのどの王か

 正直に申しまして、エジプトの歴史を調べても、「伊支馬=垂仁天皇」がエジプトのどのファラオを指すのか、一介の主婦であるわたくしには、手に負えません。なかなか特定できないでいました。そこで、木村鷹太郎氏の「日本太古史」上巻 博文館 1911(明治45)年(刊)を開いてみますと、「垂仁天皇とはセンウセレト3世(BC1850頃)である」ことが検証されていました。木村鷹太郎氏は、垂仁天皇記にでてくる「言語グル-プ」が、エジプトからエチオピア、スーダンあたりの地名数十箇所に対応していると云うのです。英語、ドイツ語、ラテン語、古代ギリシャ語に精通していた木村鷹太郎氏ならではの分野といえます。

 木村鷹太郎著「日本太古史」上巻の579~707ページにわたる128ページのその解説を、わたくしがエジプト史などと一つ一つ照合した結果、木村鷹太郎氏が、「垂仁王朝」と説いている説にほぼ合致していることを確信しました。とはいうものの、垂仁天皇の御年は153歳と「古事記」に書いてあり、「日本書紀」では140歳となっております。これをどのように解釈すればよいのでしょうか。これは、センウセレト3世一代に限るものではなく、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世~センウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で、第12王朝を閉じるまでの160年間のことであるという見解に達しました。クレタ島出土のファイストス円盤に刻まれている「彦穂々手見命」にいたっては、580歳となっていますので、これらは「王朝」について、言っているとしか考えられません。クレタ島から出土した「ファイストス円盤」の製作と密接に関係しているのは、垂仁天皇の一代前の「崇神天皇」なのですが、この崇神天皇のお年は168歳です(紀では120歳)、ついでに言うと初代の神武天皇は137歳(紀では127歳)です。

「古事記」では崇神天皇に、「日本書紀」では神武天皇と崇神天皇に「ハツクニシラス」の称号をたてまつっていますが、「魏志倭人伝」の女王国は、どのように読んでも「多重構造の国家」であることは確かで、女王はペロポネソス半島にも、クレタ島にも、そして、エジプトにも都をもっていることがわかります。このことを鑑みるとき、これらの3天皇は、大倭の内の別々の王国の歴史のことかもしれないという疑問が生じるのです。つまり、並列すべき天皇史を縦列に書き連ねてある部分があるのかも知れないのです。天皇の代数などは、誰かが後代に便宜上挿入したものであり、それを連続していると勝手に定義しているのかもしれません。

 それにしても、「魏志倭人伝」の邪馬台国の検証にいきなり垂仁天皇=センウセレト=セスストリスが出てきて、しかも紀元前2000近くまで遡るとは考えてもいませんでした。今の今まで、地中海の大異変を受けての「モーセの出エジプトあるいは、大国主の国譲り」の原因が、サントリーニ島の火山大爆発(紀元前1600年頃)であるとばかり思っていたのですが、それよりもさらに600年ほど昔の紀元前2200年頃のアナトリアにおける火山大爆発のほうが、より深刻な大異変であって、これが地中海方面の民族移動の引き金になったという様相を示していることに思い至らないわけにはまいりません

 須佐之男命が天照大御神のところへ来るときに、「青山は枯山に、河海はことごとくに乾し、山河ことごとくに動き、国土震るえる。」という場面で、この神が「須佐スサの王」となのっていたのは、スサ、すなわち、チグリス・ユーフラテス方面の大異変をも示唆するための名前だったということになります。また、須佐之男之命が、牛頭天皇と呼ばれている背景には、タウロス(牛)=トロアス=トロイアであるということのほかに、クレタ島に本拠地を置いていたことがあるという歴史を織り込んだものであろうと捉えています。それでは、どこを本拠地にしようとしたかといいますと、姉の天照大御神の分野を侵さないように開拓に励まなければならないという事情を反映してか、アフリカでの金とイタリアでの鉄、イベリアでの銅などの生産に力を注ぐことにして、これらを交易の拡大につなげることにし、また、船での交易の範囲を拡大することにしたと考えられるのです。

 垂仁天皇記は、「古事記」「日本書紀」ともに、記事が長文であるうえに、挿入の物語や謎歌が含まれているという複雑な構造になっています。この垂仁天皇がセンウセレト王であると云うのは間違いないと私は確信いたしましたが、センウセレト王というのが、ウィキペディアで調べましても、英語版ではセンウセレトで出ていますが、フランス語版、ドイツ語版などでは、セソストリスとなっています。そして、日本語ではどちらも出ていません。欧米では非常に興味を持たれている「センウセレト=セソストリス」について、日本ではかくのごとく知名度が低いのですから、ただでさえ読んで下さる方が少ないこのブログに書き連ねますと、ますます敬遠されそうな分野に突入したという感じです。しかも、このあたりの歴史を、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇はセンウセレト3世」という説をもとに、急遽、考察したことを逐一語り始めますと、100ページを越す論文になることは必定です。

