「浦島太郎から辿る世界史と考古学」考 |
(最新見直し2013.02.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「浦島太郎から辿る世界史と考古学」を考察しておく。 2013.02.11日 れんだいこ拝 |
「浦島太郎から辿る「世界史と考古学」」を転載しておく。
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48 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」 87 邪馬台国への行程 6 伊都国 続
聖なるイトミ山(Ithome Ιθωμη) このペロポネソス半島のアルゴスの中心となるのは、聖なるイトミ山 Ithome (標高802m)です。「魏志」倭人伝が、「伊都(いと)国」という名を持ち出したのは、ペロポネソス半島全体もまた、女王の君臨した宗教国家に所属していたということを示唆するためと考えられます。しかも、聖なるイトミ山の周辺には、メッセネという古代都市がありました。古代メッセネは地図上にはイトミ(Ithomi)とあり、海辺の現代のメッセネに続いています。メッセネは、マンティネィアよりも大規模な都市でした。倭人伝の「郡からの使者が常に滞在する」と言う言葉は、このアルゴスの古代都市「メッセニア」のメッセンジャー(使者)と言う意味に対応しています。 「メッセニア」には「女主人」という意味もありますが、このあたりを支配していたヘーラー Hera女神の名も「女主人、貴婦人」という意味です。「女主人」という意味を持つほかの言葉にメドゥーサMedusa(女王)があります。ヘーラーが、クジャクの羽根にアルゴスの100個の目を付けたという神話がありますが、これは、「ゼウスの妻ヘーラーとは、アルテミスやキュベレーであった」ということを示唆しています。 紀元前七五〇年頃、ギリシアにおけるメドゥーサ像の代表作はアルテミス像でした。メドゥーサの仮面をかぶった アルテミス像も伝わっており、その仮面の眼は、すべてを認識し、見通し、聖なる秘密の知恵を守護し保護するために用いられ、「近づくな! 神秘なり」という結界を表現していたといいます。この女神像は、クレタ島のそれと同様に腰のまわりに聖なる蛇が巻きついていて、この蛇は地球を取り巻く海の表象であったといわれています。また、女神は渦巻く蛇のような髪に取り巻かれ、大きな翼をもっており、この翼は、世界中を飛び回る活動力の象徴でした。 トルコ出土のアルテミス神像の胸いっぱいについているのは「乳」ですが、「目」をも兼ねていると考えられるのです。また、トルコに旅行しますと、どこの土産物屋でも、ナザールボンジュー Nazar Boncuguという「目」のお守りを並べ立てて売っています。下の写真がその「目」の護符です。 古代においてトロイアやヒッタイトのあったトルコ、イヨ姫の神話の「イオニア」も存在していたトルコにおける乳房だらけのアルテミス像や大量の「目」の護符を見ますと、ヘーラーが、百眼巨人のアルゴスにイヨ姫を監視させたという神話や、孔雀の尾の上にその百眼をちりばめたという神話が、ヘーラ~=アルテミスであると告げているように見えるのです。アナトリアのチャタル・ヒュックにおける神殿には城壁冠をつけた豊穣の地母神キュベレーが描かれ、都市の守護神としての機能を表しています。チャタル・ヒュックは、製鉄で有名なヒッタイトの聖地でした。 そのヒッタイトからのスタンダードといわれているものの鹿についている同心円を見てください。私が、アルテミスの「豊穣の乳房」なるものが、鍛冶神の「目」でもあり、さらに、ヘラー神の監視の「目」にして、キュベレー神の「都市マーク」であるという意味がわかっていただけると思います。 ヘーラーについてウィキペディアの解説から抜粋してみます。 ヘーラーは、元来は、アルゴス、ミュケーナイ、スパルタなど、ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつて、 アカイア人に信仰された地母神であったとされ、北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられる。 オリュンポス12神の神々の中で、情報収集能力に優れていたという描写が多い・・ こうして、ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤と優れた情報収集能力が集約していたことが伺われます。古代エジプトも古代ギリシャも宗教の主要な働きが「通信施設 トレードセンター、倉庫、警察 軍隊 宿泊施設」の経営であったと考えられます。 そして、卑弥呼が鏡を好んで、一度に数百枚の鏡を贈られたという記事からは、その裏に、鏡による「光通信」網があったことが示唆されていると考えられるのです。