1910(明治43).7月、バイロンの紹介やプラトン全集の翻訳などで知られていた哲学者で翻訳家の木村鷹太郎(1870ー1931年)が、「読売新聞」紙上に「東西両大学及び修史局の考証を駁す──倭女王卑弥呼地理に就いて」を発表した。同氏は、「邪馬台国=エジプト説」を唱え、内藤教授の「卑弥呼考」による邪馬台国=畿内説、白鳥教授の「倭女王卑弥呼考」による邪馬台国=北九州説の両説に真っ向から噛みついた。ここに三つ巴論争の原形が定まった。(「邪馬台国はエジプトにあった!?─木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説─」参照)
木村鷹太郎のエジプト説は奇異な感じがするが、九州、近畿の両説の欠陥を激しく揶揄するところにおいては鋭いものがあり、今日の水準においてもなお精彩を放っているといえる。こうしてみれば、邪馬台国論争とは、当初より九州説と畿内説とその他異説との三つ巴の論争として捉えることが史学的であり、九州説と畿内説との二大論争かの如くに流布することは正確とはいい難く、問題ありと云えるであろう。
木村は、九州説、畿内説のご都合主義的「原文読み替え」に異議を唱え、次のように批判した。
「卑弥呼地理に関する彼等諸氏の考証かくの如くそれ散漫ならずんば、牽強附会にて、何ら学術的考証と称するに足らず。要するに対馬、末廬、伊都あるいは邪馬台等の地名の日本のそれに似たるものあるに誘はれて前期の如き見事なる牽強附会説を出現したるものゝ如し」。 |
「もし之をしも考証なりとせば嗚呼大学の専門史家なる者は天下の最大愚物と称すべき也」。 |
その上で次のように推定した。
「然り、卑弥呼地理は日本を謂へるものなりと雖(いえど)も『極東日本』の地理を謂へるものに非ずして、他の地理を謂へるものなり」。 |
「請ふ伊太利[イタリア]、希臘[ギリシア]、埃及[エジプト]及び亜拉比亜[アラビア]等の古代地図を披け、卑弥呼地理の説明は此に之を求めざるべからざるなり。余が日本古代史の地理は希臘、埃及、亜拉比亜等の地図を以って説明せざるべからずと唱道すると同時に、支那[シナ、中国]歴史の内にも亦西方地理の混入せるを想はずんばあらざるなり。その西方より植民し来れる支那人中、西方歴史地理を携え来りて、東洋に於て編纂せる史書中に之を雑入したるは蓋[けだし]有り得べき事たるなり。魏史倭人伝の歴史地理の如きは正しく是れなり。然りと雖(いえど)もその詳細はここに略す。
倭人伝中の倭女王国とは、これ吾人日本人が太古欧亜の中央部に居を占め、伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯[ペルシア、現・イラン]、印度[インド]、暹羅[シャム、現・タイ]等は吾版図たりし時代を謂へるものなり」。 |
こうして、魏志倭人伝は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものであり、この記録を携えて西方から移民してきた中国人が、東洋で編纂された歴史書の中に、この記録を混入させたのが魏志倭人伝だと所論した。こうして次のように比定した(「木村説に基づく航路図」) (以上の行程を地図にしてみたので、参照されたい。)。
帯方郡 |
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ケルト人の国である。ケルト(Kelt)は「帯」を意味するギリシア語ケレト(Keletos)が語源である。ケルトは古代のドイツ、フランス一帯の称。魏志倭人伝の旅行者は現在のヴェネツィア付近から出発した。 |
韓国 |
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ガラ(Galla=Gallia)[ガリア]すなわちイタリア北部の総称。 |
狗邪韓国 |
くやかん |
イタリア半島の南東部、カラブリア地方。カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシア語名はクジォ Xyo
つまり狗邪(クジャ)である。 |
瀚海 |
かん |
アンブラギア湾(ギリシア西岸)。瀚(ハン)は「ワニ」の意で、神功皇后が西征の時出発した和珥津[わにつ]=ワニツア