 そこで、簡略に、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇説」を参照しながら、わたくしの、「伊支馬=垂仁天皇」の時代は、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世からセンウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で第12王朝を閉じるまでの160年間」のことであるということの検証に移ります。はたして、この謎のセソストリス=センウセレト王のことがわが国の垂仁天皇記に出ていると云えるのかという問題に対して、最もわかりやすいところだけを選んで解説します。

 「日本書紀」垂仁天皇紀5年の条の、「天皇、久米に幸して、高宮に居します。」 この「久米とは、ナイル川上流北緯21度付近のクメであり、センウセレト3世が初めて境界を定め、堡塁を築き哨兵を置き碑を建てたところであり、魏志倭人伝中の狗奴くぬ国がこれである」と木村氏鷹太郎氏は説きます。これに加えて、私は、「魏志倭人伝」の「奴佳提」は、垂仁妃の「沼羽田入毘売」という氷羽州の妹であるということに注目しました。この「沼羽田」とはナパタのことであり、それはナイル川上流の「クヌ国=ヌビア」の古代都市の名でもあると考えられるのです。ヌビアの古代については、鉄や金の資源が豊富であり、古代エジプトに供給されていたと考えられています。第12王朝のヌビア政策というものが、それ以前の王朝に比べていかに積極的であったかについて、しかも、それが、東方への貿易拡大政策のためではないかと思える根拠となる記事を、ウィキペディアから掲載しておきます。

 センウセレト3世は、伝統的な下エジプト、上エジプトに加えて、エレファンティネ島から下ヌビア(ヌビア地方北部?)を加えて領土を3つの行政区に大別しました。それぞれの地域には、宮廷の宰相に直属する高官会議が設けて運営したとされ、これは、古代エジプト王朝で全く新しい行政機構でした。第12王朝時代のパピルス文書に、当時、ヌビア地方でエジプト王朝が営んだ13の城砦の名が記されています。ヌビアのエジプト城砦は、センウセレト1世の代から営まれ始めたものですが、大半は、センウセレト3世の代に新たに建造されました。いずれも駐屯兵が自給自足可能なように周辺施設も整えられていたようで、ブヘンの城砦は、センウセレト3世の代、城砦であると同時に交易拠点も兼ねた都市に整備されました。内、7つの城砦は、第2急湍より南60km強ほどのナイル川流域に、数珠繋ぎのように設けられていました。センウセレト3世の代の王宮文書には、ヌビア地方の細かな動向が、伝えられた内容が記されたものが少なくないのは、おそらく、ヌビア地方に設けられた城砦や運河をリレーした伝令のシステムが整えられていたのだろう、と推測されています。  (ウィキペディア引用終わり)

 ヌビアをはじめとするエジプト以南の歴史については未だに謎の部分が多いのです。急勾配のピラミッド群があったことで知られていますが、その殆んどは、金探しの標的となって壊されていますし、アスワン・ダムの湖底に沈んでしまっているものも多いのです。そして、金と鉄資源に富んだヌビアにはどんな王がいたのか、また、エジプト王との関係はどうだったのかという件を探ってみることにします。

 第12王朝では、第2代のセンウセレト1世がヌビアに遠征、ブヘンにエジプト王朝の拠点を築きました。センウセレト3世は、ブヘンの城砦をより強固にし、セムナなどにも拠点を築きました。アスワン地方では、ナイル川に第1急湍(きゅうたん)をバイパスする水路を掘削させ、南方への進軍を容易にしたと記録されています。センウセレト3世は、治世の間、8年め、10年め、16年め、19年めに大規模な軍事遠征をヌビア地方に進軍させた。

 これを、「垂仁天皇記」から見ますと、「狭穂彦の乱と狭穂姫」の神話がこれに相当するようです。狭穂とは前記クメ=クヌの東南一帯をSabo、Sabaあるいは、Shebaと表す地名があって、そこの狭穂彦王?の妹の狭穂姫が垂仁天皇の皇后だったと木村鷹太郎は言います。この「狭穂彦の乱」では、狭穂彦王が垂仁天皇を殺してその王座を獲ろうとたくらみ、妹の狭穂姫に垂仁天皇の暗殺をもちかけましたが、狭穂姫は夫への愛と兄弟愛の板ばさみとなり、暗殺を実行できずに、かえって、天皇に兄のたくらみを打ち明け、自分は兄とともに滅ぼされる運命を受け入れて果てました。狭穂は、Sabo、Saba、Sheba の綴りからも判りますように、「シバ」の地、後に、かのソロモン王と会見した女王を輩出したところです。また、シバは、テーベの綴り替えで、フェニキア系の交易の拠点のひとつであることを示しています。

 古代ローマの博物学者にして政治家のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(22~79年)の「博物誌」に、「エジプト王セソストリス(センウセレト)が船舶用運河で紅海の港とナイル川のデルタ地帯を結び、その延長距離は80マイルあった」などと記し、ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC485年頃~420年頃)が、「セソストリス(センウセレト)と彼の軍隊はアジアを越え、スキタイからカフカスまで遠征して、広大な地域を征服した。・・・」と記しているます。エジプトのメンフィスの現ミト・ラヒーナで大量の碑文が発見されて、このセンウセレト=セソストリスの時代には、エジプト第12王朝の帝国がシリア=パレスティナに及んでいたことが裏付けられたと云われていますので、モーセの出エジプトとエルサレムへの遷都のきざしが早くもここに出現していると云えます。

