【真書太閤記考】
この本は十二遍で三百六十巻のものである。当時のことなので版行に先立って、縁故の在りそうな処を廻って前もって予約販売の恰好で前金を貰い歩いた。この時阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子を出した。だから<真書太閤記>の中では、「蜂須賀子六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安に仕え、しばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末裔にして」といった具合に、金を出しただけの事にはなっている。
ところがこの後になって<絵本太閤記>という目で見る型の出版が企画された。現代の劇画のはしりである。また三田四国町の蜂須賀の江戸中屋敷に、金貰いに出かけていった。ところが蜂須賀家にとって運の悪いことに、この先年から南八丁堀にも中屋敷ができ、お留守居役が二派に分かれ一決しなかった。しかし、阿波徳島二十五万七千九百石で、従四位侍従、大広間詰、の格式だから「些少だが、良く書いてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、それで済むのに、「如何に取扱いましょうや」と責任逃れに鍛冶屋橋御内の上屋敷の当時出府中の阿波守に伺いを立てた。
この時殿様から「よきに計らえ」と言われたのに、良きに善処して出す物を早く渡せばよかったのに、「前の時にも応分の金を出したが、御当家御先祖の小六正勝様は、ほんの刺身のツマで、あれは日吉丸の本じゃった」といった意見が江戸勤め重役から出た。未だ当時のこと故「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」ということを知らなかったせいもあろう。しかし版元にしてみると「まあ百部位は予約して頂けよう」という皮算用が外れてしまい、そこで「構ったことはねえ、悪役にしちまえ」ということになって出版されてしまった
そこで、岡崎の矢矧川の橋の上で、「やいやい大人と子供の区別はあっても、同じく人間だ。よくも足を踏んでおいて一言の詫びも言わぬとは何だ」と日吉丸にすごまれた蜂須賀小六が、ぎょぎょと驚き狼狽。「俺様を誰だと思う・・・こう見えても賊徒の張本日本駄右衛門・・・じゃない小六様だぞ」と睨みつける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり小六は悪党づらにされてしまった。ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。だから殿中で、「・・・松平阿波様の御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござるか」などと絵本の方を、歴史そのものと思いこむ者が、昔も多かったから直接に聞く者もいる。
「余は不快なるぞ。それなる絵本太閤記なる本をそっくり買い占めてしまえ」と、殿様は激怒した。そこで在府の家臣共は江戸市中を廻り、片っ端から買いあさって背負って帰る。 「・・・いくら刷ってもこりゃ売れる。驚異的ベストセラー」というので版元は次々刷りまくっては売り出す。洛陽の紙価を高めるというが、これでは鼬ごっこできりがない。そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が仲に入り、「版木一切譲渡し」ということで話をつけ、絵本太閤記は絶版にして蜂須賀家で買い取ることになった。
が、それでも、よく売れるからと秘かに出版されたので、公儀に訴え出たから、文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手ぐさり、版元は罰金に処せられた。「一文惜しみの百失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が使った費用は膨大なもので、この為、幕末になっても藩庫が空っぽで、同じ四国でも土佐の山内容堂は活躍したが、蜂須賀候は阿呆踊りでもやらせて憂さをはらすしかなかった。
今日、名前だけは有名だが「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治の再刻本しかないのは、蜂須賀家で買ってきて片っ端から焼き捨てて仕舞った為でもある。これも一種の焚書といえるだろう。
さて嘉永に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、この国難に対し「英雄待望論」が起きた。そこで栗原柳庵が真書太閤記や絵本太閤記を種本にして又書いた。これが重修太閤記、という名のもとで又も脚光をあびた。今日いわゆる「太閤記」というのはこれなのである。そして最早、蜂須賀家でも手がつけられなく、放りっぱなしにした。柳庵も「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり小六を野党の首領にはしたが「殿ッ」と日吉丸に呼ばせ、ここで格好を付けた。