勿論、他にも烽火通信や旗通信や伝書鳩などによる通信ががあったでしょうが、快晴の日の多い地中海地域では、なんといっても光通信が能率をあげていたと考えられます。 しかし、そうした秘密が表ざたになりますと、容易に通信の妨害や傍受や解読がされて、物資やシステムが横取りされますので、嘘や演技を交えた数々のテクニックが編み出されて、その技術が秘匿されていたと考えられます。山や丘の上のほうにある神殿はみなこの類であったのではないかと想定されますし、怪物、妖怪、化け物が出没するような風評があるところは、こうした機密に属する重要施設の近辺であったと考えられます。そして、通信などに最重要な場所は、「聖なる場所」として、厳しい結界が設けられる必要があり、同時に、それ以外の場所には、大衆が参詣し、雑多な人々の出入りで賑わっているような宗教施設である必要があったといえます。そうすれば、カモフラージュと収益、通信、貿易の一挙三得となりましょう。 これを、現地の事情から確かめてみましょう。 イトミ山の山頂には、オリュンポス12神の主神であるゼウス神の神殿があった場所であり、アルゴスは、ゼウスが養育されたという伝承の地でもあります。そして、ゼウスとアルテミスとエイレイチュアが三位一体となってここに祀られていましたから、イトミ山の名は、トロイアやクレタ島のイデー山、イダ山に因んだ名であることがわかります。クレタ島のイダ山はゼウスに乳をあげたアマルテアがいた場所であり、ゼウスとエウロパはクレタ島でミノスを始めとする3人の子をもうけたといいます。 アルテミスとアマルテアが、ともにアマテラスのアナグラムであるということを「偶然の一致」として退けることができるでしょうか。アルテミス神がリビアのアマゾンからもたらせられたと云う説がありますが、アマゾンと、「天孫」とも一致するのです。 アマルテアとアルテミスは同じ神の別称であり、アマテラスも同様であったことがこれでわかります。アルテミスとアポロンは、月と日の一対の姉弟として語られています。これは、すこしズレてはいますが、アマテラスとスサノヲの一対なのです。 「古事記」によれば、イザナギが禊ぎの後に左目を洗った時にアマテラスが、右目を洗った時にツクヨミが、そして鼻を洗った時にスサノヲが生まれ、この三人は「三貴子」と呼ばれたと記されています。アマテラスはイザナギから御倉板挙神である珠の首飾りを授けられて、高天原を統治することになったと書かれていますが、この「球の首飾り」は、アルテミス女神の「乳だらけ、あるいは、目玉だらけ」の御衣装にほかなりません。 ペロポネソス半島の中心地、アルゴス高原の聖なるイトミ山の様子をみましょう。イトミ山のふもと、標高700メートルの高原に古代メッセネの広大な遺跡が広がっています。聖なるイトミ山の山頂の方はゼウス・アルテミス・エイレイテュイアの神域です。また、メッセネの中心を占めているのはアスクレピオスの神域ですが、もうひとつの中心はアルテミス神殿でした。 |
22 いよいよ邪馬台国エジプトへ 60 いよいよ邪馬台国エジプトへ
邪馬台国エジプト 邪馬台国 エジプト、スエズ付近。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸 南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に至る。女王の都する所。官を伊支馬、次を弥馬升という。その次を弥馬獲支といい、その次を奴佳提という。七万戸余りある。 クレタ島からエジプトの海岸線までは約630kmあります。それを水行10日間とすると、1日63km進むことになります。時速3kmという速度がおおよその目安と申せましょう。この船が、サントリーニ島の壁画に見られるような、帆と漕ぎ手を装備した細長いカヌー状の船を双胴船に連結し、女王の特使用の快速船となしたものであろうと仮定して、次に述べるような計測をしてみました。 クレタ島~エジプト海岸間の距離約630kmとは、ほぼ、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間の距離。これは、現在では、6000トンのクイーンコーラルプラスで、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間、24時間、即ち、まる1日の行程です。沖縄には、帆かけサバニという伝統的な船があります。この帆かけサバニで座間味~那覇間の36kmを帆漕するレースが毎年行われていますが、1着は、およそ3時間30分以内のタイムで走破しています。たかだか36キロという短距離でのレースでの記録ですから、その18倍ほどもあるクレタ~エジプトの630kmの航行の試算にこのデータを使うのはいささか乱暴ですが、このレースの所要時間の4倍の「14時間(ときどき漕く)」で見積もって、14×18=252(時間)、つまり、約10日と半日という数値を得ます。