Vonitsa
の所在地である。(神功皇后は第14代仲哀天皇の后で、第15代応神天皇の母。「記紀」では朝鮮半島南東部にあった新羅を「征伐」したことになっているが、事実かどうか疑わしい。『日本書紀』では卑弥呼と同一人物とされている) |
壱岐国 |
いき |
アンブラギア湾の南方、リューキ(Leuci)島(レフカス島)である。 |
末廬国 |
まつろ |
ギリシア、ペロポネソス半島の西北にあったアハヤ国のオエノエである。オエノエ(Oenoe)はラテン語でマツロ(Maturo)である。
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伊都国 |
いと |
イツ(Ithys)は神を祭り斎く所の意。マンチネヤ(マンティネイア)と推定できる。これは末廬の東南にある。
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奴国 |
ぬ |
ペロポネソス半島東部、アルゴリス国のアルゴス府である。「アルゴス」は船の意、船はギリシア語で「ナウ Naus
」と言い、これが「ヌ」となった。 |
不弥国 |
ふみ |
アルゴリス国のハーミオネ(Hermione)府である。語尾を略せば「ハーミ」で、これが「フミ」になった。 |
投馬国 |
とうま |
クレタ島である。不弥国の南にある。クレタ島の伝説にある怒牛タウロメノス Tauromenos
がタウロマ、タウマと変化した。これがクレタ島の別名となった。(木村自身の書いた『日本太古小史』では以上のようになっているが、戸高一成氏による木村説の引用によれば、「クレタ島の首都はゴーチナで、その語源はゴルゴス
Gorgos
で悍馬(あばれ馬)を意味する。あばれ馬に人が乗ろうとするとすれば投げ出される、すなわち『投げる馬』である」という説になっている) |
邪馬台国 |
やまたい |
エジプト、スエズ付近である。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。 |
狗奴国 |
くぬ |
邪馬台国の南。エジプト南部のクネ Kumne(あるいはクメ
Kumme)。垂仁天皇の行幸があった来目(くめ)の高宮の所在地である。 |
なお、女王卑弥呼は神功皇后と同一人物であり、その橿日(かしひ)宮はギリシア北西岸のエピルスのカシオペアである。皇后の「征伐」した新羅とは、エトラスカン人(エトルリア人のこと)の国で、その首都はローマであった。日本書紀に出てくる新羅三王の名は、ローマのタークイヌス王家(タルクイニウス。ローマ王国(紀元前7~6世紀)の王家でエトルリア人。もちろん時代が合わない)の中の3王である。また、卑弥呼の後継者、壱与(いよ)はエジプトの伝説上の女王イオ
Io である(イオはギリシア神話に出てくるニンフで、エジプトの女神イシスと同一視される)。
「此に於いて東西両大学諸賢等の、堂々たる大論文は尽く反古と成り了り、鐚[びた]一文の価値だに無く、徒に日本の歴史家なる者の論理力なく、其所謂[いわゆる]考証なるものは、只是れ牽強附会に過ぎずして、且つ甚しき無学を表す所の記念として遺れることこそ墓なけれ。かくして彼等の考証は死亡せり」。 |
木村は、かって日本人は「太古欧亜の中央部に居を占め」、「伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯、印度、暹羅等は吾版図たり」とも主張した。彼にとって、日本人とは、古代エジプト人にして古代ギリシア人にして、しかも古代ローマ人であり、かってアフリカ、ヨーロッパから東アジアに至る版図を支配していた優秀な民族であった。古事記や日本書紀の語る世界は全て全世界に拡大され、そこに登場する神々はことごとくギリシア神話の神々や聖書の登場人物と結びつけられた。彼の頭の中では時空の観念が崩壊していたのである。彼は自らの妄想的歴史学を「新史学」と称し、自説を認めようとしない「旧史学」者たちを罵倒した。その壮絶な「新史学」の詳しい内容については、別稿「疑似歴史学事典/木村鷹太郎の「新史学」、木村鷹太郎の世界 ──『海洋渡来日本史』を読む」参照のこと。
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