しかし一度広まってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って、蜂須賀侯爵家は先祖の汚名をそそごうと、当時の歴史学の泰斗渡辺世祐博士に依頼した。博士は天文日記・美濃明細記・渭水聞見録・阿波徴古・の他に天文十六年九月二十六日の、「伊勢御師福島四郎右衛慰宛文書」をもとにして、「この国の取り合いの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらいや大麻に御意をかけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑)を頂かして貰います。去る十七日に合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後関へ敵が押し寄せて来ましたゆえ、すぐ切り崩し、大谷とか蜂須賀などと申す輩も数多く討ちました」という斉藤道三がお賽銭につけて報告した織田信長の父信秀との合戦の文書の中に「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載をし、由緒正しき名門であるかの如く故渡辺博士はしている。名門でも、野盗でもいいようなものだが、違うらしい。 |
<墨俣砦>
これまでの講談によると、もともと種本が絵本太閤記だから、「美濃へ攻め込もうとした信長は、その足場として洲股(墨俣)に砦を築こうとした。だが誰を差し向けても成功しない。そこで困っていると木下籐吉郎が名乗り出て、他に策のない信長が許可したところ、籐吉郎は頓知を出して成功。そこで信長は洲股に進駐して、そこから美濃一国を占領できた」という事になっていて、通俗歴史書も皆その受け売りをしている。
しかし、実際はその反対で、この洲股築城は信長が岐阜を占領してから二年後の永禄九年の出来事で、これは三省堂の歴史年表や確実なものには記述されている。永禄三年に桶狭間で今川を破り、信長は当時の最新武器であった鉄砲を入手するや、翌四年、五年と木曽川を越えて各務原へ進攻したが敗退。同六年は小牧へ移って犬山口から、関の方へ向かい又負けたが、翌七年もやはり右回りして今度は瑞龍寺砦の方角から、美濃三人衆の裏切りでやっと美濃を占領したのである。現在の墨俣大橋の辺りは昔は中洲で、ここに洲股の砦は在ったのだが、これは大垣よりで、ぐっと左手である。つまり中央突破か右回り攻撃しかしない信長か゛、反対の左手へ進んで洲股に砦を築く筈は有り得ない。また当時の信長の美濃攻めというのは速戦即決、つまり夜明けに国境の木曽川へ兵を集めて進入。負けて午後に引き上げ。つまり「日帰り戦争」か、長いのでも永禄六年の一晩泊まりくらいのもので、とても、のんびりかまえて、「稲葉山眼下の長良川(当時は墨俣川)の中州へ築城して」等という余裕はなかった。これが間違えられたのは籐吉郎の出世噺として、占領後に攻められ堡塁を築いたというのより、「進む足場」とした方が人聞きがよく、勇ましい武勇談になるからだろう。
また資料的に誤られたらしい原因に、「松平記」という慶長期の本がある。「義あき公(足利義昭)は美濃のながい山城(斉藤龍興)を頼まれんとして断られ」というのが永禄九年の条に出ている。
だから永禄九年は斉藤龍興が、まだ美濃国主だったと勘違いされた為らしい。つまり、これはその位、龍興が長島の一向門徒の助けを借り、美濃入りしてくると勢力が強くなって、占領軍の信長が尾張へ追い返されたように、当時の京へは聞こえていたせいだろう。信長としては四年がかりで、ようやく占領はしたものの、美濃人たちの祖国復帰運動が凄くて手が付けられなかったから、足軽上がりの木下籐吉郎を登用したり、かって散々に手向かいした敵の片割れの蜂須賀党等も仕方なく目見得させてもいる。蜂須賀はこの後信長の直臣になる。講談で有名な洲股築城という話は、小瀬甫庵の太閤記が底本で、これには「ある時信長卿は老臣衆を呼び集め『美濃へ何度も攻め込んで狼藉をつくしたがてんで効果もない。かえって此方の兵の士気がゆるみ、軍勢がたるんでしまった。なんぞ良策は無いか』と相談された。すると『川向こうの適地に要害を築いたらよろしい』まるで猫の首に鈴を付けるような案が出た。勿論試みに誰を差し向けても駄目で、そこで川を越えて居住出来る者、というので人選したところ、木下籐吉郎が自分が、と名乗り出た」とする。
渡辺世祐博士も雄山閣の昭和四年刊では、「大小の長屋十軒、軒櫓十、塀二千、柵木五万本を筏に組ませて、永禄九年九月一日にこれを流し、五日には信長みずから小牧山より洲股に到着し工事を監督する一方、木下籐吉郎を召し、稲田大炊助、青山小助、加治田隼人らと共に蜂須賀子六も招かせてこれを守備させた」と、尤もらしく説明しているが、三省堂の日本歴史年表、にも、「永禄七年八月二日、織田信長は稲葉山を攻めて斉藤龍興を走らし、ついに占領して岐阜と改称す」とはっきり出ている。
折角二年前に占領した美濃を、何故信長が小牧山へ戻って、また攻め直しをするのか、さっぱり訳が分からない。おそらく猿も木から落ちるのたとえで、歴史学会の泰斗の渡辺世祐氏も、講談本で誤られたものだろう。 |
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