 こうした「大遠征」についての疑問を「魏志倭人伝」のこのあとのブログで展開してみましょう。

 エジプト第12王朝(紀元前1991年頃~紀元前1782年頃)の初代王はアメンエムハト1世といいます。第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相のアメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世が同一人物であると見られています。第12王朝は、このアメンエムハトという王名とセンウセレトという王名が交互につけられているのです。わたくしは、アメンエムハト3世(紀元前1849~1801年頃)のダハシュールのピラミッドの冠石に刻まれている「有翼の円盤」と「目、まなこ」と「壷」を「10 四国はスフィンクスのモデル?」で紹介しました。

 アメンエムハト3世の時代前に、既に、日本列島が「翼の形」、「母と子」、四国が「スフィンクス」の形状であることがわかっていたのかという疑問に対して、「日本書紀」の垂仁天皇紀が、その答えを用意しているように思えます。

 垂仁天皇治世3年3月に、「新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)の計七物を持って来たので、但馬の国に蔵めて、常に神の物とした。」と書かれているのがそれです。木村鷹太郎氏は、この天日槍とは、今の韓国とは関係なく、シラキゥス(今のイタリアの)王子のヒッパルコスが、古代の但馬、今のエジプトのアレキサンドリアで、天文学と測量を普及したことを云っているのであり、上記の七物とは、天文星座のうちの七種類を揚げたものだといいます。

 羽太の玉とは御者アウリガ星座。ギリシャ語のハブトはラテン語のハビト、車馬の御者などを意味し、これを別のラテン語でAurigaと言うのだそうです。足高の玉とは、水瓶座アカリウス。ギリシャ語アシタカは、滔々と流出する水流を意味し、それをラテン語でアカリウスという。鵜鹿鹿の赤石の玉とは、蛇使い星座。出石の小刀とは、伊都の尾羽張という刀にまつわる星座でオリオン星座のこと。出石の鉾とは、オリオンの手に持っている杖のこと。日鏡とは、「天ッヒツギ」の宝祚のことで、これは、星座では酒盃クラテル星座。熊の神籬とは、大熊座と小熊座のことであると言うのです。

 ヒッパルコス(Hipparchus、紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシア人の天文学者で、次のような業績をあげたといわれています。
・現代にすべてつながる46星座を決定した。
・恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。
・三角法による測量を行った。
・歳差による春分点移動を発見した。
・アンティキティラ島の機械はヒッパルコスの理論に基づいているとされる。

 しかし、このヒッパルコスは、はたして紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろの人でしょうか。垂仁天皇がセンウセレト王であれば、紀元前2000年~紀元前1500年頃の人である可能性があります。

 エラトステネスEratosthenes( 紀元前275年~紀元前194年)は、地球の大きさを測るのに成功したギリシャの学者です。そして、ヒッパルコスより昔の人です。彼は、エジプトのシエネ(アスワン)とアレキサンドリアの太陽の南中高度とその2地点間の距離、約5000スタディオpン約900kmを測定して、地球の全周は250000スタディオン(約46000km)と求めたといいます。つまりアフリカ大陸を使ってを測ったといいます。この記事から、上記の三角法による測量は、ヒッパルコスの発案ではないことがわかります。ギザの大地に大ピラミッド群の建造が計画されたときには、既に完成していた測量技術です。これについては、このブログの「オリオン・ミステリー」を参照してください。そして、すでに、大ピラミッドには、地球の数値をインプットしてあると言う説をわたくしは信じています。

 事実、エラステネスの測量は、アレキサンドリア大図書館にあったエジプトの古文書パピルスを読んで、それを実行したと言っています。そして、ギリシャの学者が、アスワンとアレキサンドリアにまたがる大掛かりな測量を、個人でするはずがありませんし、エラステネスという名前すら、セソストリスのアナグラムであると考えられます。

 さらに、垂仁天皇紀の「天の日鉾」がヒッパルコスであるという説は、「ヒッパロスの風」伝説を想起させるものでもあります。アラビア海やインド洋では4月から10月の間に南西の季節風、11月から3月の間に北東の季節風が吹きます。特に1月には、強くかつ正確な北東風が吹くのですが、「エリュトゥラー海案内記」によると、この季節風を利用して最初にインドに到達したのが紀元前後のギリシャ人のヒッパロスだったといい、これが「ヒッパロスの風」という呼称の起源であるといいます。しかし、これも時代を繰り下げる必要があります。BC10世紀頃には、イエメンでは、既にこの季節風を利用して東西交易を行っていたといい、外洋船でアラビア海からインド洋、東南アジアへ航海をしていたといいますが、垂仁天皇の時代、即ち、センウセレト・アメンエムハト王朝には、この「ヒッパロスの風」を利用していたことを、垂仁天皇紀が示唆していると考えられるのです。




(私論.私見)