座間味~那覇間の36kmレースの時の4分の1のスピードで10日間かければ到達可能であると考えられます。 ポリネシアの古代船を復元した「ホクレア号 全長約20m 幅5m」の南太平洋での大航海の例から割り出すほうが科学的と申せましょう。こちらは、7200マイル=約11600kmを5ヶ月間=約150日の予定を組んで航海していますので、一日平均77kmほど、10日間で770kmの走行を目安としていたことになり、ここから割り出しても、630kmを10日というのは、ゆとりのある日程と云えます。 陸行一月程行くと、テーベとなり、ここが、女王の都となります。エジプトの人口は、当時すでに数百万人から1千万人の規模に達していたと試算されていますから、女王の都が「七万戸余りある」、つまり30万人ほどの人口であったとしてもリーズナブルです。しかし、2000年ほど前の九州や畿内のどこを探しても、このような大都市の痕跡を見つけることは不可能です。 テーベ王朝について、わたくしは、既に、トゥト・アンク・アメンが「古事記」などの「天稚彦あめわかひこ」であることを検証しております。また、クレタ島出土のファイストス円盤には、エジプトでファラオの右腕となった人物ヨセフの名前が日本語で刻まれており、その息子が彦穂々手見命=山幸彦と海幸彦であることまで解明できているわけですから、さらに、エジプトの歴史と照合しながら探索すればよいわけです。 池田仁三氏のホームページから 「魏志倭人伝」には、邪馬台国の官職4名の名が挙げられています。この4名について、池田仁三氏が、「コンピューター画像解析」による墓碑の解読を試みられていて、「墓碑から卑弥呼を確定する」というホームページで発表しておられます。池田仁三氏の「卑弥呼説」は、わたくしの「邪馬台国エジプト説」とは相容れない説ではありますが、私は、池田氏の「伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳提」の四名の比定については同意いたします。 http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html からの引用です。 邪馬台国の官の「伊支馬」とは、垂仁天皇です。「古事記」には伊久米、「日本書記」では活目となっています。次の「弥馬升」は、垂仁妃の氷羽州比売、次の「弥馬獲支」は、景行妃の美波迦斯毘売、次の「奴佳提」は、垂仁妃の沼羽田入毘売(氷羽州の妹)。池田仁三氏の説では、上記のように、四つ共にむりなく比定できておりますので、わたくしは、これを正解とみなします。上記の人事をみますと、王に次ぐ高官3名が皆女性であるという大きな特徴があります。これは、天照大御神が、三人の女神を産んだという記事に連動するものと考えられ、ホメロスの「イリアード」で語られているような、三美神間の争いの始まりを予感させるものです。 さて、「魏志倭人伝」の邪馬台国到着地点の記事が「垂仁天皇の時代」であることはわかりましたので、次に、垂仁天皇とは、エジプトでは誰のことなのかを調べました。 「伊支馬=垂仁天皇」はエジプトのどの王か 正直に申しまして、エジプトの歴史を調べても、「伊支馬=垂仁天皇」がエジプトのどのファラオを指すのか、一介の主婦であるわたくしには、手に負えません。なかなか特定できないでいました。そこで、木村鷹太郎氏の「日本太古史」上巻 博文館 1911(明治45)年(刊)を開いてみますと、「垂仁天皇とはセンウセレト3世(BC1850頃)である」ことが検証されていました。木村鷹太郎氏は、垂仁天皇記にでてくる「言語グル-プ」が、エジプトからエチオピア、スーダンあたりの地名数十箇所に対応していると云うのです。英語、ドイツ語、ラテン語、古代ギリシャ語に精通していた木村鷹太郎氏ならではの分野といえます。 木村鷹太郎著「日本太古史」上巻の579~707ページにわたる128ページのその解説を、わたくしがエジプト史などと一つ一つ照合した結果、木村鷹太郎氏が、「垂仁王朝」と説いている説にほぼ合致していることを確信しました。とはいうものの、垂仁天皇の御年は153歳と「古事記」に書いてあり、「日本書紀」では140歳となっております。これをどのように解釈すればよいのでしょうか。これは、センウセレト3世一代に限るものではなく、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世~センウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で、第12王朝を閉じるまでの160年間のことであるという見解に達しました。クレタ島出土のファイストス円盤に刻まれている「彦穂々手見命」にいたっては、580歳となっていますので、これらは「王朝」について、言っているとしか考えられません。