八切止夫は、これまでの歴史の常識を覆す様々な説を唱えていた。1972年、「日本原住民史」(朝日新聞社)を発刊する。端的にいえば「大和朝廷は外来政権であり、それ以前に存在していた先住民族の末裔が部落民やサンカである」とする史観を発表している。八切の「日本原住民史」の論証能力は別にして「大和朝廷に滅ぼされた旧王朝」の存在を称揚した功績は大きい。これは記紀神話的に彩られる日本古代史の見直しのみならず、「日本先住民の復権」、「明治維新以降の近代天皇制批判」を内包しており果実が多い。

 そういうこともあり、「日本原住民論」は、八切本人の与り知らぬところで日本の新左翼系イデオローグに大きな影響を与えた。その一人は赤軍派幹部・梅内恒夫で、潜伏中に八切の日本原住民論に触発され、「明治以降の大日本帝国の悪行」批判に加え、「日本建国時の原住民迫害」を加えて「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」を発表するところとなった。太田竜も「日本原住民史序説」(新泉社、1982年)を著し、八切史観を継承している。八切を「真の人民的歴史家」と絶賛している。

 アイヌ民族の出自
八切史観ではアイヌ民族を太古から北海道にのみ居住する民族とし、「日本原住民」とは別の扱いにしている。しかし新左翼史観ではアイヌ民族も「日本原住民」を構成する民族とし、アイヌ民族を「奴隷化」した「日本の悪行」を糾弾する根拠としている。
 皇室の出自
日本の皇室が君主として歴史に登場した年代については両者の見解に差があるが、皇室の出自は「日本原住民」から出たのではなく、騎馬民族征服王朝説に基づき、大陸からの渡来人出身としているのは両者とも共通している。これを理由に、新左翼は天皇の君主としての正統性を否定する根拠としている。
 
 藤原氏の出自と律令制
「白村江の戦いで倭国は敗れ、郭務悰率いる唐軍の進駐を許す破目になった。唐軍は大海人を担いで傀儡政権を樹立、旧支配層を一掃した。これが壬申の乱である。「進駐軍」はそのまま居座り続け、「傀儡政権」の支配層として君臨することになった。彼らは「公家」と自称した。藤原氏の出自は「唐進駐軍」の司令官に他ならない。藤原氏はこれらの事実を隠蔽するために、彼らの本来の母語である中国語(漢文)で「日本書紀」を編纂し、歴史を歪曲した。そして「宗主国」唐の律令制を直輸入し、急速に中国化を進めていった。」という解釈をしている。「そもそも日本書紀は純粋な漢文で書かれていない」「唐軍が日本に来た形跡がない」など、多くの矛盾があり、自分たちを正当化するための方便にすぎない。