クレタ島から出土した「ファイストス円盤」の製作と密接に関係しているのは、垂仁天皇の一代前の「崇神天皇」なのですが、この崇神天皇のお年は168歳です(紀では120歳)、ついでに言うと初代の神武天皇は137歳(紀では127歳)です。 「古事記」では崇神天皇に、「日本書紀」では神武天皇と崇神天皇に「ハツクニシラス」の称号をたてまつっていますが、「魏志倭人伝」の女王国は、どのように読んでも「多重構造の国家」であることは確かで、女王はペロポネソス半島にも、クレタ島にも、そして、エジプトにも都をもっていることがわかります。このことを鑑みるとき、これらの3天皇は、大倭の内の別々の王国の歴史のことかもしれないという疑問が生じるのです。つまり、並列すべき天皇史を縦列に書き連ねてある部分があるのかも知れないのです。天皇の代数などは、誰かが後代に便宜上挿入したものであり、それを連続していると勝手に定義しているのかもしれません。 それにしても、「魏志倭人伝」の邪馬台国の検証にいきなり垂仁天皇=センウセレト=セスストリスが出てきて、しかも紀元前2000近くまで遡るとは考えてもいませんでした。今の今まで、地中海の大異変を受けての「モーセの出エジプトあるいは、大国主の国譲り」の原因が、サントリーニ島の火山大爆発(紀元前1600年頃)であるとばかり思っていたのですが、それよりもさらに600年ほど昔の紀元前2200年頃のアナトリアにおける火山大爆発のほうが、より深刻な大異変であって、これが地中海方面の民族移動の引き金になったという様相を示していることに思い至らないわけにはまいりません 須佐之男命が天照大御神のところへ来るときに、「青山は枯山に、河海はことごとくに乾し、山河ことごとくに動き、国土震るえる。」という場面で、この神が「須佐スサの王」となのっていたのは、スサ、すなわち、チグリス・ユーフラテス方面の大異変をも示唆するための名前だったということになります。また、須佐之男之命が、牛頭天皇と呼ばれている背景には、タウロス(牛)=トロアス=トロイアであるということのほかに、クレタ島に本拠地を置いていたことがあるという歴史を織り込んだものであろうと捉えています。それでは、どこを本拠地にしようとしたかといいますと、姉の天照大御神の分野を侵さないように開拓に励まなければならないという事情を反映してか、アフリカでの金とイタリアでの鉄、イベリアでの銅などの生産に力を注ぐことにして、これらを交易の拡大につなげることにし、また、船での交易の範囲を拡大することにしたと考えられるのです。 垂仁天皇記は、「古事記」「日本書紀」ともに、記事が長文であるうえに、挿入の物語や謎歌が含まれているという複雑な構造になっています。この垂仁天皇がセンウセレト王であると云うのは間違いないと私は確信いたしましたが、センウセレト王というのが、ウィキペディアで調べましても、英語版ではセンウセレトで出ていますが、フランス語版、ドイツ語版などでは、セソストリスとなっています。そして、日本語ではどちらも出ていません。欧米では非常に興味を持たれている「センウセレト=セソストリス」について、日本ではかくのごとく知名度が低いのですから、ただでさえ読んで下さる方が少ないこのブログに書き連ねますと、ますます敬遠されそうな分野に突入したという感じです。しかも、このあたりの歴史を、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇はセンウセレト3世」という説をもとに、急遽、考察したことを逐一語り始めますと、100ページを越す論文になることは必定です。 そこで、簡略に、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇説」を参照しながら、わたくしの、「伊支馬=垂仁天皇」の時代は、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世からセンウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で第12王朝を閉じるまでの160年間」のことであるということの検証に移ります。はたして、この謎のセソストリス=センウセレト王のことがわが国の垂仁天皇記に出ていると云えるのかという問題に対して、最もわかりやすいところだけを選んで解説します。 「日本書紀」垂仁天皇紀5年の条の、「天皇、久米に幸して、高宮に居します。」 この「久米とは、ナイル川上流北緯21度付近のクメであり、センウセレト3世が初めて境界を定め、堡塁を築き哨兵を置き碑を建てたところであり、魏志倭人伝中の狗奴くぬ国がこれである」と木村氏鷹太郎氏は説きます。これに加えて、私は、「魏志倭人伝」の「奴佳提」は、垂仁妃の「沼羽田入毘売」という氷羽州の妹であるということに注目しました。この「沼羽田」とはナパタのことであり、それはナイル川上流の「クヌ国=ヌビア」の古代都市の名でもあると考えられるのです。ヌビアの古代については、鉄や金の資源が豊富であり、古代エジプトに供給されていたと考えられています。第12王朝のヌビア政策というものが、それ以前の王朝に比べていかに積極的であったかについて、しかも、それが、東方への貿易拡大政策のためではないかと思える根拠となる記事を、ウィキペディアから掲載しておきます。 センウセレト3世は、伝統的な下エジプト、上エジプトに加えて、エレファンティネ島から下ヌビア(ヌビア地方北部?)を加えて領土を3つの行政区に大別しました。それぞれの地域には、宮廷の宰相に直属する高官会議が設けて運営したとされ、これは、古代エジプト王朝で全く新しい行政機構でした。第12王朝時代のパピルス文書に、当時、ヌビア地方でエジプト王朝が営んだ13の城砦の名が記されています。ヌビアのエジプト城砦は、センウセレト1世の代から営まれ始めたものですが、大半は、センウセレト3世の代に新たに建造されました。いずれも駐屯兵が自給自足可能なように周辺施設も整えられていたようで、ブヘンの城砦は、センウセレト3世の代、城砦であると同時に交易拠点も兼ねた都市に整備されました。内、7つの城砦は、第2急湍より南60km強ほどのナイル川流域に、数珠繋ぎのように設けられていました。センウセレト3世の代の王宮文書には、ヌビア地方の細かな動向が、伝えられた内容が記されたものが少なくないのは、おそらく、ヌビア地方に設けられた城砦や運河をリレーした伝令のシステムが整えられていたのだろう、と推測されています。 (ウィキペディア引用終わり) ヌビアをはじめとするエジプト以南の歴史については未だに謎の部分が多いのです。急勾配のピラミッド群があったことで知られていますが、その殆んどは、金探しの標的となって壊されていますし、アスワン・ダムの湖底に沈んでしまっているものも多いのです。そして、金と鉄資源に富んだヌビアにはどんな王がいたのか、また、エジプト王との関係はどうだったのかという件を探ってみることにします。 第12王朝では、第2代のセンウセレト1世がヌビアに遠征、ブヘンにエジプト王朝の拠点を築きました。センウセレト3世は、ブヘンの城砦をより強固にし、セムナなどにも拠点を築きました。アスワン地方では、ナイル川に第1急湍(きゅうたん)をバイパスする水路を掘削させ、南方への進軍を容易にしたと記録されています。センウセレト3世は、治世の間、8年め、10年め、16年め、19年めに大規模な軍事遠征をヌビア地方に進軍させた。 これを、「垂仁天皇記」から見ますと、「狭穂彦の乱と狭穂姫」の神話がこれに相当するようです。狭穂とは前記クメ=クヌの東南一帯をSabo、Sabaあるいは、Shebaと表す地名があって、そこの狭穂彦王?の妹の狭穂姫が垂仁天皇の皇后だったと木村鷹太郎は言います。この「狭穂彦の乱」では、狭穂彦王が垂仁天皇を殺してその王座を獲ろうとたくらみ、妹の狭穂姫に垂仁天皇の暗殺をもちかけましたが、狭穂姫は夫への愛と兄弟愛の板ばさみとなり、暗殺を実行できずに、かえって、天皇に兄のたくらみを打ち明け、自分は兄とともに滅ぼされる運命を受け入れて果てました。狭穂は、Sabo、Saba、Sheba の綴りからも判りますように、「シバ」の地、後に、かのソロモン王と会見した女王を輩出したところです。また、シバは、テーベの綴り替えで、フェニキア系の交易の拠点のひとつであることを示しています。 古代ローマの博物学者にして政治家のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(22~79年)の「博物誌」に、「エジプト王セソストリス(センウセレト)が船舶用運河で紅海の港とナイル川のデルタ地帯を結び、その延長距離は80マイルあった」などと記し、ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC485年頃~420年頃)が、「セソストリス(センウセレト)と彼の軍隊はアジアを越え、スキタイからカフカスまで遠征して、広大な地域を征服した。・・・」と記しているます。エジプトのメンフィスの現ミト・ラヒーナで大量の碑文が発見されて、このセンウセレト=セソストリスの時代には、エジプト第12王朝の帝国がシリア=パレスティナに及んでいたことが裏付けられたと云われていますので、モーセの出エジプトとエルサレムへの遷都のきざしが早くもここに出現していると云えます。 こうした「大遠征」についての疑問を「魏志倭人伝」のこのあとのブログで展開してみましょう。 エジプト第12王朝(紀元前1991年頃~紀元前1782年頃)の初代王はアメンエムハト1世といいます。第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相のアメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世が同一人物であると見られています。第12王朝は、このアメンエムハトという王名とセンウセレトという王名が交互につけられているのです。わたくしは、アメンエムハト3世(紀元前1849~1801年頃)のダハシュールのピラミッドの冠石に刻まれている「有翼の円盤」と「目、まなこ」と「壷」を「10 四国はスフィンクスのモデル?」で紹介しました。 アメンエムハト3世の時代前に、既に、日本列島が「翼の形」、「母と子」、四国が「スフィンクス」の形状であることがわかっていたのかという疑問に対して、「日本書紀」の垂仁天皇紀が、その答えを用意しているように思えます。 垂仁天皇治世3年3月に、「新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)の計七物を持って来たので、但馬の国に蔵めて、常に神の物とした。」と書かれているのがそれです。木村鷹太郎氏は、この天日槍とは、今の韓国とは関係なく、シラキゥス(今のイタリアの)王子のヒッパルコスが、古代の但馬、今のエジプトのアレキサンドリアで、天文学と測量を普及したことを云っているのであり、上記の七物とは、天文星座のうちの七種類を揚げたものだといいます。 羽太の玉とは御者アウリガ星座。ギリシャ語のハブトはラテン語のハビト、車馬の御者などを意味し、これを別のラテン語でAurigaと言うのだそうです。足高の玉とは、水瓶座アカリウス。ギリシャ語アシタカは、滔々と流出する水流を意味し、それをラテン語でアカリウスという。鵜鹿鹿の赤石の玉とは、蛇使い星座。出石の小刀とは、伊都の尾羽張という刀にまつわる星座でオリオン星座のこと。出石の鉾とは、オリオンの手に持っている杖のこと。日鏡とは、「天ッヒツギ」の宝祚のことで、これは、星座では酒盃クラテル星座。熊の神籬とは、大熊座と小熊座のことであると言うのです。 ヒッパルコス(Hipparchus、紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシア人の天文学者で、次のような業績をあげたといわれています。 ・現代にすべてつながる46星座を決定した。 ・恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。 ・三角法による測量を行った。 ・歳差による春分点移動を発見した。 ・アンティキティラ島の機械はヒッパルコスの理論に基づいているとされる。 しかし、このヒッパルコスは、はたして紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろの人でしょうか。垂仁天皇がセンウセレト王であれば、紀元前2000年~紀元前1500年頃の人である可能性があります。 エラトステネスEratosthenes( 紀元前275年~紀元前194年)は、地球の大きさを測るのに成功したギリシャの学者です。そして、ヒッパルコスより昔の人です。彼は、エジプトのシエネ(アスワン)とアレキサンドリアの太陽の南中高度とその2地点間の距離、約5000スタディオpン約900kmを測定して、地球の全周は250000スタディオン(約46000km)と求めたといいます。つまりアフリカ大陸を使ってを測ったといいます。この記事から、上記の三角法による測量は、ヒッパルコスの発案ではないことがわかります。ギザの大地に大ピラミッド群の建造が計画されたときには、既に完成していた測量技術です。これについては、このブログの「オリオン・ミステリー」を参照してください。そして、すでに、大ピラミッドには、地球の数値をインプットしてあると言う説をわたくしは信じています。 事実、エラステネスの測量は、アレキサンドリア大図書館にあったエジプトの古文書パピルスを読んで、それを実行したと言っています。そして、ギリシャの学者が、アスワンとアレキサンドリアにまたがる大掛かりな測量を、個人でするはずがありませんし、エラステネスという名前すら、セソストリスのアナグラムであると考えられます。 さらに、垂仁天皇紀の「天の日鉾」がヒッパルコスであるという説は、「ヒッパロスの風」伝説を想起させるものでもあります。アラビア海やインド洋では4月から10月の間に南西の季節風、11月から3月の間に北東の季節風が吹きます。特に1月には、強くかつ正確な北東風が吹くのですが、「エリュトゥラー海案内記」によると、この季節風を利用して最初にインドに到達したのが紀元前後のギリシャ人のヒッパロスだったといい、これが「ヒッパロスの風」という呼称の起源であるといいます。しかし、これも時代を繰り下げる必要があります。BC10世紀頃には、イエメンでは、既にこの季節風を利用して東西交易を行っていたといい、外洋船でアラビア海からインド洋、東南アジアへ航海をしていたといいますが、垂仁天皇の時代、即ち、センウセレト・アメンエムハト王朝には、この「ヒッパロスの風」を利用していたことを、垂仁天皇紀が示唆していると考えられるのです。 |
(私論.私見)